影絵 ある少年の愛と性の物語  :渡辺淳一

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この作品は、いまから31年前の1990年に発表されたもののようだ。内容は、ある少
年の思春期の性の目覚めと異性への好奇心と肉体的苦悩を描いた物語である。
ここに登場する主人公は、作者自身をモデルにしているのではと言われているようだ。
男の子は、五歳前後に、近所のきれいなお姉さんの耳元の白さにトキメキを覚えた。
小学一年で、男も女も前方の股間が一番大切なところで、他人には滅多なことで見せては
いけないらいしいことを悟る。
中学生になってからは、学校のトイレの木の板で囲まれた密室で、木の板に描かれた落書
きから「性交」とは具体的にはどういうことなのかを知る。そして自慰に目覚め、それか
らは、こっそり隠れてひたすら自慰に耽る。
高校生時代には、「阿寒に果つ」の主人公である天才美少女画家と知り合い、彼女から誘
いがあるも勇気がなく踏み出せず、接吻までの関係で終わってしまう。
大学生になって、自宅に下宿していた女子大生からの誘いでようやく童貞と卒業すること
ができ、やっと男になった。この作者も若い頃は女性に対しては意外と奥手のほうだった
ようだ。
この本は、子供が成長するにつれて、性に対する意識がどのように変化していくのか、男
の子が持つ性の苦悩がどんなものであるのかがよく描かれていて、自分の少年時代を思い
出して、恥ずかしくもあり切なくもあり懐かしくもあった。
また、男の子を子供に持つ母親にとっても、子供の性教育を考えるうえで、とても参考に
なるのではないかと思えた。


少年
・「性的感興」とはなんであろうか。
・あれはたしか、中学校の一年生のことであった。伸夫はよく自室にひき籠もって、辞書
 をひいた。探すのは「性交」とか「生殖」といった言葉である。
・読むうちに、伸夫の掌は汗ばみ、呼吸は荒くなり頭は血がのぼったようにぼうっとなる。
 それにしても、辞書はなんと淫らな文字の宝庫であろうか。まことに中学生のころは、
 辞書一冊あれば充分性的興奮状態に没入することができた。いいかえれば、それで刺戟
 されるほど性的興奮が旺盛であったということにもなる。
・この少年期の性への好奇心は、単に興味とか関心という言葉ではいい尽くせない、それ
 らを包括してなお湧きおこる「感興」といったたぐいのものである。
・高村伸夫が、いわゆる性的感興らしきものを初めて感じたのは、たしか五歳のころであ
 った。 
・伸夫の家から二、三百メートル離れたところに歯医者の原井さんという家があった。そ
 の日も伸夫は母に従いて原井さんの家を訪れた。母の治療というより、茶飲み話にでも
 行ったのかもしれない。
・原井さんの娘の百合子さんが布団に横たわっていた。当時、彼女はまだ十七、八歳であ
 ったように思うが、あるいはもっと若かったかもしれない。
・百合子さんは色白で睫の長い瞳がさわやかで髪を長く垂らし、いわよる良家の子女とい
 った雰囲気を漂わせていた。
・風邪でもひいたのか、本人は熱のせいか元気がなさそうで、もともと細い顔がいっそう
 頼りなく弱々しげに見えた。
・美しい女性は寝ていても美しいものなのか、伸夫は彼女の休んでいるまわりが眩しい花
 園のように思えた。 
・そのうち百合子さんが退屈したのか、布団の端から細い腕を出して枕にかかっていた髪
 を掻き上げ、瞬間、白い耳元がかすかに見えた。伸夫は見てはいけないものを見たよう
 に慌てて視線を伏せ、それからおそるおそる目を上げると、今度は布団の下のほうが左
 右に波打ち、それを見るうちに花柄の布団のなかで百合子さんの白い脚が動く図を想像
 して伸夫は急に息苦しくなった。
・それは百合子さんにとってはなんでもない、それこそ退屈まぎれに動かしただけのこと
 かもしれないが、伸夫にはなにか百合子さんの秘密を盗み見たような気がした。一瞬、
 息が詰まったように思ったのは、その微妙な動きのなかに、女の匂いを感じたからかも
 しれない。
・といって伸夫はまだ具体的な男女のいとなみや、女性の躰について知っていたわけでは
 ない。もちろん百合子さんへの思い自体、異性愛とか性欲には程遠い、ただ素敵な近所
 のお姉さんといった印象をこえてはいない。
・母が肋膜炎で入院しているとき、手伝いにきてくれた遠縁の女性が、伸夫の大きくなっ
 たペニスの先をたびたび指先で叩く。「なんだ、他人のものだと思って・・・」その乱
 暴な手付きに少し腹を立てたが、これとてまだ性的興奮には程遠い。もちろん指で弾い
 た女性の行為のなかに、異性としての優しさと軽い好奇心が含まれていることなど察知
 できるわけもない。
・おそらく男は性に関して、この「厄介な感じ」というものを生涯もち続けるもので、そ
 れはのちに「この一物さえなければ」という述懐になり、「このおかげでどれだけ苦労
 したか」という溜息にまでつながる。
・奇妙なことに幼いとき、伸夫は前方にあるペニスより、後方にあるお臀のほうが重要な
 のだと思っていた。なぜなら、ペニスに触れる回数に較べたら、アヌスを意識して、そ
 こに手を差しのべる回数は圧倒的に少ない。前のほうに頻繁に触れるという日常性が、
 ペニスを軽く見、アヌスをいわくありげな重々しいものと思いこませる一因となってい
 たことは否定できない。
・この感覚が少しずつ逆転しはじめるのは、小学校に入る直前の、四、五歳のことであっ
 たろうか。もっともこのころは、また羞恥心としてははっきり意識されたものではなく、
 「恥ずかしさ」というよりは、「どうやら、うしろより前のほうが問題らしい」という、
 漠然とした思いにとどまっている。
・「うしろより前が重要」という思いは、子供にとってかなり大きな意識の切り替えであ
 る。これを実感しはじめたときから子供の関心は前に向けられ、それが引金となって新
 しい疑問が生まれ、やがてそれが性への好奇心につながっていく。
・女の子の前のほうはどうなっているのか。自分達のようにとび出ているのか、ひっこん
 でいるのか、それとも全然別のものなのか、想像の羽根は次第に広がっていく。だが想
 像するといっても、その幅はかぎられ、いまだ性欲とか生殖といった具体的なイメー
 ジにはつながらない。
・いわゆる「お医者さんごっこ」をはじめるのはこのころからだが、それこそまさに女の
 前を知りたいという探求心からにほかならない。
・女児の秘所に指を触れたり棒を差しこもうとする行為を、探求心などといってはひんし
 ゅくをかうかもしれないが、それは男の子のもつ本能的な衝動で、いわば男という性の
 証しでもある。
・この好奇心と知識欲は、蟻を追って蟻の巣を突きとめたり、バッタを捕まえて羽根をむ
 しって内側を調べる行為と変わらないが、たまたま性的衝動というものと関連して、女
 児の大切なところに向けられるから、大人の叱責を受けることになる。
・いずれにせよ、平坦な箇所であればそこになにかないかと指を触れ、穴らしきものがあ
 れば、「なんだろう?」と、そこに指を差しこみたくなるのは、自然の本能というべき
 ものだろう。
・もはやお臀なぞ眼中にない、問題は前方の股間である。あそこが男も女も一番大切なと
 ころで、他人に滅多なことで見せてはいけないらしい。小学一年生にもなれば、その程
 度のことはわかってくる。
・だが残念ながら、その具体的な形となると見当がつかない。ときに仲間の誰かが左指で
 円い筒形をつくり、そのあいだに右の人差し指をつっこんでみせる。あるいは中指と薬
 指のあいだから、親指を少しのぞかせる。それらの仕草の度に、「助平」と叫ぶところ
 から、女の子のは奥が深くて、その前にぷつんとちいさなものがとび出ているのかな、
 と推測する程度である。しかしこれとて、具体的な形を思い描くには程遠い。
・だが形態とは別に、女の前方から、なにかが発散されているらしいという実感だけはわ
 かってくる。それは電波というと大袈裟だし、熱というと具体的すぎる。それらをすべ
 て含む女の匂いとでもいうべきものかもしれない。
・男の性において最も安定した時期といえば、幼児から小学校を卒えるまでの十年前後の
 期間かもしれない。このあいだ男は性行為をいとなむことはないし、性的問題に悩むこ
 ともない。性に関してはひたすら無欲で、欲望においても空白の期間である。
・もっとも行為だけについていえば、老年期も多くの場合、性とは無縁で、したがって性
 的には空白だという考え方が成り立たないわけではない。だがこの時期は、たとえ行為
 としておこなわれなくても、性的心情そのものまで消滅しているわけではない。いやむ
 しろ、肉体的とは別に精神的にはかえって亢進することもあり、それだけ複雑で悩み多
 き時期ともいえる。
・小学生時代の、性に関しての平穏な日々に較べて、中学生時代はまさに激動の日々とで
 もいうべきかもしれない。それはいままで地底を滲むように流れていた雨水が、いきな
 り峡谷の奔流に巻き込まれたのに似ている。
・ある生理学者が人間の基本的欲望として、食欲と性欲をあげ、これをもっとも原始的、
 本能的な欲望として、「第一本能と名付けている。ただし女性にはこの他にもう一つ
 「母性愛」を加えて三つとしている。
・たしかに戦後、人間が底辺で這いずり廻った時期、人々はこの第一本能の強さを身に染
 みるほど知らされた。たとえば食を得るために、人々はプライドも礼節も信義さえも放
 棄した。知性も教養も、飢えの前にはほとんど無意味であった。その泥沼のなかで、人
 々はなお淫らで卑猥なるものを執拗に求めた。飢えを満たさなければ死ぬから、食欲は
 まさしく第一義的な欲望であったが、それが少しでも満たされたなら、あとは競って性
 の快楽へなだれ込む。
・食欲、性欲、母性愛は、まさしく人間の三大欲望で、戦後の生活はすべてこの欲望をい
 かに満たしていくかによって、世の中が動いていった。
・この三大欲望に較べたら、父性愛とか兄弟愛などは一段低く、友情にいたってはさらに
 低く、名誉欲も支配欲も食欲の前には霞んでしまう。
・この貧しさのなかでも、性の欲望は確実に目覚めていった。まさしくこれこそ第一本能
 である。  
・小学から中学にすすんで、伸夫は性に関する自分の世界が急に広がったのを実感した。
 突然、前方の視野が開け、霞が薄れてきたようである。
・その最初のきっかけになったのは、中学校の便所である。木の板で囲まれたその密室は、
 まさに欲情をそそる言葉の羅列である。たとえばしゃがみこんだ正面の縦板にペニスが
 描かれ、その先に、毛につつまれた割れ目が描かれている。そしてその横に「入れたい」
 と乱暴な字で書かれている。
・伸夫はしゃがんでそれを見ながら一人で考える。なるほど、女のものはこうなっていて、
 男のものをあそこに突き刺すのか。
・どうやら女のそこは穴のようになっていることはたいからしいが、その実体は柔かいの
 か、硬いのか、そしてどれくらいの大きさで、どうしたらそのなかへ入れることができ
 るのか。そしれ入れるには、自分のいま持っているもので間に合うのか。それとももっ
 ともっと大きくならなければいけないのか。入れるとき、女は黙って入れさせてくれる
 のか、そしてそのとき女はどんな気持ちになるのか、考えれば考えるほどわからなくな
 ってくる。
・個人差はあるが、ほとんどの男性が、中学生の時期に己の性欲を自覚することはまぎえ
 もない事実である。もちろんそれ以前、それ以後に目覚める者もいるが、それは一部の
 例外で、大半は中学生になって忽然と性欲を意識する。それも女体への憧れとか、女性
 の優しさに心惹かれるといった異性を対象としたものではなく、自分の内側からふつふ
 つと湧き起る性欲そのものを実感し、そのはけ口を自らだけで求めようとする。
・そのもっとも象徴的な行動は「自慰」である。日本男性の自慰を知りはじめる平均年齢
 はいくつぐらいなのか。正式な統計がないのでわからないが、おそらく中学一年から三
 年くらいまでの、中学生の時期であることは間違いないであろう。
・事実、伸夫が自慰を覚えたのも、中学二年の夏だった。不思議なことにその行為は、あ
 るときなんの前触れもなく、思いがけないことから知るにいたる。
・例によって、辞書のなかに、「性交」とか「妊娠」「生殖器」といった言葉を追いなが
 ら、一人で興奮して頬を赤らめた。ふと下半身に熱っぽさを覚えて、ズボンのボタンを
 はずした。そのままパンツの前を開くと、ペニスが勢いよくとび出してきた。正直いっ
 て、そこまでほとんど無意識だったので、伸夫はでてきたものを見て驚いた。
・伸夫は慌ててうしろを振り向き、部屋の戸が閉まっているのをたしかめてから股間の一
 物に触ってみた。思いがけなく硬く、熱い。しかも指先にかすかな博動まで伝わってく
 るようである。 
・伸夫は自分が凄く悪いことをしているような気がして、出てきたものを股間におさめよ
 うとしたが、一度おおきくなったものは容易にパンツのなかにおさまろうとしない。
・さらに二、三度くり返すうちに、ふとペニスの先が両股にはさまれた。瞬間、ペニスの
 先に突き抜けるような快感がわきでて、伸夫は慌てる。いったいこれはどうしたのこと
 なのか。何故こんないい気持ちになったのか。どこかになにかの仕掛でもあったのか。
・不思議な思いでそそり立っているペニスを見るうちに、その快感がまた欲しくなってき
 た。自分のものを股のあいだにはさめば気持ちよくなる。それは偶然発見した方法だが、
 やってみると呆れるほど簡単である。
・伸夫はもう一度誰もいないのをたしかめてから、そろそろとペニスを股のあいだにはさ
 み込む。そのまま両膝を閉じ、しっかり締めつけてから軽く緩めると途端にペニスは勢
 いよく股間からとび出し、同時にむず痒くなるような快感がペニスをつつむ。
・伸夫はそのあまりの心地よさに狼狽しながら、また同じ行為をくり返す。何度やっても、
 ペニスはばね人形のようにはねあがり、それとともに確実に快感が訪れる。もはや辞書
 どころではない。欲情をそそる文字も文章も現実の快楽におよばない。
・そのまま十数回もくり返したろうか。突然、火花が散るような快感が下半身に走り、い
 きりたった先端から白い液がほとばしり出た。「あっ・・・」と、思わず伸夫は声を
 あげ、次の瞬間、ピストルにでも撃たれたように机の上に突っ伏した。
・いままでそそり立っていたペニスは急に力を失ったように頭を垂れ、それを締めつけて
 いた股間から下着まで白い液がとび散っている。
・いままで友達がなんとなく「あれ」といっていたのは、このことであったのか。よくわ
 からぬまま胡散くさいと思っていたことは、実はこんないいことであったのか。次の瞬
 間、伸夫は急に自分が大人になったような気がしてきた。
・一度知った快感は、禁断の木の実のように、もはや捨て去るわけにはいかない。そのと
 きから、伸夫は次第に秘かな快楽に没頭しはじめる。もの静かな自分の部屋に閉じこも
 っているときがもっとも危険であるが、むろん母はまだそのことに気がついていない。
・男の子が寡黙になるのは、性に目覚めた証しかもしれない。自慰を知ってから、伸夫は
 急に父や母や家族の存在がわずらわしくなってきた。家になぞ誰もいなければいい、自
 分一人ならどれだけせいせいすることか。ひたすら一人になりたいと願うとき、口数の
 多い母や姉の存在に腹が立つ。それ煎じつめれば、まわりに人がいては落着いて自慰が
 できないという単純な理由に帰してしまう。
・少し大袈裟にいえば、自慰を覚えたのが運のつきで、当分はその麻薬のような快楽から
 逃れることはできない。いや、すでにその麻薬にかんじがらめである。
・数回くり返すうち、伸夫はふと別のことを考える。股にはさんで締めつけるなら、いっ
 そ指で摩擦したほうがいいのではないか。ペニスが股間から抜け出るときに擦れて気持
 ちいいのなら、握った指を動かせは同じではないか。そう考えて、ペニスを持った指を
 そろそろと動かすと、思ったとおりむず痒い快感が一気に高まってくる。それに自信を
 得てからさらに早く動かすと、快感は一気に頂点までのぼりつめて激しい射精が起きる。
・どうやら自慰の一番簡単で確実な方法はこれらしい。みんながやっているのも、おそら
 くこの方法に違いない。 
・それにしてもこの種の行為は、きっかけがいかに偶然でも、男なら遅かれ早かれ、いず
 れ知るところになるのであろう。その証拠に、しかるべき年齢に達した男で自慰を知ら
 ない者はまずいない。まれに自制心が強くてやらない者がいたとしても、やり方を知ら
 ない者はいない。
・自慰をやるときまって頭がぼうっとして、勉強が手につかなくなる。それどころか、自
 慰を思い出しただけで頭に血がのぼるし、行為の最中はもちろんなにも考えられない。
 しかも終わったあとは少し怠くなり眠くなりこともある。さらにいま一つ、果てたあと
 の虚脱感が、いっそう悪事の悪事たることを思わせる。
・果てる瞬間の快感が強いだけに、そのあとの堕落感がいっそう強く、なにか自分も世界
 も、すべてが小さく縮まっていくような気さえする。
・初め自慰を知ったころは、やりながら自分でも怖くて、四、五日に一度であったが、馴
 れるに従って二、三日に一度から、ときには毎日することもある。
・いったい他の仲間はどれくらいやっているのか、それが気になるが、恥ずかしくてきけ
 ない。 それといま一つ、下着の汚れも気になる。自慰の度に、伸夫は下半身にタオル
 を当て、下着をなるべく汚さないようにするが、それでもパンツにはいくつかの汚点が
 つく。
・異性のせいか、母親が少年を見る目は優しく美しすぎる。少年を純粋で無垢なものだと
 思いこんでいる。しかし少年はそんなに純粋ではない。無垢とみえるのは無知の裏返し
 で、知恵さえつけばいつでも悪いことをする。もし本当に純粋で無垢であれば、その子
 は知恵がつかぬまま育ったか、よほどの悪知恵に長けた演技者かもしれない。
・少なくとも自慰を覚えはじめたときから、少年はもはや無垢ではありえない。日々生臭
 い匂いのなかに身を沈め、内側からつきあげてくる衝動と悔恨のあいだでゆれ動く。
 そしてその衝動を隠すために、少年は日々嘘をつかなければならなくなる。
・自慰が日常化するとともに、伸夫は性のことを書いた本や雑誌を買いはじめた。
・エロ本は圧倒的な魅力に満ちている。いままでの辞書や女のことを書いた小説などとは
 比較にならないほどストレートで卑猥で刺戟的である、一目見ただけで、いや、その本
 のことを思い出しただけで下半身が熱く膨らんでくる。
・だがそれでも、伸夫はまだ男女の本当のことはわかっていない。大人の男と女が裸で抱
 き合い、男のペニスを女のなかに挿入することだけはわかっているが、経験のない伸夫
 からすると、とてつもない恥ずかしいことで、そんなことは自分とは遠い無縁の人達だ
 けがやっているように思う。
・それに、抱き合うと気持ちがいいらしいが、それはあくまで男だけで、女はみんないや
 いやなのだと思う。何故なら本を見るかぎり、男はきまって「犯す」とか「奪う」とか
 「パンティを引き裂く」といった行為ばかりで、女のほうは「悲鳴」とか「襲われた」
 「泣いた」「殺された」といった内容が圧倒的に多い。稀に「夫婦和合」とか、「女の
 悦び」などといった言葉が出てきても、いま一つぴんとこない。
・性において、男は圧倒的に暴力的で、女はそれに従わされる可哀相な存在なのだとしか
 思えない。 
・伸夫が中学に入った昭和二十一年から卒業する二十四までは、日本が戦後最大の混迷の
 なかにあった時期だった。食糧は乏しく、米は配給制で、どこへ行くにも食券が必要だ
 った。街には浮浪者が屯し、駅のベンチはいつも彼らに占領されていた。街灯はほとん
 どなく、たまに市で電球をつけるとその日のうちに盗まれる。自転車泥棒が頻発したの
 もこの時期だった。
・だがその貧しさのなかでも、人間の性欲は衰えない。いやそれどころか、貧しさから立
 ちあがろうとするとき、性の欲求はいっそう強まるようでもある。
・伸夫がはっきり性をひさぐ女を見たのは、中学二年のときだった。薄野の繁華街が途切
 れる南五条あたりから東西数丁にかけて、暗がりのなかに女達が立っていた。
・正直いって、伸夫は「売春」というのがどういうことなのか、わからなかった。実際に
 彼女らを買うに当たって、どのように交渉し、部屋で二人だけになったときどうすれば
 いいのか、皆目見当がつかない。自分のものを女性の秘所に挿入するのはわかっていて
 も、具体的な手順となると不明である。
・二年生の秋ごろから、伸夫は自慰することに疑問を感じはじめていた。その理由の一つ
 は、こんなことをしていては学業成績が落ちるのではないかという不安であった。
・なにより無気味なのは、自慰で果てたあとの、ぼうっとした虚脱感である。たしかにそ
 の射精する瞬間は、意気天に昇るがごとく、全身、雲の上を漂うような心地よさである
 が、終わったあとの気の滅入りようは深刻である。突然、力が脱けて目は萎み、奈落の
 底に墜落したような荒涼感が全身をおおう。
・いま一つ、伸夫が気になったのは、ペニスをいじりすぎると発育が遅れるのではないか、
 という不安があった。本によると、男性のものは勃起したときの大きさが問題で、普段
 のときはあまり関係ないとも書いてある。またある本には、ハガキをまるめた大きさが、
 日本人の標準サイズだとも書いてある。
・そのころ伸夫が最も緊張したのは、家から三百メートルほど離れた岸本さんという家の
 前を通るときと、中学校に近いS女学校の前を通るときである。岸本さんの家には弓子
 という、伸夫の一つ下の女学生がいた。彼女は伸夫が中学校に入ってから近所に移って
 きて、北の方のO女学校に通っていた。
 
男性
・高校二年生の春は、伸夫にとっては忘れられない衝撃的な春だった。それは伸夫にかぎ
 らず、当時の高校生全員にとっても同じだったに違いない。この年の新学期から、全国
 の公立高校に一斉に男女共学が施行された。それまで「質実剛健」を校是とし、敝衣破
 帽敝衣破帽を気取り、冬も素足のバンカラを誇っていた男子学生のあいだに、突如、セ
 ーラー服の女学生が入りこんできたのである。
・伸夫は自分の隣りに、セーラー服の女学生が坐った情景を想像してみるが、具体的なイ
 メージは浮ばない。なによりも女と並んで勉強するというのが現実離れしているし、そ
 れでは教室中が女くさくなって勉強どころではない。
・共学になった初めの日の伸夫の印象は、「女の子がなだれ込んできた」という感じだっ
 た。 
・伸夫が同級生の村井麻子に関心を抱いたのは、共学がはじめって五カ月経ったころだっ
 た。髪はおかっぱでセーラー服もオーソドックスで、一部の女性とのように胸ボタンの
 位置を下げたり、スカートのだけをあげるといったお洒落もしない。顔はとくに美人と
 いうわけではないが、といって欠点もなく平凡である。
・麻子を知ってから、伸夫は自分が急に大人びたような気がしてきた。もっとも、知った
 といっても麻子と手紙を交わしたり、接吻をしたわけでもない。ただ学校への行き帰り
 や教室で個人的に会話を交わすだけである。だが伸夫の頭のなかにはいつも麻子がいる。
・人を恋する難しさは、こういうことをいうのかもしれない。伸夫は溜息をつきながら、
 ふと、大人達もこれに似たことをいつもくり返しているのかもしれないと思う。おそら
 く大人達はいま自分が経験しているのとは数段違う、もっと深くて複雑な愛の問題に立
 ち入っているのかもしれない。
・授業中、先生に質問されて前の女生徒が手を挙げる。そのとき短いセーラー服の下から
 白い下着がのぞくことがある。スリップというのかシュミーズというのか、すべすべし
 た感触のようである。うしろからその下着を見ながら、伸夫は一瞬、熱い気持ちにとら
 われる。
・また廊下を歩いているとき、スカートの横のホックがばずれ、そのあいだから下着が垣
 間見えることがある。女生徒のなかには、ことさらにセーラー服の胸元のポイントを下
 げ、スカートの裾を短めに上げている子もいる。
・共学になってからも、伸夫の自慰は続いていた。相変わらずエロ本を秘かに求め、素敵
 なヌードがあれば切り取って隠しておく。それらを読んだり見たりしたあとは、きまっ
 て自慰にふける。
・しかし奇妙なことに、そのとき、クラスメートの女学生達はもちろん、麻子のことも頭
 に浮ばない。自慰にふけりながら想像するのは、一般のヌードや漠然とした女という存
 在であって、現実に知っている女性ではない。毎日、身近に女生徒と接し、話している
 のに、何故、彼女らをイメージに描くことがないのか。セーラー服のうしろから出た下
 着や、髪を掻き上げた耳元に刺戟を受けていながら、肝腎のときには姿が消えてしまう。
・札幌の街に雪がきてクリスマスが近づいた。伸夫は、隣りの席の中井洋子の家で開くク
 リスマス・パーティに誘われていた。彼女は市内でも有数の料理屋の娘で、終えが大き
 なうえに友達も派手な子が多かった。伸夫はとくに彼女に関心があるわけではないが、
 席が近いせいで、なにか集まりがあると、きまって二、三人汚男の子と一緒に招ばれて
 いた。
・「クリスマス・プレゼントだけど」麻子は一瞬立ち止まり、驚いたように伸夫を見上げ
 た。「わたしがもらって、いいんですか」伸夫がうなずくと麻子は白い毛糸の手袋でそ
 れを受取り、しばらく大切そうに両手で持っていた。
・相変わらず雪が降り続いている。そのなかを歩きながら、伸夫は二人がすっぽりと雪の
 壁にとり囲まれているような錯覚にとらわれた。大雪のなかで二人の姿は誰からも見え
 ず、邪魔されることもない。雪は二人を別の世界に隔離するために降り続けているよう
 である。
・北国の長い冬休みが終わって三学期がはじまった初めての金曜日に伸夫は一通の手紙を
 もらった。もっとも手紙といっても、原稿用紙の端に「明日、土曜日の放課後、図書室
 で待ってます。時住純子」と走り書きされたものだった。伸夫はそれを見て、純子がい
 るはずの斜め前の席を窺ったが、彼女の姿はなかった。
・時住純子は、そでに道展や女流画家展などに入選し、一部では天才少女画家といわれ、
 スケッチ旅行や展覧会などに出かけることが多かった。くわえて胸を病んでいるという
 ことで、よく早退したり休んだりする。
・翌日の放課後、伸夫はいわれたとおり、本校舎から渡り廊下でつながる図書室に行った。
 冬休みが終わったばかりの図書室は森閑として、二人の生徒が書棚をのぞいているだけ
 だったが、その生徒もじき去っていった。
・そのまま数分経ったとき、うしろに人の気配を感じて振り向くと、純子が近づいてくる。 
・「喫茶店にでも行かない」伸夫はそれまで喫茶店はおろか、コーヒーさえ飲んだことが
 なかった。それにポケットにはわずかの小銭しか持っていない。
・「大丈夫よ、わたしがよく知っているから」いわれるままに伸夫はオーバーを着て外へ
 出た。純子は真っ赤なコートにベレーをかぶり、行き交う人達がみな振り返る。なかに
 は、純子を知っていて名前をささやく人もいる。そんな視線のなかで伸夫は気恥ずかし
 いような、自分が少し偉くなったような気持ちで従いていく。
・空いているのは半ばより奥のボックスで、そこにいたるあいだに、数人の男達が、純子
 に片手を挙げたりうなずいたりする。さらに席に坐ったあとも、二人の男が近づいてき
 て「この前のよかったよ」とか、「次のカット、早めに頼むよ」といいにくる。いずれ
 も新聞社か出版社に勤めている人らしい。彼らと対等に話すのを見ながら、伸夫は改め
 て純子の顔の広さに驚く。
・純子の前で、しかも喫茶店のなかでは、伸夫は子供同然である。伸夫は自分がまだ高校
 生で世間のことをほとんど知らないことに気がつく。
・時住純子を知って、伸夫は急に自分が大人になったような気がしていた。といっても、
 純子のすべてを知ったわけではない。たまたま誘われて喫茶店でコーヒーを飲み、学校
 や家のことについて短い雑談を交わしたにすぎない。もともと同級生なのだから、顔や
 名前を覚えているのは当然である。
・これまで純子と二人だけでデートをした同級生はいなかった。もともと純子は早熟で、
 画家やジャーナリストなど、中年の男性とつき合っている気配はあったが、同じ高校生
 で親しげな男友達は一人もいない。男性とはみな純子に好奇心と憧れを抱きながら、自
 分達とはかけ離れた存在として、遠くから眺めているだけだった。その女性と二人だけ
 で街を歩いたのである。しかも誘ったきたのは向こうからである。伸夫が望んだわけで
 もないのに、彼女から声をかけてきたのである。
・それにしても、純子とのデートは刺戟に満ちていた。初めに逢ったとき、いきなり喫茶
 店に連れて行かれて面食らったが、その後も彼女は思いがけないところへ誘う。二度目
 は、これまで伸夫が入ったこともないデパートの画廊で待ち合わせをしたあと、時計台
 裏のそば屋に入った。それまで、外ではラーメンしか食べたことがなかった伸夫にとっ
 て、純子は注文してくれたざるそばは珍しかった。そば湯を残ったたれにくわえて飲む
 ことも、そのとき初めて知った。
・当時はまだ珍しかったチョコレートやアイスクリームも、純子と行った喫茶店で初めて
 食べた。 
・だがなによりも刺戟的だったのは、純子と一緒にのんだ酒と煙草であった。それまで伸
 夫は知らなかったが、純子は高校一年生のころから煙草を喫いはじめたらしい。
・純子と親しくなって一カ月経ってから、伸夫は学校の図書室で逢うことにした。幸い図
 書室は本校舎から渡り廊下でつながる別棟になっていて、一階は閲覧室、二階は書庫と
 部員室に分かれていた。
・図書室の二階は密室の雰囲気があって、部員達の格好のたまり場になっていた。伸夫は、
 その部屋には火種をおとす小使いさんがきたあとは、誰も訪れないことを知っていた。
・「伸夫、わたしに接吻して・・・」一瞬、伸夫は自分の耳を疑った。たしかに目の前で
 きいていながら、なにか遠くを駆けて行く風の音のような気がする。闇に慣れてきた目
 には、純子が軽く顎をつき出し目を閉じているのがわかる。
・だが伸夫はまだ迷っていた。本当にこのまま接吻していいのか。もしかして、これは純
 子一流のお遊びではないのか。 
・いま、この目の前にあるチャンスを逃したら永遠に接吻をすることはできない。男なら
 大胆に行くべきだ。悪魔の囁きに誘われて伸夫は目を閉じた。そのまま伸夫はそろそろ
 と唇を近づけた。だが相手がさからわないのに接吻は意外に難しい。伸夫の唇はいった
 ん純子の鼻先に触れ、それから右に動いてようやく唇に達した。
・純子と親しくなるにつれて、伸夫のなかから麻子の存在が薄れていく。だからといって
 麻子を嫌いになったわけではない。相変わらず麻子は目立たず控え目で好ましい女だが、
 無理してまで逢おうとは思わない。
・純子のやることは、これまでの高校生のそれとはケタ外れにスケールが大きい。いきな
 り女の子のほうからラヴレターをよこし、芸術家の屯する喫茶店やツケのきくバーへ連
 れて行く。学校の図書室で深夜秘かに逢い、ウイスキーを飲みながら接吻を交わす。そ
 のどれもが伸夫には初めてのことで刺戟に満ちている。
・純子との秘めごとからみると麻子とのデートは他愛なかった。学校の行き帰り、なんと
 なく逢って話をする。唯一大人らしいことといえば、クリスマス・イブに伸夫が小さな
 プレゼントをしたことである。
・純子を知るまで伸夫はそれで満足していた。それだけで充分刺戟的だと思っていた。だ
 が大きな刺戟の前には、小さな刺戟はたちまち色褪せてしまう。純子と親しくなってか
 らは、麻子とやっていたことがすべて子供じみてみえてきた。
・伸夫が少しずつ避けているのを麻子は感じはじめたらしい。昼休みなどに視線が合うと、
 少し恨めしそうな表情をする。
・「時住さんって、素敵でしょう」いきなり麻子が尋ねたのは、三学期も終わりに近づい
 た三月の初めだった。久しぶりに帰り途に麻子と逢って、とりとめない話をしている途
 中、突然、麻子がいい出したのである。突飛だがそれだけに、思い詰めた挙句にきり出
 した感じでもあった。
・麻子が純子のことを尋ねたのはその一回だけだったが、それだけに麻子はその一度の質
 問にさまざまな思いを託していたのかもしれない。それ以来、麻子の態度は急に冷やか
 になっていった。
・伸夫達の高校は大学受験の関係から、三年生の春に修学旅行に出るのが慣わしになって
 いた。行先は京都・奈良を廻って東京へ、六白七日の旅だったが、まだ飛行機はなく、
 すべて列車を利用するかなり強行軍の旅だった。
・クラスのほほ八割が行くことになったが、純子は東京で女流展があるという理由で参加
 しなかった。 
・伸夫は純子と一緒でないのが淋しかったが、純子は先に東京に行っていて、伸夫が東京
 に着いたときに逢う約束をしてくれたので心は満たされていた。
・東京での伸夫達の宿は後楽園に近い本郷にあった。着いた翌日の自由行動の日、男子生
 徒のほとんどは後楽園の野球見物に出かけたが、伸夫は純子に逢うために上野の美術館
 へ行った。
・「わたしの常宿がこの近くだからそこへ行きましょう」十分ほど歩いて着いた旅館は震
 災をまぬがれたらしく、古いがどっしりとした構えで奥行きも深かった。純子は帳場の
 女性に軽く片手を挙げただけでなかへ入り、二階のつき当たりの部屋へ入っていった。
・伸夫は純子に接吻以上のものを求めたことはなかった。いや、その接吻さえ、純子から
 与えられたもので、自分から強引に求めたことはない。もちろん純子の胸のふくらみを
 感じても、それに直接触れようとしたこともない。それは伸夫の男性としての欲望が薄
 いということより、伸夫自身の勇気のなさが原因であった。
・もともと純子は自分とはけた外れに早熟で、それを忘れて求めていっては未熟さを暴露
 して笑われるだけである。そんな不安から純子に対してはすべてが控え目であった。
・ともかく性には人一倍関心を抱きながら、行為となると途端に臆病になる。家では自分
 でも呆れるほど自慰に熱中しながら、実際に女性に近づくと話しかける勇気さえおきな
 い。本屋写真では奔放な空想を抱きながら、いざ生身の女性を前にすると、たちまち萎
 縮してしまう。麻子や洋子など一般の女学生に対してさえそうなのだから、早熟な純子
 に求めることなどできるわけもない。
・伸夫の視線の右端に純子の胸のふくらみが見える。横からなので二つ重なって、その先
 はゆるやかな傾斜をともなってブラウスのなかに消えている。
・いま抱きしめたら、純子は大人しく従うだろうか。部屋に誘って服を着替え、胸元まで
 見せているのだから、純子はまったく警戒心を抱いていない。すでに接吻も交わして
 いるのだから、求めるのはいまだ。そう思いながら咽喉が乾き、躰が金縛りにあったよ
 うに動かない。
・旅館を出て再び花曇りの道を歩きながら、伸夫はないか大きな落としものをしたような
 気がした。推測にすぎないが、せっかく部屋まで誘われてなにもできなかった自分に、
 純子は失望したのではないか。大人と遊び慣れている純子に、自分の存在は退屈なだけ
 なのではないか。
・それから一カ月後に、純子の友人の宮地怜子から聞いた話は、伸夫の希望を根底から打
 ち砕くものだった。「あなた、知らないの。純ちゃん一週間前から釧路に行ってるのよ。
 谷村さんと一緒に」「東大を出た新聞記者よ。今度釧路支局へ行ったでしょ」
・あのとき純子は宿まで誘って、隣りの部屋で着替えまでした。もしあの場で伸夫がはっ
 きり純子を求めたら、彼女は許したのかもしれない。正直に「欲しい」と頭を下げたら、
 純子はときどきみせる大人っぽい笑いとともに、ゆっくり胸を開いたかもしれない。
 旅館からでようとしたときの純子の溜息は、大人しすぎる伸夫への失望であったような
 気がしないでもない。
・だが自分の稚さが原因だったとしても、そのときそれをのり越える手段があったわけで
 はない。そうわかるまでもなく、もともと異性に対しては稚かったのだし、その稚さが
 あったからこそ純子が近づいてきたともいえる。もし自分が、彼女がつき合っている中
 年の男性達のように世慣れて成熟していたら、純子はさほど関心を覚えなかったかもし
 れない。
・純子という素敵な女性を逃がしたことは口惜しいが、今度誰かを好きになっても、いま
 までのようにおどおどすることはないかもしれない。純子ほどの女を相手にしたのだか
 ら、もう普通のことでは驚きはしない。
・その日、伸夫は中心街の書店へ行ったが、店を出た途端、純子が上背のある男性と、肩
 を触れ合わせるように歩いているのにぶつかった。なにかよほど楽しいことがあったん
 か、純子は上体を折って笑っていたが、伸夫を認めると笑いをおさめ、一瞥をくれただ
 けで去っていった。
・夏から冬にかけて、伸夫はひたすら受験勉強に専心した。といってもすべての時間を勉
 強に集中できたわけではない。机に向って坐り続けているあいだもふと純子の豊かな胸
 や唇の感触が思い出される。彼女のことを振り切っても、すぐ勉強に向えるわけでなく、
 ほうっとしているうちに自然に手が机の抽斗の奥にかくしてあるエロ本に向っていく。
 受験勉強で疲れているのは頭だけで、躰のほうは精力がありあまっているらしい。エロ
 本を二、三頁めくり、どきつい見出しを見ているだけで下半身は早くも勃起し、吸い寄
 せられるようにそこに手が触れる。
・不思議なことに、純子との恋に熱中しているときは、さほど自慰の欲求はおきなかった
 のに、別れて受験勉強に没頭しはじめてからのほうがはりかに強くなる。
・純子が雪の阿寒へスケッチ旅行に発ったと知らされたのは、受験もさし迫った一月の末
 だった。今度も怜子に教えられたが、伸夫はもはや特別の感情は覚えなかった。中年の
 男を相手に恋をしながら画家の道を目指す純子と、普通の大学を目指す自分とは、考え
 も求めるものもすべて違っている。
・そのまま二月初めの受験日がきて、伸夫は無事、試験を終えることができた。
・純子が雪の阿寒湖で行方不明になったのをきいたのは、自由時間が突然訪れ退屈をもて
 あましていたときだった。「天才少女画家、雪の阿寒湖で消息をたつ」
・雪は一日ずつ確実に解け、四月の十日に大学の入学式があった。純子が雪解けの阿寒湖
 を見下ろす釧北峠で、死体となって発見されたのは、それから三日あとだった。
・現場は湖に向って傾斜し、そこの白樺の根元でうつ伏せのまま倒れていた。やはり彼女
 が大好きだった紅いコートを着て紅いブーツをはき、まわりにはアドルムの空きビンが
 捨てられていた。
・五月の末、伸夫の家に同じ年齢の女子大生が下宿した。女性の名前は井手咲子といい、
 函館にいる伸夫の伯母からの紹介であった。四月に札幌のクリスチャン系の女子大学に
 入ったが、寮は食事が悪く時間の制約も厳しいので、下宿させてほしいといってきたの
 である。
・初めて咲子に会ったとき、伸夫はまるまるとして林檎のような女性だと思った。明るき
 はきはきしているが、やや健康すぎて、いわゆる女らしさには欠ける。だがともに若い
 だけに話題は合う。話しているうちに、伸夫は、咲子がかなり早熟なのに気がついた。
・男と女のあいだには、理屈だけでは説明のつかないつながり方があるらしい。そのあた
 りまで咲子が知っているのかと思うと、急に彼女が年上の、さまざまな経験を重ねてい
 る女のように思えてくる。
・一緒の家にいるのだから、いまさら気取ってみせたところではじまらない。暑いときは
 咲子の前でも平気で裸になり、ズボンをはきかえることもある。だがそのくせ咲子がノ
 ースリーブを着たり、短いスカートのあいだからはちきれそうな太腿などをのぞかせる
 と、伸夫は一瞬戸惑い慌てて目をそらす。好き嫌いの感情はないといいながら、目前に
 若い女性の肌をみせられるとやはり緊張し、女を感じてしまう。
・咲子は、そんな伸夫の気持ちを知ってか知らずか、ときたまブラウスの胸ボタンを一つ
 余計にはずしたり、スリップの肩紐を肩口の先まで落としていたりする。それをみせら
 れる度に伸夫は息苦しくなり、自分の部屋へ逃げこむこともある。
・不思議なことに、いつも身近にいて見慣れてきたせいか、咲子の顔が次第に綺麗に見え
 てくる。 
・とくに咲子の存在が濃密に感じるのは夜で、自分の部屋で休みながら、この上の二階で
 咲子が寝ていると思うと落着かなくなってくる。前にエロ本で読んだ「悶える女」とか
 「女の自慰」「わたしを奪って」といった活字の数々が頭に浮び、その上に咲子の胸の
 ふくらみや太腿のまるみを重ねてみる。
・淫らなことを考えながら、伸夫の手は自然に局所に伸びていく。そろそろと触れ、指先
 を動かすうちに、咲子はオナペットとなり、この世で最も美しい女に昇格する。
・九月の初め、その日は大学の講義がなく、伸夫は遅く起きて家でぶらぶらしていた。そ
 のうち、母も買物に出かけて伸夫だけが家に残った。咲子は朝早く学校にでかけたまま
 二階の部屋は静まり返っている。その静けさのなかにたたずんでいるうちに、伸夫はふ
 と、咲子の部屋を覗いてみたい衝動にかられた。
・整理箱の抽斗をあけると、まずセーターやスカート類がたたんでおかれ、その下はネグ
 リジェなどの下着類で、一番下の抽斗の端には洗濯する予定のパンティやブラジャーな
 どが無造作におし込められている。伸夫は一瞬、息をのみ、それから宝石でも取りあげ
 るように、手前の白いパンティを手にした。胸が痛くなるほど自分の心臓の鼓動を感じ
 ながら伸夫はそれお見詰め、それから自分のしていることに初めて気がついたように抽
 斗に返すと、部屋に戻って自慰をした。
・伸夫は咲子と二人で映画を見に行った。映画は学生と画を学ぶ若い女性とのラヴ・ロマ
 ンスで、ガラス越しの接吻のシーンが話題になっていた。
・映画がおわり喫茶店でお茶を飲んだあと、咲子は「少し歩きましょう」といった。
・「わたし、本当は処女じゃないのよ」一瞬、伸夫は立ち止まったが、咲子はかまわず歩
 いていく。「仕事で家に出入りしていた人と、ずうっと年上だけど・・・」「その人を、
 好きだったの?」「ううん、好きなんかじゃないわ」「好きでない人と、どうして?」
 「誘われたからかな・・・」伸夫の脳裏に、咲子のブラウスから見えた胸のふくらみが
 甦ってきた。「でも、わたしも悪かったの、ちょっと、親に逆らいたくなって・・・」
・咲子が突然振り向いた。「ねえ、接吻して」伸夫の前で目を閉じている咲子の影が長く
 路上にのびている。 
・伸夫は一瞬、純子のことを思い、それから秋の風に促されるように咲子の唇に触れた。
 瞬間小さく圧し殺したような声が洩れ、それとともに咲子がしっかりと抱きついてきた。
 「ありがとう・・・」
・接吻を交わしたところから、家までは十分とかからない。家に入ると、出迎えた母に
 「ただいま」といつもの調子でいって、それぞれの部屋に別れた。
・伸夫が咲子から誘われたのは、そんな根雪になった日の午後だった。その日は休日で、
 父と母は親戚に一周忌で出かけ、家には咲子と伸夫と二人だけが残った。自分の部屋で
 ラジオを聴いていると、ドアがノックされて咲子が現われた。「二階にこない・・・」
 咄嗟に伸夫が答えかねていると、咲子は返事もきかずに去っていく。そのうしろ姿には
 当然くると思い込んでいる確信があふれている。
・伸夫は自分の欲望を見透かされたような気がして戸惑ったが、すぐに引かれるようにあ
 とを追った。
・並んで立つと、咲子はごく自然のように上体を寄せ、それを支えて伸夫は唇を重ねた。
・長い接吻を続けて一息ついたとき、伸夫の局所は外からもはっきりわかるほど怒張して
 いた。慌てて腰を引いて隠そうとしたとき、咲子が囁いた。「わたしでよかったら、い
 いのよ」伸夫はその声を、天からの啓示のようにきいた。
・「待っててね」咲子はそういうと素早く押入れから布団を引き出し、窓と水平に敷いた。
 ぼんやり伸夫が見とれている前で咲子は毛糸のセーターとスカートを脱ぎ、スリップ一
 枚になった。
・「さあ・・・」咲子は下着だけで床に坐っている。無防備なその姿は、伸夫には聖なる
 女神のように見える。 
・「こんなところで・・・」と思いながら、伸夫はシャツを脱ぎズボンを捨てた。そのま  
 ま夢遊病者のように近づくと、咲子は抱き寄せるように受けとめ、それから伸夫の硬い
 ものを、自分の股間に導いた。
・もはや伸夫は完全に冷静さを失っていた。どうすればいいかもわからぬまま、ただ欲望
 のおもむくまま突きすすむ。ただ咲子のなかに入るとき、「これで男になるんだ・・・」
 という思いが、一瞬、頭を横切った。 
・それは、いままで本で読んだり、考えていたことよりはるかに短く呆気なかった。これ
 が大人達が執拗に求め、憧れるほど素敵で心地よいことなのか。長いあいだ夢みてきた
 ことはこれだけのことだったのか。
・だが結ばれたあとの咲子の声は、いままでのどの声よりもかぎりなく甘く優しかった。
 「好きよ」熱い吐息とともに咲子が寄り添ってくる。「しっかり抱いて・・・」さらに
 咲子は全身をおしつけ、それに誘われるように伸夫は咲子のやわらかい躰を抱き締めな
 がら、今日から野も山も街も白い根雪でおおわれるのだと、少し気怠い感覚のなかで考
 えた。