太陽の馬(上・下) :落合信彦

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ソ連邦の崩壊と社会主義 ロシア革命100年を前に [ 村岡到 ]
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この小説の時代背景は、1978年代から1991年代にかけてのイラン革命やソ連邦崩
壊の時代が中心となっている。この時代は、世界に地殻変動が起きたとも言える時代であ
り、だれもが予想しえなかったような激変が起きた時代であった。そんな時代を、元ヤク
ザの親分に養子として育てられた東大卒の天才といえる商社マンが、大活躍する物語であ
る。
世界を相手にする商社マンの目からみた、イラン革命の状況やソ連邦崩壊の状況を、垣間
見たかのようで、あまり世界とは関わらない普通の人間にとっては、とても興味深いない
ようとなっている。
しかし、この小説の表現が全体的に、普通の人間からすると、とても「マッチョ」で、ま
るでヤクザの世界のような「義理と人情」の世界を想起させられてしまう。作者は、若い
とき柔道をやっていたらしく、奨学金でアメリカ留学の経験もあり、CIAにたくさんの
知り合いがいると豪語し、数々の武勇伝も周囲に語っていたようであるから、作者自身が
そういう世界が好きなんだろう。しかし普通の人は、ちょっと違和感を持つ人が多いので
はないだろうかと思った。 
エンターテインメント小説として楽しめるが、“世の中で1パーセント”だけという超エリ
―トの働きを、“小市民”と表現した一般の人々に得意げに語っているような内容で、小市
民の私にとっては、精神的に感動をおぼえるというような内容は少なかったように思った。

1991年秋
・偽証罪なら毎日政治家が犯しているし、外為法違反など経済がボーダレスになった今の
 時代に、いちいち適用していたらビジネス活動などできなくなる。
・四年前、事件が発覚したとき、飯島は社長の座を目前にしながら副社長を辞任し、平の
 取締役となった。そのポストも、裁判が開始されたとき、取締役会の要請で降りた。し
 かし、裁判が決着してから、徐々に元のポストに戻すという約束があることを、矢島は
 いつか飯島から聞いたことがある。
・「飯島さんあっての帝商物産だったんだ。まだ六十歳だし、必ず会社が、再びあの人を
 必要とするときがくるに違いないんだ」と山岡は言った。山岡はまだ四十歳にすぎない
 が、帝商物産始まって以来最年少の取締役としてその名を連ね、いずれは会社を背負っ
 て立つ男と誰もが認めている逸材だった。 
・「飯島さんは、あんたが生まれるずっと前から商社マンとして世界中を駆け回ってきた。
 日本株式会社の先兵として、あらゆる苦汁をなめてきた。1ドル360円を100円台
 にまでして日本を経済大国にしたのは、彼のような人間だったんだ。そのおかげで、今
 の日本は平和と繁栄に浸っていられる。そして、あんたのような人間が、茶の間の正義
 を振り回していられるんだよ」と二十八歳だという若い記者に矢島は一気にまくし立て
 て、その記者に背を向けた。若い記者はポカンとした表情で、去って行く矢島を見つけ
 ていた。 
・あの頃、飯島は東京本社の機械部本部長だった。いずれは高齢化する社会において、医
 療分野は自然成長の巨大なマーケットを作り出す。飯島は、上層部と激論の末、自らの
 首を賭けると見得を切って交渉に入った。それでも上層部は、何かとちょっかいを出し
 続けた。 
・山王下にあるマンションの十畳ほどのワン・ルームの一室は、家具は小さな机と椅子が
 ひとつだけ。電話はなかった。異様だったのは、床に張りめぐらされたミニチュアの線
 路だった。ふと机の上に置かれた小さな額の入った写真が目に入った。カップルの間に
 男の子がひとり写っていた。少々若いが、カップルは間違いなく飯島夫婦だった。とい
 うことは、間にいる男の子は夫婦の息子かもしれない。しかし、飯島には子供はいない
 はずだった。 
・それは、飯島がアルゼンチンのブエノスアイレス支社長をしていたときに起こった出来
 事だった。1953年に帝商物産に入社後、その卓越した商才と語学力で彼は順調に昇
 進を続け、7年後にはブエノスアイレス支社長を命じられた。しかし、支社長といって
 も日本人は彼ひとりで、あとは現地採用の秘書がひとりと使い走りの若者がひとりいる
 だけの、ごく小規模なものだった。それでも、飯島は喜んで支社長のポストを受けた。
 当時の日本政府は、国家の最優先方針として輸出重視策をかかげていた。飯島のような
 やり手のビジネスマンはみな、国家の繁栄と生存を保障するのは自分たちなのだという
 自負心と使命感に燃えていた。
・飯島は、早速アルゼンチン政府とネゴに入った。彼のやり方は執拗だった。アメリカや
 ドイツの企業も入札を目指していたが、彼らのやり方はごくストレートだった。書類を
 提出し、ビジネス・アワーに役所に出頭し、実績を提示し、いかに自分たちの会社が優
 秀であるかをアピールする。  
・しかし、飯島の手法は違った。担当の官僚や政治家にアプローチし、彼らを食事に招き、
 日本製のトランジスタ・ラジオや時計をばらまき、必要とあれば多少の金も与えた。事
 前の調査から、アルゼンチンのような開発途上国では、ストレートなやり方では決して
 成功しないことを知っていたからだ。
・この手法が実を結び、落札条件についてのアルゼンチン政府方の情報は飯島に筒抜けと
 なり、帝商物産は初の大型プロジャクトの落札に成功した。  
・落札に成功した日、飯島は二人の社員を伴って、ブエノスアイレスの中華料理店で祝宴
 を持った。食事を終えて、飯島は天にも昇る気持ちで自宅のアパートに戻ったとき、管
 理人が彼に声をかけて封書を渡した。日本からの電報だった。
・いやな予感がした封を開けた。「ユウイチロー、コウツウジコ、キトク」差出人は妻の
 民江だった。飛んで帰りたい思いに駈られた。しかし、飛行機を乗り継いでも、プロペ
 ラ機では日本に着くのに48時間以上はかかる。とうてい間に合わないだろう。
・その夜彼はひと晩ベッドのなかで泣き続けた。ひとりの人間として、そして人の子の父
 として。  
・飯島はあの山王下のマンションの部屋を借りて、わずか5歳で死んだ息子が好きだった
 ミニチュアの汽車のセットを置いて、週にかならず一度は行って彼と遊んでいたのだっ
 た。

・赤坂の料亭川島では、料理が次々と運ばれてきた。器はすべて魯山人で統一されている。
 「昔ここに初めて来たとき、外国人客と一緒だったんだが、雰囲気を和らげようと思っ
 てオレは演歌を歌った。箸で皿をたたきながら拍子をとった。そばにいた女将や仲居は
 驚愕の表情で我々を見た。後であれはすべてものすごく貴重な魯山人で、刺身用の大皿
 は8百万円から1千万円もすると言われ、思わず体が震えたよ」と山岡は矢島に言った。
・山岡は矢島より年上で、14年前矢島が帝商物産に入ったとき、すでに繊維部で最も仕
 事できる男と評されていた。矢島は、入社からずっと飯島率いる機械部にいたため、山
 岡と会ったのは在社中わずか、5、6度しかなかった。しかし、会う回数こそ少ないが、
 山岡にとって矢島はある意味で恩人でもあった。

・アームコ社は、数年前に矢島が買収して、彼のコングロマットの傘下に組み込んだが、
 50年の歴史を持つにしては今ひとつ経営はおもわしくなかった。アームコ社が扱って
 いるのは、三国間取引で、アメリカのメーカーとは全く取引がなかった。武器輸出に力
 を入れている合衆国政府にとって、アームコ社のやり方は当然気に入らない。横ヤリを
 入れてくるのは時間の問題だった。合衆国政府を相手に裁判をしてもそれほど勝ち目は
 ない。だいいち膨大な時間がかかる。ならば、最高の値段で売却できるときに手放して
 しまったほうが、はるかにメリットがある。  
・ハミクラトフは、チェチェン・マフィアのリーダーで、アームコ社のチェチェン共和国
 の卸元だった。3年ほど前から、彼はチェチェン、オセチア、グルジアなどに駐留する
 ソ連軍の司令官たちを抱え込んで、膨大な量の武器や兵器を手に入れ、武器マフィアの
 地位を確立した。 
・ハミクラトフは、武器取引後に残金を支払わないドイツ人に対して、自ら乗り込んで行
 って彼の首を切断し、家をダイナマイトで爆破し、若い妻に注射を射って眠らせてから
 国外に連れ出して、アゼルバイジャンの売春宿に売り飛ばしてしまった。 
・武器に手を染めれば、そういう連中と渡り合っていかねばならないのだ。山岡がいくら
 優秀なビジネスマンでも、畑がまったく違う。これまでゴルフをやってきた人間が、急
 にボクシングのリングに入り込んで行くようなものだ。 
・矢島は心の中でほくそ笑んでいた。相手は完全に引っかかった。お先真っ暗な会社が、
 10億ドルをもたらしてくれるのだ。これもオヤジを粗末に扱った報いだ。山岡の首は
 飛ぶだろうが、他の役員たちも当然退陣に追い込まれる。「新会社の社長になるのが飯
 島さんなんだ」と山岡が言った。矢島の顔から血の気が引いた。
・今から11年前、日本中をゆるがしたダクラス・グラマン事件の裁判で、日商岩井の副
 社長だった海部八郎が有罪となった。罪状は、奇しくも飯島と同じ議院証言法違反と外
 為法違反だった。二人とも私生活が質素で、事件で動いた金の1円たりとも自分のふと
 ころには入れなかったという点も共通していた。  
・飯島は、社内での矢島の評判をよく知っていた。としてこう言った。「わが社で本当に
 仕事ができる人間は、1パーセントしかいない。日本全土でも、切れ者のビジネスマン
 は1パーセントなんだ。君はその1パーセントに入っている。他人の言うことなど気に
 するな。君が死んでも、世間の奴らはどうとも思いやしない。いくらぐらいの生命保険
 に入っていたんだろうと酒の肴に話すぐらいが関の山だ。だから、自分の評価は自分で
 行うんだ。仕事で成功すればするほど、自分で自分に対する評価を高くできるんだ」

・リード家は、ボストンの名家のひとつで、初めてメイフラワー号に乗って新天地にやっ
 てきた、俗に言う”ボストン・フォー。ハンドレッド”のひとりの末裔と言われている。
 そのリード家の長女シャーリーンとは、確かに何度かデートしたことがあった。しかし、
 矢島は結婚など考えてもいなかった。ところがシャーリーンのほうは、矢島と一緒にな
 るとひとりで決めていた。金持ちの家に育った女にありがちな、自分の気に入ったもの
 は何でも手に入れなければ気が済まないタイプの女だった。 
・「そういうタイプのは、君のような猛烈ビジネスマンの女房には向かんな。彼女のよう
 なタイプは、いずれ必ず言い出す。”仕事と私とどっちが大事なの”とね。それが続い
 て、結局は破局ということになる」と飯島は矢島に言った。
・実際、飯島がいなかったら、今の自分はなかったと言っても過言ではない。自分の人生
 を決定づけてくれた人間のひとりが飯島だった。そしてもうひとりいた。育ての親で、
 日本最後の侠客と自他ともに認めた松林組組長、松林善三・・・。
 
帰らざる日々
・井上政五郎というのが彼の本名だが、今でも誰も彼をその名で呼ぶ者はいない。組の中
 では”若頭”、世間一般では”狂犬の政”で通っていた。まだ40歳だが、年よりずっ
 とふけて見える。矢島が物心ついた頃から井上は松林組の組員だった。その頃の松林組
 は2百人の組員と50人の準構成員から成り、渋谷、品川、六本木などにかけて一大勢
 力を誇っていた。井上が組の中で頭角を現わした理由は、その腕っぷしの強さからだっ
 た。恐怖心というものを見せたことがなかった。井上はもともと相撲取りを目指してい
 た。しかし、生来の気性の荒っぽさが災いして、あるとき稽古中に兄弟子を殴って半殺
 しの目に遭わせて破門されてしまった。そお彼を拾ったのが松林だった。
・その後、時代は急激に移り変わり、渡世の世界も変わった。麻薬、売春、恐喝などを収
 入減とする新興勢力は金にまかせて力をのばし、松林組の勢力圏を徐々にくずしていっ
 た。金は力なりといもう理論は、政治の世界だけではなくヤクザ世界にも確実に浸透して
 いた。もはや任侠道もへったくれもなかった。 
・5年前、松林が脳溢血で倒れたとき状況はされに悪化した。今では寝たきりの松林善三
 が抱える組員は15人ほどしかいない。矢島が組長代行で、井上が若頭として組を仕切
 っていた。   
・真田は飯島と同じ大学で、入社も同期だった。今では彼が人事部長、飯島が機械本部長
 となって飯島の方がエリート・コースを歩んでいたが、二人の親しい関係は昔と少しも
 変っていなかった。 

・3年前に起きた第一次オイル・ショックは、日本の景気を直撃した。企業は人を雇わな
 くなり、優秀な学生は選り取り見取りの買い手市場だった。しかし、日本の経済の底力
 を見せつけるように、ここにきて景気は急激に回復した。当然、今まで雇用を控えてい
 た企業は遅れを取り戻すため、積極的に人集めを始める。結果として売り手市場となり、
 優秀であろうがなかろうが、新卒なら引く手あまたという現象が生じてしまった。
・16年前、ブエノスアイレスの支社長として現地に赴任したとき、彼は妻民江と5歳だ
 ったひとり息子を東京に残して行った。赴任から6カ月後、息子が交通事故で死んだ。
 その後、妻の民江からの手紙で気も狂わんばかりに動転した彼女を助けて、葬儀から事
 故を起こした相手との交渉までのすべてを仕切ってくれたのが、同じ町に住む松林善三
 という人だと知らされた。  
・松林善三が松林組というヤクザ組織の組長であることを知ったのは、そのときだった。
 ごっつい人相をした若い連中を見て、飯島は心の中で警戒心が湧かなかったと言えばウ
 ソになる。いくら家族の世話をしてくれたと言っても、所詮はヤクザだ。気をつけるに
 越したことはない。 
・しかし、松林と会って話をしているうちに、飯島は自らを恥かしく感じた。その人柄は、
 飯島の考えるヤクザのそれとは似ても似つかぬものだったからだ。
・世話になった御礼として、飯島はいくらかの金を包んで松林の前に差し出した。松林は
 それを丁重に押し返して言った。「飯島さん、真の任侠はまずかたぎの人には迷惑をか
 けない。そして、もしかたぎの人を助ける機会に恵まれたら、己を捨てて手を差しのべ
 る。そこには損得の勘定は、決してあってはならない。それが私の任侠としての信条で
 す」 
・松林が矢島健二の就職について依頼の電話をしてきたとき、飯島はあたかも昨日別れた
 友人に対するようなスムーズさで話をすることができた。今考えると、あの13年前、
 松林がいつか自分に何か頼むことがあるかもしれないと言ったとき、すでに彼はこの日
 を予期していたかもしれない。それにしても、あの謙虚な松林が”われわれとは出来が
 違う”と自慢する矢島健二とはどんな若者なのだろうか。ぜひ会ってみたいものだ。

・矢島は改めて夕子を見た。8カ月前アメリカ留学に発ったとき、彼女は高校を出たばか
 りの小娘だった。しかし、今、目の前にいる彼女は、どこか洗練された落ち着きのよう
 なものを持っている。言葉遣いや身のこなしも、以前とは雲泥の差だ。矢島の視線に気
 づいて、夕子は照れ笑いを見せながらかすかに頬を赤らめた。  
・松林は顔をほころばせながら、二人のやりとりを聞いていた。こうして二人を見ると、
 兄妹にも見えるし、理想的なカップルにも見える。二人とも、よくここまで育ってくれ
 たものだ。 
・15年前矢島を引き取ったとき、彼はまだ7歳だった。やせこけて、目だけがぎらつい
 て狼を思わせるような子供だった。あるとき、学校から帰ってきて矢島は自室に閉じこ
 もって泣いていた。学校で他の生徒からもらいっ子とか親無し子と言われて相手のケン
 カしたのだが、中に入った先生が矢島を悪者と決めつけたという。それが悔しくて泣い
 たのだった。そのとき、そばに夕子が矢島の肩に手を置いて言った。「建ちゃん、泣か
 ないで、建ちゃんは強い男じゃない。大きくなったら、あたしのお婿さんになるんでし
 ょう」夕子が7歳、矢島が10歳のときだった。 
・「女遊びは、どんな男でも一生に一度はかかる病気みたいなものだ。そういう病気は若
 いうちにかかっておいた方がいい。そうすれば免疫ができるからな」と若林は言った。
・矢島の母は彼がまだ1歳のとき、病気がもとで他界したと彼は聞かされていた。以後父
 親の手で育てられたのだが、その父も彼が7歳のとき突然姿を消してしまった。当時よ
 く言われた蒸発というやつである。  
・家庭のぬくもりや母親の愛情など経験したことがなかった健二少年は、松林家に引き取
 られたとき彼なりの戸惑いを感じた。そんな彼を常になぐさめ、勇気づけてくれたのが
 松林の妻の豊子だった。しかし、きびしくもあった。健二に対する接し方は、実の子供
 である夕子に対するそれと全く変わらなかった。 
・小学校5年のとき、健二が学友とともに本屋で万引きを働いて警察に補導されたとき、
 豊子は本屋の主人の前に土下座して涙を流しながら主人に許しを乞うた。その姿を見て、
 健二は動転すると同時に自分が犯した罪の大きさを悟った。
・健二は豊子をお母さんと呼ぶことはなかった。組の若い衆にならって、おかみさんと呼
 んでいた。しかし、呼び方などどうでもよかった。彼女は、健二が生まれて初めて真に
 心を開き、頼りにできた人間だった。その彼女は、健二が13歳のとき肝臓癌で他界し
 た。  

・「お前は、赤坂の帝商物産で入社試験を受けてパスする。そして、まともな社会人とし
 て働くんだ」「商社マンとは誇り高い地位だ。何しろお国のために働けるんだからな。
 この国は貿易無しでは生きていけない。貿易は国家の生命線だ。その生命線を守る尖兵
 が商社マンなんだ」と松林は健二に言った。
・金は力なりのヤクザ世界で任侠道ひと筋に生きる松林は、一応それなりに扱われてはい
 たが、裏では馬鹿で融通のきかないドン・キホーテと揶揄されていた。  
・帝商物産の面接で、菅野常務から「君は、組織には向いていないようだね」と言われた
 とき、矢島は「徒党を組むのは嫌いですから。もちろんあなた方は、徒党じゃなくチー
 ムワークと言うでしょうが」と言い返した。さらに「常務とは言っても所詮はサラリー
 マンだ。組織から離れたらただの人でしかない」と言った。常務の菅野は怒り心頭に発
 した。 
・松林が言った言葉が健二の脳裡をよぎった。”わざと落ちるようなことをしたら、お前
 は男として失格だぞ”矢島は突然椅子から立ち上がった。前方にいる5人に向かって深
 々と頭を下げた。「これまでの無礼をどうかお許しください。僕はどうしても帝商物産
 に入りたいのです。どうかよろしくお願いします」 
・矢島のもとに帝商物産人事部から採用内定の通知が届いた。松林善三と夕子の通知書を
 見せたときの喜びようといったらなかった。 
・「松林組は解散する。これからは新しい分野での仕事をすることになる。株式会社とし
 て、お前たちひとりひとりが株主となる。仕事は運送業だ。トラックを何台か買い入れ
 る金ぐらいはある。仕事が変わるからといって、もはや任侠道は関係ないと思ったら大
 間違いだ。それどころか、これからがお前たちの男が試されるのだ」と松林は組員たち
 に言った。

・矢島を面接した5人の中で、彼の採用を最後まで反対したのは菅野だけだった。彼が調
 査に固執した裏には、何とか矢島の汚点を見つけ出して、それを理由に内定を取り消し
 てしまおうという魂胆があることを人事部長の真田は知っていた。しかし、試験の結果
 がダントツのトップで飯島が保証人とくれば、調査が少しぐらいの問題が出てきたとし
 ても大したことではないと真田はタカをくくっていた。 
・菅野の腹の中は見え見えだった。営業のエースである飯島は社長の辻に目をかかられて
 おり、近々取締役への昇進が確実視されている。ここはひとつ、機先を制して飯島をた
 たいておいたほうがよい。いかに社長でも、飯島がヤクザの保証人になっていると聞か
 されれば考えが変わるはずだ。 
・何という男なのだと真田は思った。たった今、社会への門出のドアが閉じられたという
 のに飯島の飯島のことを心配している。面接のとき肝っ玉がすわっているという感じは
 していたが、他人に対する思いやりがおれほどあるとは思ってもいなかった。こういう
 男こそ、これからの帝商には絶対に必要なのだ。 
・矢島のような若者もいるのだ。最悪の知らせを聞いても抗議ひとつせず、パニックめい
 た言葉も吐かない。終始冷静で礼節を貫いた。これから入社してくる新入社員20人集
 めたよりも、矢島ひとりのほうがはるかに社にとってはメリットになるはずなのに・・。
・真田の頭の中で何かが爆発した。菅野のような人間の下に仕えている自分が情けなかっ
 た。「常務、不思議なものですねぇ。いくつになっても男になれない人間もいると思え
 ば、矢島のように若くて男の本質を持っている者もいるんですからね。男というのは年
 じゃないですね」  
・「松林組は小さいとは言え暴力団です。うちは伝統もあるし、押しも押されるまともな
 会社です。暴力団組員を入れるわけにはいきません。ですからお断りしたのです。ちな
 みに、矢島君の実父は前科があり、矢島君が9歳のとき獄中で亡くなっています」と常
 務の菅野は社長の辻に言った。 
・辻は飯島の性格をよく知っていた。ことビジネスにかけては冷酷無比に徹し、平気でう
 しろから相手の股間を蹴るようなことをする飯島である。その彼に”恩義”を感じさせ
 るほどの男はそうざらにはいない。 
・「父親は健二が7歳のとき、過失致死で懲役刑を言い渡されました。渋谷の盛り場でチ
 ンピラのケンカに仲裁に入ったのですが、逆にチンピラのひとりがナイフで彼につっか
 かったのです。そのナイフをとろうとしてもつれ合っているうちにはずみでナイフが相
 手の腹に刺さってしまった」と松林は言った。
・社長の辻は松林を好きになり始めていた。今どきのヤクザは世渡りがうまいのが多いが、
 この男は武骨というより愚直そのもといった感じだ。にもかかわらず子分がいて、一家
 を張っているのは、とりもなおさず何か人を魅きつけるものを持っているからだろう。
・辻はますます松林が気に入ってきた。人のために懸命に弁解するが、自分のための弁解
 は一切しない。こういう男はそうざらにはいない。絶滅の危機に瀕した貴重な人種と言
 える。このような人物に育てられた青年なら、人間として決して悪くはないはずだ。
・しかし、いくら個人的にはそう思っても、一度決めたことを簡単にくつがえすわけには
 いかない。そんなことをすれば、人事担当常務の菅野のメンツは丸つぶれになるし、そ
 れが連鎖反応を起こして他の役員たちにも悪影響を与えかねない。    
・社長の辻が席を立って松林に近づいてきた。片手を彼の肩に置いた。松林は辻を見上げ
 た。彼が驚いたことに辻の目が涙でうるんでいた。

・「これからは円高必至です。日本企業がこれだけ競争力をつけてきたら、投機筋が黙っ
 てません。それに、アメリカの貿易赤字はこれから雪ダルマ式にふくらみます。そうな
 ったらアメリカ政府は赤字削減のため、なりふりかまわぬ挙に出るでしょう。円高黙認
 発言が政府高官の口から出てもおかしくない時代になります」と飯島は言った。
・辻が社長の座を退いて会長になってから、すでに3カ月が経っていた。後任として、そ
 れまで副社長であった大田真一が継いだ。辻は退くとき菅野常務を専務に引き上げ、同
 時の彼を最もきびしいと植われる燃料部門の総責任者とした。この人事は社内でかなり
 の反響を呼んだ。総務畑ひと筋に歩いてきた菅野は原油、石炭、ウランなどのついては
 ずぶの素人であったからだ。   
・「菅野君は君も知っている通り、ねちっこい性格を持っている。およそトップにはなり
 得ない。しかし、今のわが社の役員は小市民ばかりだ。当たりさわりのないことさえし
 ていれば安全と思っている連中ばかりだ。だから菅野君がこのまま行けば、わが社のト
 ップになる可能性は十分にある。そうなったらわが帝商は、小市民の群団がトップを占
 めることになる。私は別に小市民が悪いと言っているのではない。彼らの生き方は尊重
 する。ささやかな幸せ、ささやかな家庭。それでいい。しかし、そんな連中が企業を代
 表したら、その企業は必ずつぶれる。そういう連中は会社よりも自分の出世、社会より
 も自分の家庭だけを考える。そういう考えを持った連中は、社会の低層にいるよう運命
 づけられているのだ。彼らがトップになったら、みなが不幸になる。菅野は小市民の代
 表と私は考えている。だから彼を専務にしたんだ」「あいつをあのまま引退に追い込むこ
 ともできた。しかし、それではあんまり奴が可哀そうだった。どうせ辞めさせるなら専
 務の肩書きで送ってやりたい」と辻は飯島に言った。 
・「無駄に敵を作る必要はない。あいつはねちっこいし、性格も曲がっている。どんな恨
 みを会社に持たないとも限らない。それより専務の肩書きを最後に勇退に追い込んだほ
 うがいい。すべて丸くおさまる。ああいう小市民的な男は、メンツや誇りだけは重んじ
 るからね。どうせ彼の能力からして燃料部は務まらん。大きなミスを犯すに決まってい
 る。そのときは・・・」と辻は飯島に言った。 
・「大きな敵は、メンツもヘッタクレも関係なく完膚無きまでにたたいてもかまわない。
 しかし、小さな人物はたたいてもいいが、メンツや誇りだけは奪ってはいけない。それ
 が実行できたら、君は一流の経営者になれるよ」と辻は飯島に言った。
・飯島が初めてタイベリアスに会ったのは、1年前、彼が支社長として赴任してきた直後
 だった。それにしても若かった。丁度、矢島の入社面接に立ち会った頃だったが、矢島
 よりもせいぜい1歳か2歳ぐらい年上にしか見えない。いくら機会均等主義と重視する
 イスラエル社会でも、それほどの若さで極東支社長に抜擢されるのだろうか。よほど優
 秀か、よほど強力なコネがなければ不可能なことだが、コネだけで得られるポストでは
 ない。

・月に多いときには3度、最低1度は会うが、そのたびに飯島が印象づけられたのは、タ
 イベリアスの国際情勢についての深い知識だった。国際情勢や経済についての知識あ情
 報の第一人者と自任する飯島ですら、たびたび脱帽するほどタイベリアスの知識は高度
 だった。   

・1973年の第一次オイル・ショックは、日本政府に、メジャーに頼ることがいかに危
 険かを悟らせた。以来政府は産油国との直接取引きを奨励すると同時に、できる限りの
 油のソースを拡散する政策を推し進めてきた。 
・帝商物産は辻社長がエネルギー問題に消極的だったため、このレースに乗り遅れた。金
 さえ出せば石油などいくらでも買えるというのが辻の持論だった。しかし、燃料部担当
 者たちは違った意見を持っていた。彼らは辻に進言したが、辻は頑強に拒否し続けた。
・来たなと矢島は思った。発展途上国の役人たちがよく使う手だ。できるだけ多額のワイ
 ロをとるために、バラ色の将来を描いてみせる。しかし、それは所詮、単なる言葉でし
 かない。いつまで権力機構の中にとどまっているかわからない。一寸先は闇の状態の中
 で、甘言に乗せられて誤った選択をした外国企業について、矢島はいやというほど飯島
 から聞いていた。
・入社以来、飯島は直接自分で矢島を指導してきた。普通新入社員は3カ月の研修期間が
 与えられるが、飯島はいきなり矢島を実戦に投入した。シンガポールでの工作機械売り
 込みに彼を連れて行き、見ている前で矢島にネゴをさせたのである。相手は華僑のビジ
 ネスマンだっただ、矢島は一応のスムーズさで取引きを成功させた。
・「ハード・ターゲットを落とすには、小手先の商品知識やおざなりのプレゼンテーショ
 ンではまず無理だ。人並み以上の説得力はもちろんのこと、プラスアルファが要求され
 るんだ。君の人格さ。ハード・ターゲットを相手にするときは、特定の商品を買っても
 らったり、売ってもらったりするんじゃない。君自身のパーソナリティそのものを、売
 り買いするわけだ」と飯島は言った。

・松林善三が苦しみもがく姿が矢島の脳裡に浮かんだ。今までの人生で見た、最もつらい
 光景だった。最期の日の朝、彼が意識不明の状態に陥ったときは、不思議な安堵感さえ
 感じたものだ。再び意識が戻ることなく街林はその日の夕刻息を引き取った。
・組員たちは、みな泣いた。矢島も心の底から涙を流した。そんな中で夕子だけは、特別
 な感情を見せなかった。「枕辺にきちんと両手をついて、彼女が松林の死に顔に語りか
 けた。「お父さん、今日までごくろうさまでした。ほんとうにいろいろありがとう。わ
 たしたちみな一生懸命がんばるから何も心配しないでね」夕子が一番つらかったに違い
 なかった。      
・その晩、通夜が行われた。途中で夕子が席をはずした。あまり長く戻ってこなかったの
 で、心配した矢島が夕子の部屋に行った。ドアに近づいたとき、中からすすり泣く声が
 聞こえた。矢島はそっとその場を離れて通夜の席に戻った。それから間もなくして、夕
 子は何事もなかった様子で戻ってきて、みなに酒を注いでまわった。さすが松林の娘だ。
 堅忍不抜の精神力を持っていると、矢島は心から感嘆せずにはいられなかった。
・葬式は行われなかった。生前から松林が禁じていたためだった。葬式をすれば、義理で
 も知人や友人が来る。そんな迷惑をかけてはならないという松林らしい考え方だった。
 あとに残った者たちに対する気配りも、彼は忘れなかった。家は、個人名義から井上が
 率いる新会社名義に切り換えられていた。矢島には大学卒業までの生活費が残され、夕
 子にはアメリカの大学を卒業するまでの金が残されていた。 
・松林の死から5カ月後、夕子はアメリカの大学に戻った。その7カ月後、矢島は帝商物
 産で新入社員として働き始めた。  

・夕子はジーッとスカルピーニの横顔を見つけていた。矢島健二にどこか似ていると思っ
 た。外観は違うが、そおプレゼンスが発散するエネルギーのようなものがそっくりなの
 だ。それに何かを求めているような動物的なまさんざし・・・。夕子の視線に気づいた
 スカルピーニが彼女を見た。思わず夕子が頬を染めた。

・秋山は機械部担当の常務だが、病弱のためほとんど現場は飯島にまかせていた。近々引
 退するというのが、もっぱらの噂だった。長年彼の下で働いてきたが、彼が怒ったのを
 飯島は見たことがなかった。柔和でやさしいその人柄のため部下からは慕われるが、社
 内の出世競争は決してプラスではなかった。彼は常務になったこと自体、飯島には不思
 議でならなかった。しかし、そういう秋山の下で働いてきたからこそ自由に自分のアイ
 デアを実行に移し、力を思う存分発揮できたのだと飯島は心得ていた。 
・「課長の坐なんて意味がないですよ。機械部のトップの座なら、受けてもいいと思って
 います」という矢島の言葉に、飯島は大声で笑った。矢島らしい考え方だ。しかし、そ
 んなことが通るわけがない。まずは主任、そして係長と昇っていくのが日本式昇進だ。
 特例としても、二階級特進がせいぜいである。飯島は入社以来二階級ずつ特進してきた
 が、そんなのは例外中の例外だった。 
・矢島のマジな表情を見て、さすがの飯島も毒気を抜かれて返す言葉がなかった。もし太
 田や菅野があの矢島の言葉を聞いていたらどう反応するか、考えただけでも笑いが込み
 上げてくる。  
・「今イランで起こっている暴動は、イスラム原理主義者がうしろで糸を引いているんで
 す。今までのような共産主義者とは、丸っきり違うんです。いくらイラン国民がパーレ
 ビ王朝を嫌っても、共産主義に走ることはあり得ません。だから、彼らが主導してきた
 暴動やストは散発的に終わってしまった。しかし、イスラム教指導者が反パーレビお先
 頭に立てば、民衆はついて行きます。今のイランはまさにそれが起きているのです」と
 飯島は言った。 
・「馬鹿馬鹿しい!情報源も明らかにできないで!そんな情報にいちいち振り回されてい
 たら、何もできやしないよ。商売にリスクはつきものだ」と菅野は言った。
・「その通りです。しかし、それは計算の上に立ってのリスクです。あらゆる情報を分析
 して検討し、リスクを最小限に抑えて打って出る。これが常道です。情報分析もしない
 で始めるのはビジネスなどではなく、自己満足のための冒険にすぎません」と飯島は言
 った。  
・「情報源も明かさないで信じろと言っても、無理な話だよ」と菅野が言った。「そう考
 えるのは、平和ボケした日本人だけですよ。いちいち情報源を明らかにしていたら、プ
 ロの情報員はいなくなります」と飯島は言った。 
・「感情で物事は解決しないよ。飯島君、君の情報を信じる信じないは別として、社長と
 して私はこのプロジェクトは進めるべきだと思う。もちろん、菅野君を総責任者として
 ね」と社長の太田は言った。飯島を見つめる太田の目がかすかに笑っていた。突然、前
 社長の辻が語った言葉が飯島の脳裡を走った。”どうせ菅野君は死に体さ。それほど長
 くはもたないはずだ”。このプロジャクトは確実に失敗する。となれば、菅野は失脚す
 る。彼の失脚などどうでもいいいが、その代償はあまりにも大きい。
・もし国内が大混乱に陥れば、精油所や油田の稼働率が低下することは当然考えられる。
 となると最悪の場合、日産450万バ−レルの原油が世界市場から姿を消すことになる。
・「まあいい。どちらが正しいかは、いずれわかる。この賭けの勝者はひとりだ。両者と
 も勝つということはあり得ないからね」大田の口調が妙にはずんでいた。

・確かにスカルピーニの言った通り、料理は絶品だった。黒服の蝶ネクタイの大柄な男が
 テーブルに近づいてきてスカルピーニに挨拶をした。スカルピーニが彼を、店のオーナ
 ーだと夕子に紹介した。夕子が不思議に感じたのは、そのオーナーのスカルピーニに対
 する口のきき方だった。年齢はそのオーナーの方がはりかに上に違いないのに、まるで
 召使いが主人に対するような態度なのだ。そう言えば、マネージャーやウェイターなど
 のスカルピーニへの接し方が、他の客に対するそれと全く違う。
・夕子は不思議に思った。それだけのレストランを持っている父親がいながら、スカルピ
 ーニはなぜバーの用心棒などやっているのだろうか。口に出かかった質問を夕子は抑え
 た。人にはプライバシーというものがある。
・「北イタリアはミラノ、ヴェニス、フィレンツェなどを抱えて、中世ヨーロッパ文化の
 中心だったと自負している。それにくらべて南部イタリアは、ヨーロッパのアフリカと
 言われるくらいだからね。差別も非常にきびしい」とスカルピーニは言った。「わたし
 たちから見たら、イタリアと言えば、まず頭に浮かぶのは、マフィアぐらいなものだけ
 ど」と夕子が言った。スカルピーニの表情が微妙に変化した。しかし、それもほんの一
 瞬だった。    

・「やっとわよ」と部屋に入ってくるなりルームメイトのウェンデーが夕子に言った。
 「あの神学部の彼は、やっぱりにらんだ通り童貞だったわ。1分もしなううちに行っち
 ゃったもの。でも、おかしかったのは、終わったあと彼ったらベッドのわきに跪いてお
 祈りを始めたのよ。最初はうれしくて神に感謝しているのかと思ったんだけど、そうじ
 ゃなくて神に許しを乞うてるのよ。泣きながら”父よ許したまえ。私は罪を犯しました”
 と何度も繰り返してたわ。そのくせ誘ったら、またやるのよ。しかも今度は祈りながら
 よ。今まで随分多くの男と寝てきたけど、行為の最中に祈りを捧げるなんて初めて。結
 局、彼5回も行ったわ。よっぽどたまってたのね。明日もデートを申し込まれたわ。食
 事はイブンの部屋で用意しておくからだって。待ちきれないのね。神学部の超優等生も、
 肉体の悪魔には勝てなかったというわけか」
・「日本の女性って、みなあなたのような考え方なの?あなたは古いタイプなのよ。今は
 女が男を誘う時代よ。もっと積極的にならなきゃ。今に女が男をレイプする時代が必ず
 来ると、わたしは確信しているの」とウェンデーは夕子に言った。
・「ところで、マイクってちょっとおかしいと思わない?つかみどころがないって感じだ
 わ。それに、やさしさと残虐さが同居しているようなあの目。”ゴッドファーザー”に
 出てきたアルパチーノそっくり。愛した女でも簡単に殺せるような感じ・・・」と夕子
 はウェンデーに言った。  
・山岡は、毎日のように菅野に会ってイラン側とのネゴの進め方、契約についての細部の
 詰め、さらにはプロジェクト推進のためのさまざまなポイントについて話し合った。し
 かし、艦のは参考となるような意見は、ほとんどと言ってよいほど持ち合わせていなか
 った。ただ、プロジェクトを何が何でも推進させるという執念だけは声高に唱えていた。
 時間の無駄と感じた山岡は次第に菅野とのミーティングを減らし、ゼネコンとの交渉さ
 え自分ひとりでまとめてしまった。菅野は別に怒りもしなかった。あるときなど、契約
 書作成に当たって重要な項目について彼の意見を訊きに行ったところ、逆に山岡が質問
 される始末だった。そんな菅野だが、契約の調印式や工事の着工式などには必ず出席を
 怠らなかった。要するに無能だが目立ちたがり屋という菅野像は、すでに山岡の心の中
 に刻み込まれていた。 
 
・社長の太田にとっては、あくまで社内ポリティックスが優先していた。プロジェクトが
 失敗に終わる可能性が高いと太田が悟っていることを、飯島はうすうす感じていた。し
 かし、それをあえて黙認しているのは社内ナンバー・ツーである菅野が総責任者だから
 だ。プロジェクトの失敗は、即菅野の失脚につながる。そうなれば、太田の社内での地
 位はしばらくは安泰となる。飯島にしてみれば、菅野がステップ・ダウンすることは大
 歓迎だった。その方が社のために大きなメリットとなると信じていたからだ。しかし、
 ことここにおよんでは社内ポリティックスなどにこだわっている場合ではない。すでに
 250億円ものカネがプロジェクトの第一期分として注ぎ込まれてしまっているのだ。
 何としてもおれ以上の菅野の暴走をストップせねばならない。
・「あのホメイニという男は、まだ中世の暗黒時代に生きてる化け物だ。彼は、イランは
 イスラム法にのっとって治められるべきと強調している。そして西側とのコンタクトは
 最低限に抑える。西側文化の毒が入ってくるのを防ぐためだ。その毒を代表するのが物
 質文明だ。物質よりもイスラムの教えを忠実に守って生きることが最も大切なことと、
 彼は説いている。学校の数よりモスクお数を多くするべきとさえのたまわる始末だ」と
 飯島は矢島に言った。  
 
・最初の日の朝、山岡が現場にやってきたときに目にした光景と同じだった。何が何だか
 わからずペルシャ語の通訳を呼んで聞いたところ、宗教的集会が行われているのだとい
 う。働く場所で宗教的集会を行うなど日本なら考えられないことだが、ここはイランだ。
 イスラム教徒は戒律にきびしい。働いているときでも時間がくれば、メッカに向かって
 祈りを捧げるような人々だ。その点は考慮に入れてやらなければならない。そう思った
 山岡は、黙ってその集会を見ていた。 
・しかし、いくら時間がたってもその集会は終わりそうになかった。次から次に壇上に新
 たな”宗教的指導者”が立って、何やら労働者たちに呼びかけている。山岡にはそれが、
 宗教的説教というよりアジ演説のように感じられてきた。 
・「あなた方日本人には何の恨みもない。しかし、この工事はパーレビ体制の圧政と腐敗
 を象徴するこのであって、民衆には何のプラスももたらさない。新しく労働者を雇って
 も、結果は今と変らないだろう。民衆の心はすでにパーレビから離れてしまっている。
 自分たちは確かにあなたと労働契約を結んだ。しかし、それはあくまで現場に入り込む
 ためであって、実際に働くためではない」と集会の指導者ハッサンは言った。「われわ
 れにとっての唯一の神聖な契約は、アラーとのものだけです。われわれはアラーの御心
 に従うだけです」
・「なぜ彼らがわれわれの側についたか、あなたは考えたことがありますか。それはパー
 レビ一族のやることがすべてイスラム教えに反しており、民衆がそれに目覚めたからで
 す。この鉄道工事だってそうです。民衆の土地を強制的に二束三文で買いたたいて、自
 分たちの名義にしてしまった。土地を追われた人々は、どこへ行けばいいんです。ここ
 の労働者は、そういう人びとで成っているのです」とハッサンは言った。
・「菅野専務は危機感などまったく抱いていませんからね。あの人が飯島さんに対する意
 地て今回のプロジェクトをゴリ押ししたことぐらい、山岡さんにもわかっているはずで
 す。いくら上司でも会社にとって不利益になるようなことをしていれば、ストップをか
 けるべきです。ひと昔前までは何でも上司の言う通り行動していればよかったが、これ
 からはそんななまぬるいことは許されない時代でしょう。私をここに送りこむことによ
 って、飯島さんはものすごいリスクを侵しています。ヘタをすればクビが飛びかねない。
 しかし、彼には自分のクビより会社のことの方が大事なんです」と矢島は山岡に言った。
・飯島には菅野に対する同情心はまったくなかった。さんざん好き勝手なことをやってき
 て、その挙句にイランで信じられないような失敗を彼は犯した。それでもまだ自分の勉
 強不足を棚に上げて、妄念を貫こうとしている男だ。
・その後、イランではイスラム勢力の勢いがさらに増し、製油所や油田での暴動はとどま
 るところを知らぬように全土に拡大していった。イラン原油は、いままでの3分の1に
 減った。飯島が最も恐れていた第二次オイル・ショックが世界を襲ったのである。菅野
 は帝商物産を去った。飯島は機械部と燃料部両部門の本部長となり、平の取締役から一
 挙に常務に昇進した。     
・イスラエルという中東の小国が物理的に圧倒的有利にあるアラブ諸国に囲まれながらも、
 四度の大戦争に勝ち抜いてきたのは当然だった。これからの企業はマンパワーや物量に
 頼るアラブ型よりも、情報第一主義のイスラエル型でなければ生き残れないと飯島は確
 信した。 
 
・ニューヨークがかつてのようにシシリアン・マフィアだけのものではない。今ではチャ
 イニーズ・マフィア、キューバン・マフィア、コロンビアン・マフィア、など新興勢力
 がニューヨークを舞台に活躍している。彼らは互いに敵対し合っているが、シシリアン・
 マフィアに対してだけはある種尊敬の念を持って接していた。アメリカで最も古い犯
 罪組織として、シシリアン・マフィアが持つ犯罪のノウハウや政治家や警察、裁判官な
 どとのコネの広さと深さは新興勢力には望むべくもない。かつてのコロンビアン・マフ
 ィアでさえ、シシリアン・マフィアとの抗争は絶対に起こさない。それどころか、コカ
 インの商売をするのにショバ代を払っているほどだ。 
・「このまま行ったら、あいつは親父などよりずっと大きくなる。親父より頭はいいし、
 度胸もずば抜けている。パウンサーの仕事は理想的な訓練期間だったというわけだ。こ
 のままほっといたら、奴はマフィアの世界に革命をもたらし、親父の世代では考えられ
 なかったような巨大な犯罪ネットワークをつくり上げるかもしれん」と刑事のひとりは
 言った。 
・しかし、その頃マイク・スカルピーニはすでにアメリカ官憲の手の届かない遠く離れた
 公海上に脱出していた。彼を乗せたノルウェーの貨物船はゆっくりと大西洋を北上し、
 エストニアのタリンに向かって航行していた。 
・社内での力関係の推移は、役員たちが一番敏感に感じ取っていた。今最も人望があり、
 実力があるのは社長の太田でもなけれな専務の秋山でもない。ましたや他の4人の常務
 でもなかった。彼らは所詮、かつて辻が言った小市民集団にすぎなかった。彼ら全員の
 実績と会社に対する貢献度をまとめても、飯島ひとりのそれには到底およばないことは
 誰もが認めていた。さらに飯島にはよきリーダーとして欠かせないカリズマがあった。 
・「これからの世界は急激に変わって行く。ビジネス界もボーダレスの時代になる。これ
 までには考えられなかった富が世界中を移動するんだ。君には若さがあり、能力があり、
 度胸がある。世界広しといえども、この三拍子を揃えて持っている人間は少ないんだ。
 今は会社をやめるつもりはないかもしれないが、その考えは変わる。才能を持つ人間で
 あればあるほど、大企業のいう大きなマシーンの部品のひとつとして働き続けることに
 疑問を抱くものだ。私がそれは一番よく知っている。若い頃、私も大企業で働いたから
 ね」と葉春雲は言った。 
 
・「母子ともに非常に健康だね」と夕子に手をさしのべてか彼女が起き上がるのを支えて
 パーマー医師は言った。 
・4カ月前スタンフォードを卒業後、夕子は昼間はサン・フランシスコの私立大学で日本
 語を教え、夜はジャパン・タウンにある日本料理やでレジ係として働いていた。夕子の
 底抜けの明るさがパーマーは気に入っていた。これまで何人もの、未婚の母となる女性
 を診てきたが、悲壮感を漂わせ、極端に神経過敏に陥ってしまうのが大部分だった。し
 かし、夕子に限ってはそんな様子はみじんも見せない。 
・近頃の若い女性にしては、めずらしく自分自身というものをしっかりと持った女性だ。
 表面的にはひ弱で頼りなく見えるが、内面には鉄の強さのようなものを秘めている。そ
 の上あの明るさ。自分の人生をしっかりと見定めて歩いている人間にしか、あの純粋な
 明るさは持てない。 
・最初から彼女は普通の女性とは違っていた。初めて彼女がクリニックに検査に訪れたの
 は、7カ月前。紹介者はウェンデーだった。パーマーは、過去に2度ほどウェンデーに
 妊娠中絶手術を施したことがあった。紹介者が紹介者だけに、パーマーは夕子もウェン
 デー同様無責任なフリー・セックス信奉者だろうという先入観を抱いていた。こういう
 輩は妊娠という結果を知らされると自分のしたことは棚に上げてパニックを起こし、す
 ぐに中絶を依頼する。しかし、先入観は見事にくつがえされた。
・子供が生まれたあと、突然相手の男が現れて、子供をネタに面倒を起こすようなことは
 多々ある。たちの悪いのになると、裁判沙汰にするかわりに金を脅し取るような者もい
 る。逆に親と結託して、わずかな金を女性に与えて、子供を引き取ってしまうような者
 もいる。どっちにしても、泣きを見るのは女性の方だ。
・これからどんな問題に直面しようとも、それは夕子自身の手で解決しなければならない
 ことだ。だが、彼女なら十分にやっていける。いや、やって行って欲しいとパーマーは
 自らに言い聞かせていた。
  
・モスクワ支社の藤木が自殺したらしい。首をつっていたという話だ。写真には藤木た全
 裸でベッドに横たわり、そのとなりにこれまた全裸の十五、六歳の少年が写っていた。
・働きすぎてストレスが溜まって思考力がなくなり、すべてが馬鹿らしくなってしまう。
 そしてある夜、突然精神的に空っぽの状態に陥り、自らの命を絶ってしまう。働き盛り
 の中年男によくあるシンドロームだ。 
・彼は前後不覚の状態にあったと考えられる。ところが、となるにいる少年はパッチリ目
 をあけている。彼が藤木のペニスを握って今にも口に含もうとしているが、目線はカメ
 ラの方を向いている。こういう写真を撮らせてあとで見て楽しむ連中もいるが、少なく
 とも藤木の場合は自分の意志で撮らせたとは思えない。 
・「この人たちは、与えられた仕事以外は絶対にやらないですよ」。しかし、金さえやれ
 ば何でもやってくれます。この国の裏の掟と言っても言い過ぎではありません。それさ
 え知っていれば、この国でビジネスをやるにはむずかしいことじゃありません。要は、
 各自がぶらさげている値段表を見極めることです」と吉田は言った。
・「気づかれたと思いますが、ここではホテルにしても官庁にしても、代表番号がないん
 です。みな各部屋や部署に直通になっています。ですから、矢島さんがホテルのとなり
 の部屋にかけようとすれば、その部屋にはちゃんと7ケタの番号がある。KGBもそう
 です。代表番号がなくて、みな直通となっているんです。でも、KGBにとっては、最
 も便利なシステムですよ。例えば矢島さんを盗聴しようとすれば、中法電話局に命じて
 矢島さんの線にKGBの線を接続させるだけで済むんですから」と吉田は言った。
・「ロシア人は全く働かないです。彼らに比べれば、日本の窓際族が猛烈社員に見えます
 よ」と吉田は言った。
・「ハッキリ言って今のあなた方は、企業の戦力として機能していない。企業は人で成り
 立つ。人がダメなら企業の将来はない。あなた方が考え方を変えて真面目に働くという
 のであれば、自分は本社とかけ合う用意がある。具体的にあなた方に要求するのは、ま
 ず昼食に2時間もとらないこと。もし行列に並ばねばならないなら、家から弁当を持っ
 てくることだ。次に3時半の退社は認めない」矢島が言ったことを吉田が訳すと、ロシ
 ア人たちから驚きの声が上がった。    
・「これからは世界の企業が、もっと国際化して行く時代です。そのプロセスで、必ず現
 地採用者と本社から出向した者のペイや待遇お格差が問題になります。そういうときに
 備える意味でも、今好ましい前例を作っておいた方がいいのですよ」と矢島が吉田に言
 った。 
・この日を境に、支社内の雰囲気はガラリと変った。ロシア人に対して矢島が与えたアメ
 とムチは、てきめんの効果を示した。顔つきがまったく違ってきた。もはや3時半を退
 社時間に考える者はひとりもいなくなった。 
・「ビジネスマンはまず頭を使う。頭がなければ、体を使って汗をかく。汗をかくてくな
 い奴は去る・・・」と矢島は言った。 
 
・「組織は確かにあります。しかし、それを支えているのはわずか1パーセントの実力写
 真たちです。あとはボンクラの集団で、やる気もなく、給料さえもらっていれば会社が
 設けようが儲けまいが我関せずといった連中ばかり。彼らが安穏として安酒場で酒を食
 らいながら会社や上司に対する不平不満を言っていられるのは、1パーセントのエリー
 トたちのおかげじゃないですか。矢島君は、その1パーセントの中でもトップです。仕
 事ができすぎるために、彼に対する同僚や上司からの風当たりは強い。しかし、彼はそ
 んなつまらん連中の言うことなど超越して懸命に働いています。会社を真に愛している
 からです。会社を愛するということは、会社に儲けさせること。これしかないと彼は信
 じているのです。」と飯島は社長の太田に言った。
・飯島がさぐるような目で太田を見た。太田の顔がわずかに赤らんだ。思ったとおりだと
 飯島は思った。近頃の太田は以前と違ってきた。妙に細かいことに口を出し、権威主義
 的なところが目についてきた。原因は、最近取締役となった川崎と柱谷という二人の男
 であることは、社内でも評判だった。二人とも、太田のゴマをすりまくって取締役とな
 ったのだが、仕事はそっちのけで、太田にへつらい阿ることを毎日の日課としているよ
 うな出世至上主義のケチな男だった。 
・ソ連の統計は、よくシーリング・スタティスティックス(天井統計)と言われる。現場
 担当者が成績を保持するために、わざと数字をふくらませてしまう。天井をみながら数
 字を考えるためシーリング・スタティスティックスと呼ばれるのだが、これは農業や工
 業生産などすべての分野におよんでいる。だから、大体彼らの言う数字の30パーセン
 トは割り引いて考えねばならない。 
・「共産主義でさえ、人類最古の商売にストップをかけることができなかったんですねぇ。
 ここの売春ネットワークは、東京などよりはるかに大がかりですよ。完全にシステム化
 されていて、フリーはまずいないんです。みなマフィアにコントロールされていますか
 ら」と吉田は言った。マフィアがそれほどソ連社会ではばをきかせているとは、まった
 くの初耳だった。常識から考えれば、ソ連のようなポリス国家には犯罪組織など存在し
 ないはずである。 
・チェチェン・マフィアの力は絶大だった。もともと地下経済が80パーセントを占めて
 いる地域だが、チェチェン・マフィアはその100パーセント近くを握っている。彼ら
 の手は、あらゆる分野にタコの足のようにのびている。ソ連政府が全力を投じて遂行中
 のアフガン戦争にさえも、チェチェン・マフィアは関与している。軍の兵器庫から横流
 しされた対戦車砲あAK銃などを、大量にアフガン・ゲリラに売りつけているのだ。結
 果として、ソ連軍がソ連軍の武器によって殺されるというおかしな状況が展開している。
・「今、世界の地域紛争で多くの人々が殺されているが、彼らを殺しているのはレジット
 な企業が作った武器や兵器だぜ。 レジットだからといって、モラリスティックなこと
 をしているとは限らないんだ。オレたちの金をローンダリングして、しこたま設けてい
 るレジットな企業だって多いんだ。レジットな企業の方が偽善的でインモラルなんだ。
 それに比べりゃ、われわれの組織はいいこぶらないだけずっとストレートだと思うがね」
 と矢島にマイクが言った。
・上には上がいるものだと矢島は感心した。マフィアはいくら儲けても、汚い金のままで
 は、使えない。それらの金をきれにするためには、マネー・ローダリングをせねばなら
 ない。そのために、”洗濯屋”が存在する。洗濯代は25パーセント。マフィアの弱み
 につけ込んだ、ぼろい商売だ。 
・「金と頭とチンポコは、死んだら使えないんだ。それを肝に銘じておけば、人生は今の
 百倍は楽しめる」 
・折しもアメリカ国内では、M&Aの嵐が吹き荒れ始めていた。昨日まで文無しだった人
 間がジャック・ポンドを発行して、それを資金に会社を乗っ取るというパターンが定着
 化した。しかし、こういう輩は狙った企業を手に入れてもそれを育てようという気は全
 くない。もともと泡銭だけが目当てで経営の才覚などないから、彼らのやることは大体
 決まっている。乗っ取った企業を切り売りするのである。まともなビジネスマンから見
 れば、こういう連中は起業家ではなく単なる壊し屋にすぎなかった。 
 
・ある週末、矢島はサン・フランシスコの夕子のアパートを訪ねた。目の前に現れた夕子
 を見て、矢島は少なからずその変貌ぶりに驚かされた。ある程度想像はしてはいたが、
 いざ会ってみるとその変りようは想像をはるかに超えていた。彼がおぼえていた彼女に
 は、まだあどけない少女っぽさが残っていた。しかし、そんなものは今の彼女にはみじ
 んもない。大人の落ち着きと、本物の強さのようなものが感じられる。しかし、考えて
 みれば当然のことかもしれない。もう、かれこれ5年もたっているのだ。その間、彼女
 は子供も生んでいる。母となれば女性は大きく変わる。  
・息子のマイク・ジュニアはまだ幼く、丸々とした文字どおり玉のような男の子だった。
 ブルーの大きなひとみと、頭のうしろでカールした髪の毛が何とも言えなく愛くるしい。
 矢島が抱く上げると最初はキョトンとした表情で彼を見つけていたが、すぐにニコニコ
 と笑い出した。 
・その晩、矢島は夕子を食事に誘った。ジャパン・タウンにある日本料理やで、じっくり
 と時間をかけて食事をとった。食事が終わって、二人はフェアモント・ホテルの最上階
 にあるクラウン・ルームに行った。夕子のたっての頼みだった。突然彼女が言った。
 「あの人と、最初にデートしたときに来たのがここだったの。席もここだったわ」「彼
 はマフィアだったのよ」
・矢島は得体の知れないセンセーションのようなものが、腹の底から這いあがってくるの
 を感じた。もしや・・・いや、そんなことがあるはずはない。世界は広いのだ。
 しかし・・・。「「夕子ちゃん。その男の名は、ひょっとしたらマイク・スカルピーニ
 というんじゃ・・・」夕子がその大きなひとみをいっぱいに見開いた。「知ってるの、
 彼を!?」矢島がうなずいた。
・「ビジネスを始めるための資金作りを助けてくれたのが、彼だったんだ」と矢島がマイ
 クとの出会い、その後の彼との関係について語った。聞き終ったとき、夕子の目にはう
 っすらと霧がかかっていた。「君が彼の惚れたのも無理はないよ。男のオレが惚れるぐ
 らいなんだから」   
・「ねぇ、健二さん、約束して。絶対にマイクにはわたしたち母子のことは言わないって。
 いいわね」と夕子は言った。その約束を、矢島は今日までずっと守ってきた。しかし、
 いつも疑問は感じていた。マイクが全く知らぬ人間ならそんな疑問も抱く必要はなかっ
 たが、ビジネスを通してとはいえ親しくなった人間である。その人間に血を分けた息子
 がいるということを知ってながら、何も伝えないのは不自然であるばかりか、だいいち
 フェアーではない。夕子がどう考えようとマイクには知る権利がある。
・「心を開くか・・・オレにもかつて、そんな女性がいたよ」とマイクが言った。「ユー
 コという女性だろう」と矢島は言った。「彼女とオレとは、ひとつの屋根の下で育った
 んだ」マイクの顔が紅潮した。何事にも動じないマイクがこれほど表情を変えたのは、
 矢島の知る限り初めてのことだった。「彼女には二歳になる男の子がいる。名前はマイ
 ク・ジュニア」「まさか・・・」「そうさ。あんたの子だ。あんたと別れたあとで彼女
 は妊娠していることに気づいた。堕ろすことなど端っから考えなかったそうだ。二人の
 愛が、短いながらも本物と信じていたからだ」  
 
・結婚したての頃は、ガブリエラはこんなではなかった。あどけなく、素直で、愛嬌さえ
 あった。それが今では欲求不満のかたまりで、何にでもヒステリックに反応するような
 女になってしまった。もちろん、仕事に大部分の時間を費やしている自分にも責任はあ
 る。しかし、彼女とてドンの娘だ。この世界がどんなものかは知っているはずだ。小市
 民の生活に浸っていたら、仕事どころか命だって失ってしまうのだ。 
・ジョーは、不思議な思いでバックミラーを見つけていた。後部座席にすわったマイクの
 目が涙で潤んでいる。その視線は道路を隔てたバス停留所にすいつけられていた。東洋
 人らしき女性と四、五歳の男の子が停留所のベンチに坐っている。楽しそうに話してい
 るその雰囲気からして、多分母子なのだろう。 
・ジョーには不可解きわまりない話だった。これでマイクがサン・フランシスコを訪れた
 のは三度目だった。二カ月のうちに三度も同じ町を訪れることはめったにないのだが、
 それ以上に解せないのはボディーガードをつけていないことだった。ヨーロッパに行く
 にも彼は必ずボディーガードを連れて行くし、ましてやアメリカ国内ならなおさら危険
 性を意識してダブルを使うことさえあるほど用心している。運転手にしてもジョー以外
 は絶対に使わない。テキサスに行くにもロスに行くにも、必ずジョーを運転手として先
 乗りさせている。 
・その彼が、サン・フランシスコに来るときだけはボディーガードをつけない。しかも用
 事らしい用事があるようにも見えない。前日の夜、町に入ってホテルにチェック・イン
 し、翌日の午後、例の幼稚園の前で車を停めさせ、あの母子が出てくるのを待つ。そし
 て彼らがベンチに坐っているのを涙を流しながら見つめ、ボスがバスで去るのを見届け
 てから車を発進させるように指示する。いったいあの母子は何者だろう。
・テレビの画面の半分には一台の車が映り、もう半分にはアナウンサーが映っていた。
 「 昨夜の最終ニュースでお伝えしましたサン・フランシスコ国際空港近くでの乗用車
 襲撃事件は、その後の警察の調べで、ギャング・ランド・ウォーと判明しました」カメ
 ラが車をアップで写し出した。窓ガラスや車体に無数の弾痕がハッキリ見える。運転席
 の男は、ハンドルにかぶさるようにしてグッタリとなっている。カメラはゆっくりと車
 の後部をのぞいた。後部のドアーの片方が開き、男が半分体を外に出し、両手をバンザ
 イする格好であお向けに倒れている。 
・突然、夕子の顔色が変わった。確か今テレビから、スカルピーニ・ファミリーという言
 葉が聞こえた。彼女が画面を見据えた。「マイク・スカルピーニは弱冠三十一歳ながら、
 ニューヨークの五大ファミリーを牛耳るドンとして、犯罪界に君臨してきました・・・」
 夕子は思わず両手で顔を覆った。
・その夜、夕子はひとりベッドで泣いた。死んで行ったマイクのために、そして二度と帰
 らぬ二人の愛のために・・・。 
・事件から三週間後のある日の夕刻、夕子がジュニアの手を引いて帰宅したとき、アパー
 トの前に一台の車が停まっていた。黒塗りのキャデラックで、近所では見かけることも
 ない車だった。助手席のドアーが開きて屈強そうな男が出てきて、後部ドアーを開けた。
 ステッキを手にした小柄な老人が降りてきた。「ユーコ・マツバシだね」「私はマイク・
 スカルピーニの父だ」夕子の体が、一瞬、硬直した。
・老人は内ポケットから封筒を取り出し、それを開けて中から小切手をとり出して、夕子
 の前に置いた。七に五つのゼロがついていた。「あんたのものだ。その金は、息子があ
 んたがた母子のために置いていったものだ。約三年前、初めてあいつはわしにあんた方
 のことを打ち明けた。ウェスト・コーストのボスの娘と結婚する直前だった。そして自
 分の身に何かあったときは、必ずあんたに渡してくれとその金をわしに託した。ダーテ
 ィーな金ではない。あいつがレジットな会社の社長として得た給料を貯めたものだ」
・夕子はその小切手をていねいに押し返した。「受け取るわけにはいきません。いただく
 理由がないからです。わたしは彼の妻ではありません。どうかそのお金は、奥さんなり
 他の身内の方にあげてください」 
・「わたし自身に対する約束を守るためです。あの子を身ごもったとき、自分の心に約束
 したんです。わたしひとりの手で、あの子を立派に育てると。わたしにとっては、それ
 はあの人に対する約束でもあったのです。二度と会えない人だけど、だからこそ彼の分
 までがんばると誓ったのです」と夕子は老人に言った。
・「ヤジマという男に、わしは感謝している。彼のおかげで、息子は死ぬ前にあの子を見
 ることができたのだから」と老人は言った。「あんた方は気が付かなかったろうね。あ
 いつは死ぬ前に三度、あんたジュニアを見ているんだ。幼稚園の前でね」
・「わしは、息子マイクの人生を狂わせてしまったんだ、あいつは小さいときから、医者
 になる夢を抱いていた。しかし、ファミリーには後継ぎが必要だった。こんな馬鹿な老
 いぼれのエゴイズムが、あいつの人生をメチャクチャにしてしまったのだ。わしがこん
 な世界にいなかったら、あいつは心の地獄をさまようこともなかった」
・「さっきわたし自身に対する約束と言いましたが、今は違います。あの人がわたしたち
 母子を遠くから見つけていたとあなたから聞いたとき、わたしは今でも心の底から彼を
 愛していることがわかったのです。わたしには彼との思い出があります。その思い出だ
 けでこれからは生きられます。思い出の中では苦しみは色あせますが、愛が色あせるこ
 とはないと信じるんです。もしそのお金をいただいたなら、思い出にピリオドが打たれ
 てしまうことになります。ですあら受け取れないのです」と夕子は老人に言った。
・老人は小切手をポケットにしまい込んだ。あきらめたわけではなかった。金はロスの矢
 島に送って、管理してもらおうと考えた。あの男なら、七十万ドルを少しはふくらませ
 てくれるだろう。マイク・ジュニアが大学に行く頃には、倍ぐらいになっているかもし
 れない。そうなれば母子二人、一生困らずに生きていける。
・それにしても、この夕子というのはめずらしい女性だと老人は思った。近頃の女性の多
 くは、妊娠したら男に結婚をせまり、それが聞き入れられないと簡単に中絶し、男に莫
 大な慰謝料を要求する。結婚して離婚となればこれまた慰謝料、男も女も金、金、金さ
 え目の前にぶらさげてやれば、どのようにでもころぶ。しかし、目の前にいる夕子は、
 七十万ドルにノーと言った。金で人間の命さえ売り買い出来る世界に住む自分が恥ずか
 しかった。しかし、同時にこれまで経験したことがなかった清風が、心の中に吹き込ま
 れた感じがした。   
・ドン・ドネト・スカルピーニがニューヨークの病院で心臓発作のために他界し、スカル
 ピーニ・ファミリーが解散したと夕子が矢島から知らされたのは、それから二カ月後の
 ことだった。   
 
・悲しみが深すぎると涙も出ないし、言葉も出ないものだ。ただ、心の中をカミソリでえ
 ぐったような傷だけが残る。思い出したり語ったりすることは、その傷に触れることに
 なる。それは、ときとしては肉体的痛みよりはるかに大きな苦痛を伴ない、心そのもの
 を破壊してしまう。それをさけるためには、自分が持っているすべてを何かに没頭させ
 ること。そして、時という偉大な治療者がその傷を癒してくれるのを待つしかない。こ
 れが普通に人間には、感情の切り換えが上手な人間と映ってしまう。しかし、矢島のよ
 うなめったに感情を表さず常に内に秘めているタイプの人間は、感情の切り換えが最も
 苦手なのであり、だからこそ、その心の痛みも形容できないほど大きいのだ。 
・「この国に、地殻変動が起きつつあるのです。かのゴルバチョフのペレストロイカとグ
 ラスノスチ政策によって、この国は根底からゆさぶられ始めた。もしこのままの状況が
 続けば、四年以内にこの国は無政府状態に陥ります。これは、われわれエキスパートた
 ちがあらゆる角度から分析してたどり着いた結論なんです。十分に信ずるに価します。
 そうなったら、われわれはどうなります。われわれだって家族はあるし、いい生活がし
 たい。今のまま真面目に勤め続けていたらどうなるか。全く無防備で素っ裸状態で、混
 乱の中に投げ込まれてしまうでしょう。それを避けるための自衛措置ちしてわれわれが
 考え出したのが、今回の話なんです」とソ連の情報機関員のグラチェンコは言った。
・こいつはマジだと矢島は思った。矢島自身、ゴルバチョフがこれからソ連という国に与
 えるインパクトは、ひょっとしたら世界の地図をも塗りかえてしまうほどのものがある
 かもしれないと常々思っていた。もしグラチェンコの言う通りソ連が無政府状態に陥れ
 ば、ビジネス・チャンスは計り知れないほど大きい。そのときは、かつてのアメリカ開
 拓時代のゴールド・ラッシュのように早い者勝ちとなる。 
・飯島は、かつての社長の辻が菅野について言った言葉を思い出した。”あいつはねちっ
 こいし、性格も曲がっている。どんな恨みを会社に持たないとも限らない”
・飯島はしばらく考えた。仮名口座の存在が明るみに出て、そこから二十億円引き出され
 たという具体的事実も報道されてしまった。これだけの材料を目の前に突きつけられれ
 ば、当然東京地検特捜部も動かざるを得ないだろう。  
・その日の午後、緊急役員会議が開かれた。席上飯島が事の次第を説明し、自分は副社長
 の座を降りて平取締役となると宣言。そして、会長の太田と社長の秋山に即刻引退する
 ようにすすめた。絶対に二人を巻き込みたくないとの配慮からだった。二人はほっとし
 た表情で飯島のすすめを受け入れた。そのときすでに飯島は、二度と自分が帝商のトッ
 プに返り咲く日はないだろうと思っていた。 
・「菅野のメンツや誇りを、大分私は傷つけてしまったからね。昔、辻社長が私に忠告し
 たことがあった。ああいう小市民的な男は、メンツや誇りを大事にする。だから追い込
 んではダメだとね。今にして思えば、私はその忠告を無視していた。まさに小市民的な
 しっぺ返しを食らったわけだ。だが、彼を憎む気持ちにはなれない。彼はただ、サクソ
 ンに使われただけなんだから」「今のところ明らかなのは外為法だけだが、政治家に金
 をバラまいたことが明らかになれば、贈収賄罪が成立する」「小佐野式にやるだけさ。
 記憶にないで押し通すしかないだろう」と飯島は矢島に言った。
・「人生というものは偉大なるエンターテイメントだな。勝利と敗北、喜劇と悲劇、栄光
 と挫折。あらゆる要素がからんでいる。今自分の置かれている立場は、喜劇としか思え
 んがね」  
 
1991年秋
・「武器商売は普通の貿易業とは違う。買いと売りのネットワーク、特に買いのネットワ
 ークをガッチリと握っている者だけが生き延びられる。さらに付け加えれば、そのネッ
 トワークを自在に使えるノウハウと経験を持った人材、そして武器についての深い知識
 を持った人間が不可欠だ。アームコはこれら全部を提供してくれる。もちろん、新しい
 ネットワークも開発せねばならんが、それはこっちの腕次第だ」と飯島は矢島に言った。
・「この十年間で世界は大きく変わった。ビジネスのやり方も内容も違ってきた。以前で
 は考えられなかったような富を得る者も出てきた。その代表が君のようなニュー・ブリ
 ードのビジネスマンだ。しかし、これから世紀末にかけて世界はもっと変わる。そして
 ビジネスのやり方はさらに変わり、さらに巨大な富が動く、やる気があり能力のある者
 にとっては、無限のチャンスをもたらしてくれる世界となることは間違いない」と飯島
 は矢島に言った。  
・矢島には、飯島の考えていることが手にとるようにわかった。ソ連邦が崩壊すれば、そ
 の混乱は社会のあらゆるレベルに達する。特に、ソ連社会の核を成す軍部と軍事産業に
 もたらす影響は大きい。無政府状態となれば彼らをコントロールするメカニズムはなく
 なってしまう。残されるのは、膨大な軍事的ハードウェアーだけだ。それらのハードウ
 ェアーに王手をかければ、世界の武器市場の大きな部分を制覇できる。
・ベルリンの崩壊から二年、あの激震のうねりは、東へ東へとユーラシア大陸をつき進ん
 できている。東奥、中欧諸国、バルト三国を飲み込み、そして今、ソ連がそのうねりの
 真っ只中にある。いつ決定的瞬間が訪れても、おかしくはない状況だ。だから飯島は急
 いでいる。  
・かつて飯島はよく言っていた。”ビジネスマンが成功するにはPDTが絶対に必要だ。
 プラニング(計画)、ディサイスィネス(決断力)、タイミング。計画がいくらよくて
 も、実行に移せねば何の意味もない。実行に移しても、タイミングが狂っていたらそれ
 も無意味だ。これら三つの要素のひとつでも欠けたら、ビジネスは成功しないと、飯島
 はくどいほど矢島に繰り返した。ごく当たり前のこの言葉を忠実に実行してきたからこ
 そ、今の自分があると矢島は信じていた。 
・「何事も基本だよ。基本さえしっかりしていれば、半分は成功したも同じだ。あとは運
 命の女神が微笑んでくれるか否かだ」と飯島は矢島に言った。 
・矢島は思った。役員といっても所詮はサラリーマンだ。彼らが考えていることは会社の
 将来ではなく、自分たちがこれからどうなるのだろうということだけだ。 
 
エピローグ 1992年夏
・世界が最も注視したのはソ連邦最大の共和国ロシアの大混乱だった。それまで共産主義
 という鉄の支配で押さえつけられてきたため、鎖がいったん切れると、その反動はすさ
 まじかった。実質的には完全な無政府状態に陥った。
・この機に乗じて、西側各国から大勢の人間が、一攫千金の夢を抱いてロシアに入り込ん
 だ。大部分は、まともなビジネスマンではなく単なる一発屋だった。しかし、ロシアと
 のビジネスで何の実績もコネもない彼らの多くは、逆にロシア人の餌食になった。
・ソ連邦崩壊は矢島以上に、飯島に大きなメリットをもたらした。武器の仕入れ先にこと
 欠かないことはもとより、崩壊の余波として世界中にエスノ・ナショナリズムの火の粉
 が上がり、武器の需要はいくら満たしても満たしきれないほど大きくなった。
・矢島の目には山岡ははつらつとして見えた。帝商にいた頃は、どこか控え目で不完全燃
 焼しているようなところがあったが、今、目の前にすわった山岡は、体全体から精気が
 感じられ、エネルギーのかたまりのように見える。それを言うと山岡が目を輝かせなが
 ら、「充実した毎日を送っているからだろうな。帝商にいた頃は、何かの仕事をやる前
 に、失敗したときの答えを用意しておかねばと、無意識のうちに思ったものだった。組
 織人間の弱さだな。そんあ感じは今の会社にはまったくない。好きでやって結果さえ出
 せばいい。飯島さんのもとに来て本当によかったと思っているよ」   
・山岡によると、飯島はすでに二十一世紀を見つけているのだという。ソ連邦の崩壊によ
 って、パンドラの箱は開けられてしまった。冷戦時代には、米ソ超大国が互いに対峙し
 合いながらもいざというときは、話し合いによって世界の秩序を保ってきた。
・しかし、ソ連邦が崩壊したことによって、世界のバランスはガタガタに崩れた。もはや
 アメリカ一国では秩序を守り切れない。  
・これから世紀末にかけて、世界のいたるところで、冷戦時代には米ソの力で押さえられ
 ていた諸国間のトラブルが発生する。その中でも最大のものは、エスノ・ナショナリズ
 ムの爆発である。これに対して、ポスト冷戦の世界秩序を保つ唯一の機関である国連は、
 PKOやPFOなどを通じて秩序の維持を計ろうとする。しかしPKOにしてもPFO
 にしても、所詮は各国から集められた寄り合い所帯である。紛争が繰り返され、そのた
 びに各国は人質を送り、そのための金も供出せねばならない。それが何度も繰り返され
 ているうちに、各国の国民感情はPKOに対して必ず批判的になる。俗に言う援助疲れ
 というやつである。特に金と人員を最も多く供出する先進国では、この可能性が高い。 
・よしんばそのような事態にならなくとも、続出する紛争に対して国連が割り当てられる
 PKOやPFOは、ごく限られている。単純なマンパワーの問題である。どっちにして
 も、これから世紀末にかけて、世界のいたるところで、民族間や氏族間によるバトル・
 ロイヤルが繰り広げられるのは必至だ。 
・このような状況に対抗するために最も効果的な方法は、戦うインセンティヴを持ったプ
 ロの軍隊を使うことである。この場合のインセンティヴとは、金にはほかならない。そ
 のような軍隊は政府の管轄下ではでき得ない。 
・そこで浮かび上がるのが企業化された軍隊、民間のPKOやPFO構想である。冷戦が
 終了した今、世界、特に西側諸国や旧ソ連邦諸国では、かつて優秀だった軍人がろくで
 もない仕事につかざるを得ない状況に置かれている。彼らは、インセンティヴさえ与え
 れば、戦いことなどいとわない。 
・そのような人間を世界中から求めて、彼らの名前や身元をコンピューターにインプット
 しておいて、いざとなったらいつでも召集できる態勢に整えておく。しかし、これはあ
 くまで国連を無視しては実現し得ない。