仙台 大雄山善応寺2021
ここは、我が家から歩いても45分程度で行ける距離にあり、当初は、運動不足解消も兼ねて歩いて行ってみようと考えていたのだが、
もうかなり気温が高くなっており、歩いて行っては、"行きはよいよい帰りは辛い"という状態になりそうなので、車で行くことにした。
この寺院は、元禄10年(1697)四代藩主伊達綱村が開基で、松島瑞巌寺の通玄禅師の開山だという。
当初は岩手県水沢の長谷寺の旧跡を移し,甘棠山聖徳寺として建立されたとのことだ。
しかし、 正徳元年(1711)三代綱宗没後,故人の名(雄山公)とその廟(善応殿)に因み,大雄山善応寺と改称し綱宗の位牌寺としたとのことだ。

ところで、私がこの寺院に関心を持ったのは二つあって、一つは、この寺院の境内に「蒙古の碑」というのがあるというのと、
もう一つは、「比丘尼塚」というのがあるということであった。

「蒙古の碑」は、弘安5年(1282)南宋の帰化僧であった「無学祖元」が、「弘安の役」で戦死した元軍兵士の供養碑として、
弟子の清俊に命じて造らせたと伝えられるという。
この碑は、もともとは安養寺跡にあったものが享保8年(1723)に発見され、これを1890年頃に牧島観音堂境内に移したという言い伝えがあるようだ。
その後,昭和16年(1941)蒙古の主席「徳王」が仙台を訪れた際に善応寺境内に移されたということのようだ。
その時、徳王はここを参拝したようだ。
もっとも、徳王の訪日の主目的は、自国(内蒙古)を自治国として日本に認めてもらうことにあったようだが、日本は認めなかったようだ。
なお、この時の日本の首相は近衛文麿であったようだ。しかし、まもなく近衛内閣は倒れ、東条英機が首相となった。
このような蒙古の碑は、「モクリコクリの碑」と呼ばれて,青葉区の来迎寺と仙台大神宮,東北大学植物園にもあるようだ。
「モクリコクリ」とは、蒙古・高麗のことだという。

「比丘尼塚」というのは、天慶3年(940)の「天慶の乱」に敗れ討たれた平将門の妹が、兄の野望を嘆き相馬御所に逃れ,
更に海路この地にたどり着いた。
そして、ここで比丘尼となって庵を結び,茶屋を開いて道行く人に甘酒を売ったと伝えられる。
高貴で美人の比丘尼が接待する茶屋は評判となり,茶屋は比丘尼茶屋,当地は比丘尼坂と呼ばれたという。
いつの頃か村人が塚をつくり碑を建て、この地で亡くなった比丘尼の供養としたという。
その塚碑は今,善応寺境内に移転されて、ここのあるのだという。
しかし、平将門の妹というのは、なんという名前の人だったのだろう。ネットでいろいろ調べてみたが、結局、わからなかった。

【所在地】 仙台市宮城野区燕沢2丁目3−1

戻る

img0000.jpg img0001.jpg img0002.jpg img0003.jpg img0004.jpg img0005.jpg img0006.jpg img0007.jpg img0008.jpg img0009.jpg
img0010.jpg img0011.jpg img0012.jpg img0013.jpg img0014.jpg img0015.jpg img0016.jpg img0017.jpg img0018.jpg img0019.jpg
img0020.jpg img0021.jpg img0022.jpg img0023.jpg img0024.jpg img0025.jpg img0026.jpg img0027.jpg img0028.jpg img0029.jpg
img0030.jpg img0031.jpg img0032.jpg img0033.jpg img0034.jpg img0035.jpg img0036.jpg img0037.jpg img0038.jpg img0039.jpg


戻る

Powered by SOZAWA.
www.sozawa.com