阿寒に果つ  :渡辺淳一

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この小説は、筆者の青春時代の実際の経験をもとに書かれたものだと言われている。高校
生のときの初恋の相手だった美少女、”天才少女画家”と言われた彼女が、ある日、雪の阿
寒湖の近くで自殺を遂げた。
彼女はどうして自殺してしまったのか。ずっと謎のままだった。筆者は、20年ぶりに札
幌に戻った際に、彼女の自殺の謎を解明しようと、彼女と関わった人々を訪ね回った。
しかし、結果的に、自殺の謎は謎のままとなった。あえていうならば、それは最初から彼
女が決めていたことだったかもしれない。彼女はただ、決めていた計画を、計画通りに実
行しただけだったかもしれない。
いずれにしても、筆者が青春時代に経験した、この不可解な美少女から得た経験が、後の
筆者の人生に大きく影響を及ぼしたことは確かだろう。この経験が、渡辺淳一という作家
の原点となっていると言ってもいいのかもしれないと思った。
筆者の美少女との青い恋は、青いままで終わってしまった。それは、美少女のほうは早熟
で、すでに他の男と性の経験もあったようだが、そのときの筆者は、まだ童貞で、美少女
との関係を、深い関係に進める勇気がなかったからだった。もし、あのとき、筆者が、美
少女ともっと深い関係になっていたら、美少女のその後の運命も変っていたかもしれない。
しかし、その時の美少女は、すでに筆者には手の届かない、はるか先を歩いていた。
終戦からまだ数年しか経っていない当時の時代を考えると、筆者だって、そんなに奥手だ
ったほうではなかったのだろうが、美少女の早熟さは、その年齢にしては、あまりにも群
を抜いていたのだと思う。”生き急ぐ”という言葉があるが、まさに美少女は、生き急い
でいたように思える。
しかし、その美少女を、そのような早熟な少女にしたのは、その少女と関係した大人の男
たちの身勝手さからきている。少女をとりまく大人の男たちが、自分たちの欲望を剥き出
しにして、まだ精神的には未成熟は少女を、性的に成熟した女性に仕立て上げてしまった
と言えるだろう。男たちは、少女と恋愛をしたと言うが、それは恋愛ではなく、少女の若
い新鮮な肉体を取り合い、ただ貪っただけだったのではないだろうか。大きく歳の離れた
少女と恋愛をしたというのは、大人たちの言い訳に過ぎない。現代の法律では、それは完
全に犯罪だ。
美少女は、幾度となく、筆者に性的な誘いを仕掛けてきた。だが、まだ性的に未熟な筆者
は、怯えるだけだった。そして、それが、当時の高校生の正常な反応だったと思う。美少
女は、その筆者の性に対する怯える反応を見て、自分はもう、後戻りできない、とんでも
ないところまで来てしまったのだと、悟ったのかもしれない。

この小説の中に登場する時任純子という美少女の本当の名前は「加清純子」という実在し
た少女だった。インターネットを検索すると、この少女に関する情報がいまだにたくさん
出てくる。
それにしても、当時はまだ終戦後数年しか経っておらず、まだ戦後の混乱期の中にあり、
その日その日を生きるのが精いっぱいという状態で、戦後の復興はまだこれからという時
期であったはずである。しかし、この小説からは、そんな状況はあまりうかがえない。
なぜだろうと思って調べてみると、戦時中、北海道内での空襲は、軍需産業のあった室蘭
市や釧路市、根室市などは、空襲があったらしいのだが、札幌市が大規模な空襲があった
という記録は見当たらなかった。
これは日本本土に多く飛来したB−29は、サイパン島や硫黄島から飛来しており、北海
道は航続距離の範囲外だったということに起因しているらしいことがわかった。
つまり、札幌市はB−29の空爆から免れており、それほど戦争の被害もなく、終戦後も、
戦前の都市生活がそのまま維持されていたらしい。だから、この小説に出てくるような、
セーラー服を着た女学生を中心に展開された自由奔放な恋愛も可能だったのだろう。

序章
・睡眠薬、ガス中毒、入水、割腹、と自殺にはさまざまな死に方があるが、生前の有り様
 を保てるのは死後わずかの間で、一、二時間もするとどれも体は黒ずみ、死後硬直が現
 われ、やがては臭気さえ漂ってくる。死ねばそれまでとはいえ、死後幾時か経って見出
 された時、顔をそむけたくなるほど醜くなっているのは辛い。これらのなかでガス自殺
 だけは、死の直後一酸化炭素が血中に拡がり、両の頬が薔薇色に紅潮するというが、そ
 れもいっときのことらしい。
・生きていた時よりも美しく、華麗に死ぬ方法はただ一つ、あの死に方しかない。あの澄
 んで冷え冷えとした死。 
・間違いなくあれは冷たい孤独な死であった。最果ての、誰にも知られぬ死であった。し
 かし死は誰にとっても独りのものである。大勢の人々に看取られようと、ただ一人で原
 野に果てようと、死は死んでいく人だけのものである。
・淋しかったことなど同情する必要はない。それは死に直面した人は誰でも同じことだ。
 純子だけが例外ではない。いや、あの死は同情するどころか憎んでもいい。あれは同情
 するには、あまりにも華麗で鮮やかすぎる。あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。
 すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。
 
若き作家の章
・「あたしのクラスにひどく真面目くさった、つんとした子がいるのよ、あいつ誘惑して
 やる」それはいかにも純子がいいそうな台詞であった。だが、当時、私はそんなことに
 はなるで気づいていなかった。 
・十七歳になったばかりの、平凡な高校二年生の私が、純子のそうした悪戯に気づかなか
 ったとしても無理はない。それに発端はたしかにそうであったかも知れぬが、中途から
 私と純子の間は単なる悪戯ではなくなっていたのだから、それはさして重大な問題では
 ない。
・純子が私に手紙をよこしたのは、まさしく私が十七歳になったばかりの秋だった。
・当時の私達は旧制から新制への学制の切り替えに当たり、高校二年の春から男女共学に
 なった。それまで札幌市内にあった公立の三つの男子高校と、二つの女子高校が一旦統
 合され、それから東西南北、四つの地域に男女それぞれ同数に近く再配分され、住んで
 いる場所に近い高校に通うことになったのである。
・私の家は市の南西の山に近い所にあったので、第一高校から南高校と改められた学校へ
 そのまま通うことになり、時任純子は道立札幌高等女学校から、彼女の家の直ぐ前の南
 高校へ移ってきた。
・私達は高校二年生になって突然与えられた共学にすっかり戸惑ってしまった。質実剛健
 と校是とし、蛮カラで鳴らした男子生徒も急に大人しくなり、女生徒にいいところを見
 せようと親切な口をきいたり、今までより勉強に励む者もいた。もちろん一方では意識
 的に硬派をきどり、女生徒を無視する者もいた。
・女生徒もさなざまであった。彼女達には道立高女から移ってきたグループと、市立高女
 から移ってきたのと、二通りがあった。道立高女のほうは市立高女よりやや格が上だと
 思われていただけに、才媛ぶってどこかお高く止まっているようなところがあったが、
 純子もその道立からの移転組だった。
・それにしても女生徒から手紙をもらうのは、私にとって初めてのことだった。それまで
 私は家の近くに住む園部明子という女生徒と二、三度一緒に歩いたことがあった。園部
 明子は丸顔で、もの静かな女生徒だった。教室でも引っ込み思案で、成績も抜きん出て
 いるわけではなかったが、私はその目立たぬ大人しさにむしろ惹かれていたのである。
 派手と地味と、純子と明子とは対照的だった。
・そのころ、私はまだ喫茶店にもそば屋にも一人で入ったことはなかった。戦後まだまも
 なく、札幌には数えるほどしか喫茶店がなかったが、そのなかでも駅前通りの紫苑荘と
 いう店へ、友達に連れられて一度入ったことがあるだけだった。私にはコーヒーの味も
 香りもわからなかった。砂糖のあとにミルクを入れることも相手がやるのを見て知った
 ありさまである。あんなものを飲みながら名曲を聴き入っている人達が不思議に思えた。
・だが今度はそんなことをいってられない。女性と喫茶店で逢うのである。しかも「ミレ
 ット」という画家や新聞記者といった文化人達がもっとも屯するという喫茶店で、札幌
 の芸術家達のアイドルである時任純子と一緒なのだ。   
・この店に純子が現われたのは、約束の時間から十分ほど過ぎたからだった。ベレーをか
 ぶり、赤いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、純子は夜の街がうつるガラスの
 ドアを押して入ってきた。瞬間、私は腰を浮かしたが、カウンターの客達も一斉に入口
 のほうを振り返った。だが純子はそちらには目もくれず、人々の視線のなかをまっすぐ
 に私の前に来た。それは遅れて教室に入ってくる時のように忍びやかで鮮やかだった。
・カウンターには先ほどから私達へちらちら視線を向けていた中年の男達がいた。それら
 は私の位置からは後姿しか見えなかったが、なかにベレー帽をかぶっている三十歳くら
 いの男性がいた。純子はその男の前に立ってなにごとかを話していた。私はことさらに
 無関心を装いながら、時々カウンターの方を盗み見た。 
・男達の一人が笑い、純子の肩に手をのせているのが見える。それに合わせて純子も笑っ
 ていた。私はなにかひどい屈辱を受けたような気持ちになって目を伏せた。
・上体を揺らし、談笑している男達を私はもう一度眺めた。誰もが私より大人で、絵にく
 わしいことは確かであった。私は男達の背に、高校生の自分などは遠く及ばぬ未知の世
 界を知っているのだと思って自信がなくなった。
・純子は右手をそっと私のポケットに差し込んできた。私が戸惑いながらそれに触れると
 純子の手が握りかえしてきた。私は全身を熱くしながら、純子を盗み見た。透けるほど
 白い顔の中央の黒く大きな瞳が、まっすぐ私を見詰めている。私は慌てて顔を戻し、息
 苦しさのなかで手を握りかえした。
・私が時任純子を身近なものとして意識し、愛しはじめたのはこの時からであった。それ
 は唐突に、ある日突然、向こうから訪れていきたものであった。その発端には、私自身
 の積極的な意志はなにもなかった。
・私の純子への傾き方はあまりに早くて容易すぎる。純真な高校生であったから、といっ
 てもあまりに脆すぎる。もう少し戸惑い、躊躇するところがあってもいいはずではない
 か。
・私は恋に憧れていたのであろうか。それとも純子その人に憧れていたのだろうか。当時
 私が恋だけに憧れていたのなら、相手が特別、純子である必要はなかったはずである。
 男女共学という条件の下で、私達は恋をする相手に不自由はなかったのだから。
・純子と近づく前に、私は園部明子へ好意を寄せていたが、それは賑やかに騒ぐ女生徒の
 間で、ひっそりと息づいている女生徒への、男らしい気のひかれ方であった。淋しそう
 にしているから助けてやりたいという男本位の考え方であった。もちろん二人の関係は
 学校の行き帰りに友達や家のことを話し合うというだけのことだった。
・そこには純子と一緒にいる時に味わうような緊張感はなかった。私がいったことに明子
 がうなずき、答えるというだけのことで、主導権は常に私にあった。いっとき、そのこ
 とが私の自尊心を満足させたが、やがて私はその単調さに飽きていた。恋である以上、
 二人の間にはもっと激しく争い、絡み合う熱っぽさが欲しかった。それには大人しいだ
 けの園部明子ではすでにもの足りなかったのである。
・確かに純子は私にとって未知なる、とらえがたいものでもあった。少年にはわからぬ不
 透明で妖しい部分が満ちていた。その先にはなにやら不気味で怖い部分があると感じな
 がら、少年の私はそこから眼をそらすわけにはいかなかった。純子は冒険するに価する
 相手であった。まことに私が純子に惹かれたのは、この芽生えはじめた冒険心を、純子
 が激しく揺さぶったからのほかならない。
・純子は私の名を呼ぶと、雪の塊になって飛び込んできた。その強い体当たりをくらって
 私は少しよろめきながら、両手で純子の上体を抱きしめた。純子は私の胸元に頭をこす
 りつけ、それからゆっくりと頭をあげた。純子の顔は間違いなく私の目の前にあった。
 大粒の雪がその額に落ち、頬を伝って溶けていく。
・私のなかにいいようもない感動が起き、次の瞬間、私はやみくもに純子の唇をふさいで
 いた。純子の頬の冷たさと唇の暑さのなかで私は目を閉じ耳をふさいだ。
・どれほどの時間、私達は接吻を繰り返したのか。ふと私は純子の舌が口のなかで小さく
 動いているのを知った。それが何を意味しているのか、私にはわからなかったが、その
 行為には甘く淫らな思いがあった。私は応えるすべもなく、ただその感触を一瞬もゆる
 がせにしまいとするように、しっかりと唇を合わせていた。  
・図書館は学校とは渡り廊下でつながった別棟の二階建ての洋館で、一階は閲覧室になり、
 二階には書庫とそれに続いて部員室があった。部員室にはF短大を卒えた斎藤恵子とい
 う図書館司書が常時いて、貸出事務をとっていた。
・純子が皆帰った後の誰もいない図書館の部員室で逢いたいと言い出した。その冒険に不
 安はあったが、女の純子からいわれて引き退がるわけにはいかなかった。
・私はウイスキーを飲み、再び純子の唇を求めた。今度は坐ったまま、私が抱き寄せる形
 となった。ちらちらと純子の舌が動く。それはウイスキーで熱くなった私を的確に刺激
 した。だが私は相変わらず、やみくもに唇を重ねるだけであった。それから先の男女の
 営みの大方は知っていながら、ではどうすればいいのか、ということになると急に自信
 がなかった。 
・正直いって、私はそれあら先を求めてはいなかった。接吻の瞬間、小さな衝動は感じる
 が、それ以上踏み込むことは怖かった。もし求めて、純子が素直にききいれてくれたな
 ら、私はなにかひどく恥かしい目に逢いそうであった。純子に笑われ、あなどられそう
 であった。その不安が私を臆病にさせ、少年の清純さを保たせていた。
・一つの悪事を経ると、それまでの悪事はもはや色褪せてしまう。純子との接吻を知った
 瞬間から、私は他の同級生達より一段、偉くなったような気持ちになったが、図書館で
 の密会はそれ以上に私に新しい自信を与えた。 
・私は自分が悪党である、という思いにひそかな誇りと喜びを覚えていた。悪党の中身を
 聞きたい人があれば一晩かかっても教えてやりたいが、一方でそれを隠して悠々と振る
 舞うのも快かった。
・この夜から私達は時々図書館での密会を重ね、手紙の交換をすることにした。
・すでに図書館司書や宮川玲子達は、うすうす私達のことを感じはじめていたが、私達は
 それに甘えるように図書館では親しさをかくさなくなってきた。彼らは味方で邪魔はし
 ない、私達は本能的にそう感じていたのである。それでもなお、私達が夜に逢っている
 ことは誰も気づいている気配はなかった。
・三度目に、私達が図書館で逢ったのは、二月の初めであった。例によって私達はウイス
 キーを飲み、唇を交わした。酔いのせいか私達は抱き合ったまま、寒さを感じなかった。
 窓からは雪に埋もれた家々の灯が見えたが、それは死んだように動かなかった。
・どれくらい経ったのか、私はふと階下でドアのきしむ音を聞いた。それはほとんど純子
 も同時だった。 
・見つかったら・・・。まさかと思ったことが現実になっていた。訓戒、停学、退学、悪
 い予感が一気に私の頭に飛び込んでくる。やっぱりまずかった。私は後悔しながら震え
 ていた。
・階段を昇りきったらしく、ドアの外で足音が止まった。あたりをうかがっているのか、
 しばらく間があってから、書庫のドアが開いた。思わず私は純子の手を握った。純子の
 冷えた手がはっきりと握り返してきた。
・書棚を見廻しているらしく、足音が右から左へ移動する。と突然書棚と書棚の僅かな隙
 間から一筋の光が私の胸元を掠めた。私は危うく声をのみ、光の筋から体を避けた。男
 は懐中電灯を持っているのだった。
・「誰かいるのか?」その声で、私は闖入者が図書部顧問の瀬戸教師だと知った。当直で
 見回りに来たのに違いなかった。私は眼を閉じ、無事に過ぎるのだけを祈った。長い長
 い時間のように思われたが、実際はさほどのことではなかったかもしれない。
・「おかしいな」低い呟きがきこえる。もう一度光が流れてから、ドアが閉じられる足音
 が階段を降りていく。
・「ねぇ。接吻して」純子が結核で、三週間前に喀血したことを私が思い出したのは、ま
 さにその時であった。私は眼の前にある唇を見ていた。白い顔にその色はしみるように
 赤い。結核がうつりはしないだろうか。初めて私の脳裏に病気の不安が横切った。だが
 それは一瞬のことだった。
・純子が小さく唇を突き出した瞬間、私は自分から、その赤すぎる唇をおおった。二人の
 唇は激しく触れ合い、それとともに私の怖れは急速に消えていった。病気の不安にかわ
 って、どうなってもいいという投げやりな気持ちが徐々に、私のなかに拡がっていく。
 ちろちろと、舌を動かし、歯を合わせながら、純子の結核菌は着実に私に移ってくる。
 この想像は堕ちることに憧れていた少年の心を甘く酔わせた。純子の美しさも、その奥
 に潜む悪魔も、すべてを受け止めている。純子とはもはや一体なのだ、という思いが私
 をいつになく興奮させていた。
・どれほど経ったのか。私達は小さな吐息とともに唇を話した。接吻に疲れたのか、純子
 は後ろの椅子にかけ、両手をだらりと下げていた。
・ぬるぬるとした感触が唇にある。私は唇を拭きたかった。拭いて水で一口嗽をしたかっ
 た。唇を離して、私は再び病気のことを思い出したのである。
・だが私は嗽をするどころか、唇さえ拭かなかった。そんなことをしては純子を悲しませ
 るだけである。私は純子の唾液が混じっている生暖かい唾を飲み込み、それからなにご
 ともなかったように、彼女の椅子の前に坐った。
・修学旅行先で純子を訪ねた。純子の泊まっていた旅館は上野に近い御徒町にあった。旅
 館には人が泊まっていないのか、あるいは泊まっていても、まだ帰ってきていないのか、
 もの音一つしない。静寂のなかで、私の耳だけは異常に鋭敏になっていた。かすかな衣
 ずれの音も、ファスナーの開く音さえ、それとわかる。
・彼女はセーラー服を脱ぎ、下着だけになっている。その想念の息苦しさから逃れるよう
 に、私が唾を飲み込んだ時、障子のなかから純子が呼んだ。「ねえ、こっちに来ない。
 庭がきれいよ」
・ベランダは部屋沿ってL字型に右へ曲がっていた。純子は曲がった先の障子を開けたま
 ま着替えているかもしれなかった。だが庭なら私のいる側からでも見える。それを、こ
 っちへ来いとはどういう意味か。いや、彼女の言葉にはべつに他意はないのか。私が迷
 っている時、障子が開いた。「なにしているの」
・純子は紺のスカートこそはいていたが、上はスリップだけだった。右手にブラウスを持
 ったまま近づいてくる。     
・私の横に立つと純子は上体を突き出して庭を見下ろした。眼の前にスリップの肩紐があ
 り、その先に豊かなふくらみがあった。
・純子は横でブラウスを着始めた。左手をとおし、右手を入れる。どの動作の度に、脇の
 かすかな茂みまで見通せた。暮れなずんだ部屋のなかで、スリップから出た胸元は透け
 たように白く、なかほどで深くきれこんだ翳が、乳房の豊かさを思わせた。
・ここは図書館とは違い、畳があり誰も来ないで二人だけの部屋であった。私がその気に
 なれば純子を奪える。純子もそれを許すかもしれない。いやむしろ許そうとしているか
 もしれない。いまなら遂げられる。 
・そう思いながら、私なかでうろたえ、怯えているものがあった。なぜが私はいま一気に
 つき進んでは、純子に笑われ、つき離されるような不安があった。いっとき、男の力で
 勝ったとしても、あとで手ひどい嘲笑をうけそうな気がした。たとえ奪えたところで、
 純子はかすかに笑い、私へ憐憫の眼差しを向けるのではないか。
・この弱は私がその時、童貞であったことのよるのは疑う余地はない。正直いって、私は
 その瞬間、どのようにしていいものか、具体的なことになるとわからなかった。早熟な
 友達の話や、盗み見たエロ本などから想像することはできたが、いざとなるとまったく
 見当がつきかねた。
・それでも純子が男の私の前で怯えていたなら、あるいは私は奪う気になったかもしれな
 い。だが純子の態度は普通の少女にありがちな不安や恥じらう様子は微塵もなかった。
 性に対しは無知に等しかったくせに、私は本能的に純子の裏の男の影を見ていた。純子
 の大胆すぎる態度や、豊かな胸元が、私にそう思わせたかもしれない。それは理屈では
 いいつくせぬ、一つの勘でしかなかった。
・それにしても、純子はなぜ私から離れていったのであろうか。それは満ちる一方であっ
 た水が、ある時をさかいに急に引きはじめたように、鮮やかで突然であった。そして、
 私はその潮の流れの変り目が、東京での逢瀬にあったような気がしてならなかった。
・東京で純子は自ら服を着替える隙を見せ、夜の上野駅で、「やはり帰るの」と囁いた。
 二つの機会、純子は私が荒れ狂うのを待っていたかもしれない。だが、どの場合も、私
 は怯えるばかりで、自らすすんで求めることはなかった。 
・悪魔に憧れ、自分自身が悪魔の化身だと信じていた純子にとって、純情だけが取柄の少
 年なぞ初めから必要ではなかったかもしれない。
・少しばかり成績がよくて澄ましている、そんな私を自分の方へ向かせ、下僕にしたこと
 で、純子は私へ近づいた目的の大半は終わったのではないか。東京を離れる夜、駅まで
 見送りに来たのは、むしろ純子の私への最後の思いやりであったかもしれない。
・私は純子のことは忘れなければいけないと自分にいいきかせた。それは負け惜しみだけ
 でなく、現実にさし迫った問題でもあった。このころから、私達は追われるように、受
 験勉強に入りはじめていた。一人の女性との不確かな恋にかかずり合っているより、大
 学へ入ることのほうが、私には大きなことのように思えてきた。 
・恋など大学に入ってからいくらでもできる。私はそう心に決めながら、純子だって私が
 大学に入ったら、いまのように冷たくはできないだろうと考えた。馬鹿げたことだが、
 私は大学に入ることが純子への復讐のように思いはじめていたのである。
・その夜、夜の勉強で私は眠くなり、机に顔を伏せたまま、仮眠をした。どれくらい眠っ
 たのか、ふと私は風の感触に眼をさました。眼をこすり勉強部屋のなかを見廻すと、道
 路側の窓がかすかに開き、そこからわずかに粉雪が舞い込んでいた。不思議に思い、窓
 から外を見ると、軒先から先の通りまで、雪面に点々と足跡がついていた。それはかつ
 て純子が夜遅く、気紛れのように訪れて来て窓を叩いた時と同じ足跡であった。私は慌
 てて外へ出てあたりを見廻したが、雪の止んだ路は月ばかり蒼く、凍てついていて、人
 影はなかった。眠っている間に純子は来たのだろうか。しかし、いまごろ、どうして突
 然、考えると不思議だった。
・”天才少女画家阿寒で自殺か”という記事が新聞に出たのは、それから十日経った一月
 の末であった。さらに翌日の夕刊には、阿寒に行く直前、釧路刑務所にいた愛人、殿村
 知之の許に立ち寄り、頼まれていた保釈のための金を渡していったという記事が出た。
 
ある画家の章
・私がその画家、浦部雄策に逢ったのは、純子の遺影に逢った翌日の夕方であった。その
 時私が浦部について知っていることといえば、純子の絵の先生で自由美術の会員であり、
 いっとき、純子と恋愛関係にあったという程度のことだった。
・二十年前、純子に絵を教え、その時すでに妻子がいたちすればいまは五十歳ぐらいであ
 ろうか。
・時任純子に初めて逢った時のことを、浦部はいまも鮮やかに憶えている。その時、浦部
 は三十二歳であった。
・初めその少女を見つけたのは、彼の妻の知子であった。知子は汚物を捨てて勝手口に戻
 ろうとした時、玄関の前に女性が立っているのを知った。昭和二十三年で、街灯は節電
 で消えたままで、軒下には門灯もなかった。
・なにか用事かたずねると、少女は先生に絵を習いたいといった。時任純子と名乗った。
・純子が二度目に浦部の家を訪れたのはその三日あとの夜だった。純子は風呂敷包みから
 二枚の絵を取り出し見てほしいと頼んだ。
・純子が三度目に訪れたのは、それから五日経った金曜の午後だった。口では濁したが浦
 部は純子を弟子にしてもいいと思いはじめた。三十二、三歳の、地方で少し名を知られ
 た程度の存在で、弟子をもつなどといえば尊大に聞こえるが、絵を教えているのだと思
 えば、一向におかしくない。フリーで画塾を開き、それで食べている者も幾人かいる。
・浦部はなにか落ちつかなかった。狭い密室で二人でいることが息苦しかった。横にいる
 のは十四の少女だと思えば済むことである。事実、純子は二人が男と女ということを意
 識しているとは思えない。画家になることを夢みているセーラー服を着た少女にすぎな
 かった。
・だが浦部には純子がセーラー服の少女であることが、かえって気づまりであった。いま
 はまだ冬の制服で紺地に白のボウの下ったセーラー服で、襟元には道立女学校を現わす
 三本の山型の白い線が縫い込まれている。純子の顔には少女期の蒼白さと、あどけなさ
 が交っていた。ときどき思いつめて見詰める時だけ、その顔に女の表情が走る。三十を
 過ぎ、一つ違いの妻を持つ浦部にとって、純子の未熟な姿態は珍しく、新鮮であった。
・純子の来る日、アトリエにこもりながら浦部は時々腕時計を見た。もうそろそろ来るか
 もしれない。そう思うと急に落ち着かなくなり、気が散る。今度はどんな絵を持ってく
 るのか、どんな話をするのか、いろいろ想像しながら、最後には決まってセーラー服の
 少女の体を思う。それは中年入りかけた浦部にとって、どこか甘く、秘めやかな思いだ
 った。 
・純子は浦部のそうした気持ちを知ってか知らずか、夏の間は「暑い」といってセーラー
 服のボタンを解き、胸元のスナップを外していた。開かれた襟口から覗いた胸元はかす
 かに隆起を見せ、大人になりかけているのがわかる。浦部そそれから目を避けるように
 後に下がったが、それでも純子が前屈みにキャンパスに向かう時、セーラー服の背が上
 り、その下から白いスリップが覗かれた。さらに油絵具を使いはじめると、純子は浦部
 の目の前で平気で汚れてもいいブラウスに着替えた。 
・向かい合っても後にいても、同じ部屋にいるかぎり、浦部の目に純子の若やいだ姿態が
 やきついてくる。  
・浦部はこのままでは、いつか耐えきれぬ時が来るような気がしていた。二人の間には先
 生と生徒で、三十二歳と十四歳で、十八歳も離れていた。一方は妻があり相手はまだ何
 も知らぬ子供である。そのような間で男と女の関係が成り立つとは思えない。妻の知子
 が二人がアトリエという密室にいることを気にとめていないのも、そのせいに違いなか
 った。実際、浦部自身にしても、純子はまだ子供だと思っていた。青くさくて恋の相手
 などは到底ならないと自分にいいきかせていた。だがそう思い、いいきかせることが、
 とりもなおさず純子を女として意識していることでもあった。
・純子はベレーをかむり、髪を赤く染め、赤いコートを着て、札幌の街を歩いた。街の文
 化人のなかではもはや純子の存在は知らぬ人はなく、純子は一人で「アザミ」や「炉ば
 た」に出入りし、浦部以外の画家や、新聞記者などとつき合うようになった。人口三十
 万の小さな街では、純子はすでに知名人であった。
・画家や新聞記者仲間の、ルーズな生活を知っている浦部には、そんな男達と飲み歩く純
 子が危くて見ていられない。彼等は純子が現われると、競って自分のまわりに呼びつけ
 て飲ませる。機嫌をとるように飲ませて話しかける。純子はそれを当然のように受ける。
 しかも酔ってくるとそんな男達に平気で倚りかかり、夜道を送らせる。無邪気なのか、
 男を男とも思わないのか、いずれにせよ浦部としては、そんな純子を見るのは、あまり
 気持ちのいいことではない。
・もっともそんな不安があれば、浦部自身が純子を、しっかりととらえてしまえばいいの
 だった。純子が街の芸術家のアイドルになったいまでも、師弟いう関係で、浦部は他の
 誰よりも優位にいたから、そのうえ体の関係をもてば、まさに鬼に金棒であった。
・浦部はそれを望んでいながら、まだそこまでつきすすむ勇気もなかった。 
・夏から秋へ浦部ははっきりと自分は純子を恋していることに気づいた。春までは少し才
 能のある風変わりにな小娘に、興味をひかれているだけだ、と思っていたのだが、いま
 は逆にその小娘にふりまわされている。それは浦部が六年前、熱烈な恋の果てに、夫人
 を得たときと変わらない、たしかな愛情であった。
・それでも浦部は純子を奪うことに戸惑っていた。その理由はごく常識的なことであるが、
 浦部が純子の十八歳年上であり、しかも師であるということだった。
・妻子ある三十男が、のこのこと十六歳の、しかも弟子のを、というためらいと照れがあ
 った。 
・もう一つ、純子はあまりにも無防備でありすぎた。どういうわけか純子は浦部にかぎら
 ず、男というものに対して、怖いというか危険という感じをもっていないようだった。
 男を知りすぎた女ならともかく、高校一年生の少女にしては大胆すぎる。とくに浦部に
 対しては師と思っているせいか、眼の前で兵器でセーラー服を脱いだり、酔って腕の中
 で仮眠したりする。このことは裏を返せば浦部にかぎってそんなことはない、という信
 頼を抱いているためかもしれなかった。
・二人で歩きながら浦部は幾度か、このままホテルへ連れ込もうかと思った。実際、浦部
 がその気になれば、簡単に達せられそうであった。
・だがそうなったあとの二人の関係について浦部は自信がなかった。いま純子が寄りそい、
 なんでも相談してくるのは、体の関係がないためで、出来てしまえば、純子はかえって
 無口になり、離れていくような気がする。 
・無防備で信頼されている、という満足が、辛うじて浦部の衝動をおさえていた。しまし
 それも限界がある。悪そうな男達が純子の周りに次第に増えてきたことは、もはや暢気
 なことをいってはいられない。夏がすぎて浦部は純子を自分のものにすることを真剣に
 考えはじめていた。
・純子はしばらく正面の壁を見ていたが、やがて浦部に顔を近づけると小声で言った。
 「先生はあたしをほしいの」「欲しいなら奪ってもいいよ」「本当よ、今晩でもいいよ」
 いわれたとおり「アザミ」を出てから、浦部は薄野のはずれにあるアベック旅館へ純子
 を誘った。純子は行き先を聞かずについてきて、入口で「ホテル」という字を見て立ち
 止まったが、すぐに素直になかに入ってきた。
・部屋は八畳間で中程に小机と座布団があり、窓際に布団が敷かれている。浦部はできる
 ならもう少しいい部屋で純子と結ばれたかったが、突然のことで余分に金を持たず、純
 子の気持ちがまたいつ変わるかもしれないという心配があった。実際、純子を奪うにあ
 たって、部屋のことは浦部にとってはさして重要なことではなかった。
・純子は小机の前の座布団に座っていたが、その蒼ざめた横顔はバーにいる時からみると
 いくらか酔いが醒めてきているようだった。
・「僕は君がいい絵を描いてくれさえすればいいんだ」浦部は自分の身勝手さを弁解する
 ように言うと、にじり寄り、いきなり横から純子を抱き寄せた。純子は寄せられるまま
 に上体を仰向けに髪を垂らし、浦部の腕に抱かれた。
・なにも疑わず、いわれたとおりに従う。その素直さが浦部にはたまらなく愛おしかった。
 腕にくらべ純子の腰はまだ成長しきらず堅かった。浦部はその全身を膝の上に乗せ、純
 子の軽く開いた唇に自分の唇を近づけた。瞬間、純子は目を閉じ、いやいやをするよう
 に軽く首を左右に振ったが、幾度か繰り返したあと、ついに探り当てたように二つの唇
 が重なった。
・純子の接吻は上手ではなかった。浦部の妻の豊かな動きからみると、単純で、ただ唇を
 突き出しているというに過ぎなかった。だがもちろん浦部はそれで満足していた。十六
 歳の少女を奪う以上、技巧や変化を求めているわけではなかった。ただ誰も触れていな
 い体を知る、未知なるものを探り出す悦びで満足していた。
・純子は少しも抵抗しない。その従順さに浦部は、かえって不安になり、浦部はそっと目
 をあけた。驚いたことに純子は大きく眼を開いていた。唇を吸われ、両の頬をすぼめた
 まま純子はこちらを見ている。
・浦部は狼狽を隠すように上体を引き寄せ、セーターの胸元をおしあげた。瞬間、純子は
 小さく身をよじったが、すぐにあきらめたように黙っていた。思いがけず豊かな乳房が
 とび出し、脇のなめらかな皮膚が触れる。
・「ねえ、寒いの、布団に入れて」浦部はいわれるままに純子を床のなかに運んだ。さら
 に接吻をし、胸を愛撫しながら浦部はスリップの肩紐をはずし、小さなパンティに手を
 かけた。肌と肌を合わせる。純子の肌はつるつるとしてとらえどころがない。
・「いいんだね」もう一度念をおした浦部に、純子は眼を開けたまま、「うん」と小さく
 うなずいた。 
・秋から冬へ、浦部と純子の間には平穏が続いた。すなわち純子は相変わらず週に二度、
 浦部のアトリエを訪れ、その二日はほとんど決まったように街に出て酒を飲み、やはり
 それくらいの割でホテルに行った。
・ホテルに行くのを純子は特別拒むことはなかったが、接吻の時に目を開いたり、行為の
 時、あたりを見廻すくせはなおらなかった。
・浦部はそんな熱中しない純子に、いくらか苛立っていたが、十六歳の少女では仕方がな
 いことなのだと考えた。
・実際のところ、純子が早熟なのか奥手なのかそれは浦部にもわからなかった。これは浦
 部の一つの勘でしかないが、彼は純子は処女ではなかったような気もしていた。
・一般に初めてなら痛みを訴えたり、小さな出血を見るというが、そのことからいうと、
 純子は出血はもちろん、痛みを訴えることもほとんどなかった。その瞬間、かすかに身
 をよじり眉を顰めはしたが、それは初めての男との時、女なら誰でもする仕草で、とく
 にそれ以上、強いわけでもなかった。身を退くとか逃げるというより、純子はむしろ平
 然としていた。欲しいものならやる。そしてどんなことをするものか、それを見てやる、
 そんな冷やかさが純子の態度であった。 
・処女の場合、あんなに抵抗もなく、醒めた表情で、セックスをおこなうことができるも
 のだろうか。終わるとすぐ「もいいいの」ともいった。それは犯され、奪われた女とい
 うより、むしろ男を憐れみ、慰めている女の言葉だった。あっけらかんとしすぎている
 眼が、浦部には無気味だった。
・しかし純子が処女ではなかったとして、では誰が初めて関係したか、ということになる
 と浦部には見当がつきかねた。
・純子が浦部の前に現われたのは十四歳の春である。それから一年半、純子と身近に接し
 てきたが、浦部はまだ純子のまわりに男の影を嗅いだことはなかった。といって、自分
 と逢う以前に純子に男がいたとは思えない。処女でなかったということは、やはり自分
 の錯覚だったのだろうか。
・だがそうは思っても純子の醒めたセックスは回を重ねたいまも変わらない。不思議だと
 思いながらも、浦部はその開発されていない、冷えた少女の躰に惹かれていた。
・純子の出品した「ロミオとジュリエット」が、また新聞の記事になり、浦部との愛の体
 験のおかげか、上野の美術館に飾られ、純子の絵は初めて中央の人びとの注目を浴びた。
・浦部は純子をともなって上京し、中央の画家に紹介するとともに、純子を女流美術協会
 に加入させた。もはや純子の目的は地方の学生展や道展ではなく、中央の一流の美術展
 であった。それとともに浦部と純子の間には、札幌の画家仲間なら誰でも知っている、
 公然の仲となっていた。 
・だが彼等の間での純子の人気は、それが知れたところで衰えることはなかった。純子は
 相変わらずバーや喫茶店に妖精のように現れ、「暗い日曜日」をきいて煙草を喫った。
 多くの人に純子はまだ誰にも独占されていないという感じを抱かせた。
・浦部が純子のなかにとらえがないものを感じはじめたのはこの時からであった。しかし
 それはなにも積丹に行った時にはじまったものではない。思い返してみると純子が初め
 て浦部の家を訪れたときも、浦部には理解できぬことであった。だがそれにしても今度
 のやり方はいささかひどすぎた。驚かすにしても、反抗するにしても、もう少し節度を
 わきまえたやり方がある。
・しかしそう思いながらも、実のところ浦部は純子の、このとらえどころのない妖しさに
 惹かれていた。それが少女特有の勘と、甘えからきた傲慢さだと知りながら、それを本
 心から叱ることができなかった。叱る前に可愛いと思う。純子の傍若無人なやり方に辟
 易しながら、いつのまにか浦部はその奔放なやり方に、ひきずりまわされていた。
・浦部が純子と正式に結ばれることを考えはじめたのは、この小旅行を終えて札幌に帰っ
 てきてからである。それまで浦部は純子に惹かれてはいたが、愛しているのではないと
 思っていた。純子が気になり、いつも目を向けてはいるが、それは純子がまだ稚く、自
 分に頼っているからで、対等な恋とは思っていなかった。だがいまとなってはもはや純
 子を放置しておくわけにはいかない。 
・去年の秋、純子を周りの悪友達から守るために体の関係をもったように、いまは結婚と
 いう形でしか純子をとらえきることはできない。浦部はそれが純子のためだと思いなが
 ら、自分自身がさらに純子にのめり込んでいることを忘れていた。
・純子と正式に結ばれるということは当然、妻との離婚ということが問題になってくる。
 妻の知子は純子と関係があることをまだはっきりと気づいていないが、うすうす感じて
 はいるようだった。純子が来ると知子は必要以上にアトリエに顔を出し、話しかける。
 純子は陽気に受け答えするが、時におし黙ったまま一言も喋らないこともある。そんな
 時、生意気で薄気味悪い子だと知子はいうが、浦部はそれにとりあわない。少しずつだ
 が確実に、浦部の家庭は純子という妖精に侵蝕されているようだった。
・純子が校庭での雪像づくりのあと風邪をひき、家で休んでいるうちに、アドルムをのみ
 自殺をはかったのは、この年の二月の半ばであった。
・海の旅館で階段から落ちたように、愛に対して複雑な表現をする女だった。その例でい
 えば今度の自殺も裏返しの愛の表現であったのかもしれない。真偽は純子に聞いて見な
 ければわからない。だが自分との愛の苦しさに耐えかねて自殺を図ったという思いは、
 責任の大きさはともかく、浦部にとっては快い想像であった。
・浦部の病院への日参がはじまったのは、この時からだった。昼近くに起き出し、まず病
 院へ行く。そこで純子の望むままに食事を食べさせたり、タオルで顔を拭いてやったり
 する。時には寝間着を着替えさせたり、下の世話までする。分別盛りの中年の男が十七
 歳の少女にかしずく様は、本人はともかく、はた目には尋常ではなかった。
・「浦部のやつは純子のところにつききりで、下男みたいに世話をやいているらしい」例
 の悪友達が半ば羨み、半ば嘲りながら噂しあった。純子の家族も浦部の看護には感謝し
 ながら、二人の間がすでに普通ではないのを感じていた。そのことは姉の蘭子と、兄の
 論は以前から感じていたものだったが、それまで知らなかった父と母も、いまはそれを
 認めないわけにはいかなかった。
・周りの思惑はともかく、浦部は純子にかしずき、純子は浦部にかしずかせて平然として
 いる。一週間もすると純子の家族は、むしろ看病を浦部に任せて、それを当たり前のよ
 うい思いはじめていた。
・浦部は入院中、ずっと付き添ったことで、純子と自分の仲は、もはや世間承知の定まっ
 たものになったと思い込んでいた。事実、純子が浦部の恋人であることを否定する者は
 ほとんどいなかった。だが逆に、浦部が純子の恋人であるかどうかについては、仲間達
 は素直に信じていなかった。
・浦部がどう考え、どう誇ろうと、純子の自殺の原因については、仲間達が勝手に推測す
 るだけで、誰も本当のところはわからなかった。
・家庭は荒れるに任せ、知子との間にはほとんど会話がなくなった浦部にとっては、もは
 や純子を追いかけるより進む道はなかった。だが一度はたしかに夢中になったはずの純
 子は、いつかまたするすると浦部の手を抜け、さらに広い世界へ泳ぎ出していく。
・春の定まらぬ霙の一夜、浦部は一人で歩きながら、三年前、純子が初めて自宅に現われ
 た時の情景を思い返していた。その時純子は十四歳であった。またオカッパで背丈もい
 まより随分低かった。スブ濡れになり知子に伴なわれて怯えたようにアトリエへ現われ
 た。その少女がいまはブロンドに染めた髪をなびかせ、男達とどこかのバーの一隅で飲
 んでいる。はじめて逢った時には思いもしなかった変貌が純子の上に起きていた。だが
 その変貌を促したのは、他ならぬ浦部自身である。 
・小さな獣は親によちよち歩きを教えられ、手探りに行動範囲を拡げていたのが、いつの
 まにか一人立ちし、気がついた時には親も知らないところまで歩きはじめていたのであ
 る。浦部はもはや純子を単純に、師という立場だけではとらえきれないことを悟った。
 純子をとらえておくにはただ一つ、「結婚」という枷しかない。
・東京から帰ってきて純子はいっとき、人が変ったように従順になったが、それも一か月
 で初夏の訪れとともに、また少しずつ浦部から離れはじめていた。 
・浦部は、それも例によって傲慢さを交互に見せる、純子の性格の波の一つだと考えてい
 た。その波のなかで、浦部は純子が猫に似ていると思いはじめていた。猫は柔らかくし
 なやかで素早い。そして寒い時や、飢えて困る時だけ人にすり寄ってくる。それに気を
 よくして布団に入れ、抱きしめようとすると、たちまち頭を振って逃げ出して行く。猫
 は必要な時だけ人に寄ってきて、癒されるとすぐに去って行く。純子に浦部への近寄り
 方はそれに近い。  
・浦部はそのことで純子を責める気はなかった。純子という猫は無理に縛りつけようとす
 ると、かえって逃げ出す。自由に、ある程度放っておいたほうがなついてくる。一旦は
 飛び出しても結局は戻ってくる。だから離れたからといって慌てることはない。
・しかしそれは純子が自分の許へ戻ってきて、心に余裕がある時だけ思うことで、現実に
 純子が離れている時にはそう思いこむことは難しい。   
・浦部はその夜、純子と街のなかで別れたことを後悔した。家まで送るという浦部を純子
 は強引にふり切って一人で帰ったが、あの時、執拗に従えていれば純子は死ぬことはな
 かったかもしれなかった。人々は純子が最後に釧路で殿村に逢っていることから、純子
 はやはり殿村を一番愛していたのだといった。  
・だが浦部は純子の死を知った時も、二十年経ったいまも、そんなふうには思っていない。
 純子が死んだのは誰のためでもない。あの子はただ死にたくなったから死んだだけだ。
 確かに死ぬころ、純子は殿村を愛していたかもしれない。でもそれはいっときのことで、
 結局最後に戻ってくるのは私だったと思う。浦部は、熱っぽく、しかし誠実な眼差しで、
 何度もそのことをくりかえした。

ある若き記者の章
・村木が純子を知ったのは、二十五年の冬、純子が高校一年生の時であった。
・もちろんそれまで、村木は時任純子という絵を描く少女がいること、そしてそれが、自
 分の恋人、時任蘭子の三つ下の妹であることを知っていた。
・蘭子は高校を卒えて繊維会社に勤めながら詩を書き、村木は家庭欄担当でH社の学芸部
 にいた。二人が知り合ったのは友人を介してだが、それ以前に新聞記者や文化人がいく
 バーでも幾度か逢っていた。
・温かい部屋で結ばれたあと、起き出し、冷たい雪道を帰るのは辛いが、父親の怖い蘭子
 は十一時を過ぎると必ず帰り、泊まることはなかった。
・村木は部屋に戻ると、まだ蘭子の温もりの残っている布団に潜り込み、そのまま眠った。
・翌朝、彼は寝たままストーブに火をつけ、部屋がいくらか暖まったところで起き出した。
 ふと、窓の先の雪の小山に、赤く小さなものが落ちているようが気がした。村木は寝間
 着の上にオーバーをかぶり、新聞をとりがてら入口のドアを開けて外に出てみた。窓の
 前の雪山にささっていたのは、一輪の赤いカーネーションであった。
・誰かが窓の下に忍び込み、カーネイションを置いていったに違いない。
・五日後、村木は再び蘭子と逢った。酒を飲み、部屋に来る。それはこの半年、二人の間
 で習慣的になったパターンであった。十一時、同じように村木は蘭子を送った。
・翌朝、新雪の雪の小山に再びカーネーションがあった。昨夜は「アザミ」で飲んだが、
 その時、バーで逢ったのは、店の者を除けば、同じ新聞記者と、画家の浦部と、そして
 蘭子の妹の純子の三人であった。そうか・・・。村木はそこではじめて純子のことを思
 い出した。  
・花をさしていったのは純子ではないか。
・それにしても、蘭子と関係した時だけ、赤いカーネーションが置かれるのは、いかにも
 不思議であった。
・翌日、村木は遅くまで飲んだのを機に、昨夜雪のなかにあったカーネーションを持ち、
 純子のアトリエの窓の下に置きに行った。雪のなかに花をさいながら村木は自分のして
 いることに気がついて、急に可笑しくなった。
・村木は純子から、なんらかの反応があるのを待っていた。純子がやったことなら、なに
 かいってくるに違いない。だが期待に反して反応はなにもなかった。
・不審に思いながらも村木はもう一度蘭子を抱けば、誰がカーネイションを持ってくるか、
 わかるだろうと考えた。二日後、村木はその計画を実行に移した。蘭子はなにも知らず
 アパートにきたが、その夜、村木を彼女を求める気にはなれなかった。村木の目的は抱
 くことより、夜、雪の山に花をさしにくる者をつきとめることだった。
・村木はグラスを持って窓際の椅子に坐り窓の外を見た。時刻は十時半だった。瞬間、村
 木の視線に一つの影が飛び込んできた。ガラスをはさんで雪のなかに一人の女が立って
 いる。女はこちらを向いてかすかに笑っている。そこまでたしかめて村木はようやく、
 そこにいるのが純子だと知った。 
・純子は部屋のドア口で立ったまま、珍しそうになかを見廻した。窓際に壁に小さなサイ
 ドボードがあるだけで、箪笥もない。男一人の殺風景な部屋だった。
・純子が軽く視線をそらせた。村木はその瞬間を逃さずに純子を抱き寄せた。プレイボー
 イとして幾人かの女性を手なずけてきた村木にはある猶予がかえってタイミングを失う
 ことを知っていた。 
・抗われるのを予想していたのに、純子の体はなんの抵抗もなく村木の腕の中につつまれ
 た。そして求められるままに上体が傾き、顔が上を向いた。村木はその温もりきってい
 ない唇に、そっと自分の唇を押し当てた。
・密室でそこまですすめばあとは簡単であった。そのまま村木は二度接吻を繰り返し、そ
 れから電気を消した。雪の降る夜は静まりかえり、きこえるのはストーブの燃える音だ
 けで、焚口からの明かりが抱かれている純子お横顔を赤く照らしていた。村木はその火
 を見ながら小さく「好きだよ」と囁き、それから改めて純子を抱きしめた。
・幾人かの女性を知っていた村木は、女との一つ一つの情事を記憶しているのが自慢だっ
 た。どんな時にも溺れず相手の女性の反応を見届ける。それが村木の喜びであり、楽し
 みでもあった。だが今度の場合だけは少し違っていた。
・まだ少女のくせに、純子はほとんど抵抗をしなかった。逢ってすぐ唐突に求めたのに、
 純子は村木の求めるままに与え、むしろ平然としていた。
・行為を終えてから、村木はなにか自分が見るという立場より、見られているような気持
 ちにとらわれた。先走ったのは自分のようで純子はむしろ淡々としていた。型通りの愛
 の口説はともかく、それ以上の自分勝手なことを口走り、純子は終始落ち着いていたよ
 うな気がした。   
・果ててから冷静さを取り戻した村木は女性より興奮したらしい自分に、いささか興醒め
 た。それも手練手管の年増女ならともかく、自分より十歳近く年下の少女であることが、
 一層奇妙だった。
・どうしたことか。村木は自分が柄になく溺れたのは、相手が十六歳という、いままで体
 験したことのない若い女性であったせいかもしれないと思った。さらに自分の恋人の妹
 であることがもう一つの原因であるような気がした。
・名残りを反芻している村木とは逆に、むしろ純子はさばさばしていた。
・一人の女性から抵抗を除き、体を奪っておきながら、村木は初めての女性に接した時に
 感じる勝利とか、征服に似た感じはなかった。それよりむしろ向こうから慰められ、愛
 されたような受け身の思いが強かった。
・村木は眼を閉じ、純子を抱き寄せた。歯が触れ合い、ちらちらと口の中で舌が触れる。
 その感触を確かめながら、村木は純子が処女でないことを確信した。
・純子は、しばらく家をあけ、久しぶりに戻ってきた主人にまといつく猫のように、村木
 の胸に顔をすりつけた。その甘え方が、奔放で愛らしく、やや大人びた蘭子に慣れてき
 た村木には新鮮であった。
・抱きしめ、接吻を交わしながら、村木は純子を床に横たえた。今度は村木は前より、い
 くらか落ちついて純子を観察できた。純子の体は、十七歳の少女とは思えぬほど発育し
 ていた。乳房や腰は、すでに成熟した女性のふくらみをもち、乳首には男の愛撫をえて
 きたしたたかさがあった。処女ではない。少なくとも数回の経験をもっていることは、
 その行為を怖れぬ態度からも察しがついた。
・この豊かさに反して、純子の体の反応は薄かった。余裕のできた村木は、プレイボーイ
 らしく、いくらかのテクニックを試みたが純子はのってこなかった。努力すればするほ
 ど、下から見詰められているようである。すべてを与えられ、自由に任せられていなが
 ら、村木には純子を掌中におさめたという感じはなかった。征服し支配したという感じ
 がないまま、今度も終わった。
・村木はこれまでの経験で女を自分の意のままに捕えるには、性的に満足させるのが最良
 だと思っていた。それで自分に固着させておけば、女はかなりの部分、自分の思うとお
 りになるものだと信じていた。だが今度の純子だけは幾分、勝手が違った。さすがのプ
 レイボーイもいささかお手あげである。
・しかしこのまま引き下がるのではプレイボーイの沽券にかかわる。実際、このままでは
 気が向きさえすれば純子はまたいつ離れていくか知れない。
・ともかく二度目の経験で、純子が処女でないが、まだどの男にも属していないことを確
 信した。 
・村木は仰向けの純子の横顔に不敵なものを見た。そこには一人の男とか、一つに愛には
 拘束されない、もっとしたたかな女が潜んでいるようでもあった。
・春から夏へ幾度か体をたしかめあい、話を交わしていながら、村木は純子が自分の意の
 ままになったという実感はなかった。何度か関係を重ねながら、純子の体は一向に燃え
 る気配はなかった。行為を素直に許し、受け入れるが、それだけのことで、それに自分
 が没入し、溺れるというところがない。男へ体を与えながら、乗ってこない。どこか醒
 めて男を見詰めているような部分があった。
・村木ははじめ、それは純子の体の未熟なためと思っていた。まだ稚く、開発されず感覚
 は眠っているに違いない。ゆっくりと根気よく回数を重ねれば、そのうち次第に芽生え、
 やがてその悦びに没入するようになる。そうなれば純子といえども、自分から離れて行
 かないはずである。
・だが純子はいっかな、その気配を見せなかった。遅い、というより芽生えない。あるい
 は芽生えるのを拒否しているのかもしれない。
・いずれにせよ村木が知った時、純子はずでに処女ではなかった。かなりとはいかなくと
 もすくなくない回数、噂の男達と関係があったはずである。しかもそのなかには浦部の
 ように、中年の男もいたはずである。それを思えば純子お悦びへの発育はあまりにも遅
 すぎた。
・感じないのか、感じまいとしているのか。いま純子を不感と片付けることは容易であっ
 た。だがそうだとすれば何故不感なのか。村木はそれが知りたかった。それが自分との
 時だけなのか。それとも他の男との時もそうなのか。自分の時だけであれば、これは明
 らかに敗北である。このままでは純子はまたどこかの男おところへ飛び去ってしまう。
・村木は焦った。それが浦部が純子と結婚したいと思ったのとは形の上では違うが、自分
 の手許に純子を捕えておきたいという点では同じであった。ただ浦部は結婚という形式
 で縛りつけようとし、村木は体への愛着で縛りつけたいと思っただけである。 
・純子が最後の釧路で殿村と逢ったからといって、それが純子が死ぬ時、殿村が偶然、恋
 人であったからにすぎない。純子は最後まで自分のものにならなかったように、殿村一
 人のものでもない。純子は誰かにしっかりととらえられることを望んでいながら、結局、
 どこにも属することができなかったのだ。

ある医師の章
・千田氏は純子が高校二年生の冬、二度目の自殺を図り、病院へ担ぎこまれた時の主治医
 である。その時以来、純子は千田氏にいろいろなことを相談に行っているはずであった。
・当時の千田氏は三十四歳で、大学の医局から協会病院の内科に来たばかりであったが、
 中堅の医師としてようやく脂ののりはじめてきた時期であった。 
・「私は純ちゃんは本当は恋をしたというより、むしろ恋に憧れていたのではないかと思
 うのです。憧れていたというより、飢えていたといったほうがいいかもしれません。恋
 の初めは純ちゃんは間違いなく、その相手を愛し、その瞬間は熱中していたと思うので
 す。だがそれは一瞬のことで長続きしない。やがて底が見えたように興が醒め、その恋
 に満足できなくなる。その意味で少しキザないい方をすれば、純ちゃんは永遠に恋のボ
 ヘミアンであった、そういえるかもしれません」と千田氏は言った。
・「純ちゃんと話しているうちに感じた、勘にすぎないものですが、愛に関して純ちゃん
 は、なにか普通でなかったような気がするのです」「純ちゃんは、いろいろな男性との
 恋とは別に、もう一つ、別の愛の形を持っていたような気がするのです」と千田氏は言
 った。
・「それが具体的にどういうことかときかれると、私は答えようがありません。ただ和足
 はなんとなく純ちゃんは、いわゆる男女の普通の愛とは別のなにかを知っていたという
 気がして仕方がないのです。噂のある男性達との愛は、愛には違いないけれど、雛鳥が
 時々巣から出て餌を啄んでまた戻ってくるように、本当はもっと別の大きな愛が手近に
 あったのではないか、数々との男性との愛はそのふと餌を啄みに行った、その動きに相
 当するものではなかったか、という気がするのです」と千田氏は言った。
・「体の関係は純ちゃんにとっては、あまり大きな問題ではなかったような気がするので
 す。純ちゃんは好きだから体を与えた、というより、逆に体を与えたらもっと熱中でき
 るのではないか、と思って与えた、そんなふうに考えられませんか」と千田氏は言った。
・「純ちゃんはあまりに若いうちにさまざまなことを経験しすぎて、それが消化できなか
 ったのかもしれません」「若くて感受性があればあるほど、知りすぎた心の傷も大きい
 と思うのです」と千田氏は言った。  
・「女性の愛は、初めての経験にかなり影響されると思うのです」という千田氏の話をき
 きながら、私はかつて浦部氏が、自分は純子にとって初めての男ではない、と言ってい
 たことを思い出していた。浦部氏を知る以前というと、純子は十四歳の少女になる。そ
 れ以前に果たして純子がそんな性の体験をもつことがあったのであろうか。
・「ただ愛に関しては、純ちゃんは可哀相な女性だったような気がするのです」「十五、
 六歳の時から恋をして、体を投げ出しても、そこに満足しきれない虚しさみたいなもの
 を感じていたとしたら、やはり同情に値するでしょう」と千田氏は言った。
・「正直いって初めて診た時、これが十七歳の少女かとびっくりしました。顔はあどけな
 かったけれど、乳房や腰の発育は完全に大人のものでした」と千田は言った。
・「もう過ぎたことですから正直にいいますが、私も彼女に惹かれていました。たとえ肉
 体的に処女ではないということがわかったにしても、三十半ばの男にとって十七歳のぴ
 ちぴちした体が魅力的ではないわけはありません。もっとも若くて可愛い女性というの
 は病院にはたくさんきますが、純ちゃんのように話が面白く、しかも頭の鋭い子はいま
 せんでした。純ちゃんは多分、私のそんな気持ちを知っていたと思うのです。一つこの
 なんでも識ったふりをする中年の医者を困らせてやろうと思ったのかもしれません。」
 と千田氏は言った。  
・「私と純ちゃんの間は愛し合うというより、友達というか、信頼しあった関係のように
 思うのです。たしかに、純ちゃんには身体を許し合ったさまざまな男性がいたし、その
 人たちのいく人かは私も知っています。しかし私のようにある距離を置き、互いに見詰
 め合っていた関係のほうが、むしろ親しく、そして本当のところを知り得たような気が
 するのです。これは負け惜しみではなく、素直にそう思うのです」と千田氏は言った。
 
あるカメラマンの章
・殿村知之が東京を離れ、札幌に向かったのは昭和二十六年の三月、すなわち、時任純子
 が高校三年生の春を迎えようとしている時だった。
・その一か月後の四月に、彼の弟の康之は東京の私立の名門であるK高校を中途退学して、
 と札幌高校に編入学してきた。
・兄の知之は、弟の康之が中退する一年前、東京のT医科大学の三年生の時に、左翼運動
 にくわわり深入りした挙句、大学を中退し、その後、左翼グループのオルグとして、東
 京から札幌へ乗り込んだのである。 
・康之ははじめから一流大学に入って一流企業に就職するといった平凡なことを望んでは
 いなかった。そんなことより彼が望んだのは自由に気儘に生活することで、型どおりに
 すすむ者達をむしろ軽蔑していた。
・康之は気の合う仲間達を誘い合い、同人雑誌をはじめた。雑誌の名前は人間の原点に戻
 るという意味から、「青銅文学」と名付けられた。この雑誌に純子がくわわったのは、
 この年の六月の半ばであった。それは純子がすすんでくわわったというより、昼間部の
 天才少女として盛名高い純子を、康之達が積極的に誘った結果であった。
・実際にこれは確かに効果があった。純子が入ったことで昼間部の生徒達がこの雑誌に注
 目するとともに、純子の親友であった宮川怜子も同人にくわわった。 
・康之部屋は八畳間で、窓際に座り机が一つとそれに向かい合って小さな洋箪笥が一つあ
 るだけで、あとはなにもなかった。だがこの殺風景な部屋に、一か所だけ、不釣合なと
 ころがあった。それは坐り机のある角から押入れにかけての壁面にぎっしり積み上げら
 れている本の山だった。
・本棚はなく、その本は畳から平積みに背を見せて重ねられ、二、三十冊ある山が五つも
 六つもあった。他に崩れている本もくわえたら、全部で百冊は優にこえていた。数は必
 ずしも多くはないが、そのほとんどが外国のもので、それも大半がきき慣れない作家の
 ものだった。
・地方のオルグ活動にあけくれていた殿村知之にとって、純子の存在は一服の清涼剤であ
 った。瞬きもせず一点を見詰める大きな眼、少女にしては淫らさをふくんだ、やや厚め
 の唇、感受性豊かそうな白い顔、それらはと殿村にとっては、新鮮で好ましいものだっ
 た。
・東京でオルグ活動のかたわら、何人もの女性とかかわりあってきた殿村にとって、地方
 の画家や新聞記者の存在などさして問題ではなかった。問題は純子自身である。
・一度の邂逅で、殿村は純子が自分に関心を抱いているのを見抜いていた。ラディゲの話
 を聞く時、純子は好奇心と尊敬のいりまじった眼差しでこちらを見た。この関心を土台
 に近づけていけば、純子を彼等から奪うことは簡単である。
・殿村は中学生のころから、ずいぶん小説を読んだが、どれも乱読で、文学を系統的に学
 んだわけではない。大学は医科大中退で文学部ではなかった。しかし読んだ量では文学
 部の連中にも負けない自信がある。それにくわえて活動家としての弁舌の巧みさもあっ
 た。あまり小説を知らぬらしい純子を感服させるくらい朝飯前だった。
・殿村の喋っている間、純子はほとんど口をはさまず、一方的な聞き役であったが、飽き
 た様子はなかった。
・話し出すと、殿村は止まらなくなるところがあった。自分で自分の話に酔ってしまう。
 途中から殿村は自分は東大を出て、大手の出版社に勤めていたが、思想的な自由を求め
 て北海道まで来た、といったことまでしゃべってしまった。
・実際、以前彼が東京で出版社に勤めていたことや、自由を求めて北海道に来たことは事
 実であった。だが来た本当の目的は党のオルグ活動であり、東大を出たというのは嘘で
 あった。調子にのったとはいえ、それはあきらかに悪のりである。
・だがその嘘は純子を惹きつけるには効果があったようである。東大出だといった時、純
 子は驚いたように改めて目を見張った。 
・たしかに純子にとって、殿村のようなタイプの男はこれまでになかった。外見からいえ
 ば、浦部は実直だが野暮ったい田舎の画家だし、村木はハンサムなだけの地方記者であ
 った。千田はよくも悪くも良識の限界にとどまっている医師でしかなかった。それにく
 らべ殿村は、なにか破天荒の人を惹きつける熱っぽさがあった。しかも目鼻立ちのはっ
 きりした精悍さにくわえて、名門育ちの東大出だという。美男好みで意外に権威弱かっ
 た純子が、ひきつけられるのも無理はなかった。
・知之は弟の友達である純子をアパートに連れ込むことに、格別、罪の意識はなかった。
 たしかに康之や梅津なども純子に憧れているようであったが、それが恋かというと疑問
 である。彼等は純子の周りを取りまいて、騒いでいるだけで、積極的に自分のものにし
 ようとしている気配はなかった。  
・「好きだ」殿村は一言いうと、純子を抱き寄せた。男らしく、堂々と宣言して抱くのだ、
 といった昂ぶった気持ちだった。
・一瞬、純子は体を退いたように思ったが、すぐ自分のほうから殿村の腕のなかに体を投
 げだしてきた。見た目より純子の体は肉づきがよく、丸やかであった。
・やわらかく、張りのある純子の体を抱きながら、殿村はそこがアパートの一室で、弟が
 いつ帰ってくるかも知れない危険な状態であることも忘れていた。 
・すべてを終えて、殿村が起き上がったのは、それから三十分ほどあとだった。明かりを
 つけ、醒めてみると、部屋のなかは雑然として殺風景だった。窓側の一隅には相変わら
 ず本が積み重ねられ、まわりに座布団が散らばっていた。
・純子は殿村が起きたと知ると立ち上がり、部屋の片隅で無言のまま下着をつけた。
・「無茶して悪かった」殿村は純子が着終わるのを待って髪を撫ぜた。だが純子は、格別
 悲しんだり、悔いたりする様子もなかった。着終わると初めて大きな眼で、まっすぐ殿
 村をみつめていた。
・この日から二人は狂ったように逢いはじめた。
・殿村は純子の性の欲望が薄いのをすぐ気がついていた。二度目から、彼は純子を熱中さ
 せようとつとめたが、その瞬間、軽く眉を顰め、上体を反らすだけで、それ以外、反応
 らしい反応はほとんどなかった。終わってから明るい声で、「もういいの?」と尋ねる。
・殿村はそれをきかれる度に、自分の熱中した作業が、純子に見詰められていたような気
 持ちにとらわれた。 
・これまで殿村は、数人の女性と関係していたが、こんなに性に淡泊な女性にぶつかった
 のは初めてであった。すべてを脱ぎ捨てて男を受け入れていながら、それが純子になん
 の影を落としていないようである。
・しかしだからといって抱かれるのを嫌がっているわけでもない。純子は殿村が求めれば
 いつでも許したし、夜道など二人で歩いている時、むこうから突然「抱いて」とせがん
 でくることもあった。接吻をして抱きしめると、眼を閉じてじっとしている。舌を口の
 なかにさしこみ、身悶えする。そのくせ行為だけは淡泊で冷やかであった。
・殿村は純子のこうした態度を、年齢が若くて未熟なせいだと思った。本当はすべてに対
 して背伸びをしているのだ。そう思うと行為の冷やかさも、話を理解しようとする熱っ
 ぽい眼差しも、かえって好ましく、可憐なものに思われた。 
・殿村は山村工作隊員として釧路から一時間入った鶴の生息地で有名なK村に入った。殿
 村に与えられた任務は、そこにある左翼系の診療所で医療に従事しながら、山村の人々
 に接触ことであった。
・患者の病気は、高血圧とか腰痛といった、いわゆる農夫症が多かったが、他に湿疹や切
 り傷、人工中絶といったものまで種々雑多であった。殿村は大学を中退してからも、千
 葉にある同じ系列の病院に行って手伝ったこともあるので、虫垂炎の手術や人口中絶程
 度のことまでは、自力でやることができた。 
・途中から学生運動に走り、大学をやめてしまったが、もしそのまま続けていれば、彼が
 かなりの名医になったことは疑いなかった。
・この診療所に警官が現われたのは、十二月には珍しい大雪のあった日の昼前であった。
 年配の刑事が警察手帳を見せ、殿村へ捜査令状をつきつけた。礼状は、医師法違反と不
 法医療行為容疑の二つであった。
・逮捕されたことに殿村は驚いても、憤慨してもいなかった。自分の行為が医師法違反で
 あることはすでに承知していたし、そういうことをやりながらオルグ活動をしている以上、
 捕まるのは時間の問題だと思っていた。
・それより殿村にとって気になることは、これを知った時の純子の気持ちだった。
・純子は殿村の男っぽさと、政治、経済、文学、あらゆる面にわたる知識の広さに惹かれ
 たようだが、その裏には、名門育ちの東大出身者という名前に惑わされている部分もあ
 った。 
・純子がそうした名前に、割合弱いことは、殿村自身が一番よく知っていた。だまされて
 いたのを知って純子は怒るだろうか。あるいはあきれはてて軽蔑するだろうか。底冷え
 する留置場で殿村はいまさらのように、純子が自分のなかで大きな位置を閉めているの
 に、気がついた。
・殿村はいま純子の最後に見せた笑いを思い出す。その顔は笑っていながら、心の底から
 笑っていない。笑おうとして笑いきれぬ、燃え尽きぬ淋しさがその顔に滲んでいた。
・あの時、純子は死を決意していたとは思えない。決意していたのならもう少し、それら
 しい態度なり、言葉を残していくと思う。死を考えていたのなら、あんなお金はもって
 こないと思う。 
・だがそれにしてもあの淋しげな顔はなんであったろうか。経歴を偽ってまで体を奪った
 男に失望したのか。愛に飽きたのか。それとも自分自身がいやになったのか。あるいは
 そのどれでもないのか。それも推測の域を出ない。
・ただ確かにいえることは、その眼が、すべてを見果てたように醒め、そして最後に間違
 いなく殿村を見て、雪のなかに消えていったという事実だけである。

蘭子の章
・蘭子は純子の三つ上で、純子が十七歳の高校二年生の終わりに単身上京し、以来ずっと
 東京に住んでいた。
・私は眼前に蘭子を見ながら、ふと、もし純子がいままで生きていたら、と考えた。もし
 生きていたとすれば、純子は今年三十八歳になっているはずであった。蘭子とは三つ違
 うが、四十前後の中年の女性であることには変りなかった。
・正直いっていまの時任蘭子は、きわ立って美しい存在ではなかった。それは若い女性と
 比較してということではなく、中年の女性として、ごく一般的に見ても目立つ存在では
 なかった。
・だがかつての少女達のなかで、純子は間違いなくきわ立った存在であった。五百余名い
 た女子生徒のなかで、純子の美しさは群を抜いていた。いや単に学校だけでなく、札幌
 という街にいた少女達のなかで、時任純子ほど華麗な存在はなかった。
・「あたしも早く死ねばよかった」ぼんやり私が、そのことを考えている時、蘭子がつぶ
 やくように言った。それには生き延びたことへの悔恨というより、若くして死んだ純子
 への妬みがあった。愛惜とともに憎しみに近い感情がちらついていた。
・純子とともに美しさを喧伝された蘭子として、それは当然のつぶやきだったかもしれな
 い。過去はともかく、現実には、若くて死んだ者が勝ち、必死に生き延びた者が負けて
 いた。 
・これはあきらかに不合理ではないか。努力らしい努力もせず、ある勢いにのって開花し
 た者が、その盛りで消えたが故に、懸命に生き延びた者に勝つとはおかしい。これでは
 勝手気儘に過ごした者が勝ちだということになりはしまいか。
・蘭子にはあきらかに、純子に先立たれてからの生は余分だった、という意識があるよう
 だった。それははっきりは口には出さないが、言葉の端々に滲んでいた。
・妹に見事にしてやられて、姉は死ぬタイミングを失ってしまった。その諦めと虚しさが、
 二十年経った蘭子の表情になお鮮やかに残っていた。 
・蘭子が純子を自分にとってかけがえのない仲間だと感じたのは、彼女が幼稚園に入った
 五歳のころからであった。この時、蘭子は自分達が子供であり、とくに五人兄妹のなか
 の女二人として、密接に助け合い、協力していかねばならないのだと感じていた。
・これは格別、珍しいことではない。年齢や育てられた環境の近い姉妹なら、誰でも考え
 る一種の同類意識である。 
・だがこの姉妹はこの連帯感がいささか強過ぎた。そしてこの強さを促した一つの原因は、
 彼女の父の存在であった。
・父は市の教育委員までした高名な教育者であったが、それだけに家庭では厳しい父親で
 あった。やや独善的な横暴さも含まれていた。
・もっともこれは一方的な横暴というより、子供の教育に理想を追い過ぎた結果でもあっ
 たが、幼い子供達には、父はただただ怖ろしい絶対者で、母はそれにかしずく無力の存
 在、という印象ばかりが強かった。 
・蘭子が床のなかで、純子としっかり抱く合うくせがついたのは、ほぼこの頃からであっ
 た。それもはじめは、蘭子が抱き寄せ、純子が頭を寄せてきたのかもしれない。発端は
 ともかく、途中からは逆に純子が抱き寄せたりしながら、互いに寄り添い、手足を絡ま
 せて眠るようになっていった。
・寝る時、二人はともにパジャマを着ていたが、暑い夜は前をはだけ、裸同然で抱く合う
 こともあった。純子の肌は白いというよりやや蒼ざめ、すべすべして心地良かった。
・一人で寝る女の子が、横に縫いぐるみの人形やペットを置くように、蘭子は純子を抱き、
 純子は蘭子に寄り添って寝た。 
・こうした夜を繰り返すうち、ある夜蘭子は突然、純子に一人の女性を感じて狼狽した。
 それが純子が女学校にすすんだ十三歳の秋だった。何気なく抱き合っている時、妹の胸
 に、あるたしかなふくらみを感じて思わず身を退いた。
・なにかいけないことをしている、といった罪の意識と、いやあな感じが同時に蘭子の脳
 裏を掠めたのである。
・蘭子がはっきりと、二人の間に、姉妹以上の、ある親しさを感じはじめたのは、それか
 ら一年経った、純子が十四歳の秋だった。
・それは温まったところで、そろそろ抜け出そうとする猫の仕草に似ていた。蘭子は純子
 が布団から顔を出すのだと思った。顔を出し、新しい空気を吸うのだと思った。だが、
 次の瞬間、蘭子は突然右の乳首に、ある優しい感触を覚えて、身震いした。
・蘭子は純子の頭を払い除けようとしたが、離れない。純子のやわらかく、温かい唇がゆ
 っくりと乳首をとらえている。それはどこかむずがゆく、甘い感触であった。
・やがて純子が顔をあげ、悪戯っぽく笑った。それを見て蘭子ははじめていま受けていた
 行為の恥かしさに気がついた。  
・「馬鹿ねえ止めて」「でもよかったでしょう。今度はお姉ちゃん、あたしにして」純子
 はそう言うと、大胆に胸を拡げた。蘭子は一旦躊躇し、それから薄く色づいた乳首へ唇
 を触れた。 
・純子はじっと蘭子のなすに任せていた。時々蘭子の肩に当てている手の指先に力を入れ
 るが、それだけで声は出さなかった。やがて胸に埋もれていた純子の乳首は頭を擡げ、
 唇に軽い抵抗を残して左右に揺れた。
・「もういいわ」その声で蘭子が止め、顔をあげると、純子は紅潮した顔をいきなり蘭子
 の胸におしつけてきた。
・安斎教師は、三年前に北大を出て、道立女学校の理科の教師になった二十六歳の青年で
 あった。背丈はあまり高くはないが細っそりして、清潔な感じがする。蘭子が卒業する
 一年前に来たので、蘭子は直接教わってはいないが、そのころからすでに、その白皙の
 整った風貌に恋いこがれた女生徒が何人かいた。
・当時、蘭子は女学校を出て、駅裏の繊維会社に勤めながら、小説家になることを夢見て
 いた。
・正直いって蘭子は自分に果たして小説を書く才能があるかどうかわからなかった。まだ
 まとまったものは一本も書いていなかったが、時に偉大な才能があるように思い、時に
 はまったくないようにも思う。まだ自分で自分が掴めなかった。
・蘭子の勤めている繊維会社の社長の駒田は、以前、H新聞社の記者であったことから、
 蘭子はこの駒田に、自分の希望を何度か話した。駒田は蘭子を励まし、まず詩をつくる
 ことをすすめてくれた。
・蘭子は自分が小説家になる希望を抱いていることを、家でも、父をはじめ、兄弟皆に、
 はっきりと宣言していた。父は人一倍躾けの厳しい人であったが、かつて小学校の国語
 教育に独創的な見解を発表した人だけに、蘭子の希望には理解があった。
・蘭子はそうした面で父の理解を見越したうえで「芸術に徹する」という理由において、
 実生活での自由を得ようと考えていたのである。 
・駒田の秘書的な仕事をし、文学を語らいながら、蘭子は少しずつ駒田に深入りしていっ
 た。十五歳も年上であったが、蘭子は駒田に優しい父の像も描いてもいた。
・このころ、純子も安斎に熱中していた。
・二人で別々の男を恋しながら、毎夜、抱き合って眠る習慣だけは続く。それはまた男へ
 の思いとは別の世界である。 
・だが純子のほうは、あまりうまくいってないらしい。蘭子は純子が、江原という女性に
 負けまいとして、痛みに耐えて鼻を挟んでいるのを知っていた。なんでも打ち明ける純
 子が、安斎とのことだけはあまり言わない。それだけに純子は苦しんでいるようである。
・蘭子は、いますぐにも安斎のところに行って、お前さん、本気に愛されているんだよ、
 と言ってやりたい気がした。 
・これでは男があまりに鈍感すぎる。だがそれにしても、このころの蘭子はまだ、純子の
 安斎への気持ちを軽く見ていた。
・好きだとはいえ、純子の安斎を求める気持ちは少女期のスターをもとめるそれと変わら
 ない。ただの憧れだと思っていた。
・純子が理科の実験室で昇汞水を飲み、自殺をはかったのは、その年の秋であった。放課
 後、一人で実験室に忍び込み、薬品棚から取り出して、飲み込み、そのまま床に突っ伏
 しているのを巡回の守衛が見つけたのである。
・間違いなくこの自殺未遂は安斎教師の眼を自分のほうへ惹くために、純子の企んだ事件
 であった。そのことは蘭子にはすぐにわかったが、その効果というと疑問だった。この
 事件で、安斎教師はたしかに驚き、病院に駆けつけたが、それだけのことで、江原とい
 う女生徒との間が崩れるほどのことはなかった。
・結局自殺を図った少女の気持ちは誰にも理解されぬまま純子は退院した。完全に純子の
 一人相撲であった。
・純子の自殺の原因については、いろいろ取り沙汰されたが、結局、思春期の娘にありが
 ちな、感情の揺れということで、片付けられ純子の両親もそれで納得していた。
・純子の悲しみを本当に理解しているのは、蘭子だけだった。十四歳で早くも致命的な失
 恋を経験し、自殺まで図った妹が不憫である。蘭子は極力、安斎教師に関わることは話
 題にしないことにした。 
・純子は、小学校時代から絵が上手で、子供道展などにも入選していたが、女学校二年生
 の時、父に油絵具一式を買ってもらってから、描くものが急に大人っぽくなっていた。
・純子は「いま、平川太平に絵を習っている」と言った。平川太平は女学校の図画の教師
 で、蘭子も習ったことがある。生徒達は彼の名前の下だけをとって太平と呼び捨てにし
 ていた。「べつに頼んだわけでもないのに、素質があるから是非教えたいって、向こう
 からいってきたの」と純子は言った。
・平川は、純子が安斎教師にふられて参っている時に、助けてくれたという。それ以来、
 急に馴れ馴れしく寄ってきたという。そして平川は純子を定山渓の奥へのスケッチ旅行
 に誘ったという。蘭子が気をつけたほうがいいと言うと、純子は「あんなこと、それほ
 ど大切なことだと思っちゃいないんだもん」と声を低めて言って小さく笑った。
・純子は覚えはじめた煙草に火をつけた。煙たそうな眼を顰める。その子供っぽい横顔を
 見ながら、蘭子は妹が少しずつ自分の手に届かないところへ離れはじめているのを感じ
 た。 
・蘭子はいつか、こんな時がくるような予感がしていた。妹が自分の手元を離れて男に抱
 かれる、それは仕方がないと納得しながら、来るのはまだ先のことだと思っていた。
・「アンチョロのやつ、結婚するんだって」ふと純子が思い出したように言った。
・蘭子はもう、純子が身を任せた男のことはどうでもいいと思った。それより今日、身を
 任せる気になった純子の気持ちが痛いほどよくわかった。  
・女学校三年の春だった。純子は絵を教わるのを太平から浦部に乗り換えた。
・たしかに自分を巡って争っている二人の男を等分に見ることは愉快かもしれない。だが
 こんなに若くして大の男を操ることを知った妹はどうなるのか。蘭子は妹ながらそら怖
 ろしい思いにとらわれた。
・「彼はあたしがアンチョロに失恋して参っている時に、ちょいと横から入ってきただけ
 だからね。一種の泥棒猫よ。それなのに接吻もさせてあげたし・・・」純子はそこで、
 かすかな笑いを漏らした。「むしろこちらでお礼をしてもらいたいくらいよ」
・ともかく純子の太平から浦部への乗り換えは成功だったようである。この秋、純子は道
 展に初めて静物画を出品して入選した。この時、入選者のなかで純子は最年少であった。
 しかもセーラー服の美少女ということで、新聞にもとりあげられた。 
・蘭子は妹の入選に驚き、喜びながら、一方でかすかな焦りも覚えていた。蘭子の望みは
 作家になることだった。
・上手とはいっても、女学生に毛が生えた程度だと思っていた妹の絵が、道展に入選し、
 一躍天才少女として、脚光を浴びていた。気づいてみると妹がすでに一歩先んじたこと
 になっている。
・十五歳で道展入選ということで、純子はたちまち小さな街の名士になったが、同時に一
 つの免罪符も得ていた。
・あれは天才的な少女だから一般の生徒とは違う。女学生として、多少行き過ぎたことを
 しても大目に見よう。そんな気配が学校にも世間にもあった。それに結核であることが
 純子の神秘さをさらに増した。
・もちろん父は叱ったが、「絵を描くためだ」といわれると黙らざるをえない。娘が芸術
 づき、ふしだらになることを怖れながら、その実、娘が有名になることに父は内心、自
 慢でもあった。
・純子は入選したことをフルに利用した。もはや怖いものはない。入選したことで名実と
 もに女学校のスターである。安斎教師から受けた傷は、この時、すでに癒えたように思
 えた。
・変身の一部始終を知っている蘭子は、その巧みさにあきれながら、さらに焦りを覚えて
 いた。このままでは妹に引き離されるばかりである。すでに人々は、あの天才少女の姉、
 という立場でしか蘭子を見なくなっていた。駒田との愛を重ねながら、蘭子は時々、一
 人で東京へ出ることを考えた。
・だがこの間も純子との夜の生活は、以前と変りはなかった。互いに泥酔し、疲れ果てて
 帰って来ても二人は抱き合って眠る。一日顔を合わせず、言葉を交わさなくても、夜、
 肌を合わせるだけで安心する。どういうわけは蘭子は純子と抱き合うことで、駒田と交
 わってきた血が浄化されるような気がしていた。それで少女時代の純粋さに返るような
 安らぎを覚える。
・この気持ちは純子も同じようだった。浦部か、他の男か、とにかく、男に抱かれてきた
 と思う時にかぎって、純子は激しく体をおしつけてくる。すり寄せ、体を藻掻けば、そ
 れだけ男の匂いが剥げ落ちるとでもいうように身悶える。そんな時、蘭子は懺悔をきく
 僧のように、純子を抱きしめたまま離さない。落ちつかぬふうに腕のなかで悶えるやわ
 らかい肌の抵抗を感じながら、蘭子はそのなかに男の匂いを嗅いでいた。
・蘭子はすでに純子と張り合う気持ちはなくなっていた。絵画と文学ではジャンルが違う。
 絵は才能さえあれば若くても発表し、伸びることができるが、小説はそうはいかない。
 特殊な天才はともかく、多くはある程度の生活体験がなければ書きこめない。たとえ一
 作認められても、あとが続かない。いまは、将来の飛躍のために体験の時期である。蘭
 子は自分にそういいきかせ、納得していた。だが、それも一つの負け惜しみであること
 に変わりはなかった。  
・蘭子は時々無性に自分に腹が立った。このままでは一会社の平凡な事務員で終わってし
 まう。その経営者の駒田に愛されているとはいえ、所詮は愛人でしかなかった。
・駒田は蘭子の十五歳年上で、経済力もある。そのかぎりでは安心できるし、我儘もきい
 てくれる。だがそれは老いた男が、若い女をひきとめるための手段にすぎない。駒田と
 いるかぎり、愛されている実感はあっても、目の眩むような緊張感はすでになかった。
・蘭子がH新聞記者の木村と知り合ったのは、こうして、駒田にかすかな倦怠を覚えてい
 る時であった。二人を紹介したのは駒田自身であった。
・蘭子は特別、村木を好きだったわけではない。村木は長身で痩せぎすで、男としては目
 鼻立ちが整いすぎていた。あまり美しすぎる男を蘭子は好きではない。ハンサムな男を
 見るとかえって警戒してしまう。    
・美男はたくさんの女がとりまく。そのなかの一人に自分はなりたくない。その男のペー
 スに巻き込まれ、追いかけるだけの女になるのはいやだ。その警戒心が男を遠ざけた。
・だがそれはよく考えてみると美しい男が嫌いなことにはならない。むしろ近づくと見境
 なく好きになりそうな不安があるから近づかない。自尊心を失ってまで男を得たいとは
 思わないだけである。  
・村木は美男を鼻にかける様子はなかった。淡々と近づき、気づいた時、蘭子は抱かれて
 いた。それと気づかぬようにリードし、いつのまに身近な男になっている。こうしたや
 り方は、村木がかなりの遊び人であることを証明していた。
・あとできいてみると、村木ははじめから蘭子と駒田との関係も見抜いていた。それを承
 知で村木は蘭子を口説いていたらしい。 
・蘭子が村木と知り合って一か月も経たないうちに、純子は二人のことを察したらしい。
・蘭子は家に戻ると寝室に入りストーブをつけ、温まるのを待ってベッドに入った。午後
 十一時を過ぎていたが純子はまだ帰っていない。スタンドをつけ、本を読みはじめたが、
 熱中できない。考えてみると、今日の村木の態度は普通ではなかった。蘭子を抱かず、
 ちらちらと窓の方ばかり気にしていた。もしかして、誰かを待っていたのではないか。
・蘭子は村木で満たされなかった思いを、純子の体にぶつけたかった。思いきり純子を抱
 きしめればいまの不安は消えるかと思った。  
・のろのろと床に入ってくる純子を、蘭子は待ちかねたようにとらえた。肩口を引き寄せ、
 腕のなかに抱え込む。その瞬間、蘭子は妹の体がいつもと違うのを感じた。純子の体は、
 どこか怯えたように堅く、緊張している。 
・蘭子はさらに抱き寄せ、顔を純子の胸元にすりつけた。蘭子が純子の体のなかにある、
 別の匂いを感じたのは、その時であった。本当にそういう匂いがあったのか、あるいは
 その時だけ臭覚が異常に発達していたのか。いま思い返しても蘭子にはわからない。だ
 が間違いなく、それは一人の男の匂いであった。 
・「村木さんなんでしょう」大きな瞳で、純子はうなずいた。それからあと、どうしたか
 蘭子はよく覚えていない。ただ力のかぎり純子の肌を打ち、押さえつけ、最後に抱きし
 め、力果てたのを覚えている。 
・どういうわけか、蘭子は純子を責める気にはなれなかった。考えてみると、蘭子はいつ
 か、村木も純子に奪われるような予感を抱いていた。それは駒田に盗まれ、浦部、千田、
 田辺と、さまざまな男達がたぐり寄せられたように、純子の傾いていくのを見るうちに、
 自然に生まれてきた予感なのかもしれない。そしてやがて奪われるという予感のうちで、
 蘭子は村木に愛堕を燃やしていたかもしれなかった。 
・正直いって、蘭子には、妹にはかなわない、という敗北感がいつもあった。それは周り
 の人が認めるうちに、いつのまにか身についた諦めでもあった。この諦めがあるから、
 この時も、怒る気になれなかったかもしれない。 
・それともう一つ、純子がいかに男に近づいても、心からその男を愛していないことを蘭
 子は知っていた。 
・それにしても、それからの一か月は蘭子にとって忘れられない辛い期間であった。姉と
 妹は同じ男に抱かれる。そして抱かれたあと、今度は二人だけで抱き合う。村木との関
 係が表立った行為なら、あとは二人だけの秘められた秘儀だった。二人は互いの体のな
 かに一人の男の匂いを嗅ぎ、それを確かめることで燃え、さらに強く抱きしめる。男と
 なにをしてきたか、それを想像し、憎しみ合うことで、姉妹はようやく二人だけの世界
 に飛びこめる。 
・純子が高校二年生になり、夏がきた。この夏休み、純子は浦部と積丹に一週間のスケッ
 チ旅行に出た。留守の間、蘭子は一人になってほっとしたが、それも二日までで、三日
 目からはもう純子のいない夜が物足りなくなった。七日目に純子が戻ってくると、二人
 はむさぼるように抱き合った。 
・なにをどうするというわけでもない。ただ無暗に抱き合い、接吻を交わす。やり方に順
 序とか、手段があるわけではなかった。その時、その時に、気の向くままに抱き合い、
 身体をすりよせる。腕の痺れるほど抱きしめ、呼吸を止める。勝手気儘なことを順不同
 にやりながら、二人は疲れ果てるまで続ける。 
・「アネキ、男ってどうしてあんなに欲しがるの」「お姉ちゃんの彼そう?」「多分、男
 は女ほど我慢ができないのね」「男の人はあんなにまでして、なにがいいのかしら」
 「あんたはよくない?」「ちっとも、あんなことに一生懸命になっている男を下から見
 ていると、可笑しくなっちまう」純子はまだその快さを知らないのであろうか。蘭子は
 ふと、純子の稚い体が痛ましくなった。「そのうち、あなたも快くなるかもしれないわ」
 「いいの、あたしはならなくてもいいの」珍しく純子は真剣な眼を向けた。
・「彼とは完全に手を切るべきよ」「だって、彼はもう用事はなくなったでしょう。お金
 はもらったし、愛は醒めたし、それに彼の会社、いま経営不振だっていうじゃない」
・たしかにこのところ駒田の会社は、はかばかしくなかった。元来が新聞記者出身で商売
 っ気がなかったのが、ひょんなことから会社をはじめただけのことである。それも戦後
 のどさくさの時は、なんとかやってこれたが、世の中が落ちつくにつれて難しくなって
 きていた。繊維業界にしても資本力のある大手が次第に力をえて、中小は次々と吸収合
 併されていく。   
・このごろでは金策にかけずり廻り、その日その日の手形を落とすだけで精一杯で、いま
 までのように余分の小遣いをくれることもなくなっていた。 
・純子のいうことは的をえていた。駒田への愛はすでに色褪せ、利用価値もなくなってい
 た。これ以上付き合っていても、自分を殺すばかりである。だが、といって、いま捨て
 るのはあまりに身勝手すぎる。純子は第三者だから簡単に言えるかもしれないが、蘭子
 にとっては少なくとも一時期、自分の青春をかけた愛人である。駒田の側からいえば、
 いまが一番、蘭子の愛を必要としている時に違いない。 
・駒田の会社はさらに経営が困難になっていた。春まではなんとか切り抜けてきたが、い
 までは社員の給料を払うのさえ難しく、不振をききつけて寄せてくる債権者達から逃れ
 るのに駒田は精一杯である。もはや倒産は時間の問題であった。
・会社の不振とともに、駒田自身の魅力も急速に失われてきた。かつては初老の落ち着い
 た、頼りがいのある人と見えたが、老いと、優柔不断だけが目立つ。愛が醒めてみると、
 蘭子にはそれはただの嫉妬深い老人としかうつらない。  
・「本当をいうと、あたしあの人からお小遣いをもらっていたの」と純子は言った。蘭子
 にとっては、まさに寝耳に水であった。二人がそんなふうに、逢っているとは思ってい
 なかった。もっとも逢ったからといって、純子が駒田を好きだったとは思えない。純子
 は愛情で男に近づいていく女ではない。それは一緒に生活してきた蘭子が一番よく知っ
 ている。それに本当に駒田と寝たのであれば、純子の肌の匂いからわかるはずだった。
・問題は駒田である。自分をあれだけ好きだと言っていながら、裏で妹にお金をやってい
 た。たとえ体の関係がなかったとはいえ、ただの好意からだけとは思えない。そこには
 やはり野心があったのではないか。そう思うと蘭子ははっきりと駒田と別れる決心がで
 きた。 
・蘭子が田辺という少年のことを、具体的に純子の口から聞いたのは、この秋の終わりで
 あった。「彼、すごく初心なの。円山の家まで送って別れる時、あたしが手を握ったら
 震えていたわ」初めてのデートのあと、純子は少年の印象をそんなふうに話した。
・駒田には前から告げようと思いながら、その実、別れることは言い出しかねていた。今
 度は、と決心しながら逢うとにぶって言い出せない。それが今度だけははっきりと言え
 た。なぜ今度は言えたか。純子の自殺未遂を目撃して、蘭子の気持ちが昂ぶっていたの
 か、あるいはそれでようやく駒田より純子が必要だと知ったからかもしれない。
・駒田がMデパートから飛び降り自殺をしたのは、それから一週間経った二月の末であっ
 た。霙が一日中降り続いた火曜日の午後であった。   
・蘭子はそれをラジオにニュースで知り、すぐMデパートに駆け付けた。だがそこには遠
 巻きに縄がはり巡らされ、解けはじめた舗道に血痕が残っているだけで、死体はすでに
 なかった。 
・蘭子は眼を閉じ、頭を抱えた。駒田を死に追いやったのは自分である。怖ろしいことを
 した。罪深いことをしたものである。蘭子は自分のやったことにあきれた。
・純子はしばらく雨の窓を見ていたが、やがて小さくつぶやいた。「少し、殺すの早すぎ
 たかな」アドルムの副作用で血圧が下がり、蒼白になった顔で純子は平然と言った。
・駒田の死後、蘭子は家にこもりきっていた。妹の前では強がりをいい、駒だの死を冷た
 く突き放してみたものの、一人になると、自分が殺したという自責の念にかられる。あ
 あまで言わなくても、もう少し優しい別れ方があったような気がする。妹の冷酷さに負
 けまいとして、柄にもなく冷淡さを装った自分に愛想がつきた。   
・しかし、だからといっていつまでもぼやりしているわけにもいかない。覚悟をしていた
 ことだが、駒田に死なれて蘭子は改めて働き場所を失ったことを知った。駒田が辛うじ
 て持ちこたえていた会社だから、彼が死んだ今となっては再建は覚束ない。
・木村を振り切って身寄りのない東京へ単身上京する勇気もない。気持ちの定まらないま
 ま、駒田の会社はつぶれ、蘭子は失職し、ぶらぶらと日を過ごした。 
・三月の半ば、蘭子はようやく東京へ行くことを決めた。これという当てはない。ただ、
 もと駒田の会社にいた人が東京の出版社に勤めているだけが頼りである。とにかくこの
 まま札幌にいては、純子の異様なペースにのせられるばかりである。
・東京に出てから、蘭子は純子のことは直接にはなにもわからない。ときたま思い出した
 ようによこす手紙で、想像するだけである。 
・一月十日、蘭子は一枚の速達の葉書を受け取った。謹賀新年のあとに「お姉ちゃんすぐ
 に帰って来て」と一行書かれていた。 
・純子が失踪したのは、一月十八日である。
・彼女は結局どうして死んだのか。それは彼女でないかぎりわからない。でも、多分、理
 由はなんにもなかったと思う、と蘭子は言いた。無理に理由をあげれば、ただ疲れただ
 けだったのだ。
・純子は、天才少女だといわれ、美しいといわれ、小悪魔だといわれ、それにいちいち応
 えて、疲れ果てたかもしれない。 
・純子は、自分以外に、好きだった人なんかいなかった。彼女と付き合った男達は、みな、
 それぞれ自分が一番愛されたと思っているようだ。 
・あの人は誰のものでもない。あの人はあの人だけのところへ自分一人でさっさといって
 しまった。そう蘭子は語った。 
 
終章
・蘭子を含め、これで私は、純子と親しかった五人の人々に逢ったことになる。それに私
 自身を含めると、ちょうど六つの方角から純子を見詰めたわけである。もし純子が水晶
 の結晶のように六面体であるならば、これで純子の実体は、すべて見透かせるはずであ
 る。 
・六つの眼は、それなりに異なった視点から純子を見ている。だが、いま六人を廻り舞台
 のように巡り終えた結果、純子の全貌を知り得たかというと、必ずしも、そうはいいき
 れないような気がする。 
・少なくとも、私の一番きがかりであったこと、すなわち、純子が最も愛していたのは誰
 であったのか。そして何故、十八歳の若さで死んだのかという二点については、なおい
 くばくかの不明が残っている。
・正直言って、純子と別れてからしばらく、私は女性というものが、わからなくなってし
 まった。女性がなにか不透明で底深く、不可思議なものに思われた。
・もちろんこうした不可思議な思いは、男は女に、女は男に、ともに抱き、悩む部分かも
 しれない。それは経験とか、つながりの強さにかかわりなく、生きているかぎり、男女
 が永遠に抱き続ける不明なのかもしれない。  
・だが、たとえそうであるとしても、十七歳で純子のような女性と接し、ある漠然とした
 不信を抱いたということは、その後の私にとって小さなことではなかった。それはそれ
 なりに私にとっては忘れがたい、一つの傷でもあった。 
・この二十年間、時にふと、私が純子のことを思い出し、彼女の本当の姿を知りたいと願
 ったのは、単に純子への愛着というより、純子に受けた傷を癒したい、という願いから
 であったかもしれない。 
・純子との恋を思い出す時、私はその背後に必ず、二、三の男の影を見なければならなか
 った。私がどう思い出すまいとしても、それは否定しよのない事実である。極端ないい
 方をすれば、私は純子に弄ばれ、裏切られたのかもしれない。いっときの真剣さはあっ
 たにしても、恋の初めと終りはまさしく私の負けであった。 
・五人の人に逢い、純子の過去を尋ねる旅は、ある意味で私にとって加虐の旅であり、一
 方で被虐の旅でもあった。なぜならこの作業が、純子という女性に隠された、狡猾と、
 裏切りと、好色と、独善と、さらにもろもろの悪しき面をあらわにする作業でもあると
 同時に、その行程で誰よりも私自身が一番傷ついたからでもある。
・純子と一人の男とのつながりの深さを知るたびに、私はメスを揮う外科医のような緊張
 と、切られる患者の痛みを同時に覚えていたのである。  
・しかし、それにしても、二十年という歳月は、人々からあらゆる憎しみと怒りをとり除
 くものなのであろうか。 
・私は純子と親しかった四人の男性に逢い、それぞれの関係の深さを教えられながら、い
 つか、その四人のなかに、私と同じ痛みが潜んでいるのを知って安心し、やがてある親
 しみを覚えはじめていたのである。 
・純子の心のなかで、何人もの男達が等価値であった、とはいえないが、ともかく、純子
 が最後に男達の間を平等に廻ったという事実は厳然として残っている。そしてそのこと
 は、純子はどの男も同じように愛していた、という意味にとれなくもない。 
・いや、ここで愛していた、などというのは大袈裟すぎるいい方かもしれない。何人もの
 男達を平等に愛していたということは、いいかえると、誰も愛していなかった、という
 ことにも通じはしないだろうか。 
・もしかして、純子は誰も愛していなかったのではないか。恋に焦がれ、愛を求めていな
 がら、その実、愛に没入することはできなかったのではないか。 
・そしてさらに考えるうちに、私は一人の男性のことを思い返した。それは純子が女学校
 時代に教わった、理科の安斎教師のことである。何故ともなく、私は、純子が最も好き
 だったのは、理科の安斎教師ではなかったかと思ったのである。
・だがその考えも、落ちついて考えてみると少し無理があるそうな気がする。たとえ、そ
 の時、思い恋の痛手を受けたとしても、純子はまだ十四歳である。片思いにしか過ぎな
 い女学校時代の一人の先生への思慕が、それほど長く尾を引くとは思えない。
・いまのままの状態はそう長くは続かない。やがて若さは消え、奔放さや演技だけでは誤
 魔化しきれない。ある大人の世界が訪れる。 
・あの夜、純子は突然、その予兆を感じ、怯えたのかもしれない。
・もしかすると、純子は十八歳で死ぬことを早くから決めていたのかもしれない。決める
 とまでゆかなくても、漠然と、予想していたのかもしれない。どうせ短い一生だから、
 美しさの盛りのなかで絵を描き、恋をし、男達を愛し、捨てていく。短い一生を、長い
 一生に匹敵させるために純子は生き急いだかもしれない。
・恋することから自殺まで、純子はすべて計算のうえで、おこなったのではないか。それ
 が自分にとって最も有効で、好ましいことを知っていたのではないか。 
・考えるうちに私は純子が、類まれなナルシストであるように思われてきた。
・最後に雪の阿寒で死んだことさえ、自分を美しく見せるための演出ではなかったのか。
 そこまで考えて私はようやく純子の実体をとらえたように思った。
・さまざまな男達と愛しあったように見せて、その実、純子は自分しか愛していなかった
 のだ。純子は誰にも属していない。私はもちろん、浦部にも、村木にも、千田にも、殿
 村にも、蘭子にさえ属していない。終始、純子は純子であったのだ。