ここは、我が家から歩いても45分程度で行ける距離にあり、当初は、運動不足解消も兼ねて歩いて行ってみようと考えていたのだが、
もうかなり気温が高くなっており、歩いて行っては、"行きはよいよい帰りは辛い"という状態になりそうなので、車で行くことにした。
この寺院は、元禄10年(1697)四代藩主
伊達綱村が開基で、松島瑞巌寺の通玄禅師の開山だという。
当初は岩手県水沢の長谷寺の旧跡を移し,甘棠山聖徳寺として建立されたとのことだ。
しかし、 正徳元年(1711)三代
綱宗没後,故人の名(雄山公)とその廟(
善応殿)に因み,大雄山善応寺と改称し綱宗の位牌寺としたとのことだ。
ところで、私がこの寺院に関心を持ったのは二つあって、一つは、この寺院の境内に「蒙古の碑」というのがあるというのと、
もう一つは、「比丘尼塚」というのがあるということであった。
「蒙古の碑」は、弘安5年(1282)南宋の帰化僧であった「
無学祖元」が、「
弘安の役」で戦死した元軍兵士の供養碑として、
弟子の清俊に命じて造らせたと伝えられるという。
この碑は、もともとは安養寺跡にあったものが享保8年(1723)に発見され、これを1890年頃に牧島観音堂境内に移したという言い伝えがあるようだ。
その後,昭和16年(1941)蒙古の主席「
徳王」が仙台を訪れた際に善応寺境内に移されたということのようだ。
その時、徳王はここを参拝したようだ。
もっとも、徳王の訪日の主目的は、自国(内蒙古)を自治国として日本に認めてもらうことにあったようだが、日本は認めなかったようだ。
なお、この時の日本の首相は
近衛文麿であったようだ。しかし、まもなく近衛内閣は倒れ、
東条英機が首相となった。
このような蒙古の碑は、「モクリコクリの碑」と呼ばれて,青葉区の来迎寺と仙台大神宮,東北大学植物園にもあるようだ。
「モクリコクリ」とは、蒙古・
高麗のことだという。
「比丘尼塚」というのは、天慶3年(940)の「
天慶の乱」に敗れ討たれた
平将門の妹が、兄の野望を嘆き相馬御所に逃れ,
更に海路この地にたどり着いた。
そして、ここで比丘尼となって庵を結び,茶屋を開いて道行く人に甘酒を売ったと伝えられる。
高貴で美人の比丘尼が接待する茶屋は評判となり,茶屋は比丘尼茶屋,当地は比丘尼坂と呼ばれたという。
いつの頃か村人が塚をつくり碑を建て、この地で亡くなった比丘尼の供養としたという。
その塚碑は今,善応寺境内に移転されて、ここのあるのだという。
しかし、平将門の妹というのは、なんという名前の人だったのだろう。ネットでいろいろ調べてみたが、結局、わからなかった。
【所在地】
仙台市宮城野区燕沢2丁目3−1