花芯 :瀬戸内寂聴

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この作品は、今から62年前の1958年に発表されたものであり、作者の代表作の一つ
とされている。当時は「ポルノ小説だ」とか「子宮作家」とか批判されたこともあったよ
うだが、今読むと、まったく違和感なく読めてしまう。それだけ、性に対する世間一般の
常識が、この作品の内容に近づいたとも言えるのだろうか。この作品は2015年に映画
化もされている。

私には、この作品の主人公である「園子」という女性と、「阿寒に果つ」(渡辺淳一著)
の主人公の「純子」が、とても似た感じの女性のように感じられた。園子は、子供を産む
前には、セックスに対して不感症であった。そして、そのことが悩みの一つでもあった。
当時の時代の作品には、「愛のかたち」(武田泰淳著)に代表されるように、女性の不感
症について取り上げられている作品が散見される。当時の時代は、不感症が女性の悩みの
一つだったのだろうか。そしてその背景には、当時の男性はみんな、セックスすれば女性
はみんな感じるものだという勝手な間違った認識を持っていたところからきていたのでは
ないかと思えた。男達のこの間違った認識は、AVなどを見てば、今でも続いていると言
えるだろう。ところで、園子は、子供を産んだ後、不感症ではなくなった。こういう例は
多いのだろうか。私がいままで読んだ作品の中には、そういうケースはなかったような気
がする。

この作品は、私にとっては、なんだか「おどろおどろしい」内容であった。男を振り回す
園子のような女性を「悪女」というのではないかと、私には思えた。このような女性は、
普通の男ではとても太刀打ちできないであろう。このような女性とは出会わないこと、近
づかないことが、普通の男のためであろう。また、この作品の登場する北林未亡人は、私
の想像を超える、なんだか恋の亡霊のような感じがするものであった。

この作品から、終戦前後における時代の、女性の処女あるいは貞操に対する、作者の考え
方がわかるような気がした。きっと作者は、この時代においては、かなり進んだ考えの持
ち主だったのではないだろうか。女性の「純潔」や「処女性」について、「人間の女だけ
に、特別な純潔のあり方が存在するとも思われない」「自分の目で見えない処女膜のある
なしで、処女性を云々されるのが、私には納得出来なかった」というこの園子の言葉が、
当時の女性が持っていた「内なる言葉」だったかもしれないと思えた。

第一章
・きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ。それが越智の口癖だった。
 それでいて、そういう私を、私のなかのなによりも愛している越智なのだ。
・電車や人ごみの中で、見もしらない男に、きまって着物の八ツ口から手をさしこまれた
 り、スーツの腰を撫でられたりするのだけれど、私は蠅でも払うようにからだをちょっ
 とゆするだけで、顔色も変えない。
・皮膚までに、貞操感覚を欠如しているのだと、さすがの越智も興ざめた口調でなじる。
 皮膚の貞操感覚などという言葉は、聞いたこともないという目つきをすれば、きみだっ
 て処女のときは、男が近づいたら、反射的に身を護ろうとして、皮膚がこわばっただろ
 うと、したり顔をするのだった。
・私の処女の時とは、どこで境界の一線をひけばよいだろう。終戦の翌年、数え年二十で
 雨宮と結婚するまで、私はたしかに生理的には処女にちがいなかった。けれども、その
 とき、私はある意味で、もう男を知っていた。
・昔、雨宮の母から私の母が、恋人を、つまり私の父を奪ったという、カビ臭い恋物語の
 仕上げとして、私の母は、雨宮と私を結びつけることを計画した。
・私がまだ小学校六年の頃から、私と雨宮とは、いいなずけという、もうその頃でも骨董
 品じみた名で呼ばれていた。
・色が白く、目鼻立ちが母親似に整っている雨宮は、一口に言って秀才型の美少年であっ
 た。
・小学校から女学校を通して一番を下ったことのないのが、人には語らない母の何よりの
 自慢であった。
・私の母は、父が女をつくる度、逆上、懊悩、心底地団駄ふんで口惜しがるくせに、顔は
 さりげなく苦しい微笑など浮かべ、女のところへ父を送り出す。私はそんな、見えすい
 た母の貞女ぶりが、いやらしくて大嫌いなのだ。
・雨宮の母もまた、しょっちゅう、目先の変わった新興宗教に凝り固まっているような
 女だ。若後家を通し、一人息子を育てあげた間、操を守りぬいたが、何よりの心の誉れ
 といった、自信たっぷりな態度であった。
・父のオメカケの友奴という芸者の家へ、こっそり私が出入りするようになったのは、ひ
 とつには、母の聖人ぶった鼻をあかしてやりたいという、子どもっぽいいたずら気から
 であった。 
・友奴は、私の母とちがい、父が浮気をしれば、前後の忘れ、胸倉にしがみついて責めた
 てるし、負けずに自分も、さっさと浮気した。友奴の家で、私は何度も父以外の男に出
 逢ったことがあった。
・十六の年から旦那を持たされた友奴は、私の父の世話になるまでに、三人の父の違う子
 供を産んでいた。三人とも男だったので、一人も手許におかず養子に出していた。
・雨宮は、同じ家に住むようになると、毎日レターペーパー五、六枚のラブレターを書い
 て、私の机の引き出しにいれておいた。私はそれをことごとく蓉子にみせた。女学校の
 一年ごろから、いっぱしの文学少女きどりで、おませな蓉子は、手紙から一々、原典を
 あばきたてて、私を面白がらせてくれた。
・女学校四年の夏だった。その夕暮、はじめて、二階の雨宮の部屋で、彼が私を抱きすく
 め、ぎこちなくキスを押しつけてきた。私が一文字に口を結んでいるのを勘ちがいして、
 勝手に感動し、目に涙まで浮かべていた。雨宮は、私がしんから初心で、恥ずかしがっ
 たものと思っていた。私はただ、雨宮がいつも食べている生タマネギの口臭に、ヘキエ
 キして逃げ出したにすぎなかった。私はもうその時、キスの美味しさを、充分に味わっ
 ていたのだった。
・女学校では、ほとんど授業らしい時間はなくなりかかっていた。工場へ作業にやらされ
 るか、校内で、戦地むけの防寒下着を作るかに追われていた。労働の大きらいな私には、
 そんな毎日がゴウモンのようであった。
・五年来、心を病んだ妻へ、仕送りをつづけているという作業主任の圧縮猫を、私はどう
 いうわけか、他の生徒たちほど毛嫌いはしていなかった。猫のつける私の修身の点が、
 学級主任のつける操行点より釣り合わないほど、ずばぬけていいのが私にはおかしかっ
 た。
・ところが、その日は、圧縮猫に呼びつけられて、徹底的に油をしぼられたのだ。圧縮猫
 は、和足の前の机を叩きつけ、どなりたてた。中学と商業の生徒が、私につけ文をし、
 私がだらしなく二つとも落としたので、二人は護国神社の境内で決闘したというのだ。
 私は思わず、くすりと笑いをもらしてしまった。女学生にもてるのが何より自慢の、色
 男ぶった中学の野球部選手も、きざったらしく大嫌いだった。にきびだらけでひどい猪
 首の、商業の柔道選手の方は、感覚的にもっと厭だった。私にとっては、全然、興味の
 ない二人だけれど、少年たちの大時代な決闘場面は、想像しただけで何となくこっけい
 味があった。おまけに舞台が、桜の花吹雪舞う護国神社とは。
・二クラス上級生に、開校以来の秀才といわれる泉千加子がいた。彼女だけがどういうわ
 けか、私に熱烈なSのラブレターをよこし、毎日、私の靴箱には、花やハンケチや、割
 烹の時間につくったお菓子などが入っていた。
・薄暗くなった教室で、真綿のチョッキを平らに積み重ねると、その上にふてくされて、
 のうのうと横になった。いつのまに眠ったのかしらない。ゆりおこされた時、私の顔の
 真上に、光の輪がさしつけられていた。懐中電灯の光の輪が動いた。若い英語教師の畑
 中の驚いた顔が、光の外にあった。
・もうすっかり夜になっていた。私は深い眠りのあとで疲れがとれ、そのための快さから
 か、無意識のまま、何気なく畑中の胸のほうに両手をさしのべた。私をひき起こそうと、
 うつむきこんだ畑中の太い頸に、私は腕をまわしていた。和足には初めてのキスが、雨
 の降ってくるような自然さで、私の半開きの唇に静かに落ちてきた。
・それからの毎日、私たちは白い真綿の谷に埋り、気の遠くなるまでキスをむさぼった。
 畑中のキスは、しだいに顔じゅうにひろがり、首すじに移り、乳房へさまよってきた。
・私たちは、逢って別れるまで、愛の言葉はかわさなかった。はじめから、言葉やまなざ
 しで起こったものではなく、私たちのなかでは、皮膚と皮膚のこたえ合いだけで、すべ
 てが語られていた。若い男の日常的な欲情と、少女の好奇心とが、たまたまぶつかり、
 二つが一つになってうごめいていたにすぎなかった。畑中もほかの教師とおなじに、私
 を不良少女古川園子として、認識していたのだ。
・畑中は堪えがたく、全身をふるわすことがあった。おとこのからだの動くのが、紺サー
 ジの私の制服ごしに、ぼんやり腹につたわってきた。畑中の欲情は、一度スイッチをひ
 ねれば、とめどなくふきだすものらしかった。私にとって、愛撫は官能的に快かったけ
 れど、その快さのなかに、ときどき白々しい風にふきこまれた。そんな空虚に落ち込む
 と、私は薄目をあけ、畑中のうしろの暗い壁に目をやった。時には欲情にまきこまれた
 男の顔の、醜く歪んだ口や目を盗み見た。このような瞬間にかぎって、私は頭の奥のあ
 たりで、ふっと清潔な恋がしたいとねがっているのだった。
・畑中のことは、行為であって、恋ではなかった。畑中は声をあえがせて云うのだ。「こ
 れ以上は、決して求めないよ。どんなに苦しくても何もしない。きみはきれいにしてお
 かなければ・・・。きみを汚すことは、いけない。きみはまだ純潔なんだ」
・私はふきだしそうになった。男の身勝手さ、畑中というこの男は軽率にも、私を愛して
 いると錯覚しはじめたのだろうか。愛とはもっと透明な、炎のように掌に掬えないもの
 ではないだろうか。
・畑中と、好調の姪で、色の黒い化学の教師との間に、縁談がすすんでいることは、すで
 に学校じゅうに知れわたっていた。
・三カ月ほど、そのような日がつづいた後、畑中に召集がきた。畑中の応召をきいた瞬間、
 私はまるで天啓のように、この男は戦死するのちがいないと信じてしまった。
・明日は畑中が郷里の連帯へ旅立つという前日、私ははじめて畑中が下宿する寺町のお寺
 の離れを訪れた。畑中との別れを、どのように行おうというのか、私の頭の中に、はっ
 きりした形が描かれていたわけではなかった。それでいて、私はわが家の門を出たとた
 ん、思いついて急いでひきかえすと、下着をことごとく清潔なものに変えて出直した。
・門に入ると、本堂を素通りして、私は離れの方へ、あてずっぽうに進んでいった。息を
 しのんで、一歩一歩、黄色い障子に近づいていった時だった。おさえた女のすすり泣き
 の声をきいた。もう一足進んで、私は耳をすませた。障子の中からその声はまだつづい
 ていた。「死なないで帰って、死んではいや」化学の女教師の声だった。悲哀と激情が、
 ふだんよりなまめかしい艶と張りを加えていた歌うような声が、すすり泣きの間になお
 もつづいた。「いや、いやよ・・このままいってしまうなんて・・あんまりだわ・・」
・その時、私は、さっきまでの私が、何を畑中に餞別にしようとしていたか、はっきり思
 い当たった。  
・私の予感通り、畑中は乗った船が魚雷に当たり、大陸へ渡りつかぬうちに、東シナ海に
 沈んでいった。 

・最初のキス以来、雨宮の私に対する恋は、油をそそいだように燃えつのってきた。キス
 を許したことだけで、もう私のすべてを所有したような気になっているらしい雨宮は、
 私の口から、愛の確証が聞きたくなったのだ。雨宮に対しても無口な上、私は徹底的に
 筆不精をきめこんでいた。
・雨宮の胸にある園子という一人の少女像は、私にもはっきり目に見えた。しかし、それ
 は、私自身とは全く縁遠い少女だった。雨宮が描き、雨宮が肉づけし、雨宮が育てあげ
 た空想の園子だ。つつましやかで、おっとりして、何よりも第一に清純そのもので、年
 より少しおくれているかわいい少女、雨宮の前で、そんな少女になりすますのは簡単だ
 った。
・雨宮を私はきらいなわけでもなかった。親のとり決めたいいなずけというアナクロのこ
 とばに、軽蔑と反感はいだいていても、雨宮との将来の結婚は、冬の後に春がめぐるよ
 うな不変の軌道として受け入れていた。
・もともと私は、内心ひそかに恋に憧れているくせに、結婚にはひどく現実的な観念を持
 っていた。蜜月とか新婚とかいう甘ったるい言葉の伝える内容を、とっくに信用してい
 なかった。友奴の家からこっそり観にゆく映画の中でも、新婚の夫婦くらい痴呆的な表
 情に映っているものはないと感じていた。
・私の父母の結婚生活だけを非難するわけではなく、私は私のまわりのどの夫婦をみても、
 心から美しいとか、うらやましいとか讃嘆の感情をいだいたことはなかった。二人のう
 ちのどちらかが、あきらめているか、なげだしているかで、夫婦の絆がかろうじてつな
 がっていた。
・人間はどうしてだれも彼も結婚したがり、味気ない嘘でぬりかためた家庭の殻の中にと
 じこもりたがるだろう。出来ることなら生涯、独身ですごせないものだろうかと、私は
 度々空想した。  
・終戦の翌年、父が急に脳溢血で倒れたので、私は雨宮と祝言した。いいなずけの名にお
 あつらいむきの結婚の仕方になった。私は父の居なくなる家で、気の合わない母や妹と
 暮らすよりも、すでに東京で、就職していた雨宮と暮らす方を選んだ。
・今ではもう、雨宮と夫婦であった歳月よりも、越智と関りをもつようになってからの時
 間の方が、倍近くも長くなっている。結局、私は越智とはいっしょにならなかったし、
 雨宮も私が出てから三年目に、やっと私の籍をぬいてくれた。雨宮はもともと、心の色
 が三原色しかないような人間だった。中間色という心の色彩は理解出来なかった。
・雨宮は初夜の時、私を抱きしめて囁いた。「ぼくは童貞だよ。園ちゃんのために、守り
 とおしてきた。学生時代も、軍隊の時も、園ちゃんの顔を思いうかべると、守ることが
 できたよ」その言葉を実証するように、その夜、私たちの間は、長い時間をかけ、未遂
 に終わってしまった。  
・翌朝、寝不足の目を充血させながら、雨宮の声は明るかった。「今時、ぼくたちみたい
 な純情な夫婦ってあるかな。昨夜の事は、世間に放送していい美談だね」私は頬が熱く
 なって横をむいた。この恥ずかしさは雨宮が負うべきものだと、私の中の何かがつぶや
 いた。えたいのしれない屈辱感が全身に充ち、私はその朝、雨宮を憎んでさえいた。

・畑中が応召したあと、私は三人の不良少年と、一人の肺病の青年とつきあっていた。た
 った三人しか仲間のいない軟派不良少年は、甘やかされて育った金持ちのムスコたちで
 あった。彼等は私を騎士のように守ってくれた。私は三人に同じ程度に、唇や愛撫を許
 していた。 
・三人は、週に一度、三流どころの私娼を買うのを得意にしていた。私の処女は、稀有な
 宝石ででもあるように崇めてくれた。
・肺病の青年は、父の友人の病院の患者だった。徴用のがれに、和足がそこへ看護婦の名
 目で、遊び半分にいっていた時、知り合った。彼は自分の病勢が悪化しつづけていると
 信じ込んでいた。ぼくはあなたに病気を感染させて殺してしまうかもしれないと、長い
 キスの後で頭をかきむしりベッドにのたうつ。その悲痛な身もだえポーズが、自分自身
 とても気に入っているらしい。
・いつものように、きみをころしてしまうといいながら、キスをくりかえしていた彼は、
 突然、私の右手を掴むなり、毛布の中へひきこんだ。私の掌はいきなり、熱い鋼のよう
 なものを掴まされた。飛びすさった私の目には、はねのけた毛布の下の奇怪ないきもの
 に吸いつけられた。目の中が熱くなり、一瞬、私にはそのいきいきと活力にみちたいき
 ものが、目や鼻や口をつけた醜怪な動物の顔にみえた。
・私の処女なんて、全く偶然に、結婚まで守られたにすぎない。雨宮との二日目の夜、私
 はようやく私の処女に別れることができた。それはあっけなくおかしな行為であった。
 自分の上にいるこの男の、動物的なこっけいな身動きが、処女譲渡の儀式、女というも
 のは、自分の目でさえ遂に確かめることのできない、小さな薄い一枚の膜のため、死ぬ
 まで貞操を約束させられねばならないのだ。貞操ってなんだろう。女が財産の一つとし
 て売買される時代の、足枷の名残りではないのだろうか。
   
・私は友奴のうちの、白粉臭い二階で寝そべりながら友奴の養女の留美子と、厚い写真画
 集を繰っていたことがあった。将来芸者になるのを約束されている留美子は、まだ十に
 なるかならないかのおかっぱの少女だった。
・「おねえちゃん、この中におかしなものがあるわよ」留美子は内緒言のように云って、
 その写真帳をかかえてきた。「これよ、ほら、ね」もどかしそうに頁を繰っていた留美
 子が、声を弾ませていうのだ。よく見るとミイラのような黒光りするそれは、人の媾合
 の姿勢であった。一瞬の間に、死の灰に包み込まれ、何世紀も地下に眠りつづけていた
 男女なのだ。
・「ねええ、おかしいでしょ」lくすっと、わざとらしい笑いをもらして、留美子が私の
 顔をみた。蒼白い白眼がいきいきとずるく光り、十にたりない子供の目とは思えなかっ
 た。   
・不思議に淫らな感じはおこらない。男と女というぎりぎりで最小の結合単位が、そこに
 丸太棒のように無防備にころがされている。愛のなぐさめあいの行為の最中、地底に塗
 り込まれてしまった幸福ともいえる肉体のミイラ。遊客と娼妓かもしれない。新婚の初
 夜の若い二人かもしれない。夫の目を盗んで、きわどい逢瀬を抱き合った貴婦人と若い
 恋人であったかもしれない。人間のだれもが逃れることのできない行為の最中に、永遠
 の死に記念されてしまった二人なのだ。
・「ねえ、これ、いけないことしてんでしょ」留美子は、鼻の上にしわをよせ目をそばめ
 て笑った。私はだまって手をのばし、まだ笑いの浮かんでいる理美子の唇のわきを、ぎ
 ゅっとつねりあげてやった。じぶんの目の光っているのがわかった。
  
・雨宮の子を、私はすぐ妊娠した。雨宮との夜は、機械的にそのことが繰り返されていた。
 私にはただ、虚しい感じだけが残った。自分を不感症ではないかと、私はこっそりおそ
 れていた。結婚前、ああした事はあったにしても、私は自分で自分をけがすことは、ま
 だ一度もなかった。
・快感も伴わないままに、悪阻の苦痛に見舞われた。私の腹の中に、自分以外のいのちが
 生きはじめたことが、私には納得できない気持ちだった。たとえ好きな男の子供をみご
 もったにせよ、臨月近くには、お臍まで飛び出してくる醜悪な我が身の裸を、真正面か
 ら真横から鏡に映したことのある女なら、自分が女に生まれたのを呪いたくなるだろう。
・キリスト教はマリアに男のザーメンを借りずに孕ませるという、素朴なメルヘンを編み
 出したけれど、いっそ、キリストは卵の形で産み落とされればよかったのだ。今のキリ
 スト伝説では、女の業は救われはしない。
・悪阻はひどかった。吐くものもせつない嘔吐を繰り返す。目の中をからからに乾かし、
 口中を苦い胃液でねとつかせ、私はしだいに痩せ衰えていくのだった。悪阻とは意思も
 なく生み出されるいのちの、必死の抵抗なのかもしれない。
・雨宮にもこの苦痛を分かってもらうことはできなかった。雨宮でなくとも理解できない
 のが当然であった。淋しかった。終日目を凝らせ、ただだまりこんで暮らしていた。
・お産は早期破水で、その上逆子のため、ひどい難産だった。ベッドの鉄柵にしがみつき
 ながら、私は唇を噛み破った。産まれるまでに二度、失神状態におちいった。
・子供はほとばしるような声で泣いた。柔和な院長がさっと顔を近づけ、「一針よけい縫
 っておきましたよ」と、さりげなく云った。私は意味がわからなかった。しばらくして、
 私はふっと赫くなった。

・出産のあと、私はセックスの快感がどういうものかわかった。それは粘膜の感応などの
 生ぬるいものではなく、子宮という内臓を震わせ、子宮そのものが押さえきれないうめ
 き声をもらす劇甚な感覚であった。 
・私はそれまでその内臓の存在を実感することができなかった。それなのに今、セックス
 の行為によって、私は、私の内臓が、生きて、いのちを持っているのを、ありありと感
 得した。それは私のうちで、もうひとつの生をたゆみなく営んでいたのだ。雨宮は、よ
 うやく私の愛情が濃やかになったのだと、有頂天であった。外側からは、平穏無事とみ
 える三年がすぎた。
・そのころから私は、電車や人ごみの中で、見知らぬ男から、度々触られるようなことが
 あった。  
・雨宮は、会社での出来事でも、人の噂話とか、会社の株の上り下り程度の事は私に話し
 たけれど、自分の性質とか役の立場については、一切語らなかった。雨宮の母と同居す
 るかしないかの問題が起きた時も、雨宮はほとんど一人で仙台の母と話をつけ、別居の
 送金の方法について決定した。雨宮の母と私が一つの家で同居して、うまくいく筈もな
 いことは、誰よりも二人を愛している雨宮が、誰よりもわかっていたのだ。要するに雨
 宮は、頼もしい申し分のない夫に相違なかった。
・私はまた、雨宮が秘かに案じていた浪費家でもないようだった。仙台に送金するため、
 少なくなる雨宮の給料に対して、一度も苦情がましいことを云わなかったし、手に負え
 ない赤字を出したこともなかった。母よりも妹よりも、父に鍾愛されていた私は、少女
 時代したいだけの贅沢を堪能していた。雨宮の給料の範囲での奢りなどには興味がなか
 ったのだ。 
  
第二章
・雨宮は役付になる準備として、京都の支店づめになった。この会社では、役付になる前
 に、必ず、二年か三年、大阪か京都の支店にやられる決まりになっていた。私たちが京
 都に着くと、支店長代理が、住宅の心配をはじめ、いっさいの世話をして待っていてく
 れた。それが越智であった。
・越智が離れを借りている北林未亡人の家があった。その隣の、未亡人の持ちアパートに
 私達の住まいが用意されていた。
・私は引越しさわぎに疲れはて、部屋のすみで壁にもたれていた。ぼんやり膝を抱いて、
 雨宮が荷物をとく手許を見ていた。黒いスラックスに黒いセーターを着たその時の私ほ
 ど、淋しそうに見えた女はなかったと、越智は後々までいっていた。
・ゆっくり首をまわした私の目いっぱに、越智の顔が映っていた。眦の上がった越智の目
 が、私の焦点のゆるんだいつもの煙ったまなざしをがっちり捕らえて、動かなくなった。
 レンズのしぼりをしぼられるように、私の目がひきしまり、瞳がきらきら輝きをました。
・私のからだの奥のどこかで、何かがかすかな音をたててくずれるのを聞いた。あ、と声
 にならぬ声を私がたて、越智がどこかを針で刺されたような表情をした。私が越智が私
 を感じてくれたことをさとった。不思議な震えが、私の内部のもう一つのいのちに伝わ
 っていった。    
・うつむいて唇の端を噛んでいた私が、笑いの残っている目をあげると、越智の目がまた
 私に注がれていた。  
・北林家はその界隈でも、目立って豪壮な構えだった。苔の見事な、広い庭がつづいてい
 る奥に、数奇屋作りの母屋があり、すぐその後ろに、母屋より少し高い洋館があった。
 「あの離れに、私は住んでいます」越智の指さしたのが、洋館のことだったので、私は
 少し驚いた。 
・雨宮より数歳年上に見える越智は、家族がいる筈であった。一分のすきもない越智の身
 だしなみを見れば、越智の妻の行きとどいた愛情が感じられた。いくつ位の人だろう。
 そう思ったとたん、私は、胸に細い針金を刺されたような痛みを感じた。妬ましいとも
 悩ましいとも云える甘酸っぱい感情が、胸にじくじくたまってきた。越智のまだ見ぬ妻
 に嫉妬している、私は私の気持ちの揺れ方にとまどった。
・初対面の北林夫人は、いかにも関西風なたっぷりとした感じの、落着いた中年の婦人だ
 った。白っぽい古風な化粧をしていたが、陰影の少ない化粧法が大柄な顔に奇妙に調和
 して、しっとりとなじんでいた。
・未亡人の言葉は、東京の山手ひびきで、関西なまりは全然感じられなかった。歯切れの
 よさが、未亡人の醸し出している雰囲気に、不調和音の伴奏をそえた。調子の破れた所
 から、不思議なエロティシズムが滲み出す。思いがけないほどの小皺が白粉の下に浮か
 んで、ますます未亡人の年齢を不可解にみせた。
・「わたくし、人づきあいが、とても下手な方ですから」「そうね・・・雨宮さんの奥さ
 んも、同性には反感をもたれるタイプかもしれませんねえ」微妙な含みをみせ、未亡人
 はその言葉を私に向かってではなく、越智に云った。「それじゃ、お二人は同類だ」越
 智は腕時計を眺めながら云った。   
・アパートの住人が、誰知らぬものもなかった北林未亡人と越智との関係を、私は誰より
 も繁々彼等の家へ出入りするようになっても、気付かずにいた。他人の情事になど、い
 たって無関心で鈍かった。その頃、私の目は、越智だけに向かってレンズがしぼられて
 いた。
・私の母だけは、私の子供をつれて入洛するとすぐ、北林家へ挨拶に行って帰り、口を開
 くなり云った。「いやらしい女だね。あんまり出入りしない方がいいと思いますよ」
 「そうでもないわ。親切な人よ」母は露骨にむっとした表情で横をむいた。 
・二週間もたたぬうち、私はアパートじゅうの女たちに、冷たい眼でみられているのを皮
 膚で感じた。私のことを、女には無愛想で、男には会釈する目の色からしてちがうと、
 聞こえよがしに噂されるのを耳にもした。
・少女時代から、私は男に親切にされつけて来ているので、一々些細な行為にまで、深い
 感謝を示したりはしない。男が決して、そんな行為をお義理でしてくれているとは思わ
 ない。巧言令色は女の方に多い。幾枚もの舌をもっているのも女の方に多い。言葉と心
 が、正反対の曲芸も、女の方が男より特技なのだ。私には、女はどうも苦手だった。私
 の心がこのように女に好意的でないのだから、彼女たちが、直感的に私を憎むのも仕方
 がないことであった。  
・余裕のある微笑を唇もとにうっすら浮かべ、からかうように私の眼を捕えてくる未亡人
 の眼が、たいそうなまめいて光った。その顔は、相変わらず化粧に心をつくしているの
 で、年齢不明の若さであった。私も今では、未亡人の芦屋に嫁いでいる末娘に、私の子
 供より三つ四つ年上の女の子がいるのを知っていた。
・広い邸に、未亡人は庭番の老人と、その孫の小娘と、通いで来る近所の手伝いの老婆と
 だけ暮らしていた。越智は裏の洋館に下宿しているというよりも、未亡人にとっては唯
 一の家族の役割を果たしていた。思いがけないことに、越智はまだ独身だったのだ。
・庭番の孫娘が、未亡人の下着類といっしょに、腰とのシャツやパンツを高々と干しあげ
 ているのを見た。それらを見ても、独身の越智が未亡人の世話になるのは当然のように
 私は思った。それ位のサービスは受けていいほど、越智は未亡人につとめていた。財産
 の管理や、土地や家屋の揉め事の折衝など、面倒な事務の一切を引き受けている事情も
 わかってきた。
・私の母よりも年上だと、未亡人の年をおおよそ察した後では、越智と未亡人の二人を同
 格に並べてみたこともなかった。越智への親愛感は、夫の上役に対する敬愛の気持ちに
 は程遠いものであったけれど、私はそれを淡泊な隣人愛だと錯覚した。
・その夜、雨宮が、急に早く帰ってきた。雨宮は道路から仰いで、私たちの部屋の灯が消
 えていれば、真直ぐ、北林家へ私を迎えにくるようになっていた。玄関のベルが鳴ると、
 案内を待たず、北林家お茶の間へ来る筈の雨宮が、なかなか現れない。玄関から、「園
 子、もう遅いから失礼しなさい」と呼ぶ、雨宮の声が聞こえてきた。「おい、園子」い
 つもとちがう甲走った声だった。
・「今日、はじめて教えられたんだ。俺たちみたいなお人よしは、ざらに居ないとさ。北
 林って婆は、二十も年下の越智を、学生時代からたらしこんで、片っ端から越智の縁談
 をぶちこわしてきたんだそうだ。あんなば婆の不潔な家には行くな。お前が汚れる。越
 智も越智だよ、四十近くにもなって」私はショックで、雨宮の眼にとまるほどの貧血を
 おこしてしまった。
・私自身は斬り込まれた心の傷の深さにとまどった。越智に逢った瞬間から、やはり私は
 恋に落ちていたことを、今更のようにさとらねばならなかった。長い間、越智にだまさ
 れたような屈辱が、私の心をさいなんだ。
・その晩、雨宮が寝ついた後も、私はほとんど眠ることが出来なかった。それでいて私は、
 かつてないほど心が充たされ、愛に溢れていた。
・私の恋は、越智と逢わなくなってから、ますます根強く燃えさかってきた。越智への恋
 と暮らすようになり、私ははじめてこれまでの自分が、どれほど孤独で虚しく生きてき
 たかをさとった。   
・雨宮の片手が私の肩にかかり、引き寄せられていった。雨宮の求めるにまかせ、私はい
 つものように柔らかく自分を解きあたえようとした。けれども、すぐその後で、私の全
 細胞が私を裏切った。私は理由もない嘔吐感に襲われ、雨宮を無意識に突きのけ、ふと
 んの上に起き直っていた。
・越智への恋情が、生理的に雨宮の肉体を拒否したのかと、さすがに私は慄然となった。
 自分の不安をひとりで持ち切れず、私は雨宮の手にすがりつくと、口にしてしまった。
 「越智さんが好きになってしまったの。こんな気持ちははじめてなの」雨宮もとび起き、
 私の肩に両手をかけ、激しくゆさぶった。
・それまで、私は自分から一度も、求める振る舞いに出はしなかったけれど、雨宮の要求
 を拒んだことはなかった。そしてほとんどの場合、充分な快楽と満足とで報われていた。
・私の子宮がもとめる快楽だけを、私の精神ももとめ出したのだ。その夜だけでなく、私
 のからだが雨宮の愛撫に応じていかなくなったのが明白になると、さすがに雨宮も顔色
 を変えた。恋をうちあげたこともない男のために、操をたてて夫を拒む。雨宮にののし
 られるまでもなく、その道理を外れたばかばかしさに、私自身が呆れはてた。
・何も知らずに、子供の成長ぶりを見に来た母が、私のやつれ方に驚いた。ふぬけのよう
 に萎えた私に愛想をつかし、母が子供をつれて帰っていった。私はそれまでにもまして、
 雨宮の留守の時間のすべてを、自分の非現実的で観念的な恋に溺れ、無為に過ごしてい
 た。 
・雨宮はだんだん私に暴力を振るうようになった。暴力で私を犯すことの浅ましさが雨宮
 の自尊心を傷つけた。傷だらけになった私をかき抱いて、雨宮は男泣きに泣いた。
・その頃、私の部屋へ、アパートの一階にいる美術学校の学生が、遊びにくるようになっ
 た。洋裁店に勤めるオールドミスの姉と暮らしている正田は、髯の剃り痕の青い、色白
 で神経質な容姿をしていた。    
・姉が出勤してしまうと、正田は学校へ行くふうでもなく、アコーディオンをならしなが
 ら、絵筆をもってみたり、気儘で自堕落な時間を送っているように見えた。正田は、秋
 の展覧会に出す絵のモデルになってくれと、頼みに来た。
・どうせ、もぬけのように、終日、うつらうつらしているのだから、絵にしたければ勝手
 にすればいいじゃないかという、なげやりな気持ちでもあった。
・それから、ほとんど毎日、正田は私の部屋を訪れた。一日、二十分だけ、一週間の約束
 を、ひとりで申し出て、ひとりで決めたが、いつの間にか、一時間も二時間も、私の部
 屋に居座っているようになった。
・正田のアコーディオンは、彼の部屋にかかっていた彼の油絵よりは、ましなように聞こ
 えた。聞きもしない話を、正田はひとりでつぶやいた。私にかまってもらおうとするで
 もなく、あれこれ、気のむいた曲をひいてくれた。甘いシャンソンの恋の曲など、私は
 ぼんやりきいている。気がつくと、アコーディオンを弾く正田の目に、子供のように涙
 が光っていた。
・私にみとがめられたとみると、正田は真赤になり、つづいて気の毒なほど醜く顔を歪め
 た。「奥さん」アコーディオンをなげだし、いきなり私に襲いかかってきた。キスの一
 つぐらい、させてやっても構わないのに、頭のすみで、ちらとそんな気持ちがはしった
 けれど、私の皮膚は正田の息と体臭に、鳥肌だち、悪寒がつぱしった。口もきかず、自
 分でも思いがけない力で、正田を突き飛ばした。
・その晩、正田は薬をのんだ。私あての遺書があったため、正田が失恋自殺をしかけたと
 いう噂が、ぱっと拡まってしまった。発見が遅かったが、一命はとりとめた。生き返っ
 た正田に、アパート中の同情が集まった。私には、純真な青年の心情をもてあそんで、
 死に追いやった悪い女のレッテルが貼られた。
・もう誰も私に口を利こうともせず、仕方なしの礼儀的なお辞儀さえしようとはしなくな
 った。私を見る時、人々の目の中に、ちらと恐怖めいた色さえ走るのに、私は気がつい
 ていた。噂というは、いつも事実よりは、いくらかロマネスクに飾りつけたれている。
 噂の中では、すでに、私は越智の情婦であり、雨宮と北林未亡人が同格の被害者になっ
 ているのだった。 
・雨宮は低い重々しい口調になって、これまでに調べつくした北林未亡人と越智の、いわ
 ゆる腐れ縁なるものの歴史をのべたてた。越智が京大在学中、実家の没落にあい、未亡
 人が補助したのが皮きりであった。すでに二十年もつづいて来た二人の間には他人の想
 像の及ぶかぎりに、いざこざが、無数に積み重ねられていた。何度か、越智が逃げ出し
 た時期もあったけれど、結局、未亡人の執着は、恐るべき根気でその都度越智を取り戻
 していた。子供からも見放され、一族からは見捨てられても、未亡人は、越智との永久
 に不幸な恋にしがみついて離れなかった。
・「何もしらなかった。雨宮君と北林が話し合って、一切ぼくに隠していたんだ」越智は
 大股に近づいてくるなり、両手で私の顔を力強くはさんだ。「こんなにやせてしまって」
 越智の声の調子は、もう何年も前からの恋人か妻へのなれなれしさと温かさ横柄さがこ
 もっていた。「きて下さる」「きっと行く」
・「奥さま、越智は・・・どこにいるんです」ほとんど二カ月ぶりで見る北林未亡人の目
 はつり上り、私の姿など映っていないかもしれない。年齢の滲みだす唇のまわりの筋肉
 を、醜くひくひくひきつらせ、気の毒なほど、全身で震えていた。髪が乱れ、足袋はだ
 しだった。炎を背負っている凄まじい未亡人の姿に、嫉妬を忘れ、私は両手をさしのべ
 ていた。   
 
第三章
・蓉子は、このまま、母は気が変になるか、自殺でもするのではないかと、寸時も目が離
 せなかった。「やっぱり、こんなことだったじゃないの。私はきっと、お姉さまはお兄
 さまを不幸にすると思ってたわ」
・私に対って、蓉子はもう遠慮なく、雨宮の肩をもった。雨宮を不幸にした私を憎む。正
 当な名目が与えられたので、蓉子は露骨に私を増悪した。それでいて、私の子供を可愛
 がる蓉子の態度には、不思議な情熱がこもっていた。
・学校をひいた後の蓉子には、縁談が次から次へとあったのに、断り続けてきた。雨宮と
 の離婚をすでに決心している私には、雨宮と蓉子こそ、うまく収まっていくだろうと思
 うけれど、まさか、私からすすめられる縁談でもなかった。
・雨宮の本社復帰の工作は、なかなか思うようにいかなかった。その上、逆上してしまっ
 た北林未亡人が、会社まで越智を追いかけ狂態を度々演じた。越智と私のスキャンダル
 は、既成の事実として拡まっていった。本社でも、この噂は大評判になっていた。雨宮
 の立場は惨めなものになった。世間が、妻を寝とられた夫を示す同情の中には、たぶ
 ん軽蔑が交っている。彼等の口にする言葉とは反対に、越智は男を上げ、雨宮は男を下
 げた。
・雨宮がなお悲運なのは、越智が京都支店長にとって、無くてはならない片腕であること
 だった。というより、どうやら、支店長は、越智に、会計上の失策の秘密のいくつかを
 握られていた。支店長は、社長とは深い姻戚関係にあった。
・蓉子がこのところしきりに外出すると思ってたら、雨宮の就職運動だとわかった。母は、
 雨宮の面子をそれ以上傷つけない為、いざぎよくいまの会社を辞めるよう勧めていた。
 その代わり父の友人が新しく市に拡張した電気機械の工場長に、雨宮を斡旋していたの
 だ。蓉子は社長の娘と特別仲がよかった関係から、母以上にこの運動には力があった。
・越智は十一時間、汽車に揺られて来て、四時間しかこの町にいられなかった。たった四
 時間のために、十一時間の旅をしてくれた。私はいちずに越智の目に見入った。愛され
 ている思う陶酔よりも、やはり、この男を愛していると思う心に、私の内部には何かが
 充ちあふれる。私は自分がひどく贅沢な豊饒なものになるような気がした。
・私たちはキスをした。ひどくぎこちなく儀式めいて、あのあわただしかった初めてのキ
 スよりも、もっとあっけなかった。私たちは目を見合わせた。私たちは再び両方から身
 を寄せた。二度目のキスは優しく、甘かった。長い間雨宮とのセックスに触れていない
 私は、そのキスだけで、肉の快楽がもたらす、透明な虚脱状態に陥りさえした。自分の
 生理にあらわれたしるしを、越智の指に知られるのが恥ずかしく、私は越智の手を拒ん
 だ。
・私はある一つの事に気がついた。私たちは、相手の言葉を信じていないくせに、本人よ
 りも信じているふりをし合ったのだ。越智が、北林未亡人との生活を今度こそ清算する
 といった時、私はそれが、どんなに不可能であるか、越智よりも知っていた。あの日の
 炎を背負ったような北林未亡人の狂乱ぶりが、ありありと思い出された。越智は越智で、
 雨宮と別れるという決心にうなずいてみせたが、決してあり得ないと思っているのだ。
・ある種の予感には、恋ほど、遠い未来を透視する力をもとものはない。私は、自分が夫
 から逃れる力のないのを知っているように、相手もまた情人から逃れる力のないのを予
 感している。しかしその殆ど絶望的な事態にさえ、恋はやはり突き当たっていくだろう。
・雨宮と北林未亡人だけは、越智と私の間がセックスで結ばれていないと信じていた。世
 間の噂はとかく事実よりも数歩前を歩いていくものだ。雨宮も北林未亡人も、この一事
 で、決して希望を捨てなかった。自分の愛と、自分の保護者的責任を信じて疑わない点
 で、二人は全く一致していた。
・友奴の計らいで、家出した後の東京の隠れ家まで決まった。「御遠慮はいらないんです
 よ。昔うちにいた留美子の妾宅なんですから」数えてみれば、留美子も、十九か二十に
 なっている。   
・越智と私は小田原で落ち合い、言葉もなく肩をよせあった。登山電車に乗りたがる私に、
 越智は苦笑しながら従った。強羅の駅前から客引に案内され、行き当たりばったり入っ
 た宿は、深い渓のきりぎしに建ち、渓向うの山が屏風のように空をさえぎっていた。
・その晩、夕食の後、私は急激な胃痙攣を起こした。はじめは片手で胸元をおさえ、冗談
 半分にいって顔をしかめているくらいだったが、半時間もたたないうち、声を出すのも
 苦痛になってしまった。海老のように全身を折り曲げ、脂汗を流す私の上に、越智が馬
 乗りになって、背中をおさせつけてくれるのだけれど、私の激痛は静まらない。ようや
 く、小涌谷の医者が着き、薬で私が眠りに落ちたのは十一時をまわっていた。
・その後二カ月を経て、越智とはじめて肉体的に結ばれた時、私の恋は終わったのだ。
・驚いたのは、北林未亡人が、雨宮の後を追うように母のうちへやって来て、二晩泊まっ
 ていったことであった。その間に、母はあれほど嫌っていた北林未亡人と、すっかり同
 盟を結んでしまった。あそこまで男に打ち込むのは、よくよくだというのが母の意見で
 あった。母の北林未亡人観は、好きものから、純情一途な女に一変したのだ。
・母は、今度の四日間で、完全に私が越智と関係をもったと信じた。いや、もっと前から、
 私と越智の間は、肉体的なものだと決めていた。世間の噂よりも、母が一番早く、一番
 本気で、私の不貞を信じ込んだのだ。
・何故この男を愛せないのだろう。善良で生真面目で、子供のように単純な男。この男に
 は人から非難される点は何もない筈だ。自分の妻と子供を何よりも愛している男。妻の
 あからさまな姦通さえも、たった今、許そうと、心の中で苦しい闘争を繰り返している
 男。いや、雨宮は必ず私を許すだろう。私には、許されることが嫌いなのだ。ことばで
 しか話し合えない男。ああ、しかし、人間はたいてい、言葉でしか話しあっていないの
 ではないか。でも、越智はちがう。私は越智とはじめて逢った瞬間から、言葉以外のも
 ので話しあったのだ。そう思うと、頭を垂れかけていた私の中に、越智への恋情が、荒
 々しい音をたてて逆巻きはじめた。
・半月ほど経ち、また私は家を出た。今度は事前に、友奴のところへ、少しずつ着替えな
 ど運びだしておいた。
・私は真直ぐ、東京の留美子の家へ行った。向島に小粋な家を構え、留美子は、九州の炭
 鉱主とかの老人の妾になっていた。子供の時の美貌の蕾が、はらりと開ききり、まぶし
 いほどの女になっていた。十九や二十とは見えない成熟した女が匂うが、口を開くと、
 眼と眉のあたりに、子供っぽい愛らしさが滲みだしている。
・「すてきねえ、おねえさん。あたし、昔っから、おねえさんは何かしでかす人だと思っ
 てたわ。雨宮さんとおさまっているのが不思議だなあって。ね、おねえさんのいい人っ
 てどんな人」留美子は私の事件を勝手にあれこれ想像して、まるで映画のメロドラマで
 も観るふうに面白がった。
・留美子が、学生服の男と旅に出た後へ、越智が着いた。越智の腕の中で、私はからだを
 和らげ、ひっそりと目を開けていた。越智が静かに上半身をあげ、真上から私の眼をの
 ぞきこんできた。和らいだ越智の眼の尋ねる意味に微笑で応えかけ、私はふっと胸の奥
 に痛みがはしるのを感じた。
・越智の場合と、雨宮の場合と、私のセックスの感応度が、どれだけの差をもったといえ
 るのだろう。小肥りなめらかな白い肌をもった雨宮と、筋肉質のひきしまった浅黒い肌
 の越智と、皮膚にうける感覚はちがっても、私の子宮が享ける快楽になにほどの差があ
 っただろう。越智は北林未亡人に対しても行ったであろう同じ動作、同じ順序で私のか
 らだをさぐり、私のセックスに触れてくる。私は恋のあるなしにかかわらず、雨宮に応
 じたと同じ姿勢でからだを開き、自分を放棄し、子宮は恥知らずなうめき声をあげるの
 だ。私の瞼によみがえってくる黒いあの影、ポンペイの地価のミイラは、強姦する主人
 と、犯された女奴隷であったかもしれない。
・人間は一番美しい憧れを心にいだいた時、どうして盗みや殺人とひとしなみに並べられ
 る悪徳の一つの行為と同じ行為に、身をゆだねなければならないのだろう。越智と分ち
 あった快楽の名残りに、私は全身を熱くけだるくゆだねながら、私の恋が、潮をひくよ
 うにさめていくのを、ながめていた。 
・私は急に狂暴な情慾にかりたてられ、自分の皮膚をひきはがずような勢いで、破廉恥に
 越智にいどんでいった。何に対してか、私は報復の念に執りつかれた一個の悪鬼のよう
 に自分を感じた。かすかに抵抗を示した越智も、いつのまにか私の昏い情熱の火の中に
 まきこまれていった。私は越智と共に、死を味わった。

第四章
・留美子の世話で、私は銀座裏の帽子店へ勤めた。越智と暮らす気がなくなってからは、
 やはり、働いて食べるよりほか、自分の好き勝手に出来る道はなかった。バーやキャバ
 レーは、女の朋輩関係のうるささを考えただけで、はじめから行かなかった。
・私と越智のこんな成行は、北林未亡人には不安を抱かせ、雨宮には希望を抱かせた。越
 智は、時々上京して来たが、私たちの間は恋人同士ではなく、情人だった。
・「私はもう、どうせあなたたちより長くは生きられないのだもの。お願い、私が死ぬま
 で、園子さんのところにいかないで」北林未亡人が、越智に泣いて頼むという。過去の
 幾度かの経験で、薬を用いることの愚を知っている未亡人は、越智を自分につなぎ止め
 る手段に、安全かみそりの刃を使った。狂言と本当のけじめがつかなくなるほど逆上す
 るので、越智はその度、北林未亡人の命がけの執念に負けてしまうのだ。
・越智の妻とか恋人とかではなく、私は情婦という名が一番ぴったり感じられた。情夫の
 情婦か・・・越智が自嘲をこめてそんな言葉を口にすると、云い返す言葉も見つからず、
 ため息をつく。越智が北林未亡人の腕の中から、永久に逃れられないだろうとは、私も
 越智と同じ程度に信じていた。
・六十になっても、恋の火で四十の若さを保ち、心は三十女の妬情に燃え狂う北林未亡人
 に、私はむしろ、ほとんど尊敬に近い気持ちをかくしていた。恋をするためにだけ、こ
 の世に送られてきた人があるとすれば、北林未亡人こそ指すのであろう。 
・「ねえ、こんなこと、私の云えた義理じゃないけど、あなたたち結婚してくれないかし
 ら」「あなたたちとは誰だ」「もちろん、あなたと蓉子と」「ばかっ、そんな指図の出
 来るお前か」雨宮の極端な憤激の仕方で、私は、雨宮と蓉子の仲にすでに何かがおこっ
 ていると、かぎとった。「ね、あなた、蓉ちゃんと、もう・・・そうなんでしょ」ぎく
 っとした雨宮が、顔もあげず、頬を痙攣させた。
・私はいつからか、越智以外の男と、一度きりのきまりで、数えきれないほど、そういう
 時間をすごしていた。男は、私のもと勤めていた帽子店のマダムが、次々と紹介してよ
 こした。 
・淳一というマダムと一緒に来た青年は、マダムがいなくなると、私の煙草に火をつけて
 くれたり、コカコーラをたのんだり、灰皿を替えさせたり、こまごま気を配った。色が
 白く、きゃしゃで、女のようなやさしい声をもっていた。いかにもマダムが可愛がりそ
 うな、燕然とした男だった。慇懃な物腰の中に、妙に投げやりな冷淡さがあって、それ
 が情事になれた中年女の心をそそるのかもしれない。     
・速記の仕事は、しだいに多くなり、思いがけないほど忙しく、私は連日、仕事に追われ
 ていた。機械的なこの仕事は、耳と手さえ動かしていればよかった。私の心が眠ってい
 ようが、死んでいようがかまわなかった。私の昔とつながる誰からも身をかくし、私は
 広い東京という海の中を漂っている。難破船の木片のように孤独だった。そんな淋しさ
 の中だけで、私は安らげるのかもしれなかった。
・淳一は私の下着をぬがせながら、ふっと手をとめて鼻白んだ。それからくすっと笑った。
 「簡単なんだな。みんな馬鹿みたいだ。あんたのこと、貞女だって評判なんだぜ。京都
 の旦那、めったに来ないんだってね。それでちっとも浮気しないからさ」
・私は、だまって笑った。越智の顔が浮かんだが、心に何の痛みもなかった。その若者の
 からだの下でさえ、私の子宮はうめき声を押えきれず、私は快楽の極に待つあの甘美な
 失神に、夜明けまでに二度もおちいった。
・淳一という男が、私をとやかく報告したので、一週間もしないうち、また一人の男が廻
 されてきた。愛もなく、ただふれあう、それらの男との時間が、私には次第に必要にな
 ってきた。金をとらなければ、からだを売っているのではない。私は自分で、云い訳を
 自分に与えていた。雨宮のもとを出てから、私はいつも貧しかったけれど、自分を売っ
 てまで生活の資に足したいほど、気持ちの上では貧しくなかった。   
・マダムが私にまわしてくる男は、いつのまにか、中年以上の、堂々とした紳士たちにな
 っていた。私はその男たちの顔を、新聞や、週刊誌で発見することもあった。私と寝た
 男同士が、たまたま、公開論争などをしているのを見る。私の皮膚が覚えている。その
 男たちのさまざまを思い出し、人には語れないおかしさがこみあげてくるのだった。
・どの男も、結局は同じ顔になり、同じ快楽のもたらす熱い息をはいた。男が、そこにだ
 どりつく経緯は、顔の違いのように、十人が十人、好みの小さな癖をみせた。けれども
 最後の瞬間の男は、鋳型で造りだされたように、美しい男も醜男も、同じ一つの顔にな
 った。男も女も、その極まりに、思わず目をふさぐのは、極まりの醜い自分の顔を、本
 能的に識っているからなのだ。見つける相手の眼をお互い、怖れるからなのだ。
・私たちの子供を産もうと、越智が一度だけ云った。その子にすがって、越智も私も今の
 境涯から浮び出ようというのであった。「ほしくないわ」私はにべもない断り方をした。  
 これ以上子供を産む気持ちは、私にはもう絶対になかった。一度、雑種と交わってしま
 えば、純粋種の犬や牛の雌は、それだけで、値打がなくなるのだ。生理的にどう説明さ
 れても、人間の女だけに、特別な純潔の在り方が存在するとも思われない。自分の目に
 見えない処女膜のあるなしで、処女性を云々されるのが、私は納得出来なかったが、匂
 いも味も、色の濃度も一人一人違う、さまざまな男のザーメンを、体内に吸収した今、
 私は生理的実感で、自分の血の純潔が、失われさったのを感じているのだった。
・私にはもう子供を胎内に抱く余裕がなかった。私には想像される。五百羅漢が、交わっ
 た男の顔に見えたという西鶴の女の恐怖よりも、その女が、もしも子供を産み、生まれ
 た子の顔の中に、過去の男の目鼻のすべてを見る瞬間の怖ろしさが、どれほど凄絶なの
 だろうかと。
・その男は六十を過ぎていたらしい。汗まで清潔な匂いがするような、身だしなみのいい
 老紳士だった。マダムに指定されたのは、伊豆の海辺のホテルであった。口数は少なく、
 いつもおだやかな微笑を目のすみに浮かべている。女に対する態度は、身についた習慣
 になり、物柔らかで丁寧だった。
・部屋に入って私を抱き、「香水をつけないんだね」私の髪をかきあげ、衿足に唇をつけ
 た。薄い体臭を吸いとるように大きく息をした。私たちはベッドにあがった。スケジュ
 ールのない旅の、のどかに贅沢な感じの快楽が、ゆるい波になり、幾重にも幾重にも私
 をゆさぶりつづけた。私はまたしても、見もしらない美しい島へうちあげられた。気が
 つくと、ながいあいだ私をみつけていたらしい男の目に、うすい涙がたまっていた。思
 慮深そうな落着いた目の色だった。
・「きみほどの女は、しらない」男は低い声で、ひとりごとのようにつぶやいた。「私は
 世界もずいぶん歩き、さまざまな女をしっているつもりだ・・・。しかし、きみほどの
 女はしらない」男は繰返していった。大きな掌が言葉の伴奏のように、私を愛撫した。
・「きみのこんな女らしさ、女の完璧さは、私のように、人生のほとんど終わりに近づい
 た者の目には、怪しくみえるより、痛々しい・・・。きみはおそらく、きみの恵まれた
 稀有な官能に、身を滅ぼされるよ。それが私には見える。それだけに、きみがいじらし
 くてどうしてあげてよいかわからないのだ」
・老いた男は、もう一度私を、それ以上優しく扱えまいといったふうに抱きよせた。私の
 胸に、柔らかな白髪の頭をうずめ、うわごとのように囁いた。
 「かんぺきな・・・しょうふ・・・・」
 いきなり、全身の皮膚をはぎとられる、痛みと寒さが私を襲った。
・その老人から、はじめて、私は金を受け取った。私は今、男からためらわず、金を受取
 る。「ころごろ、あなた以外の男は、みんなあれにしか見えないわ」越智にそんなこと
 を、あけすけにいう。私には恋だの愛だの、思いつめた目の色は遠々しいものになって
 いた。
・科学がどこまで進んでも、人間は男と女の単位になるかぎり、劫初いらいの同じ哀しい
 姿勢をとりつづけている。あの老人が予言したような、私のほろびの日は、案外、明日
 の日かもしれない。
・死というものを、私は、セックスの極におとずれる、あの精神の断絶の実感でしか想像
 することができないのだ。どこかのホテルの片すみで、その夜だけの男と枕を共にしな
 がら、ある朝、私が冷たくなっている・・・もう何度となく描いた私の死にざまにも私
 は怯えない。