無伴奏 :小池真理子

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この小説は、仙台を舞台に描かれた愛と性の物語である。筆者は、高校生時代に2年間仙
台で暮らした経験を持つということで、その時の経験をもとにこの小説が書かれたらしい。
この小説の主人公である響子の通う「S女子高」とは、かつて「三女」と言われた宮城第
三女子高(今は仙台三桜高となっている)のことらしいし、エマの通う「M女子学院」と
は今の宮城学院のことらしい。その他にも仙台の地名なども出てくる。北四番丁や北山、
一番町など。今はない仙台ホテルや仙台駅前にあった丸光デパートの名前が出てきた時に
は、懐かしく感激した。
筆者は私より少し上の年齢だが、ほとんど同世代と言っていい人だ。そのためか、この小
説の背景となっている当時の世相がすごくわかる。「安保」や「ベトナム戦争」を背景と
した大学紛争。当時の若者は猫も杓子も「革命」にかぶれていた。そして「性の解放」に。
小説の中に出てくるレイコという女子高生の「処女は早く捨てたほうがいい」という言葉
は、当時流行った言葉だ。現代は「処女」という言葉自体がなくなってしまった感じすら
する時代となった。


序章
・幼かったころ、私は自分が住んでいるこの街が、永久に変わらなければいい、と本気で
 願っていたことがあった。
・その街・・・仙台には、私が生まれて初めて愛した人が暮らしていた。愛されていない、
 ということがわかっていたくせに、私は彼が好きで好きでたまらなかった。
・街は当時、死に向かう祭りの真っただ中にあった。街はいろいろな意味で、熟しきって
 いた。腐って落ちる寸前の木の実のように、人を眩惑してやまない匂いを放っていた。
・20年もの間、自分から逃げ続け、こだわり続けてきた街に、東京からたった2時間で
 着いてしまった。  
・街はすべてが変わってしまっていた。昔のビルは建て替えられ、地下鉄ができ、かつて
 見たこともなかった大きな銀行や映画館デパートなどが、駅前から延びる大通りをはさ
 んてひしめき合っていた。20年の歳月が街にもたらした変化はあまりに強烈だった。
 気に食わずそこには昔を思わせるものは何ひとつなかった。
・青葉通りにあるホテルを出たのは、夜9時頃である。外は秋の匂いに満ちており、風は
 ひんやりと冷たかった。国分町は、ホテルから歩いてすぐのところにあった。昔は飲み
 屋や連れ込み旅館、小料理屋にまじって、地味な喫茶店も見られたものだが、今は大き
 く様変わりしており、瀟洒なビルが軒を連ねる高級歓楽街となっている。
・あのころ、私は何も知らなかった。知らずにいられた。彼らが今も仙台にいたならば、
 私は彼らが中年になった姿をみることができたはずである。少し頭の毛が薄くなった彼
 らの姿を見、おおかたの男たちと同様、人生における守りの態勢に入った彼らの言葉を
 聞くことができたはずである。だが、事件は1970年の冬に起こった。そして、彼ら
 は途方もなく大きな秘密を抱えたまま、その冬を最後に私の前から姿を消してしまった。
 
1章
・高校時代の最後の年を私は伯母と共に暮らしていた。仙台の支店に赴任してから1年半
 しかたっていないサラリーマンの父が、東京本社に転勤になったせいである。
・転校間もないことは、誰もが親切だった。なのに誰もが親しくうちとけてこない。新入
 りが歯を剥いたら、すかさずコテンパンにやっつけてしまおうと狙っている申の群れさ
 ながらに、みんなが私を遠巻きに眺めた。  
・不思議だったのは、どこに転校しても、必ず友達ができたことだ。たいてい、気ばかり
 強くて風が吹くとすぐに崩れてしまうタイプの優しい子ばかりだった。自信たっぷりの、
 特権意識をひそかに持つ優等生は私に近づかなかったし、逆に劣等感をむき出しにした
 ような子も私とは縁がなかった。
・人はよく、転校を数多く経験した子供は強くなる、と言うが、果たして本当にそうなの
 か、疑問だ。私に関していえば、強くも賢くもならなかった。早く親と離れて自由に暮
 らしたいと思うようになっただけだった。
・伯母は若くして夫を亡くし、仙台市内の住宅地でピアノ教師をしながら暮らしていた人
 だった。当時五十歳くらいだったろうか。
・大人たちは口々に、最近の高校生はひどい具合になった、と言い合った。仙台の県立高
 校は大学紛争のあおりを受けて、ほとんどが騒然とした雰囲気に包まれていた。伯母は
 髪を伸ばした高校生たちが、喫茶店で煙草を吸いながら共産党の本を読み合っているの
 を見た、と言って眉をひそめた。    
・東北地方の人は、たいていおやつに自家製漬物を大量に皿に盛り、客をもてなす。
・私は当時通っていた高校で秘密裡に結成されていた征服廃止闘争委員会の委員長に選ば
 れた。宮城県は公立私立を問わず、大半の高校が男女別学である。女生徒ばかりの牧歌
 的な学校生活が気に食わず、どこかで聞きかじってきた反抗的意見ばかり唱えていた私
 は、ただのおとなしい転校生から、いつのまにか活動家高校生になり変わってた。
・私と伯母は仙台ホテルの二階のパーラーに寄ってケーキを食べた。伯母は私の高校生活
 についてあれこれ熱心に質問した。 
・伯母の家は仙台市内の北四番丁というところにあった。黒塗りの板塀で囲まれた住宅が
 並ぶ細長い路地のつきあたりに位置したその家は、付近の家の中でもひときわ庭の広さ
 と静けさを誇っていた。
・学校はちょっとした刑務所か何かのように裏を小高い山に囲まれていて、出入り口は一
 つしかなかった。逃げるのなら、裏山をよじのぼって尾根伝いに進み、バス通りに出る
 しか方法はない。私たちはスカートがめくれるのもかまわず、ロッククライミングさな
 がらに裏山の草深い斜面をよじのぼった。 
・学校を脱走して後で立ち寄るのは、たいてい公園や東北大学の学生食堂やジャズ喫茶だ
 った。公園では毎日のようになんらかの集会が開かれていたし、学生食堂は驚くほど安
 く食事ができた。
・ベトナム戦争があり、安保があった。沖縄問題があり、東京からは随時、様々な活動家
 たちが仙台入りして私たちをオルグしていた。フォーク集会があり、アジ演説があり、
 街頭デモがあった。私は彼らの巻き起こす渦の中に自ら足を踏み入れ、似たような言葉
 を操り、似たような行動をし、似たような文章を書いた。私がやっていたことは、ほと
 んど真似っ子猿のやることにすぎなかった。本当はベトナムも安保も沖縄もどうだって
 よかった。マルクスもスターリンも革命もどうだってよかった。私は政治や革命のため
 に自分を捧げるのはいやだった。知識をひけらかし、無内容な討論を繰り返す連中が嫌
 いだった。活動家の学生に恋をし、恋をしたことと思想的同志になったこととを勘違い
 し、わざと汚れた服を着て、バリケード封鎖中の男に手作りの弁当を差し入れに行く女
 たちが嫌いだった。だが、同時に私は、無内容な討論を繰り返す連中と過ごす時間がい
 とおしかった。バリケードの中で活動家の恋人とセックスし、デモで負傷した恋人をか
 くまって手当てしてやる女たちに否応なく共感を持った。

2章
・五月の連休中、市内の勾当台公園で大がかりな反戦フォーク集会が開かれていた時、私
 はどうやって家を抜け出そうかとやきもきしていた。
・「無伴奏」はバロック音楽専門の喫茶店。これがちょっとユニークでね。活動家のたま
 り場のようでいて、実はそうでもないの。他に得体の知れない連中が幽霊みたいに座っ
 ているのよ。詩人、文学青年くずれ、それともただの貧乏なノンポリかしら。ともかく、
 みんな、じっと席に座って煙草を吸って本読んでるのよ。その店、汽車の座席みたいに
 椅子が並んでいてね。他になんにもないの。そこに幽霊たちが座っているの。じっと黙
 って。そして大きなスピーカーから大音響でバロックが流れてるってわけ。
・藤崎デパートとアーケード街との境目で、一人の若い男が自作の詩集を地面に並べて売
 っていた。人と人の出会いは幾千幾万とある小さな偶然の積み重ねの結果だと思うが、
 その直接的なきっかけになるものは、どうやらさらに些細な偶然、見落としとしてしま
 うほどのありきたりの日常の中にこそ転がっているものらしい。 

3章
・今ではもうなくなってしまったが、mfという名前の煙草が私の愛飲していた煙草だっ
 た。ハッカの味がする煙草である。「ハッカ味の煙草を吸う男は不能になる」とまこと
 しやかに伝えられていた時代で、エムエフを吸っていたのは、大半が女だった。
・私は十七歳になったころから、日に十本は煙草を吸っていた。煙草を吸うと動悸が始ま
 って胸苦しくなり、頭がクラクラする。それは漠とした死の感覚に似ていた。あのころ、
 煙草を吸っていた友人たちの誰もが、死の感覚を味わいながら張りつめた神経をなだめ
 ていたのだ。煙草は単なるアクセサリーではなく、過剰なエネルギーを鎮めるための特
 効薬だった。 
 
4章
・キスをしたのは一度だけだ。広瀬川のほとりで凍えるような北風に吹かれつつ、彼はお
 ずおずと私の唇に自分の唇を押しつけた。
・当時の仙台では奇妙な噂が流れていた。ベトナム戦争で死亡した身元不明の遺体が日本
 に極秘に送り込まれ、東北大の医学生たちの解剖の材料になっている、というものであ
 る。その解剖のために、血膿で汚れた死体を洗うアルバイトが求められており、採用さ
 れると死体一体につき、1万円になる・・・という話も聞いていた。普通のアルバイト
 で、一日あたり千五百円ほどの賃金だった時代のことである。一万という金は魅力で多
 くのい貧乏学生や、闘争資金を求める活動家たちが死体洗いのバイトをやっている、と
 いう話だった。
・北四番丁の伯母の家の近くからバスを乗り継ぎ、北山の輪王寺前に着いたのは土曜日に
 午後三時ころだった。
・茶道に関してはまったく知識がなかった私が、にじり口の持つ意味を知ったのは大人に
 なってからのことだ。にじり口は、俗世間と区切りをつけるために設けられた茶道の入
 り口である。身をにじらせて中に入り、俗世と訣別するための、小さな穴。
・エマは初めて会ったときと同様、栗色の髪を短いセシルカットにし、身体にぴっちりし
 た黄色のTシャツ、オリーブグリーンのミニスカートをはいていた。ブラジャーをつけ
 ていないTシャツの胸がはちきれんばかりにふくらみ、ポツンと小さな可愛い乳首が上
 を向いている。 
・エマはあけすけで、ざっくばらんで、時折、とんでもない冗談を言い、声高らかに笑っ
 て私の胸を小突いた。白く形のいい素足をミニのプリーツスカートから大きくはみ出さ
 せ、乳房を揺すって大声で喋る彼女は、誰の目から見ても祐之介を意識し、祐之介の関
 心をかいたいと願っている可憐な少女に見えた。
・他人の私生活のことなんか誰にもわかるはずがないんだ。わかるはずのないことをわか
 ったふりをして、世間ずれしたマスコミみたいに茶化したりするもんじゃない。他人が
 抱えているものの中に土足で踏み込むことはやめるんだな。それが最低の礼儀だ。他は
 何をやってもいい。
・エマは、黙ったまま祐之介のそばに行き、ふわりとミニのプリーツスカートを拡げて座
 った。祐之介はエマの上半身を抱きかかえるようにした。エマの身体が大きく傾いた。
 彼女は一瞬、照れくさそうな顔をして私のほうをちらりと見た。薄闇がたちこめる室内
 に、やがて恥ずかしくなるほど大きな衣ずれの音が響き渡った。唇が吸い合わされ、唾
 液が混じり合い、かすかな喘ぎ声と共に息が吐き出された。祐之介の手が、エマのTシ
 ャツをめくりあげた。エマが小さく叫びながら身もだえした。白く巨大な乳房が、灰色
 の点描画のようになった薄暗い室内に浮き上がった。
・見るつもりもなく、また、聞くつもりもなかったのに、小さな四畳半の茶室の隅で、こ
 れからおこなわれようとしている愛の行為は、いやでも私を刺激し、同時に打ちのめし
 た。私はそれまで、ただの一度も乳房を愛撫されたり、スカートの中に手を突っ込まれ
 たり、エマのような声を上げたりしたことはなかった。衣ずれの音が激しくなった。祐
 之介の深い吐息がそれに混じる。私は後ろの壁のほうに腰をずらし、いつでも立ち上が
 って出ていけるよう、自分の煙草をポケットにねじ込んだ。
・離れの茶室のほうからほんのかすかに呻き声のようなものが聞こえた。それがエマのた
 てた悦びの声であることを知ると、言いようのない嫌悪感が私を襲った。
 
5章
・まったくどうということのない闘争だった。その証拠に、S女子高では、二十年たった
 今でも、制服が残されている。
・レイコは進学するのも就職するのも、つくづくいやになった、と言った。「可愛い奥さ
 んになって、朝から晩まで家にいるの」というのがレイコ口癖だった「雪の降る日なん
 か、旦那様を送り出してしまえば、あとは「おお寒い」って言いながら炬燵にもぐり込
 んで、夕方まで本を読んでいられるじゃない。御飯の支度と夜のお相手さえしてやれば、
 後はすべて面倒をみてくれるのよ。そうやって、なんにもしないで、年をとっていくっ
 て、案外、悪くない話だと思うわ」
・レイコは多分、正しかったのだと思う。悪くない話、というものは、案外、どこにでも
 転がっているものなのだ。皆より一歩先に大人になった人だけが、その悪くない話を見
 つけ出し、身を委ねていくことができる。何が正しくて何が間違っているのか、皆目、
 見当もつかなかった時代に、周囲の雑音にとらわれず、自分だけの「悪くない話」を見
 つけることができたレイコは、多分、私やジェリーなどよりもずっと早く大人になって
 いたのかもしれない。
・レイコは猫のように、自分のしたいことをし、したくないことをしないでいられる人生
 を求めた。自殺未遂をし、始終、神経の爆弾を抱えながら生きていたのであろうレイコ
 のことを考えると、彼女の賢明さに頭が下がる思いがする。レイコは皆の中で一番、間
 抜けで、一番、ひ弱で、一番、生き方が下手くそだったが、誰よりも自分に正直だった。
・東北三大祭の一つと言われている仙台七夕祭があった日の午後もそうだった。私たち四
 人は東一番丁の商店街に連なった巨大な七夕飾りの下を並んで歩いた。エマはその日、
 とても魅力的に見える白いミニのワンピースを着ていた。エマは可愛かった。なのに祐
 之介はエマを見ていないような気がした。祐之介の目は、エマでも私でもなく、どこか
 遥か遠い別の世界を見ているようだった。渉にも共通していえることだった。
・市役所の四角い建物が見えてきた。建物の前には巨大な噴水があり、夕日を受けて虹色
 の飛沫が靄のようにあたりを被っているのが見えた。私たちは噴水に向かってゆっくり
 と歩みを進めた。 
・二人っきりになって広瀬川を散歩する。次の日は青葉山を歩く。
・仙台駅前にある丸光デパートの角に立った時、横断歩道の信号が赤に変わった。

6章
・平穏であるということが、どういうことなのか、私にはよくわからない。波瀾の予感を
 ひた隠しにすること、そして、それを他人に気づかれずにいること。それが平穏という
 ことなのかもしれないとも思うが、自信はない。第一、本当に平穏無事な状態なんて、
 あるんだろうか。
・「お捨てなさいよ」とレイコはけだるい口調でそう言った。「あなたが処女だったとし
 たら、すぐにお捨てなさい。後生大事にとっておくものでもないしね。」「セックスは
 儀式よ。そして儀式はちゃんと儀式らしく終わらせなくちゃ。今のうちに」「あんなも
 のは一度だけでたくさん」
・私はあまりに子供で、自意識過剰で、友達というものが時として、信じられないほど自
 分を救ってくれることがある、という事実をまだ知らずにいた。私は「セックスが嫌い」
 と言う友達を前にして、生臭い話をするのは野暮だと信じた。セックスが嫌い、と言え
 るほどしかるべき体験を積んだ人間を相手に、わけのわからない自分の感情をぶつける
 ことはできなかった。私は単に気取り屋の、ものごとがよくわかっていない、十八歳に
 なるかねた頭でっかちな女子高生にすぎなかった。 

7章
・渉さん、と私は囁いた。「お願い、初めてなの。だから・・・」渉はちょっと驚いた表
 情を作ったが、すぐに「わかった」と言い、それからまたしばらく私を愛撫し続けた。
 次第に身体が柔らかくなっていくのがわかった。彼に触れられてないところは、氷のよ
 うに冷えきっていたが、皮膚のずっと奥のほうで、熱い鼓動が繰り返され、それが全身
 にゆっくりと移動して、それまで経験したことのない素晴らしい快感が温かな湯のよう
 に満ちてくるのが感じられた。彼は私のヴァギナに指を入れ、ペニスをさしこもうとし
 た。なかなかうまくいかなかった。何度かの失敗の後で、やっと彼のものが私の中にお
 さまった。かすかな痛みが走ったが、我慢できないほどではなかった。彼はすぐに腰を
 動かし始めた。生理の時のような鋭い痛みが下腹部に拡がった。だが、私は痛いとは言
 わなかった。痛みはすぐにおさまり、代わりに快感のかすかな予兆のようなものが、身
 体の中に生まれた。それはさざ波のようにひたひたと押し寄せ。押し寄せてはまた、遠
 のいていった。

8章
・レイコはあの日、仙山線で山形に行き、雪山に入って、自殺をはかった。致死量分の薬
 を飲んでいなかったことと、彼女が泊まった旅館に主が様子がおかしいことに気づいて、
 警察に相談し、夜の間に操作が行われたことで、大事に到らずにすんだ。
・渉と私は二人っきりになりたくなると、花京院にある連れ込み旅館に行った。旅館は清
 潔でこぢんまりとしていて静かだった。丸二時間というもの、私たちはふざけ合ったり、
 互の身体を触り合ったり、セックスをしたりして過ごした。
・エマはM女子学院の高等部を卒業し、そのままエスカレーター式に女子大へ進んでいた
 が、彼女には一般にいう学生らしい若々しさは微塵も感じられなくなってしまった。エ
 マは卵からサナギにならずにいきなり美しい蝶になってしまったかのような印象を与え
 た。段階を経ることを忘れた、唐突なエロティシズムとでもいうのだろうか。  
・二つの青白い肉体が、蝋燭の丸い光の中で混じり合っていた。それが何を意味するもの
 なのか、わからなかったと言うつもりはない。むろん見たこともなかったし、はっきり
 聞いたこともなかった。だが、私はこの世の中に、そうした愛の形があるのだというこ
 とだけは知識として知っていた。蝋燭の光が揺れ動き、祐之介に後ろから抱きすくめら
 れた渉の顔が、ゆっくりといじり口のほうに向けられた。汗にまみれ、何かうっとりし
 たような、それでいて苦悶に喘ぐような、そんな表情をしていた渉は、目を開けてはい
 たが、私に気づいた様子はなかった。ほんの一瞬の出来事だった。渉が全身を固くした
 のが見てとれた。気がつくと、私は嵐の荒れ狂う裏庭を泣きながら走り出していた。
 
9章
・混乱しきった頭の中に、エマの顔が浮かんだ。何もしらないエマ。私とエマは共に被害
 者だったのだろうか。ホモセクシャルの男たちの避難所に利用されただけの被害者。そ
 れとも加害者だったのだろうか。二人の男の仲を裂こうとした無邪気な加害者。
 
10章
・プラトニックという言葉はまやかしだ、と私は思った。同性異性を問わず、人と人は互
 いへの欲望を抑え込もうとするとき、必ず精神でセックスをする。現実のセックスより
 も、精神のセックスは私を滅茶苦茶に嫉妬させる。渉と祐之介は、精神のセックスを
 していたのだ。私屋やエマと現実のセックスを行いながら、その蔭で、計り知れないほ
 ど隠微でグロテスクで、エロティックな精神のセックスを続けていたのだ。
・「あたし、妊娠しているの」エマはそう言いながら私を見た。エマの大きな二つの目が、
 しっかりと私をとらえ、うるみ、輝き、幸福そうにまばたきを繰り返した。「あたしは
 祐之介さんの子供が欲しかったの。欲しくてたまらなかったの。高校を出るまでは我慢
 しようと思ったけど、もう我慢する必要もないでしょ。ママさん女子大生になるってわ
 け」  
・それほど寒い日ではなかったはずだ。だが私は、腕から背中にかけて、激しく鳥肌が立
 つのを覚えた。腐ったものの匂いを嗅いだ時のように、胸が悪くなった。どうすればい
 いのか、わからなかった。今、この場でエマに真相を教えてやるべきなのか。祐之介が
 愛しているのは渉であり、エマは彼の男としての機能を試すために使われたペットにす
 ぎなかったのだ、とはっきり言ってやるべきなのか。祐之介は同性愛者だったのだ、と
 言ってやるべきなのか。 
・私の中で、悪魔が頭をもたげた。悪魔は不吉なにやにや笑いを浮かべながら、私に向
 かって囁きかけた。私はエマに気づかれないように、石燈篭に背を向けて、目を閉じた。
 黙ってろ。悪魔はそう言った。エマが何がなんでも子供を生むと言っているのだから、
 黙ってそうさせておけばいい。祐之介は同性愛者だが、女を愛せないわけではなかった。
 エマが妊娠したことで、祐之介は否応なく将来の決定を迫られる。もしかするとこれを
 機会に、渉との関係を清算しようとするかもしれない。いや、少なくとも、赤ん坊の問
 題が祐之介と渉との間に決定的な亀裂を作る。それだけは確かだ。エマを利用するのだ。
 エマが産もうとしている子供を利用して、祐之介と渉を引き離すのだ。祐之介と渉の築
 いた世界を破壊するのだ。何も知らないエマに、無理矢理、馬鹿げた真実を教える必要
 はない。
・エマは、受胎するにいたったと思われる祐之介とのセックスについても、あからさまに
 喋り始めた。夏が始まったばかりの日の午後、この離で、祐之介がどれほど長い射精を
 したか、その時、どれほど深い快感があったか、彼女は得々として語った。子宮の扉が
 開いたような感覚って、響子、あなた、わかる?まさにそれだったのよ。ひょっとして、
 って思ったわ。扉が開いて、そのずうっとむこう側の狭い通路の奥に、祐之介さんの精
 液がものすごい勢いで流れていくのがわかったのよ。通路はぐんぐん奥に拡がっていっ
 て、行き止まりが感じられないの。まるで身体全体に精液が流れてしまうみたいだった。
 きっとあの時よ、妊娠したのは。間違いないわ。
・その翌月、11月25日。三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、割腹自殺をした。
 私はそのニュースを予備校の補修室で聞いた。みんなが興奮しきっており、中には涙ぐ
 みながら、外に飛び出して行った学生もいた。

11章
・エマの死体は15日の早朝、輪王寺の境内の隅で発見された。発見者は寺の住職で、住
 職はすぐに警察に通報した。エマは発見されたとき、木の根元に仰向けに寝かされ、胸
 の上で両手を組んでいた。はいていたタータンチェックのプリーツスカートの裾は、き
 ちんと足に巻きつけられ、目は閉じられていた。遺体の様子があまりにきれいだったの
 で、住職は初め、真新しいマネキン人形が捨てられているではないか、とおもったほど
 だったという。エマの遺体はすぐに司法解剖に処され、死因が絞殺であったことがはっ
 きりした。
・祐之介は、犯行が半ば以上計画的であったことを認めた。離れで二人きりになったエマ
 はなかなかチャンスを与えてくれず、焦った。僕が彼女の後ろに回ると、彼女も僕のほ
 うを振り向こうとしたからだ。彼女が哀れだという気持ちは起こらなかった。僕にと
 ってその時のエマは、ただの物体だった。炬燵に入っていた彼女をようやく後ろから羽
 交いじめにし、首を絞めた。
・この世の最後と思ってさまよった岩手の田舎は素晴らしかった。生まれてこのかた、あ
 れほど大自然を身近に感じ、自由を感じたことは他にはない。僕はつまらない理由で人
 を殺した愚か者だが、結果的に自分がしたことを格別、異常なこととは思っていない。
 僕はたった二日間の自由のために、自ら進んで犯罪者になった。金や名誉や世間体のた
 めに、生涯、自分を殺しつづける愚か者に比べたら、僕はまだしも利口だったのではな
 いだろうか。