巾車録 :荒山徹

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この作品は、いまから15年前の2008年に刊行された「サラン・故郷忘じがたく候」
という短編集のなかのひとつである。
という朝鮮国の高官だった男性が主人公だ。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代、姜は豊臣
軍の捕らわれの身となり日本に連行され幽閉された。豊臣軍に蹂躙された祖国や無慈悲に
虐殺された自分の一族や家族を目の当たりした姜は、日本への復讐心をもえたぎらせる。
逃走を図ったり、日本の国情を記した密書を祖国の国王の元へ送る企てをしたりするのだ
が、ことごとく失敗に終わる。しかし、幸運にも処刑は免れ、足かけ約四年間に及ぶ虜囚
生活が終わり、祖国へ帰ることになった。しかし、姜の日本への怨念は消えることはな
かった。
祖国への帰国途中に悪天候で壱岐島に足止めとなったときのある夜、姜の前に島神が現
われる。その島神は「そなたの残念、宿願を叶えてやろう」というのである。
そして姜が目にしたのは、三百年以上も前の時代の元寇において、蒙古軍と共に日本に
攻め込んだ高麗王朝の軍の日本人に対する凄惨な殺戮の光景だった。
朝鮮の不都合な事実を忘れていた姜は、それを見て茫然自失となるのだった。
「加害者はすぐに痛みを忘れるが、被害者は絶対にその怨念を忘れない」という重い事実
を、あらためて思い出させる作品だ。

前に読んだ関連する本:
耳塚賦



・倭歴で云う慶長五年(1600)の四月。姜は妻子、一族を率い、宿願たる祖国朝鮮
 への帰還の途に就いた。
・文の尊きを知らず、いたずらに武勇のみ誇る未開の蛮夷どこが、東西両軍に相分かれ関
 ケ原に激突する、その僅か五カ月ばかり前のことである。
・姜の滞日は、足掛け四年の長さに及んだ。  
・壱岐島に着いたのは指月下旬であった。その先、対馬を経れば、朝鮮の港口たる釜山が
 彼を迎えてくれる。
・姜は宿舎の一室で筆を執った。逸る心を鎮めるためにも、これまでの経緯を今一度、
 文章に綴っておこうとしたのである。
 今一度、というのは、かれはすでに「賊中封疏」と題する密書を朝鮮王に宛て書き送っ
 ているからであり、更には帰国後ただちに王に呈上すべく、いっそう詳細な報告書であ
 る「賊中見聞録」をも書き上げていた。
 

・三年前、萬歴二十五年(1597)二月、姜は、休暇を認められ、故郷の流峯里に帰
 った。この年、彼は三十一歳である。
・海を隔てた倭国では、風雲児織田信長が、天下布武の旗印を高く掲げた。
 古代支那が生んだ”天下”とは、無境界性を孕んだ観念である。
・信長の後継者の座を射止めた太閤豊臣秀吉が、倭国を統一してなお勢い止まらず、天下
 布武をその本家たる支那に宣せんと欲し、大規模な遠征軍を朝鮮半島へと送り込んだの
 も、宜なるかな。
・その年、姜は二十六歳になっていた。
 李舜臣率いる水軍の活躍により補給路を断たれた倭賊は、一旦は占領した平壌、漢城を
 放棄して釜山方面に撤兵した。実質的な戦闘は一年で終息したのである。そして、四年
 に及ぶ長い和平交渉の期間が始まった。
・郷里に帰省してまもなく、倭賊の第二次侵攻が始まった。結局のところ講和交渉は決裂
 したのだった。十万を超す倭兵が海を渡って襲来し、二手に分かれて全羅道の攻略にか
 かった。    
毛利秀元率いる”右手ノ衆”は黄石山城に進軍、宇喜多秀家を総大将とする”左手ノ衆”
 は南原を襲った。
・南原は姜の郷里霊光から東すること二百朝鮮里(80キロ)。士気は高く徹底抗戦の
 構えを見せていた。 
 しかし、凄惨な籠城戦の末、南原の城は陥落した。
・やくなく姜は妻子、一族を船に乗せた。避難民は続出し、彼らと同じく海に乱を避け
 た船は、目につく限りでも百艘を超えている。海上をあてどもなく航行すること数日、
 吉報が飛び込んできた。李舜臣が南の鳴梁海峡で倭賊の水軍を大いに撃ち破ったという。
・姜の船は李舜臣の艦隊を追って各氏島を目指した。
 深くたちこめた海霧の中から、忽然と一隻の船が出現した。
・もはや逃げられると知った彼らは、次々と海に身を投じた。しかし追いついた倭船に救
 い上げられ、その瞬間から姜は、すなわち倭奴の虜囚の身となったのである。  
・三十人を超える打ちひしがれた顔を茫然と眺めやるうちに、姜は、息子の龍と娘の愛
 生の見えざることに気づいて恐怖した。龍はまだ二歳。妻を娶って九年目に初めて得た、
 待望の男児である。周章して頭を巡らせば、幼い二人の小さな死体が、木切れのように
 波間に漂っている。浮いては沈み、沈んではまた浮き上がった。それを目にしても、憤
 怒の声をあげる以外、姜にはどうすることもできぬ。
・姜は賊に尋問され、その過程で知った。李舜臣は鳴梁海峡の海戦で勝利したものの、
 衆寡敵せざるを以て、艦隊を北に退かせたという。
 それでも倭賊は、魔神と恐れる李舜臣の捜索に血眼になっているようであった。
 更に彼は知る。自分たちを捕らえた倭将が伊予州佐渡守の家臣で、新七郎という名の者
 であることを。
・佐渡守すなわち藤堂高虎であり、藤堂新七郎良勝は高虎の従兄弟にあたる武将である。
 良勝は、姜の身形から高位の官人ならんと目をつけ、倭国に連行しようとしているの
 だった。
・戦乱の中、多くの同国人が拉致されていることは、幾度も耳にしていたことである。
 その自分が、よも倭地へ押送される運命に直面しようとは、もはや姜は死を欲した。
・倭奴の手に堕ち、おめおめと生きながらえるよりは、一万回も死ぬほうが容易い。
 しかし、繋縛の身では死ぬことすら自由ではなかった。
 その一方で、船上での苛酷な取り扱いは、女こどもの死者を続出させていた。 
・兄の子可憐、彼は飢え渇きの余り塩水を呑んで衰弱した。嘔吐と下痢を繰り返す八歳の
 その子を、倭賊は海へと投げ込んだ。可憐は父の名を叫んで泣き叫び、やがて声は波間
 にかき消された。
・姜の愛妾杏花、溺死した愛生の母である彼女は、神経を病んでいた。娘を失った悲し
 みに慟哭やまず、倭奴に乱打された末、餓死して果てた。
・生き残った者は、大型船に移された。朝鮮の南岸を航行すること十数日、さらに対馬、
 壱岐を経て、倭軍の大本営たる肥前名護屋に着いた。
・十月半ば、伊予の大津に至った。藤堂高虎が伊予七万石に封ぜられたのは、二年前の文
 禄四年のこと。藤堂良勝の屋敷の一画に彼らは幽閉された。
・新しい年(慶長三年)が明けてまもなく、下の兄の娘礼媛、上の兄の息子可喜が、四日
 とおかず立て続けにこの世を去った。病死である。盛大な葬儀をあげることもできず、
 ひっそりと水辺に埋葬したのが哀れであった。
・三兄弟の子は六人いた。姜の龍と愛生、上兄の可憐はすでに亡く、今さらに二児が逝
 って、残るは姜の娘、六歳の美仙ただ一人となった。


・範とすべき古人があった。かの蘇中郎である。漢人蘇武は、武帝の御代、匈奴に使して
 抑留されること十九年、祖国への節を曲げず、遂に帰国を果たした忠義の臣。
・服属を拒絶する蘇武は、北海の辺りで牧羊に従事させられた。もし雄羊が子を産むこと
 があらば祖国に帰してやろうとの嘲弄である。蘇武は羊を牧する杖に”漢節”と名づけ、
 忠義の心を堅持し続けたという。 
・虜囚と偽りては、すべからく蘇武の如く生きるべし。それが姜の決意である。
 ところが姜は彼の”漢節の杖”を手にすることさえ叶わないのだった。というのも、
 如何なる労働にも使役されることがなかったからである。ただいたずらに幽閉されるば
 かりの、無聊を託つ日々であった。
・無聊は、彼を苛立たせた。これでは一日ながらえるごとに生を偸んでいるに等しい。
 万死しても赦されざる罪である。もはや残された道は一つしかない。
・二人の兄は、彼の計画を無謀と断じた。ここは西も東も判らぬ倭地である。しかも朝鮮
 に帰るには海を渡らねばならぬ。生半なことでは辿り着けない。今しばらく時機を待つ
 べきではないか。
・その説得に、しかし姜は耳を貸さなかった。このとき姜は、焦虜に駆られる余り、
 艱難苦恨をともにすべき妻子、一族のことなど目に入らなくなっていたのである。
・慶長三年(1598)五月、遂に姜は夜陰に乗じて決行に及んだ。両足から血を流し
 つつ同国人某と共に歩を重ね、昼には竹林に隠れ、藤堂高虎の本拠地たる板島に着いた
 のが翌夜である。 
・さらに西に進み、草木の茂みの中で休息をとっていると、一老僧に出会った。事情を聞
 いた老僧は彼らに同情し、船で豊後に渡してくれるという。が、その喜びは、束の間の
 ものでしかなかった。僧に従って谷を降り、十歩と行かぬうち、万事休すであった。
・自由を得るどころか、剣で脅され、再び縄目の恥辱に甘んじなければならなかった。
 連行されたのは板島城外の刑場である。十本余りの高木に、死人の頭が無数に梟首され
 てる。為すすべもなく首を斬られようとした時、藤堂良勝の手の者が刑場に賭けつけた。
 姜の脱走を知った良勝は、追手を四方に走らせていたのである。間一髪の差で一命
 は救われた。
・姜は、兄に合わせる顔がなかった。首を斬られたほうがましだったかもしれぬ、とさ
 え考えた。少なくとも虜囚の辱めはそれで終わるのだから。無惨な失敗は、姜をそこ
 までの自棄と虚無へ追いやったのである。
 が、その深みに落ち込んでゆかずとも済んだのは、妻と娘の存在だった。
 娘の美仙が泣きじゃくって父に取りすがる。妻の華鈴も涙を流しながら夫に訴える。
 この異郷で私たち母娘が頼るべきは、貴方の他に誰がおりましょうと。
・妻と娘の振り絞る紅涙が、姜の頑なな心を融かした。女たちの肌のおののきに、はっ
 と目が覚める思いである。
 結局、おのれは自分の体面しか考えていなかったのだ。敵国よりの逃還は忠臣の義務、
 そう思う余り、結果的に妻と娘を打ち捨てたも同然だった。 


・わしは蘇武になれぬ運命か。姜は妻に歎いた。人間として一人の男として、愛する女
 に弱音を吐いたのである。かつてないことであった。
・いいえ、と華鈴は間髪を入れずに首を横に振った。
 貴方の苦衷は蘇中郎の比ではありませぬ。蘇中郎は一人で忠節に殉ずればよかったので
 す。貴方は私たちを守るという荷を背負っておられます。その一事を以てしても、蘇中
 郎以上の苛酷な状況に直面していると申せましょう。瞳に力を込めて、華鈴はそう云う
 のである。
・ならば、と彼は問い返す。蘇武の如くならずとも、それでよいと?
 そうではございませぬ、と華鈴はまたしても首を横に振る。きっぱりと、力強く。
 逆、でございまっしょう。だからこそ貴方は蘇中郎を超えねばならないのです。
 いいえ、貴方なら必ずや超えることができましょう。わたくしは妻としてそう信じてお
 ります。
・蘇武を超える?ばかな、姜は初め一笑に付そうとした。
 蘇武を超えるためには、蘇武以上のことを成し遂げなければならぬ。
 そのようなこと・・・だが、と次の瞬間、彼の考えは一歩進む。
 では、蘇武が何をやったというのか。祖国への忠義を曲げなかった。それは今のおのれ
 と同じである。
 その他には、何を?雄羊を飼っていた。ただそれだけである。
 なんということか。彼は目から鱗の落ちるようにそう思い至り、やがてその目は炯々た
 る光を帯び始めた。
・虎穴に入らんずば虎児を得ず、という。おのれは今、望まずして虎穴に在る。ならば、
 虎穴から脱するより、虎児を得るをこそ念うべきではないか。
 されば、虜囚の身のおのれにとって、得るべき虎児とは何であるか・・・。
・ほどなくして大津の城下を歩き回る姜の姿が見られるようになった。
 監視の目は厳しかったが、藤堂良勝はそれだけの自由を異国の虜囚へ与えるにやぶさか
 ではなかったのである。 
・僧侶たちが彼に接触を図ってきた。げに僧こそは、未開の倭土の、しかも戦国の世にあ
 っての唯一無二の知識階層である、と彼の目には映じた。
・交友が始まった。筆談による交友である。それは束の間、虜囚の苦しみを姜に忘れさ
 せた。求められるがまま彼は好仁老師に詩を書き与えた。
・そんなある日のことである。詩の礼であるとして一冊の和綴じ本を見せられた。
 あいにく、贈呈は致しかねるが、書き写すぶんにはかまわぬという。
 「方輿職官」と題されたそれは、倭国の地理および官制に関する詳細な記録であった。
 これこそ姜の求めていたものである。
 彼は猛然と筆写した。
 さらに好仁老師は、親交のあった藤堂高虎の父からさりげなく倭国地図を借り受け、
 それも模写させてくれた。
・虜囚とはいえ、かくまでの自由がきいたのは、日本に連行してきたものの、その身を如
 何に処遇すべきか、藤堂高虎からの指示がなかったためであろう。
・その高虎が六月下旬、いよいよ朝鮮より帰国した。間もなく姜らを伏見に移送せよと
 の命令が大津に届いた。


・九月中旬、伏見に着いて間もなく、豊臣秀吉がこの世を去っていたことを姜は知った。
 倭国の情勢は容易ならぬ展開に向け動き出そうとしていた。秀吉一個の意思で海の果て
 に送り出され、彼の死によって異国に置き去りにされたに等しい十万余の軍卒をまず無
 事に撤退させねばならず、さらには秀吉亡き後、真の後継者を巡っての動乱さえ予感さ
 れた。
・姜が高虎の前に召し出される機会はなかった。
 姜とその一族は、高虎の伏見屋敷内にある大きな倉に居住させられた。
 監視役の市村老人は彼らに対してことのほか親切に接した。
・その年、すなわち慶長四年(1599)、異郷で成ったこの文を、姜は「賊中封疏」
 と題した。
 問題は、この貴重な密書を如何にして祖国朝鮮へ、国王殿下の御手へと届けるかである。
 

・何をおいても成し遂げねばならぬ。密書は相手に届けられてこそ意味を成す。
 姜の手元にある限り寸毫の価値もないのである。
 やがて彼は、一つの着想を得た。
・決行前夜、姜は華鈴におのれの意図を告げた。
 華鈴は「賊中封疏」を押し戴くようにして読み、うやうやしい仕草で彼に返すと、誇ら
 しげに微笑して、やはり貴方はわたくしの思ったとおりの大丈夫でございました、と云
 った。そして、蘇中郎をお超えになられたのです、と続けた声は篩えを帯び、もし貴方
 が命落すことあれば、わたくしとて生きてはおりませぬと告げた時には、幾筋もの涙が
 頬を伝った。
・姜は無言で白い手を引き寄せ、華鈴のからだを求めた。
 命の激しい燃やし合いは四更にまで及んだ。
・姜は眠りに落ちる寸前、ふと蘇武を思った。 
 漢に帰国した翌年、蘇武の息子が罪に連座して死んだ。
 そこで宣帝に請うて匈奴から一子を引き取る允許を得たという。
 忠義の臣は、胡妻を娶り、子まで産ましめていたのである。
 ああ、おのれは華鈴が側にいてくれたおかげで、薄れゆく意識の中、姜は妻に深く感
 謝した。倭奴の女と交情せずに済んだのは、不幸中の幸いであると。
・早朝、彼は暁闇を衝いて出立した。目指す先は泉州堺である。堺には明国の使者が逗留
 していた。
・昨年、倭賊の半島撤収にあたっては、甚だあやしむべきことに、和議を以て戦争を終結
 させる体裁がとられた。実質的には倭軍の明白な敗退であったにもかかわらず、そして
 和議であるからには、双方の間で質官(人質)が取り交わされた。堺の小西摂津守行長
 の屋敷に滞在しているのは、明国側の質官・王建功である。それを耳にした時、姜は
 秘策を着想したのだった。すなわち「賊中封疏」を明使に託す。 
・本国に直接帰るにせよ、朝鮮を経由するにせよ、密書が朝鮮王に届くは確実である。
 しかし、密書を渡したことが発覚すれば、その内容からして姜の死は免れ得ぬ。
・姜はこの決死行に申継李を案内人とした。継李は小西行長の軍に捕らえられ、行長の
 私奴として伏見屋敷で使役されている若者。堺へは使いで幾度も往復し、地理に明るく
 倭語にも精通、案内役としてこれに過ぐるはない。果たして然り、その夜のうちには行
 長の堺屋敷に潜入し、王建功との体面に成功していた。
・かくて姜の冒険は成就した。が、まもなく変事が起きた。
 彼らの潜入が監視者の気づくところとなって、姜と継李は捕縛され、一室に監禁され
 たのである。監視の長は、小西行長の甥、長右衛門である。
・長右衛門の顔に困惑の色が蔽った。名こそ質官であるが、和議の使者である。
 手厚くもてなすようにと、行長からも言い渡されていた。結局、長右衛門はその言を容
 れた。姜は縛を解かれ、伏見に帰ることができた。

・翌慶長五年二月、藤堂高虎は姜とその一族の釈放を命じた。決定に至るまでの事情は
 詳らかではない。 
 結局のところ、姜は高虎に見える機会を一度として持たなかった。
・釈放はされた。しかし、それは単に軟禁を解かれたというに過ぎなかった。帰国したく
 ば、自力で国に帰れというのである。 
・出国は藤原惺窩赤松広通の尽力あって実現した。
 姜らは伏見を発し、祖国への帰途に就いた。足かけ四年に及ぶ虜囚生活は遂に終止符
 が打たれたのである。
・その五ヵ月後、赤松広通は関ヶ原の戦いにおいて石田三成の西軍に属し、家康から自刃
 を命ぜられる悲運に見舞われた。
・さて、姜である。風雨による壱岐での足止めは十日間にも及んだ。
 端午節の朝、待望の船出の刻が迫り、下人が彼を部屋に呼びにきた。しかし姜の姿は
 煙の如くかき消えていた。


・何処とも知れぬ風景の中にある。
 気がつけば渾沌の中を溟滓のように漂っていた。驚くべきは、自分の姿すら見えず、
 つまりは意識だけということであるが、にもかかわらず彼の目には渾沌を視、耳は声を
 聴いた。
・四方どこから響くとも判らぬ妖しの声は、壱岐島の神であると彼は名のった。
・壱岐島の島神とやら、何あって我が前に現れたるや、と詰問口調で声を返した。
・島神は答えた。余は三年前、捕らわれのそなたがこの島を通過して南するのを憐れんだ。
 異国での虜囚、やわ生きては帰るまいと思ったが、今そなたは北に向かおうとする。
 快挙なるや。よって我はそれを祝福し、そなたの願いを叶えてやらんとするものである
 と。 
・島神は語り継ぐ。
 疑うなかれ、我は妖異の者にあらず。そなたの丹心に感じ入ればこそなり。そなたが明
 使に託せし密書は、王建功の武か河王朝なる者、これを携えてわが島を渡る。昨年六月
 の事であると。
・これを聞いてようやく姜の心は動いた。密書が無事に王の手元に届いたかどうか、常
 に気にかかっていた。
・島神はすかさず畳掛ける。
 申されよ、申されよ、そなたの存念、宿願を。
・姜はこれまでの艱難辛苦を思い出した。海に死んだ二人の我が子をはじめ、倭船に山
 と積まれた同胞たちの屍。あの地獄絵図がありありと脳裡に投影される。かかる非道、
 かかる暴虐は、報いられねばならぬ。報いることこそ我が使命である。姜は声を張り
 上げた。我が宿願はただ一つ、倭国征伐なり!
・眼前に、突如として大海原が広がった。彼は戎衣に身を包んで船上に在り、甲板は同じ
 く武装した兵士で満ち満ちている。否、満ちているのは兵だけではない。左右に目を移
 し、後方を振り返って彼は息を呑んだ。兵を満載した戦船が、樹林の如く視界を埋め尽
 くしている。海の色も見えぬほどのそれは大艦隊の威容である。再び視線を前方に戻せ
 ば、目に覚えのある緑の島が間近に迫っている。壱岐か?いかにもそれは壱岐島であっ
 た。
・倭国征伐!
 そうであったか。島神の云った「時の流れへ誘わん」とは、このことであったか。
 いつの日か、朝鮮は遂に倭国に膺懲の軍を発するのだ。その未来へ、島神はおのれを誘
 ってくれたのだ。
・姜の耳に、潮風に乗って将官の声が伝わった。我らはおのれに対馬島を平らげた。
 これより壱岐を殲滅すれば、倭の本土は指呼の間にあると。
 感動の余り涙が姜の頬を伝う。
・岸上に倭兵の陣する状が見える。我軍は数で圧倒しつつ続々と上陸を果たす。隊列を整
 え、赤幡を掲げて東の空と沖を拝礼すること三度、凄まじい吶喊に浜辺を揺るがせて進
 軍が開始された。衆寡敵せず、倭兵はたちまち退却する。僚兵これを猛然と追撃する。
・ふと彼が心に疑念を浮かばせたのは、倭奴の抵抗が終熄に向かう頃になってである。
 なぜ鳥銃を使わぬ?鉄砲こそは倭兵の長技というべきに。いや、倭軍のみならず、朝鮮
 兵も一挺だに所持していないのは甚だ以て奇怪である。
・殺戮が始まっていた。壱岐を制圧した我軍が、無辜の住民たちを見つけ次第、虐殺して
 いるのである。島民は老若男女を問わず嬲り殺されていった。見よ、面白半分に耳や鼻
 を削ぎ落す兵を、乳のみ子の股を引き裂く兵を。倭の女たちは彼処で凌辱され、あるい
 は掌に穴を穿たれ、綱を通して浜辺を引きずり回されている。阿鼻叫喚の地獄図絵が展
 開されているのだ。ははは、どうだ倭奴め、覚えたか。姜は報復の美酒に酔った。
・自らも虐殺の輪に加わるべく一歩踏み出そうとした時である。一人の将官の声を耳にし
 た。壱岐は制圧した。旗艦に戻り、金方慶将軍に告げよ、と。
・姜は落雷に撃たれたように足を止めた。金方慶だと?だがしかし、それは三百年以上
 も前の時代、高麗王朝の将軍の名ではないか。蒙古軍と共に海を渡し、倭国を征服せん
 として、大風により二度とも目的を遂ぐる能わざりし金方慶将軍。ああ、時の流れ、で
 は、遡ったというのか、それを。未来ではなく、過去へと。
・刹那、血が逆流した。姜は天を仰いで絶叫した。
 「嗚呼、因果、すでに応報せるか!」
・壱岐島北部の樋詰城跡、いわゆる元寇千人塚の前で茫然自失する姜の姿が発見された
 のは、その日の夕刻近くのことであった。その頭は雪のような白髪に変じていたという。
・姜は帰国後、幾度かの仕官の誘いにも頑として応じず、郷里の霊光郡に隠棲して後進
 の育成に力をつくし、萬歴四十六年(1618)、五十二歳でしんだ。
・生前、「賊中封疏」「賊中見聞録」「渉乱事述」などを纏め、「巾車録」と題したが、
 これを公にすることは許さなかった。彼の弟子たちが蘇武の故事にちなみ「看羊禄」と
 改題して刊行に踏み切ったのは、師の死から三十八年を経た後のことである。