私の駆出し時代 :チャールズ・チャップリン

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この本は、チャップリンが自分の駆け出し時代を書き描いたノンフィクションとなってい
るが、実際には1966年に書かれた「チャップリン自伝」の全31章のうち、版権等の
関係で第5章から第11章までを収録したものであるようだ。
チャップリンは、1889年にロンドンで生まれたようである。両親はともに寄席の俳優
だったらしい。チャップリンが生まれた頃は、まだ比較的安定した生活を送っていたよう
であるが、やがて両親が離婚し、兄とともに彼は母の手に残された。しかし、頼みの母は
喉の故障で女優をやめなくてはならなくなり、彼女の手内職で細々つないだ母子三人の生
活は、たちまち貧困のどん底に沈んだようだ。そしてとうとう母は、精神に異常をきたし
精神病院に送られることになったようだ。それからのチャップリンは、食べ物をねだる孤
児のように俳優周旋所へ仕事をもらいに通う子供時代を過ごすことになった。「喜劇王」
と呼ばれ、数々の傑作コメディ映画を作りあげたチャップリンであるが、そのチャップリ
ンも映画俳優として順風満帆のスタートを切ったわけではなかったようだ。
チャップリンのあのだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という扮
装は、熟慮した末に考え出されたものではなく、ふとした思い付きからだったようである。
それが大うけに受けたのだ。おそらく、このふとした思い付きがなかったならば、あのチ
ャップリンはこの世には出現しなかったにちがいない。
この本には、チャップリンが駆け出しの頃に恋したいろいろな女性が出てくる。その中の
ひとりで、チャップリンが「まったく可愛い女だった」書いている「メイベル・ノーマン
」は1910年代のサイレント映画の全盛時代を代表するコメディ女優であり映画監督
だったようだ。チャップリンと共演したこともあるようだ。彼女は、コメディ映画監督の
マック・セネットとは恋人関係にあったらしいが、その後破局を迎えたとされている。そ
の後彼女は、精神が不安定になり、度重なる情事やアルコール依存症、そしてコカイン中
毒などで激やせするなどして、第一線から退いていったようだ。
また、この本のなかでチャップリンが「私の初恋の女だった」と書いていた「ペギイ・ピ
アース」という女性だが、ネットでいろいろ検索してみたが、結局、どんな女性なのかわ
からなかった。それよりも、「ヘティ・ケリイ」という女性のほうが、チャップリンの初
恋の女性だったとして知られているようだ。彼女はイギリスの歌手・ダンサーだったらし
いが、彼女とチャップリンの恋は実らなかったようだ。1915年に彼女はイギリスの将
校と結婚し娘も出産したが、1918年から1919年にかけてに当時全世界で猛威をふ
るった感染症の「スペインかぜ」に罹り、25歳という若さで亡くなったようだ。
この本で、チャンプリンが、アメリカ西部を巡業でまわったときの様子が詳しく書かれて
いるが、西部各地の街にはたいてい性を商売にした店が軒を並べていたらしい。アメリカ
という国は、イギリスの清教徒たちがアメリに大陸に渡ってつくったキリスト教徒の国の
はずであるが、そんなアメリカであっても1910年当時には、各地の街にはいわゆる性
産業が栄えていたということを知って、私にはちょっと意外な気がした。
チャップリンは1932年に初来日している。チャップリンは神戸港に到着し、東京へ移
動して帝国ホテルに宿泊。5月15日には首相官邸で歓迎会が予定されていたらしい。し
かし、武装した海軍青年将校たちが首相官邸に乱入し当時の首相だった犬養毅を殺害する
という「五・一五事件」が起こった。このとき、「日本に退廃文化を流した元凶」として、
チャップリンの暗殺も画策されていたといわれている。チャンプリンは官邸へ行くのを急
きょキャンセルして危うく難を逃れたらしい。チャンプリンは親日家だったらしく、戦前
に3回、戦後1回の合計4回来日しているようだ。また、チャンプリンは「海老の天ぷら」
が大好きだったようだとも言われている。
チャップリンの作品には、一貫して弱い者をしいたげる社会の不正に対する痛烈な風刺が
見られるのが特徴だ。「黄金狂時代」「街の灯」「モダン・タイムス」「独裁者」「ライ
ムライト
」など、どの作品にも笑いの中に哀愁が漂い、胸にジーンとくる。日本のただバ
カ騒ぎするだけの「お笑い」とはまったくちがう。


シャロック・ホームズ
・私は、新聞売子、印刷工、おもちゃ職人、ガラス吹き、診察所の受付、等々と、あらゆ
 る職業を転々としたが、その間も兄シドニイと同様、俳優になるという最終目標だけは、
 一度も見失わなかった。だから、仕事と仕事の合間には、靴を磨き、服にブラシをかけ、
 きれいなカラーをつけて、俳優周旋所へ定期的に顔を出していた。それは、服がぼろぼ
 ろになって、とても人前には出られなくなるまで続いた。私は遠い入口の隅に立って、
 ぶるぶる震えていた。くたびれた服と、先に穴の開きかけた靴とを隠すのに懸命で、な
 んとも辛いほど気がひけた。
・船乗りになって長く家をあけていたシドニイが帰って調度一カ月後だったが、私は一枚
 のはがきを受取った。ブラックモア俳優周旋所からだった。俳優周旋所に行くと、ブラ
 ックモアさんがハミルトンさんに紹介状を書いてくれた。
・ハミルトンさんは、私があまりにも子供であるのに驚きもし、興味を持った。もちろん
 私は年齢を偽って14歳だと言った。実際は12歳だった。ハミルトンの話によると、
 その秋にはじまって40週間「シャロック・ホームズ」を地方巡業でやることになった
 が、そのボーイのビリイ役をわたしにやれというのだった。
・ハミルトンさんはセインツベリさん宛の紹介状を書いてくれた。グリーン・ルーム・ク
 ラブの事務所に行くと、セインツベリさんが他のクラブ員を集めて、私をひき合わせて
 くれた。そして、その場でサミイの約の書き抜きを渡してくれた。ここまで読んでみろ
 と言われはしないかと、実はビクビクものだった。字がほとんど読めないので、もしそ
 んなことになれば、大変なことになると思ったからだ。だが、幸い彼は、台本は家へ持
 って帰って、暇なときに読んでおけばいい。稽古は一週間後に始まるのだから、と言っ
 てくれた。  
・ことの次第を話すと、シドニイも目をうるませた。首をふったり、うなずいたりしてい
 たが、やがてひどく生まじめな顔になると、「確かにこれは、ぼくらの人生の一大転機
 だな」
・シドニイがまず台本を読んで、私が台詞を暗記するのを手伝ってくれた。全部で35ペ
 ージもある重要な役だったが、私はたった3日間で、完全に覚えてしまった。
・私たちはいよいよ「シャロック・ホームズ」の稽古にかかった。その間も私たちは、依
 然として屋根裏部屋に住んでいた。経済的にはまだ自信が持てなかったからである。稽
 古の合間に、私たちは病院に母に会いに出かけた。はじめ看護婦は、今日は容態が思わ
 しくないので面会はできない、と言った。だが、そのあと、シドニイだけをわきのほう
 へ連れて行って、何か言っていたが、私にはシドニイの返事だけが聞こえてくる。「え
 え、弟はきっと我慢できないでしょう」そして、悲しそうな顔をして私のほうを向いた。
 「母さんは拘禁室に入れられているそうだけど、会いたくないだろう?」結局シドニイ
 だけが会った。母は彼の姿を見ると、正気に戻ったらしく、しばらくすると看護婦が来
 て、よくなったから、もし会いたければどうぞ、というので、拘禁室の中で母と話し合
 った。やがて帰る時間になると、母は私をわきへ呼んで、しょんぼり悲しげにささやい
 た。「道に迷わないように気をおつけ。でないと、お前までここに入れられてしまうか
 もしれないからね」その後母は、一年半ここにいて、やっと治って退院した。
・巡業は六カ月間におよんだ。その間シドニイのほうは、どうも劇場での働き口は見つか
 らず、仕方なしに俳優志望の野心は棄てて、酒場のバーテンダーを志願することにした。
 150人も集まった志願者のうちから、見事就職ということになったが、彼にしてみれ
 ば、いわば恥ずべき堕落だった。
・ひとり暮らしにはすっかり慣れた。ただ、そのかわに、会話の習慣というものをすっか
 りなくしてしまったせいか、突然一座の人に会ったりすると、ひどくへどもどするのだ
 った。  
・その頃私は、遊び相手に兎を一匹買った。そして行く先ざきで、おかみさんに見つから
 ないように、そっと部屋へ持ち込んだ。部屋で飼うように仕込まれた兎ではなかったが、
 なにしろかわいくて仕方がなかった。私はそれを木箱に入れて、ベッドの下に隠してお
 いた。かみさんは毎朝、上機嫌で食事を部屋へ運んでくれる。が、やがて兎の異様な臭
 いに気がつくと、なにか困ったような顔をしてかえってゆく。いなくなるとすぐ、箱か
 ら出して放してやる。
・まもなく私は、ドアにノックが聞こえると、すばやく箱の中へ隠れるように、うまく兎
 を仕込んだ。ときに秘密をかぎつけられても、この芸当をやって見せると、たいていど
 このおかみさんも機嫌を直し、一週間ぐらいは、けっこう大目に見てくれるのだった。
・三度目の巡業に出ているとき、母は再び病気になり、またしても病院に送られることに
 なった。病気再発の知らせは、短刀のように私の心臓を突き刺した。詳しいことはまっ
 たくわからなかった。あらぬことを口走りながら街をうろついているところを保護され
 たという簡単な通知が当局からあったきりだったが、ことここにいたっては、もはや諦
 めて母の運命を受け容れるしかなかった。そしてそれ以後、母は二度と完全に回復する
 ことはなく、私たちで私立病院へ入れてやる余裕ができるまで、数年間というもの、そ
 の病院でしだいに衰えていったのである。
・人間の不幸を司る神々は、ときおりその遊びにも飽きて、慈悲をたれることがある。母
 の場合はそれだった。死の前の7年間、花と太陽の光につつまれながら、楽しく暮らし、
 その二人の息子たちは、かつて彼女の想像もしなかったほどの名声と財産にめぐまれる
 のを、見とどけてから死んだのである。
・「シャロック・ホームズ」の脚色者ウィリアム・ジレットが自作の「クラリッサ」とい
 う戯曲に主演するマリー・ドロをつれて、ロンドンにやってきた。そしてジレットの支
 配人であるポスタンさんから、なんとかロンドンに帰れないか、そしてビリイ役でジレ
 ットと共演する気はないか、という手紙をもらった。渡りに船といってもよかった。
・ロンドンに帰って、劇場に出ることになったというのは、私にとっては、まさに再生だ
 った。舞台で稽古がはじまるのを待っていたとき、はじめてあのマリー・ドロの姿を見
 たのである。美しい夏のドレスを着ていたが、それにしても朝のこんな時間にこんな美
 しい人に会えるとは!
・だが、ただ不気味なまでに美しいのが、私には嫌いだった。軽く尖りかげんのきれいな
 唇、真白な歯並び、かわいらしいあご、漆黒の髪、茶色の目、それも私は嫌だった。怒
 ったような顔をしながら、しかも溢れんばかりの魅力がにじみ出ている。それでも決し
 て好感は持てなかった。道具方とのやりとりの間、私はすぐそばに立って、まるで美し
 さに魅せられたように眺めていたが、彼女のほうでは、私の存在などてんで目にもとか
 ないらしい。私は16歳になったばかりだったが、突然身近に見たこの美しさに、これ
 は危ない、用心しないと虜になるぞと、ひとり自身にいい聞かせていた。それにしても、
 ああ、彼女の美しさはたとえようがなかった!まさに一目ぼれといってよかった。

カルノー一座
・私もすでに思春期というあの扱いにくい、いやな年齢に達していた。いわば十代のつき
 ものの感情的不安定期である。無鉄砲なもの、感傷的なものだけに心をひかれ、夢想家
 であると同時にふさぎ虫。むやみと人生に腹を立てるかと思うと、人生を愛してもいる。
 まださなぎの状態を出ない精神でありながら、ただときどき成人が爆発するように顔を
 出す。ときどき思い出したように野心を燃やしながら、その実、いわばこのお化けの鏡
 の迷路の中で低迷していたというのが、私の姿だった。”芸術”などという言葉はまだ頭
 の中になく、舞台はただ食うための手段という以外の何物でもなかった。
・この混乱と迷妄の中で、私はひとり孤独の生活を続けていた。娼婦と、そしてときどき
 の乱酔とが、生活の経糸であり、緯糸であった。しかしその酒も女も歌も、結局、長く
 私の関心をつなぐことはできなかった。真に求めていたものは、ロマンスであり、冒険
 だったのだ。 
・私は、ようやくケーシイ・サーカスに口を見つけて寸劇に出ることになった。ケーシイ・
 サーカスがロンドンで興行をしたとき、一行6人は、ミセス・フィールズという老寡婦
 の家に宿をとることになった。彼女にはフレデリカ、セルマ、フィービーという3人の
 娘がいた。 一番姉娘のフレデリカは、ロシア人の家具職人と結婚していた。
・ケーシイ・サーカスのほうは結局やめることになったが、それからも私は、フィールズ
 家で下宿住まいを続けた。ミセス・フィールズは親切で、我慢強く、働き者だったが、
 収入源は部屋代だけだった。結婚しているフレデリカは、亭主の稼ぎで暮らしており、
 セルマとフィービーは家事の手伝いをしていた。フィービーは15歳だが、なかなかの
 美人だった。肉体的にも気持ちの点でも、非常によく私の好みに合った。もっとも後者
 のほうは、できるだけ自分をおさえることにした。というのは、私はまだ17歳にもな
 っておらず、おまけに女というものについてはおそらく最悪のけしからん考えしか持っ
 ていなかったからである。幸い彼女のほうも、まだ無邪気そのものだったので、何事も
 起こらずにすんだ。ただ好意だけは持ってくれるようになり、ほんとうに心からの仲良
 しになった。 
・フィールズ家の連中は、みんなおそろしく感情の激しい人たちばかりで、したがって、
 ときどき猛烈な喧嘩が起こった。原因はほとんどの場合、だれが家事の当番であるかと
 いうことだった。セルマというのは二十歳前後と見えたが、これが一家の女王気どりで
 怠け者ときているものだから、いつも当番を姉のフレデリカか妹のフィービーに押しつ
 けようとする。そのために、いつも言い合いからついに喧嘩まで発展し、普段腹にある
 不平や家庭内の秘密まで、すっかりさらけ出してしまうのである。
・こんなとき調停役を買って出るのは、いつもフィービーだった。心の正しい、家族思い
 の娘だったので、結局は自分が当番を引き受けて、その場を納めようとするのだが、そ
 れがまたセルマには気に入らないのだった。
・その頃ロンドンではユダヤ人の喜劇一座がたいへんな人気をさらっていた。私はそれに
 ヒントを得て、ひげで年齢を隠すことにした。私は歌の本を買い、アメリカの滑稽小噺
 本から面白そうなやりとりを仕込んだ。そしてそれらをフィールズ一家の前で何週間も
 かかって稽古をつんだ。彼女たちは熱心に励ましてくれたが、もちろんそれ以上は何も
 できなかった。
・私は小さな劇場で、ただのテスト出演というのをやらせてもらうことになった。私の希
 望と夢は、一にこのテスト出演にかかっていた。このテスト出演のあと、私はイギリス
 中の主なチェイン劇場には残らず出演することになるのだが、もとよりそんなことはわ
 かるはずもない。ただうまくいけば、あるいは一年以内に一流寄席芸人になれるかもし
 れない。フィールズ一家の人たちには、いずれ週末、すっかり慣れたころに、きっと切
 符はとってあげる、と約束しておいた。
・悪意はなかったのだが、私の寸劇はきわめて反ユダヤ的だった上に、私のやるジョーク
 も、私の話すユダヤなまりと同様、まことに古くさい、くだらないものばかりだった。
 そのうえなおいけないことは、少しもおかしくないということだった。はじめ二つほど
 のジョークが終わったところで、客は銅貨やミカンの皮を舞台に投げたり、足を踏み鳴
 らして、ブーブー言い出した。はじめのうちは、なんのことだかのみこめなかったが、
 そのうち恐さでいっぱいになりだした。もはや監督や支配人の意見など聞くまでもなく、
 すぐに楽屋に戻ると、顔をおとして劇場を出た。それっきり二度と劇場へは戻らず、歌
 の本までそのままになってしまった。
・ミセス・フィールズは舞台の結果を知りたがった。ゆうべ実はフィービーが見に行った
 のだ、疲れたとみえて、なにも話さず寝てしまった、というのである。あとでフィービ
 ーとも顔を合わせたが、彼女はなんにも言わず、私のほうも黙っていた。言わないのは
 ミセス・フィールズも娘たちも同じだった。そしてその日から私は劇場へ行くのをやめ
 てしまっても、別に驚いた顔はしなかった。
・もう十九に近く、すでにカルノー劇団の花形コメディアンだったが、なにかまだ足りな
 いものがあった。春がきて春が去り、やがて夏になったが、心の空虚はつのるばかりだ
 った。きまりきった毎日の仕事はつまらないし、周囲もまた索莫をきわめていた。将来
 を考えてみても、なんにもない。ただあるものは、平凡な人々とまじって平凡な生活を
 送るという、それだけだった。ただ食うためにだけに働くというのは面白くない。あま
 りにもみみっちい、あまりにも味気ない生活だった。私は次第に憂鬱になり、不機嫌に
 なり、日曜日になると、ひとり散歩に出て、公園の楽隊演奏などに聞き入った。ひとり
 でいるのも、だれかと一緒にいるのも、どちらもたまらなかった。そしてまもなく当然
 のことが起こった。つまり、恋をしたのである。
・私たちの前に、歌と踊りのグループが出ていたが、むろん私は、ほとんど気にもとめて
 いなかった。ところが、二日目の晩だった。舞台の袖にぼんやり立っていると、女の子
 のひとりダンスの最中にふと足をすべらせたもので、みんながクスクス笑い出した。そ
 してその一人が、私も笑っているか見ようとしたのだろう、こちらを向いた途端に視線
 があった。瞬間私は、いたずらっぽい輝く大きな茶色の目に強く心を惹かれた。目の主
 は、形のよいうりざね顔、うっとりするほどかわいい豊かな感じの口、そして美しい歯
 並び、まるでカモシカのようにしなやかな娘だった。電気にでもうたれたようなショッ
 クだった。やがて退場してくると、髪をなおす間、手鏡を持っていていれないかという。
 その間に私はつぶさに観察することができた。これがはじまりだった。水曜日になって、
 日曜日に会ってくれないかと訊ねてみた。毎日稽古があるので、その週のうちに会うこ
 とは不可能だった。だが、彼女は日曜の四時に会う約束をしてくれた。
・日曜日はよく晴れた夏らしい日で、朝から太陽が輝いていた。私はスマートな黒服を着、
 ネクタイも黒、そして黒檀のステッキも忘れなかった。約束の十分前に着いて、前身こ
 れ神経のようになって、電車から降りてくる人々を待っていた。ところが、その間にふ
 と、私はまだ一度も彼女の素顔を見ていないことに気がついた。途端に奇妙なことだが、
 それまでもっていた彼女のイメージが急に消えてしまった。いくら焦っても、彼女の顔
 立ちすら浮かんでこないのだ。降りてくるごくありふれた顔の娘たち一人一人が、私を
 絶望的な苦しみの中に投げ込んだ・
・四時三分前、だれかが電車から降りて、私のほうへ近づいてくる。がっかりした。どう
 みても美人とは見えなかった。これから何時間か、この女と一緒にいて、いかにも幸福
 そうな顔をしなければならないのかと思うと、心は早くもめいりがちだった。だが、帽
 子をあげてにこやかに笑いかけると、なんと女は怒ったようにじろりと見ただけで、そ
 のまま行ってしまった。ありがたいことに、人ちがいだったのだ。
・やがて四時をかっきり一分まわったときだった。また若い娘がひとり電車から降り、私
 のほうへ近づいてきて止まった。化粧もなにもしていないのが、いっそう美しかった。
 ただの水兵帽をかぶり、真鍮ボタンの青い海軍士官服を着て、両手は外套のポケットに
 深く突っ込んでいる。「お待ちどうさま」と、彼女は言った。
・彼女が現われたというだけで、私はすっかり圧倒されてしまい、ろくろく口もきけなか
 った。興奮のあまり、何を話したらいいか、どうすればいいのか、さっぱりわからなか
 った。私は彼女を喜ばせ、心をつかもうとして空しい努力を重ねた。それで彼女をトロ
 カデロへ連れてゆくつもりだった。そこで音楽と優雅な雰囲気にひたっていれば、いく
 ら私だってもっとロマンチックな人間に見えるにちがいないと思ったからだ。かんとか
 彼女の心をボーっと夢のような気持ちに引きずり込んでしまいたかったのだ。ところが
 彼女は、実に冷静なばかりか、私の言うことに、だいぶ戸惑っている様子だった。
・要するに、私の気持ちがどこにあるか、彼女にはほとんどわかっていないのだった。セ
 ックスが問題なのではない。もっと大事なのは、なんとか彼女に友だちになってもらい
 たかったのである。私のような身分の人間にとって、優雅なもの、美しいものの近づけ
 る機会はめったになかったのだ。   
・三日続けてヘティに会った。どれもほんの短い逢引きばかりだったが、そのあと翌朝ま
 では、まるで一日中が存在しないも同然だった。ところが、四日目の朝、突然彼女の態
 度が変わった。うれしそうな顔もせず、ひどくよそよそしい態度で、私の手をとろうと
 もしない。私は彼女を責め、冗談めかしてではあったが、愛してもらえない不平を言っ
 た。「期待が大きすぎるからよ」彼女は言った。「だって、私はまだやっと15だし、
 あなただって、四つ上だけじゃないの」私はその意味がよくわからなかった。だが、彼
 女が突然ある距離を私たちの間においたこと、それだけは無視するわけにはいかなかっ
 た。彼女はまっすぐに前を見ながら、両手を外套のポケットに突っ込んで、まるで女学
 生のように軽く歩いてゆく。「じゃ、これでもう会わないほうがいいんだろうねえ?」
 これはむしろ反応を見るつもりで言ったのだった。みるみる彼女は悲壮な顔になった。
 私は女の手をとって、やさしく撫でてやった。「じゃ、さようなら。このほうがいいん
 だよ。だが、いいかね、きみはあまりにも強い力で、ぼくの心をゆさぶったのだ」「さ
 ようなら」彼女は答えた。「ごめんなさいね」
・ヘティに会ったのは全部で5回。しかも1回が20分以上になったことはほとんどない。
 だが、この短い交渉はずっとあとまで私の心に傷を残した。
  
フランス
・1909年にパリに行った。英仏海峡では篠つく豪雨に見舞われたが、霧を通して初め
 て見るフランスには、いまでも忘れられないほどの胸のときめきをおぼえた。フランス
 という国は、いつも私の想像力を刺戟してやまなかった。父の体内にはフランス人の血
 が流れていた。つまりチャップリン家はもともとフランスの出だったのだ。父方の叔父
 などは、あるフランスの将軍がイギリスに渡って、チャップリン家を創設したのだと、
 よく誇らしげに語っていた。
・日曜日の晩は用もなかったので、次の月曜日から出演するはずだったフォリ・ベルジェ
 ール
のショーを見に行った。これほど豪華な雰囲気の劇場は他にないのではなかろうか。
 厚いじゅうたんを敷いたロビーや二階の正面桟敷では、世界中の人間が見られた。イン
 ドの貴公子やフランス人将校やトルコ人将校たちが、バーでコニャックのグラスを傾け
 ている。正面入口のロビーでは、美しい音楽が流れる中を、女たちが肩掛けや毛皮のコ
 ートを脱いであずけ、真白い肩をあらわに見せていた。いわゆる常連で、ロビーや正面
 桟敷を泳ぎながら、目立たぬように客を漁っているのだった。当時はこの種の女たちま
 でが、みんな美しく、そして風格があった。
・フォリ・ベルジェールには、帽子に通訳と書いて劇場内をまわって歩く語学の専門家た
 ちがいた。わたしはこの男たちのチーフで、数カ国語を自由にしゃべれるという男と友
 だちになった。 
・私は自分の出番が終わると、舞台衣装の夜会服を借用におよんで、よく上にいった常連
 たちの間にはいって行ったものだった。ある日、はっと思うほど美しいすらとした女に
 会ったことがある。白鳥のように細い首をして、抜けるような白い肌だった。いわゆる
 ギブスン風と呼ばれたすばらしい美人で、軽く先のしゃくれた鼻と濃い長いまつ毛が、
 とても魅力的だった。その女が正面桟敷の階段をのぼるとき、ふと手袋を落としたのだ。
 私はすばやく拾って渡した。ところが、そこでわかったのだが、彼女は英語が話せず、
 私はフランス語が話せないのだった。私は友人の通訳に助けを求めた。私はこの友だち
 にたのんで、絵葉書の裏にフランス語でくどき文句をいくつか書いてもらった。まず最
 初は彼に予備交渉をたのんだのだ。私たちの出番は休憩時間前だったので、舞台が済ん
 だらまた落ち合うことにした。
・「今夜はずっとぼくと一緒の約束でしょう?一晩中!」とたんに彼女ははっと驚いたよ
 うだった。「あら、ちがうわ。一晩中じゃないわよ!」それからはもうひどいものだっ
 た。悲しい幻滅、若き日のそれが私だった。
・パリに来る前から、ヘティの一座もフォリ・ベルジェールに出ていると聞いていたので、
 これはぜひもう一度会ってみたいと決めていた。そこで着くとその晩、さっそく舞台裏
 へ顔を出してたずねてみた。バレエ・ガールの一人が話してくれたところによると、ヘ
 ティの一座は一週間前にモスクワへ行ってしまったという。で、私がその子と話してい
 ると、階段越しに荒々しい声が聞こえた。「早くこっちへおいで!知らない男と口など
 きくんじゃないよ!」女の子の母親だった。私は、ある友だちの消息をたずねていただ
 けだと弁解したが、母親は耳をかす気配もなかった。
・この女の物分かりの悪さには腹が立った。しかし、その後この女とは、また改めて知り
 合うことになった。彼女はやはりフォリ・ベルジェール・バレエの踊り子である二人の
 娘と、偶然同じホテルに泊まっていたのである。妹のほうは13、非常にきれいで、才
 能もあり、プリマ・バレリーナをやっていた。ところが、15になる姉のほうは、才能
 もなければ器量も悪い。母親は40ぐらいか、丸々と太ったフランス女で、イギリスの
 住むスコットランド人と結婚していた。私たちがフォリ・ベルジェールでの初日をあけ
 ると、彼女が訊ねてきて、先日はたいへん失礼したと詫びを言った。これがはじまりで、
 お互い非常に親しくなり、私はしょっちゅう招ばれて、寝室でお茶のごちそうになった。
・今から考えてみると、その頃の私は信じられないほど初心だった。ある日の午後、娘た
 ちは留守で、彼女と私だけで部屋にいたが、すると急に彼女の様子が変わり、お茶をつ
 ぐ手がぶるぶる震えだした。それまで私は、私の希望、夢、そしてまた恋愛や失恋の経
 験など、について話していたのだが、そのうちに彼女は、突然感動におそわれたらしい。
 私が立って茶碗をテーブルに返そうとすると、急に彼女が寄ってきた。「なんてかわい
 い人ねえ」私の顔を両手ではさみ、じっと私の眼をのぞきこむ。「あんたみないないい
 若者を苦しませるなんてねえ」その視線はまるで催眠術でもかけるみたいに異様になり、
 声まで妙に震え出した。「ねえ、いい?ほんとに好きだわ、まるであたしの子どもみた
 い」相変わらず私の顔を抱いたまま、そう言った。そして彼女の顔が、ゆっくりと近づ
 いてきたと思うと、私の頬にキスをした。「ありがとう」私は本気で、心からそう答え
 た。そして無心に接吻をかえした。彼女はなおもじっと私を見つめたまま、唇は小刻み
 にふるえ、眼は異様に輝いていた。あんたって、ほんとにかわいいわねえ。大好きよ。
 あんた」
・舞台がはねたあと、彼女は私を招待して、彼女と妹娘とが寝る広い寝室で夕食をご馳走
 してくれた。時間がきて部屋に帰る前、私はいつも母親の接吻し、妹のほうにおやすみ
 をいうことにしていた。そのあと、なんとしても姉の眠っている小さいほうの寝室を通
 り抜けなければならないのだが、ある晩、例によって通り抜けようとすると、急に私を
 手招きして耳元でささやくのだった。「あんたの部屋のドア、開けておいてね。みんな
 が寝ちまったら、そっと行くわ」私は憤然として彼女をベッドに突き倒し、大股で部屋
 を出た。    
・フォリ・ベルジェールで二人の契約が切れるころ、まだ15歳にしかならない姉娘のほ
 うが、犬の調教師だった、ずんぐりした60男のドイツ人と駆落ちしたという話を聞い
 た。  
・もっとも、私といえども、決して見かけほど純真だったわけではない。仲間たちと一緒
 によく淫売屋を飲み歩き、若さにつきものの乱行もずいぶんした。
・イギリスへ帰って半年がたち、私は再び元の平板な生活に落ち着いていた。そのとき突
 然ロンドンの事務所から、パッと明るいニュースが飛び込んできた。こんど「フットボ
 ール試合」の再演では、私に主役をやれという。大変な出世である。もしこれで成功す
 れば、まず名声は確立、大幅な昇給はもちろん、自作の寸劇上演というところまで手を
 拡げることもできるかもしれぬ。
・ところが、総稽古の日に、私は喉頭炎にかかってしまった。吸入や噴霧薬などで、それ
 こそあらゆる手段をつくして声のほうの手当てはしたのだが、心配のためか、演技のな
 めらかさだとか、おかし味というものが、さっぱり出なかった。そんなわけで初日に舞
 台は散々だった。終わったあとカルノーがやってきて、失望と軽蔑の入り混じった表情
 を見せながら、文句を言った。その翌日もだめだった。翌晩はとうとう代役が立った。
 当然のことながら、契約は一週間でおしまいになった。舞台にかけた夢と希望は、もろ
 くも破れ去り、失望もあってか、インフルエンザで寝込んでしまった。
・ヘティとはもう一年以上も会っていなかった。インフルエンザのあとの気の弱り、そし
 て憂鬱の中で、再び彼女のことを考えるようになった。そしてある晩おそく、彼女の家
 のほうへふらふらと出て行った。ところが家は空家になっており、”貸家”札がさがって
 いた。 
・私はあてもなく街から街へと歩き続けた。と、突然、霧の中から人影がひとつ浮かびあ
 がり、通りを横切って私のほうに近づいてくる。「チャーリー!なにしているのよ、こ
 んなところで?」ヘティだった。「会いにきたんだよ、きみに」と、私は冗談めかして
 答えた。彼女は微笑をうかべた。「ずいぶん痩せたわね」私は、インフルエンザがなお
 ったばかりなのだ、と説明した。彼女はもう17になっているはずだが、いよいよきれ
 いだし、服装も垢ぬけていた。「これから兄の家へ行くところなの。よかったら一緒に
 行かない?」姉はアメリカンの百万長者と結婚して、ニースに住んでいることを知った。
 明日の朝、彼女はロンドンを絶って姉夫婦のところへ行く予定だという。
・その晩私は、彼女が兄と妙になまめかしいダンスを踊るのを眺めていた。兄に対してま
 ことにばかな、いわば色仕掛けの女を演じているのだった。見ているうちに、私は、わ
 れにもなく恋心がさめていくのをどうしようもなかった。彼女もまたほかの娘たちと変
 わらない、つまらん女になってしまったのだろうか?考えると悲しかった。そしてよう
 やく彼女を客観的な目で眺めるようになった。もっとも肉体のほうはすっかり成長して
 いた。乳房のふくらみまではっきり目だつようになっていたが、案外それは大きくなく、
 決して魅力的とは言えなかった。たとえできたとしても、果して結婚していたであろう
 か?いや、実は私は、だれとも結婚などしたくはなかったのだ。
・その寒い晴れた晩、彼女と並んで歩いて帰る途中、私は、すでに悲しいながらも、すっ
 かり冷静な気持ちになっていたらしい。きっと君も幸福で、すばらしい人生をおくるこ
 とになるだろうよ、と言ってやった。彼女は答えた。「まあ、ほんとうに意地悪!あた
 し、泣きたくなるわ」その晩私は、勝ち誇ったような気持ちで家へ帰った。というのは、
 少なくとも私の悲しみが彼女を動かした。そして、私という人間をはっきり感じさせる
 ことができたからだ。

アメリカ
・アメリカでのカルノーの評判はたいへんだった。そのせいか私たちの一行も、一流芸人
 たちを並べたプログラムの中で、大きくトップに書き出されていた。私の場合、持参の
 寸劇自体は気に入らなかったが、もちろんベストはつくした。
・どう控え目に見ても、およそ外国公演で失敗するほど惨めなことはない。毎晩舞台への
 ぼる。だが、客たちは溢れるような楽しいイギリス喜劇をみながら、冷たく、笑い声ひ
 とつ立てないのだ。これほど情けないことはない。私たちは、まるで落人のようにこそ
 こそと劇場を出入りした。そして六週間というもの、この不面目に耐えたのだった。ほ
 かの芸人たちは、まるで疫病扱いでもするように、私たちを避けた。開幕前、みんなで
 袖に集まるときなどは、まったく孤影悄然、まるで銃殺刑を待って整列でもしているよ
 うな気持ちだった。
・私も孤独ですっかり参っていたが、ただ一人離れて住んでいることだけがありがたかっ
 た。少なくともこの屈辱感を他人と一緒に味わうことだけはしなくてすんだからだ。昼
 間は、どこといって終わりがないかのように思えるほど長い大通りを、いつまでも歩き
 まわり、動物園や公園や水族館や博物館などをのぞいては、みずからを慰めていた。舞
 台が失敗とわかってからは、ニューヨークそのものが、途方もなく恐ろしい町に思えた
 し、建物は高すぎるし、なにもかもがただ競い合っているといった雰囲気も、とてもた
 まらなかった。立ち並ぶ見事な高層ビルや一流商店も、ただ私という人間が、いかに場
 ちがいの存在であるかを、情容赦もなく思い知らされてくれるだけだった。
・アメリカ人というのは、エネルギッシュな夢にとり憑かれた楽天家であり、挫折を知ら
 ない冒険家である。いつもすばやい”大儲け”をねらっている。成功しろ!出世しろ!
 裏をかけ!現ナマつかんで逃げろ!商売変えろ!だが、こうした法外な態度も、かえっ
 て私の心を明るくしてくれるようになった。妙なもので、舞台が失敗ときまると、かえ
 って気は軽くなり、心の重荷もおりた。アメリカには、ほかにもチャンスがいくらでも
 ある。どうして舞台ばかりにかじりついているんだ?なにも芸術に一生を捧げたわけじ
 ゃない。商売を変えろ!私はようやく自信を取り戻した。そうだ、どうなろうとアメリ
 カで頑張ろう。そう私は決心した。
・私たちのショーそのものは失敗だったが、私自身はなかなかの好評だった。劇評家は、
 私のことを、「この一座には、少なくとも一人だけ面白いイギリス人がいる。彼ならア
 メリカ人にも受けるだろう」と書いた。
・その頃すでに私たちは、予定の公演6週間が終わったら、荷物をまとめてイギリスに帰
 る覚悟をしていた。ところが3週間目に、大部分がイギリス人の執事やボーイなどから
 なる客を前にして、五番街劇場の舞台に立つことになった。思いがけないことに、月曜
 の晩の初日は大成功だった。客はジョークごとに腹を抱えて笑いころげた。私もそうだ
 ったが、みんなすっかり驚いてしまった。というのは、いつもの通りの手ごたえのない
 客を予想していたからである。お座なりの演技をしながら、私も楽な気持ちでいたよう
 に思う。そうなるとまた、うまくいくものなのである。
・その週のうちに、あるマネージャーがきて、私たち一座を20週の西部巡業という契約
 を買って行った。当時の西部は魅力に富んでいた。生活のテンポは今よりずっとおそく、
 ロマンチックな雰囲気があった。生活費も安かった。小さなホテルなら、一日三食付き
 で周たった7ドルだった。とにかく食事は安かった。
・1910年のシカゴは、むしろその暗さと醜さとがある種の魅力になっていた。まだ開
 拓時代の精神が抜けず、エネルギッシュで英雄的な都市だった。背後に拡がる大草原は、
 おそらくロシアのステップとはこんなものかと思わせた。いかにも開拓地らしいけばけ
 ばしさが溢れていたが、しかしその底にはむしろ男の孤独とでもいうべきものが脈打っ
 ている。   
・シカゴでの滞在中、私たちは山の手の小さなホテルに泊まっていた。みすぼらしい不景
 気なホテルだったが、妙にロマンチックなところもあった。というのは、ショー・ガー
 ルの女たちがほとんどここに泊っていたからである。どこの町でも、私たちはまずショ
 ー・ガールたちの泊っているホテルへ一直線に行くことにしていたのだ。何も面白いこ
 とは起こらなかったが、それでも私たちはこのホテルが好きだった。
・若くておとなしい、美人の娘が一人いて、どういうわけかいつもひとりで、妙におどお
 どしながら歩いていた。ロビーの出入りに、ときどき顔を合わせるのだが、ついに言葉
 をかける勇気は出なかったし、また事実、彼女のほうからも誘いの気配は見せなかった。
 シカゴから西海岸に向かって出発したとき、彼女も同じ汽車に乗っていた。ショー・ガ
 ールの一行は、たいてい私たちと同じルートで巡業し、同じ町でやっていたのである。
 私は彼女が私たちのメンバーのひとりと話しているのを見た。あとでその男がきて、私
 の隣に座ったのでたずねた。「どんな娘だった?」「いい娘だよ。ただ、気の毒なこと
 があるんですね」彼は口を寄せるようにしてささやいた。「あの一座に梅毒の娘がいる
 って噂、おぼえてる?あの子がそうなんだよ」
・シアトルで彼女は一行と別れ、病院に入れられた。私たち、巡業仲間がみんなしてなに
 がしかの金を集めてやった。かわいそうに、事情はみんなわかっていた。だが、彼女は
 素直に礼を言って受取った。そして当時はまだ新薬だったサルヴァルサンの注射ですっ
 かりなおり、再び一座に戻ったということだった。
・その頃は赤線地域がアメリカ中いたるところにあった。中でもシカゴは、「万国屋」と
 いう娼家の存在でとりわけ有名だった。ことに評判だったのは、ここにはあらゆる国の
 女がいたし、また部屋の設備もトルコ風、日本風、ルイ十六世時代のフランス風、いや、
 アラビア風の天幕までできていた。世界中でもっとも凝った施設だけに、値段のほうも
 劣らず高かった。客種は百万長者、実業界の大物、大臣、議員、判事、等々で、よく代
 表者会議の出席者など、最後は満場一致ということで仲よくこの家全体を一晩総上げに
 したものだった。ある金持ちの蕩児などは、まる3週間一度も陽の目を見ることなく、
 この家にひたりきりだったというので、ひどく評判になったことがある。
・モンタナ州ビュートの一画は、一本の長い通りと何本かの路地からなっていて、路地の
 は百軒近くも、1ドルで遊べる女たちが、若いのは16からはじまって、ずっと顔を並
 べていた。この町の紅燈街は、中西部でも一番の粒ぞろい美人をそろえているというの
 を自慢にしており、それはまた事実だった。もし町でしゃれた服装をした美人を見かけ
 たら、まずこの種の女が買い物に出ているのだと思ってまちがいない。商売を離れたと
 きの彼女たちは、右でも左でもなく、実にちゃんとした市民だった。

ふたたびアメリカ
・世の中には貧慾に知識を求める人間がいる。私もその一人だった。ただし動機からいう
 と、私のはそれほど純粋ではなかった。知識愛から求めたのではなく、ただ無智な人間
 に対する世間の侮辱から身を護るためにそうしたのだった。そんなわけで、暇さえあれ
 ば古本屋漁りをしてまわった。
・安巡業というものは、まったく味気ない仕事であり、アメリカでの将来にかけていた私
 の希望も一週間休みなし、それも一日三回ないし四回興行という強行舞台を務めている
 うちに、跡形もなく消えてしまった。それに比べると、イギリスは天国だった。少なく
 とも日曜日は完全に休めるし、一晩の出演回数も二回にすぎなかった。せめてもの慰め
 は、アメリカではイギリスよりもいくらかさくさん貯金ができるということだけだった。

マック・セネット
・セネットがロケ先から戻ってきた。ステージ全体がおそろしく混雑していた。私は身体
 があいて、なんにもすることがないので、普通の外出着のまま、セネットの目につきや
 すそうなところにじっと立って眺めていた。彼は葉巻を口にくわえたまま、ホテルのロ
 ビーになったセットを見入っている。「なんかここでギャグの欲しいところだな」彼は
 言った。そして、私のほうをふり向くと、「おい、なんでもいいから、なにか喜劇の扮
 装をしてこい」
・とっさにそんな扮装など思いつくわけもなかった。しかし、衣装部屋に行く途中、私は
 ふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という組合せを思いつ
 いた。だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、
 とにかくすべてチグハグな対照というのが狙いだった。年恰好のほうは若くつくるか年
 寄りにするか、そこまではまだよくわからなかったが、これもとっさに、セネットがい
 つか、私の若いのに驚いたと言ったことを思い出し、とりあえず小さな口ひげをつける
 ことにした。こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と
 考えたからである。性格のことまではまだ考えていなかった。だが、衣装をつけ、メー
 キャップをやってみると、途端に私は人物になりきっていた。それがどんな人間だが、
 しだいにわかりかけたばかりか、いよいよステージに立ったときには、すでにはっきり
 一人の人間が生まれていた。セネットさんの前に出ると、さっそく私はその人物になり
 すまし、ステッキをふりながら彼の前を歩いてみせた。私の頭の中は、ギャグと喜劇の
 アイデアとでいっぱいだった。
・マック・セネットの成功の秘密は、いわばなんにでも夢中になるという点にあった。い
 うなれば理想的な観客であり、おかしいと思えば、それこそ心の底から大笑いをした。
 このときなども、しまいには身体中が震え出すほど笑いこけた。それに勇気づけられて、
 私は、今度はその人物の役づくりを説明にかかった。 
・すべての喜劇を通じて一番大事なのは、姿勢ということだが、それを見つけ出すのが必
 ずしも容易ではないのだ。そしてこの場合私の考えたのは、本人は客を装ったペテン師
 のつもりでホテルのロビーにいるが、なに、その実は、一夜の宿を探している一介の浮
 浪者にすぎない、という想定だった。入ってきて、いきなり婦人客の足に蹴つまずく。
 ふり向いてヒョイと帽子をあげて、丁重に詫びる。途端に今度はたんつぼにつまずいて
 転ぶ。これまた帽子をあげて、たんつぼに挨拶をする。カメラの後ろで笑い声が起こっ
 た。
・そのうちに、みるみる大勢の人間が集まってきた。ほかのセットの俳優までが仕事を放
 り出して見物にきたばかりか、道具方、衣装係までぞろぞろ寄ってきた。なんとしても
 これは、たいへんなことだった。稽古が終わる頃には、黒山のような見物人が、大笑い
 しながら見ている始末だった。
・ところで、私のやったその人間というのは、アメリカ人にとっては、まったく知らない
 はじめての性格像、いや、私自身にとってさえ思いもかけない人物だったのだ。だが、
 ちゃんと衣裳をつけてみると、立派に実在の生きた人間に思えてきた。そして事実、そ
 うした浮浪者の衣裳をつけ、顔をつくるまでは、私自身まったく想像もしなかったよう
 な奇想が、つぎつぎとまるで泉のように湧いてくるのだった。
・セネットが監督だと、まことに気が楽だった。というのは、すべてがセットで実にすら
 すら運ぶからだった。どうやらだれ一人として確信をもって仕事をしている人間はいな
 いらしいことを考えると、これなら自分だって負けるものかという気にもなり、そうな
 ると、また自信もわく。ついにはいろいろ意見まで出すようになったが、それをまたセ
 ネットさんは実によく受け入れてくれる。こんな風にして私は次第に、自分にも創作の
 才はある。自作のストーリーだって書ける、というような自信が目覚めてきた。こうし
 た考えを吹き込んでくれたのは、一にかかってセネットさんだった。だが、彼を喜ばせ
 るだけでは意味がない。まだまだ大衆というものを喜ばせなければならなかったのだ。
・私は自分で喜劇を書き、自分で監督してみたくなった。そこでそのことをセネットに話
 してみたが、もちろん彼は耳を貸すはずがない。それどころか、そのときちょうど、自
 作の監督をはじめたばかりのメイベル・ノーマンドの組に、私を配属させてしまったの
 だ。私は憤然となった。メイベルが魅力的なことは認めるが、監督としての腕には疑問
 があったからだ。避けがたい衝突は、早くも第一日目に起こった。彼女は「あんたはね、
 ただ言われた通りにしてりゃいいの」ときた。もうそれだけでたくさんだった。しかも
 こんなかわいい娘っ子からだ。とても黙って引きさがるわけにはいかない。「私に指図
 するなんて、そんな力があなたにあるとは思えませんからね」
・当時彼女はまだ二十歳になったばかりだった。チャーミングな美人で、だれからも好か
 れ、愛されていた。私自身にも、彼女の魅力と美貌はわかっていたし、むしろひそかに
 あこがれていたくらいだが、なんといってもこれは仕事だった。
・スタジオへ帰って顔をおとしていると、はたしてセネットさんがおそろしい勢いで駆け
 込んできた。「いったいどうしたというんだ?」私はきわめて冷静だった。「セネット
 さん、ここへくるまでも、食うだけのものはぼくは稼いでいました。だから、もし首だ
 とおっしゃるのでしたら、そう、やっぱりまあ首でしょうね。でも、ぼくとしては良心
 的だったつもりです。なんとかよい映画をつくりたいということじゃ、決してあなたに
 負けないつもりですからね」セネットさんは、もうなんにも言わなかった。激しくドア
 を閉めて行ってしまった。
・翌朝、セネットがドアの間から顔を出した。「チャーリー、ちょっと話がある。」彼の
 声は意外なほどやさしかった。「いいかね、チャーリー。メイベルはきみが大好きなん
 だよ。ぼくたきもみんな、きみが好きだ。すばらしい芸術家だとさえ思っている」「ね
 え、それじゃひとつ、ぼくに監督をやらせてくれませんか?それで万事解決すると思う
 んですが」「でも、もし売れなかった場合、誰が制作費を払うんだね?」「ぼくが払い
 ます」「よろしい。じゃ、とにかくメイベルの作品を上げてくれたまえ。話はそれから
 だ」  
・そのあと、私はメイベルに謝りに行った。その晩セネットは、二人を夕食に連れて行っ
 てくれた。翌日のメイベルは、まるで人が変わったようにやさしかった。私たちは、ま
 ことに気持ちよくその作品を撮りおえた。
・それにしても、なぜ急にセネットの態度が変わったのか、まったく私にはわからなかっ
 た。だが、何カ月かたって、理由がわかった。事実セネットは、その週の終わりで私を
 首にするつもりだったらしい。ところが、メイベルとのあの喧嘩があった次の朝、彼は
 ニューヨークから一通の電報を受取った。チャップリン映画が大当たりしているから、
 至急もっと彼の作品をよこせ、という電文だったのである。  
・当時の監督技術というのは実に簡単だった。ただ人物の出し入れに関するイロハさえの
 み込んでいれば、十分にことは足りた。だが、監督としての経験を積むにつれて、私は、
 カメラの位置が単に心理的なものだけでなく、いわば一つのシーンを明確に規定するも
 のであることに気がついた。事実それは映画の文体を決定する基礎といってもよかった。
 カメラの位置がほんの少しでも近づきすぎたり遠すぎたりすることによって、画面効果
 はたかまり上りもすれば、だめにもなる。とにかく動きの節約ということがなによりも
 大事なので、よほど特別な理由でもないかぎり、必要以上に長く役者を歩かせることは
 望ましくない。つまり、ただ歩くだけでは、決してドラマではないからだ。
・もっとも、自分で監督をやりはじめたときは、必ずしも予想していたほどの自信はなか
 った。正直いって、いささかあわてた気味さえあった。だが、最初の日の撮影をセネッ
 トさんに見てもったとき、すっかり自信がついた。
・以来私は、すべて私の作品は自分で本を書き、そして監督もした。
・成功は人間を愛想よくする。私はスタジオの人たち、誰ともみんな親しくなった。エキ
 ストラから道具方、衣裳係からカメラマンにいたるまで、私はみんなの「チャーリー」
 になった。もともとあまり社交好きではなかったのだが、さすがにこれは嬉しかった。
 つまり、みんなが親しんでくれるというのは、とりもなおさず私が成功者だという証拠
 だったからである。    
・いまでは自分のアイデアに自信を持つようになった。思えばそれもセネットのおかげで
 ある。というのは、私同様、彼も無学、無教養な人間ではあったが、自分の批評眼には
 信念を持っており、それを私にも吹き込んでくれた。おまけに彼の仕事ぶりがまた、私
 に自信を植え付けてくれた。確かに正しいやり方のように思えた。「シナリオなんかあ
 るものか。アイデアさえつかんだら、あとはそのまま自然な事件の流れにしたがって撮
 っていくだけさ」というのは、たえず私の想像力をかきたててくれた。
・あまりにも男っぽい撮影所の雰囲気は、もしこれで美しい女でもいなかったら、さぞか
 したまらないものだったろう。私のスタジオの場合、いうまでもなくメイベル・ノーマ
 ンドの存在が、ずいぶん華やかさを添えていた。まったく可愛い女だった。明るくて、
 親切で、気がよくて、みんな誰にも好かれていた。
・当時彼女は、マック・セネットにすっかり熱をあげていた。もっとも、おかげで、彼女
 とは実によく顔を合わせた。いつもよく三人で食事をしたものだが、食後マックがホテ
 ルのロビーで寝てしまうと、その間私たちは二人で映画を見たり、カフェにいったりし
 て時間をつぶす。やがて戻ってきた彼を起こすのである。そこまで親しくなれば、いず
 れはロマンスだと、早呑み込みする人もあるかもしれぬが、実はそうではなかった。残
 念ながら、ついに仲好しだけで終わってしまったのである。
・1914年というと、私はまだ25歳の若い盛りで、完全に仕事に夢中になっていた。
 必ずしも成功だけが目的ではなく、むしろいろいろな映画界のスターたちに会えるのが
 魅力だった。 
・ペギイ・ピアース、美しく整った顔だち、真白なうなじ、うっとりするような肢体をし
 た稀に見る美しい少女、それが私の初恋の女だった。私がキーストンへ来て三週間目に、
 はじめて彼女は姿を現わした。初対面の瞬間、すでにお互い火花が散ったのである。片
 恋ではなかった。そして私の心は、たちまち恋の歌をうたった。彼女の会えるという期
 待に燃えて、いつも仕事へと急いだ毎朝、なんと、その楽しかったことか。
・日曜日ごとに彼女の両親のアパートに電話をかけた。彼女と会う夜は、愛の告白と苦し
 みの連続だった。そうだ、ペギイは私を愛していた。だが、結局それははかない夢だっ
 た。最後までついに拒み続けられたもので、私もとうとう絶望して諦めてしまった。も
 っともこの頃の私には、どんな女とも結婚の意志はなかった。自由であることがあまり
 にも楽しくて、それがかえって邪魔になったともいえる。どんな女を見ても、私の心に
 あったある漠然たる理想像、それにかなう女というのがいなかったわけだ。
  
成功
・私自身に関するかぎり、ブロードウェイは砂漠も同然だった。昔の友だちのことも思っ
 てみた。いまこのきちがいじみた成功につつまれて、もう一度会ってみたらという気も
 しないではなかったが。さて、それではニューヨークでも、ロンドンでも、そのほかの
 どこにしても、はたして故旧などと呼べる人間がいるのだろうか?強いて会ってみたい
 といえば、たった一人だけ、それはヘティ・ケリイだった。映画界へ入って以来は、彼
 女から一度も便りをもらっていない。もしいま会ったら、はたしてどんな反応を示すこ
 とだろうか。それだけは興味があった。
・この頃彼女は、姉のフランク・グールド婦人と一緒にニューヨークに住んでいた。私は
 五番街まで足を運んでみた。その家の前に足をとめて、彼女は家にいるだろうかと考え
 たが、案内を乞うだけの勇気はなかった。しかし、ひょっとすると彼女が出てきて、偶
 然会うということもあるかもしれない。私はぶらぶら歩きながら、30分ほど待ってい
 た。だが、誰ひとり出入りするものはなかった。
・それから二日間、私は幸福と失望の両極端を振子のように揺れながら、誰ひとり知った
 人間に会うまでもなく、ニューヨークの街を歩きまわった。