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この作品は、今か29年前の1992年に発表されたもので、作者が作家一本で身を立て
るべく、三十五歳で大学病院の医師の仕事を捨てて上京し、医師のアルバイトをしながら、
前途への焦燥と不安に苛まれる日々を送った著者の青年時代の体験をもとにして作品化し
たもののようである。
この作品のなかでは、なぜ作者が大学病院を辞めることになったのかが書かれている。
当時、作者が在籍していた大学病院では、日本初の心臓移植手術が行われ、大きな話題と
なった。しかし、その後、この心臓移植手術を巡っては、いろいろな疑惑が渦巻いていた。
著者は同じ組織に属する立場で得た情報をもとに、この心臓移植を小説化したが、それが、
批判的なものとして受け止められ、組織内で孤立するようになり、いたたまれなくなって、
辞めたというのが真相のようだ。書いた作品が、組織からは内部告発と受け止められたの
だろう。作者は、そういう組織に嫌気がさし、組織に属さない自由人である小説家を目指
したのではなかろうか。
しかし、この作品を読むと、作者の青年時代は、そうとうハチャメチャで破天荒だったよ
うだ。これは、「影絵 ある少年の愛と性の物語」や「阿寒に果つ」に描かれている作者
の少年時代や高校生時代の姿からは想像できない変わりようである。
しかし、そういう経験と通して、得た教訓があったようだ。その一つは、「女は男と違っ
てきっかりとして妥協を許さぬ性で、黒白がはっきりしている」ということだ。そして、
もう一つは、「女も浮気をする」ということだったようだ。
なるほど、世の男たちは、改めてこのことをしっかり認識していなければならないと思っ
た。


上京
・悠介が札幌の勤め先を辞めて東京へ行くつもりだと告げたとき、裕子は簡単に納得した。
 三十五歳の悠介には、妻と娘が二人いるが、それらを札幌に残したまま行くと知って、
 裕子は安心したようである。
・一見、女はぐずぐずしているようにみえるが、それは買物や着るものの選択などの場合
 で、人生の大きくな岐れ路などでは意外に大胆な決断をする。もちろんそれまでは深刻
 に悩むのだろうが、一度決めると、もはや振り返りはしない。これに比べると男は買物
 のようなものは簡単に決めるが、仕事や生き方に関わることについてはなかなか決断で
 きず一度決めてからもまた迷いだす。
・とくに悠介の場合、十年間勤めた大学病院の医師という職業を捨てなければならなかっ
 た。それも三十五歳で講師という比較的恵まれた地位についていただけに未練もあった。
 いったい、そんな立場を捨ててまで東京へ出て行く価値があるのだろうか。小説を書く
 だけなら、札幌で医師の仕事のからわらでもできるのではないか。
・半年前の昭和四十三年八月、悠介の大学で日本最初の心臓移植がおこなわれたが、その
 手術の是非をめぐって論争が起きていた。
・悠介は同じ学内にいる者として調べた結果、好ましくない手術と断じて、批判的な文章
 を発表したが、それ以来、一部の医師達の反撥を招き、気まずい雰囲気になっていた。
 むろん学内にも今回の手術に対して批判的な人はいたが、陰口として批判するのと、文
 章で公けに発表するのとでは大分事情が異なるようである。そのあたりを見抜けなかっ
 た悠介の若さは問題だが、それにしても、大学というところは住み難いところである。
・悠介が医師のかたわら小説を書きはじめて、すでに四年経っていた。その間、中央の有
 力な文学賞の候補に二度ほど挙げられたが、いま一つ力およばず、落選の憂き目にあっ
 ていた。
・ここから一歩抜け出すのは、東京のような刺戟の多いところへ出て、本格的に取り組ん
 だほうがいいかもしれない。
・大学を捨てて上京する前、一度東京へきたついでにお茶の水の医師会館に行き、医師の
 求人欄を探してみた。だがいずれも全日勤務が原則で、周に二、三日だけ、というのは
 ほとんどない。ために見付かっても内科系で、外科系では皆無に等しい。
・考えてみるとそれは当然で、外科の場合は手術があるので、月曜日に手術をしたとして、
 そのあと火・水と二日休んで三日後の木曜にくるのでは、手術された患者は不安である。
 これでは「切りっ放し」といわれても仕方がない。
・悠介は専門が整形外科なので、全日制の求人しか見当たらない。
・ようやく両国にある山根病院というところが了解してくれた。中規模の病院で、外科の
 院長の他に内科医と外科医が一人ずついるが、院長は政治家を目指していて、医師のほ
 うはあまりやる気がなく、その穴埋めということらしい。
・医師の場合、勤め先によってある漠然としたランクがあって、最も権威があるのが大学
 病院で、次いで一流の官公立病院、続いて小さな公立病院、そして開業医院ということ
 になる。もっとも収入のほうは、この逆になる場合が多い。
・もともと裕子は宴会にホステスを派遣するバンケットクラブを経営しながら、自らもそ
 のメンバーとして働いていた。 
・裕子には他に際き合っている男性がいた。さほど資金がかからないバンケットクラブと
 はいえ、裕子が二十代の若さで経営者になっていることが不思議だったが、その男が裕
 子に資金の援助をしていたのである。
・悠介が東京へ行こうと決めた最大の理由は、手術を批判して大学病院にいづらくなった
 ためだが、同時にそれをきっかけに作家一本でやってみようと思ったからであり、さら
 には裕子と一緒に逃げることへの憧れもなかったとはいいきれない。人生のなかでなに
 か一つ、だいそれたことをしてみたい、そんな冒険心があったことも否めない。
・アパートは四階建てで、悠介が借りているのは三階の端の部屋だが、その上のフロアー
 には、同じ病院に勤めている看護婦と事務員もいるようである。
・正直いって、悠介はまだ裕子と同棲することを院長に告げていなかった。いずれ話さな
 ければならないと思いながら、着任早々、妻以外の女生と一緒に棲んでいるとはいいに
 くい。だが院長が経営しているアパートに二人でいて、しかもそこに看護婦達も出入り
 しているのだから、みなに知れるのは時間の問題である。
・裕子は悠介の七歳下だから、二人でいるところをみれば夫婦のように見えなくもないが、
 雰囲気が少し派手だから、見る人が見れば違うことがわかるに違いない。いずれにせよ、
 正式に院長や看護婦に紹介しないかぎり、妻でないことを自ら認めることになる。
・東京にいる編集者や友人達には、裕子と二人でいることはわかってもかまわないが、実
 家には一応、一人で棲むことになっている。万一、妻が電話をかけてきて裕子が出たら、
 一騒動おきるかもしれない。もっとも悠介が東京へ出るといいだしたときから、妻はこ
 んなことになることを、ある程度予測していたかもしれない。
・まだ小説だけの収入では生活は安定しないうえ、学齢期の子供がいるなどの理由から単
 身で上京することを納得させたが、炊事洗濯から身のまわりのことまで一人でできるわ
 けはない。悠介がものぐさであることは、誰よりも妻が一番よく知っているはずである。
 そんな男が一人で東京へ出かける以上、裏に女がいる。
・それなのに夫の要求をきき入れて行くことを承諾したのは、妻の座にある者の自信か、
 それとも反対しても無駄と知ったはての諦めか。いずれにしても相当の覚悟があったこ
 とはたしかである。
・筆一本の仕事をするべく、三十五歳で大学の職を捨てて上京してきたのは、悠介の生涯
 にとって、まさに清水の舞台から飛び降りるような大決断であった。
・はたしてこれから小説だけで食べていけるようになるのか。先を考えれば考えるほど不
 安になるので、そのことはもう考えないことにしている。とにかく、いまは非常事態で、
 この一、二年が勝負である。そんなときに、妻や家庭にまで気をつかっていては、でき
 ることもできなくなる。 
・そもそも文学にとって、家庭の幸せは諸悪の根源である。なまじっか幸せで安定した家
 庭があると、その居心地のよさに安住して闘争力を失い、前進する意欲を失ってしまう。
 いまは妻や子や家庭は犠牲にしても、自分のやりたい道をやりやすい形で、まっすぐ突
 き進むだけである。
・裕子は以前、バンケットクラブを経営しながら自らも働いていたので、クラブやバーで
 働くことにはあまり抵抗がないのかもしれない。
・一旦、男が走り出すと、前後の見境いもなく、そのあとを追いかける。冷静に判断した
 ら馬鹿げたことを、なにも考えずに従っていく。裕子にはそんな危なっかしい一途さが
 ある。
・二人でどんな所に棲み、どんな生活になるか、もう少し慎重に考えそうなものだが、そ
 のことについてあまり尋ねもしない。それだけ信頼されているといえば聞こえはいいが、
 深く考えることは苦手なようである。その計算のできぬ一途さが愛おしいが、同時に不
 安でもある。こんな裕子が、海千山千の男と女が蠢く銀座に出て大丈夫だろうか。
・初めて病院へ行った日、悠介はまず院長にともなわれて、これらの医師や看護婦達に紹
 介されたあと、二階の事務室に行って院長夫人に会った。それにしても小さな医院なら
 ともかく、これだけの規模の病院で、夫人が病院に顔を出すのは珍しい。
・院長は小肥りで金縁の眼鏡をかけ、いかにも保守党の政治家タイプだが、眼は意外に柔
 和で声も優しい。これではたして政界に打って出られるのか、いささか心もとない。こ
 の院長に較べると、夫人は四十代半ばのようだが、すらりとした長身で目鼻立ちも整い、
 聡明な女史といった感じである。
・整形外科の治療室は外科と内科の診察室にはさまれた中間にある。これまでは整形外科
 の専門医がいなかったので、主に外科の神山医師が診ていてようである。こういう場合
 問題になるのは、外科の医師が整形外科の患者を手放さず、そのまま手許においておく
 ことである。地方の病院ではこうした縄張り争いで、外科と整形外科の医師が反目し合
 うことがよくあった。だが、神山医師は悠介の一廻り以上も年上のせいか温厚で、なん
 でも自分のほうにとり込もうというタイプの人ではなさそうである。
・結構、患者が訪れてくる。もっとも、その多くは腰痛症とか五十肩、切り傷、捻挫とい
 ったもので、たまに骨折とか脱臼、椎間板ヘルニアといった患者もくるが、大学病院に
 較べたらほとんどが軽症である。実際、そのほうが手間がかからないし、手術の必要も
 ないので気が楽である。
・だが、半月も経たぬうちに退屈になってきた。毎日、腰が痛いとか、腕があがらないと
 いった患者に、注射をしたり薬を渡すだけで、しかもその大半はお年寄りで、治療より
 は患者仲間と雑談にくる老人もいる。せっかく大学病院に十年もいたのだから、その見
 識と技術を発揮できるような手術をしてみたい。
・看護婦や事務の女性達は、悠介が札幌の大学病院からきたことは知っているが、なぜ辞
 めてきたのか、本当の理由は知らないようである。表面は、東京に出てきたくてきたと
 いうことになっているが、近くに住んでいるのに隔日しか出てこないことに疑問を抱い
 ている者もいるようである。
・周に三日間、休日を含めると四日間、悠介は朝から自由である。初めはその自由な一日
 を得たとき、悠介はいささか手持ち無沙汰であった。もう自由なのだと思いながら、ふ
 と、一人だけこんなのんびりしていていいのかと不安になってくる。念願かなって得た
 贅沢な時間が目の前にあるのに、悠介はまだ、これを満喫する余裕がない。
・以前、大学病院に勤めていたころは、忙しすぎて小説が書けないのだと思い込んでいた。
 こう忙しくてはゆっくり小説を書けない。もう少し暇さえあれば、自分でも納得できる
 ものが書けるはずだと思い込んでいた。
・事実、大学を辞めた理由の一つは、小説を書くのに充分な時間が欲しかったからである。
 だがその念願がようやくかなったというのに、現実はただぼんやり時を過ごしている。
・悠介も自分の怠惰にいささか呆れている。自分はこんなに怠け者だったのか。もう少し
 頑張り屋だと思っていたが、勤勉にはほど遠い。しかも最近は、そのだらだらした状態
 に結構馴染みかけているようである。
・しかし、表面は怠けているように見えても、その実、心の中では焦っていた。このまま
 では、わざわざ大学を捨てて東京まで出てきた価値がない。
・考えてみると、この「いいものを書かなければ」という思いが、曲者かもしれない。こ
 の思い込みのためにかえって肩に力が入り、自由に書く余裕を失わせているようである。
・正直いって、医師のかたわら小説を書いているときは、それほどの気負いはなかった。
 もともと小説は趣味で書いているのだから、暇をみて勝手気儘に書けばいい。たとえそ
 れがまずくても、本業ではないのだという気楽さがあった。
・忙しくはあっても肩に力が入らない自由さが、のびやかに小説を書かせていたようであ
 る。あまり気負わず、もっと気軽に机に向かったほうがいいのだ。
・人間は新しいことに慣れてくると、かつての古いことが懐かしく、好ましいものに思え
 てくるものらしい。同じ日課が続くときには飽き飽きしているのに、それが途絶えると、
 今度はその状態が恋しくなってくる。
・いわゆる自由業になって一カ月経って、悠介は、かつての通勤時代が逆に懐かしくなっ
 てきた。みな定まった時間に、定まった方向へ移動していく。勤めていたころは、それ
 が憂鬱で、ときには反対側に歩きたいと思ったこともあるが、いまは同じ方向に向かっ
 て行くサラリーマンが羨ましい。みなと並んで会社に行くかぎり、一日の生活は保証さ
 れ、社会から落伍する心配もない。今日一日会社に行ってきた以上、今夜の休息は保証
 されている。一日働いたのだから、これからあとはのんびり風呂に入り、ゆっくりテレ
 ビでも見て疲れを癒やすだけでいい。
・叱れたレールの上を走るような生活はいやだと思って、組織を飛び出してはみたが、一
 人になってみると、少し早まったような気がしないでもない。
 
愁日
・正直いって、悠介はゆっくり小説や文学のことを語り合える仲間が欲しかった。編集者
 や自分と同じような立場で小説に取り組もうとしている人と、酒でも酌み交わしながら
 話したい。だが親しい編集者は少ないし、いても忙しそうで、呼び出すほどの図々しさ
 はない。
・銀座に慣れるにつれて裕子の帰りが遅くなったが、浮気をしている気配はない。
・男恋しさに飛び込んでくるというわけでも、起こさないように控え目にというわけでも
 ない。ごく自然に疲れたから休むという感じで横たわる。その態度には、かつての恋愛
 中のような熱っぽさはないが、といって密かな情事を楽しんできた気配もない。
・とやかくいっても、裕子は自分を裏切りはしない。このところ銀座に馴染んで贅沢にな
 ったようだが、自分を愛していることに変わりはない。悠介がそのことを実感したのは、
 五月の終わりごろに夜である。
・一度未知の社会に飛び出た女は急速に成長していく。もっとも裕子の場合、東京にきて
 初めて社会に出たわけではない。それ以前から札幌でバンケットクラブを経営していた
 のだから、社会人としてはそれなりに経験を積んでいることになる。しかしバンケット
 クラブといっても、二、三十人の女性をかかえて、狭い札幌で知人を頼りに仕事をして
 いたにすぎない。その種のグループが他にもあるとはいえ、まださほど競争も厳しくな
 く、面倒を見てくれる男性もいた。
・それに較べると、今度の銀座のつとめは本格的である。なにしろいままで住んだことも
 ない大東京へ出てきて、いきなり銀座という日本で一番華やかな街でホステスをはじめ
 たのである。そんなところではたしてやっていけるのか、初めのころは不安と緊張で眠
 れなかったこともあったようである。夜、店から帰ってきても、いかにも疲れたといっ
 た様子で帯を解いていた。しかしそれも初めのうちだけで、一カ月近くも経つと東京の
 女になりきって、言葉まで東京の女性とほとんど変わらない。
・驚くべき環境への適応能力だが、それは裕子が特別というより、女性すべてに備わって
 いるものかもしれない。 
・東京に出てきた当座は、悠介の側から離れず、つきまとうという感じですらあったが、
 いまは裕子は完全に一人歩きして、しかも銀座という欲望の渦巻く街で平然と生きてい
 る。裕子が生き生きとすればするほど、悠介は陰の男になっていくようである。
・五月の末にようやく原稿を書き上げてS誌に渡してあったが、担当者の川辺さんから電
 話があった。川辺さんは女性ながら長年小説雑誌の編集をやっていて、いまは副編集長
 である。
・S誌は、いわゆる中間小説雑誌としてはもっとも落着いて風格のある雑誌である。これ
 まで悠介は主に純文学雑誌に小説を発表していたが、一度、S誌にも書かせてもらいた
 いと思っていた。その雑誌に初めて渡した原稿が、すぐ掲載されることになったのであ
 る。
・自分の小説が近くS誌に載るとわかって、悠介は急に元気がでてきた。
・今度の原稿は登場に出てきて初めて書いたものである。いいかえると、プロの作家であ
 ることを意識して書いた最初の作品である。それだけにこれが失敗すると、これからの
 前途が怪しくなり、東京へ出てきたこと自体が、間違っていたということになりかねな
 い。
・小説家を水商売といわれて、悠介は母の非常識さに驚き、かつ呆れた。だが東京に出て
 きてみると、母のいっていたことは満更、当てっていないわけでもない。たしかに東京
 にきてから、悠介は昼間はほとんどぶらぶらして、夜になってようやく原稿を書きはじ
 めるという生活を続けてきた。

揺影
・東京での孤独な生活のなかで、悠介にとって新鮮な刺戟になったのは、有津義之先生の
 ところで月に一回開かれる「石の会」の集まりであった。有津先生は昭和二十年代の後
 半に直木賞をとられた作家で、かつての中国での戦争体験を基に戦争小説や推理小説も
 書かれ、極限状況の人間心理を鋭き描き、野球評論家としても有名であった。
・会はいつも荻窪の先生のお宅で午後六時ころから開かれるが、とくに難しい取り決めや
 制約があるわけではない。会費も不要で夫人の手料理を頂戴し、ビールやウイスキーな
 どを勝手に飲む。とくに文学論や作品評などをするわけでなく、適当に集まって好きな
 ことを喋り、帰りたいときに帰ってくる、その点では肩のこらない会であった。
・有津先生はいまでこそ作家だが、世が世なら九州の大きな藩のお殿様で、旧華族という
 ことになる。そのような名門の出身でありながら、かつての中国との戦争で一兵卒とし
 て苦労され、戦後遅れて結婚された。旧華族だけに荻窪のお宅は広大で、会に使用され
 る応接間からは広い庭とプールが見渡せた。
・正直いって、このような刺戟は地方では到底味わえない。
・さらに会に出ていると、自然に文壇の事情がわかってくる。みな、それぞれに先輩や親
 しい作家をもっていて、その人達から得た情報が語られる。また新聞社や出版社に勤め
 ている者が多く、彼等からも、今度どこの新聞に誰が連載をはじめるとか、誰が次回の
 文学賞の有力な候補だとか、どの作家とどの評論家が仲が悪く、激しくやり合っている
 といった噂話も多い。いずれ地方では到底知り得ぬ内側の情報で、いわばゴシップに近
 いが、それらをきいているうちに、いままで悠介が遠くに思っていた作家達が生々しく、
 身近な存在に思えてくる。
・地方は人が少ないだけ人目が気になるのか、建前論が先行するが、都会は他人の目を意
 識しないだけ、自分の気持を正直に出せるかもしれない。とくに自由業の世界は、それ
 が当然とみなされているようである。
・「石の会」とともに、いま一つ、悠介が刺戟を受けたのは、二人の郷土出身の作家に会
 い、その謦咳に接することができたことである。その一人は文芸評論とともに小説も書
 かれていた小樽出身の伊織先生で、もう一人は札幌出身の作家村山徹先生である。
・悠介は学会で上京した機会を利用して、思いきって伊織先生のお宅へ電話をし、伺いた
 い旨を告げた。悠介は自分から、芥川賞と直木賞の候補になったことを告げ、現状では
 石の仕事が忙しくて、なかなか思うように小説を書けないことを話した。正直いって、
 悠介は先生から「思い切って小説一本に絞ってみたら」といわれることを期待していた。
 その一言は今後の励みになるし、これから迷ったときにも決断しやすい。だが先生は悠
 介の内心を見抜いたように、別の答えをつぶやかれた。その一言をきいた途端、悠介は
 出鼻をくじかれたような戸惑いを覚えた。勢い込んで踏み込んでみたが、先生は冷静に
 現実を見詰めているようである。地方にいて一、二本いいものを書いたからといって、
 すぐプロの作家になろうなどと思うな、この道はそんなに甘く、安易なものではない。
 相変わらず先生の態度は穏やかだが、眼鏡の奥の目にはそうつぶやいているようでもあ
 る。
・再び悠介が先生にお会いしたのは、それからほぼ二年あとだった。このとき、悠介はす
 でに大学病院を出て、地方の病院に出張の形で勤めていた。母校でおこなわれた心臓移
 植手術を批判したおかげで、悠介は大学にいづらくなり、このままでは二足の草鞋も限
 度にきて、大学を辞めることはほぼ既定の事実になっていたが、なお心は揺れていた。
・悠介は忙しいときに押しかけてきたことを詫びてから、「実は中間小説雑誌に書かない
 かといわれているのですが、いかがでしょう」いいきってから、悠介は叱られるのを覚
 悟した。だが先生の返事は予想とは別だった。
 「お書きなさい。あなたがいくらお金があっても全国の新聞に名前を出すのは難しい。
 でも雑誌に書くと無料で広告してくれたうえ、有名にしてくれるのですよ」
 先生は作家にしては珍しく商科大学の出身だが、さすがに視点も広くユニークである。
・いま一人、郷土出身の作家で悠介が直接お会いして、親しくお際き合いいただいたのは
 村山徹先生であった。先生は作家としてスタートしたのは早く、昭和二十年代の初めに
 早くも第一次戦後派として活躍されたが、以後しばらく筆を絶たれ、昭和四十年代の半
 ばから石狩を舞台にした小説で復活された。
・村山先生は情熱的で、やや無頼の気配がある。事実、このあと村山邸を何度か訪れるう
 ちに、悠介はご夫婦から、先生が一時、筆を折られるにいたった経緯と、そのときの悲
 惨な生活について、お話を伺う機会をえた。
・戦後間もなく、先生は第一次大戦後派のホープとして華々しく文壇にデビューしたが、
 間もなく酒からピロポンを中心とした覚醒剤に手を出すようになった。当時は戦後の混
 乱期で、先生にかぎらず、その種のドラッグに手を出す人は多く、とくに芸術関係にた
 ずさわる人々にその傾向が強かった。
・先生が愛用されたのは主にヒロポンで、友人にすすめられて射つうちに習慣性になり、
 気がつくと取り返しがつかなくなっていた。もっとも当時は規制も厳しくなく、比較的
 簡単に手に入ったが、それだけに中毒もすすみやすく、昭和二十年代の後半には小説も
 書けなくなってしまった。
 「そのうちワイフもやり出してね、夫婦で家のなかをのたうちまわっていたものです」
・中毒患者は自分が薬の溺れると、身近な者まで巻き添えにしたくなるものらしい。奥さ
 んのほうも先生の苦しむのを見かねて、切なさのあまり、つい手を出すという悪循環に
 なったようである。覚醒剤に溺れ、痩せ衰えた夫婦が並んで壁に爪を立てている姿は、
 まさしく地獄絵に違いない。
・たしかに当の村山夫婦は地獄の責苦に遭ったかもしれないが、聞く者としては、そこに
 ある無頼な作家の生きざまを想像して興味をそそられる。覚醒剤に溺れて中毒になる善
 悪はともかく、そうした凄惨な生き方のなかに、一人の作家の魂の苦悩と放浪を見るよ
 うな気がしてかえって心が惹かれる。
・規則正しい生活をして、自分が意図したとおりに仕事を続け、それを全うした作家も立
 派だが、同時に弱さをさらけ出して地獄を這いずり廻った作家も、また見事だと思う。
・こんな話はなかなかきかせてもらえるものではない。東京でも、これほど正直に語って
 くれる作家はないだろうし、ましてや地方になぞいるわけはない。
・地方にいると少し書けただけで、お山の大将になるそうな危うさがあるが、東京ならそ
 んなことはありえない。上を見ればきりがないし、下を見てもきりがない。地方では想
 像もできぬ人間の幅があるところが、東京の大きさであり、素晴らしさかもしれない。
・東京へ出てきて二カ月経って、悠介は都会の生活にも馴れてきた。大都会の生活は殺風
 景で孤独だといわれるし、都会の人は冷淡で打算的だという人もいる。だが現実に生活
 してみて、悠介は必ずしもそうは思わない。
・たしかに東京はコンクリートとビルでうずまり、車と人があふれて殺伐としているが、
 それだけ刺戟と緊張に満ちて、好奇心をそそられる。
・住む人も地方の人々のように人懐っこくはないが、かわりに他人の内側にずかずかと入
 りこまない節度のよさもある。余計なお節介をされない分だけ、むしろ住みやすいとも
 いえる。とくに悠介のように、女性と同棲している身には、都会の人の無関心さが好ま
 しい。もともと札幌もあまり他人のことに干渉しない街であったが、東京は大きいだけ、
 さらに寛容なのかもしれない。
・札幌は明治維新になってから全国各地の人々が寄り集まって出来た、新しい街である。
 いわば植民地で、もともと守るべき伝統も因習もなかっただけに、明るく解放的である。
 植民地ということからみると東京も同様で、いまや全国各地からの人々によって形づく
 られている。さまざまな地方からの人々が混じり合っているだけに価値観も多様で、そ
 れだけ自由で個人主義的でもある。
・病院の看護婦や事務の女性達は東京近県の出身者が多いようだが、彼女等も比較的のん
 びりしている。 あまり重症患者がいないせいもあるが、午後、外来患者が途絶えて暇
 になると、患者からもらった菓子折などを開いて、みなでお茶を飲む。
・院長はあまり外来に顔を出さないが、町内の冠婚葬祭や住民との相談ごとなどで忙しそ
 うである。来るべき総選挙のための下工作とはいえ、病院のほうを犠牲にして走り廻る
 のだから大変である。それほどまでしなくてもと思うが、一度、選挙の魅力にとり憑か
 れたら、なかなかやめられないものなのかもしれない。
・梅雨の晴れ間の日、B社から一通の手紙が届いた。ある予感とともに開封してみると、
 今年の上期の直木賞の候補に悠介の小説がノミネートされたことの報せであった。
・候補の上げられた作品は、悠介が一年前、心臓移植を素材にB誌に書いた連載を、新書
 判にまとめたものであった。現実におこなわれた心臓移植を小説化したもので、執刀す
 る教授の立場を中心に、それを追う若い記者なぞをからませてドキュメンタリータッチ
 で追いながら、移植する医師の内側を描こうとしたものである。
・他のひとはともかく、悠介自身この種の小説としては、さほど悪いものとは思っていな
 かったが、直木賞の候補作となると、いささか問題がありそうである。
・事件小説や内幕小説にならないよう、細心の注意を払い、登場人物の心理を中心に書い
 たつもりであったが、出来上がったものは、ドキュメンタリーとしてはそれなりの価値
 があるが、小説としてはいま一つ彫が浅いものになっていた。いずれ時期をみてゆっく
 り書き直そうと思いながら、すすめられるままに単行本として出版した作品である。
 その本が直木賞の候補にあげられてしまった。正直いって、悠介は半ば嬉しく、半ば不
 満であった。もちろんノミネートされたことは有難いが、この作品で受賞はまず難しい。
 
乱調
・裕子が、それまでつとめていた銀座の店を辞めたのは、梅雨が明けて間もない七月の末
 であった。せっかく馴れてきた店をどうして辞めたのか、悠介には理解しかねたが、裕
 子にはそれなりの考えがあるようである。
・裕子の説明によると、ホステスには客を受け持つ、いわゆる売る上げの女性と、客をも
 たないヘルプの女性の二通りがあるらしい。売り上げのホステスは店と毎月何万円売り
 上げるという契約を結び、それに応じて給料をもらい、さらに売り上げの一割から一割
 五分くらいのバックマージンをもらえる。これに較べて、ヘルプは直接自分の客を持た
 ないので気が楽だが、その分だけ収入も少なくなる。裕子はこれまでヘルプをやってき
 たが、このあたりで売り上げをやってみたくなったようである。
・どうやら銀座のクラブは日々、ホステス同士で、客を引いたり引き抜かれたりしながら、
 激しい競争を繰り返しているようである。
・売り上げをやるということは、店のフロアーを借りて、個人で営業をしているようなも
 のだから、経営者と同じ気配りが必要である。しかも裕子の場合、他のホステスから奪
 ってきた客ばかりだから、またいつ奪り返されないともかぎらない。
・裕子が忙しくなるにつれて、悠介のほうも徐々に忙しくなってきた。悠介と裕子、とも
 に順風満帆というほどではないが、やや追い風が吹き始めたことだけはたしかなようで
 ある。
・しかし現実の生活は、追い風に身をまかせるほど優雅なものではない。休みの日なぞ、
 裕子は昼過ぎまで眠りこけているし、悠介はかわりに朝早く起きて書き始める。同棲し
 ているといっても二人の生活パターンはまちまちで、それだけに一緒に食事をしたり、
 映画や芝居を見る機会も減ってきた。
・お互いに干渉せず、マイペースで伸び伸びと仕事をする。好きな女性と一緒に棲んで、
 基本的には愛し合いながら、相互の立場を尊重して拘束しない。以前から、悠介はそん
 な男女の状態が理想だと思っていた。いまの二人の状況は、理想とまではいえないが、
 ややそれに近い。
・だが互いを拘束せず、自由を認め合うという言葉の裏には、それぞれ勝手気儘さを容認
 するという、危険な部分も潜んでいる。互いに疲れて素顔を見せたまま休んでいると、
 安心感はあるが、初めに逢ったときのような緊張感は薄れていく。二人はいつも身近に
 いる存在で、逃げも隠れもしない。いまさら愛をたしかめるまでもないと思っているう
 ちに、倦怠という魔ものが入りこんでくる。
・八月初めの暑い日の夕方、悠介は病院で会計を担当している斎藤雅子と初めて二人だけ
 で食事をした。といっても、とくに会おうとして会ったわけではない。たまたまその日、
 悠介は病院が休みで部屋で仕事をしていたが、夕暮れとともに一休みしたくなり、気分
 転換のためにふらりと病院へ出かけてみた。
・そのまま診察室の前を過ぎ、人影のない待合室から病室のある二階の階段へ行きかけた
 とき、外来の受付の奥に人がいるのに気がついた。誰かがまだ残っているのか、たしか
 めようと思って近づくと、カルテの棚に向かっている斎藤雅子の後姿が見えた。
・以前からきっかりした字を書く几帳面な子だなと思っていたが、看護婦と違って直接話
 したことはなかった。ときたま患者のカルテを持って診察室に現れるが、それを置くと
 逃げるように去って行く。年齢は二十五、六らしいが、見た目は二十くらいにしか見え
 ない。とくに美人というわけではないが、額が白く浮き出して、生えぎわの産毛が愛ら
 しい。
・これまで、悠介は東京の女性に関心がなかったわけではない。悠介の周囲には看護婦や
 事務の女性達から付添婦まで、さまざまな女性が働いていた。魅力的な女性編集者もい
 た。だが悠介はこれらの人々と、仕事の上での親しさを越えて近付こう思ったことはな
 い。もちろん裕子という女性が身近にいて、よそ見をする必要がなかったからでもある
 が、同時に、東京の女性に関心を抱くほどの余裕がなかったことも事実である。
・偶然だが、いま雅子に声をかける気になったのは、東京へ出てきて三カ月が経ち、少し
 心の余裕がでてきたせいかもしれない。
・悠介は御徒町にあるホテルのレストランへ行くことを考えていた。同じ病院に勤めてい
 る女性だが、東京の女性とホテルで食事をすると思うだけで、悠介はなにやら都会人に
 なったような気がしてくる。
・もっとも、よくきくと雅子は千葉の出身で、そこの高校を出てから市川の病院に勤め、
 保険請求の仕事を覚えてからいまの病院に移ってきたらしい。
・二人で中華レストランに入った。フランス料理もあったが少し大袈裟な気がしたし、日
 本料理では落着かない。普段着の格好の雅子も、中華のほうが気が楽なようである。
・雅子は東京の女性にしては控え目で、口数の少ないほうかと思っていたが、慣れるにつ
 れて結構話し出す。いまの病院は下町でも古くて有名だが、院長が不在なことが多く、
 医師もよく替わるので、患者達の評判はあまりよくないこと。また給料も安くて、職員
 や看護婦達はみな不満を抱いていることなどを告げた。
・雅子は色白だけに染まり易いのか、すぐに頬から胸元まで赤くなる。目や鼻なぞ一つ一
 つ見るとさして整っているほうではないが、ほんのりと染まった顔は愛らしく、妙に艶
 めかしい。その少し酔いかけた顔を見ながら悠介はこれから先のことを考える。
・今夜は帰るというのを無理に引きとめるまでもないが、このまま帰すのはなにか惜しい
 気がする。せっかく盛り上がったムードを捨てるのは残念である。
・誘いながら、悠介は裕子のことを考えていた。いまは八時を過ぎたばかりだから、裕子
 は店に出たころである。このあと十二時に終わったとして、まっすぐ帰ってきても午前
 一時になる。
・裕子の留守のときに、悠介が女性を部屋に入れるのは初めてである。しかも夜、一緒に
 食事をしてきた帰りである。そんなことをしていいのか、正直いって、裕子に少し悪い
 ような気がする。だが雅子は仕事の上での知り合いで、毎日顔を合わせる仲である。そ
 の女性を食事のあとで部屋にいれたからといって、とやかくいわれる理由はない。
・九時を過ぎて下町は静まり返り、遠くから都電の加速していく音だけが聞こえてくる。
 悠介はその音が消えるのを待って、雅子の肩に手を当てる。瞬間、平たい肩がぴくりと
 動き、 それに誘われたように、悠介は両手で雅子をとらえる。「だめっ!」という声
 が洩れたように思ったが、悠介はかまわず抱き寄せ、顔をおおう。雅子はなお数回腕の
 中でもがいたが、じき静かになり、やがてあきらめたように唇を許す。接吻はまだ稚く、
 唇と唇が触れるだけで舌の侵入は許さない。
・女性を求めるとき、慌てて一気に求めすぎては失敗する。たとえ女性がその気であった
 としても、性急に迫られては、せっかくの気持も失せるというものである。できること
 なら、いまこのまま雅子を求めたいが、それでは少し慌てすぎというものである。
・欲しい気持を抑えて、悠介はいま一度、接吻をくり返して、雅子を帰した。もしそのま
 ま強引に求めたら、あるいは許してくれたかもしれないが、いまは接吻を交わせただけ
 で満足である。今夜のことを悠介は忘れないし、雅子も忘れないだろう。一夜、二人で
 逢っただけで、悠介も雅子も、まわりに大きな秘密をもったようでる。
・やはり二人だけの生活に慣れるにつれて、緊張感が薄れてきたのかもしれない。言い訳
 はともかく、現実に浮気心をおこしたのは悠介のほうだから、雅子と逢った痕跡は完全
 に消しておかなければならない。
・裕子に気付かれなかったことで自信をえたというわけでもないが、三日後に、悠介は再
 び雅子と逢って食事をした。今度はあらかじめ「東京うまいもの店」という本で調べて、
 浅草の国際通りに面した和食の料理店に行った。前回よりは大分、食もすすみ、よく話
 しようにもなった。やはり一度の接吻が、二人のあいだを急速に近付けたようである。
・食事のあとバーを一軒廻り、また部屋に誘うと、雅子は少し戸惑いながらも従いてきた。
 前回と同様、部屋に連れ込むのは、われながら芸がないと思うが、雅子と二人だけにな
 るためには仕方がない。シティホテルやラブホテルに行く気なら問題はないが、いきな
 り誘っても雅子は承知しそうもないし、強引に連れ込むのも見苦しい。恋の始めはとも
 かく、接吻からもう一段深いつながりが欲しくなったとき、あまりいやらしくなく誘う
 方法について、男はいつも頭を悩ませる。
・もっとも今回は準備万端、同棲の匂いのするものは極力隠し、奥の部屋には布団まで敷
 いてある。それもわざわざ敷いたという印象をなくすために、掛布を乱し、ついいまし
 たがまで仕事に疲れて眠っていたといった様子にしてある。恋を重ねるたびに男は賢く
 なる、というより悪になるというべきか。
・もちろん雅子は、そんな仕掛けがあるとは知るわけもない。しかし前に行って接吻を求
 められた部屋に、また黙って従いてくるところをみると、ある程度、覚悟はできていた
 かもしれない。
・悠介はトイレに立ったのを機に明かりを消して雅子の横に坐る。瞬間、雅子は警戒する
 ように腰を浮かしかけたが、かまわず唇を求めると素直に許す。そのまま襖を開けると、
 布団が敷いてあるのを知って、雅子は驚いたようである。慌てて目をそむけたが、かま
 わず抱き寄せ奥へと誘うと、躰をひねって逆らおうとする。それを強引におさえて、も
 う逃がさぬというように強く抱き締しめているうちに、雅子は次第に大人しくなり、最
 後はすべてあきらめたように力を抜く。ようやく、雅子は許す気になってくれたようで
 ある。
・肌に触れたとき、悠介は緊張で熱くなったが、雅子の態度は想像していたのと少し違っ
 ていた。初めて会ったときの頼りなげな外見やもの怖じした態度から、性の体験はあま
 りないのだと思っていたがそれは錯覚だったようである。見た感じとは別にかなり豊富
 らしく、ある一点までは逆らっていたが、そこを超えるとむしろ積極的に受け入れ、途
 中からははっきりと悦びを訴える。だが最後に悠介が達しそうになったとき、雅子は
 「だめよ」といって、素早く躰をひいた。妊娠するのを怖れたようだが、その態度から
 も、雅子がかなりの経験があることはたしかなようである。
・激しいときが終わって、二人で横たわったまま、悠介は安心と後悔のまじった、少しや
 るせない気持にとらわれた。雅子とは会ったときから好意を抱き、話すうちに急速に惹
 かれていった。東京に出てきてこんなに早く、他の女性と親しくなれるとは思ってもい
 なかった。だがそうした満足とは別に、心の片隅では、ついにここまできてしまったと
 いう、軽い悔いと不安がある。
・雅子とこんなことになって、これからどうするのか。このまますすめば、裕子とともに
 棲みながら、一方で雅子も愛することになる。複数の女性と際き合ったことはあるが、
 こんなに近くにいる二人と親しくなったのは初めてである。ここで裕子と棲んでいるこ
 とはいずれ雅子にわかるだろうし、雅子と際き合っていることは、いずれ裕子にもわか
 るに違いない。
・たとえ悪事でも、人間はくり返すうちに慣れてきて、悪いことをしているという意識も
 薄れてくるらしい。初め裕子の留守中に雅子を部屋にいれて接吻しただけで、悠介はな
 にかひどい罪をおかしたような気になっていた。これでは、知らずに働いている裕子に
 申し訳ないと、しばらくうしろめたい気持にとらわれた。だが反省したのも束の間、再
 び雅子を部屋に誘い、結ばれたときは、雅子を抱いた喜びとは別に、自分のしたことに
 驚きうらたえた。こんな裏切り行為をして許されるのか、自分で自分の図々しさに呆れ
 てもいた。だがその呆れはてたはずの行為を、気がつくとまたくり返している。しかも
 次第に大胆、かつ無神経になっている。
・この場合、悠介が責められねばならぬことは二つある。まずその一つは、裕子という女
 性がいながら雅子に近づき、深い関係にまですすんでしまったことである。これはあき
 らかに裕子への裏切りであり、背徳である。あらにもう一つは、裕子と二人のための部
 屋で、雅子と結ばれたことである。百歩譲って、雅子との浮気は許されたとしても、二
 人で棲んでいる部屋に、別の女性を連れ込んで関係するのは破廉恥すぎる。これでは主
 のいない間に悪事を働く、泥棒猫のようなものである。
・結ばれて二度目に、悠介は錦糸町の駅に近いラブホテルに誘ったが、雅子は同意せず、
 結局、そのあたりをぶらぶら歩いただけで終わってしまった。その次に逢ったときよう
 やくホテルに入ったが、入るまで手こずったし、入ったあとも部屋の中を見廻して落着
 かない。しかも運悪く、帰るときに他の客とエレベーターの前でぶつかって、気まずい
 思いをした。
・二人のあいだに秘密ができてから、雅子は自分達の部屋のようい気軽に訪れる。むろん
 その都度、悠介はあらかじめ裕子のものを隠し、雅子が帰ってから元に戻すという作業
 を忘れなかった。だが、それも回を重ねるうちに大胆になってきて、ときには元に戻す
 のを忘れることもある。
・雅子も何度かくるうちに慣れてきて、自分からコーヒーを淹れたり、食器程度は片付け
 てくれる。あまり家庭的なことをされると、裕子と一緒にいることがばれるかと気が気
 でないが、雅子はそのことについてはなにも尋ねない。
・ただ一度だけ、結ばれたあとで、雅子が泊っていきたいようなことをいいだしたときに
 は、いささか狼狽した。辛うじてピンチは逃れたが、部屋で逢うのもこのあたりが切り
 あげどきかもしれない。
・雅子の疑惑を解くためには、一度、部屋に泊めなければならない。そんなことを考えて
 いるうちに、その機会は意外と早く訪れた。八月のお盆休みに、裕子は一週間の休暇を
 とって札幌へ帰るといいだした。
・雅子は泊ると決めたが落着かぬらしく、何度も「大丈夫?」とききながら、午前一時に
 床に入った。たしかにいつもなら、裕子が帰ってくる時間である。なんと大胆なことを
 しているのか。急に不安になるが、いまさら慌てても仕方がない。悠介が抱き寄せると、
 雅子がつぶやく。「やっぱり、泊ると落着くわね」
・このまま泊るのが癖になられると困るが、これで他に女がいるという疑いだけは解けそ
 うである。 
・一度泊って度胸ができたのか、このあと裕子が不在のあいだに、雅子は休暇をとって再
 び泊っていった。
・雅子と較べて、裕子とは、現在にいたるまで長い歴史がある。初めは他の男の女性であ
 ったのに親しくなり、駆け落ち同然に逃げてきた仲である。同じ街の出身で気心も知っ
 ているうえに、少し金費いは荒いが、性格はさっぱりしている。客観的に見て、雅子は
 若いが、容姿ははるかに裕子のほうが勝っている。雅子とは比較にならぬほどのたしか
 な絆と愛着もあるのだから。そんな簡単に別れるつもりはない。
・ただ一つ、事件といえば、九月の初めに悠介がなに気なく求めたとき、裕子に拒否され
 たことである。二人で東京へ出てきたころ、悠介は毎日のように裕子を求めていた。も
 っとも、それは初めの一カ月くらいで、悠介も裕子も、見知らぬ都会で二人だけでいる
 という思いが、互いに愛しさをかきたてたようである。しかし、一カ月経ち、ともに東
 京の生活に慣れ、仕事が忙しくなるにつれて結ばれる回数は週に二、三回から、さらに
 一回くらいへと減ってきた。ともに一緒に部屋にいて、いつでも求められるという安心
 感が、かえって求める意欲を殺ぐようである。悠介が雅子を知ってからは、結ばれる機
 会はさらに減っていった。
・悠介は遅れた夏休みをとって北海道へ帰った。札幌に五日間いて、九月半ばに六日ぶり
 に東京へ戻り、ドアの鍵をあけた途端、悠介は別の部屋に入ったような錯覚にとらわれ
 た。裕子はまだ家にいる時間なのに姿はなく、応接セットも、箪笥も鏡台もない。鍋や
 食器とともに、バスルームのマットからドライヤーまで消えている。
・悠介が北海道へ行っているあいだに、裕子は家財道具もろとも逃げ出したようである。
 もともと裕子は大胆なことをあっさりとやりとげる。普通なら、なかなか決心がつきか
 ねることを、いとも簡単に実行する。大胆不適というか、恐いもの知らずというべきか。
 今度も、悠介が北海道へ出かけて不在のいまがチャンスと見て、一気に荷物をまとめて
 逃げ出したのかもしれない。見事というか、呆れるというか、その早業に感服せざるを
 得ない。
・ともかく逃げていった女のことは忘れて、いまは仕事のことに専念し、裕子がいなくな
 って淋しくなった分雅子でおぎなえばいい。いささか虫のいい考えだが、それでいける
 と悠介は思い込んでいた。だがどういうわけか、雅子はあまり嬉しそうな顔をせず、レ
 ストランに誘うと、「わたし達、まだ逢うのですか」と、奥歯にものがはさまったよう
 ないい方をする。
・病院の職員たちのあいだで裕子が出ていったことはかなりの噂になっているようである。
 「せんせい、あんまり女の人を弄ぶものじゃありませんよ」
 突然、先生といわれて怯んだ瞬間、雅子はくるりと背を向けて出口のほうに去っていく。
・「二と追う者は一兎も得ず」というが、どうやら悠介の現状はそれに近い。裕子はいつ
 も身近にいてくれるものと安心して、雅子という若い女性とも親しくなったが、両方と
 際き合っていることが知れて、結局、二人に逃げられた。
・こちらが腰を低くしたところで、相手に許す気持がなければ無駄だし、それ以上に、裕
 子がいまも悠介に愛着をもっているか否かが問題である。家財道具まで持って逃げ出し
 た女が、そう簡単に戻るとは思えないが、怒って出て行ったということは、裏を返せば、
 それだけ愛着をもっていたからともいえなくもない。
・札幌にいるときなら、たとえ裕子に逃げられたとしても、これほど慌てることはなかっ
 た。出て行きたいなら仕方がないと早々にあきらめて、次の女性でも探していたかもし
 れない。それがここまで、未練たらたら追いかけるのはどういうわけか。正直いって、
 いま悠介が裕子に執着するのは、愛情や未練だけからではない。そうした男女のつなが
 りと同時にこれまで東京で築いてきた、さまざまな生活環境が崩れることへの不安もま
 じっているようである。
・はっきりいって、裕子との生活は刺戟に満ちていた。善悪とは別に、社会的には容れら
 れぬ、無頼の道を歩んでいるという思いが緊張をもたらし、新たな書くエネルギーをか
 きたてられる。裕子がいなくなって気が抜けたように感じるのは、この刺戟的な状態が
 消えたからかもしれない。ものを書く以上、この刺戟的な緊張感は不可欠である。いま
 裕子を取り戻すことは、これから悠介がものを書いていく上でも絶対に必要である。そ
 の望ましい状況を取り戻すためには、どんな屈辱にも耐えねばならぬ。
・アパートの場所は、この前行って確認ずみである。裕子と別れてからの帰り途、表通り
 から二度行き来して、場所はたしかめてある。
・悠介は少し間をおいてからドアのわきのベルを押す。ドアに耳を寄せると、奥でブザー
 が鳴っているのがきこえる。はたして開けるか開けないか。しかし深夜にここまできた
 のだから、開けてくれるに違いない。そう思いながら待つが開く気配はなく、悠介はも
 う一度ベルを押す。悠介はさらに二度鳴らし、出てこないのをたしかめてから、拳で軽
 くドアを叩く。内側にいる裕子はすでに外に立っている男が誰か、確認しているはずで
 ある。わかってドアを開けないところをみると、やはり入れないつもりか。ドアを叩く
 うちに、悠介は次第に苛立ってきた。
・悠介はドアを力一杯、引いて左右に揺らし、それでも開かないと知って、ドアの左右に
 ある窓を見る。右手は台所なのか、窓の外にさらに細かい木の柵がおおっているが、左
 手の小窓はバスルームらしく、換気扇のような通気孔があるだけで柵はない。ガラス戸
 を揺らす。やはり鍵がかかっていてあかないが、こうなったら叩き割るだけである。
 しっかり拳を握りしめ、思いきりガラスの中央めがけて叩きつける。瞬間、派手な音が
 静まり返った住宅街に響き渡るが、いまがチャンスである。
・内側から明かりがつき、眼鏡をかけた男が顔をだす。ここで怯んでは負けるとばかり、
 悠介が怒鳴り返すと、男のあとからネグリジェ姿の女性が顔を出す。どうやら、ここは
 裕子の部屋ではなさそうである。同じような窓がドアの横に並んでいるので、間違って
 隣の浴室の窓を破ったのかもしれない。
・悠介は自分の迂闊さに呆れた。裕子の部屋だと思って忍び込もうとしたら、隣りの家の
 浴室であったようである。深夜でよくわからないうえに、同じタイプの部屋が並んでい
 るので、つい間違えてしまったらしい。
・女性達の悲鳴があがるなかを突き進むと、みな怯えたように端に身を寄せて道を開く。
 この調子で逃げればなんとかなる、と思ったのが甘かったようである。大股で階段を駆
 けおりながら前方の人影を見た瞬間、悠介は足を踏み外し、そのまま転がり落ちる。
・階段の下の冷たいコンクリートに手を触れて、悠介は初めて自分が下まで落ちたことに
 気がついた。その少しぼやけた視野の中で、数人の男達がこちらに駆け寄ってくるのが
 見える。早く逃げなければと思うのだが、躰が妙に重い。それでも両手をついて立ち上
 ろうとした瞬間、激しい痛みが背から腰に走り、そのままへなへなと床に座りこむ。
・たちまち男達がまわりをとり囲み、そのあとからさらに数人の男女が駆けてくる。どう
 やら逃げるのは無理らしい。 
・彼女さえ出てきてくれたら、自分たたんなる物盗りでないことはわかるはずである。だ
 が裕子は一向に現れず、そのうち、パトカーが到着して警察に引き渡されてしまった。
 青山警察署に連行され、留置場へ入れられた。
・使い古して毛がほとんどすり切れた毛布を二枚、ほうり投げてよこす。九月の末で寒さ
 はさほど感じないが、板の間で横になるには毛布二枚では薄すぎる。仕方なく壁ぎわの
 床に毛布を一枚敷き、その上に両膝を抱えてうずくまったまま毛布を肩からかぶる。
・以前街角でこんな恰好でうずくまっている浮浪者を見たことがあるが、それと変わらな
 い。なんとも情ない姿だが、それ以上に屈辱的なのは、ベルトを持ち去られたことであ
 る。自殺するのを防ぐためらしいが、これでは少し移動するにも両手でスボンの端を持
 って歩かなければならない。
・こんな姿は病院の人々はもちろん、裕子にも雅子にも見せられたものではない。悠介は
 いまさらのように自分のしでかしたことの大きさに驚き、後悔しながら目を閉じる。
・取り調べは四十代半ばの小柄な刑事で、言葉に少し東北の訛りがある。悠介は軽い親し
 みを感じた。だからというわけではないが、刑事の訊問に、悠介はすべて正直に答える
 ことにした。
・悠介は以前から同棲していた女性が逃げて行き、それを追ってアパートまできたが開け
 てくれないので、誤って隣の家のバスルームの窓を破ったことを正直に告げた。
・刑事はたいした事件ではないと感じたようである。途中からは冗談も交え、最後に、た
 しかな身許引受人がきてくれたら、このまま釈放してもいい、といってくれた。
・悠介は裕子の名を挙げ、電話番号はわからないが、呼んでもらえないかと頼んでみた。
・やがて若い警察官がきて、「出てこい」というような手招きをする。いわれるままに留
 置場を出て調べ室に入ると、正面に裕子が立っていた。書類が裕子の前に差し出された。
・裕子が少し間をおいてつぶやくようにいう。「わたし、妊娠しているの・・・」 
・いま、留置場から出てきたところで突然いわれて、頭が混乱しているが、このことはも
 う少し落着いてからゆっくり考えなければならない。少なくとも、日中、食事をしてい
 るレストランで話すべき話題ではなさそうである。
・裕子の言葉はどう理解すべきなのか。お前は所詮、遊び人だから見限ったということか。
 それとも一人の女なぞにこだわらず、いろいろな女性と遊んでいるようがプラスになる
 と、すすめているのか。いずれにせよ、自分の子供を妊っているときは、放ってくわけ
 にいかない。
・どんな人間も、懲りて反省することはある。さすがの悠介も酔って隣の部屋のガラスを
 割った挙句、警察につかまったことは、いささかこたえた。三十半ばに達した男が、い
 ったいなにをしているのか、自分で自分を呆れてしまう。くわえて、裕子の妊娠を知ら
 されたこともショックであった。
・二人で住んでいたのだから、そういうことになる可能性は常にあったはずだが、どうい
 うわけか悠介は、裕子は妊娠しないような気がしていた。むろんそのことについて、裕
 子にははっきりとたしかめたわけではないが、まんざら根拠がないわけでもない。
 まずその一つは、これまで二年近くも際き合ってきたのに無事だったことで、裕子は妊
 娠しづらい体質が、そうでなくても、裕子のほうであらかじめ注意をしているのだと思
 いこんでいた。事実、求めようとする悠介に、裕子はときたま「今日は駄目よ」と断る
 ときがあった。さらに悠介が安心していたのは、結ばれる前に男性のほうで予防するこ
 とを、裕子は嫌っていたからである。無防備のままでは妊娠する可能性はいっそう高く
 なるから、悠介は逆に、だからこそ裕子はその都度コントロールしているのだと思いこ
 んでいた。
・妊娠を知らされて悠介はいささか慌てたが、裕子は意外に冷静であった。初めから予防
 するのを嫌っていたから、原因は自分にあるとでも思ったのか、心配しなくてもいいと
 いうが、といって俺は知らないというわけにもいかない。原因はともかく、責任の半分
 は悠介のほうにあるし、それ以上に、放っといてくれ、などといわれるとかえって心配
 になってくる。
・当然のことながら、悠介は必要な費用をもつつもりであったが、裕子はそれも求めない。
 それから一週間後に、裕子は青山の病院で中絶の手術を受けた。
・男が仕事に熱中するためには、気持が充実して気分がハイになることが必要である。適
 当にだらだらやってもすむ仕事ならともかく、原稿を書くように集中力を必要とする仕
 事では、心の片隅に一つでも、気がかりになることがあるとすすまない。すべてが順調
 に動いているという確信があってこそ、気合の入った仕事もできるというものである。
・最近、悠介は思うのだが、原稿を書くことも女性を追いかけることも、基本的には同じ
 で、なにものに対しても突っかかっていく、前向きの意欲が不可欠である。
・裕子を店まで追いかけ、はては他人の家のガラスを破って警察につかまったのも、みん
 な自分の心に正直に従った結果である。その善悪は別として、すべて一生懸命やったこ
 とだけはたしかである。幸い、裕子はこの一生懸命という点だけは認めてくれたようで
 ある。むろん以前のようによりを戻すところまではいかないが、裕子を追いかけた誠意
 だけは認めてくれたようである。
・正直いて、悠介は独り身がこれほど気楽なものとは思っていなかった。一人でいるほう
 が、精神的に自由で、そういう生き方のほうが合っているようである。だが楽あれば苦
 ありで、万事、いいことずくめとはいえない。まず最大の問題は毎日の掃除や洗濯で、
 日が経つにつれて確実に汚れていくのがわかる。少し器用な男なら、それも自分でやる
 のかもしれないが、いまの悠介には無理である。かくなるうえは、誰か家政婦でも頼ん
 だほうがよさそうだが、他人が入ると、それなりに面倒かもしれない。
・考えるうちに、悠介の脳裏に再び、雅子の顔が浮かんでくる。裕子と一緒にいることが
 知れてから、雅子は急に冷淡になったが、最近また少し機嫌が直ってきたようである。
 以前は病院で会っても口もきかず、逃げるように目をそらしていたが、最近は会釈を交
 わし、悠介が話しかけると笑顔で答えることもある。
 
混沌
・はっきりいって、いまの悠介はすべてが中途半端なようである。仕事のほうは三十半ば
 で転身してある程度うまくいったが、まだ完全に成功とはいいがたい。くわえて女性の
 ほうは、裕子との同棲は失敗に終わったが、相変わらず際き合っている。一方、妻や子
 は実家においてきて実質的に別居だが、といって別れたわけではない。さらにいえば、
 医師の仕事も週三日間だけ続けて、完全に捨てたわけでもない。万事、中途半端でどち
 らつかずである。
・十月の末、悠介は新しい女性を迎え入れた。女性の名は中原貴子といって、以前から、
 札幌の劇団で活躍していた女優である。悠介よりは一歳年上、さほど美人というわけで
 はないが、細身でエキセントリックなところが少し妖しげで、悠介は興味を抱き、何度
 か会っているうちにどちらかともなく結ばれた。それ以来、ときどきデートを重ね、貴
 子の部屋に泊ったこともあった。しかし貴子はともかく、悠介はそれだけのことで、そ
 れ以上、深入りするつもりはなかった。
・その貴子が珍しく休暇をとって京都・大阪を廻ったあと、東京へしばらく滞在して映画
 や演劇を見て歩くのだという。 
・貴子も悪くはないが、芸術づいているところがやや重荷で、一緒に棲むには少し鬱陶し
 い。しかし、二人だけで飲み歩いた挙句、貴子は悠介のアパートに泊った。いわば焼け
 ぽっ杭に火がついた感じだが、結ばれたあとで貴子がつぶやいた。「わたし、ここにい
 させてもらおうかしら」貴子の目が悪戯っぽく笑っている。
・貴子は二十歳のころ新劇女優に憧れて上京し、小さな劇団の研究生になっていたことが
 あるらしい。それなのに札幌に戻ったのは、女優として芽が出なかったからとも、劇団
 に関わりのあるある年上の男性に失恋したせいだとも、きいたことがある。
・それより悠介が気になったのは、睡眠薬まで服んで自殺しようとした、貴子の思いこみ
 の強さである。初めて会ったときから、貴子は暗闇に潜む猫のように、じっと一点を見
 詰めるような執拗さがあった。それはときに鋭さとなり、ときにべとついた感覚となっ
 て迫ってくる。おそらく自殺をはかったときも、貴子はすべての思いをその男に凝縮さ
 せて、薬を服んだのであろう。
・貴子のお尻には褥瘡の痕は、自殺をはかったあと何日も目覚めず、眠り続けていたこと
 を証明している。そのとき貴子は臀部の皮膚が深くえぐられてもわからないほど昏睡し
 ていたのであろう。
・入口のインターホンを押したが返事がない。悠介は持っていた鍵でドアを開けた。入口
 を見ると貴子の踵の低いパンプスが、きちんとこちら向きに並べられている。外にも出
 かけないのになにをしているのか。不思議に思いながら靴を脱いでなかに入る。途端に、
 悠介はなにか異様なものを感じて、息を潜めた。
・八畳の和室のほぼ中央に、貴子がうつぶせのまま倒れている。しかも左右の両足首が悠
 介の寝巻着の紐で縛られている。小瓶が二個転がり、まわりに錠剤が五、六粒こぼれて
 いる。ラベルを見ると「ブロバリン錠」と記されている。
・残念ながら、悠介はこれまで睡眠薬で自殺をはかった患者を扱ったことがない。咄嗟に、
 悠介は院長の顔を思い浮かべる。
・ドアを叩く音がして院長が現われた。院長の右手には洗浄用のサクションとチューブが
 握られている。さすがにベテランだけに、こういう患者は慣れているようである。
・院長は悠介のわきに立ち、チューブの先を強引に貴子の口から食堂におし込むと、もう
 一方の端を水を満たしたバケツのなかにさし込む。悠介はこの胃洗浄の図を、救急医療
 の本で見ただけだが、院長は経験があるらしく手慣れている。一回の洗浄では足りない
 と思ったのか、さらにバケツに水をくわえ、チューブの位置をたしかめたうえで、二度
 目の洗浄をはじめる。
・胃洗浄してパジャマに着替えさせたが、貴子はまだ眠り続けたまま意識がない。手伝い
 にきてくれた事務員の戸田君が貴子を背負って病院まで運んでくれた。病院に着くと、
 すぐ当直の看護婦が貴子を運搬車に移し、エレベーターで三階に上がる悠介は思わず立
 ち止まる。病室は二人部屋だが、その一方のベッドに、六十二歳のリウマチ患者が入院
 していて、まずいことに悠介の患者である。彼女は患者のなかでも、とくに噂好きの女
 性である。
・女は、男と違う別の思考回路でものごとを考え、行動するところがあると思っていたか
 ら、多少のことには驚かないつもりでいたが、今度だけはその驚きの範疇をこえていた。
 まずなにより驚いたのは、裕子と激しく言い争っただけで、貴子が自殺までしかけたこ
 とである。たしかに信頼していた男に別の女性がいて、しかもその女性に突然、激しく
 罵られて衝撃を受けたことはわかる。見知らぬ大都会に一人でいただけに、急に不安に
 なったこともわかる。しかしなにも、自殺まですることはないではないか。もはや生き
 ていても無駄とばかり、大量の睡眠薬を服んでしまう。短慮というか大胆というか、い
 ずれにしても、男の悠介には到底考えられない不可解な行動である。
・さらに不可解なことは、それほど激しくやり合っていながら、帰りにはしっかりと電気
 釜を抱えていったことである。別に、電気釜を買えぬほど困っているわけでもないのに、
 唯一の戦利品のように抱えていく。
・ナースセンターを出ようとした途端、うしろに鋭い視線を感じて立ち止まる。誰かに見
 詰められているような気がして振り返ると、センターの中程に雅子が立っている。婦長
 と話しているときには気づかなかったが、悠介の斜めうしろから、こちらを見ていたよ
 うである。なぜ、雅子がナースセンターにいるのか、不思議に思って声をかけようとし
 た途端、雅子はくるりと背を向け、リスのように看護婦のあいだをすり抜けていく。ま
 さに一瞬のできごとであった。射るような目でこちらを見て、視線が合った途端、逃げ
 るように去っていった。
・このところ、雅子とは会っていなかった。一度二人だけで会って、これまでのいきさつ
 を正直に話して、雅子の頑なな気持をほぐそうと思っていたときに、貴子が上京してき
 て、延び延びになっていた。しかし今度のことで、貴子が部屋にいて自殺未遂までした
 こともわかったに違いない。これで、雅子との関係改善はさらに遠のきそうである。ま
 たまた失敗したと思うが、自業自得である。
・三日目になると、看護婦達の態度も大分落着いてきて、悠介への接し方も自然になって
 きた。しかし今回のことで、悠介への見方が厳しくなったことは避けられないようであ
 る。いままでなら、裕子と同棲していたことがわかったあとでも、少し遊び好きの困っ
 た先生といった程度でおさまっていたが、いまはいろいろ問題をかかえている危ない先
 生、といった感じで見ているようである。
・これらの看護婦達にくらべて、終始変わらないのは院長の態度である。もともと忙しい
 人だから、他人の女にことなぞかまっていられないのかもしれないが、それにしてもさ
 っぱりしている。さすがにベテランらしく、こうした事件には慣れているかもしれない
 が、はたしてそれだけなのか。もしかして、院長は悠介に武士の情けに似た、共感を覚
 えているのかもしれない。院長もいろいろと女性関係があって、悠介が困惑しているさ
 まを見て、他人ごととは思えなかったかもしれない。
・とにかく、女というのはわからない。なにを考え、なにをしようとしているのか、皆目、
 見当がつきかねる。そして、そんな女を追いかけている男の自分とは、いったいなんな
 のか。 
 
木枯
・男と女の関係は、どれほど親しく、強く結ばれていても、一つ手順が違うと、たちまち
 解けて崩れてしまう。そのことを知ったことは、大きな発見と同時に、いささか淋しい
 気がしないでもない。
・秋が終り、貴子も去って、ようやく本腰を入れて仕事ができるかと思ったとき雅子が病
 院を辞めるという噂が聞こえてきた。そのことを、本人からきたのではなく、他の看護
 婦から教えられたのである。
・悠介は直ちに雅子に電話をかけ、翌日の夜、二人で逢う約束をとりつけた。雅子は気持
 が高ぶっているのか、瞼のまわりがうっすらと朱を帯び、セーターから見える胸元が妙
 に白く艶めかしい。こんないい女をどうしていままで放っておいたのか。いや、放って
 おいたのではなく、少しのあいだ手を抜いていただけである。去っていくと知って、悠
 介はますます雅子を手放すのが惜しくなってくる。
・暮から正月にかけて、一週間ほど帰省して、悠介はもはや札幌には戻れないことを改め
 て知った。この間、大学時代の友人に会ったが、みなそれぞれの仕事に熱中し、悠介と
 はすでに話題が噛み合わなくなっていたし、医局にも悠介の戻る余地はまったくなくな
 っていた。勝手に出て行ったのだから、当然といえば当然だが、いま悠介が住むところ
 はなさそうである。母や妻には申し訳ないが、なおしばらく東京で頑張るよりない。
・裕子は再び店を替わって忙しそうである。今度のところは前にいたところよりさらに一
 段高級なクラブで、給料もかなりアップしたらしい。収入が多くなれば、それだけ苦労
 も多いということだが、それにしてもこの一年足らずで、裕子は小さな二流のクラブか
 ら銀座でも最高級の店にまで駆けあがったことになる。
・ホステスといっても、最後は容貌より、頭のよさと仕事への意欲が決め手となってくる。
 正直いって、裕子は頭がきれるという感じではないが、勘は鋭いようである。理論的と
 いうより、むしろ勘で判断して、結構、的を射ている。もともと水商売は理屈ではない
 から、それでいいのだろうし、客のほうも変に小賢し女より、裕子のように一見、呆う
 として、その実、しっかりしている女性のほうが気に入れられるのかもしれない。とも
 かく、銀座の一流クラスのホステスと、売れない無名作家とではあきらかにアンバラン
 スで、悠介にとってはいささか過ぎた女性ということになる。
・裕子の部屋には、部屋番号を記した金属プレートの上に、裕子の姓が記されている。悠
 介は一旦、なかの様子を窺うようにドアに耳を近づけてからチャイムを押してみた。鈴
 の重なり合うような音がなかできこえるが、人がいる気配はない。ズボンのポケットか
 ら鍵を取り出した。悠介は白く輝く鍵を鍵穴に入れて廻すと、小さな金属音がして鍵が
 外れ、そのままドアの把手を握って手前に引く。瞬間、鈍い音がして、手に衝撃を受け
 る。不思議に思ってドアを見ると、鍵ははずれているが、内側にもうひとつドアチェー
 ンがかかっているらしい。鍵があいているのになぜ開かないのか、考えるゆとりもなく、
 悠介はもう一度、力一杯引く。瞬間、内側のチェーンが伸びきり、その先に裕子のひき
 つった顔が見える。
・裕子は近づいてきたが、逆に内側からドアを閉めてしまった。たとえ閉めたところで、
 こちらは鍵を持っているのだ。悠介は再び鍵を鍵穴に入れて、ドアを開けようとするが、
 内側から引っ張ているらしく容易に開かない。
・こうなったらなにがなんでも開けてやる。悠介が力一杯引くと、さすがに女の手では勝
 てず、ドアチェーン一杯に開いたところで、裕子が慌てて部屋の奥へ去っていくのが見
 える。不思議に思って開いたドアの隙間から見ると、沓脱ぎに、裕子の靴とともに黒革
 の男の靴が並んでいる。それを見て、悠介はようやく事態のすべてを理解した。昨日か
 ら伊豆に出かけるなどといって、実際は男と一緒に部屋で過ごしていたのではないか。
・悠介がさらにドアを激しく叩き、チェーンがちぎれるほど引くと、今度は裕子に替わっ
 て男の顔が覗く。一瞬のことでよく見えなかったが、中肉中背で眼鏡をかけた中年の男
 である。 
・男が馴染みの女のところへ会いに行くと、そこに見知らぬ別の男が入りこんでいる。自
 分の彼女だと思い込んでいた女性が、まったく別の男とねんごろになっている。それと
 同じ状況が、いま目の前でくりひろげられている。悠介に鍵を渡しておきながら、別の
 男を部屋に引き込み、泊めていたとは相当な度胸である。
・最後通告のように叫ぶと、悠介は伸びきったチェーンの中程に金鋸をたてて引きはじめ
 る。まわりの人々が見たら、なにごとかと思われるが、幸い人がくる気配はない。ぎり
 ぎりと鋸の歯がチェーンに食いこむ音がして、歯のまわりに小さな金属粉が輝く。
・戸口で不気味な音がするので、裕子は不安になったようである。そろそろとドアの奥に
 裕子が現れるが、チェーンが切られているのを知って、叫ぶ。驚いた裕子は沓脱ぎのと
 ころまで駆け寄り、それから思い出したように数歩さがってまた叫ぶ。裕子はなお引き
 つった表情で切られていくチェーンを見ていたが、突然、両手で顔をおおって部屋の奥
 へ逃げていく。
・再び内側に人の気配がして、顔を上げると先程の男が立っている。今度は初めてのとき
 と違って、少し余裕を持って見詰めることができる。やはり眼鏡をかけた、背は高めだ
 が、年齢は四十半ばのようである。白ワイシャツに紺のズボンをはきネクタイはつけて
 いないが、頭は七・三に分けて、きちんとしたサラリーマンのように見える。
・男は宣言したとおり、奥で電話をかけているようである。110番でも呼んだのか、事
 情を説明している声がする。 
・どこかの会社の重役か部長クラスか、いずれにせよ、銀座の高級クラブの女性を口説く
 のだから、それなりの地位と金はあるのだろう。見た目もきちんとワイシャツを着て、
 堅気のサラリーマンのようである。そんな男が、女の部屋で騒ぎをおこしては面倒であ
 る。警察に引っぱられて事情をきかれ、会社や家に知れたら大事である。
・パトカーが着いたのは、それから数分あとだった。警官が三人中腰でこちらを窺ってい
 る。「やめないと撃つぞっ」こんなところでピストルなそ撃たれてはたまらない。いわ
 れたとおり悠介が手を止めると、途端に警官がばたばたと駆け寄ってくる。
・考えてみると、裕子は不思議な女である。はっきり浮気の現場を目撃され、挙句の果て
 に、悠介を警察に突き出しておきながら、喧嘩のことは忘れたようにのこのこ電話をか
 けてくる。しかも「どうしてる」と案じ、「ご免なさい」と素直に謝る。
 
転回
・男には一瞬の台詞に酔うときがある。自分一人でロマンチックな気分に浸り、それに酔
 うままに見境もなく重大なことを引き受けてしまう。その実態の多くは自己犠牲を強い
 るものだが、それがかえって男の自己満足をかきたてる。男が自ら、「女より男のほう
 がロマンチックだ」というのは、こういう瞬間をさしている。とにかく、男は女からの
 哀願やお願いに弱い。女が涙を浮かべ、哀れっぽく頼んでくると、つ「うん」といって
 しまう。強いところを見せたがるというか、おだてにのり易いというか、わきの甘いと
 ころである。これからみると、音は地に足をついて、しっかりやっている。
 
花雲
・トラブル続きだったが、悠介は悠介なりにいろいろ学ぶこともあった。まずなによりも
 勉強になったのは、女はきっかりとして妥協をゆるさぬ性だということがわかったこと
 である。男のように曖昧に、あれもこれもといったいい加減さはない。「いま少し浮気
 をして、じきに戻るつもりだ」といっても納得しない。「愛しているか、いないか」
 の二つだけで、その中間は認めず黒白はっきりしている。
・これにくらべると、男はたえずきょろきょろして落着かない。手許に花があるのに、近
 くに別の花があると、ついそちらへ目を向けて、ほんの一時と思いながらふらふらと傾
 いてしまう。そのくせ、元の花が去り出すと慌てて追いかける。要するに、男は浮つい
 て曖昧ということなのか。その違いを知ったことは大きな収穫であった。
・さらにいま一つ、女も浮気をするということを身をもって体験した。それはわかってみ
 ると当然のことなのに、男達は心のどこかで、女はそうそう簡単に浮気をしないと思い
 こんでいる。自分のことを棚に上げて、自分の妻や恋人にかぎって大丈夫とたかをくく
 っているようなところがある。だがそうではないことを、裕子は鮮やかに実証して見せ
 てくれた。つい一年前、二人で駆け落ち同然で出てきた女が、他の男と親しくなってい
 たという事実は、やはり衝撃的だった。
・二十代も半ばを過ぎて、結婚しようと真剣に誘う男がいたら、いかに売れっ子のホステ
 スというえども伊東は考える。すでに結婚しているのにふらふら遊んで、いつ本物にな
 るかもわからぬ男と一緒にいるより、安心できることはたしかである。性格的にはのん
 びりして鷹揚に見える裕子も、心の中ではきちんと自分の人生のことを考えていた。
・仕事のことも、家族のことも、身のまわりのことも、考えなければならないことはいろ
 いろありながら、どれもすぎ解決できる目処は立ちそうにもない。ただ一つはっきりし
 ていることは、そろそろ身勝手な生活はどこかで区切りをつけなければならない、とい
 うことである。