時雨のあと  :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1976年に発表された短編の時代小説である。
兄の安蔵が十一歳、妹のみゆきが三歳のとき、突然両親が、姿を消して、兄妹二人だけが
取り残された。二人の兄妹は、遠い親戚に引き取られたが、苦労が堪えなかった。
兄の安蔵が十五歳になったとき、鳶職の見習いに入った。そして、妹のみゆきが十歳のと
き、一人前の鳶職になった安蔵が、みゆきを引き取って、兄妹二人で暮らしはじめた。
安蔵は、酒も飲まず、女も買わず、せっせと働いた。近所の人々も、そんな二人を憐れん
で、面倒をみてくれた。だが、しあわせな日々は、長くは続かなかった。安蔵が、高い足
場から落ちて大けがをして、鳶の仕事が続けられなくなってしまったのだ。
妹のみゆきは、そんな兄の代わりに女郎屋で働きはじめた。しかし、それに甘えて、兄の
安蔵は、博奕に手を出して大負けし、みゆきのところに金を無心に来るようになった。
妹のみゆきは、いつか兄が自分を女郎屋から請け出ししてくれると信じて、懸命に働いた。
不甲斐ない兄を信じ、懸命に支える妹の哀れさに、胸が熱くなる。江戸時代ばかりでなく、
現代においても、似たような話が、実際にこの社会のどこか片隅で起きているのではなか
ろうかと思えた。
私がこの作品を読んで、思い出したのが、2016年に成立した総合型リゾート(IR)
整備推進法案(通称:カジノ法案)だ。日本は、「カジノ」を国内に導入して、経済の活
性化を目論んでいる。しかし、カジノは、どう取り繕っても、やはりギャンブルだ。たと
えそれが、多少経済の活性化につながるとしても、他方で、この作品に出てくる安蔵のよ
うな、ギャンブル依存症の人々が多く出る可能性は高かまる。そういう人たちを「自己責
任だ!」と目をつぶってしまっていいのだろうか。国を挙げて「カジノ」というギャンブ
ルを推し進めることは、はたして真っ当な国のありかたと言えるのだろうか。カジノがで
きることによって、この作品のような哀しい話が、社会のあちこちで出はしまいかと心配
するのは、考えすぎなのだろうか。(「カジノ解禁が日本を亡ぼす」:若宮健著)



・金五郎は鳶を抱えている人足の頭だが、抱えの若いものも十二、三人で商売が小さい。
 こっそり奥で賭場を開いたが、それも若い者が手慰みをはじめたので、町で知り合いの
 者を呼んでくるようになっただけで、これ以上大きくするつもりはな。外に洩れるのを
 ひどく恐れていた。金五郎の大きな身体は、不釣り合いほどの小心な気持が宿っている。
・「心配いらねえって親分」安蔵は力を入れてコマ札を引っぱったが、金五郎はまだ手を
 離していないので、二人の間でコマ札があっちへ行ったり、こっちへ行ったりした。
 「いざとなりゃ、美由貴がいまさあ。あいつは働きものだ。二両ぐらいの金は、いつだ
 って溜め込んでいるって」
・「みゆきはどうしている、相変わらず茶屋で一所懸命小間使いをやっているか」「小間
 使いなんてもんじゃありませんぜ。もう立派な大人で女中をしていまさ。俺に似ねえ可
 愛いお面をしてやがるから、おかげでお客さんに人気がありやしてね」
・「みゆきだって年頃だ。嫁入り支度のつもりで溜めている金を、兄貴にちょくちょく齧
 られたんじゃ気色悪かろう」「あいつはそんな女じゃねえ。いつだって機嫌よく金をく
 れますぜ」「感心な娘だ。兄思いだ。しかしそれなら一層お前がしっかりしなくちゃい
 けねえや」   


・考えごとをしていたみゆきは、おかみの玉江に呼ばれて、はっと顔を上げた。
 「また兄さんが来ているよ。お前を呼んでくれってさ」
 玉江は吉原の女郎上がりで、十何年か昔に上総屋のおかみに納まった。きつい口をきく
 が、意地の悪いところはない。それでみゆきは五年も上総屋の抱えの女郎で勤まってい
 る。
・仲町には、上総屋のように、俗に子供屋と呼ばれる家が七、八軒あって、みゆきのよう
 な女郎を置いている。茶屋から呼び出しがくると、女郎たちは茶屋に行って客の相手を
 し、そこで寝て帰る。普通の女郎屋のように、まわしを取ることはないから、それだけ
 身体が楽だった。それでも疲れる。近頃みゆきは身体がだるくて仕方がない。それだけ
 女郎暮らしに年期が入ってしまったと、ぞっとすることがある。
・「兄さんが大怪我をして医者にかかる金もないからって、お前が家に来たんだよね。こ
 んなちっちゃななりをしてさ。お前はあのとき十四だったかい」と玉江はきゆきに訊い
 た。「十五でした」「それで兄さんの修業って何だい」「飾師」です」みゆきは誇らし
 げに答えた。
・「元気か」安蔵が駆け寄ったみゆきを迎えると、肩に手を置いて、優しい声で言った。
 その声を聞くと、みゆきは胸が一杯になる。両親が失踪したとき、二人はまだ子供だっ
 た。二人は一時、品川にある遠縁に預けられたが、みゆきが十になったとき、安蔵はみ
 ゆきを相生町の裏店に引き取った。もうその時、安蔵は諏訪町の丸金で、一人前の鳶だ
 った。酒も飲まず、女も買わずに、安蔵はせっせと働いていた。
・「まずお前を嫁にやって、それから俺が嫁をもらう」というのが安蔵の口癖だった。兄
 妹二人だけの世帯を、裏店の者が憐れがって面倒をみてくれたので、暮らしの上の心配
 もなく、しあわせな日々だった。
・だが、ある日、安蔵が高い足場から落ち、しあわせな日が終わった。安蔵の顔をみ、優
 しい声を聞くと、みゆきは輝く夕映えをみるように、心の中に過ぎ去った日々が甦って
 くる感じがする。 
・「じつは少し材料を買ってな、自分で作ってみたい細工物があるのだ。うまくいけば、
 すぐに金になる。それだけじゃない。一人立ちする目どがつく」「もうそんなに上手に
 なった?」
・みゆきは声を弾ませた。それならこんな岡場所で、男に身体を売る暮らしから抜け出す
 日は、そう遠くないのだ。   
・みゆきは押入れの布団に下に隠していた金を掻き集め、おかみの玉江から二両借りて三
 両余りにして、兄に渡した。渡すとみゆきは、通りまで出て兄を見送った。
 

・「金がないだと?さっきは帰ればあると言ったじゃないか」安蔵を別の部屋に引っぱり
 こんだ賭場の男が言った。安蔵が今夜、この賭場で借りた金は十両に膨れ上がっている。
・「よっぽど度胸があるか、それとも馬鹿かどっちかだろう。おめえ、嬶がいるだろう」
 「「いません」「めんどうだから指を二、三本詰めろ。片端にして放り出せ」
・「仲町で妹が女郎をしている。借金はいくらもねえし、金になる女だ」安蔵は必死に言
 った。恐怖で、自分が何を言っているのかわからないほどだった。
・「聞いてくれ、みゆき。今度いよいよ一人立ちすることになった。それについては金が
 いるんだ。十両だ」「明日おかみさんに話してみるから」「そうしてくれ。頼んだぜ。
 みゆき」 
・安蔵が夜の闇に消えるのを、みゆきは玄関に立ったまましばらく見送ったが、気分にひ
 っかかるものが残った。安蔵はその話を明日まで待てないほど、切羽つまっていたのだ
 ろうか。
・そう思ったとき、みゆきははっとした。子供二人を置き去りにして失踪する前、みゆき
 の父親はいつも夜遅く血走った眼をして家に帰ってきた。後で聞いた話では、小さな薬
 種屋を営んでいた父親は、その頃山のような借金に苦しんで、金策に走り廻っていたの
 である。
・小さな頃みたその父親の姿に、今夜の安蔵のゆとりのない切迫した表情が重なった。そ
 して安蔵と一緒だった男が、父親について家まできて、激しい口論をして帰った借金取
 りの一人を思い出させた。


・今朝起きたとき目まいがした。熱っぽい感じがあって、風邪らしいと気づいたが、昨夜
 信濃屋の番頭に聞いた話が気になって、玉江に願って外に出してもらったのである。
 「行っておいて、気になるんならね」
 玉江は憐れむようにみゆきをみて言った。みゆきの話を聞いて、みゆきが兄に疑いを持
 っていることを察したが、自分で探りあてることなら仕方がないと思ったのである。
 ゆうべみゆきのところに現われた安蔵が、十両の無心をしたと聞いて、正体が割れるな
 ら早い方がいいだろうと思ったのだった。その方がみゆきのためにもなる。
・家へ行ってみよう、と思った。家へ行って、安蔵を問いつめなければならない。兄が嘘
 を言っていたのは、もうはっきりしている。兄は餝職の修業などしていなかった。する
 とああして金を欲しがったのはなぜだろう。十両の金は何に使うのだろうか。
・誰もいない家を訝しんで、隣に行ったみゆきを、お作婆さんが驚いて迎え、すぎに茶の
 間に上げたが、安蔵の消息を聞くと、お作の表情はみるみる曇った。 
・「博奕だよ。お前さん知らなかったのかい。男なんてものはしょうがないもんでね」
・早く何とかしないと、兄ちゃんは取り返しがつかなくなる、とみゆきは思った。金をせ
 びりにきた時の、兄の奇妙な落ちつかない表情が、やっと腑に落ちていた。博奕の金が
 欲しかっただけなのだ。自分を岡場所から引き取るような算段は何もなかったのだ。だ
 が、みゆきの心には、不思議に兄に対する怒りが湧いて来ない。兄に喰いものにされた
 きたという気はしなかった。
・諏訪町の丸金にたどりつくと、出て来た金五郎の女房は眼を瞠った。みゆきは頭からす
 っかり濡れ、青ざめた顔で歯を鳴らしながら言った。
 「おばさん、兄ちゃんに会わせてください」
 言うとみゆきは、ずるずると上がり框に崩折れた。金五郎の女房が、けたたましく人を
 呼ぶ声が、家の中にひびき渡った。
・「見ろ、哀れなもんじゃねえか」金五郎は煙管をせわしなくふかしながら言った。
 医者が帰ったばかりで、部屋の中には金五郎と女房のお増、それに青い顔をした安蔵が
 いた。みゆきはこんこんと眠り続けている。
・「お前のことが心配で、風邪をひいているのに雨の中を無理に訪ねてきて、この始末だ。
 一体近頃どこをうろついているんだ。妹を女郎になんぞ売りやがって、その金で遊び歩
  ているのは、どういう了見だ」 
・みゆきは座敷に運び込まれ、床に寝かされると、不意にしっかりした声で、風邪をひい
 て帰れなくなったと、仲町の上総屋に言ってほしいと言い、それから小さいあくびをひ
 とつするとそのまま眠ってしまったのだった。額に手をあててみるとひどい熱で、丸金
 では大騒ぎで医者を呼んだのである。
・安蔵が鳶の見習いで丸金に来たのは十五の時であった。事情を知っている丸金では、そ
 の時七つだったみゆきも一緒に引き取った。みゆきはしっかりした子供で、お増や女中
 を手伝って、言いつけもしない仕事を一所懸命にやった。子供がいない夫婦は、その頃
 みゆきを自分の子のように可愛がったのである。
・「まともな仕事について、博奕もしねえと見極めがついたら、ひげ政に話をつけて、十
 両は俺が肩代わりしてやらあ。お前は憎いが、みゆきが哀れだから、そうしてやるんだ。
 どうだ、一からやり直す気があるか」  
・安蔵はみゆきを見た。みゆきは髪を乱し、赤い顔をして、荒い息をして眠っている。
 時どき瞼がぴくぴく動いた。
・突然、安蔵の脳裏に子供の頃の光景が浮かんだ。両親が姿を消し、親戚に引き取られた
 のは、安蔵が十一、みゆきが三つの時だった。みゆきは片時も安蔵のそばを離れない子
 だった。安蔵は家のことを手伝ったり、使いに出たりする。みゆきはいつもそばにいて、
 小さな手で安蔵がすることを手伝った。
・ある日、安蔵は親戚の者に叱られ、夜の飯を抜かれた。暗い部屋で、安蔵は亡きじゃく
 っていた。その肩に、いつの間に来たのか、みゆきが掴まって安蔵をのぞいた。親戚の
 者がみゆきを呼びにきて、飯を喰えと言った。だが、みゆきはちいさな顔を振って、
 「兄ちゃんが食べないから、あたいも食べない」と言ったのだった。そのときのことを、
 安蔵は思い出している。不意に安蔵はこみ上げてくる涙を感じた。
・「俺は、馬鹿だ」と安蔵は顔をゆがめて言った。安蔵の頬に涙がひと筋走った。博奕に
 手を出したのは、しがない日雇では、みゆきを請け出すことが出来ないという焦りから
 だった。だが途中から勝負が面白くなって、そのまま流された。いつの間にか、みゆき
 を騙し、喰い齧る男になり下っていた。
・出直せないじゃ、みゆきに済まねえ。「必ず、やってみまさ」
・屋根を叩いていた時雨は、遠く去ったらしく、夜の静けさが家のまわりを取り巻いてい
 る気配がした。