モサド、その真実     :落合信彦
            (世界最強のイスラエル諜報機関)

この本は、いまから43年前の1981年に刊行されたものだ。
先般(2024年9月17日)、レバノンで突然ポケベルが爆発するという事件が発生し
た。
このポケベルは、当時レバノンの親イラン武装勢力「ヒズボラ」が主要通信手段としてい
たとされ、このポケベルの爆発によってヒズボラの将校ら約3000人が死傷し、民間人
の死傷者も多く発生したという。
そして、このポケベル爆発作戦を仕掛けたのがイスラエルの情報機関「モサド」だという
のだ。
モサドとは、いったい何なのか。モサドについて知りたいと思い、探し当てたのがこの本
だった。
今から43年も前に刊行された古い本なので、内容がもう現代とはぜんぜんかみ合わない
のではと思って読んでみたのだが、まったくそんなことはなかった。
まず、現在のイスラエルとパレスチナ(カザ)の歴史的関係がよくわかる内容であった。
イスラエルという国が建国されたとき、パレスチナ人やイスラエルの周辺国であるアラブ
諸国は、イスラエルという国がこの地上に存在することをまったく認めなかった。
イスラエルを抹殺するとして、アラブ諸国はこぞってイスラエルに対して宣戦布告した。
しかし、イスラエルはそのアラブ諸国を次々と撃退した。
まともに国と国との戦いでは勝てないと知ったアラブ諸国では、こんどは次々とテロ集団
が生まれ、イスラエルにテロを仕掛けた。
このように、敵国のど真ん中に存在する小国イスラエルが生き抜いていくためには、諜報
戦で勝つことだった。
そこで生まれたのがモサドと呼ばれるイスラエル諜報機関なのだ。
モサドは単に諜報活動をやるだけでなく、工作活動も行うのだ。
そして、今回のポケベル爆発作戦も、モサドの工作活動であるというのには、真実である
と納得させられた。

この本に、ブエノスアイレスからイスラエルに向かう飛行機の中で「アイヒマン」に対峙
した航空会社の整備員の話は、涙させられた。
ナチスに迫害されたユダヤ人の憎しみの深さを、改めて思い知らされた。
この憎しみの深さは当人でないとわからないだろう。
そして、その憎しみは単にナチスに対してだけでなく、全人類に対して向けられているの
ではないかと私には思えた。
さらに、その憎しみは何世代にも渡って受けつがれているのだ。
その憎しみの反動として、少しでもイスラエルに敵対するものに対しては徹底的に反撃す
るようになってしまっている。
それは、実際に敵対するもののみならず敵対する可能性のあるものに対してもむけられる
のだ。
現在のカザやレバノン(ヒズボラ)、そしてイランとの間で起きていることは、そのこと
を物語っている。
私はこの本を読んで、「イスラエルはやりすぎだ!」「イスラエルのカザでの行いは虐殺
だ!」と簡単には言えなくなった。
イスラエルという国は、ナチの迫害のトラウマで、現在も精神的に病んでいると言えるの
ではないかと思った。

過去に読んだ関連する本:
太陽の馬

イサー・ハレル(”ミスター・モサド”と呼ばれた男)
・1981年7月、テル・アビブのホテルの一室。
 インタビューの相手は、永年の間イスラエル諜報機関モサドを指揮し、政界最強といわ
 れるレベルまで仕立て上げ、今日ではモサドの神話とまで言われている男である。
・今日モサドはその諜報能力においてCIAやKGBに優るとも劣らぬと言われている。
 彼らが過去に遂行した数々の作戦とその華々しい成果を見れば異論を差しはさむ者はい
 ないだろう。 
 1960年のアイヒマン誘拐、66年のミグ21盗み出し、69年フランス、シェプー
 ル港からのミサイ艦艇の盗み出し、76年エンテベ空港人質救出作戦などちょっと挙げ
 ただけでもその実力の片鱗がうかがわれる。
 つい最近ではイラクの原子炉を爆破した”オペレーション・バビロン”がある。
 実際の攻撃を行なったのはイスラエル空軍であるが、計画を進め舞台をセット・アップ
 したのはモサドだった。
 あるモサド・メンバーによるとF16からのロケット弾をひきつけるため、あの原子炉
 の心臓部には強力な電磁波装置が置かれていたという。
・余談になるが西側諜報関係者の間でオペレーション・バビロンの成功が話題にのぼるた
 びに比べられるのが、1980年4月に決行され大失敗に終わったオペレーション・ブ
 ルーライドである。 
・「イサー・ハレル」について書かれたものを可能な限り読みつくした。
 これらの調査から浮かび上がってきたハレル像は実に興味深いものがあった。
 特に私の関心を引いたのはハレルの性格だった。
 清廉潔白、質実剛健などという形容詞では到底あらわせないほどクリーンかつ厳格な性
 格、そして質素そのものといった生活様式と清教徒以上の清教徒的なものの考え方。
・イサー・ハレルはユーモアとか柔軟性などとはおよそ縁のない男である。
 しかし、彼のような男がリーダーとしていたからこそモサド内部には一点のスキャンダ
 ルもなく、今日の組織になり上がったのだと言っても過言ではない。
・1948年イスラエル国家が独立した時、あなたは”シン・ベット”の長官に任命されま
 したね。
 シン・ベットは国内諜報を主につかさどり、イスラエル国内の反政府分子や外国からの
 スパイの取り締まりを仕事にしている機構だ。
 初代長官だったミスター・シャロアが健康上の理由でやめたのでベングリオン首相から
 後を継ぎよう頼まされたのだ。
 同時にシン・ベットの長官としても留任するよう要請された。
・権力よりも私にとっては責任のほうが重くのしかかっていた。
 しかし、心から尊敬するベングリオン首相の頼みとあっては断るわけにはいかなかった。
・モサドは”諜報及び特別工作機関”というヘブライ語の略だが、その基本的任務は外国、
 特に敵国からの情報収集と分析にあった。
 しかし、設立者のベングリオン首相はそれだけでは決して十分ではないことを知ってい
 た。そこで”特別工作”という言葉がつけ加えられた。
 あの時、我が国が置かれていた立場を考えれば当然のことだったと思うね。
 まだナチ犯罪者たちは世界中に散っていたし、我が国を敵視するアラブ各国のテロ工作
 は絶えなかった。  
 これらに対して単なる情報収集をするだけでは何の意味もない。
 効果的なカウンターを打たなければならないのだ。
・CIAやKGBと違ってモサドは極端にその予算が限られている。
 国自体が文房なのだから仕方がないことだが、だから我々は量より質に頼らざるを得な
 いのだ。
 百人の平均的エージェントよりも一人のずば抜けたエージェントのほうがはるかに我々
 にとってメリットがある。
 そのような人材は待っていても決して現れないからこちらから捜し出すしかない。
 自分漢志願してくるような連中はまず相手にしてはならないというのがわたしの考えだ
 ったし、これは今日でもモサドの原則になっている。
 兆方途はまったく関係ない分野で働いている人間が時には最高の能力を備えているもの
 なのだ。
・少なくとも私が長官の時代は決して犯罪記録を持つ者など相手にしなかったね。
 もちろん誘惑はあった。素晴らしい頭脳と腕を持ち理想的なエージェントとなる男を見
 た時など引き抜きたいと思ったものだ。
 しかし、あまりにもリスクが大きすぎる。
 一度犯罪を起こした者は必ず裏切ると思わねばならない。
 CIAやKGBは一度や二度、あるエージェントで失敗してもたいして傷つかない。
 我々は違う。一度の失敗で国家がつぶれてしまい国民全部が地中海に追い込まれてしま
 うかもしれないのだ。
・大事な要素は愛国心に駆られること。これがなければエージェントとなる資格はない。
 国家とユダヤ民族のために命を捧げるという覚悟がなければモサドのメンバーとしては
 やっていけないからね。
 彼らの任務内容はあなたが考えているよりはるかに難しく危険なものだ。
 失敗して敵の手に落ちたら想像を絶する拷問が待ち受けている。
 そんな時大きな支えとなるのが愛国心だ。
 単なる冒険心や金のために働いている人間ではまず耐えられないだろう。
・他に重要な要素としては粗末な生活様式に徹しきれること。
 またもし既婚者なら家族を大切にしていることも大事な要素として考慮される。
 女性を玩具にしたら泣かせたりする男はまず信用できない。
 女たらしのプレイボーイのようなものも対象外だ。
 外見はかっこよく頭はよいかもしれないが腹の中はマシュマロのようだし、セックスば
 かり考えている人間の脳はフル回転し得ないからね。それに心理的にも不安手なものだ。

・60年代の初めからソ連はアラブ諸国にミグ21を供与していた。
 イスラエル側はミグ21の性能についての情報は握っていた。
 しかし、完全なディフェンス体制をたてるためにはそれだけでは十分ではなかった。
 ミグの長所、短所を正確に把握せねばならない。
 それには実物を手に入れ実際にミラージュとドック・ファイト挿せてみることが理想的
 である。
 こう考えたイスラエル空軍はモサドに対してミグ21を何とか奪いとるよう要請した。
 モサドはイラク空軍のエース・パイロットとして知られたある男に目をつけ、アメリカ
 国籍の女性モサド・エージェントを近づかせた。
 作戦は成功し、そのパイロンとはミグ21と共にイスラエルに亡命した。
 
・貴方にとって、最も印象に残る作戦は?
 アイヒマンを生け捕りにしたことだろうね。
 「アドルフ・アイヒマン」。ユダヤ人なら決して忘れられない名前である。
 ナチス・ドイツでユダヤ人問題の”最終的解決法”を考案し、六百万人のユダヤ人を虐殺
 した張本人とされている男だ。
・西ドイツ、ヘッセの地方検事「フリッツ・バウワー」からアイヒマンの所在についての
 情報がハレルのもとにもたらされたのは1957年だった。
 バウワーは最初その情報を西ドイツ官憲に持ち込もうと考えたが、結果は目に見えてい
 た。
 おざなりのチェックをするぐらいでさほど真剣に取り組まないことは明らかだったし、
 へたをするとアイヒマンに通報して彼の逃亡を手助けする可能性さえあった。
 当時ボン政府内部には相当数の親ナチ高官がいたからだ。
 アイヒマンに関する情報を真剣に受け止め即刻アクションを起こし得る機関はバウワー
 の知るかぎりモサドを除いてはなかった。
・バウワーの期待通りハレルの指揮のもとにモサド・エージェント達が動きはじめた。
 しかし、容易なことではなかった。
 逃亡者の本能からアイヒマンが住所を変えてしまったからである。 
 モサドは執拗に追跡を続けた。
 そして二年後の1959年12月ついにブエノスアイレスに住むアイヒマンをつきとめ
 た。
・問題はいかにイスラエルに連れてくるかである。
 ヒット・チームがやるようにアイヒマンをその場で射殺してしまうのはたやすい。
 しかし、彼は普通のナチ犯罪者ではない。
 全ユダヤ人の悪夢のシンボルである。
 イスラエルに連れて帰って彼が絶滅しようとしたユダヤ人の前に立たせ裁判にかけるの
 が彼に対する唯一の正義執行だった
・アイヒマンをアルゼンチンから連れ出す方法としてハレルは初め船を考えた。
 しかし、それはあまりにも長すぎる旅行だった。
 途中で各国の介入にあって失敗しないともかぎらない。
 唯一最良の手段は飛行機を使うことだった。
 だがイスラエルの航空機は南米線を飛んでいない。
 さりとて外国の航空会社など使うわけにはいかない。
 ハレルは特別チャーター機を飛ばすことを考えた。
・しかし、運はモサドに味方した。
 1960年5月はアルゼンチンの独立百五十周年記念日だった。
 この式典にイスラエルからもアバ・エバン外務大臣を団長とする代表団が参列すること
 になった。 
 代表団が乗って行く飛行機をアイヒマン輸送に使えばよいのである。
・ハレルはこの作戦遂行のために三十人のエージェントを自ら選んだ。
 十人はアクション・エージェントで残りはサポート・エージェントとなった。
 十人のアクション・エージェントは皆ナチスの収容所で家族を失っていたが、それが理
 由で選ばれたわけではなかった。モサド・メンバーとしてのずば抜けた能力と実績が買
 われたからだ。 
・作戦執行にあたりハレルは部下たちに対してできるかぎりアイヒマンを傷つけずに捕ら
 えるよう命じた。
 あらゆる緊急事態を考慮に入れそれらに対する対応の仕方も練られ、水も漏らさぬ計画
 が立てられた。
 1960年5月11日、酢酸は実行され27秒のうちに終わっていた。
・しかし、イスラエル代表団を乗せた飛行機が到着するのは5月20日だった。
 その間アイヒマンは用意されたセイフ・ハウスで尋問を受けた。
 1960年5月20日、何人かのエージェント達が「エル・アル航空」の副操縦士やス
 チュアードになりすまし、予備の乗務員として飛行機に乗り込んだ。
 アイヒマンもやはりエル・アルの制服を着ていた。
 麻酔を打たれて一時的に昏睡状態に陥っていたからは両脇をエージェントにかかえられ
 てタラップを登った。 
 彼の征服には多量のウイスキーがしみ込まされていたため、パスポート・コントロール
 の役人は何ら不思議にも思わなかった。ハレルは一旅行者として乗り込んだ。
・デビット・ベングリオン首相が「クネセット」でアイヒマン逮捕を報告したのはこの二
 日後の1960年5月23日だった。
 約一年にわたる裁判の後、アイヒマンは処刑された。
 
・初めてアイヒマンを見た時どう感じましたか?
 驚きと期待はずれが入り混じったような気持だったね。
 六百万人もの我が同胞を殺した男だ。
 危険きわまりない獣のような男を私は半ば期待していた。タフなナチをね。
 しかし、目の前にいる男はひ弱でビクビクとした小男にすぎなかった。
 命だけは助けてくれと何度も哀願していた。
 おくびょう者に見本のような男だった。
・彼を捕らえたとき以外は誰も彼に指一本ふれようとはしなかった。
 しかし、彼は今にも床にねじ伏せられて殺されるのではないかというように戦々恐々と
 していた。 
 食事を与えれば毒殺されるのではないかと思ったのかふるえ出し、誰かが試食するまで
 は手をつけようとしなかった。
 ヒゲをそってやろうとするとノドをかき切られるのではないかとふるえ出す。
 運動のために外へ連れ出そうとするれば庭で射殺されるのではと思ってまたふるえ出す。
 手がつけられないほどのおくびょう者なのだ。
・ユダヤ人絶滅の指揮をとったSS高官のイメージとあの小男はどうしても私の頭の中で
 一致しなかった。 
 何百万人というユダヤ人に死を宣告した権勢と優越感のかけらさえも見えなかった。
 自らをマスター・レースと呼んだ誇りはどこに行ってしまったのか。
 私は心の底からある種の屈辱感をおぼえずにはいられなかった。
 私の同胞はこんなおくびょうで自尊心のかけらもないような男に殺されてしまったのだ。
 情けないという思いでいっぱいだった。
・もし彼が確かに六百万人のユダヤ人を信念に基づいて殺したと胸を張っていうようなタ
 フなナチだったら私も少しは慰めを感じたろう。
 しかし、現実に私が見たのは栄辱を知らぬ身下げ果てた卑怯者だったのだ。
 あの時感じた屈辱班を私は一生忘れないだろう。
・ではアイヒマンは最初から最後まで協力的だったわけですね?
 協力的であると同時に我々を喜ばそうと必死だった。
 私は部下の一人を除いては決して誰も彼と話してはならないと命じておいた。
 私自身直接話はしなかった。
 しかし、アイヒマンはだれかれとなく話しかけ命さえ助けてくれれば何でも話すと繰り
 返していた。  
 生き永らえるためには一生イスラエルの監獄にぶち込まれたままでもよいとさえ言った。
 イスラエルへ行って裁判を受けるという合意書まで進んで書いたのにはいささか驚かさ
 れたね。
・自殺の心配はなかったわけですか?
 事前にそれを考えて我々はいろいろな予防策をとっておいた。
 掴まえたとき口を押さえつけ毒薬カプセルを隠しているかを調べたりもした。
 しかし、その心配は無駄に終わったようだ。
 彼は自殺する勇気さえ持っていなかったのだ。
 彼のような殺戮者は人の命はいとも簡単にとるが自分の命は後生大事にするものだ。
 人に対しては残酷きわまりないが、自分に対してはこの上ないあわれみの心を抱く。
 そんな男が自殺などできるわけがない。
・何度も言うようだが、彼のおくびょうさと自分の命を大切にする熱心さに我々はあきれ
 返されたものだ。  
 帰りの飛行機の中でもそうだった。
 当初の計画ではセネガルのダカールとイタリアのローマに給油のため着陸する予定が立
 てられていた。
 しかし、これは大きなリスクだった。
 インターポールが横やりを入れてくる恐れが十分にあったからだ。
 特にローマは我われにとって危険に思えた。
 仕方なく給油はダカールだけにすることにした。
 もし燃料が切れたら海に突っ込むほかはない。
 しかし、誰も心配する者はなかった。
 パイロットが決めたのだから彼らの判断を信じるしかなかった。
 だがアイヒマンは違った。
 常に心配して誰かれとなく燃料は大丈夫かと聞いていた。
 ブエノスアイレスからロッド空港に到着するまで彼は心配のし通しだった。
・アイヒマンと彼を連行したエージェント達は予備の乗務員として登場したわけでしょう。
 本物の乗務員達は作戦に関して知らなかったのですか?
 彼らは何も知らされていなかった。
 しかし、何かおかしいと感じたことは確かだ。
 ファースト・クラスの席にエル・アルの制服を着た男達が緊張した表情で陣取っている
 のだからそう感じるのも当然だった。
 飛行機が離陸してしばらくすると部下の一人が私のいるエコノミー・クラスのキャビン
 に来て、少なくとも乗務員達にはアイヒマンについて知らせるべきではないかと言った。
 私はそれには反対だった。
 しかし、乗務員達は入れ代わり立ち代わりファースト・クラス・キャビンへ来ていろい
 ろと質問するという。
 仕方なく私は彼らだけには”お客”がアイヒマンであることを知らせるよう命じた。
・反応は予想していた通りだった。
 興奮と喜びと感激が彼ら一人一人の顔に表れていた。
 しかし、ひとりだけバイオレントともいえる反応を示した男がいた。
 ポーランド生まれのユダヤ人で彼は整備士として乗り込んでいた。
 アイヒマンと聞くやいなや彼は前部のキッチンに駆け込み立ちつくしたまま泣きじゃく
 った。 
・無理もなかった。
 彼はナチによって何度も殺されかけ、その度に脱出して命を永らえてきたのだ。
 まだ11歳のとき彼は6歳の弟がナチに連れ去られていくのを見ていた。
 6歳の子は労働力としては使えないから殺されるのが常だった。
 何ひとつ悪いことをしていないのに殺された弟、そしてその弟に救いの手すら差し伸べ
 られなかった自分。
 その死別の舞台を演出した張本人アイヒマンが彼のそばにいるのだ。
 泣くなというほうがどうかしている。
 しばらくの後、その整備士はキッチンから出てきてアイヒマンのそばに座らせてくれと
 頼んだ。
 私はその望みを受け入れるよう部下に命じた。
 彼はアイヒマンの真前に座った。
 そしてしばらくの間アイヒマンの顔を食い入るように見つけていた。
 ひと言も発しなかったが止めどもなく流れる涙がすべてを語っていた。
 彼はアイヒマンの顔の中に地獄の日々を思い出していたのだ。
 そして泣きながら連れ去られていくあの弟の姿を。
 二十分近くそこに座っている間じゅう彼はついにひと言も口にしなかった。
 真の憎しみは決して言葉には表せないことを、私はあのとき改めて感じさせられたもの
 だ。
・ある元SS将校から聞いたのですが、アイヒマンが捕まってイスラエルへ連れていかれ
 たとき、彼らは組織の総力をあげて彼を助け出そうした動きがあったというが?
 確かにあった。
 だがそれはアイヒマン奪回ではなく単に彼を消すことだった。
 彼が生き続け裁判にかけられれば、ナチ組織に関して話してしまうと恐れた彼らは、
 殺すことによって彼らの口を永遠に封じてしまいたかったからだ。
 アイヒマン殺害が不可能と知った彼らはモサド長官である私の首に百万ドルをかけた。
 よほどヒステリックな状態にあったのだろう。
・インターポールにしろFBIにしろ本当に真剣にアイヒマンを捕らえようと動いたわけ
 ではなかった。 
 本心では彼らはやりたくなかった。
 インターポールはともかくアメリカのFBI対外諜報部門やCIAが本気でやっていれ
 ば、それほど難しいことではなかったはずだ。
 西ドイツさえもやろうと思えばできた。
 ブエノスアイレスの西ドイツ大使館にいる何人かはアイヒマンについて現に知っていた
 のだから。
・しかし、ゲーレン(西ドイツ諜報部)がそれについてアクションを起こすと思うかね。
 彼らが本気でアイヒマン狩りをやらなかった理由は簡単だ。
 世界中の人々はもう残虐な話にへきえきしていたからだ。
 彼らの良心を責め続け安眠を妨げるいまわしい過去の思いでは消え去るよう望んでいた
 のだ。
 つい最近もメイドネック裁判が終わったが有罪となったのはただ一人の女性だけだった。
 要はやる気の問題だったのだ。
 世界にやる気がない以上犠牲者であった我々ユダヤ人がやる以外になかった。
 
・1959年12月、ヨセレという男の子がエルサレムからいなくなった。
 誘拐ではあるがその性格が少々違っていた。
 誘拐犯がヨセレの祖父であったからだ。
 母親は彼に息子を返してくれと懇願したが祖父は全く聞き入れない。
 祖父の行動の底流には今日のイスラエル社会でもいまだくすぶり続けている宗教的問題
 があった。
 彼は正統派ユダヤ教の中でも最も極端かつ厳格と言われる「ネテゥレイ・カルタ」派に
 属していた。
 ユダヤ教の教えをそっくりそのまま守る根本主義者の宗派である。
 男はいつも黒い上着、ズボン、コートを着てヒゲをはやしモミアゲをカールするのが特
 徴だが、女も全身黒づくめで頭をそり、黒いスカープをかぶらねばならない。
 顔以外は決して人に見せてはならないとされている。
 彼らはまたイスラエルという国家を認めず大部分の若者は兵役を拒否する。
 それでも建国以来イスラエル政府は彼らの権利を認め、その生活様式を尊重してきた。
・ヨセレの母は、この宗派とは関係なかった。
 しかし、祖父はヨセレを正統派ユダヤ教徒として育てることを主張した。
 意見が対立の末についに祖父がヨセレを誘拐したというわけである。
 説得が不可能であると悟ったヨセレの母は、警察に息子の失踪を報告し、事の次第を説
 明した。 
 犯人がわかっている以上、警察にしてみればそうたいして難しいことではないように見
 えた。
 しかし、これはとんだ思惑はずれだった。
 尋問に対して祖父は終始ダンマリを決め続けた。
 裁判にかけられても彼はヨセレの居所を明かすことを拒否した。
 仕方なく法廷は彼を誘拐の罪で有罪徒死刑務所に送り込んだ。
 かつてシベリアの強制収容所を経験した彼にしてみればイスラエルの刑務所など天国に
 等しかった。
 この間、警察はヨセレ捜索に全力を桁向けた。
 エルサレムだけでなくイスラエル中の学校、「キブッツ」、ユダヤ教会などしらみつぶ
 しに当たっても子供の姿は見つからなかった。
 警察だけではなく軍や他の政府機関も動員されたが結局何の成果も得られなかった。
・ヨセレがいなくなってから2年2ヵ月後の1962年2月、イサー・ハレルはベングリ
 オン首相に呼ばれヨセレ捜索を要請された。
 モサドが正式に乗り出してきたのである。
 それから7カ月間モサド・エージェント達は文字どおり世界中を走り回った。
 そして、ついにヨセレがニューヨークのブルックリンに隠されていることをつきとめた。
・1962年9月、モサド本部から緊急回線を通じて「ボビー・ケネディ」に電話が入っ
 た。  
 相手は強いナマリの英語でボビーに言った。
 「私の部下三人が子どもを迎えにニューヨークへ向かった。協力していただきたい」
 ただそれだけで電話は切れた。
 声の主はイサー・ハレルだった。
 ボビーはすでにCIAからハレルのその能力や人柄について聞いていたので彼の圧力的
 な話し方に別に驚きもしなかった。
・ヨセレをイスラエルに連れ戻すことにボビーは特に反対ではなかった。
 しかし、問題は別にあった。
 外国の諜報機関がニューヨークでしかも合衆国司法省の許可のもとに行動を起こす。
 まかり間違ったらケネディ政権の命とりともなりかねない。
 さらにもし万が一、人違いだったらそうするのか。
 しかし、ことがここまで来てしまった以上、ボビーにとって選択の余地はなかった。
 ハレルを信じ、彼が起こり込んだエージェントが速やかに仕事を終えるよう協力する以
 外にないと判断したボビー・ケネディは、FBIが出動してモサドを支援する許可を出
 した。
・ボビー・ケネディも感心していましたが一国の政府がその諜報機関まで使って母親の願
 いを聞いて一人の子どものために動くことなど到底考えられないことですね?
 そんなことはない。イスラエルでは母親がそのくらいの要求を政府に対して行う権利は
 十分にある。
 彼女達はいつも国のために息子を犠牲にする心構えでいなければならない。
 兵役に行った子がいつ前線で死ぬかわからないからだ。
 これほど大きな犠牲はない。
 ヨセレの母も同じことだ。
 彼女が政府に対して助力を求めたのは当然であって、政府がそれに応えたのも当然だっ
 た。単純な問題だ。
・しかし、モサドのメンバー達はあまり乗り気ではなかったと聞くが?
 歴戦錬磨のエージェント達にしてみれば的はずれのターゲットと思ったのも無理はなか
 った。 
 しかし、他の政府機関が二年以上かかっても捜し出せなかったのだ。
 だからこそモサドにその仕事が回ってきたのだ。
 私はあの時、断ることもできた。
 申しわけないがそれは警察の仕事であってモサドの仕事ではありませんといえばよかっ
 た。
 しかし、私は知っていた。
 よほどの理由がない限り、ベングリオン首相があのような要請をモサドに対して行うわ
 けがないとね。
 (この頃少年の失踪をめぐってイスラム国内は正統派ユダヤ教徒と一般イスラエル人と
 の間の亀裂が深刻化し、政治的問題に発展しつつあった)
・今日、あの少年はどうしていますか?
 軍の特別コマンド部隊に所属している。
 最も危険な部隊だが彼自ら志願したと聞く。
 自分を助けてくれた国家に仕えるのは男としての責任だと言ってね。
  
・話題は今世紀最大スパイと言われた「エリ・コーエン」に移った。
 コーエンは1962年1月モサドによってシリアへ送り込まれ捕まるまでの三年間、
 大統領も含めてシリア国内の重要人物と親密な関係を築きあげ、ついには大統領から国
 防大臣のポストをオファーされたという。
 確かにエリ・コーエンはイスラエル諜報機関員だった。
 しかし、それはモサドではなく、軍諜報部の中にあるスペシャル・グループと呼ばれる
 小さな機関のメンバーだったのだ。
・あの頃シリアに植え付けられたエージェントはコーエン一人ではなかった。
 たまたま彼は捕まってしまった。
 シリアにとっては最大の反イスラエル・キャンペーンの道具になり、イスラエルにとっ
 て彼は殉教者となったのだ。  
・あの時コーエン救出のためイスラエル政府はあらゆる手を尽くしましたね。
 やはりモサドが裏で動いていたと思えるのだが?
 当然だろう。モサド・エージェントを決して見殺しにしてはならないというのが私の信
 条のひとつだ。 
 その考えは今でもモサド内部で生き続けている。
 敵の手に落ちたエージェントはどのような代償を払っても取り返さねばならない。
 だから時には死体となったモサド・エージェントと生きている捕虜を交換することもあ
 る。
 エージェント達は、どのような状態にあっても決して見捨てられないと確信している。
 たとえ殺されてもイスラエルの土に埋められると知っているのだ。
 どんな危険な任務をも彼らがものともしない最大の理由はここにある。
・モサドは最も優秀な人間しかとらない。
 他の職業についていたなら百パーセント成功するような連中ばかりだ。
 その彼らが愛国精神をもってモサドに加わり国家のためにつくしてくれるのだ。
 それに報いるためにも彼らを大事に扱うのは当然のことだと私は思う。
 もっと大胆な言い方が許されるなら、モサドがそのエージェントの命をこの上なく大切
 にするのはユダヤの哲学そのものということだろう。
 我々ユダヤ人は五千年の間、いつも死と直面させられてきた。
 だからこそ生の大切さを誰よりも知っているのだ。
・1965年5月、エリ・コーエンはダマスカスの公開処刑場で民衆のみ守るなか、絞首
 刑に処せられた。
 処刑直前、彼は妻ナディアと三人の子どもに手紙を書くことを許された。
 「いたずらに私のために涙を流して時を無駄にするな」
 というくだりなどは彼のクールさと家族に対する深い思いやりにあふれている。
 その手紙の中で彼は妻に再婚するよう勧めている。
 子供たちが父無し子として育つことのないようにとの配慮からだった。
 しばらくの間ナディアは寡婦として暮らした。
・エリ・コーエンの死体はダマスカスのユダヤ人墓地に埋められ、今日でもそのままとな
 っている。
 イスラエル政府は何度も死体引取りのため何人かの重要なシリア人スパイとの交換を申
 し出た。
 しかし、シリア側はそれを拒否し続けた。
 あるモサド・エージェントの話によるとシリア側が取引に応じないのは、コーエンの体
 のどこかに何らかの形でシリアの国家機密が隠されていると信じているからだという。
・ハレルはコーエンを個人的には知らなかったと言いながらも彼の理想主義と愛国の情は、
 人の心を打つものがあったと語った。
 ハレルのような男の口から出た言葉だけに重みがある。
・ハレルは言った。
 「他のモサド・メンバー同様コーエンは抜群に頭が切れ、数カ国語を自在にあやつり、
 しっかりと自分というものをつかんでいる男だった。時と場所が違っていたなら、優秀
 なビジネスマンとして実のある人生を送っていただろう。しかし、イスラエルは常に国
 家的危機に直面してきた。その危機に対応するためコーエンのような若者が死んでいっ
 た。悲しいとかむなしいとかと言った言葉では到底表せないような悲劇だ。もし、アラ
 ブ諸国のリーダーたちが彼らの国家的野望を捨てイスラエルとの平和条約を結んでいた
 ならモサドは必要なかった。そして私はオレンジ作りのようなもっと生産的な仕事に従
 事できたし、コーエンも他の分野で活躍することができただろう」
・あなたの意見ではイスラエルとアラブ諸国との全面和平は可能と思いますか?
 ここ中東では確実なものは何ひとつとしてない。
 何でも可能なのだ。
 あのナセルが生きている時、誰がエジプトとイスラエルが和平条約を結ぶと考えたろう
 か。しかし、四年前それは実現された。
 サダトはイスラエルには絶対に勝てないと悟ったからだ。
・しかし、現在のアサドやカダフィそれにイラクのフセインを見るかぎりサダトと同じよ
 うな考えを持つことを期待するのは無理なようですね。
 今あなたが挙げた三人は皆それぞれ大きな国内問題を抱えている。
 アサドは国民の不満をレバノンに向けることによって危機を乗り越えようとしている。
 カダフィは彼の支配力荷余りにも自信がないため国内の反対派をことごとくつぶしただ
 けでなく国外に逃れたものにしたシテは殺人部隊を送って消させている。
 イラクのサダム・フセインもかつての親友までも殺し権力の座にしがみついている。
 ああいうやり方はいつまでも続くものではない。
 必ず反動が起こり改革が来る。
 そのときはイスラエルとの和平も可能になるかもしれない。
・何しろ今のアラブ諸国はあまりにも相互不信と権力闘争に明け暮れている。
 カダフィがアラブの盟主の地位を狙っていると思うと、今度はイラクのフセインが名乗
 りををあげる。
 シリアのアサドもまた同じ野望を抱く。
 互いがイスラエルに対してどれだけ強硬な姿勢を貫くかの競争をしている。
 他のアラブ諸国は彼らに対して我々以上の警戒心を抱いている。
 もちろん表面的には表さないがね。
 だからこの六月イラクの原子炉を我々が爆破した時、もっと子喜んだのはアラブ諸国だ
 った。
 イラクが爆発を持ったらフセインのアラブ盟主としての地位は確立されてしまうからだ。
 
・1963年3月イサー・ハレルはモサドを去った。
 ある問題でベングリオン首相と意見が対立したためである。
 その問題とは当時エジプトで働いていた多数のドイツ人科学者をめぐってだった。
・1950年代の終わりころからナセルは対イスラエル攻撃にそなえてミサイルや戦闘機
 の開発に全力をそそいでいた。
 その仕事のために白羽の矢を立てられエジプトに招請されたのが、ヒットラー政権下で
 武器開発に取り組んでいた科学者たちだった。
 数百人のもとナチ科学者が高級と安全を求めてナセルの招請に応じたのである。
 これか学者の健康管理のために医師団も集められた。
 その意志段のリーダー格にいたのがナチ強制収容所で人体実験を行い医学の名において
 多数のユダヤ人を殺した悪名高い医師ハンス・エイゼルである。
・1962年7月、ハレルは部下に命じてエジプト在住のドイツ人科学者たちに対するア
 クションを開始した。 
 これらの科学者のひとり一人に対して警告の手紙が出され始めた。
 「エジプトから支給退去せよ。さもなくば・・・・」
 これらの手紙はエジプト国内から出され、差出人の名も偽名が使われた。
 しかし、受け取った側はその差出人の正体については一点の疑いも持たなかった。
・モサドからの警告を聞いて素直にエジプトを去った科学者は少なかった。
 故国ドイツではそれほど仕事もなく金にもならない。
 しかし、エジプトでは法外なカネが与えられるだけでなく特権階級のような生活も保障
 されている。
 それにドイツのように過去の経歴をウンヌンされることはなかった。
・手紙が効果なしと見たハレルは、直接行動に移った。
 まず何人かの科学者たちに手紙爆弾や小包爆弾が送られた。
 開けたとたん爆発するという代物である。
・この作戦に対するドイツ人科学者たちの反応はまちまちだった。
 あるものはエジプトを去り、ある者は居残った。
 しかし、居残った者もモサドの工作によって大きな心理的ダメージを受けていることは
 確実だった。  
・ハレルとベングリオンの間に意見の対立が起きたのはこの時だった。
 この少し前、バングリオンは西ドイツ首相アデナウワーと会談した。
 その会談でアデナウワーは第二次世界大戦中ナチスがユダヤ人に対して行った数々の残
 虐行為に対する賠償の一環としてイスラエルに武器を供与することに同意していた。
 戦車やヘリコプターなどが送られはじめ、西ドイツはイスラエル軍にとって貴重な武器
 の供給者となりつつあった。
・この貴重なデリケートな状況にある両国関係にモサドのドイツ人科学者に対する工作の
 およぼす影響は明らかだった。
 現に西ドイツ政府はモサドの爆弾作戦をやりすぎと非難し不快感を表しはじめていた。
 ベングリオンにとってはきつい選択だった。
 イスラエル防衛に必要な武器をとるか、それともドイツ人科学者たちをエジプトから追
 い出すためいっそうのプレッシャーをかけ続けるか。
・ベングリオンは前者を選んだ。
 そしてハレルに対してドイツ人科学者たちに対する工作をストップするよう命じた。
・ハレルの考えは違っていた。
 同法のユダヤ人六百満員を殺したドイツ人がイスラエル攻撃の武器を作る手助けをして
 いるのである。  
 彼にしてみれば同義の問題だった。
 彼はベングリオンの命令に従うことを拒否し辞表を表明した。
 ベングリオンはハレルに思いとどまるよう説得したが無駄だった。
・ハレルの辞表はモサド内部だけでなく全イスラエルに一大衝撃を与えた。
 議会には事態究明のための特別委員会が設置されベングリオンが召喚された。
 この衝撃の余波をまともにくらったベングリオン内閣はまもなく総辞職し、ベングリオ
 ンは政界から身を引いたのである。 
・いまベングリオンを語るハレルの口調は、限りない尊敬と友愛の念に満ちている。
 「彼はイスラエル国家の生存のために全力を尽くした。首相としての地位を私的に利用
 したこともなければ、くだらぬ派閥争いに時間をつぶすこともなかった。生活は質素そ
 のものだったから死んだときには何の財産も残さなかった」
・しかし、あなたはその彼の命令を拒否して辞めたのでしょう?
 あれは信念の問題だった。
 我々ユダヤ人にあれだけの破滅をもたらしたドイツ人がこともあろうにイスラエルの敵
 を援助していたのだ。私にはそれを許せなかった。
 首相の見方は違っていた。
 彼は事態を政治的にみていたし、その角度から決定を下した。
 私はその決定に同意できなかった。
 しかし、彼は首相であり、最終的決定権は彼にある。
 私はその決定権にあえて挑戦したくはなかった。だから辞めたのだ。
・あなたが去ってからモサド内部は大きく変わったと言われています。
 指導者や内部システムが替わったぐらいでガタの来るようなモサドでは断じてない。
 なぜならモサドには絶対に変わらないものが一つだけあるからだ。
 それはひとり一人のエージェント達の卓越した能力、愛国心、そして犠牲の心だ。
 彼らはその名を世間に知られることもなく、その功績も公にはされない。
 異国の地で死んでいく者も多い。
 言ってみれば無名の戦士なのだ。
 しかし、彼ら無名戦士の手にこそイスラエルだけでなく、日本を含めた全自由主義国家
 の安全がかかっていると言っても過言ではない。
 
メイアー・アミット(イサー・ハエルの後継者ナンバー・ワン)
・あなたがモサドを受け継いだ時、何か問題にぶつかりましたか?
 率直に言っていろいろ問題があった。
 あの時は前任者ハレルと首相の間に大きな対立があった直後だった。
 ハレルの辞任でモサド内部は大きくゆれていた。
 彼らがそれまだに受けた最も大きな衝撃と言っても過言ではないだろう。
 指揮系統はバラバラで、一人ひとりのメンバーが何をして良いかさえわからないように
 状態だった。
・ハレルとは全く違ったあなたのやり方にメンバーたちはずいぶんと戸惑ったでしょう?
 永年かかって植えつけられた考え方や物事の運び方は一朝一夕にして変えられるもので
 はない。
 確かに多くのメンバーが戸惑いを見せた。
 しかし、時がたつにつれてごく自然に新しいやり方を受け入れるようになった。
・やり方だけではなく、モサドの活動内容について何が優先するかも問題の一つだった。
 ハレル氏は国内問題、とくに共産主義の浸透に重点を置いた。
 もともとがシン・ベッドの出身者だからそれも無理はなかったと思う。
・これに対して私は軍部出身だ。
 当面の敵であるアラブ諸国やテロリストから国家を守ることを最優先事項とした。
 また諜報界においてはビジネス界同様、人間関係がもっとも大切というのが私の持論な
 ので、他国の組織やそこで働く人々とのコネをできるかぎり作り上げるよう努力した。
 結果として世界中に膨大なコンタクト・ネットワークを持つことができるようになった。
・ハレルの時代は彼らエージェントひとり一人がほとんど孤立した状態にあった。
 ”コンパートメンテーション(区画)”の原理が確立されていて、どのようなことでも
 直接に関係のあるごく限られた数人にしか知らされなかった。
 エージェント同士の関係も同じだった。
 一緒に仕事をする者以外は絶対に顔を合わせてはならないというのがルールだった。
・コンパートメンテーションやエージェント同士の超極秘主義は一理はあるが、そのデメ
 リットも大きいと私は思った。 
 どんな人間も自己確認の必要性を持っていることは心理学者も認めている。
 自分がやっていることを社会に認めて貰いたいという欲求を常に抱いているのだ。
・ところがモダド・エージェント達は自分の家族にさえ本当のことを言えない。
 非常に危険なことだと私は思った。
 エージェント達も人間だから、精神的プレッシャーが溜まり、溜まればどんな状態に陥
 り何をしでかすかわからないからね。 
 そこで私はモサド内部だけでも超秘密主義をゆるめ、エージェント同士が活発に交流し
 社交生活を共にするよう奨励した。
 これは家族的雰囲気を盛り上げ、団結心を向上させるのに大いに役立ったと思っている。
 もちろん保安面からいって多少の犠牲を払う覚悟だったがね。
 それでも何人かのエージェントはこの考えに抵抗を示し最後まで交流を拒否した者もい
 た。
・イサー・ハレルが聞いたら腰を抜かしそうな言葉だ。
 ハレルにとってモサド・エージェントとは、どのような孤独にも耐えきることのできる
 超人的精神の持ち主だった。
 現にそういう人間しか彼は使わなかった。
 彼の時代に秘密のリークが極端に少なかったのもなるほどとうなずける。
・目的はエージェント間の交流を進めるにあたって保安面の多少の犠牲は覚悟していたと
 いうが、その犠牲が実際に払われたかどうかは定かではない。
 しかし、1965年にエジプトとシリアで二人の重要なモサド・エージェントが捕らえられ
 た時の状況を考えると、内部から指された可能性も否定できない。
 もしそうだったとしたら多少の犠牲などとのんきなことは言っていられないはずである。
 ふたりのトップ・エージェントをほとんど同時に失ったモサドは、両国における活動範
 囲を著しく狭められてしまったからである。 
 (シリアで捕われたのはエリ・コーエン。彼は処刑されたがエジプトで捕らえられたエ
 ージェントは終身刑となり、後に釈放された)
・普通エージェントを作り上げるには外国の言葉、文化、考え方などすべてをはじめから
 叩き込まねばならない。 
 しかし、ここイスラエルには文字通り世界中からのユダヤ人が移民としてやってきた。
 だからエージェントの最低条件である外国文化や言葉に精通している者は山ほどいる。
 後は選り分けて専門的な事項を教えこめばよいのだ。
 これだけ違ったバックグランドを持つ人々を抱えるということは、国内政治の安定とい
 う観点から考えると非常に不都合だが、諜報面から見るとこのうえない強味といえる。
 これに加え、世界のあらゆる国々にユダヤ人が住み独特の社会を構成しているというの
 も大きな強味だ。 
 ユダヤ人社会がないのは日本と中国ぐらいのものだからね。
・1967年6月、当時のモサド長官だったアミットは秘かにアメリカの土を踏んだ。
 CIA長官リチャード・ヘルムスと極秘に会うためであった。
 この三カ月前からソ連KGBは、シリアとエジプトに対してイスラエルが両国を攻撃す
 る計画を立てているという情報を流していた。
 エジプトとシリアの諜報部もこの情報をバック・アップするような報告をナセルのもと
 に送り続けた。
 ナセルは緊急事態を宣言し、十万の兵力をシナイ半島に集結させた。
 シリアも同じようにゴラン高原に大量の兵力と戦車部隊を送り込んだ。
 これに対してイスラエルも当然対抗措置として予備兵を招集して応戦体制をとった。
 KGBの術中にはまり込んでしまったのである。
 これを機に中東の緊張は一挙に高まった。
・しかし、この緊張状態が続けば続くほどイスラエルにとっては不利だった。
 大兵力を持つエジプトやシリアと違って予備兵が軍隊の中心となるため、彼らが兵役に
 服する時間が長ければ長いほどイスラエル経済の生産性は落ちる。 
 下手炉をすると経済が全面破綻しかねない。
・ヨーロッパやアラブ諸国のモサド・エージェントたちからはエジプト・シリア連合軍が
 攻撃準備を着々と進めているという情報がひっきりなしにテル・アビブに寄せられてい
 た。 
 戦争は必至であるとモサド本部は判断した。
 必至であるからにはやるべきことはただひとつ。
 向こうが攻撃してくる前にこちらからたたくことだ。
・しかし、これには問題があった。
 いくら自衛のための攻撃といっても国際世論は納得しない。
 西側諸国はどう出るか。
 とくにアメリカの出方が重要だった。
 独立以来膨大な援助と武器供給を続けたアメリカは文字どおりイスラエルの保護者的役
 割を果たしていた。 
 そのアメリカの支持なしで攻撃を仕掛けることは自殺に等しいことをイスラエル政府は
 知っていた。
 それに当時アメリカは中東危機打開のため外交ルートを通じてナセルを説得しようとし
 ていた。
 そしてイスラエル政府に対しても決して早まった行動に出ないように十分な自重を促し
 ていた。
 そんな時イスラエルがアラブに対して先制攻撃など仕掛けたら結果は明らかだった。
 アメリカはイスラエルを助けられない立場に追い込まれてしまう。
・イスラエルにしてみれば外交ルートで危機が打開できるなどというアメリカの考え方は
 あまりにも甘かった。 
・このアメリカの考え方にも根拠がなかったわけではない。
 彼らは単にCIAの分析とアドバイスに従って動いていたのである。
 中東情勢が危機的状況にある点については、CIAもモサドと見解が一致していった。
 しかし、両者の分析には一つの決定的相違があった。
 それはモサドがエジプト、シリア両軍が必ず攻撃を仕掛けてくると読んだのに対して、
 CIAはシナイ半島やゴラン高原に集結したアラブ軍は防御的に動員されたもので攻撃
 は仕掛けてこないと分析していた点だった。
 このCIAの分析を受けてアメリカ国務省は動いていたわけである。
・危機に対する認識の差と言ってしまえばそれまでだが、イスラエルにとってこの認識の
 差は生死の分かれ目を意味していた。  
 1967年5月、ナセルはイスラエルと後悔を結ぶティラン海峡封鎖を命じた。
 イスラエルのアジア、アフリカへの唯一の出口が完全にふさがれてしまったのである。
 同時にアラブ諸国に配置されたモサド・エージェントたちからは次々と緊急情報がもた
 らされていた。
 彼らの情報はいちいち分析する必要もないほど明らかだった。
 たとえばエジプト軍部内に負えこまれたあるエージェントからは、統合参謀本部の将校
 たちとナセルの会議の内容が一字一句そのままの形で送られてきた。
 その会議のおわりにナセルは言った。
 「諸君、次の会議はテル・アビブでも等ではないか」
 モサドは戦争は絶対に避けられないと判断した。
・このような背景を背負ってアミットは、CIA長官リチャード・ヘルムスを訪れたのだ
 った。 
・「六日戦争」の直前、あなたは極秘の射つにラングレーを訪ねましたが、あれはあなた
 個人の考えからか、それとも首相のめいれいだったのですか?
 半々だったと言える。
 あの時、われわれはアメリカがどう出るかはっきりとした情報がなかった。
 時の首相エジュコル氏からは毎日のように、アメリカが一体何を考え、どう出るかにつ
 いて私は聞かれた。
 しかし、私には明確な答えが出せなかった。
 だから直接アメリカへ行きデシジョン・メーカーたちと会って話すのが一番と考えたの
 だ。
・しかし、そのようなことは外務省がやるべき筋合いのものでしょう?
 あの時、外務省はアメリカ国務省を信用し切っていた。
 アメリカは必ず外交ルートを通じて何とかしてくれるとね。
 ティラン海峡が封鎖された時、モサドは戦争は決して避けられないと分析した。
 しかし、外務省の見解は違っていた。
 ジョンソン大統領が艦隊を送って海峡を封鎖しているエジプト軍のバリケードを破って
 くれると信じていたのだ。
 確かにジョンソンはそのように約束した。
 しかし、その約束の履行を裏付けるような情報を何ひとつとしてモサドは握っていなか
 った。
 我われにしてみればエバン外務大臣の情勢分析は間違っているとしか考えられなかった。
 あのような危機状態にあるにもかかわらず、寝ぼけた眼で悠長に構えられるのは外務省
 の特権かもしれないがね。
 あの時、外務省にまかせていたら結果は目に見えていた。
 それにあのような事柄は公式チャネルを通じて話し合えるような性格のものではなかっ
 た。
・「リチャード・ヘルムズ」と私は互いをファースト・ネームで呼び合える仲だった。
 あの時、アメリカの真意を探りだすには彼と会うほかはなかった。
 何しろ政策の基本があのCIAの中でつくり上げられるのだからね。
 直接会える仲にあった私はラッキーだった。
・もしヘルムズとの中があれほど親しいものでなかったら、いくらモサド長官の私が行っ
 ても、まず国務省に回されただろう。
 国務省は家にたとえれば玄関であり居間のようなものだ。
 大概の来客は皆そこへ通される。
 しかし、親しくなると台所へ通されそこで食事も取れるようになる。
 もっとしたしくなると最後にはベッドルームに案内される。
 ヘルムズと私はまさにこの関係にあった。
・私はあらゆるデータや情報を駆使してできるかぎりクールに説明した。
 彼らはあらゆる角度から質問を投げかけてきた。
 時間は少々かかったが最終的にはこっちの言い分を受け入れてくれた。
・しかし、あの時、CIAはシナイ半島のエジプト軍とゴラン高原のシリア軍を偵察衛星
 で撮り、彼らの隊形が確実に防御的なものであると確信していたのでしょう?
 あの祭、それは大して意味のあることではなかった。
 重要なのはエジプト、シリア両軍とも突然その軍隊を動かし、イスラエルの北と南の国
 境に集結させたという事実だった。
 しかもイスラエル側が何の徴発もしなかったのにだ。
 それに隊形だけをみて敵の真意などわかるはずがない。
 防御的隊形を攻撃的隊形に変えるのに十分とかからないことぐらい、士官学校の一年生
 でもわかっていることだ。
・あの時のイスラエル軍の能力をもってすれば、たとえ先制攻撃を受けたとしても最終的
 には勝っていたのではないですか?
 その質問はCIA連中もしていた。
 確かにファースト・ストライク(第一撃)を受けた後に攻撃に出ても、われわれは勝っ
 ていたろう。
 しかし、問題は死傷者の数だ。
 もしわれわれが先制攻撃を仕掛ければ我が方の死傷者は多くて五百人押さえられるはず
 だ。
 だがもし攻撃を受けて立つ場合の死傷者は、九千から一万人に達していたろう。
 一万人の犠牲が小国イスラエルにとって何を意味するかは言うまでもない。
 アメリカ軍がその通常兵力三十万人を失うのに匹敵するのだ。
・1967年6月の未明、イスラエル空軍のミラージュはエジプト内陸部にある空軍基地
 を爆撃した。
 最初の第一撃でこれらの基地の大半は破壊された
 イスラエル機は基地の上空に達するまでエジプト軍に気づかれなかった。
 というのは、エジプトにいるモサド・エージェントからすでにエジプト空軍のレーダー
 位置やその盲点などが詳細に報告されていたからだ。 
・攻撃が行われた時、エジプト空軍のミグは、そのほとんどが滑走路に並べられてあった。
 このオープンさ自体イスラエル軍のパイロットたちはこれらミグのうちどれが本物で何
 台目ごとにダミーがおかれているかもつかんでいた。
・空軍基地と同時にSAM(地対空ミサイル)基地の大部分も、ミラージュによって破壊
 された。 
 第一日目にしてエジプト空軍はその80パーセントの戦力を無力化されてしまったので
 ある。
・シリアについても同じだった。
 ゴラン高原のあちこちに築かれた要塞は難攻不落の定評があり、いかに優秀なイスラエ
 ル軍でも決して近づくことさえできないと見られていた。
 しかし、イスラエル空軍のミラージュは防衛線を難なく突破し、ゴラン高原司令部に猛
 烈な爆撃を加えた。
 エリ・コーエンはすでにシリア政府の要人の案内でゴラン高原をくまなく観察してい
 た。
 塹壕の数とその位置、地雷の埋めてある場所、対空高射砲の位置など、すべてがモサド
 本部に報告されていたのである。
 二日のうちにゴラン高原のシリア軍は壊滅状態に陥っていた。
・ゴラン高原の南端はちょうどイスラエル領とガリラヤ湖を見下ろす位置にある。
 ここに大砲を据え付けられたらたまったものではない。
 現に六日戦争前まではシリア軍は毎日のようにそこからイスラエル領に弾を打ち込んで
 いた。 
 現在はイスラエルが占領しているが、綿畑や野菜畑がえんえんと続き一見平和そうに見
 える。
 しかし、あちらこちらにまだ地雷が埋まっており、焼けただれた塹壕や建物が残されて
 いる。
・六日戦争は終わっていた。
 物量でははるかに劣るイスラエル側の圧勝だったが、この裏にはモサドの永年にわたる
 努力とエリ・コーエンのようなエージェントの血と汗があった。
 それまでモサドが集めた情報の粋がこの六日戦争にぶつけられたと言っても過言ではな
 い。
・この戦争の勝利に酔ってイスラエルはエルサレム全市とウエスト・バンク(ヨルダン川
 西岸)を手に入れた。
 ヨルダンは最初のうちは戦争に加わっていなかったが、最終的にナセルに誘い込まれた
 形でイスラエルに宣戦した。
 エジプト・シリア連合軍の敗色が濃かったにもかかわらずヨルダンまでが加わったのは
 解せない話ではあるが。
・戦争勃発時点からフセイン(ヨルダン国王)は迷っていた。
 アラブの一員して戦うべきか。それとも傍観すべきかと。
 戦えば負けることは覚悟で臨まなければならない。
 負けたらある程度の領土を失うはめになるのは必至だ。
 本震では彼は参戦したくないと我々は分析していた。
 そして彼に参戦せずに中立を守るよう繰り返し伝えた。
 しかし、彼は我々の忠告を受け入れず、参戦してきた。
 ナセルにだまされたのだ。
 エジプト軍が決定的敗北を喫していた時、ナセルはフセインに電話でその反対のことを
 言っていたのだ。
 ナセルにしてみれば、ヨルダンを引っ張り込んでイスラエルを東側からたたかせ少しで
 も戦局を挽回したかったのだ。
 フセインはこのナセルの言葉を信じて戦争に参加してしまった。
 我々の再三にわたる中国にもかかわらずだ。
 結果としてヨルダンはウエスト・バンク全体を失ってしまったのだ。
・結局、アラブ側はソ連KGBに乗せられたわけですね?
 ナセルにも大きな責任があった。
 彼はシナイ半島に兵力を進駐する前、そこに駐留していた国連平和維持軍の撤退を要請
 した。 
 国連軍は何のクレームもつけずに速やかに退いてしまった。
 ナセル自身これにはびっくりしたに違いない。
 次いで彼はティラン海峡封鎖を命じた。
 これに対して我々は何もしなかったし、アメリカもアクションを起こさなかった。
 これを見たナセルは錯覚を起こしてしまったのだ。
 誰も彼の力の前には手が出せないとね。
 KGBはそのナセルのかたをたたいてなおさらたきつけた。
・あの六日戦争から一年後の1968年、メイアー・アミットはモサドを去り諜報界から
 身を引いた。
 アミットの後継者はズヴィ・ザミアーという将軍だった。
・ザミアーのもとでモサドの諜報機関としての機能は一時的にではあるが低下した。
 そしてこの機能の低下はモサドに対する世論の州ちゅう批判となって表れた。
 そのよい例が72年のミュンヘン・オリンピックで11人のイスラエル人選手が虐殺さ
 れた時である。  
 あのようなことがおこることは十分に予想され、ある程度の情報も入っていた。
 しかし、モサドは虐殺を防ぎきれなかった。
 イスラエル国内世論はモサドを責め立てた。
・この虐殺に対する復讐のためモサドのヒット・チームが動きはじめた。 
 過去に何人ものナチス戦犯を極秘のうちに処刑してきた彼らにすれば、それほど難しい
 仕事ではなかった。
 虐殺の犯人たちは次々と捜し出され消されていった。
 何の証拠も残されずすべてがスムーズにはこばれた。
 マスコミはこのヒット・チームの存在さえ知られなかった。
・しかし、それも永くは続かなかった。 
 1973年、モサド本部はミュンヘンの虐首謀者であった「アリ・ハッサン・サラメ
 がノルウェーのリレハンマーという町に潜んでいるという情報をつかんだ。
 本来ならばすぐにでもヒット・チームが送られるのだが、この時あいにく彼らは皆休暇
 中だった。
 過去十カ月間の人間狩りで心身ともに疲れ切っていた彼らにとっては必要な休暇だった。
 このような場合、彼らの毬果が終わるまで待ち、その間サラメに監視をつけるのが普通
 である。
 しかし、ザミアーはそうはしなかった。
 待ちきれなかったのか、それとも功を焦ったのか。
 彼は直ちに行動を開始してしまったのである。
・ザミアーは自分でヒット・チームを編成した。
 志願者はモサド本部でデスク・ワークを専門とする者ばかりだった。
 アマチュアの集まりだったのだ。
 事務屋に殺しができるなら笑われはわざわざヒット・チームを持つこともない。
 しかし、彼らは明らかにそうは考えなかった。
 サラメの居場所さえわかっていれば殺すことは簡単と思ったのだろう。
 テレビの見過ぎというほかはない。
 ザミアー自身も工作に参加すると言い出した。
 そして、殺しが行われている間、付近に駐車してある車の中から見ていたのだ。
 かのイサー・ハレルにでもなったような気持だったのだろう。
・この工作は大失敗に終わった。
 まず殺した相手がサラメではなくまったく別人だった。
 そのうえ、かれらアマチュア・ヒットマンたちはノルウェー警察に捕まってしまったの
 である。 
 モサドとしてはかんがえられないようなドジを踏んでしまったのだ。
 さらに裁判において彼らはミュンヘン虐殺に対する報復劇の一部始終をしゃべってしま
 った。
・マスコミが飛びつかないはずはない。
 一国の諜報機関がヒット・チームを使って他国で殺人を犯す。
 諜報界の実情を知っている者にとっては別に驚くようなことでもないが、常に義憤のは
 け口を求めているマスコミには格好のエサだった。
 結果としてモサドに対してイスラエル国内ばかりでなく世界中から非難が集中した。
 ハレルやアミットが長官であったなら到底犯しはしなかったミスのように思われるので
 ある。

イスラエル生存の保証人モサド(世界を敵に回しても我々は生き残る)
・取材中私はずっとエルサレム・ヒルトン・ホテルに泊まった。
 設備は世界中にあるヒルトン・ホテルとまったく変わらない。
 しかし、ひとつだけ大きな違いがある。
 地上二十階地下三階の子のホテルには、各階にセキュアリティ・ルームなるものが作ら
 れているのだ。
 セキュアリティ・ルームとは読んで字のごとく安全の部屋である。
 各階の二十一号室がセキュアリティ・ルームになっている。
 この部屋のドアの内側にもう一枚の鋼鉄製のドアがあり、バルコニーの外側にも分厚い
 鉄の扉がついている。
 これを両方閉めると部屋は完全な密封状態となる。
 そしてドアの近くの床が開けられる仕掛けになっていて、そこから地下三階にあるシェ
 ルターまで一直線に鉄製のハシゴがついている。
 一朝有事の場合、泊り客は各階の二十一号室に集りそこからシェルターに降りればよい
 わけである。
・地下三階にあるシェルターがまたよくできている。
 医務室、体育室、バーなどすべての設備が整っていて数カ月間過ごせる食糧や水、薬な
 どが蓄えられている。 
 さらに壁の一部に細工がしてあり、スイッチを押すと隠し扉が開き、二百メートルぐら
 いの通路があり、ホテルの裏側に出られる仕掛けになっている。
・またこのシェルターの隣に、サイズはひとまわりちいさいがもうひとつのシェルターが
 ある。 
 これは対毒ガス用シェルターだ。
 ここにもガスが消えるまでの水や食糧が貯蔵されている。
・シェルターがあるのは何もホテルに限ったことではない。
 一般市民の住まいにしても全く同じだ。
 家を建てる時はまずシェルターを作ってからでないと建築許可はおりない。
 そのシェルター建設のためには政府が補助金を出すシステムになっている。
・興治じつはわれわれ日本人から見れば少々オーバーで被害妄想的にさえ映る。
 しかし、イスラエルという国が置かれた特殊な環境を知れば決してオーバーではない。
 彼らにしてみれば毎日がホロコースト寸前のところに立たされている気持ちなのである。
・1922年国際連盟は正式にパレスチナを委任統治領と認め、その統治権を英国に与え
 た。 
 当時のパレスチナ領土は現在のイスラエル、ヨルダン、ガザ地区、ウエスト・バンクを
 ひっくるめたものだった。  
・委任統治権を与えるにあたって国際連盟はパレスチナとユダヤ人の歴史的つながりを重
 視し、ユダヤ国家建設を目標としてできるだけ多くのユダヤ人の入植を奨励するよう英
 国に指示した。
・同じ年、英国は政治的考慮からヨルダン川東側の置パレスチナ領を英国の傀儡、アブデ
 ュラ王(現フセイン王の祖父)に与え、トランスヨルダンと名づけたが英国の当時は続
 けられた。
 このトランスヨルダンは全パレスチナ領の77パーセントを占めた。
 これによって国際連盟の考えていたパレスチナへのユダヤ人の入植活動は部分的にスト
 ップされた。
 しかし、残りの23パーセントの領土への入植は続けられた。
・1947年11月、国際連合はヨルダン川西側のパレスチナ領をユダヤ国家とパレスチ
 ナ・アラブ国家に二分する決定を下した。 
 すでにトランスヨルダンというパレスチナ・アラブ国家が存在していたわけであるから
 この決定は二番目のパレスチナ・アラブ国家建設ということになる。
 しかし、アラブ側はこの国連決定を拒否した。
・この拒否の裏には、当時のパレスチナ・アラブ人社会が国家的性格や観念を持ちえなか
 ったというハンディキャップがあった。
 そしてこのハンディキャップは後々までパレスチナ・アラブ人が他のアラブ諸国の言い
 なりとなり”アラブの冷戦”の材料として使われる大きな原因ともなる。
・1948年5月、国連決議案第62号にそってイスラエル国家は誕生した。
 この第62号担ぎ案は、イスラエルと近隣のアラブ諸国との間の敵対関係に終止符を打
 ち、イスラエルの国家としての存在を認めるというものだった。
 しかし、アラブ諸国はこれを認めずイスラエルに対して宣戦布告。
・エジプト、シリア、トランスヨルダン、サウジアラビア、イラク、レバノンの軍隊がイ
 スラエルに侵攻。   
 目的は唯ひとつ、イスラエルの全面破壊。
 武器とマンパワーでは絶対的に優勢を誇ったアラブ側が曽於目的を達することはできな
 かった。
・しかし、イスラエルにとってもこの戦争によってもたらされた犠牲は大きかった。
 六千人以上の兵士が死んだからだ。
 当時のイスラエルの人口から見ればこの六千人はアメリカ軍の百万人以上に匹敵すると
 言われている。
 この戦争の結果としてエジプトはガザ地区、トランスヨルダンはウエスト・バンクを占
 領した。
 両国ともそこに住むパレスチナ・アラブ人たちに自治権は与えなかった。
・1950年トランスヨルダンはウエスト・バンクを併合し国名をヨルダン王国と変えた。
 しかし、この閉合を認めたのはイギリスとパキスタンだけので、他のアラブ諸国さえ認
 めようとはしなかった。
・1948年の戦争は、一応イスラエルの勝利に終わり、国連安保理事会のプレッシャー
 によってアラブ参戦国はイスラエルとの休戦協定にサインした。
 だが、休戦の後に続くはずの和平はもたらされなかった。
 アラブにとっては、協定に記された休戦ラインはあくまでも軍事的必要性から生じた一
 時的な喪鬼すぎなかった。
 彼らはその後もイスラエルの存在そのものを認めず戦争状態を維持し続けた。
・イスラエルとアラブ諸国だけの間でこの問題が収まっていたなら事態は収拾されたかも
 しれない。 
 だがこの争いを複雑化するもう一つの要素が入り込んだ。ソ連である。
・イスラエルの独立に関して当初はアメリカやイギリスと共同歩調をとっていたソ連であ
 るが、その後米ソ間が冷戦状態に突入すると同時にその立場を大きく変えた。
 イスラエルの存在そのものがパレスチナ・アラブ人の権利を侵害するというアラブ側の
 論法を正式には否定したものの、その行動においてソ連はアラブを百パーセント支持す
 る政策に切り換えた。 
 以来ソ連の中東政策は反イスラエルに徹し、四度の中東戦争では公にアラブを後押しし
 続けた。
・こうしてパレスチナ問題は、アラブ対イスラエルだけでなく、アラブ諸国間での冷戦と
 米ソ冷戦の道具として使われ始める。
 この間パレスチナ・アラブの権利については誰もが声高に叫ぶが現実的解決策は見出せ
 なかった。
・1964年5月、エジプトのイニシアチブによってあれ部連盟は正式にパレスチナ解放
 のための組織説、率に踏み切り、それまでサウジアラビアから国連代表を務めていたア
 ーメッド・シュケイリという弁護士を組織設立の代表者に推した。
・こうして生まれたのがパレスチナ国家評議会(PNC)とパレスチナ解放機構(PLO)
 だった。
 両者に関係は行政府と立法府のようなものである。
 PNCとPLO設立と同時に”ナショナル・コベナント”(パレスチナ国家法令)なる
 ものが採択された。
 この中でイスラエル国家の非合法性とその設立に伴う国際間の決議をすべて無効として
 いる。 
 またパレスチナ解放のためには武力闘争が唯一の方法であることもはっきりとうたわれ
 ている。
・1965年にPLOはエジプト政府の援助によってパレスチナ解放軍(PLA)を組織
 化した。 
 この時点ではアル・ファタはまだPLOのメンバーではなくシリアにその活動ベースを
 置き、そこからイスラエルに対する破壊工作活動を行っていた。
 PLOが軍隊を主体としてイスラエルと戦う姿勢を示したのに対して、アル・ファタは
 テロ行為を主体としたゲリラ戦略に重点を置いた。
・後にアル・ファタ・グループのライバルとなるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)が
 台頭し始めたのもこの頃である。
 もともとはエジプト政府のバック・アップで作られた組織であるが、1967年シリア
 によって援助されていたパレスチナ解放戦線(PLF)と結ばれ、そのリーダーとして
 おさまったのがテロリストの総元締めのように考えられている「ジョージ・ハバッシ」
 である。
 しかし、この結合は永続きしなかった。
 エジプトとシリアの関係悪化がもろに響き、PFLPは真っ二つに割れてしまう。
・この分裂から派生しシリアのバック・アップによって出来上がったのがパレスチナ人民
 解放戦線総司令部(PFLP=GC)である。
 1965年5月PLFPは再分裂する。
 そして新しく派生するのがパレスチナ解放人民民主戦線(PDFLP)で、このスポン
 サーはイラクのバース党である。
 この他にもいろいろなグループがアラブ諸国のバック・アップで誕生し互いに結びつい
 たり離れたりして今日に至っている。 
・本来パレスチナ人の組織であるべきPLOだが、実際は各国の思惑や利益が複雑に絡
 み合って構成されている。
 そして様々な意見の相違や内部対立はあるが、二つの基本的な点に関しては一致してい
 る。
 ひとつはイスラエル国家の抹殺であり、もうひとつはそのための手段としてあらゆるテ
 ロ活動の実行である。
・PLO傘下の数々のグループがテロ活動をステップ・アップした時期の1967年から
 1979年の間に実行されたテロ行為は約9400件にのぼり総死者994人、負傷者
 は約5100人。
 犠牲者はなにもユダヤ人だけにかぎられていない。
 死者のうち354人、負傷者のうち1800人はアラブ人だったことからもターゲット
 の選択はほとんどされていないことは明らかだ。
 ・1967年12月、ガザ地区にあるマーケットで手榴弾爆発
 ・1968年11月、エルサレムのマーケットのなかで駐車中の車が突然爆発
 ・1970年3月、アヴィヴィム近くでスクールバスが襲われる
 ・1972年5月、PLOの助っ人として「日本赤軍」メンバー三人がテル・アビブの
  ロッド空港で無差別銃撃を展開
 ・1974年5月、マーロットの学校を三人のテロリストが襲撃
 ・1975年3月、八人のテロリストがテル・アビブのおホテルを襲撃
 ・1975年7月、エルサレムのシオン広場で爆弾を仕掛けた冷蔵庫が爆発
 ・1978年3月、13人のテロリストがタクシーと2台のバスを襲撃
 ・1979年4月、四人のテロリストがナハリア市内のアパートを襲撃
 これらはほんの一部に過ぎないが、テロリストの対象は往々にして非力な女、子供の場
 合が圧倒的に多い。
・また彼らのテロ行為は何もイスラエル国内だけに限ったことではない。
 国際的テロ活動においてもPLOは他に比類なき実績を持っている。
 日本赤軍派のロッド空港乱射事件に見らえるように海外のテロ・グループとの関係も緊
 密である。
・PLO内部グループによる国際的テレ活動は枚挙にいとまがない。
 しかもそのターゲットは単にイスラエル人とは限らず無関係の第三者の場合が多い。
 ・1970年2月、スイス航空機の機内に仕掛けられた時限爆弾が爆発。飛行機は空中
  分解。首謀クループはPFLP=GC。
 ・1970年9月、ヨルダンにおいてパン・アメリカン機、スイス航空機、BOAC機、
  TWA機の四機がハイジャックされる。四基とも爆破され炎上。PFLPの犯行。
 ・1971年11月、カイロにおいてヨルダンの首相、ワシフィ・アル・タルを暗殺。
  ブラック・セプテンバーの犯行。
 ・1972年2月、ルフトハンザ機がイエメンでハイジャックされる。身代金を支払っ
  た後、人質は釈放された。PFLPの犯行。
 ・1972年9月、ミュンヘン・オリンピックにおいて11人のイスラエル人選手が
  虐殺される。ブラック・セプテンバーの犯行。
 ・1973年3月、スーダンのサウジアラビア大使館が襲撃され居合わせていたアメリ
  カ大使と二人の外交官が暗殺。ブラック・セプテンバーの犯行。
 ・1975年12月、ウィーンのOPEC本部におうてOPEC諸国の大臣および関係
  者70名が人質となった。PELPの犯行。  
 ・1976年6月、エール・フランス機がハイジャックされウガンダのエンテペに着陸。
  PFLPの犯行。
 ・1977年10月、ルフトハンザ機がハイジャックされソマリアのモガディシュに着
  陸。PFLPの犯行。  
 ・1978年4月、ベルギーのブラッセル空港においてイスラエル航空機をハイジャッ
  クしようとして失敗。テロリストが空港内で無差別乱射。PFLPの犯行。
 ・1979年7月、トルコのアンカラにある英二プと大使館が襲撃される。アル・サイ
  カの犯行。 
・1968年7月から1981年2月までの間にPLOが関係した国際的テロ活動の件数
 は281件にのぼっている。
 それによって殺された人間は316名、負傷者は543名。
 活動舞台となった国は約50カ国。
 その主な国は西ドイツ、フランス、英国、イタリア、トルコ、オランダ、ベルギーなど
 である。  
 これらの活動の犠牲者のうち85パーセントはイスラエル市民ではなく外国人だった。
・PLO内部では常に曽於政策を巡ってグループ同士が激しい対立を演じている。
 たとえばイスラエル抹殺までの過程についてもそれは言える。
 「ヤセル・アラファト」ひきいるアル・ファタは”段階的手段”を主張しているが、
 これに対してPFLPやPFLP=GCは猛反対の姿勢をとっている。
・段階的手段とは、まずPLOを国際社会でひとつの政府として認知させる。
 そしてその事実をもとにアメリカ、イスラエル、ヨルダンなどとパレスチナ問題に関し
 て交渉に入り、少なくともパレスチナの一部(たとえばウエスト・バンクやガザ地区)
 を獲ってそこにパレスチナ・アラブ政府を樹立する。
 それを土台にとしてイスラエルの全面抹殺に全力を集中する。
 このアラファトの考えはそれまでPLO内部で唱えられてきた”パレスチナのすべてか
 それともゼロ”という考え方よりはるかに現実的であり、PDFLPやアル・サイカの
 支持を取り付けるのに成功した。
・しかし、この段階的手段に対する反対も大きい。
 PFLPやPFLP=GCはこの手段は交渉を前提とするものであるからイスラエルの
 存在を認めてしまうことになると主張する。
 さらにもしそのような妥協をしてパレスチナ国家が生まれても、それは常にヨルダンと
 イスラエルという敵にはさまれてしまうことになるし、最終目的とするアラブ世界全体
 の革命を遅らせるかまったく押さえ込んでしまうことにもなる。
・PLOの中でもアラファトのひきいるアル・ファタ・グループは一般的に穏健派と考え
 られている。私自身そう思っていた。
 しかし、イスラエルから見ればPLOのメンバー・グループの中で穏健派などは存在し
 ない。
 グループによってその闘争手段には多少の違いがあるが、最終目的はイスラエル国家撲
 滅に変わりはないからだ。
 確かにアラファトは段階的に手段を唱えそのためにはイスラエルと同じテーブルについ
 て交渉することもやむなしと主張するが、終極的には彼もイスラエルの全面破壊を目指
 していることは彼自身何度も口にしている。
・アル・ファタ・グループがブラック・セプテンバー組織を設立したのには特別なわけ
 があった。
 アル・ファタは対イスラエル戦略を遂行する上でゲリラ戦を主体と考えていた。
 1967年の六日戦争でアラブ正規軍が褻体的な敗北を喫した時、このアル・ファタの
 主張は多くのPLOメンバーの支持を得た。
 そして対イスラエル・ゲリラ戦は急激にステップ・アップされた。
 しかし、このゲリラ活動も情報力や戦闘能力でははるかにまさるイスラエル軍の前には
 大した効果をもたらされなかった。
・この頃PLOは、そのベースをヨルダンに置き、すべての活動はここから行われていた。
 しかし、1968年の夏には、イスラエルにゲリラを送り込む唯一のルートであったヨ
 ルダン川の西側は、イスラエル軍によって完全に封鎖されてしまった。
 結果としてヨルダンにいたPLOゲリラ兵士たちは動きがとれぬ状態に追い込まれた。
 彼らはその鬱憤をヨルダン国内に向け始めた。
 そして資金集めのため勝手に税金を取り立てたり、通行税を設けたりして、国家の中の
 国家を作り上げるような状態をもたらしてしまった。 
・ ヨルダン国王フセインはそれまで一貫してPLOを支持してきた。
 1964年にPLOが発足した時、真先に訓練基地を提供したのも彼であった。
 フセインはPLOに対してヨルダン国内での行動を慎むよう繰り返し警告するが、
 PLO側は聞き入れない。
 それどころか、ますますその活動をエスカレートしていった。
 フセインにしてみれば、これは彼に対する挑戦であった。
・1970年9月、ついに堪忍袋の緒を切ったフセインは、PLO撲滅に踏み切った。
 彼の軍隊の中でもエリート部隊を構成するのがベドウィン族兵士たちであるが、
 永い間PLOの勝手な振る舞いを苦々しく思っていた彼らは喜んでフセインの命令を実
 行した。 
 彼らの手によって虐殺されたPLO兵士は5千人以上にのぼる。
 彼らの手を逃れた者は我先にヨルダン川を渡りイスラエル軍に降伏した。
・この虐殺が俗に言われる”ブラック・セプテンバー”である。
 こうしてヨルダンという理想的な活動基地を失ったPLOはレバノンに移動し始めた。
 しかし、対イスラエル・ゲリラ戦が限界に直面しつつあるのは事実であった。
・1969年にリーダーシップを握ったアラファトは、PLO全体としての活動ガイドラ
 インを定めた。  
 ”武力闘争司令部”なる機関を設立した。
 これにはPFLP以外のグループ全部が加わった。
 1970年にPFLPも参加し、その名称が”共闘司令部”と変えられた。
 しかし、なんら具体的政策は練られなかった。
 ただ各グループが互いの存在を認め合うという役目は果たした。
 各グループの間での唯一のコンセンサスと言えばイスラエルの破壊であり、この目的の
 ためにはいかなる手段も選ばないという基本的姿勢である。
・1970年9月にヨルダンを追われて以来PLOはその本部をレバノンのベイルートに
 移した。
 そして南部レバノンを活動基地としてイスラエルに対するゲリラ攻撃を展開し続けた。
 このゲリラ攻撃によって犠牲になったイスラエル人は90パーセント以上が非戦闘員だ
 った。
 イスラエルはレバノン政府に対してPLOテロ活動をどうにか止めさせるよう圧力をか
 けるが、弱小なレバノン政府には到底無理なことだった。
 もしレバノンがフセイン同様の軍隊を持っていたなら可能だったかもしれないが、1万
 5千人の軍隊ではどうしようもない。 
・しかし、PLOのゲリラ活動をそのままに放っておけばイスラエルの報復を呼び、レバ
 ノン市民が巻き込まれるのは目に見えている。
 そこでレバノン政府はPLOとある合意に達した。
 PLOに南部レバノンのアルクブ地区を訓練基地として与えるが、PLOはそこからイ
 スラエルへの攻撃を仕掛けることはしない。
 このアルクブ地区は俗にファタ・ランドと呼ばれる。
 PLOにとっては一種の聖域である。
 この合意は、1972年6月の文書によってなされたが、それはあくまで表面的なもの
 であった。
 そのような約束は決して守られないことはレバノン政府もPLO側も十分に知っていた
 からだ。
 ただこの合意を取り交わし、PLOにファタ・ランドを活動舞台として与えることによ
 り少なくともイスラエルの報復はファタ・ランドだけにしぼられるとレバノン政府は考
 えた。
・しかし、この考えが甘かったことはその後の歴史が証明している。
 今日レバノンは完全な混乱状態に陥り、主権が誰の手にあるのかさえ分からぬような様
 相を呈している。
 ある意味でレバノンは不安定な中東情勢をもっとも端的に象徴していると言えるかもし
 れない。
 そこにはイスラエル対PLO、イスラエル対アラブ諸国、アラブ諸国間のかけひき、
 PLO対アラブ、国連軍の駐留、ソ連の野望、アメリカの利益など、ありとあらゆる要
 素が含まれているからだ。
・レバノンに存在する勢力のひとつに”自由レバノン軍”というのがある。
 その実体は西側のマスコミにはあまり知られていない。
 この軍隊のリーダーはサード・ハダッドという元レバノン正規軍の少佐であるが、現在
 はレバノン政府に叛旗をひるがえし、八万の民の総帥としてPLOやシリア軍と戦って
 いる。
・彼の治める土地は、長さ約120キロ、幅2キロから12キロにわたっているが、その
 位置がレバノンの南端にあたるためイスラエルにとっては格好のバファー・ゾーン(緩
 衝地帯)となっている。
 もともとはレバノン政府によって派遣されたのだが今から二年前、彼は独立を宣言した。
 以来イスラエルからの武器で戦っているが、時には共同作戦をとることもある。
 このハダッド=イスラエル関係樹立の裏にはメイヤー・アミットが語ったモサドの”地下
 の外務省”としての働きがあったことは言うまでもない。
・今回の取材旅行で私はこのハダッドに是非とも会ってみたかった。
 時刻に反旗をひるがえし、アラブの天敵イスラエルの武器を執ってPLOと戦う不思議
 な軍隊。 
 それを指揮するサード・ハダッド。
 イスラエル人からは英雄と呼ばれ洗布陣からは裏切り者という烙印を押されている男。
 直接会って話を聞けば中東情勢を今までになかった角度からとらえることができるかも
 しれないと私は感じた。
・1981年7月、会見場所はイスラエル最北端の町メチュラにあるホテル。
 巨大な頭と鼻が印象的だが、その表情には明らかな疲労感がある。
 前の晩から始まったPLOによる「カチューシャ・ロケット」の攻撃に応戦していたた
 め、一睡もしていなかったのだという。
 時折頭上をイスラエル空軍の戦闘機が、超低空飛行でレバノン方向へ飛んで行く。
 日本とは全く別の世界にいるのだと改めて感じさせられるような緊迫した空気が骨の髄
 まで伝わってくる。 
・私が、中東、とくにレバノン情勢はわれわれ日本人にとって複雑きわまりなく見える、
 と言うと、少佐はすかさず、
 複雑?そんなことはない。
 PLOキャンプでテロ訓練を受けているあなたの同胞に聞けば、簡単に説明してくれる
 だろう。 
 他人の国に勝手に入ってきた革命ごっこに自己満足している連中にね。
・よほど日本赤軍に頭にきているのか、その言葉には皮肉だけではなく敵意さえ感じられ
 る。 
・1976年11月、私はレバノン軍の東部部隊指揮官として派遣された。
 その頃はまだ、まがりなりにもレバノン政府は存在し、軍隊もあったからね。
 しかし、その後中央政府は事実上消滅し、軍隊と呼べるものもなくなってしまった。
・1979年、私は指揮下にあった軍隊を”自由レバノン軍”という名称に切り換えた。 
 今本当の意味でレバノン人の軍隊と呼べるのは、この自由レバノン軍を除いてはない。
 私が唯一のレバノン正規軍の将校であり、私の兵士達が唯一のレバノン軍の兵士なのだ。
 現在わが軍のコントロール下にあるのは長さ120キロにわたる地域に過ぎないが、
 この地域だけが、シリアやPLOテロリストたちの支配下にないレバノン人の領土だ。
 しかし、われわれの首府はあくまでベイルートであり、いつの日か再びあそこに本物の
 レバノン人による政府が打ち立てられるようわれわれは努力している。
 私はあくまでレバノン軍の軍人だ。
 だから自分のランクもあのとき政府から授かった”少佐”のままで押し通している。
・しかし、現在ベイルートにはサルキス大統領を長とする中央政府が存在することは、
 国連をはじめとして国際世論も認めている事実でしょう?
・そこがあなた方の甘さだね。
 自分たちの国や命が危険にさらされていないから、それだけ甘く考えることが許されて
 いるのだろうが、われわれは当事者なのだ。
 現実を直視することしか許されていないのだ。
 その現実とは、ベイルートに自由な独立国家としての政府など存在していないという、
 悲しむべき事実だ。
 独立国には主権というものがある。
 しかし、今日のベイルート政府に主権があると言えるのか。
・サルキスは大統領として何もできない。
 常にシリア軍とPLOのテロリストたちの命令によって動かされているパペット(人形)
 だ。
 76年に彼が大統領に選ばれたときの状況を考えれば、当然のことだろうがね。
 議会で大統領選挙が行われた日のことだった。
 投票権を持つ代議員ひとり一人を武装したシリア兵が訪れ、頭にピストルをつきつけな
 がら議会へ連行したのだ。
 サルキスに投票しなければ射殺するという脅しだった。
 結果としてサルキスは満場一致で大統領に選ばれた。
 そんな手段で選ばれた大統領にいったい何ができるというのか。
 シリアやPLOテロリストたちの意向にそむいて動くことなど、できるわけがないのだ。
・テロリストは、南部レバノンでテロ活動をすることが許されたのだ。
 今では国連軍監視領の中でさえ彼らは自在に行動している。
 PLOテロリストたちが自国領内で活動することを固く禁じているアラブ諸国だが、レ
 バノンの中ならオーケーというわけだ。
 これほど勝手なことがあるだろうか。
 PLOテロリストを最も強力に支持しているシリアさえ、自己領土内でのかれらの動き
 に目を光らせているし、PLOユニフォームを着ることさえ許していないのだ。
・サウジやクウェートは金は与えるが、決してPLOの活動を許していない。
 当たり前の話だ。
 もしPLOが彼らの国内で活動を開始したらイスラエルの攻撃にさらされるからだ。
・だからPLOには金をやって他国で何でも勝手なことをさせているのだ。
 他のアラブ諸国とても同じだ。
 彼らのうちで国内に大きな問題を抱えていない国は一国としてない。
 国民の不満が爆発寸前にある国ばかりだ。
 リビアしかり、シリアしかり、イラクしかり。
 その不満を解消させる最良の手段は国民の目を外に向けさせることだ。
 毛沢東、スターリン、ヒットラーなどが常に使ってきた手だ。
・だから彼ら支配者は常にジハド(聖戦)を口にする。
 イランなどは荒れだけの問題を抱えているにもかかわらず、つい最近までレバノンに義
 勇兵を派遣していた。 
 パキスタンやリビアも同じだ。
 自分の敷布をきれいにできないでジハドとは聞いてあきれるが、それがアラブだ。
・PLOは別として、シリア軍に代表されるアラブ・デターレント・フォース(アラブ平
 和維持軍)はサルキス大統領の指揮下にあるのではないか。
 少なくとも一般にはそう理解されているが?
・今年の4月だった。シリア軍がベイルートのキリスト教地区に猛攻撃を仕掛けた。
 あの時はさすがのサルキスも耐えかねたのか、シリア軍に対して砲撃中止を命じた。
 シリア軍は命令を聞くどころか、今度はサルキスめがけて撃ってきた。
 大統領官邸が砲撃にさらされたのだ。
 これでもシリア軍はサルキスの指揮下にあると言えるのかね。
 それからもうひとつ。あなたは今”アラブ・デターレント・フォース”と言ったが、
 そんなものはもはや存在していないのだ。
 一時期は確かにそれに似たようなものはあったがね。
 しかし、1978スーダン軍、サウジ軍、そしてアラブ首長国軍が撤退してからは、
 百パーセント、シリア軍だけになってしまった。
・1976年シリアがPLA(パレスチナ解放軍)の名のもとにレバノンに侵入した六カ
 月後、アラブ連盟はリアドで会議を開き、侵略行為を事後承認という形で認めた。
 そしてその行為に大義名分をつけるためにアラブ・デターレント・フォースなるものを
 作り上げた。 
・1976年の1月にシリア軍がレバノンに侵攻したとき、レバノンは内戦状態にあった。
 その内戦をストップさせるために、レバノン政府の要請によってシリア軍は介入した。
 だからシリア軍のレバノン侵攻は正当的と言えるのではないですか?
・それはシリアやPLOが世界に向けた放ったプロパガンダだ。
 それを世界は信じている。
 現にあなたも信じているような口ぶりだ。
 世界が彼らの言うことをいとも簡単に受け入れているということは驚きというほかはな
 い。 
 事実は全く違う。
 第一にレバノンに内戦などなかった。
 第二にレバノン政府内で誰一人としてシリアに介入要請をした事実はない。
・しかし、1975年から76年にかけて、確かにあなたの国は内戦状態にあったのでは
 ないか? 
・内戦とは、同じ国の民が二つ以上のグループに分かれて互いに戦うことだ。
 しかし、1975年に勃発した戦いはそのような性格のものではない。
 あのキッカケとなったのは、一部レバノン人キリスト教徒とPLOテロリストとの撃ち
 合いだった。
 それが急にPLOと左翼レバノン人グループ対キリスト教徒との争いにエスカレートし
 てしまったのだ。
 左翼レバノン人グループは、PLOの金によってバック・アップされていた。
 PLOはわれわれなどよりはるかに金がある。
 だから日本やドイツ、南米などからもテロリストを輸入できる。
 彼らの資金はそんじょそこらの小さな国家よりはるかに巨大だ。
 この資金力にものを言わせてPLOテロリストたちは、レバノンを血なまぐさい戦場と
 化するのに成功した。
 シリアにとってまたとないチャンスだった。
 歴史的にいってシリアは常にレバノン人をシリアの一部と考えており、”グレーター・
 シリア(大シリア圏)の野望を抱き続けてきた。
 だからシリアはレバノンに大使を置いたことはなかったし、外交関係の樹立も拒否して
 きたのだ。
・レバノンを活動基地として、対イスラエル工作をもくろむPLOテロリストと”グレー
 ター・シリア”の野望を抱くシリアは、その目的は違うが、レバノンを標的とした点で
 は同じだ。
・今日、レバノンの45パーセントはシリアのよって支配され、15パーセントはPLO
 テロリストたちによって占拠されてしまっている。
 現在のレバノン情勢を宗教上の争いと見る者もいるが、それも事実からほど遠い。
 たとえば、私の軍隊の60パーセントはイスラム教徒で、残りがキリスト教徒や他の宗
 教を信じている。私はクリスチャンだ。
 しかし、宗教上の問題など起こったことは一度もない。
 そんなことはあのホメイニのような気違いにまかせておけばいいのだ。
 少なくとも私と私の兵士はクリスチャンやイスラム教徒である前に自由なレバノン人な
 のだ。 
・国が弱いということは惨めなことだ。
 領土の60パーセント以上を占領されていても、何の効果的手段もうてない。
 ベイルートの識者は皆黙ってしまっている。
 PLOテロリストやシリアの恐怖政治がしみ込んでしまっているのだ。
・それにしても私に理解できないのは、なぜPLOのようなテロリスト無法集団があなた
 の国で多大な支持を得ているかだ。  
 彼らが一体レバノンで何をしているのか、日本人はわかっているのだろうか。
 レバノン国内に基地を作る権利などかれらにはないはずなのだ。
 日本でももし外国人が同じような振る舞いをしたら、あなた方はどうするのか。
 ただダメってみているとでも言うのか。
・レバノンの主権を踏みにじり、惨虐の限りを尽くしている彼らに、解放者となる資格な
 どない。 
 あなた方日本人は、いつも主権尊重を国連などで唱えているが、その日本人がわれわれ
 の主権を犯すPLOの殺人者たちに同情を示すのはなぜなのか。
・たぶんPLOはアンダードッグ(弱者)という印象が植えつけられているからでしょう?
・PLOがアンダードッグ?冗談ではない!
 彼らの持っている武器を見てみるがいい。ソ連製、チェコ製、中国製のライフル、大砲、
 カチューシャ・ロケット、戦車などわれわれのよりはるかに近代的なものばかりだ。
 われわれの武器は大部分がイスラエルからのものだが、イスラエルはアメリカとの約束
 上、われわれにアメリカ製の武器は渡せない。
 だから我々の遣っている武器はイスラエル製のライフルや、過去の戦争でイスラエル軍
 がアラブから奪った旧式のものばかりだ。
 他から買いたくてもわれわれに金はない。
・しかし、パレスチナ・アラブ人がステートレス・ピープル(国家のない人びと)という
 のは事実でしょう? 
 この単純な事実が、PLOへの同情となっていることは否定できないと思うが?
・それも全く違う。
 パレスチナ人たちには1946年以来、ちゃんとした国家があったし、今でもそれはあ
 る。
 ただひとつ言っておきたいのは、パレスチナ人とPLOとは同じでないということだ。
・永年アラブが宿敵としてきたイスラエルと同じ側に立って戦うことに、抵抗を感じませ
 んか? 
・まったく感じないね。
 我われレバノン人の敵はイスラエルではない。
 敵はPLOテロリストであり、シリア軍なのだ。
 少なくともイスラエルはわが国に対して領土的野心を持ったり、不法占領をしたことな
 ど一度たりともない。
・要はどのようなみ美辞麗句よりも実際の行動なのだ。
 アラブ諸国は口では立派なことを言うが、一体レバノンのために何をしてくれたのか。
 弱いわが国を戦場に仕立てて、後ろから煽るだけではないか。
 われわれはレバノン人とイスラエルは、偶然にも同じ敵に直面しているのだ。
 協力し合うのは当然のことだ。
・大切なのは、レバノン国民の90パーセントが心の中では私の行動を支持してくれてい
 るということだ。
・もしアメリカが現状を正確に把握しなければ、遅かれ早かれレバノンはソ連の手に落ち
 るだろう。
・現在アメリカはシリアと話し合おうとしているが、無駄骨に終わることはわかりきって
 いる。
 「ハフェズ・アサド」(シリア大統領)はサダトのように理性の通じる男ではない。
 しかも彼は今大きな国内問題を抱えている。
 蓄積した国民の不満を恐怖政治で押さえ、彼らの目をレバノンに向けさせることによっ
 て、危機を乗り切ろうとしているのだ。
 彼の恐怖政治について西側のメディアはまったく無知だ。
 つい最近も反アサド派の大量処刑があり、数個の村が焼打ちをくらい村人全員が虐殺さ
 れた。
 こういうニュースは西側には絶対に流れない。報道管制が徹底しているからね。
・唯一の解決策は、シリア軍とPLOテロリストたちが、レバノンから出ていくことだ。
 しかし、彼らも素直に出ていくわけはない。
 だから力で追い出すしかない。
 力だけが彼らの理解する唯一の言葉なのだ。
 レバノンに駐留する三万五千のシリア軍が敗北を喫すればアサドは一日としてもつまい。
 シリア国内にクーデターが起こるのは確実だ。
・少佐と会った二日後、PLOのカチューシャ・ロケット攻撃はクライマックスに達した。
 キリアット・シェモナとナハリアの町に三百発以上のカチューシャがぶち込まれ、死者
 三名、重傷者十一名、すべて非戦闘員だった。
・この攻撃に対する報復としてイスラエルはベイルートにあるPLO本部を爆撃した。
 死者三百名、負傷者八百名。
 1978年以来最大規模の爆撃だった。
 世界ニュース・メディアは、この爆撃を無謀ときめつけ声をそろえてイスラエルを非難
 した。
 しかし、PLO側のカチューシャ・ロケット攻撃によるイスラエル側の犠牲者はニュー
 スにもならない。
 またPLOが常にその基地を難民キャンプの真ん中に置いている事実すら報道されてい
 ない。
 今回のベイルート爆撃のターゲットとなったPLO本部はある高層ビルの三階と四回に
 あった。
 ほかの階はすべて非戦闘員の住むごく普通のアパートである。
 PLOを攻撃すれば当然非戦闘員をも巻き込んでしまう。
 国際世論はそれをイスラエルの暴挙と非難する。
・だからPLOにしてみれば、爆撃を受け多大な犠牲を払っても大きなプロパガンダ勝利
 を得ることになる。
 そして、イスラエルも彼らと同様に非戦闘員を殺しているとして彼ら自身のテロ行為を
 正当化する。実に巧みな戦術である。
・これに関してあるイスラエル軍将校にたずねると彼はきっぱりと言った。
 「我々にとっては国際世論がどう見るかよりもイスラエルの生存のほうが大事なのだ。
 あのベイルート爆撃を世界は非難するが、我々は同情されて死ぬよりも非難されながら
 も生き続ける道を選ぶ」  
・イスラエルでは二人の人間が政治の話をすると三つの意見が出て四つの問題の政党がで
 き上るほど国民の間に意見の相違がある。
 しかし、こと国家と民族の生存の問題となると一致団結する。
 老若男女を問わずひとり一人のイスラエル人が何が何でも生き残ってやるという自覚と
 執念を感じさせるのだ。 
 日本人とまったく正反対という印象を受ける。
 この意味でイスラエルにいる方が日本よりはるかに安全と言えるかもしれない。
 生存への自覚がない国ほど危険なものはないからだ。
・ユダヤ人は現実的な民族である。
 その長い歴史を通して彼らは常に現実に直面させられてきた。
 その現実とは六百万人の同胞が殺されたホロコーストであり、イスラエル国家を抹殺し
 ようとしている敵に囲まれている現実であり、三十三年の間に戦ってきた五つの戦争で
 ある。 
 糸度でも負けていたらイスラエル国家は間違いなく世界地図から消え去っていただろう。
 この厳しい現実を経験してきた民族は世界広しと言えどもユダヤ民族を除いてどこにも
 いない。
 この現実がすなわちイサー・ハレルやメイアー・アミットの言う”必要性”であった。
 
ウルフガング・ロッツ(諜報史上、永遠に輝くモサドの星)
・今日までの華々しいモサドの活動を語るときに絶対に欠かせない男が一人いる。
 1961年からの4年間エジプトのカイロで”テル・アビブの目”として数々の貴重な
 情報をもたらし、六日間戦争でのイスラエルの勝利に最も大きな貢献をした男だ。
・イサー・ハレルが元ナチス科学者たちに対して手紙爆弾を送りつけたとき、これら科学
 者たちのど真ん中にいて作戦全体を見届けたのが彼ならば、エジプト空軍基地やロケッ
 ト基地に入り込んで詳細安データをつかんだのも彼だった。 
・その男の名は「ウルフガング・ロッツ」、正式タイトルはもとイスラエル軍少佐。
 エリ・コーエンと並んで今日モサドの語り草となっている男である。
・CIAやKGBはもとより世界各国の諜報機関は、その存在そのものが国民から白い目
 で見られ、極端なケースでは嫌悪感さえ持たれている。
 しかし、モサドについては違う。
 イスラエル国内でのモサドに対する国民の信頼と尊敬は絶大だし、私の知る限りモサド
 を批判駅な目で見るイスラエル人は一人としていない。
・当然なことだよ。諜報活動はイスラエルにとっては大事な酸素管のようなものだ。
 これがなくなったら我々は死んでしまう。
 それを誰よりも知っているのが国民自身だからね。
 イスラエルのような小国は情報でそのガードをかためなければ生存の道はない。
 逆に情報戦で勝てれば必ず生き残れる。
 それをモサドは数々の実績で証明したのだ。
 モサドが不必要などという無智な人間はここにはいない。
・モサドの実績について、これまで知られている工作の中でイスラエルにとって最も重要
 な意味を持ったものはどれですか?
・私の考えでは三つあったと思う。
 第一:アイヒマン生け捕り作戦 
 第二:エンテベ空港での”オペレーション・ジョナサン”(エンテベ空港奇襲作戦)
 第三:イラク原子炉爆破
・六年前にフランスとイラクが原子炉建設を発表したとき、モサドは動きはじめた。
 原子炉が原爆をつくるためという情報を握るのにそう時間はかからなかった。
 発表から三年後の78年、イスラエル政府は、ジスカールデスタンとフランス外務省に
 対しイラクへの協力を断ち切るように要請した。 
 彼らは当初言った言葉を繰り返した。
 原子炉は平和利用が目的だから心配することはないと。
・これに対してイスラエル政府は、はっきりと言った。
 「あなた方の言うことは信用できない」とね。
 一国の政府が他国に対して投げつけるにしては強烈な言葉だ。
 しかし、イスラエルはその言葉をバック・アップするだけの情報を持っていたのだ。
 以来、ベギン首相は眠れる夜を過ごし続けた。
 広島や長崎を経験したあなた方日本人ならこの気持ちは十分わかるだろう。
 一日たつごとに原爆は完成に近づく。
 それを手に入れるサダム・フセインはノーベル平和賞に輝くような男ではない。
 権力を得るために多数の国民を殺し、自分の親友までも抹殺した男だ。
 そんな狂人が原爆を持ったらどうなるかは分析の必要はない。
・あの爆撃の後、ベギン首相が世界に向かって発表しようとしたとき、一部のイスラエル
 人はそれに反対だった。 
 イスラエルのやったことと公に認めるべきではないと彼らは主張したのだ。
 しかし、ベギン首相は発表した。
 我々は海賊ではないし、爆撃は道徳的に正当化されると信じていたからだ。
・しかし、あの原子炉は平和利用のためという契約者がフランスとイラクの間で交わされ
 ていたのは事実だし、関係書類はすべてウィーンの国際原子力委員会にも提出されてい
 たでしょう。 
 当時アメリカの国務長官だったバンスもその契約書は見せられていたと聞きますが?
・その通りさ。だからこそバンスは心配していたのだ。
 契約書や書類に書かれている事とまったく反対のことが行われていると彼が知っていた
 からだ。 
 なぜならCIAはすでに真実を握っており、それを彼に伝えていたのだ。
 昨年の十二月だったと思うが、アメリカの駐イスラエル大使サミュエル・ルイスがベギ
 ンにカーターからの公式書簡を渡した。
 その手紙の中でカーターはイラクが原爆を製造しようとしていることを確認しているの
 だ。
 長い間イスラエルはアメリカに対してそれを言ってきた。
 何とかしてくれるよう頼み続けてきたのだ。
・しかし、アメリカはなまぬるい返事を繰り返すだけで、結局何もしなかった。
 カーターはあの手紙をベギンに書いた時すでに選挙に敗れた後だった。
 だからあの手紙はイラクの原爆製造に対する彼の無力さを認めただけの意味しかなかっ
 た。
 あとはレーガンに頼めと言うわけだ。
 しかし、レーガンはそれをあまり重要事項として取り上げなかった。
 となると我々が自分の手で何とかするほかはなかった。
・原爆製造に関してフランスがまったく知らなかったということは考えられませんか?
・冗談じゃない。ジスカールデスタンはもちろん知っていたし、腐爛氏原子力委員会にト
 ップも知っていた。 
 それにあの原子炉で働いていたフランス人エンジニアや科学者たちも完全に事実を知っ
 ていた。
 さらにフランスのシークレット・サービス。彼らはその秘密を守らねばならない立場に
 あった。
 もしあのプロジェクトが漏れてしまったらフランスにとっては一大スキャンダルになっ
 ていたからだ。
・あの爆撃は国際法に違反しているという意見が圧倒的ですが?
・イラクはこの三十年間イスラエルの存在さえ認めていない。
 我われは今も戦争状態にある。
 敵同士なのだ。
 その敵が原爆を作って我々の破滅を目論んでいるというのに、国際法を引っ張り出して
 我々にお説教しようというのか。
 あの攻撃によって確かにイスラエルの評判は落ちたかもしれない。
 しかし、いかに評判が良くても死んでしまったら何の意味もない。
 やられた後、世界中から同情されるよりも、批判され責められても生き延びたいからね。
・アラブ諸国は反対に拍手をおくっているようですね?
・あのオペレーションに踏み切る前に当然アラブ諸国の反応は計算されていた。
 あの原爆のターゲットとなるのはもちろんイスラエルだが、他のアラブ諸国にとっても
 脅威であるのは確かだった。
 サダム・フセインのような狂人が、中東で最初の核保有者になるのを外のアラブ・リー
 ダーが歓迎するわけがない。 
 だからあの爆撃はホメイニやサダト、ハリドなどに対する贈り物だったとさえ思ってい
 る。
 もちろん表面的に彼らはそれを認めてはいないがね。
・あの「バビロン作戦」は、総括的諜報活動の典型的な例だった。
 大まかに分けるとあの作戦は二つの違ったレベルの諜報工作を必要としていた。
 ひとつは、フランスとイラクが原爆を製造しようとしているという確実な情報を得るこ
 と。
 ウラニウムを買い取る先をつかむだけでも意外に価値のある情報となるものだ。
・たとえばイラクはフランスからだけでなく、ニジェールやポルトガルからも買い取る契
 約をすませていた。 
 原子力発電所のためにそれだけ大量のウラニウムが必要だろうか。
・またパキスタンからイラクはいろいろな情報を得ることになっていた。
 パキスタンと言えば、現在原爆開発の最終段階にあり、中国がその開発に協力をしよう
 としている国だ。 
 平和利用だけが目的ならパキスタンの協力などないはずなのだ。
 第二レベルの諜報工作は原子炉そのものについての情報を集めることだった。
 どこをどのように攻撃したらもっとも効果的か。
 レーダーをどうかいくぐっていくか。
 ミサイルの射程距離からいかに逃れるか。
 対空砲射は何台でどのくらいの威力があるかなど、すべて正確をきわめた情報が集めら
 れた。
 空軍としては、これらの情報通りに動けばよかった。
・1965年2月、ウルフガング・ロッツと妻のウォルロードは、エジプト国家保安局に
 捕らえられた。 
 一カ月の公開裁判の後、ロッツは終身刑となり、ウォルトロード三年の懲役刑を言い渡
 された。
 今でもロッツはあの逮捕はモサド内部から何らかの形で情報が流された結果であると信
 じている。
・型通りの拷問を受けたが、ムチ打ちぐらいでそれほどつらいことではなかった。
 辛かったのはウォルトロードも拷問されているという事実を知った時だった。
 私の尋問が始まった時、となりの部屋から彼女の悲鳴が聞え始めたのだ。
 ムチ打ちでも女には堪えるものだが、彼女の場合は運悪く意地の悪い拷問官にかかって
 しまった。
 ムチ打ちだけではなく真っ裸にされて氷水の中に一時間も入れられたり、逆さ吊りにさ
 れたりしたらしい。
 私はまず考えたのはウォルロードを助けなければならないということだった。
・そこで取調べに協力したわけですね?
・協力ではなく協力するふりをしたのだ。
 まず私がイスラエルのスパイであるということは素直に認めた。
 しかし、妻は単にその事実を知っていただけでスパイ工作には直接関係はないと言い張
 った。 
 取調官はこの言い分を信じたようだった。
 少なくともウォルトロードに死刑の求刑はないと私は判断した。
 残るはわたし自身の首を救うことだった。
 しかし、いかに命が惜しいからと言ってすべてをはいてしまうわけにはいかない。
 イスラエル国家に与えるダメージは計り知れないほど大きい。
 この際できるかぎり少ない情報をはき出して相手を信じ込ませるのが唯一の手と考えた。
 小さな真実を大きなウソでかためてしまうのだ。
 幸い私の体内には女優だった母の血が流れていた。
 彼女から受け継いだ演技力がどれほどのものかテストするにこれほど絶好の機会はなか
 った。
・まず私はカバー・ストーリーに固執した。
 ドイツのマンハイムに生まれベルリンで少年期を過ごしたこと。
 戦争勃発と同時にロンメルのアフリカ軍団に加わりそのとき馬についての知識を得たこ
 と。 
 戦後はオーストラリアに渡りそこで十一年間調教師の仕事をした後、再びドイツに戻っ
 たことなど、モサドが用意したカバー通りの経歴を繰り返した。
 カバー・ストーリーからそれたのはただ一点、オーストラリアから帰ってドイツで調教
 師をしている時、モサドからアプローチされたということだけだった。
 モサドがオファーした金と豊かな生活に目がくらんでしまったと告白した。
 取調官は私にたずねた。
 誇り高き元ドイツ軍人でありながらユダヤ人の下で働くのに抵抗を感じなかったのかと。
 私はできるかぎり惨めそうな口調で答えた。
 「私は弱い人間です。金を見せつけられて躊躇さえしませんでした。それにも断ったら
 命を狙われると思いました。ユダヤ人というのは残酷ですからね。彼らのオファーを受
 けるのが最も安全だと思ったのです」と。
・エジプト側はその話を信用したんですか?
 信じるどころか私に同乗さえ示した。
 ユダヤ人に利用されたあわれなドイツ人と映んたのだろう。
 私の演技力も捨てたものではなかったと自分ながら感心したよ。
・尋問中モサドがあなたにコンタクトしようとしたことはなかったのですか?
・いかにモサドでもそれは不可能だろう。
 五カ月間続いた尋問は保安局の特別室でおこなわれ、それ間私は誰とも会うことを許さ
 れなかった。 
 警戒は厳重をきわめトイレに行くにも守衛が二人もついてきた。
 窓は前部鉄の扉で密閉されているため仲は常に電気がついており昼と夜との区別さえつ
 かない有様だった。
・しかし、私は何とかしてモサド本部に状況を知らせたかった。
 私がどれだけを話し、エジプト側がどれだけの情報を握っているか本部は知りたがって
 いるに違いないからだ。
・ある時、検事のナギーが私にある提案をした。
 エジプト国営テレビのインタビューに応じないかというのだ。
 そうすればきたるべき裁判でも、裁判官たちが私とウォルトロードに抱く心証が良くな
 ると彼は言った。
・ナギーがこのような提案をしてきたこと自体、私のカバー・ストーリーを未だエジプト
 側が信じている証拠だった。
 私は進んで受けた。
 エジプト国営テレビはモサドによってモニターされている。
 テレビに出ることによって何らかのヒントを彼らに伝えられるのではないかと私は思っ
 た。
・インタビューは予期した通りまったくのやらせだった。
 インタビュアーはナギー自身でその質問はそれまでの尋問で既に聞いていたことばかり
 だった。
 しかし、私はそれに百パーセント協力した。
 金に目がくらんでスパイとなったことを心から反省していること。
 エジプト国家と国民の寛容性を利用したのを後悔していること。
 取調官は非常に紳士的で拘置中何ひとつ不自由なく生活していることなど、できるかぎ
 りの真剣さをこめて語る私の言葉にナギーはいちいち満足そうにうなずいていた。
 インタビューの最後にナギーは何かドイツ国民に言いたいことはないかとたずねた。
 私はここがチャンスと思った。
 全神経を集中させてカメラを見つめながら私は語った。
 「イスラエルがエジプトでスパイ活動をしたいなら私のような正直なドイツ人ではなく、
 ユダヤ人を使うべきだ。もしあなた方ドイツ人の中にそのような仕事をオファーされた
 人がいるなら絶対に拒否するよう私は忠告する」と。
 私の演技に劣らず、となりにすわったウォルトロードも中々のものだった。
 私が話している間、彼女は泣いていたのだ。
 その泣き方があまりにもあわれをさそったのか翌日の新聞は一面に彼女のその姿を載せ
 たほどだ。
・このテレビ・インタビューは、エジプト政府を非常に喜ばせた。
 彼らが欲していた通りのことを私が言ったからだ。
 しかし、喜んでいたのはエジプト政府だけではなかった。
 モサド本部も同じだった。
 インタビューの最後で私がドイツ国民に語りかけた言葉によって、彼らは私のドイツ人
 としてのカバーはまだ見破られていないということを確信できたからだ。
 まだカバーさえ見破られていないのだから、エジプト側はそれほど重要な情報を私から
 得てはいないという分析が成り立つわけだ。
・モサドから見捨てられたという心境に陥ったことはありましたか?
・一度としてなかったね。
 モサドが我々を助けるためにあらゆることをしてくれると信じていた。
 イスラエル政府とモサドは私の期待を裏切らなかった。
 私が捕らわれてから二年後に起きた六日戦争でイスラエルはエジプト軍兵士約五千人と
 百人以上の幹部将校、九人の将軍を捕虜として捕らえた。
 エジプト側の捕虜となったイスラエル兵は十人の「フロッグマン」だけだった。
・これら十人の捕虜と五千人の兵士をまず交換する話がイスラエル側から持ち上がった。
 エジプト側はこれに応じる構えを見せた。
 しかし、フロッグマンたちはロッツ夫婦が釈放されないなら自分たちもイスラエルには
 帰らないと言い張った。
 そこでイスラエル政府は残りの幹部将校と九人の将軍を返す代わりに私とウォルトロー
 ドを欲しいとエジプト側に申し入れた。
 イスラエル政府は始めた私がイスラエル人であると認めたのだ。
 エジプト側にとっては十分にメリットのある取引だった。
・刑務所を出る時、中で知り合ったCIAやSISのエージェントたちはモサド・エージ
 ェントがうらやましいと口々に言っていた。 
 実際私自身モサドが私の釈放のためにつくした努力に対しては言葉がない。
 一人のエージェントのためにあらほど不利な取引をあえてするような諜報機関が世界の
 どこにあるだろうか。
・これはあのエリ・コーエンの奥さんも言っていた。
 彼は最後には処刑されたが、それをストップするためモサドはあらゆる手を尽くした。
 フランスのドゴールを引っ張り出してシリアに圧力をかけさせたり、ローマ法王やエリ
 ザベス女王までもエリの命乞いした。
 ドゴールの誓いなどは百万ドルの小切手とヘリコプター、ブルドーザー、大量の医薬品
 などでエリの命を買おうとさえした。
 みなモサドが後ろで糸を引いていたことだった。
・襟の奥さんはこれを誰よりもよく知っていた。
 だからあるジャーナリストに彼女の夫の死はそれだけの価値があったと思うかと聞かれ
 た時、彼女は超然と答えたものだった。
 「夫が死んでしまった今、そんなことを語るのは愚かなことです。他のどの国も決して
 できないようなことをやった事実です」と。
・エリ・コーエンもあなた同様拷問を受けたのでしょう?
・エジプト人はどちらかというと陽気で人なつこい柔和な性格を持っている。
 しかし、シリア人は陰気で猜疑心が強く最も残酷な民族として知られている。
 だから拷問するにしても白状させるためとか罰を与えるためではなく拷問のための拷問
 をする。  
 エリはありとあらゆる種類の拷問を受けたらしい。
 睾丸に電極を当てたり、手足の爪を一枚ずつはがしのなどはほんの手始めで、肛門をカ
 ミソリで切り開いてそこに熱い鉄の棒を突っ込んだり、目玉に何本もの針を差し込むな
 ど、そのバラエティの広さはナチ並みだった。
 一カ月の拷問が終わった時、腸の大部分は肛門から飛び出し、背中や胸につけられた切
 り傷からは内の肉がはみ出していたと聞いた。
 最終仕上げとして彼は素っ裸のまま人糞と尿の中に首までつかされた。
 それが三日間続いたというから、たとえ処刑されなくても傷口から毒が入っていずれは
 しんでいたろう。
・1968年2月、ウルフガング・ロッツと彼の妻ウォルトロードはテル・アビブに戻っ
 た。
 その後数年間、二人はテル・アビブ郊外に住居をかまえていたが、1971年ウォルト
 ロードが病死した。
 エジプトの刑務所での三年間が彼女の健康を著しく害したことは間違いない。
 三年間の刑務所生活がなかったら、今でもウォルトロードは生きていただろうとロッツ
 は信じている。

あとがき
・イスラエルがなにかドラマチックなことをやると必ず引き合いに出されるのがモサドで
 ある。
 結果としてモサドの名前は広く行き渡り、大部分の人がその存在については知っている。
 しかし、その実態となるとはほとんど知られていないのが実情だ。
 これはモサドの徹底した秘密主義に起因している。
・この超秘密主義がときにはモサドにとって大きなマイナスとなる場合がある。
 たとえば1973年8月ベイルート空港を飛び立った民間航空機がイスラエル空軍によ
 ってインターセプトされイスラエル領内に強制着陸させられた事件があった。
 その飛行機にPFLPのリーダー、「ジュージ・ハバッシ」が乗っているという軍諜報
 部からの情報に基づいた空軍の行動だった。
 しかし、乗客一人一人をチェックしてみるとハバッシはいなかった。
・イスラエル国内はもとより国際世論もこのハイジャック行為を非難した。
 そしてその非難はモサドに集中した。
 当然モサドがからんでいたと見られたからだ。
・実際のところモサドはこのハイジャックには無関係だったばかりでなく、反対の立場を
 とっていた。  
 ハバッシが乗っていないという情報を彼らは確実なソースから得ていたからだ。
 しかし、軍諜報部は乗っていると信じていた。
 そして、当時の国防大臣「モシェ・ダヤン」は軍諜報部を信じ、ハイジャックの命令を
 下してしまったのである。
 この事実は説明されなかったし、モサドも何の弁解もしなかった。
・昨年フランスで殺されたエジプト人の原子力科学者の場合もそうだった。
 イラク原子炉のプロジェクト・チームの一員として彼は働いていたが、昨年の六月パリ
 で死体となって発見された。 
 これを世論はモサドの仕業だときめつけた。
 しかし、モサドのやり方を知る者ならそうでないことは一目瞭然であった。
 死因は殴殺だったからだ。
 モサドのヒット・チームなら決して使わない手段であるし、屍体を血の海に残したまま
 というようなこともまずしない。
 もっときれいな殺し方をするし、だいいち証拠の死体さえ残差なのが彼らの常陽手段だ。
・しかし、この時もモサドは国際世論の集中砲火に遭いながらも一言も弁解しなかった。
 彼らから見れば、どんな弁解じみた言葉も所詮はPR活動に過ぎないし、絶対的なタブ
 ーと考えているからだ。