「愛」のかたち  :武田泰淳

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この作品は、終戦から3年後の1948年に発表されたものらのようだ。この作品は、実
際に作者が、百合子夫人と結婚する前にどっぷりと浸かっていた人妻との恋愛の体験をも
とに書かれているとも言われているようだが、終戦から3年後といえば、まだ敗戦の混乱
が続いていると思うのだが、この作品からはあまりそういう状況は感じられない。逆に、
敗戦から3年で、もうこういう「愛」について語る作品が出てきていたというのは、私に
は意外な気がした。

この作品は、性的な不感症の女性を題材にしたものである。この作品では、性的に不感症
な女性は特殊な女性だと表現されているが、この作品が書かれた当時は、一般的にそう思
われていたのかもしれない。
しかし、最近までに性に関するいろいろなアンケート調査結果などからわかるように、性
的に不感症だという女性は、それほど珍しいことではなく、特殊ではないということが明
らかされている。不感症である女性に中には、男性に気を使って、感じているふりをして
いる人も少なからずいるようだ。
この作品のように、性的に不感症な女性は、特殊だと決めつけること自体が、現代におい
ては、男性の一方的な思い込みであり性的蔑視であるとも批判されても仕方ないだろう。
とは言うものの、実際に自分のパートナーとなる女性がそういうケースだった場合、それ
に堪え、それを受け入れることができる男性がどの程度いるのだろうかというのも、素朴
な疑問である。
男性の側が、性的欲求がまったくない場合なら、このようなケースでも、あまり問題なく
パートナーとしてやっていけるのだろうが、普通の男性は生まれつき動物的な性的欲求を
持っているのが普通である。それを、精神的な「愛」だけで充分ではないかと言われても、
普通に男性にとっては、とてもそれ受け入れられないのが現実ではないだろうか。

危険な物質
・光雄は町子から「わたし、女ではないのよ」と打ち明けられた時、少しも驚きはしなか
 った。泣き声で、真剣になって、子供が泣く直前に示す表情で、彼の顔のすぐ下で訴え
 られても、光雄は心が冷えて行くことはなかった。むしろ温泉旅行が四回目である。そ
 の時になって、そんなに必死になって弁明する彼女の気持ちが解しかねた。
・「ね、そんなこと言っちゃ、いけないよ。そんな悲しそうな顔つきしちゃ、いけない。
 泣いちゃ、いけない。そんな必要ないんだもの、ね」なぐさめるというより、自分の気
 持ちをいつわらず伝えたい、自分の興奮、自分の熱情をこの場でそらされたくない切迫
 した状態で、彼は相手の身体をゆすぶりながら抱きしめた。
・光雄は自分でも、他人の心、ことに女の心の秘密を察しとれる、こまやかな想いやりは
 ないのだと考えていたし、その上その場かぎりの無責任と、一種の軽薄がどうしても抜
 けきれぬのをよく承知しており、一番充実した瞬間でさえ、あいまいなうす笑いが底に
 残るたちであるから、町子の肉体の悲しみについても、深く情愛をこめて思索したこと
 はなかった。思いもかけず、何の手数もなく、相手の方からさし出されたこの艶麗な生
 物に、自分には充分すぎる快楽をおぼえ、それによって自分勝手に、自分の世界に生き
 がいある色彩をそえているにすぎなかった。美しい町子が、このような特殊な女体でな
 かったら、夫もあり、光雄とは別にMという恋人もありながら、光雄の腕に身を投じて
 くるわけがない、その重苦しい意味をさとるようになったのは、はりか後のことであっ
 た。
・光雄がこの特殊な女である町子の相手として選ばれたことには、光雄自身が肉体におい
 て、性格において、特殊な男であることが原因していた。だが、終戦後の道夫には、た
 だその特殊な運命にしたがっているというだけの、無感動な状態があったのであった。
 男と女のまじわりを信じがたい物と考えるようになったのは、町子とのまじわりの特殊
 さにあるのであるが、それを特殊として怪しむのは、光雄は人間の肉体や精神の動きに
 ついて、何かすべての判断の手がかりを失ってしまっていた。
・永い独身生活で、光雄は性欲的に弱くなっていた。性欲の場で自分の生存を確かめるこ
 とがなかった。酔った夜、ロシア人の娼婦と床を同じくすることはあっても、男として
 の働きがあいまいで、朝起き出すときの女の白けた表情をみせられ、女と結びつくこと
 の不安定な自分を知らされていた。性欲が気まぐれで、永続性がなく、機能が決定的瞬
 間を持つことが少ないこと。それが自分の全人格、ひいては社会行動のすべてを決定し
 ているのではないか、と考えることもあった。 
・女と密着し、それと作用しあうことのない生活は、ひいてはひろく人間と密着し、それ
 と作用しあうことのない生活であった。人間同士の全身的まじわりにあずからぬことで
 あった。  
・それが光雄の執念うすい、よそよそしい、何事もいいかげんですます、情熱に欠けた人
 物と化しているのではないか。いやおうなしに欲望や、むりにでも行為したい情熱がな
 い場合、かえって人間は道徳倫理の壁さえ意識しないで暮らせるから、いつか非倫理、
 非道徳の人間となりおわるのではないか。それに、女に恋される程の容貌を持たない光
 雄は、女に愛されることを欲しても、自ら進んで野性的に近づくふみ切りを失い、酒だ
 け相手にするようになっていた。 
・そのようなあきらめはあるのだが、町子に愛されるMをつくづく羨ましく思い、時たま
 南京路などであいびきする二人の姿など見かけると、酒屋雑用で忘れたものが、一瞬、
 胸をつくあげて来た。自分が好きな女に、決定的に愛されていないことは、そのような
 彼にも、淋しいことにちがいなかった。
・終戦後、町子の夫が徐州から上海へもどってからのMの悩み、町子の苦しみ、それから
 夫の動静など、光雄は遠くから冷静に眺めていた。夫は別としても、Mと町子の内心の
 動きには、男女間の心理に疎い光雄にもそれと察せられるものが多かった。しかし夫婦
 来後の三人の行動には、どうしても常識では判断できぬ異常なものがひそんでいた。そ
 の異様なものの根本には、その頃まだ光雄の夢にも知らなかった、町子の肉体の秘密が
 うずまくっていたのだった。
・けわしい、殺気だった場面もあったが、結局、三人は、ほかの誰よりも親しく交際して
 いるのであった。町子と夫とMが三人で、手をつないがんばかりに路を歩くのも見かけ
 られた。Mはほとんど毎日のように、町子たちの部屋に入りびたり、狭い場所で泊まり
 込んだりしていた。そんな様子を見るにつけ、光雄は「Mの気持ちはよくわかるが、町
 子の夫の気持ちはサッパリわからない」と考えていた。
・その日、夕暮の路を見送られた彼女は、光雄に、二人で温泉へ行きましょう、とすすめ
 た。「何を考えてるの?こわいの?」と彼女はたずねた。「お金なら、わたし持ってる
 わよ」   
・そのような口のきき方をする彼女には、思いつめた風はあっても、大胆な、あばずれた
 という感じは持てなかった。むしろ追いつめられた淋しさが感ぜられた。もりあがった
 花のような編み目の、赤白だんらのセーターを着て、白いエスのオランダ風な靴下をは
 いた町子は、男一人とじこめっている光雄の血のめぐりを速くするほどの、若々しい動
 物的生気を発散させた。そんな彼女の姿には、胸の病気のきさしや、肉体のひけめなど、
 どこにも見出すことはできなかった。
・女の肉体の色や形やそぶりに、まぶしいほどの美しさを感じて、男が悩んでいるとき、
 女が肉体の生理以外のものを求めてあえいでいたこと、温泉行きをすすめる女とすすめ
 られる男が、各々そのような状態にあったことは、ごくまれにしか出あえない元素が、
 化合するため持ち出されたような、人間実験者の気まぐれだったともいえる。しかしそ
 のような化合でも、町子にとり、光雄にとり、それはやはり恋愛なのであった。
・光雄が彼女のさそうままに、彼女に恋してた胸を打ち明け、うす暗い路地で接吻をあび
 せた時、二十六歳の彼女の大まかな顔には、おびえが走るのが見えた。
・町子が光雄をさそった意図の中には、彼女の彼に対する自分流の解釈と判断が土台をな
 していた。三十過ぎまで独身でいて、女っ気のない生活に堪え、酒のみ楽しんでいる、
 人間にこだわらぬ男。性欲的な貪欲さのない、文化人風の男。一つの部屋に寝てもおと
 なしくしている男。そんな自分で勝手につくりあげた光雄の像を、彼女は望んでいたに
 ちがいなかった。
・町子には男の求めるものは肉体だとわかっていた。恐怖と共に、それを大げさに感じて
 いた。自分を愛してもらうためには、自分の肉体を女の肉体として愛してもらわなけれ
 ばならなかった。   
・精神的な愛を、愛として信じていないことで、それ故町子は光雄と共通していた。光雄
 の場合も、ごく平凡に、彼女の身体が抱きたいのであった。ただ光雄には、彼女をおそ
 れさせ、彼女に厭悪の念をもよおさせるほどの執拗な体力と欲望がない。その光雄の弱
 さが、町子にとって、安全感となり、慰安となり、いこいとなり、一種の情熱の貯え場
 所とさえなるのであった。
・「あなたがこんなことをすると思わなかったわ。あなたを見てると、そう思われなかっ
 たの」と最初の夜、彼女は苦笑した。「抱いてもいい。何してもいい。だけどそのあと
 で嫌になるわよ」と、彼女がその夜言いにくそうにつぶやいた後、光雄が試みたのは、
 ごく簡単な行為であったし、ほとんど短い時間であったが、町子はそれでも「あなたが
 こんなこと、おかしいわ」と、冗談と苦笑にまぎらして言った。しかしそれは疲れを帯
 びた満足の情を以て言われた。男が自分を抱いて満足を感じている以上、そこに愛が成
 立したという、深い喜びが、官能のにぶい彼女の全身に、しびれるような快感をあたえ
 るのであった。
・光雄は女の精神の美しさなど信じていなかった。彼のとっての女の美しさとは、単にそ
 の肉体の美しさであった。乳房の弾力や、脚の白さであった。しかし彼の場合は、やは
 りその美しさに主体があるのであって、生理機能はそれほど問題にならなかった。自分
 が美しいと感嘆する肉体にふれること、それだけで自分が恋愛している喜びがあり、ど
 のようにふれ、どの程度までという、強いけじめはなかった。女が歓喜の叫びをあげず、
 精神のふるえや、微妙な反応を示さなくても、自分だけで陶酔した。そのような光雄と
 町子の間には、自分たちだけで肉体的であると信じている、一種の精神的な恋情が、燃
 え、流れ、溜った。それはあいまいであり、試されている時間だけたしかであるが、そ
 れ以外では確認しにくいようなものであった。
・町子にとって光雄との温泉旅行は、たんなる気ばらしや快楽のためではなく、光雄の身
 体の自分の身体に対する接触と反応、男の愛情が自分の肉身のどこにどのように注がれ
 るか、それを試験する行為であった。男の感覚的意見をきき、態度を決する準備であっ
 た。今の夫と別れる決意が強まった以上、新しい相手、新しい男の身体を探さねばなら
 ない。しかもそれは、肉体と肉体をふれ合わせて見なければわからない。困難な、秘密
 な実践であった。 
・肉体の結びつきがない夫婦はうまくいかない。それは別れてめいめいが新しい相手を見
 つけるより仕方ない。夫もその意見である。自分としては、あなたならまちがいないと
 思う。その意味を町子は陰に陽にほのめかし、次第に明確な形で光雄に言いきかせた。
・二人の外泊の第一回目と第四回目の間には半年ちかい期間が在った。その間に四回だけ
 というのは、様々な出来事で中断されているからであった。それにしても、一緒に食事
 をしたり散歩したりする機会は多かったにしろ、二人がその期間に、そのわずかな回数
 で満足していたのは、町子にも光雄にも、以上のような肉体的性格があるからであった。
・しかしその町子が道雄の子を胎内に宿した。独身のため女の生理に疎い光雄は、町子か
 ら妊娠のことを打ち明けられたとき、それが自分のためとは、どうしても信じられなか
 った。町子について信じられなかったより、自分の能力に対するおどろきが強かった。
・町子がそれを告げたのは、彼女が知人の家の一人ぐらしから、新しい家へ、夫と同居す
 るため移ろうとしているまぎわであった。そして光雄とは、まだ三回の肉体交渉があっ
 ただけの頃であった。   
・最初の夜、町子から「こんな時、子供はできるものよ」ときかされたが、光雄はそれを
 信じなかった。それは町子が自分の欠陥を訴えていたからであるが、自分の今までの経
 験からしても、それが信じられなかった。また光雄にして見れば、自分のような容貌の
 すぐれない男に、しかも女の方から突然身をまかせてきたことの不思議さは、まだ消え
 ていなかった。Mの次に自分と、男を求めるやり方が、町子の身辺に他の男の存在を疑
 わせるものがある気もした。町子の肉体的性格、自分を町子にむすびつけたその性格が、
 それを疑わせた。
・「育てるって、そんなこと出来るかしら」と彼女は不安げに、闇の中で彼の顔に自分の
 顔を近づけた。それは、あなたの言葉はあなたの本心ではない、今のような場合、男の
 言うことは、何もかも自分は承知していると言いたげな様子であった。それを見すかさ
 れていることは、光雄にもよくわかった。重く苦しい不安におおいかくされた彼の内心
 に、自分の肉体が女に最後の結果をあたえ得たという、充実した感覚、ごくわずかであ
 るが、勇気に似たものが湧きあがった。
・それと同時に、一つの生命が生れいずることの簡単さ、たとえ男と女とが、どのような
 感覚、どのような感情に在っても、それと関係なく生れいずることのやるせないほどの
 動かしがたさ、地球の表面に空気が層をなして、どんよりたまっている、まるでそのよ
 うな、あるのままの何でもなさが、鈍く、重く全身をしめるけるのを感じた。
・それから二三週間は、光雄は緊張した日を送った。町子は、自分の妊娠を夫に打ち明け
 た方がいいか、打ち明けた場合、夫がそれを自分の子供と考えてくれるかどうか、打ち
 明けないとしたら、どこの医者にかかるべきか、手術の際は誰について来てもらうか、
 手術のあと家まですぐ帰れるか、などと光雄に相談した。
・結局、町子は自分の妊娠を夫に打ち明け、知人の娘に付き添われて、病院に入った。そ
 の病院へ、手術後見舞いに行った光雄は、案外元気よく笑い興じる町子にあきれた。彼
 女は一ぺんに元気を取り戻したように見えた。肉体の事務的取り扱いを完了し、健康を
 取り戻した自信が、昼下がりの温気の中で赤い艶をおびた顔に浮かんでいた。
・夫が自分の妊娠や手術を、あまり問題にしていないこと、自分に対する夫の考えには、
 光雄の心配することは何もないことを、安心と陽気で笑いながら話し、娘が席をはずし
 て部屋の外へ出ると、なかば身体を起して光雄に接吻した。
・彼女の説明によれば、彼女は自由であり、夫はもう全くの他人なのだ、という話だった。
 しかし彼女が依然として夫の経済の下で、それにもたれて暮らしている以上、そう簡単
 に言い切れぬことはわかり切っていた。何もできない、平気だと口ぐせのように言いな
 がら、夫に発見されること、その結果極端な結果になることを恐れていた。
・夫婦に機微にふれることは、散歩の路や飲食店内の会話では不可能だし、半年間にわず
 か三回の夜の床でも、深く聴きだすことはなかった。眼前の肉体を抱くのにとりまぎれ、
 それが不可能だった。また聴く意志がなかった。彼女は彼女、夫は夫、別々の個人とし
 てのみ頭に浮かんだ。
・女の説明を通して夫を知る以外に、あたりまえなら女の身体の習慣などで、それを感じ
 そうなものであるが、光雄の場合、それがわからなかった。男の肉体の動きがしみつい
 ていない、彼女の肉体を通じては、夫が人間としてこの世に存在していることすら、定
 かに想い起こすことができなかった。
・彼にとって町子の肉体は、それだけで独立していた。完全な、自分だけの対象であり、
 自分だけが没入する享楽の場所であった。そのような彼を町子は喜んだ。それ故、女の
 夫のすべてが、女の肉体とは無関係に、女の談話の中だけで生きているのであった。
・二回目と三回目の間には、彼女の手術という事件がはさまったが、三回目と四回目の間
 には、夫が二人の関係を発見したという事実がはさまった。
・町子と関係したことは、世間の思惑は別として、自分個人としては、少しも「悪」とか
 「非倫理」とか、良心のとがめを感じないのであった。光雄はかなり文学書も読み、た
 まには物を書き、ひととおり常識もわきまえているのに、神に対し、社会に対し、申し
 わけないという念は湧かなかった。
・夫の発見があってから当分の間、まじめに緊張した夫に、町子はかなり引き戻された気
 配があった。それを光雄にさとられまいと努力したが、不注意の光雄にもそれがわかっ
 た。又、倫理観のぼんやりした光雄は、そうなっても、家を飛び出して町子と同棲する
 決心がつきかね、二人の生活を維持して行く自信がない。その利己的な積極性のない光
 雄の態度は、町子にもよくわかっていた。したがって夫に即急に別れることには危険を
 感じて、光雄と会わぬむねを誓ったりした。
・だが誓いながら、やはり自分の肉体に満足してくれる光雄の、愛人らしいそぶりが忘れ
 られなかった。自分の生活を保証してくれる夫と、女として遇してくれる道雄の、その
 両方の間で、あぶない橋をわたった。    
・光雄に自分との一夜をあたえてやるために、町子は夫の反対を押し切って、関西の里へ
 帰った。関西に親類のある光雄は、そこへ泊ることにして家を出る。そして里から出て
 来た町子と、どこか換算の駅で落ち合おうという、手数のかかった密会であった。はじ
 めての駅で時間が来ても現れない男の姿を求めて、雑踏の中に立ちすくんでいた町子は、
 あわてて駆けつけた光雄を見出すと、涙が出そうになった。そしてその夜、またあらた
 めて「わたし女でないのよ」と泣いたりしたのであった。
・二人は温泉のぬくみのある鼻と鼻をこすりつけるようにして、語りあった。清流で名高
 い温泉は、桜の花が満開のころで、間かずの少ない宿屋で、寝ながら話す二人の枕元ま
 で、隣でさわぐ近在の若者の声がうるさく聞こえて来た。
・戦争中も、終戦後も、人間の醜さ、たよりなさを沢山見せられ、ことに自分の醜さとた
 よりなさに対する自覚が、鉛のように厚く全身をおおいつくしてしまっている光雄は、
 たしかに倫理を失っているかもしれない。その全身にかぶさる鉛の層をはぎとり、はぎ
 とることが不可能なら、せめてそこに小さな穴でも開け、自分本来の人間みのある肌に
 ふれて見るためには、外部から何らかの力が加えられなければならない。そのような力
 から光雄は離れている。
・町子は町子で、時々、光雄という男は、一体これは何という人間かな、と考えることが
 あった。どんな話を持ちかけても「どうも俺は利己主義だから」とか「どうしてもこう
 いう人間なんだからな」と、無表情に、ものうげに言う。そんな時は、実に頼りない。
 きっととても図々しいか、無神経か、悟りすました人間なんだわ、と思う。冷たいな、
 と思う。
・しかしこういう人物が、そのありのままで、自分の肉体を愛してくれるのは、かえって
 まちがいなく愛されている気もし、そのような男が側にいることに、妙に安心をおぼえ
 た。     
・自分たちだけで、自分たちの間柄の事のみ話しあううち、町子も光雄も、二人が同棲す
 るのは当然のことである、疑うべくもない、すでに定められていた事実であるかのよう
 に思い出した。
・光雄の方では、はじめからこの事件の解決には、夫の問題は一番手数のかからぬ、話し
 合いで片づくものと予感があった。ほかの誰でもが理解できぬ町子の肉体の問題は、夫
 より以外に語りあかすことが不可能である。彼女の夫に会った瞬間にこそ、何か自分も
 「人間」にたちかえり、救われた心になるにちがいないと予期していた。
・最大の問題は、彼が女の肉体の美に愛着を持っていること、ただそれだけであることが、
 結婚へ自分を引きずって行けるか、否かにあった。自分は女の美が好きだ。だがその好
 きさは、沸騰する火山のような欲望によって裏付けされていない。生理で正確に規定さ
 れていない。その好きさは、美を求める苦労によって、或いはその苦労の予感によって
 さえ、打ち砕かれ、消滅するかもしれぬ。女の美を、女そのものを、そのような好きさ
 だけで求めることが、如何に弱いか。そしてその故に、そのような求め方しかできない
 自分が、女に対して誠実であること、女のために万事を忘れることが如何に困難か、そ
 れを光雄は知りつつあった。 
・野口が離婚したくない、少なくともすぐ離婚したくないことは明らかだった。町子をす
 ぐに連れて行けと彼が言わぬこと、それは光雄を安心させた。それは女に対するおそろ
 しい不誠実であるが、やはりその安心が消えなかった。
 
町子と夫とMと光雄と
・光雄にしてみれば、町子が夫なりMなりにどのような形で接していようが、それほど気
 にはかからなかった。夫は彼女の夫であることで、Mは彼女の以前の恋人であることで、
 それぞれ彼女に対して権利を持っている。それに対してはとやかく言うべきすじはない
 し、第一、町子が自分を愛してくれる以上、愛される瞬間の喜びだけで充分満足してい
 たから、町子の方で言い出さぬかぎり、自分の方から二人の男にふれることはなかった。
・町子が光雄を「女なんか問題にしない変人」と解したことは、その頃の光雄の女っ気の
 ない酒狂じみた日常からの判断で、部分的には正しかったが、一面非情な誤解であった。
 事実、彼女の節する範囲内では、欲情をむき出しにもせず、達観した風に見えたかもし
 れないが、それは町子の肉体のひけめが、ことに光雄をそのようなものとして見たがっ
 たのだともいえる。しかし光雄自身は生理的な弱さにもかかわらず、頭脳の中に燃えく
 すぶるような、せつない欲情を貯えていた。それは生理的に強い男に想像もつかぬ、変
 わった形で執拗に持続するものであった。肉体的に弱いことは、すぐさま精神的である
 ことを意味しはしない。少なくとも、弱いことは決して簡単なことではない。単純であ
 りそうな光雄が、実は女に関して、それほど単純ではなかった。
・帰国して、病床にある妻に面会してからは、Mは一旦は町子をあきらめようとした。そ
 の決意を光雄に語ったりした。そして、光雄と町子とが恋愛に落ち入っていることを気
 づくまでは、Mは光雄を友人として信頼し、年長者としてすがりつき、もたれかかるほ
 どの愛情を感じていたため、そのような意見を町子に向かって述べたのであった。町子
 に会わずに暮らすのが堪えがたい以上、愛欲関係にこだわりのなさそうな光雄の傍に町
 子を置くことが、彼女を自分から離れ去らぬようにすることである。又、何よりも、町
 子の特殊な肉体を、光雄ならおだやかに受けとけてくれるであろう。少なくとも結婚生
 活で町子が味わっている生理的苦痛を、光雄ならあまり与えないであろうとの予想にひ
 かれてであった。   
・町子の考えは、光雄は結婚後も自分のもとの夫や、もとの恋人と自由に交際させてくれ
 るはずであった。それはMが光雄をそういう人間として眺めている、その意見に影響さ
 れてだな、と推察した光雄は、柄にもない断言で反抗したのであったが、光雄も案外強
 硬なところがあるらしいと悟った町子は、それだけでやや不安になったように見えた。
・町子が光雄との秘密の恋愛にふけり、そのため同居している夫に対して常に憂鬱な表情
 ばかり見せた頃、夫はその原因を、町子が上海からかえらぬMを想ってであろうと推察
 していた。 
・町子とMとの恋愛を知りながらも、その夫が自分の家へMの出入りを許す。その奇妙な
 事実の根本は、町子の女性の特殊性につながっている。そう判断されても、その特殊性
 が二人の男の心理や行動をどのような形で具体的に支配しているか、そこまで光雄は水
 量がつきかねた。ことに町子の女体の特殊性をそれほど特殊性と感ぜず、ひたすら美し
 い肉体をそなえた女と信じ、それに愛着し、しかも女が愛情を表現する肉体的手段に自
 分の「男」が満足している光雄は、彼女の特殊性だけで、それほどまでに男たちの動き
 が常識はずれで来るとはなかなか納得できなかった。
・Mの言葉は大部分、女としての町子をほめるのだが、光雄はいつも、それほどでもない
 とけなした。Mnoほめる町子の才能。こっちが困ってしまうような事態が発生しても、
 必ず自分で始末してしまう才能。それはおそらく上海でMが彼女と肉体関係が出来あが
 ってから経験したものにちがいなかった。彼女の妊娠の処理や、野口帰来後の日常生活
 などであろう。しかし光雄自身がすでに、彼女のその種の才能を目撃する立場に自分を
 おいてしまい、Mに言われる前に、Mに秘密にそれを知りつくしている以上、Mのよう
 に単純に、そうした彼女の性格なるものに感心することはできなかった。恋愛における
 町子の純情や必死さを認めるにしても、Mに秘密に自分との恋愛を続けようとする町子
 の「純情」や「必死さ」を、Mの前で簡単にほめたりはできなかった。そのためいつも
 光雄の意見は、Mとちがい、町子に対して批判的になった。
・光雄の秘密を発見してから、Mの態度は激変した。今までの信頼を裏切られた怒りで、
 光雄を嫌悪し、軽蔑した。呪いさえした。そして「利口な野獣」だとののしった。  

私と「私」の話
・私は躰内にはとても非文化的な、粗野な、そして礼儀をわきまえぬものがあるのだ。自
 分でも驚くほどだ。どうして自分がそんなものを持っているか、全くわからない。酔う
 と私はその原始的なものを出すのだ。どんなに隠しても防いでも、ダメなのだ。必ずそ
 の陋劣なものは出てしまうのだ。神聖なこと、重要なこと、真剣なこと、すべて私にと
 って一生の問題となるような瞬間でも、酔えば必ずなのだ。また具合悪いことに、政治
 運動でも恋愛行為でも、私が緊張し切っている際に、私は内部のこの愚劣な、馬鹿げた
 ものがきまって出現するのだ。
・酒にでも、女にでも、酔うと人間は実行力が出る。時にはおそるべき実行力が出る。
 そして私に実行力なるものが有りとすれば、それはただこの私の内部の愚劣な馬鹿げた
 ものの働きなのだ。それ以外に私には実行力のジの字もないのだ。もちろん平常の私、
 社会人としての私は、この非文化的な実行力に責任を持つわけにはいかない。またその
 実行力を誇るわけにもいかない。何故ならば、それはこの私とは無関係なものだからだ。
 少なくとも文化人としての私のあえて知るところではない。その「実行力」なるものは、
 私に無断で、私にそむいて、私を嘲笑するかの如く振る舞うのだ。しかも困ったことに、
 私の友人も先輩も、ついには女たちまでが、真の私、文化人たる私と、この原始的な実
 行力のある「私」とを同一視してしまうのだ。そしてそのために、とんでもない誤解と
 混乱が起きるのだ。 
・町子は木村の恋人であり、また最近では私の恋人でもあった。私は夫のある町子との恋
 愛については木村からいろいろと相談され、この問題について彼の味方でもあり、話し
 相手でもあり、それならこそ私より若い木村は私をたよりにもし、信用もして来たので
 ある。若い木村には文化人らしい弱さもあり、悩みもあり、したがって良心もあって、
 この恋愛ははたで見ている私にもハラハラさせるものがあったのだが、いつのまにかそ
 の私がその渦の中にまきこまれていたのだ。
・「わたしたちのこと、木村さんに言っちゃいやよ。絶対秘密よ」町子からこう口止めさ
 れるまでもなく、私は段々深くなって行く町子との関係を木村には隠していた。それは 
 私の秘密主義、合理主義によるものだが、私は町子との恋愛に於いて、ひたすら私の内
 部にある、あの陋劣な実行力にまかせて、いくらか文化人らしい意識のある折は「何だ、
 つまらない」と自分で自分の恋愛をけなしたり、忘れたりしていたからだ。
・私はもともと恋愛を美しいものだとも、正しいものだとも考えてはいない。陋劣な「私」
 がやる以上、それは陋劣な恋愛にきまっているのだ。ことに木村が彼女の夫から取った
 ものを、私がまた取るという恋愛、その恋愛の対象の取られた女たる町子を、陋劣なる
 「私」ならともかく「文化人」たる私がそう純真に思いつけているはずはないのだ。
・しかしながら木村は自分の恋愛はあくまで真面目であり、町子を絶対視しているのであ
 り、私は私たちに働きかける町子の智能を異常だと思い、驚きあきれることが多く、
 「私」は「私」でやはり彼女の肉体にほれ込んでいるのであるから、木村と私の声をひ
 そめた談話は、Hたちの文化論は耳も入れず、陰にこもって熱心に続けられていたので
 ある。 
・木村からの手紙:
 あなたは利口なひとだ。利口な野獣だ。あなたは、あの口にするのも堪えがたい事件を
 惹き起こした。しかも日常茶飯事の如くやってのけた。自分の本能、自分の本性を楽し
 むかの如く、僕の到底なしあたわぬ事をした。
 あなたには実行力がある。卑しさの根源をなす野獣的実行力がある。僕にはそれがない。
 僕は野獣が妹を連れ去るのを眺めるが如く、あなたたちが人混みの中に没するのを茫然
 と見送ってから、夢中で付近の友人の家へたどりついた。
 今朝僕は町子の家へ行った。そして彼女の口からすべてを聞きました。彼女は、昨晩で
 私の運命はきまったわ、と言いました。
 僕はハッとした。彼女がそう考えるのも無理がないと思った。何故ならば、あのような
 醜事ひきおこし、そのあとで平然として女を抱き、しかもその女の恋人たる男に一言の
 言葉もかけず立ち去れるような卑しさと実行力のある男に、屈服される女はないからで
 す。
 僕は彼女にすがりついて涙を流したさ。彼女は母親のように悲しい顔で、母親のように
 言ったさ。私が山下さんと結婚したら、木村さん泣いてね。これど、いつまでも泣いて
 ないでね。いつまでも泣いて滅茶苦茶になったら、私はどうやって生きて行くの。私は
 木村さんがあって、はじめて生きているんだもの、って言ったさ。
 僕はもう一切を投げうつ気持ちになってしまっている。世間も、文学も。あなた自身、
 僕や彼女の人間的弱々しさを見ていればあなたが如何に野獣的強さに所有者だからわか
 るでしょう。僕はどうしても、この野獣に彼女をひきわたしてはいけないと思い詰め思
 い定めた。
 いかなる行為も、それが人間がするものである以上、人間的なのだ。これはあなたのお
 きまり文句だった。それを僕は、僕たち僕と彼女のはかない恋愛をなぐさめてくれる、
 あなたの親切な言葉と考えていました。とんでもない。それはあなた自身の行為、昨晩
 の如き野獣的行為に対する弁明にすぎなかったのです。「人間」に対するあなたの言い
 逃れだったのです。

愛のかたち
・絶縁状によるMの光雄批判は要約すると次の諸点であった。
 第一:うそつき
    光雄は町子との恋愛をそれまでMに隠していたから、この批判は正しかった。又
    ただ隠していたばかりでなく、知らぬふりして町子に関する質問をMに発したり
    したからなおのことであった。
 第二:利口な野獣
    これは酔って有楽町の飲食横丁で光雄のしでかした事件、及びその夜の光雄の町
    子並びにMに対する態度から推察したMの決定意見であった。酔うと多少荒れ出
    し、前後不覚になる点を野獣に見たてた点は、いささか意外であったが、Mの眼
    にそう見えたのはあながち無理もなかった。野獣の上に付加された「利口」とは、
    Mが自分の町子に対する純粋な恋愛態度にくらべ、恋愛において傷つきもせず、
    損もしない光雄の態度をそう判定したものであった。
 第三:可能性ができてからのみ行動すること
    他人のために冒険したり、恋のために身を棄てたりせず、常に安全確実な場所で
    のみ恋愛するという意味にとれた。
・このMの批判は、それを読んだときの衝撃が去ると、それほど光雄を動揺させなかった。
 その頃の光雄は、しきりに自分の存在そのもののあやふやさが目につき、自分を「危険
 な物質」と認めはじめていたし、愛とか恋愛とか友情とか、これら美しい言葉にも疑念
 ばかりが湧き、したがって町子との恋愛にも、投げやりな、消極的な、よそよそしい態
 度が増していたので、Mの批判はかえって彼のそうした精神状態に裏打ちする結果にな
 った。
・町子はその頃、夫とは離れて自分だけの生活を営むことを、急速に計画しはじめていた。
 しかし身体の弱い彼女に自活生活が永く続きはしないことは光雄にはわかりすぎるほど
 わかっていた。
・「どんなことがあったって、あんたと、わたし一度は結婚してみせるわ」と、自信とも
 執念ともなく言う。それにも、しかし彼女の不安はみちていた。「完全なる結婚」にた
 えずあこがれながら、自分にはそれが不可能なことが身にしみているからであった。野
 口との結婚は、野口が彼女の美貌に満足しながら、彼女が肉体の結合をきらうことで破
 れた。光雄との結婚においても、いざ同棲したからの肉の生活には、堪えがたい不安が
 あった。光雄を愛したい、占有したいという燃えるような渇望がたまりにたまって、温
 泉旅行を決定する。男を愛したという、単に精神的な衝動から男に全身を与えてやる。
 しかしそれは彼女の側では何ら肉の快感のない、一つの努力なのであった。それ故に、
 その精神的衝動が少しでも弱まれば、その努力は堪えがたい負担になるにちがいなかっ
 た。
・男の不能者とちがい女の場合は、男が正常なら形式的には一応肉の結合が可能なのであ
 るから、問題は彼女がその気になりさえすればよかった。その気になる、その気になり
 うる状態を持続して行けばいいのであった。努力を努力として感ぜず、男を満足させる
 状態を持続すること、無感覚のままではあるが、ある時間内それに自分を専心させるこ
 とに、それだけが必要であった。この敢えてする密着のためには、それ故、肉の灼熱的
 興奮の代用として、何かひたすら堪えられるだけの精神的な動力が必要であった。それ
 は愛すること、肉なしで愛することであった。この感覚のない絶対の興奮を「愛」と叫
 びうるなら、まさに愛であった。とっぴな、やけじみた、複雑不可解な行動が多いわり
 に、光雄もMも町子に対して、かなり清潔な感じを持ち得たのは、そういう彼女の「愛」
 のためではなかろうか。「こんなことをされてイヤだろう」ときかれ、「だって好きな
 んだもの」と言う時の、その「好き」という一句は、それ故、町子のあらゆる矛盾と不
 安と焦燥と渇望の結晶なのであった。
・そのような町子の「愛」からすれば、男達の愛情なぞは、かえって不徹底な、その場か
 ぎりのものと見えるであろう。そしてその不徹底な、その場かぎりのものを、彼女流に
 「完全なる結婚」の夢に合致させるこそ、それがいかに困難であるかは、おそらく男た
 ちの誰もが充分に理解できなかったにちがいない。二人の男は互いの愛情をそれぞれ批
 判しあったが、町子の目から見れば、いずれかわらぬ自分勝手な慾獣だったであろう。
 一般の生活人に比べ二人とも欲望が少ないにしろ、肉を望む点でMは光雄と同格であり、
 何ら、彼女流の「愛」において上下するところはあるわけがない。
・やがて町子は夫と別居し、知人の家に入った。そこは闇商売の男が倉庫用に使用してい
 る家で、町子のほかに一人、町子より若い女性がいるだけであった。花子という女性は
 白色人の内縁の妻で、太った真っ白い赤ん坊を育てていた。
・そのころ、光雄は九州の官立学校に就職がきまり、九月の末に出発する予定になってい
 た。
・光雄が九州へ出発する時日が近づいた時、町子は心労と暑気のため、日中の歩行が困難
 なほど弱り果てていた。花子と同居している家からも立退きを要求され、光雄は一向に
 部屋を探してもくれず、部屋を貸してくれる男は彼女の恐怖する精力的な慾獣であり、
 「男というものがこんなににくらしく思えたことはありません」と、光雄に書きよこし
 て、夫のもとへ帰る決心をしたこともあった。
・電話で光雄を呼び出し、九州へ連れて行ってくれとせがんだ。あわただしく温泉へ行き、
 自分の肉体のすべての可能性を尽くして光雄を自分にひきつけようとした。
・そうまでして愛してくれることが、かえって光雄をそれだけに満足して、努力して彼女
 を求めようとする心を失せさせたにちがいなかった。彼女が愛してくれる、どんなこと
 があっても愛してくれるという自信が、彼女によって与えられてしまっていること、そ
 れは愛されたい、愛されてみたいという、みたされない空間の、あの暗い、深い、底知
 れぬ引力を消してしまっていた。
・その引力に代わるべきものは、厳格な倫理か、猛烈な情慾か、或いは動物的恐怖などで
 あろうが、この場合、それにも欠けている光雄の行為をしばるものはもはやなかった。
・光雄の出発ののち、町子はMと同棲した。同棲と言っても、Mの勤める会社の社宅に、
 Mとは別に一室をもらったのであるが、食事も、洗濯もMの世話はすべて彼女がやり、
 Mは彼女を愛し、町子もMが好きである以上、又Mが妻子がありながら、彼の情熱にま
 かせて、会社の同僚や友人の評判をすべて無視し、いわば身をすてて彼女を守った以上、
 それはやはり愛の巣というべきであった。
・その巣の中での彼女の行動、Mに対する愛情の表現、ことに性生活がどのようなもので
 あったかは、後になって光雄にも推察されたが、いずれにしてもMはその行為によって、
 光雄を批判しただけの自己を確実に証明したのであった。 
・その頃、光雄には、友人の妹との間に縁談があった。そしてその相手を見るために、そ
 のひとの勤め先まで出かけたりした。その時、その相手の健康な、正常な美しさを眺め、
 家庭の妻としての安全さ確実さを発見し、やはり結婚するならこのひとの方がと心が動
 いていた。
・そのひとの兄が保証する美点、町子には全く欠けている美点が、その時の彼をひきつけ
 た。そのようなきわめて生活的な、平凡なタイプ、町子と正反対のタイプを自分が妻と
 しての相手に求めていることに、彼は気づき、それに興奮した。そして光雄はいそがし
 げな事務室で、肉づきのよい、脚のスラリとした、身のはこびの軽いその人の洋装の姿
 を一瞥する間にも、この女性には肉体における、性的関係における異常さはないさ、と
 まず見てとった。町子との関係がいつか彼自身に影響して、初対面の女性に対してさえ、
 そのような服装の下の肉体内部の点まで注意させはじめている、そのことにあきれなが
 らも、光雄はそれを自分の性的成長と感じた。
・「この女のひとと結婚すれば危険性はない。この女のひとは妻としてまちがいない。町
 子のような食い込むような魅力はないにしても、このひとはたしかに完全な女なのだ」
 と彼は考えた。「このひととの新しい肉体生活がはじまってしまえば、その楽しさで、
 おそらく町子に会えぬ苦しみなど消え失せてしまう。この女のひとと自分が結びつくこ
 とは、町子と結びつくより、あらゆる点ではるかにプラスなのだ」
・その結果、光雄は町子にそのむねを打ち明けることにした。自分はもしかしたら結婚す
 るかもしれない。してもよい相手が見つかった。もし結婚するとしたら君はどうする、
 と彼は質問した。
・町子は光雄をまじまじと見つめ、「もしあなたがそうするなら、どうしようもないわね。
 止めて止められぬならね。・・・だけど結婚させられてしまったら淋しいわ」と静かに
 言った。    
・光雄は用心深く自分の方から、彼女の手を握りしめてから「ひっぱたけよ」と言った。
 「わたしと結婚しなさいよ」と彼女は苦しげに、あえぐように言った。「結婚しないよ。
 そんな約束はイヤだ。しかしさっきの結婚話は中止する」「何故わたしと結婚しないの」 
 「何故だって、そんな約束はしない、しかし友人の妹の方はことわる。それでいいだろ
 う」
・光雄は夜気の冷たさの中に、こうやって女一人取り扱かえずに、この姿で立っている自
 分の敗け方に一刻も早くけりをつけたかった。自分の弱さ醜さを少しでも余計に、今こ
 の場で自分に見せ続けることは、それが町子という女などに作用されてのことだけに、
 彼にとって悪寒のすることであった。
・そのことがあってから、光雄の心は町子との結婚に傾いた。どうせこうなったらという
 自愛的な気分からか、その夜見せた町子の強い性格と強い愛情を認めたのか、それとも、
 町子のみじめな運命に多少なりと同情の手をかすつもりか、或いはMと同棲している彼
 女の肉体を占有したいとの欲望からか、いずれにしても永続きしそうもない自分の結婚
 相手なら、いっそ町子が似つかわしいと判断してか、そのいずれとも自分でも結着でき
 ぬままに、彼は町子のしかける結婚の相談にまじめに相手するようになった。
・町子が二度ばかり約束の場所に来ないことがあった。光雄はひとり酒を飲みながら、急
 激な怒りがこみあげて来るのをおぼえた。「町子は一体何者なのか。現に同棲している
 女ではないか。その女が俺の結婚をとりやめたり、俺に向かって結婚を要求することが
 できるのか。何によって、それを為すのか。「愛」によってか。それによって俺を縛る
 のか。その愛とは一体何か。それがいつどこで俺を楽しませてくれるのか」光雄は酔い
 と共に、いますぐ町子の肉体を抱くために行動せねばならぬ。それをしないなら、町子
 も、その愛もすべて無意味だという感覚が脳のあたりに充満し、それと共に、有楽町で
 の騒動の際のあの動物的エネルギーが四肢に満ちわたるのをおぼえた。
・夜明け方、もう部屋が明るくなる頃、光雄は再び町子の寝姿を眺めていた。欲情は堪え
 られたが、精神的な淋しさが、彼を強く襲った。このまま町子から、何ら愛情のそぶぎ
 や言葉を示されずに終わるのが、たまらなかった。町子はめざめているらしく、かすか
 に身動きしていた。光雄は静かに隣の床へ身を入れた。しかし一寸身体に手をふれると、
 町子は「イヤ」と言った。「愛していないの?」「どうして」「だって一寸さわっても
 イヤがるからさ」「さわるのはイヤよ」「じゃ愛してないの」「ちがうわよ。馬鹿ねえ」
 町子は仰向いたまま微笑して言った。
・「愛するって、そんなことすることじゃないわ。そんなこととは無関係よ」「でも君が
 可愛いから、君を好きだからするんじゃないか」「ちがうわ。そんなの自分勝手という
 ものよ。そんなことするなら、他の女にしてやりなさい」「だって、君を好きなのに、
 他の女にこんなことできやしない」「君はだって僕を愛するから僕と結婚するんだろう」
 「そうよ」「だって僕に愛されるのがイヤじゃ、僕を愛していないんじゃないか」「愛
 されるのイヤじゃないわよ」「だってイヤがってるじゃないか」「だってこんなこと愛
 されることとちがいもの」「君、本気でそんなこと考えてるのか」「そうよ、あなた、
 よく考えて見なさい。こんなことが愛することだったら、愛なんてつまらないじゃあな
 いの」
・道雄が彼女の下半身に触れると、彼女は「いけないわよ」と反射的に、打ち返すように
 言った。「きらいになるから・・・そんなことすると」「もうきらいなんじゃないか」
 と光雄は手をゆるめなかった。彼女の意見があまりに自信に満ち確定的なので、性交の
 意志は打ち砕かれていた。
・町子の意見は正しい。冗談でもないし、逃口上でもない。しかし自分は愛されていない。
 愛されていると考えたのは誤りだった、という絶望が彼をつかんだ。やはり彼女の特殊
 性は決定的なものだ。どうすることもできぬものだ。彼女は確かに愛しているつもりな
 のだ。それは確かに愛なのだ。だがその愛はどうしても、自分には愛とは考えられない。
 どうしても、それは感覚的に愛でない。成年男女の愛ではない。