津山三十人殺し 筑波昭
              (日本犯罪史上空前の惨劇) 

この本は、いまから24年前の2001年に刊行されたもので、1938年(昭和13年)
5月に岡山県津山市で実際に発生した事件を題材したものである。
都井睦雄という当時22歳の青年が11の民家に押し入り、住民を猟銃や日本刀で次々に
襲い、1時間半のあいだに28名を即死させ、5名に重軽傷を負わせた(そのうち2名が
まもなく死亡)。
この30人殺害という事件は、明治維新以降2019年の京都アニメーション放火殺人事
が発生するまで、81年という長きにわたって最多の犠牲者数だったという。
犯人の都井睦雄が自殺してしまったため、犯行の動機が何だったのか、事件の謎は完全に
は解明されていないという。
犯人の都井睦雄は、子どもの頃は学業にすぐれ、村はじまって以来の秀才と言われていた
ようだ。そんな人間がどうしてこんな犯行を起こしたのか。
その動機はいくつかあったようだ。
その一つは、都井睦雄は十代後半に肺結核を患ったことだ。当時は肺結核は当時は「不治
の病」とされ伝染性も恐れられていた。
このため、村人たちからは感染源として敬遠され、日常的に接触を避けられたり、結婚話
が破談になったり、あからさまに避けられたりしたといわれ、「村八分」に近い扱いをさ
れた可能性もあるようだ。
また、この肺結核のため徴兵検査で不合格となり、それが村内で「役立たず」などの陰口
を招いたと言われていて、彼自身もこのことに強い劣等感と屈辱を感じていたようだ。

もう一つは、女性関係でのトラブルがあったようだ。
都井睦雄は村内の複数の女性(6人)と性的関係があったという証言が残っているという。
当時の農村部ではまだ、いわゆる「夜這い」の風習が残っていたという説と、それを否定
する説があるようだが、いずれにしても都井睦雄が複数の女性と性的関係にあったという
のは事実のようだ。
これには、都井睦雄が性欲が異常に強かったという見方もあるが、二十歳前後の青年の性
欲が強いのは普通で、異常に強いとまでは言えないような気もする。
それに都井睦雄は見た目が整っていたとも証言されており、村の若い女性たちにとっては
“都会的”な雰囲気が魅力的に映ったという指摘もあるようで、記録や証言では、都井と関
係を持った女性たちは必ずしも被害者ではなく、むしろ当時は合意の上だった可能性が高
いと見られているようだ。
しかし、そんな女性たちの関係も、都井が肺結核であることが判明した途端、女性たちが
彼を忌避・否定するようになったという話もあり、都井睦雄は女性たちに裏切られたとい
う感情を持つようになったとも言われている。

主にこの二つが要因になって、都井睦雄は部落の中で次第に孤立・孤独になり、復讐心が
芽生えてきたようだ。

過去に読んだ関連する本:
王道楽土の戦争(戦前・戦中篇)


<事件>
・岡山県苫田軍西加茂村大字行重部落において、宿痾の肺患と結婚難、かてて加えて過度
 の勉強からきた極度の神経衰弱にすっかり歪められて厭世的絶望感からわずか二十二歳
 の青年都井睦雄によって、なんと驚くなかれ二十九名というわが国近世における記録的
 殺人の一大悲劇が繰り広げられ、瞬間にして阿鼻叫喚この世ながらの修羅場が実現、
 被害者は同部落二十三戸中十二戸におよび、これまた記録的賛辞が展開、さいわい犯人
 は捜査圏内で自殺し果てたものの、世界的殺人魔ブルーベヤードの上を行くこの鬼畜の
 悪行は、全県民を恐怖のどん底に叩き込んだ。
・都井睦雄(二十二歳)は、かねて同人を邪魔扱いにする部落民を殺害しようと、黒詰襟
 にゲートル、猛獣用口径十二番九連発の猟銃を手にし、日本刀を腰にさし、そのうえ短
 刀をポケットに入れ、用意周到に同部落の電線を断ち切り、部落全体を暗黒にしたうえ、
 自分はナショナルランプを腹に、頭に懐中電灯二個をくくりつけ、さながら阿修羅の扮
 装で、まず自分の祖母「いね」(七十五歳)の首を手斧ではねて即死せしめ、身体には
 めちゃくちゃに銃弾を射込み。
・続いて隣家の丹羽イト(四十七歳)方に侵入、就寝中のイトに瀕死の重傷を負わせ、
 昏倒するのを見澄まして(イトは同日朝死亡)、かたわらに寝ていた同人娘「つる代」
 (二十一歳)を日本刀と猟銃で殺害。
・続いて寺井政一の一家五人、寺井好二方の一家を全滅せしめたうえ、返り血を浴び悪鬼
 のごとく荒れ狂い、深い眠りに落ちていた付近民家を片っ端から襲い、二十九名を射殺
 または斬り殺し、血まみれとなり付近の山林間に逃走したが、急報により県刑事課から
 国富課長ら、津山署より山本所長以下全員出動、付近消防組、青年団約五百名の協力を
 得て、大々的な山狩りを行い捜査中のところ、同日午前中十時半ごろ同村青山の荒坂峠
 付近山中で、猟銃で自殺している犯人を捜索隊が発見した。
 
惨劇
・顧みるにこの事件は、犯人逮捕によほどの危険性がともなう重大事である。
 万が一にも警察官が犠牲に斃れることがありとて止むを得ざるにしても、警戒に応援の
 消防組員に犠牲者を出すようなことはないか。
・午前九時ごろか、「犯人は貝尾部落より西方にあたる坂元部落の西端に居を有する武元
 市松方に、午前三時ごろ突如として異様の服装で立ち寄り、猟銃を突きつけ、『いま人
 を殺してきたが、鉛筆と紙を出せ。早くせぬとあとから追人が来るかもしれぬ』という
 から、古雑記帖と鉛筆一本を与えたら、それをもって西方に立ち去った。またそのとき
 弾丸を持っていた様子であったと聞き込み、進んで捜査中雨後の路面に、犯人のものと
 覚しき足跡を発見してこれを追跡中」との情報があった。
・平素は静寂なりし平和なる山村に、一夜にしてかような不祥事が起こったのである。
 農事もいよいよ繁忙を来す時期であるのに、被害者の家の大部分は働き人を失ったので
 ある。  
 中には軍務に復して入営中に、または修学旅行中にしかも伊勢神宮に参拝におもむいた
 留守中に、家人がおう殺されたといういとも悲惨な家もあるのである。
・検証と検案を次々にやっていたが、どこに行ってみても、その現場のありさまや屍体を
 見たときには、いずれも悽惨を極め正視するに忍びなかったのである。
 屍体の多くは胸部を射たれていたが、中には背部、臀部等を射たれたものもあった。
 寝床に寝たまま死んでいたものもある。
 犯人は浸入するや間髪を容れず、胸部に銃口をあてがって殺害の目的を達し、または逃
 走せんとしたのを追撃し、もしくは邀撃して殺害の目的を達したものと思われた。
 屍体における創口と、死体の付近に落ち散っていた空のケースの形状より推して、警察
 よりの報告の通り、猛獣用の猟銃で射殺したものと認められたが、創傷の部位より推し
 て、犯人は平素よりいわゆる急所を狙うことを心がけていたものであり、極めて敏捷に
 短時間内に犯行を成し遂げたものだと思った。
・検証検案の順序として犯人の宅にも立ち寄った。
 そこには犯人の祖母が首を切られて死んでいるのを認め、思わず慄然とした。
 その創傷の形状と、裏口に斧が立てかけてあって血痕の洗い落とされたらしい形跡のあ
 ることから推して、その斧をもって殺害したということは、容易に首肯することができ
 た。 
・犯人はいったい如何なる動機から、こんな大それたことをしたのか、ということは、
 速報を受けた当時から私の脳裡に徂徠していたのだが、目前に展開される現場の情状を
 逐次見ていって、いっそうその念を深くした。
・もちろん詳細なことはわからなかったのであるが、犯人は近来行状不良であって、婦人
 との関係については色々の取り沙汰があった。
 自分がいんぎんを通じていた女性に背かれたことを憤ったり、自分の行状について忠言
 する者に恨みを呑んだりした。
 しかも遂には部落の者全部が、自分の好意を有せぬように思えて仕方なく、その中で平
 素ことに憤りを感じ、恨みを呑んでいたものに対して、凶行に及んだものだろうという
 推測があった。 
・都井の遺書は自宅に二通、自殺現場に一通、計三通が発見された。
 (1)単に「書置」と上書きしたもの。
 この度の病気は以前のよりはずっと重く真の肺結核であろう。
 床につきながらとても再起はできぬかも知れんと考えた。
 こうしたことから自暴的気分も手伝い、ふとした事から「西川とめ」(四十三歳)の奴
 に大きな恥辱を受けたのだった。
 病気のため心の弱りしところにかような恥辱を受け心にとりかえしのつかぬ傷手を受け
 たのであった。
 それは僕も悪かった。
 だから僕はあやまった。両手をついて涙を出して。
 けれども奴は俺を憎んだ。
・そのほかに僕が死のうと考えるようになった原因がある。
 寺井弘の妻「寺井マツ子」(三十五歳)である。
 彼の女と僕は以前関係したことがある(かの女は誰にでも関係するというような女で僕
 が知っているだけでも十指をこす)。
 それがため病気になる以前は親しくして、僕も親族が少ないからお互いに助けあってい
 こうと言っていたが、病気に僕がなってからは心変わりしてつらくあたるばかりだ。
・そうして心をいよいよきめると、殺人に必要な道具を準備した。
 極力秘密を守ったが、マツ子の奴やこれを感づき自分が殺されると思ったか、子供を連
 れて津山のほうに逃げてしまった。
・僕がこの書物を残すのは自分が精神異常者ではなくて前もって覚悟の死であることを世
 の人に見てもらいたいためである。
 不治と思える病気を持っているものであるが近隣の圧迫冷酷に対しまたこのように女と
 のいきさつもありまして復讐のために死するのである。
・寺井マツ子の奴は金を取って関係しておきながらそれと感づき逃げてしまった。
 あいつらを生かしておいて僕だけ死ぬるのは残念だがしかたがない。
 (2)「姉上様」と上書きされたもの
・自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えてはいましたけれども不治と思われる
 結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣きついに生きて行く希望
 を失ってしまいました。
・あとに残る姉さんの事を思うとあれが人殺しの姉弟と世間の冷たい目の向けられること
 を思うと、考えがにぶるようですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない。
 どうか姉さんお許しのほどを。
(3)自殺現場にあったもの
・今日決行を思いついたのは、僕以前関係のあった「寺井ゆり子」(二十二歳)が貝尾に
 来たから。また「西川良子」(二十二歳)も来たからである。
 しかし寺井ゆり子は逃がした。
 また「寺井倉一」という奴、実際あれを生かしたのは情けない。
 いいいうものはこの世からほうむるべきだ。
 あいつは金があるからといって未亡人でたつものばかりを狙って貝尾でも彼と関係せぬ
 という者はほとんどいない。
 
(都井睦雄の実姉、中島みな子(二十五歳)の供述要旨)
・小学校の成績は大変よく、本を読むのが好きで、他の子供がいたずらしていても、一人
 地理付図等を出して見ていました。
 小説のようなものが好きで、『少年倶楽部』等読んでいました。
・尋常高等小学校を卒業したのですが、三年くらいからはいつも級長をしていました。 
 高等小学校を出たときは先生も、成績が良いのでこのまま百姓をするよりは、上の学校
 へでも行ってみんかといわれたのですが、男が一人ですから祖母がよう手離せず、その
 まま家にいました。
・私は昭和九年の三月にただ今の中島家へ嫁いで来たのであります。
・本年春ころ、貝尾部落から京都へ移住した寺井弘の嫁さんのマツ子という人の家へ、
 睦雄が遊びに行くということを聞いたことがあります。
 私が聞いたのは昨年でしたが、いつ聞いたかは判然覚えていません。
 私が睦雄に対して、どういうわけで遊びに行くのかと聞くと、親類だから行くのだとい
 っていました。
 それ以外には女のいる家へよく遊びに行くというようなことは聞いたことはありません。
・睦雄は私に対しては、関係している女があるというようなことは、もちろん何もいうた
 ことはありません。
 私は睦雄が他の女と関係したという事実も、また女のあとを追うというような評判もあ
 ること等は、誰からも聞いたことはありません。
  
(都井睦雄と情交関係があり、犯行当時京都に逃げて難を免れた寺井マツ子(三十五歳)
 の供述書)
・都井睦雄は私より十二、三歳も年下で、寺井の家と昔からの親族であるということで、
 子供の時から知っております。
・私は好んで睦雄と情交をしたことはありません。
 昭和十一年四、五月ごろ電燈の集金で睦雄方へ行ったとき、祖母が留守で睦雄一人宅に
 おりましたが、私の側へ寄ってきて私の左肩にもたれかかって、関係してくれと何度も
 いいました。
 私は夫のある身であるからそのようなことはできぬと断りましたが、関係してくれねば
 殺すというふうに脅しました。その日は逃げて帰りました。
 これは昭和十一年四、五月ごろで、本年八歳の久が六歳のときで、それを背に負うてお
 りました。
 これが最初でそれまでにはそんなことはなかったのです。
・その後田園の帰りや私方で睦雄に会った時、私の側までついてきて、着物の上から私の
 尻の辺へ睦雄の前の方を付けて、もたれるようにしたことが三、四度あります。
 それで睦雄を得心がいったらしく、そのままどこかへ行ってしまいました。
・睦雄がかようなことをするのは私だけではありません。
 「岸田つきよ」(五十歳)、「岸田みさ」(十九歳)、「寺井ゆり子」(二十二歳)、
 「寺井トヨ」(四十五歳)、「西川とめ」(四十三歳)等に対しても、側に寄りかかっ
 て気持ちよさそうにしたことがある、と本人たちから聞いたことがあり、またたびたび
 関係してくれと言い寄られて、困っているという話も聞きました。 
 村中で睦雄は色気狂いである、肺病の癖に側へ寄ると変なことをするから避けておれ、
 と皆がいい合っておりました。
・私が睦雄と私の夫弘と情交する時のようなふうにして関係したことは二度あります。
 これは夫に秘密にしておりますから、なにとぞそのおつもりで内聞に願います。
 それも無理やり関係をつけられたので、恋愛関係等は絶対にありません。
・一度は昭和十二年五月ごろの午後一時ごろ田園から私が帰ってきて板の間におったら、
 睦雄が田園の方から来て、板の間に腰かけている私の前へ来て、私を倒し、私の前をま
 くって、無理矢理に自分のものを私の前へ当てました。
 私の方の中へは十分入らなかったと思います。
 当てたところくらいで気をやって、私の前の方を多少汚して、出来心ですまんことをし
 た、堪えてくれ、というて帰りました。
・二度目はその年の七月ごろ田園から帰って、午後二時ごろ昼寝をしておったら、座敷の
 上へ上がってきて、寝ている私の上に乗り、私の前を開いて自分のものを入れようとし
 ました。  
 この時も中に入らず、気をやって、その辺を汚してしまいました。
 私がこのようなことをして夫にもすまんと怒ったら、自分は時々こんな変な気になるの
 で、すまんことをした、妻も貰わねばならんから、誰にもこのようなことは言わぬよう
 にしてくれ、と謝りました。
・私はかようなことについて、お金や物を貰ったようなことは絶対にありません。
・「岸田つきよ」が、昨夜も睦雄が来て自分の道具を突っ張って、関係をつけてくれとい
 って困ったと、昨年七月ごろの一番草取りのころ婦人たちが草取りをした時に、多勢の
 前で言っているのを私も聞きました。
・昨年十一月ごろ大根をもって睦雄方へ行ったとき、無理におさえつけて関係してくれと
 いうたのが最後だと思います。
 このときもちょっと腰を使っただけで得心したもようでした。
・睦雄が殺すというのは口癖で、「西川とめ」にもさようなおどしをいったそうです。
 私は睦雄が無理無体なことをして、私を辱めておきながら、勝手に私を怨んで、何も知
 らぬ私の両親を殺して憎い奴だと思うております。
 
(被害者の一人 寺井ゆり子(二十二歳)の供述要旨)
・自分は昭和十三年一月、丹羽卯一と結婚したが、同年三月離婚され、実家に戻った。
 その後同年五月、上村岩男に嫁し現在に至っている。
・丹羽卯一と離婚した理由について、あるいは自分が犯人都井睦雄と情交関係があったた
 めのように言われているようだが、自分は犯人が自分のことをどう思っていたかは知ら
 ぬが、絶対に同人との間に情交関係はなく、かような理由で離婚となったものではない
 と信じている。 
・自分は卯一と従兄妹同士であるが、同人方と自分方は祖父母の代から三代続いて血縁結
 婚しているので、結果がよくないだろうと卯一が心配した結果、合意の上で離婚したの
 で、外に理由はない。
 
(寺井ゆり子の前夫で、辛くも難を逃れて駐在所に急報した丹羽卯一(二十八歳)の供述
 要旨)
・自分は「寺井ゆり子と」結婚し、離別したが、その理由は自分方は祖父、父の二代にわ
 たりいずれも従妹を妻に迎えており、もし自分がさらに母方の従妹にあたる「ゆり子」
 と結婚すれば、都合三代に血族結婚を重ねることとなり、かねてより優生学上の懸念を
 懐いていたのみならず、同女に対しては格別の愛情を感じていなかったので、僅か三カ
 月で協議の上離婚したのである。 
・殺人事件の三年前から、小学校教員の検定試験を受けると称し、自宅に引きこもって自
 ら友達との交渉を絶っていたが、俄然素行不良となり、夜間は家を空け、あるいは他家
 を覗き廻り、あるいは異性の家に出入りする等の風評があった。
・寺井弘の妻で、他の女性よりも睦雄に対し、より密接な関係にあったと認められる寺井
 マツ子は、事件突発直前全戸を挙げて京都に移転したまま、まだ帰郷していない。
  
(被害者岡本和夫の兄岡本菊一(六十二歳)の供述要旨)
・弟の和夫は二十三くらいのときに初めて嫁をもらいましたが、昨年八月結婚した「岡本
 みよ」(三十二歳)という女は、五度目の家内であります。
 弟には一人も子供はありませんでした。
・今田勇一という者が、昨年十月ごろ都井睦雄を連れて、弟方にきて酒を飲んだことがあ
 ります。 
 このとき「みよ」と都井が話をした初めてだと思います。
・その後「みよ」と都井睦雄が親しくするので、弟がかないに都井睦雄と遊んではいかぬ
 というて注意したことを、私は弟から聞きました。
 「みよ」からは何も聞きません。
 弟の話では都井睦雄が来れば戸を閉めて「みよ」を匿してやったということです。
 弟が私にこういう話をしたのは、本年三月ごろのことでありました。
・都井睦雄は恐らく全部で三、四回くらいより弟の家へ来ていないと思います。
 五回とは来ていますまい。
 家へ上がったのは、今田勇一と来たときだけだと思います。
  
事後
・犯人都井睦雄が寺井弘妻「マツ子」及び岡本和夫妻「みよ」と情的交渉ありたることは
 村民の認むるところなるも、その他はおおむね遺書による風評に止まり、当時これを知
 りたる者なく、岡本一家殺しは痴情関係をめぐる怨恨なること判然したるも、他は若干
 にても反感を有する者及びいわゆる傍杖を食いたるものと認められ、村内全般に風紀著
 しく廃頽せりと認めらるる具体的事実なく、犯人の病的好色者たりしは、今日において
 も全部落民の異論なきところなり。
・都井の実姉「みな子」なるが、目下妊娠臨月にして、事件以来家庭に不和を生じ、嫁入
 先においては分娩させる等との物議あるもののごとくなるも、近隣並びに本人をめぐる
 者は同情感を抱く者多く、目下排斥または差別等の事実を認めず。
  
論評
(岡山区裁判所守谷芳検事の意見)
・私はこの事件の原因は、都井睦雄の先天的犯罪性格にありと断じたい。
 たとえいつの時代、いかなる社会、またはいかなる環境に彼が置かれたとしても、多少
 程度の差はありとせよ、彼は相当なこの種凶悪犯罪を敢行したのであろう。
・新聞紙の報道等によると、この村は特に男女間の風儀が乱れているようにいわれている
 が、いったい娯楽機関に恵まれるこの種山村では、青年男女間の風儀が比較的ルーズで
 あることは顕著な事実で、貝尾部落のみを特に責めるのは酷に失する嫌いがある。
 彼が犯行当時経済的に行き詰まっていたことは事実である。 
 しかしながら彼は父祖譲りの財産を一部病気療養のため、あるいは関係した女の歓心を
 買うため等につかったことはまちがいないが、残余はこの凶行準備のために使用してい
 る。
 経済的行き詰まりがこの事件の原因であると考える前に、この犯行までに財産をすっか
 り使ってしまう予定であった、とさえ推測できるのではあるまいか。
 
(内務省警保局の和泉正雄警視の分析)
・彼の心境に大きなる変化を与えたものは、婦人関係である。
 娯楽機関皆無の交通不便の山村が、男女間の道義著しく低級であることは、往々見受け
 る現象で同地方またはこの例に洩れず、これは今回の事件を通じて広く僻陬農村の教化
 上、鋭き示唆を与うるものがある。
 早熟の犯人が十七、八歳のころより、部落内の多くの女性と関係を持つに至ったが、
 女の操守薄きことと彼が結核なりとの理由等により、女は漸次離反し時には悪罵嘲笑を
 残して去って行く。
 こうした犯人に対する風儀上の風評が、部落の内外に噂さるるにつれ、祖母の下にわが
 ままに育った彼に、強い反抗心が醸成されるに至ったのであろう。
 
(評論家の阿部真之助の社会時評)
・私はこの事件を機会に、物好きに西洋の文献を漁ってみた。
 ところが私の狭い探索では、彼地にも三十人ぐらいの大量殺人がないではないないらし
 いが、それらは長い年月にわたって秘密に稼ぎためた数であり、岡山の青年のように一
 時に多量を稼いだためしはついに見当たらなかった。
・かように、大量殺人の実例を見ていくうちに、私の気がついたことは、それらの大量殺
 人者たちが例外なしに素質的な殺人者、いいかえれば、生まれながら精神的に肉体的に
 何らかの欠陥を持つ人々である点だった。
 普通の人だったら、長年にわたって殺人生活を営むという如きは、彼の良心が許さない
 のであろうが、これもあえてして何等の苦痛を感じないのが、彼らの素質者たるゆえん
 であって、平静に事務的に殺人を処理していくことから、かえって他人の疑惑を免れて
 いたというようなものが少なくなかった。
・素質的でないものでも、一時的の逆上からかっとなって、思いもよらぬ惨劇を演出しな
 いかぎりではない。
 しかしたいていは一人を殺しただけで、おのれの犯した罪に震えあがるのが普通であり、
 それでもなお心が鎮まらず数人を殺傷することもあるが、これはむしろ一時的の発狂と
 見なさるべきもののようである。
 ところが岡山の殺人青年の場合は、偶発的にしても、一時的に逆上した発狂状態とは、
 いささか趣を異にしている。
 それは第一に殺人が計画的であるということ、そしてまた殺人が極めて冷静に行われた
 ということで理解される。
・彼の意書によると、こうまでする気はなかったが、成行きで致し方なかったという意味
 が書いてあった。 
 成行きとは客観的な事件の発展であるが、それとも彼自身の心の上の展開についていっ
 たものか判然としないが、なにか彼自身の意志ないし力が彼を強圧して、かくあらしめ
 たというつもりなのかもしれない。
・社会意識ということばが、社会それ自体の意識を意味するものであるか、個人の精神の
 上の状態であるにすぎないか、といった事柄などは私などの知るかぎりではないが、
 いやしくも社会が有機的の結びつきであり、単位として個体であることを信ずる人々な
 ら、個体の部分に対し責任を感じないはずはないと思われる。
・今朝新聞を開いてみると、愛人と一緒になれるまでは断じて警察の留置場を出ないと頑
 張っているモダン娘の話が載っている。
 かような気違いじみた苦々しい話を聞くにつけても、私はいつでも世の中というものを
 振り返ってみる習慣に馴らされているのだ。
・三十人殺しの彼も留置場のモダン娘も、つまり世の中の一分子であってみれば、世の中
 の意思が働いていないという道理はない。
 してみれば、世の中が自戒し反省するよりほかに致し方ないのであろう。   

(岡山地方裁判所塩田末平検事の分析)
・彼は自己の肺患をその実相の程度異常に重患と妄想し、人生の希望のすべてを失って自
 暴自棄に陥った一面、肺患の独居は彼の情欲を不自然に昴進せしめて、むやみやたらに
 近隣の婦女に手を出し始めた。
・しかしその邪欲はとうてい容れられるべくもなく、ほとんど全部相手方の拒絶に遭い、
 いたずらに部落民の軽蔑と嘲笑を買うのみであったが、それは本来極端に我の強い彼に
 とっては、堪えられない苦痛であった。
・この凶行心理を通観して、その本筋が主我主義的虚無主義にあるか、それとも精神分裂
 症の前駆的異常性格にあるかはしばらく別の問題としても、青年特有の英雄主義が多分
 に織り込まれているおとはまちがいないと思う。
 この点において彼の十六歳の時に起こった「五・一五事件」、あるいは二十歳の時の出
 来事である「二・二六事件」等の影響必ずしも絶無とはいい得ない。
  
<犯人>
・大正十五年(昭和元年)都井睦雄が十歳のとき、「鬼熊事件」が起こった。
 千葉県香取郡の荷馬車曳きを業とする岩淵熊次郎(三十五歳)は、情婦である上州屋の
 いけいが他の男に心を寄せたのを怒り、復縁を迫ってはねつけられると、薪で撲殺した。
 さらにこの恋のもつれに介入した男の家に放火し山の中に逃げ込んだことから、熊次郎
 を鬼熊と呼んだ。
・所管警察署では応援を得て捜査陣を張り、近くの町村の消防団員を督励して山狩りを行
 ったが、鬼熊は杳として見つからない。
 鬼熊は折を見て山を下って、同情を寄せる村人から飯を食わせてもらい、また山の中に
 逃げ込む。
 この間、鬼熊を捕えようとした警官二名は、かえって鬼熊のために殺された。
・一万余の延べ人員の山狩りも空しく、鬼熊は四十九日間逃げとおした。
 しかし刻々とせばめられてくる山狩りに対して、鬼熊は逃げられることを知り、先祖の
 墓の前で、ストリキニーネを飲んだうえカミソリで喉を切って自殺した。 
・鬼熊の妻子が自宅の庭先で泣いている写真が新聞に大きく載った。
 それを見て都井睦雄が祖母に、これはなんだとたずねた。
 祖母が写真の説明文を読んで聞かせ、「おとうがいんでかわいそうじゃの」というと、
 都井は「おかあがいるけん、わしよりええがの」
 わきでこのやりとりを聞いていた「みな子」は、たしかにその通りだと思ったが、
 その時の都井睦雄の顔に格別の感傷はなかったという。
・昭和五年、都井睦雄十四歳のとき、生涯で初めての恋文をしたため、それもとでひと悶
 着起こしている。 
 都井睦雄の一級下に「武井孝子」という少女がいた。
 色白でほっしりしたおとなしい子だった。
・それは教科書ぐらいのおおきさの画用紙で、画面いっぱいにお下げ髪の少女の顔が描い
 てあった。鉛筆で丹念に濃淡をつけたもので、写真のように細密な絵だった。 
 その顔の横に「孝子さんの肖像」と書いてあり、一番下に小さく「ぼくは孝子さんが好
 きです」と記され、都井睦雄と署名があって、どういうつもりか認印が捺してあった。
・その絵を目にしたとき孝子は、自分よりも都井睦雄の姉みな子に似ていると思ったが、
 とにかくうれしかった。そして一面不安でもあった。
 彼女はその絵をふところに入れて自宅へ帰り、自分の机の袖出にしまった。
・それを六歳の弟が引っぱり出し、いたずらしているのを母親が見つけ、孝子を叱りつけ
 たうえ、担任教師に届け出たのである。
・孝子の担任は小説を書いているという噂のある二十七歳の独身女性で、「わたしから厳
 重注意します。二度とこんなことをしないようにしますから、どうかご安心ください。
 このことは絶対に他言しないように」といって母親を帰した。
 そして次の日都井宅を訪ねて、姉のみな子に事情を話して、その絵を返した。
 女教師は別に叱責にきたわけではなかった。
 思春期にはだれしも経験のあることだから、ことさら問題にするよりも、今後を温かく
 見守ってほしい、という意味のことを述べて辞去した。
・みな子はそのことを都井睦雄には一言も告げなかった。
 その絵が自分に似ていることが、彼女の心の奥でなにがしかのためらいをもたらしたの
 かもしれない。   
 機会をみて姉なりに忠告しようと思いながら、つい言いそびれてしまったのだった。
・この年みな子十七歳で、弟と同じ本好きだったから、講談倶楽部やキングなどの恋愛小
 説を読み、さらに「啄木歌集」などを愛読していたとあってみれば、もの想い人恋
 うる気持ちは弟に勝っていたといえようか。

・のちに津山事件の発生を報じたマスコミは、ほとんど例外なく性的頽廃を報じ、これが
 事件の遠因・素地だと伝えている。 
 「同人は同地方山奥に、いまなお残されている非常にルーズな男女関係の因習により、
 今回の被害者の大部分と関係を結んでいた事実があった」
 「永年打破すべく容易に打破できぬ山村の悪習である男女関係」
 「この村もやはり娯楽に恵まれない山村特有の『男女関係』が、いたって弛緩であった。
 とくに村では昭和十年に教化村として指定されて以来、小学校長等が中心となり、この
 悪習打破のため声をからして村の青年の風紀改善を叫び、淫風排除につとめていたが、
 村の何処かの隅には相変わらず原始的淫風がとり残されていた。性格こそひねくれてい
 るが、早熟な都井睦雄にこの淫風が感染せずにおるはずがなかった。都井睦雄の度胸も
 相当なものとなり、近所の村の誰彼と交際したり、他の人妻との醜関係もはじまるなど、
 あたりかまわず演ずる情痴絵巻に、比較的『男女関係』について無関心な部落の人々の
 間でも、ようやく話題となり、彼一家は次第に敬遠されるに至った」
 「文明から遠く見はなされ、娯楽の少ない山間の地は男女関係は自然に近い。しかも若
 い彼にはしっかりと手綱を握ってくれる父母がいなかった。彼は十八くらいで女を知っ
 た。それからの彼は女から女へとだらけきった世界へ足を踏み入れてしまった」
・こうした報道に対して、地元とくに貝尾部落は強く反撥し、津山警察署長から岡山県警
 察部長に次のように報告されている。
 当時新聞紙上に部落内は風紀甚だしく頽廃し、淫奔の気風部落内にみなぎり居るかの如
 く報道せられたるはまことに遺憾にして、かくの加き事実は存在せず。
 @ここ三十年来恋愛関係により夫婦関係を結びたるもの僅か一件に過ぎず
 A自分の知る範囲において恋愛関係により駆け落ちをなしたる事実なし
 B部落内における結婚は、従兄妹関係におけるもの二件あるのみにて、その他いずれも
  普通の状態なり
 C恋愛関係に因る殺傷事件の至る喧嘩等の事実最近なし
 D私通関係による私生児を生みたる者なし
 E年頃の少女または寡婦等の宅へ夜遊いわゆる夜這いなる事実なし
・これに対し塩田検事の報告は、かなり肯定的である。
 先ずこの事件発生の有力なる原因の一つと思われる男女関係の淫風存否の問題である。
 この問題については、でき得るかぎり調査をしたのであるが、部落外の者が大部分この
 悪習の存在を肯定するに反して、部落民の大半及び駐在巡査はこの風習の現存すること
 を否定し去って、この事件によって暴露されたいろいろの男女関係弛緩の事実は、この
 犯人都井睦雄を中心とする例外の事たるに過ぎないと主張し、ただ二、三十年前まで夜
 這いの弊風があったことを認むるにとどまるのであるが、かれこれ調査の結果を総合す
 るに、近時この村が教化村として指定された事情もあり、小学校長等が中心となり声を
 大にして青年男女の風紀改善を叫び、淫風排除につとめ来ったため、若い男女間にはよ
 ほど風紀の粛正が進み、今日ではなんら特別の悪風を認めがたくなったが、中年以上の
 既婚男女の間にあってはいまだ貞操観念の水準低く、原始的淫風のなお多少ながら残存
 する。
 一例として、人妻を姦し問題を起こした場合には、その問題を起こしたものが一杯和解
 の酒を買って解決するというような習わしがある。
・しかし悪習はなにも既婚者のみではなかった。
 当時少年犯罪研究の第一人者として知られた川越少年刑務所長白井勇松が、具体例とし
 て次のケースをあげている。 
 (大正末期の事例)
 某は山梨県某郡某村の生計並なる農家に生まれ、高等小学校を卒業し相応の生育を受く。
 然るにその生育地は百数十戸の農家と、某合資製糸会社ありて百数十人の女工を有し、
 かつ工女等は終業後外出して、村の青年等と関係を結ぶ者多し。
 しかのみならず農家の子女及び婢僕等も相共に夜遊びをなすを常とし、従いて村の青年
 等はたいてい十五、六歳に達せば、相関係せる女子を有せざるものなしというほどなり。
 そしてその男女は神社仏閣の境内または路傍の暗所等に密会をなすも、父兄及び四隣は
 なるべくこれをとがめざるのみならず、青年等は相関係せる女子の居宅において密会し、
 あるいは家人の就寝後その子女の寝室において相会する等は、この村の一般風習にして
 あえて怪しまざるものの如し。
 本人も高等小学校卒業後村の若衆の仲間に入り、二、三の女子と関係しいたるが、その
 中の某女は他に情夫を有し、本人と別れんと考えいたるさいなるに、その女子の寝室に
 入りて押し問答の結果、家人に発見せられ、また本人は他の女子の寝室に忍び行きたる
 に、たまたま家人が便所に起きしため発覚せられ、その意を達せず、せっかく忍び来る
 も目的を達せざるを恨み、その家の衣類を取り散らかしたるため告訴せられ、家宅侵入
 窃盗未遂となりたり。
 本人は父の風習上女の寝室に忍び入る等の行為は、ほとんど罪悪なりとは意識しおらざ
 るものの如し。
 (昭和初期の事例)
 鳥取県某地方は淫風すこぶる盛んにして、某村の青年会は十二歳より二十五歳までの者
 はいずれも加入しており、時々会合を開き、相当の人より修養談を聞く反面には、買い
 食いに耽り、婦女を誘惑し、もって誇りとなすが如き模様ありて、ある者の如きは三、
 四人の情婦を持ち、その他の者にても一、二人の情婦を持たざるはなしという。
 当所に入監せる某は十七歳の者なるが、この青年会に加入以来その悪風に感染し、婦女
 を誘惑しこれを醜関係を結びたるはもちろん、ついにかっぱらいの不良行為をなし入監
 するに至れり。
 本人は十五歳の頃より買い食いに耽り、かつ婦女の歓心を得んがために他人の金円を窃
 取し、婦女の誘惑に関して一層の発展をなせりという。
 
・昭和十年、都井睦雄が十九歳のとき、友人の内山寿に案内されて大阪の賤娼街で初子と
 いう二十八歳の女によって童貞を卒業した。
 都井睦雄は初子がルーデサック(コンドーム)をかぶせてやっている途中で昂奮のあま
 り遂情してしまったので、少し休んで再び昂奮するのを待ちそれから性交を遂げたとい
 う。初子は、都井睦雄のことを確かに童貞だと申し、とても喜んでいたという。
 このあと都井睦雄は二、三度大阪を訪ね、内山寿の紹介で何人かの淫売婦と関係した。
・昭和十一年二月、都井睦雄が二十歳のとき、「二・二六事件」が起きた。
 またご五月には「阿部定事件」が起こった。
 都井睦雄は二・二六事件にはさしたる興味を示さなかったが、阿部定事件には大いに関
 心をそそられ、自宅で取っている新聞だけでは足りずに、自転車で加茂町の新聞店まで
 買いに行ったほどであった。
・安倍定事件がなぜかくもセンセーショナルを巻き起こし、人々の胸に強烈な印象を与え
 たのか。 
 この答えは簡単で、当時のマスコミがセンセーショナルに報道したからである。
 ではなぜマスコミがセンセーショナルに報道したか。
 これは当時の世相を抜くにしては理解できない。
 阿部定事件の昭和十一年には、二・二六事件がきっかけに軍部が台頭し、日本は軍国主
 義国家として、日支事変から太平洋戦争の悲劇に突入する。
 いわば日本の狂気の幕開けの時代であった。
・こうした安倍定事件が、二十歳の都井睦雄に与えたショックが決して小さくなかったこ
 とは、新聞切抜きを何枚となくノートに貼り付けていたことからも想像できる。
 しかしこの事件に関して都井睦雄は、祖母にも姉にも一言も口にしてはいない。
 都井睦雄が安倍定事件について話したのは、ただ一人の友内山寿だった。
・「女子があないに男のもんを欲しがるとは知らんじゃった」と都井睦雄が深刻な顔で口
 にしたことが、内山の記憶に強く残っている。
 「あたりまえじゃろが」内山は笑った。
 「女子はこれで死ぬほどいい気持ちにしてもらえるけんの」
 「初子はそないなことなかったけん」
 都井睦雄は大阪で何度か抱いた賤娼初子のことを口にした。
 「淫売はだめじゃ、あいつらは商売じゃけん。オカイチョウやるたんびに気分出しとっ
 たら、からだがもたんけんの」
 「普通の女やったら気分出すのんか」
 「決まっとるやないか。女子のからだはそないに出来とる。オカイチョウに男のもの入
 れられたら、こらえきれるもんやない。淫売は日に何人もの男を相手にするさかい、
 オカイチョウがすり切れて、よう気分出えへんようになったんや」
 内山は自分でも妙な説明だと思ったが、都井睦雄は不得要領な表情で、
 「そうか、淫売と普通の女子ではちごうのんか・・・」
 「せやさかい、思えも素人の女子やってみたらええ。いっぺん素人娘とやったらわかる」
 「娘でなあかんか」
 都井睦雄は妙に真剣な顔で聞き返した。
 「別に娘でなくともええ。かえって生娘やったら障子膜があるさかい。障子膜が破れる
 とき痛がるけん。お前がやってみるんやったら、おぼこでないほうがいいやろ」。
 内山は岡山訛りと大阪弁をちゃんぽんに、もっともらしく助言した。
 「障子膜ってなんじゃ」
 都井睦雄がけげんそうにたずねた。
 「なんやお前知らんのか。生娘にはみな障子膜がくっついとる。初めて男が入れたとき
 に破れるんじゃ」 
 「そら処女膜じゃろうが」
 「そうや」
 「障子膜と聞こえたけんの」
 「そらお前の耳が悪いんや」
 内山はこのとき冷や汗をかいたという。
 彼は処女膜ではなく障子膜と思っていたのだ。
 「とにかくやな、素人の女子とやってみんことには、オカイチョウのほんまの味はわか
 らんへんでえ。淫売しか抱けんようじゃあかん。ほんまにかわいそうな気いするがな」
 「そういうもんかの」
 気落ちしたような都井睦雄の顔を見て、内山はやっと権威を回復した気になったという。
・それから間もなく都井は、部落内の人妻「寺井マツ子」に情交を迫っている。 
 寺井マツ子は池沢ツルの私生児で、尋常小学校の尋常科を卒業して、自宅で農業を手伝
 っていたが、大正十三年に同部落の農業寺井弘と結婚して、津山事件当時は夫との間に
 四人の子供があった。
・寺井マツ子は津山警察署の素行調書によると、
 「行状良好ならず常に夫以外の男性と交際関係し、強欲なるうえ盗癖等ありて社会上の
 地位信用なし。窃盗なるも常習に非ず」
 と報告されている。
・のちに内山寿が都井睦雄から聞いたところによると、情交関係の生じたいきさつは、
 マツ子の申し立てとはかなり異なっている。
 五月の終わりごろ、マツ子が都井宅へ電燈料の集金に行ったことはたしかだが、このと
 き都井は思いきって関係させてくれと頼んだところ、マツ子はただではいやだと答えた。
 そこで都井がいくらかと聞くと、いくらでもいいというので、五十銭を渡したところ、
 いまは子供を背負っているのでまずいから、子供を自宅において出直してくるといった。
 都井睦雄は五十銭をただ取りされるのではないかと思い、またマツ子が戻ってきたとき
 に祖母が帰していたら困ると考え、マツ子について彼女の家まで行った。
 するとマツ子は背負っていた三男久をおろして他の子供に預け、都井睦雄を納屋に連れ
 込んで、夫が帰宅すると困るから早くすましてくれとせきたて、短い時間で情交を遂げ
 たという。  
・「なんや、ほな淫売と同じやないか」
 内山が笑いながら言うと、
 「相手の女も気分出したけん」
 都井は大まじめに反論したというのだ。
 したがって寺井マツ子の供述における、夫と情交する時のようなふうにして関係したこ
 とは、昭和十二年になってから二度だけというのは偽りで、すでにこのときから確実な
 情交関係が生じていたとみられる。
・寺井マツ子と関係することに成功したことが自信をつけたのか、あるいはマツ子ではも
 の足りなかったのか、これ以後都井睦雄はまるで人が変わったように、部落内の女性に
 積極的に攻撃を開始する。
 西川秀司の長女「西川良子」(二十歳)、次女「西川智恵」(十八歳)、寺井ゆり子
 (二十歳)、寺井茂吉の四女「寺井由紀子(十九歳)、丹羽卯一の妹「丹羽つる代」
 (十九歳)、岸田勝之の妹「岸田みさ」(十七歳)なえお、部落内の未婚の若い女性は
 軒並みだった。
 しかしいずれも不成功に終わり、この年は暮れる。
  
・都井睦雄は部落の若者たちとはまったく交際をしないから、夜遊びや夜這いの仲間に加
 わることもなかったが、二月ごろから夜間一人で外出することが多くなった。
 もちろん祖母が寝静まるのを待って出かけるのだが、祖母が小用に眼を覚ますと、
 一緒に炬燵に寝ているはずの都井睦雄のいないことがしばしばだったという。
 そして部落の者たちは、帽子をまぶかにかぶりマントをはおった都井睦雄を、夜道でち
 ょいちょい見かけるようになった。
 都井が夜になると部落をうろつき回るようになったのは、夜遊びでもなければ夜這いの
 ためでもなかった。
 他人の夜這いの実情を目撃して、部落の男女の性的人脈をその目で確かめ、動かぬ証拠
 をつかみ、そのうえで彼独自の性的行動を起こそうと企図したことが、まもなくこのの
 ちに彼自身の行動によって証明される。
・その行動の第一着手は、岡本和夫の妻「岡本みよ」(三十二歳)に対するものだった。
 岡本和夫は事件当時五十一歳で、「岡本みよ」は殺されたとき三十二歳)だった。
 岡本は「馬鹿に近いお人よし」で、このためかどうか細君が何人もかわっている。
 岡本和夫が初めて妻をめとったのは二十三歳のときで、その後離婚と結婚を繰り返し、
 「みよ」は五人目の妻だった。
 「みよ」は親戚をちょいちょい訪ねているうちに岡本和夫と知り合い、いつの間にか同
 棲するようになり、その後正式な婚姻届が出された。
 「みよ」の前身については詳しいことはわからないが、大柄で豊満なからだをしており、
 彼女が岡本和夫のような二十も年上の五十男と、どうして一緒になったのか誰しも首を
 かしげたという。
 そして当然のように男関係の噂が流れた。
 「みよ」と都井睦雄に交渉が生じたのは、昭和十二年の十月ごろだというが、「みよ」
 が親しい女友だちの打ち明けたところでは、すでに春ごろから関係が持っており、その
 いきさつは次のようだった。
 三月初めの雨の降る夜、「みよ」が炬燵でうつらうつらしていると、とんとんと雨戸を
 叩く音がした。
 彼女は夫が帰って来たのかと思った。
 というのは、その日夫の岡本和夫は泊りがけで岡山へ出かけていたからである。
 いそいで雨戸を開けてみると、雨の中に都井睦雄が立っていた。
 「なにしにお出でなんした」
 「みよ」がおどろきといぶかしさを交えて聞くと、
 「ちょいと話があっての。ここでは話がでけんよって上げてもらうけん」
 「みよ」がいいともなんともいわないうちに、都井睦雄はかってに家の中に上がり込み、
 濡れたマントを脱いで炬燵に入り込んでしまった。
 「話ちゅうのはなんですけん」
 「みよ」も炬燵に入って、改めて聞いた。
 「寒くて冷たくてかなわんけん、まずからだを暖めんとカゼをひく。話はそれからじゃ」
 都井睦雄はそういって、マントのポケットから清酒の五合瓶を取り出した。
 「みよ」もきらいなほうではないから、台所から湯呑み茶碗を二つ持ってきて、炬燵の
 上に並べた。
 そしてすすめられるままに、二人して飲みはじめた。
 「今夜はおやっさん岡山に泊まりじゃろが」
 「よく知っとるけんの。誰に聞いたんじゃ」
 「昼間通りすがりに、おやっさんから聞いたんじゃ」
 「みよ」は都井睦雄について、いくばくかの噂を耳にしていたから、ちょっと妙な気が
 した。
 「話ってなんじゃ」
 みよは催促した。
 しかし都井睦雄はすぐには返事をせず、黙って茶碗を口に運んでいる。
 そしてまた口の中でつぶやくように、
 「おっさんがいんで、一人で寝るのは淋しいじゃろが」
 「そないなこと大きなお世話じゃ」
 「わしが一緒に寝てやるけん」
 「あほくさ」
 「みよ」は腹を立てた。
 「何の話かと思うたら夜這いにきたんじゃな。女一人じゃからてばかにしたらいけん。
 こちとらおかどちがいや。早よ往んでつかあさい」
 「わし見たんじゃ」
 都井がポツンと言った。
 「見たとはなんじゃ。なにを見たとよ」
 「寺井のおやっさんが、夜這いにきたんを見たんや」
 「・・・・」
 「寺井倉一が三日目の晩にきたやろ」
 「あほくさ」
 「そないことありゃせんがな。なんかのまちがいじゃ」
 「わしはこの眼で見たんじゃ。あんたと抱き合うとこもな。嘘いうてもだめじゃ」
 「みよ」が寺井倉一と関係のあることは事実だった。
 寺井倉一は今年六十一歳になるが、貝尾部落では随一の資産かで、しかも好色だった。
 「みよ」は一度金を借りたが、それと相殺ということでからだを委せ、以来数回の交渉
 を重ねていた。
 「倉一にさせたんやから、わしにさせてもええじゃろ」
 黙り込んだ「みよ」の顔を、都井睦雄は上目使いにうかがいながら、相変わらず口の中
 でつぶやくようにいった。
 「それところは別じゃけん。ミソもクソも一緒にしてもろたら困る」
 「ほな、倉一のことをおやっさんに告げてもええのんか」
 都井は顔を上げて、勝ち誇ったようにいいつのる。
 「そら困る」
 「ほなわしにもさせ。させてくれたらなんもいわん」
 「しょうむないわ」
 「みよ」は笑った。
 「せやけど今晩だけじゃけんの。あとまたさせいわれても困る」
 「今夜だけでええ。約束するけんの」
 みよは都井睦雄のことばを信じて身を委せた。
 だが都井睦雄は約束を守らなかった。
 そして交渉は日と共に重なったという。
・六月初めの夕方、道路をはさんで都井宅の西隣に住む西川秀司の妻「西川止め」(四十
 二歳)が、近所から自宅へ戻るとき、都井睦雄が自宅の石段の下に立っていた。
 「そんなとこでなにしとるんじゃ」
 「とめ」が声をかけると、都井睦雄はうれしそうに、
 「ちょうどええとこに来てくれた。頼みがあるけん」
 「頼みとはなんじゃ」
 「タンスを動かすんじゃが、手え貸してつかあさい」
 「おばやんがいるじゃろが」
 「用足しに出かけて戻らん。ちょっとでいいから手え貸してつかあさい」
 「しょうむないけんの」
 「とめ」は都井睦雄について石段を登り、家の中に入った。
 「どない動かすんじゃ」
 「とめ」がタンスの前に立って聞くと、
 「そんなことせんでええ。それよりもわしにさせえ」
 都井睦雄はそういいながら、背後から「とめ」を抱きすくめた。
 「なにをするんじゃ」
 「とめ」は平手で都井睦雄の頬を殴りつけた。
 「わしは知っとるけんの」
 都井睦雄は殴られた頬をさすりながらニヤリとして「あんた、寺井倉一にさせとるんじ
 ゃろうが。わしにもさせ。あんなじんつぁまより、わしのほうがええけんの」
 「そげんことだれがいうたんじゃ」
 「とめ」は色をなして問いただした。
 「だれでもええがの」
 「そうはいかん、うちは寺井のじんつぁまとはなんの関係もないけん。身に覚えのない
 こと言わられは黙っておられんわい。さあ、だれがいうたんじゃ。うちが話をつけてや
 る。さあ、いうてみい」 
 「部落の噂じゃ。だれから聞いたちゅうわけでもない」
 「それはおかしかろ。お前にそれを話した者がいるはずじゃ。その者の名をいうてみい」
 「とめ」の追及は論理的だった。
 都井はことばに詰まり黙り込んだ。
 「それみい、いえんじゃろが。いえんのはお前が嘘をついてるからじゃ。お前は勝手な
 いいがかりをつけて、うちを犯そうとしたんじゃ」
 「お前は悪党じゃの」
 黙り込んでいる都井睦雄に向かって、「とめ」は言いつのった。
 「お前がそないに恥知らずとは知らんかった。これ強姦やからな。岡江のおばやんに話
 して、駐在所にもしらせにゃいけん。このままほっといたらなにやらかすか恐ろしけん
 の」
 「それはやめてくれ。おばやんや仲裁に知らせるんだけは堪えてつかあさい」
 都井睦雄は大いに狼狽し、どうしていいかわからぬふうだったが、突然畳に正座して両
 手をついた。
 「どうか堪忍してつかあさい。堪えてつかあさい。この通りですけん・・・」
 都井睦雄は涙を流しながら、畳に額をこすりつけた。
 「とめ」はこれを部落中に告げた。
・岡山県知事の報告(ということは警察の調査)によると、「とめ」は「淫奔なる性を有
 し、とかくの風評あり」とされ、塩田検事は「とめは西川方に再婚し来りたるものなる
 が、性極めて淫奔かつ多弁にして、かつ同女が犯人に対し年頃だから虫がついたのかも
 しれぬと水を向けたるにより、情交を迫るたるは拒絶せられ、その後も同様条項を求め
 て拒絶に会い、かつ口やかましく部落内に言いふらされるたるにより、もっとも深き恨
 を抱きたるものの如し」と報告している。
 しかしこの報告は鵜呑みにできないだろう。
 「とめ」が部落民に告げた内容も事実に反する。
 自分だけいい子になるために、都井睦雄と情交のあったことを伏せて悪口のみをいいふ
 らしたフジがある。
 都井は凶行の直前に、自分と関係のあった女たちについて、部落民に「ぶっ殺してやる」
 としばしば放言したが、このとき「とめ」との性的交渉についても、具体的に明言して
 いるのである。
 これによると、「とめ」は初め自分から誘って関係し、その後何回か条項を重ねたが、
 都井睦雄の行状が目にあまり評判が悪くなると、いち早く関係を絶ち、自分も挑まれた
 がはねつけたと弁明して回ったのが真相らしい。
 したがって「西川とめ」となんの理由でいさかいが生じ、なぜ手をついて詫びたのか、
 本当のところはわからない。
・昭和十二年(1937)七月、中国北京郊外盧溝橋において、日本軍は中国抗日民族統
 一戦線を率いる蒋介石軍に攻撃を開始した。
 この事件はいわゆる盧溝橋事件といわれ、日中全面戦争の口火となるものであった。
 近衛内閣は戦争拡大のため軍隊を北京と天津周辺に集結させ、総攻撃を開始してこの年
 十二月には南京を占領した。
・都井睦雄は、盧溝橋事件の勃発の二日後に岸田勝之の母「岸田つきよ」(四十九歳}を
 訪ねている。
 「寺井マツ子」の供述によれば、
 「岸田つきよ」が昨夜も都井睦雄が来て、自分の道具を突っ張って、関係をつけてくれ
 と言って困ったと、昨年七月の一番草取りのころ婦人たちが草取りをした時に、多勢の
 前で言っているのを私も聞きました。
 十円札の手の切れるようなものを押しつけて、これで関係してくれと言うたが、そんな
 ことをするなら、この金を祖母さんのところへ持って行って、話をするぞと言うたら帰
 ったという話も聞きました」
 ということである。
 「西川とめ」の場合と同様に、「岸田つきよ」も都井睦雄の要求を拒絶したと公言して
 いる。
・しかし後にこれに対抗して、都井睦雄が放言したところに信を置けば、「岸田つきよ」
 もまた都井睦雄と関係を結んでいる。
 岸田宅は戸主岸田勝之が海軍志願兵として呉海兵団に入団中であり、家族は未亡人の母
 「岸田つきよ」、長女「みさ」(十八歳)、次男吉男(十三歳)、三男守(十歳)の四
 人だった。
 都井睦雄は長女「みさ」を狙って夜這いに入ろうとしたところ、母の「つきよ」に見つ
 かってしまった。
 そこで十円札を出して、これで「みさ」とさせてくれと頼んだが、ばかなことを言うな
 と拒否された。
 都井睦雄はそれならばあんたでもいいわいと、「つきよ」に乗り替える気になると、
 それも断られた。
 そこで寺井倉一にはさせとるくせになんじゃというと、「つきよ」はちょっとおどろい
 たが、早く帰ってくれと押し出そうとした。
 そこでこんなになっていて納まりがつかんと自分のものを引っぱり出してみせると、
 「つきよ」は土間にゴザをしいて都井睦雄を受け入れ、終わってから十円札を受け取っ
 たというのだ。そして以来数度の交渉を持ったという。
・次に都井が狙ったのは、寺井好二の母「寺井トヨ」(四十四歳)である。
 「寺井トヨ」もやはり未亡人で、寺井倉一と不倫の関係にあり、これをネタに易々と関
 係を結ぶことに成功した。もちろん「トヨ」にも代償として金品を与えている。
 しかし「トヨ」も他の女たちと同様、都井睦雄に情交を迫られたことは認めたが、
 その都度撃退したと吹聴している。もちろんこの間、「寺井マツ子」と「岡本みよ」と
 の関係も継続していた。
・七月の終わりに、都井睦雄は二連装の猟銃を購入した。
 都井睦雄の遺書によると、この猟銃を購入したことが凶行準備の第一着手であり、司法
 当局も同様に解釈しているが、これは大いに疑問である。
 この時点では、都井睦雄の胸にある種の憎悪は芽生えていたかもしれぬが、それはまだ
 憎しみの段階に留まり、まだ殺意にまで凝縮していなかったのではなかろうか。
 この段階で銃を購入した真の理由は、第一に銃を所持することによって、「西川とめ」
 たちに無言の圧力をかけて、彼女たちの悪宣伝の口を封じること、第二に金品でもなび
 かぬ若い娘たちを、銃で脅して自由にすることの二点ではないかと考えるのが、自然な
 ように思える。
 実際は遺書とはうらはらに、これ見よがしに銃を携帯して部落内を歩き回り、関係のあ
 る女たちばかりでなく、その夫や寺井倉一たちにまで、こんど猟銃を買ったと見せて歩
 いているのだ。
 これは女たち本人のみならず、関係者に対する明らかな牽制策といえよう
・都井睦雄はこれによってエロスの夢の実現を企てたかもしれないが、彼の狙いは裏目に
 出た。
 銃をかついで闊歩する彼の姿は、肺病や好色乱倫以上の畏怖を彼女たちにもたらし、
 かえって女たちから疎まれる事態を生じた。
・夫の岡本和夫が妻「みよ」の身辺より離れず、都井睦雄に対して極力「みよ」を匿すよ
 うな状態になると、必然的に他の女たちとの情交に向かうが、中でも都井睦雄が異様な
 執着を示したのが「寺井マツ子」だった。
 「寺井マツ子」とは遺書にあるようなトラブルを起こしたものの、すぐにヨリを戻して
 おり、もっとも頻繁に情交を求めた。
 そして夫の弘が入浴中に関係していたところを発見されると、家にとって帰し、猟銃を
 持ってきて脅した。
 この時から都井睦雄は以前と同様に、大っぴらに銃をもって夜這いに出かけ、相手の女
 性が拒否したり、隠れたり、あるいは女の夫や母親たちが立ちふさがったりすると「ぶ
 ち殺してやる」と放言するようになった。
 
・四月半ばごろ、大阪にいた内山寿は、突然都井睦雄から電話をもらった。
 飲みながら都井睦雄が切り出した。
 「匕首がほしいんじゃ」
 「匕首やて?」
 内田はいぶかしんだ。
 「そないものどうすんや」
 「わしがほしいんじゃない。人に頼まれたんじゃ」
 「やくざか。匕首はやくざぐらいしか使わへんさかいな」
 「やくざじゃない。医者じゃ。刀剣愛好会の会長でな」」
 「なんとか探してくれんかの」
 「まかしてきぃな」
 内山はうけ合った。
・そのあと今日は女はどうするとたずねると、都井睦雄は今日は金があるから、いつもの
 賤娼でなく高級淫売がほしいといった。
 「住吉アパートはお前の好きなお定が住んでたとこや。お定はここで高級淫売しとった
 さかい。いまもそのころの仲間がいるはずや」
・都井睦雄が内山の案内で住吉アパートを訪ねたとき、阿部定と同じ時期に住んでいた女
 は一人もいなかったが、都井は安倍定が住んでいた部屋を借りている女を抱いて、少な
 からず満足した様子だったという。 
 このとき相手をした女は、京都生まれの追川春代こと名沢光子(二十八歳)で、事件の
 二年後に密淫売で検挙されたとき、このときのことをすすんで刑事に話している。
・私の客引きをしてくれている高山銀造が、ムツオという男はなんだか阿部定に狂ってい
 るようなところがあり、お前を相手に選んだのもそのためだから、あるいはずいぶんと
 変態的な要求をするかもしれないが、がまんしてやってくれといいました。
 私は長襦袢姿で床入りしたのですが、ムツオは布団をとり払い、私に裸になってくれと
 いいました。
 私は初め一応風邪気味だからと断り、ほんとに特別料金をくれるなら、いうことを聞か
 ぬでもないといってやりました。
 そうしますとムツオは、ポケットから大きな財布を取り出して、私の枕元に置きました
 ので、見ると札束でふくらんでおりました。
 一円札よりも十円札のほうが多いようなので、私はその人がほんとうにお金を持ってい
 ることを知り、安心してなんでもいうことを聞いてやろうという気になりました。
 それから二人して裸になり、ひと晩中要求されるままにいろいろなことをしましたが、
 ムツオはこの部屋でお定はこんなふうにしたのかな、などといいながら私にあれこれと
 注文をつけました。
 その人が私としたことは、別にそれほど変態的なことでもなく、好き合った男と女なら
 だれでもすることだろうと思いますが、それでも私はその客がなんとなく普通でないよ
 うな気がしました。

・五月十五日の夕刻、役場書記の西川昇が帰宅すると、妻の「西川道子」がひそめた声で
 いった。
 「睦雄がえらいことをやらかすそうですけん」
 「えらいことってなんじゃ」
 「実はいましがた、「西川とめ」さんから聞いたですけん」
 妻の話によると、「西川とめ」は「寺井マツ子」に、都井睦雄がえらいことをやるそう
 で、このまま村にいては危ないから、京都の方へでも一緒に逃げようと誘われたが、
 「とめ」は殺されるほど憎まれているはずはない、といってマツ子の誘いを断った。
 しかし用心したほうがよかろうと、「道子」に告げたというのだ。
 「えらいことちゅうのはなんじゃ」
 西川昇は妻に聞き返した。
 「恨んどる女たちを殺すちゅうことですじゃろ」
 「そら睦雄の口癖じゃ。いまに始まったことじゃありゃせん」
 西川は妻を安心させるようにさとした。
 事実この時点では彼は楽観的であった。
・凶行がどのようにして開始されたか、わけでも自宅で祖母「いね」の首をはねたいきさ
 つは、一人も目撃者がなく真相は誰も知らない。
・三個の照明燈の光の中に、炬燵で熟睡している曽部の寝姿が浮き上がる。
 都井睦雄はいっときその寝顔を凝視する。
 おばやん、堪忍してつかあさい。
 都井睦雄は心の中で詫びながら両手で持った斧を大きく振り上げると、祖母の首をめが
 けて力いっぱい降りおろした。
 首は一撃で切断され、鮮血をほとばしらせて一尺五寸もふっとび、障子のそばにころが
 って、左の横顔を上にして静止した。
 首と胴体の切断面から血が噴き出して夜具と畳に広がっていく。 
 そうした光景を尻目に、都井睦雄は血まみれの斧を片手にもう一方の手に銃を持って、
 裏口から出た。そして役目を果たした斧を裏口北側の壁に立てかけた。
・北側の細い道を走って、北隣の岸田勝之の家へ向かった。
 都井睦雄は猟銃を足もとに置き、刃渡り一尺九寸の日本刀をぎらと引き抜く。
 そしてまず横向きに寝ている「岸田つきよ」の首の右側に、恨みをこめて日本刀を突き
 立てた。 
 頸動脈が切れておびただしい血がほとばしった。
 苦悶する「つきよ」の左の胸に切りつけ、ついに右肩の後ろから突き刺し、最後に口の
 中にズブリと刃先を突き立てた。
 わきに寝ていた吉男が、目をこすりながら半身を起こしかけた。
 その首めがけて真正面から刃先を突き出す。
 十四歳の少年は血を吹き出して、のけぞり倒れる。
 十一歳の守もはっきりと目を覚ましていたが、なにがなんだかわからない。
 三つの電燈を光らせた都井睦雄の姿は、三つの目を持った怪物に見えたことだろう。
 当然泣き叫んだにちがいない。
 そのためかどうか、都井睦雄はこの子にめったやたらに斬りつけている。
 上半身に八つの切創を加えて殺した。
 長女の「岸田みさ」(十九歳)は不在だった。
 泊りがけで寺井千吉方へ養蚕の手伝いに行っていたためだが、もちろん都井睦雄はこの
 ことを知っており、彼女は寺井方で殺すつもりだった。
・「つきよ」たち母子三人を殺した都井睦雄は、岸田家を出て、目と鼻の先の西川秀司方
 へ走った。 
 この西川家に対して、都井睦雄は二重の恨みを持っていた。
 都井睦雄の放言や近隣の証言を総合すると、都井と「西川とめ」(四十三歳)との間に
 は明かに性的関係があったと認められる。
 また「西川良子」(二十二歳)は、
 「情交関係なきものの如しといえども、かつて同女に恋しおりたるに、他家に嫁ぎたる
 ため失恋したるものの如し」
 とあるが、夜這いによって交渉を持ったことはまちがいない。
 このとき「とめ」は風邪で寝込んでいた。
 「西川良子」と「岡千鶴子」(二十二歳)はとめの見舞いにきていたもので、都井睦雄
 は遺書の中に「今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあった西川良子も来てから
 である」と書いている。
・西川宅も戸締りはなかったから、都井睦雄は正面の表戸を開けて侵入した。
 とっつきの四畳の部屋に、「とめ」が一人で寝ていた。
 都井睦雄は「とめ」の臍部上方一寸のところに、ほとんど銃口を密着させて引き金を引
 いた。猛獣用のダムダム弾だから、鶏卵大の穴があいて、内臓がどろりと溢れた。
 もちろん即死である。
 隣の中の間(四畳)には主人の西川秀司、「良子」と「岡千鶴子」が炬燵に入って眠っ
 ていた。
 秀司はかっしりした体格の農夫だったが、突然の銃声にねぼけまなこで立ち上がったと
 ころを、踊りこんだ都井睦雄に狙撃され、炬燵に向かってうつ伏せに倒れた。
 「良子」は「千鶴子」と並んで、秀司に向かい合って寝ていたが、やはり「とめ」が殺
 された銃声で眼を覚まし、二人とも上半身を起こした。
 しかし秀司が殺されても、そのままの姿勢でいたようである。
 なにがなんだかわからず、すくんで動けなかったのだろう。
 並んでいる二人の女性の胸に向けて、都井睦雄はたてつづけに発射した。
・三軒目は岸田高司方である。
 岸田宅も鍵をかける習慣はなかった。
 都井睦雄は表戸を開けて侵入すると、板の間の台所を通り抜けて六畳の納戸に躍り込ん
 だ。岸田高司と「智恵」(二十歳)の若夫婦が一つの布団に就寝していたが、都井睦雄
 は二人に起きあがる暇を与えず、高司、智恵の順に射殺した。  
 「智恵」は妊娠六か月で、弾は対峙を外れはしたが、母体と同時に死んでいた。
 隣室の表八畳の間には、岸田たま(七十歳)と寺上猛雄が寝ており、二人とも銃声に目
 を覚ましたところへ、都井睦雄が入ってきた。
 「わ、われはなんじゃ」
 十八歳の猛雄が気丈にどなりつけた。
 そのときなにかを口走りながら、都井睦雄に向かっていった猛雄の姿を、辛うじて生き
 残った「岸田たま」が覚えている。
 都井睦雄の反応はすばやかった。
 とびかかってくる猛雄の顔を、銃床で思いきり殴りつけると、猛雄はのけぞって転倒し
 た。下顎骨が微塵に砕け、畳上に骨片などが散乱した。
 都井睦雄はすばやくその上にまたがり、胸を銃口で押さえつけるようにして発射した。
 猛雄を殺した都井睦雄は、うずくまってふるえているたまの前に仁王立ちとなり、落ち
 着いた声をゆっくり押し出した。
 「お前んとこには、もともとなんの恨みも持っとらんじゃったが、西川の娘を嫁にもろ
 たから、殺さにゃいけんようになった」
 高司の妻「智恵」は、「西川とめ」の次女である。
 坊主憎けりゃ袈裟までの論理なのだ。
 「頼むけん、こらえてつかあさい」
 七十歳の「岸田たま」はふるえながら、都井の足もとにひれ伏して哀願した。
 「ばばやん、顔を上げなされ」
 都井睦雄は銃口で「たま」の顔をすくい上げ、顔を上げたところを胸に向けてぶっ放し
 た。「たま」はふっとんでころがったが、手当の結果助かった。全治五週間の重傷だっ
 た。
・次は寺井政一宅である。 
 都井睦雄が憎しみをたぎらせていたのは「寺井ゆり子」(二十二歳)だった。
 都井は夜這いで関係を結んだものの、ゆり子は問いをそでにして、同部落の丹羽卯一の
 もとに嫁いだ。
 すると都井睦雄は自分との関係を放言して回ったばかりでなく、ゆり子が夫と寝ている
 部屋に夜這いをかけたりしたので、丹羽卯一も困り果て離縁した。
 そこで都井睦雄はよりを戻そうとはかったが、ゆり子は加茂村の上村岩男と再婚してし
 まった。
 そして今回は弟の結婚式のために里帰りしていたのである。
 都井睦雄は遺書の中で、「西川良子」と並べて、ゆり子が実家に帰ってきたことを、
 凶行の直接的動機と記している。
・寺井政一方も戸締りがなかった。
 都井睦雄は表入口の戸を挙げて乗りこんだが、このとき一家は全員が目が覚めており、
 土間に続く台所に飛び出した政一と鉢合わせした。
 都井睦雄は腰だめにした猟銃で、政一の右前胸部をぶち抜いて即死させた。 
 長男貞一は「三木節子」(二十二歳)と結婚したばかりで、奥納戸六畳の間で新婚の夢
 を結んでいたが、銃声に目を覚まして起き出したところ父親が殺されたので、夢中で窓
 から表にとび出した。
 しかしとび出す瞬間、たて続けに数発を背中に浴び、その一発が心臓を貫いて軒下に倒
 れた。
 新妻の「三木節子」は、夫と藩胆に表八畳の間にのがれた。
 そこには五女「とき」(十五歳)と六女「はな」(十二歳)がいて、廊下の雨戸を開け
 て外に出ようとしたところ、都井睦雄の銃弾が「とき」と「はな」の背中と胸を貫き、
 「とき」は廊下に「はな」は軒下に昏倒した。
 「節子」は外に出るのをあきらめ、廊下伝いに四畳の間にのがれようとしたが、都井睦
 雄に廊下の隅に追い詰められ、立ちすくんだところ胸を狙撃され、壁にもたれるように
 して死んだ。
・この間に四女の「ゆり子」は、いち早く脱出していた。
 彼女は「とき」、「はな」たちと表八畳の間に寝ていたが、四畳を走り抜け土間にとび
 降り。裏口からとび出したのだった。
 はじめ彼女は西川秀司方へ避難しようとしたが、途中でころんだので方向転換して、
 横手にある都井の親族寺井虎三方へ向かった。
 しかしいくら戸を叩いても開けてくれない。
 するとその横手の本屋(寺井茂吉方)の戸が開き、呼んでくれたため、地獄に仏の思い
 で走りこんだという。
 都井睦雄はゆり子が逃げたのに気づくと、すぐにおもてにとび出した。
 そしてゆり子が寺井茂吉方に逃げ込んだのを見て、すぐさま駆けつけた。
・寺井茂吉家は五人家族で、離れの隠居所にいる幸四郎(八十六歳)を除いだ四人が、
 銃声に目を覚まし様子をうかがっているとき、たまたま寺井ゆり子の助けを求める声を
 聞いて、いそいで家の中に引き入れたのだった。
 これが同家にとって悲劇のきっかけとなった。
 というのは四女(由起子)は都井と関係がなく、都井の凶行計画にも同家は含まれてい
 なかったが、ゆり子を助けたために思わすそば杖を乞う破目になったからでる。
・辛く生き残った「寺井ゆり子」の証言によると、彼女が逃げ込んだ表戸を閉めるか閉め
 ないうちに都井睦雄がやってきて、その戸を開けようとした。
 だが茂吉と由起子がしっかりおさえていたので、都井睦雄は乱暴に戸をゆさぶったり、
 銃底で叩きながら、「開けろ、開けぬと撃ちめぐぞ(撃ちまくるぞ)」などと怒鳴り立
 てた。これを聞いて隠居部屋に寝ていた父幸四郎が起き出し、雨戸を開けた。
 そして怒鳴り立てている都井睦雄に向かって、なにか叫んだ。すると都井は振り向きざ
 ま、幸四郎の胸を狙って二連射したから八十六歳の老人はひとたまりもなく昏倒した。
 茂吉はこのままでは全員殺されると判断し、次男「進二」(十七歳)に寺井元一方へ急
 を知らせ、助けをもとめるように命じた。
 そこで進二は横入口からとび出し、裏の竹藪へ走りこんだが、その姿を都井に見られて
 しまった。 
 都井睦雄はすぎにあとを追いかけたが、竹藪は広く竹の葉が密生しており、進二は追跡
 に気づくなり藪の中に身を伏せ、じっと息を殺したので、都井の眼をくらますことがで
 きた。
 都井睦雄「逃げると撃つぞ」と大声で叫びながら追いかけたが、なぜか発砲はしなかっ
 た。
 そして進二を見失うと裏口の前にきて、さも進二を捕まえたような口ぶりで、「こら、
 進二、白状せよ」「白状せぬと撃つぞ」と、大声で二階怒鳴り立てた。
 かくいう親たちが子供かわいさに、内より戸を開けて命乞いに出てくるだろう、と考え
 たものと思われる。
・この声を聞いて家の中に残った家族たちは動転した。
 「あんた、進二が捕まったけん」
 細君は全身をわななかせて、泣きながら茂吉にとりすがった。
 「うちのためにとんだことになったですけん。すまんことです。堪えてつかあさい」
 寺井ゆり子もそういって泣きじゃくる。
 「あんた、進二が撃たれるけん、助けないけんよ。どないしたらええんじゃ」
 細君は子供のみを気づかって、半ば狂乱状態だった。
・ここまでは都井睦雄の思惑通りだった。
 そして家族全員がパニックに陥れば、都井睦雄の思うつぼだったにちがいない。
 しかし茂吉はその手にはのらなかった。
 「とにかくわしが様子を見てみるけん、じっとしておれ」
 茂吉は女たちにそういっておいて、こっそり裏口の戸に近寄り、板戸の隙間から外を覗
 いてみた。 
 戸のすぐそばのところに都井睦雄が銃を構えて立ちはだかっているが、進二のいる様子
 はない。
 それは都井睦雄自身が身に付けている三つの光源によって、皮肉にも確かめられたのだ
 った。
・「心配いらん」茂吉は細君のところに戻ってきてささやいた。
 「進二は捕まっておらん。都井睦雄はわしらをおびき出す気で、一杯かけようとしとる
 んじゃ」
 ちょうどそのとき、再び都井睦雄がわめきだした。
 「どないしても開けんなら、小野を持ってきて打ち割るぞ」
 都井睦雄は怒号しながら、銃床で裏戸をはげしく叩いたが、頑丈な戸はびくともしない。
 ついにひびれをきらしたのか、都井は戸の外から家の中へ向けて、連続二回発砲した。
 二発目が表戸をおさえていた由起子の右大腿部に命中した。
 由起子が呻いて倒れたが、近寄るとまと弾が飛んできそうなので、茂吉たち三人は身を
 伏せて息をひそめていた。
 すると足音がして都井睦雄の立ち去る気配がしたので、茂吉がまた恐る恐る裏戸の隙間
 から覗いてみると、都井睦雄の姿は見えなかった。
 しかし茂吉は慎重だった。 
 「いったん往んだようじゃが、いつまた戻って来んとも限らんけん。この隙に安全なと
 ころに隠れるんじゃ」
 「安全なところなどありゃせんじゃろが」
 細君がゆりこと二人で由起子を介抱しながら、おびえきった声で聞き返した。
 四重貫通の威力をまざまざと見ているから、恐怖はなおさらであった。
 「床下じゃ。床下に隠れんじゃ」
 茂吉はゆり子に手伝わせて、畳を一枚揚げた。
 そして床板をはずして四人が潜り、息を詰めて騒ぎの治まるのを待った。
 由起子の大腿部銃創は、出血はなはだしかったが二週間で全治した。
 
・寺井茂吉方に押し入ることができないと知った都井睦雄は、寺井ゆり子の追及を断念し
 て、寺井好二方へ向かった。
 都井睦雄の狙いは「寺井トヨ」(四十五歳)にあった。
 都井睦雄は金品によって「トヨ」と情交を重ねたが、のちに拒絶された。
 しかし「トヨ」は、前から関係のあった寺井倉一とは相変わらず交渉を続けていた。
 そればかりでない。
 都井睦雄と関係のあった「西川良子」、「寺井ゆり子」が結婚するとき、いずれも媒酌
 を買ってでたことから、都井睦雄の恨みは倍加されていた。
・この家も戸締りはしていなかった。
 そればかりでなく、都井睦雄がさんざん発砲した後にもかかわらず、二人とも熟睡から
 目覚めていなかった。
 表入口から侵入した都井睦雄は、四畳の中の間に寝ていた好二に、布団の上から二発撃
 ち込んだ。 
 ついて奥の納戸(六畳)へ躍り込み、やはり横向きに寝ていた「トヨ」に、まず右の背
 中に一発撃ち込み、こんどは仰向けにしてから、胸部上端に銃口を押しつけて発射した。
・寺井母子を殺害した都井睦雄は自宅のほうへ引き返した。
 そして南隣の寺井千吉方を襲った。 
 寺井千吉方は三代の夫婦のほか養蚕手伝いのために、「岸田つきよ」の長女「みさ」
 (十九歳)、丹羽イトの長女「つる代」(二十一歳)が泊まり込んでおり、合計八人家
 族にふくれあがっていた。
 寺井一家は都井睦雄に恨まれる筋合いはなかった。
 しかし「岸田みさ」と「丹羽つる代」の泊まり込んでいたことが、思わぬ惨禍を招くこ
 とになった。
 塩田検事によると、
 「つる代は病弱にして、同病相憐れむ心理より同女に恋し、情交を求めて拒絶せられた
 りとの風評あり」
 「しばしば『みさ』に情交を求めて拒絶せられて、恨むに至りしものと思われる」
 とされているが、都井睦雄は夜這いをかけて成功したと放言しており、少なくともどち
 らか一人と交渉のあったことは確からしい。
 同家では別棟の養蚕室にいた丹羽つる代、岸田みさ、平沼トラの三人を除いて、母屋に
 住む全員が目を覚ましていた。
 そして炬燵のある表六畳の間に集まり、恐怖におののきながら、いったいどうしたもの
 かと相談の結果、孫の勲(四十一歳)夫婦は二階に隠れ、千吉の妻トヨ(八十歳)は床
 下にもぐりこみ、千吉(八十五歳)はそのまま炬燵にとどまり、息子の朝市(六十四歳)
 はそれまで寝ていた納戸(六畳)に戻って、布団の中にもぐりこんだ。
 都井睦雄は狙う二人が養蚕室にいるのを、事前調査で熟知していたから、母屋を後回し
 にして養蚕室へ直行した。
 そして戸締りのない廊下の雨戸を開けて侵入した。
 養蚕室は十畳で、廊下に向かって両側にいわゆるカイコ棚があり中央の四畳ほどの板の
 間に、「岸田みさ」たち三人の女性が、横に布団を並べて就寝していた。
 都井睦雄は躍りこむなり、「つる代」と「みさ」に向けて乱射した。
 「平戸トラ」(六十五歳)は「堪えてくれ、こらえてつかあさい」と、懸命に哀願しな
 がら廊下のほうへあとずさりした。
 しかし都井睦雄は許さなかった。たてつづけに四発連射した。
・三人を惨殺して養蚕室をとび出した都井睦雄は、母屋にとって帰すと、縁側の雨戸を開
 けて押し入った。
 都井睦雄は大声で「いるかァ」「鉄砲はあるんかァ」と怒鳴りながら表六畳の間に踏み
 込み、炬燵に座り込んでいた千吉を三つの照明で捕えた。
 千吉は都井睦雄を見上げたが、格別の反応を示さず凝然と端座したままなので、都井睦
 雄はそんな老人の姿を小面憎く思ったのか、「年寄りでも結構撃つぞ。本家のじいさん
 (寺井幸四郎のこと)も殺ったけんの。どないしてやろか」といいながら、銃口を千吉
 の首にあてた。
・「こわくなかったことないが、どうされようがかまわんという気じゃったから、わしは
 そのままじっとしとったけん。それで睦雄もこんな老いぼれをやっても、なんの益もな
 い思うたんじゃろ。すぐに往んでしもうたじゃ」
 千吉老人は事件後こう語っている。
 都井睦雄は銃口を首にあてたままちょっと考えてから、
 「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの。せやけど、わしが死ん
 だらまた悪口をいうことじゃろな」
 このとき都井睦雄がちょっと笑った、と千吉老人は述べている。 
・孫の勲夫婦は二階に身をひそめ、息を殺しながら千吉と都井睦雄のやりとりを聞いてい
 たのだが、都井睦雄がいつ二階へ上がってくるかと、夫婦抱き合って戦々兢々、生きた
 心地がなかったという。 
・都井睦雄は表六畳から奥納戸に踏み込んだ。
 ここには朝市(六十四歳)が布団にもぐっていた。
 朝市は都井睦雄と千吉のやりとりを聞いて、これは助かるかもしれないと思い、ふるえ
 ながらも眠ったふりをしていた。
 都井睦雄は三つの光で朝市を照らすと、いきなり枕を蹴とばした。
 朝市はびっくりして起き上がろうとすると、その旨を銃口で押さえ戻し、
 「若い者(勲夫婦)は逃げたな。動くと撃つぞ。おとなしくせえ」
 朝市は横たわったまま、恐怖におののきながら、
 「決して動かん。動かんから助けてくれ」
 都井睦雄を見上げて両手を合わせ、必死に哀願した。
 「それほどまでに命が惜しいんか」
 都井睦雄は銃口で朝市の肩を小突きながら、からかうようにいった。
 朝市はよけいなことはいわないほうがいいと思い、手を合わせたまま何度も子供のよう
 に大きくうなずいた。
 「よし、助けてやるけん」
 都井睦雄はそう言って納戸を出て、侵入した廊下のほうへ戻り、土間のところに自転車
 があるのを見つけると、 
 「これなら逃げたとて心配ありゃせん」
 と安心したようにつぶやいたという。
・勲がすでに警察へ急訴に向かったとしても徒歩ではそう早くはたどりつけないだろうか
 ら、警察隊が来るにしてもまだ時間がかかるだろう、と推理したことばに思える。
・都井睦雄は千吉宅を出ると、南の軒下を伝って裏に回り、少し東へ上って丹羽卯一方へ
 向かった。
 丹羽方は卯一(二十八歳)、妹「つる代、母「イト」(四十七歳)の三人暮らしだが、
 「つる代」はすでに千吉方で射ち果たしていたから、狙うのは卯一とイトの二人だった。
 都井睦雄は「イト」と情交があったが最近冷たくされ、卯一は一時期「寺井ゆり子」を
 妻にしていたことによる。
 この丹羽方にも別棟の養蚕室があったから、都井睦雄は母屋を尻目に養蚕室へ走り込ん
 だ。
 ここでは養蚕室に泊まり込む習慣はなかったが、たまたま母「イト」が保温用の炉の火
 の具合を見に来ていた。
・「ぎゃあ」
 飛び込んできた異形の都井睦雄を見て、「丹羽イト」は恐怖の絶叫をほとばらせた。
 「娘はもう殺った。こんどはお前じゃ」
 立ちすくむ「イト」に向かって、都井睦雄は腰だめで連射した。
 卯一(二十八歳)は母屋に寝ており、母の絶叫と銃声で目を覚まし、いち早く脱出して
 難を逃れた。(このあと加茂町駐在所へ急訴した)
・「イト」を殺したあと、都井睦雄は母屋に踏み込んで、家の中を探し回ったらしく、
 いくつもの地下足袋の跡が廊下に残っていた。
 卯一の逃亡を知った都井睦雄は、次の目標である池沢末男(三十七歳)方へ向かった。
 都井睦雄が池沢方を対象に加えたのは、池沢末男が「寺井マツ子」の兄だったからだ。
 同家では丹羽方で鳴りひびいた銃声で眠りを破られ、末男がなにごとならんと表の雨戸
 を開けてうかがっていると、間もなく三つ目の怪物が「殺すぞ、殺すぞ」と大声て連呼
 しながら、ものすごいスピードで坂を登ってくるので、腰を抜かしそうになったという。
 末男は気を取り直して、「逃げるんじゃ、逃げるんじゃ」と叫びながら、家族を誘導し
 て裏へ回り雨戸を開けた。
 そして末男が真っ先に表へととび出したとき、早くも都井睦雄が裏手に回りこんで、
 ブローニングを腰だめで乱射しはじめた。
 末男は夢中で竹藪の中に駆け込んではいつくばったから、左の膝頭を少しすりむいただ
 けで辛うじて難を免れた。
・都井睦雄は寺井進二の場合でこりたのか、末男を見逃して家の中に躍りこんだ。
 そして納戸六畳の間にいた妻の「宮」(三十四歳)と四男昭男(五歳)に発砲。
 二人を倒した都井睦雄はいったん戸外にとび出し、軒下を回りこんで表入口から再び侵
 入、中の間(六畳)にいた母「ツル」(七十二歳}に銃創を与えて倒し、父勝市(七十
 四歳)のの両腕を撃ち抜いたが、勝市は必死でおもてに逃れようとしたので、都井睦雄
 はめちゃくちゃに発砲。このため勝市は全身に六発の銃弾を浴びて絶命した。
 二男(十二歳)、三男(九歳)は見逃したのか、二人とも軽い傷一つ受けずに助かって
 いる。
・池沢末男方の殺戮を終えた都井睦雄は、坂を下って小川のところを引き返し、こんどは
 寺井倉一方へ通じる急坂を、疲れも見せずに駆け登った。
 倉一(六十一歳)は部落きっての資産かであり、そして色好みでもあった。
 すでに六十の坂を越しているというのに、その財力にものをいわせて「寺井マツ子」、
「岡本みよ」など複数の女たちと不倫な情交を重ねていたことは、部落内では隠れもない
 事実であった。都井睦雄の憎悪の的の一つとなるのは避けられない。
 息子の優(二十八歳)は村の警防団の部長を勤めており、村の青少年の指導者の一人で
 あった。
 青年会の集まりにも顔を出さず、出征兵士の見送りや神社参拝にも参加しない都井睦雄
 に、しばしば善意の忠告をしている。
 これもまた都井睦雄には屈折した投影をもたらしたことだろう。
・都井睦雄は急坂を登り切り、「倉一いるかァ」と怒鳴りながら表門から走り込んだ。
 この時、倉一宅は全員起きており、妻「はま」(五十六歳)がローソクを手に雨戸を開
 け、なにごとが起こったのかと、おもてを見渡しているところだった。
 坂の途中から都井睦雄の胸のナショナルランプは消え、頭につけた二つの懐中電燈だけ
 だったから、「はま」の目には二つ目の怪物に見えた。
・「二つ目が来るぞい」
 「はま」が倉一と優に振り向いて叫んだ瞬間、都井睦雄のブローニングが轟然火を吹い
 た。  
 「はま」はローソクを持った右手に一弾を受けたが、痛みをこらえていそいで雨戸を閉
 め、駆け寄った倉一と二人で都井睦雄の侵入を防いだ。
 「開けろ、開けんと撃つぞ」
 都井睦雄はわめきながら、銃床で雨戸をどんどん叩いた。
 それでも二人がしっかりとおさえていたので、都井睦雄は雨戸に向けて五発連射した。
 その中の一発が「はま」の右腕を射抜き、「はま」は悲鳴をほとばしらせて倒れた。
 それを見て倉一は、雨戸をおさえるのを放棄して、夢中で二階へ駆け上がった。
 そして表側のガラス窓を開けると、声を限りに「助けてくれえ、助けてくれえ、人殺し
 じゃあ、だれか来てくれえ」と、繰り返し絶叫した。
・倉一の家は高みに位置していたから、その叫びは闇を縫って部落の隅々にまでひびき渡
 り、辛うじて難を免れたほとんどすべての人々が、このけものの咆哮にも似た倉一の助
 けを求める声を耳にしている。 
 この叫びを断ち切るように、二発の銃声が連続してとどろいたのを、雨戸からうかがっ
 ていた西川昇が聞きつけた。
・「この銃声のあと倉一が叫ばなくなったので、てっきり殺られたと思いました。そのあ
 と少ししてから、倉一宅よりやや上手の方で銃声が一発とどろいたので、これは都井睦
 雄が自決したのではないかと思ったのでした」
・しかし事実はちがっていた。
 倉一が二階から絶叫したので、都井睦雄は雨戸の前から二階へ向かって発砲したのだが、
 弾は一階の軒の屋根瓦を貫いて、あらぬ方へそれた。
 倉一はあわてて部屋の中に身を伏せたので、都井睦雄は倉一をしとめたと思ったらしい。
 まだ息子がいるのを知りながら、どういうわけか屋内に入るのを見合わせて、そのまま
 立ち去った。   
 都井睦雄は裏手の天狗寺山に駆け登り、そこから倉一宅に向けて一発放った。
 これが西川の聞いた最後の銃声である。
・それから坂元部落のはずれにある岡本和夫方を目ざした。
 岡本方は和夫(五十一歳)と妻「みよ」(三十二歳)の二人暮らしだが、住まいはわり
 と大きい。  
 都井睦雄は「みよ」と何回となく交渉を重ね、これを阻止せんと和夫があれこれ腐心し
 た。
 そして最近では「みよ」が冷たくなっていたから、二人とも殺意の対象になっていた。
 岡本宅は都井睦雄の夜這いを警戒していながら、表戸に戸締りをしていなかった。
 あるいは寺井倉一の夜這いのために、「みよ」が錠をはずしておいたのかもしれない。
 いずれにしても都井睦雄は、すんなりと入口の戸を開けて入った。
 岡本夫婦は奥の納戸(六畳)に寝ていたが、いち早く和夫が目覚め、空気銃を持って表
 六畳の間に出てきた。
 しかしその空気銃を構えるいとまもなく、梶尾は右胸に三発、上腹部に一発被弾して倒
 れた。
 「みよ」はこの隙にいそいで廊下に出て雨戸を開けようとしたが、左の背に二発、右腰
 に一発撃ちこまれて即死した。
・これで襲撃は終わった。午前三時ごろのことである。
 岡本方をあとにして、都井睦雄は山道を北に向かって走った。
 そして間もなく岡本方から四町ばかり離れた、楢井部落の武元市松(六十六歳)方に現
 らわれた。そして鉛筆と雑記帖を手に入れて立ち去った。
・都井睦雄はもらった鉛筆で遺書をつづった。
 そしてブローニング九連発猟銃を手にとると、シャツの上から心臓部に銃口をあてた。
 両手で銃身をしっかりと握り、右足を伸ばして親指を引金にかける。
 銃声と同時にその手から銃は三尺ほど吹っとび、都井睦雄はのけぞって倒れた。
 即死だった。
 
あとがき
・この事件を最初にとりあげたのは「横溝正史」氏であり代表作の一つである「八つ墓村
 である。
・「八つ墓村」は架空の村だが、この村が「鳥取県と岡山県の県境にある山中の一寒村」
 と説明されており、また「大坪直行」氏の解説の中に、「戦時中、戦後、岡山県に疎開
 していた横溝正史は、戦後、岡山県警の講演や、犯罪事件展示会などに招ばれて、この
 事件の真相を見聞きしてきたのであった。その時のショックを横溝正史は、『とにかく、
 これほどの事件があったとは知らなかった。あまりに惨虐な事件だけに、いつかこの事
 件を題材にしたものを書いてみようと思った』と言っている。
 この事件とは津山事件のことであると記しているから、これが津山事件をモデルにした
 ことはまちがいない。
・しかし「八つ墓村」はフィクションである。
 正面切って、しかもノンフィクションで取り上げたのが「松本清張」氏である。
 犯罪実録物「ミステリーの系譜」シリーズの中で、「闇に駆ける猟銃」と題して詳細な
 ドキュメントにまとめ、シリーズ中の白眉との定評を得ている。
・しかしどういうわけか、津山事件については、ひとつの奇妙な伝説がつきまとっている。
 事件当時マスコミに発表されず、世間から秘匿され埋もれてきた事件だというのである。
 たとえば大坪直行氏によれば、
 「日華事変の最中のことなので、あまりにも惨虐なこの事件は公表されなかった」
 「世界犯罪史上でも類例のない惨劇で、短時間にこれだけの人数を一人で殺傷した事件
 に、新聞報道はさし控えられた」
 とされ、また「中島河太郎」氏も同様の趣旨のことを書いている。
 だが、この発言はまったく誤りなのだ。
・この誤解がなにによって生じたのか、つまびらかではないが、実際には事件当時ラジオ
 をはじめ全国マスコミがこぞって派手に報じており、日本中にセンセーションを巻き起
 こしたことは、当時の新聞をひもとけばすぐにわかることである。
・日本犯罪史上空前の惨劇は、犯人の自殺によって清算されたかたちになったが、実はほ
 とんど悽惨されなかったといえよう。  
 この事件の捜査を指揮した岡山地方裁判所の検事正国枝鎌三はこう述べている。
 刑事訴訟の問題としては、犯人の自決により清算せられたとはいえ、これによって生ず
 べき各方面における幾多の問題は、犯人死亡のため未解決のまま残されることになった。
 犯人を生かして親しく告白を聴き、もしくはその身体を医学的に観察することができな
 くなったことは、貴重の鍵を失いたるもので、甚だ遺憾である。
 数通の遺書は全面的に肯定しがたき点もあるべし。
 また生存関係者の陳述にも同様の信憑しがたき憾みもあらん。
・俗に言う、死人に口なし、である。
 生存関係者が犯人を悪くいうとも、自分に不利なことを口にするはずがない。
 まして女性たちは犯人と関係があり、それが動機の主たる部分を形成していると噂され
 ているからには、彼女たちがすべて真実のみを陳述したとの保証はない。
・こうした事情から生存関係者ばかりでなく、部落の人々は現在でもこの事件に触れるの
 を忌避する。津山事件は明らかに禁忌なのである。
 したがって津山事件は未解明のまま残された部分が多く、現在に至るもその真相は謎に
 包まれているといえよう。
・私が津山事件を知ったのは、新聞記者として別の事件を取材中のことだった。
 別の事件というのは、昭和二十九年十月の未明、茨城県鹿島郡徳宿村(現・鉾田町)に
 発生した一家九人毒殺放火事件で、犯人は白衣を着て医師を装って被害者宅を訪ね、
 長男の精神病は伝染するから、予防薬を飲まねばいけないと騙し、一家九人全員に同時
 に青酸加里を服用させて殺害、金品を奪ったのち証拠隠滅のため放火して逃走したのだ
 った。
・手口が帝銀事件にそっくりであり、しかも帝銀に次ぐ大量殺人ということで、マスコミ
 はセンセーショナルに報道したが、わけでも帝銀事件の犯人・平沢の弁護人は、帝銀と
 同一犯人の犯行ではないかとして、現地調査にとんできたものだった。
 結局一ヵ月後に犯人が捕まったが、逮捕直後に仁丹ケースに仕込んだ青酸加里を飲んで
 自殺したので、詳しいことは謎として残された。