風の男 白洲次郎 :青柳恵介 |
||||||||||||||
この本は、今から28年前の1997年に刊行されたもので「白洲次郎」の伝記である。 私は、白洲次郎といっても、終戦前後に洒落た身なりをした「日本人離れした自由人」 というイメージは持っていたものの、どんなことをした人なのか、まったく知らなかった。 この本読んで、白洲次郎という人は、終戦直後のGHQ占領下において重要な役割を果た した「戦後日本の影の立役者」であったということを私は初めて知った。 この本には現在の日本国憲法の原案となるマッカーサー草案が日本側に手渡される場面が 記述されており興味深く読んだ。 現在の日本国憲法は「アメリカから押しつけられた憲法」であるとする一部の人々、特に 自民党の保守派議員たちの主張がある。 しかし、当時の日本側が考えていた憲法改正案(松本案)は、現在の感覚からして、あま りにも旧態依然としたものであったと言えるだろう。 どうみても、マッカーサー草案のほうが、一般の国民にとって歓迎すべき内容のものであ ったと思う。現憲法が「押しつけられた」とか「押しつけられたものではない」とかとい う問題よりも、どちらの憲法が国民に幸せをもたらすのかという点のほうが重要なのだと 私は思う。 吉田茂首相のサンフランシスコ講和条約時の演説に関するドタバタについても、私は興味 深く読んだ。 吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約の受諾演説を行う際、当初は英語で演説を行う予 定だったようだが、それが二日前に突然、日本語で演説することに変更となった。 本来、独立を回復するための演説は、自国語で演説するのが国際的には一般的なようだが、 当時の外務省にはそういう国際感覚を持った人間がいなかったのか、それともアメリカに 忖度したのか、だれも自国語で演説すべきと主張する者はいなかったようだ。 吉田茂首相の演説が英語で行われる予定になっていることを知った白洲次郎は、土壇場で 自国語で演説するよう強引に英語の演説原稿を日本語に書き換えさせたとのことだ。 その時の演説原稿が30メートルもの巻紙となっていたため、一部のアメリカ人は「あれ はトイレットペーパーか」といぶかったようである。 なお、この演説が英語から日本語へ変更になったことについては、アメリカからの提案で 変更したのだとの説もあり、どちらが本当なのか確定していないようだ。 白洲次郎が戦後、電力事業の再編成に関わっていたことを、この本を読んで初めて知った。 戦時中は電力国家管理体制の下で日本発送電株式会社なる会社が日本全国の発電と送電を 一元的に行っていたのを、現在のような九つのブロックに分割したことに、白洲次郎が深 く関わったようである。 そして白洲次郎は東北電力の会長に就任したようだ。 東北電力は自分の住む地域の電力会社なだけに興味深く読んだ。 白洲次郎は度々秋田や山形そして福島など東北のダム発電所の工事現場に足を運んだよう だ。 白洲次郎は、蔵王の自然に魅了され、蔵王の山形県側の中腹(蔵王温泉)に山小屋を建て、 冬はスキーを楽しんだという。その山小屋(「ヒュッテ・ヤレン」)は現存しているよう だ。 当時、白洲次郎は、蔵王を「東洋のサンモリッツ」にしたらいいと、山形県知事や山形市 長などにはたらきかけたようだが、あまりに斬新的な発想で、当時の地元の人々はついて いけなかったようだ。 もし、白洲次郎の言うように動いていたら、現在の山形は国際的な一大観光地になってい たかもしれない。ほんとうに残念なことをしたと私は思う。 白洲次郎がしたためた遺書は、次の二行のみだったという。なんという思いっきりのよさ であろうか。 「葬式無用、戒名不用」 <私がかつて訪れたときの武相荘の写真> |
||||||||||||||
まえがき(白洲正子) ・白洲が死んで1年が経ったとき、お友達が命日に「白洲次郎をしのぶ会」を催して下さ った。 葬式も出さなかったくらいだから家族は御辞退したが、許しては下されなかった。 ・会は大盛況で、故人をしのぶというより、どちらかといえば肴にして、皆さん楽しんで 下さったらしい。 自分で言うのもおかしいが、それも人徳と思えばありがたいことであった。 ・その翌年も三回忌という名目のもとに集って下さったが、第一回におとらず盛会であっ た。 遺族としては、申しわけなく思ったが、「面白いパーティー」といわれたのでは、お断 りするすべもない。 さすがにその後はかたく御辞退することに心をきめたが、そのかわり、というわけでも ないが、どなたからともなく、語録を出してはどうか、というお勧めがあった。 ・語録なら差し支えないと思ったが、さて、書いて頂くのはどなたがいいのか、あまり偉 い先生にお願いするのは恐縮だし、取材もたくさんしなくてはなるまい。 それにはなるべく若い方で、筆も立ち、少しでも白洲を御存じの方がいい。 というわけで、私の友達の青柳恵介さんを推薦することにした。 ・それからが大変だった。 ひと口に語録といっても、日常生活の中で、ふと口をついて出た言葉はその場かぎりの もので、終始そばにいてノートでもとっておかないかぎり、覚えていられるものではな い。たとえ覚えていても、その時の雰囲気とか背景をヌキにしては、面白くもおかしく もないものである。 青柳さんを紹介するために、多くの方々に会ってみて、私はそのことを痛感した。 ・考えてみれば当たり前のことだが、結局、語録だけでは成り立たないことを知り、青柳 さんには非常に御苦労をかけることとなった。 まったく関係のない政財界の事情とか、今はもう影の薄れた終戦直後のいきさつを、 克明に調べなくてはならない。 彼は私たちの知らない方面まで手を延ばし、数えきれないほどの参考書を読んだ。 ほかの仕事を持っていたから、それだけに集中することは不可能であったろうし、たと え調べても無駄になることは多かったと思う。 ・あげくのはてに、完成するまでにはあしかけ三年もかかってしまったが、それは青柳さ んのせいではなく、半分は私の責任だと申しわけなく思っている。 第一章 ・昭和十一年八月のことである。 横浜からサンフランシスコに向かう太洋丸の甲板で、「辰巳栄一」は不思議な日本人と 知り合いになった。 その軍人の辰巳に向かって軍部の悪口をずけずけと言う。 「軍人は戦争のことだけ考えてりゃいいじゃないか。軍が政治や経済にまで口出しする なんていうのはとてもない話だ」 ・ことばは乱暴だが、目が澄んでいて微塵の悪意が感じられない。 彼はその年の二月に起きた皇道派青年将校の暴走(二・二六事件)にしんから怒ってい るようであった。 辰巳はこの男はただものではないと直感した。 男の名は白洲次郎といった。 ・辰巳栄一は、アメリカ、カナダを経由してロンドンに行く旅であった。 八月の異動で突如英国大使館付武官に任命されたのである。 ・辰巳は今度のロンドン行きは内心気が重かった。 目下の外交上のもっとも重要な案件は「日独防共協定」を如何に結ぶかということであ った。 政府の方針としては既に締結することに決まっていたのだが、手続きとして正式な協定 の成立以前に在外の李モナ大公使達の意見を求めた。 彼らは皆賛成したが、英国大使の「吉田茂」のみが反対の意見を示した。 辰巳は陸軍中央から「日独防共協定」の趣旨をよく説明し、吉田を説得するようにとい う指令を受けていたのである。 ・辰巳は、武藤元帥(「武藤信義」)が生きていられたら、と思うことがしばしばあった。 かつて一部の有力政治家の間に、次の総理大臣に武藤元帥を迎えようという動きがあっ た。 それとなく減衰の意向を伺ってくれと、陸軍次官から辰巳のもとに私信がとどいた。 ある日の夕食の折に辰巳がこの話を持ち出すと、武藤は即座に「私は生涯武人として生 きる。政治家になる柄でもなく、また政治は大嫌いだ」と答え、辰巳は襟を正す思いを 味わったことがあった。 武人の矜持というのだろうか。 その時、めったに人の悪口を言わぬ武藤が珍しく、宇垣一成大将のことを強く非難した ことも辰巳は忘れなかった。 ・思えば、辰巳が初めてロンドンに赴く際、「ロンドンは国際問題の中枢であるから、 広く国際関係の動きを学んでこい」と助言してくれたのも、当時の教育総監であった武 藤だった。 武藤はその広い見識といい簡素な生活態度といい、軍人の鑑のように思われた。 ・「日独防共協定」の締結を目前に控えた時期に駐英大使館付武官としてロンドンに渡る、 その船の甲板で突然に迫ってきた白洲次郎という男の、軍部に対する理路整然として、 かつ痛烈な批判は実は辰巳の旨の中にありものと同じだった。 ・ニューヨークで別れる際、白洲は「ロンドンでまた会いましょうや」と告げた。 辰巳は白洲次郎という男が、自分とはおよそ無縁の仕事をしている人間ではあるけれど も、自分にとって重要な関わりをもつ人間になりそうな予感をもった。 ワシントンの、それからカナダの駐在武官に立ち寄り、九月のじょうじゅんに辰巳は大 西洋を渡りロンドンに到着した。 ・大使館を訪れた辰巳を迎えてくれたのは、吉田茂と、何と白洲次郎であった。 聞けば、白洲は大使館を常宿としているという。 狐につつまれたような感じだった。 ・白洲は吉田に辰巳の紹介をはじめた。 「この旦那は、コチンコチンの軍人じゃないんだ。日本から船で一緒になっていろいろ はなしをして来たんだが、視野も広いし立派な人だ。これからよろしく頼みます」 吉田は白洲の一言でくつろいだ。 ・辰巳も自分の考えるところは率直に口に出すほうだが、それにしても白洲という男の何 と率直さ。 親子ほども年齢の違う吉田に対しても、思うままを言う。 そうしていうことだけ言うと、さっさと立ち去ってしまう。 ・着任してすぐにとりかからねばならぬことは、言うまでもなく「日独防共協定」の締結 を吉田に説得すことだ。 しかし、予想した以上に吉田茂の信念は強かった。 辰巳は、この協定はあくまでもイデオロギーの問題であって、政治的さらには軍事的な ものではないと説明するが、吉田は頑としてそれを聞かない。 ・「大体、日本陸軍はナチスドイツを買いかぶっとる。君は単に防共というイデオロギー の問題というが、この協定を結ぶことによって、日本は枢軸側につくことになる。 世界は今自由陣営と枢軸側と二つに分かれていて、日本はその中間の立場にある。 日本は外交上の言葉で言えばフレキシビリティを持っている。この際、日本は求めて枢 軸側につくべきではない。 一度この協定を結べば、将来政治的、軍事的なものに発展するのは目に見えている。 そうなれば今ヒトラーは随分と暴れているが、近い将来もし英米を相手にして戦を起こ しでもすると、日本は英米を相手にせねばならぬ。いったい日本の軍部にその勝ち目が あるのか」 ざっとそういう趣旨の反駁である。 ・所論堂々という印象であった。 辰巳は返す言葉がなかった。 きっぱりと先を見通す力には、白洲と同じ潔さを感じた。 そしてはっきり言葉に出しては言えなかったが、辰巳は吉田の考えに賛成だった。 辰巳は軍中央部に対し、「微力説得スルヲ得ズ」と打電した。 ・それから数日後、ベルリンの駐在武官、「大島浩」がロンドンに飛んで来た。 大島はドイツの「リッペントロップ」と共に「日独防共協定」の立役者である。 大島としては親英派の辰巳では埒が明かないということであったろう。 大島は吉田と三時間部屋に籠りきりで会談に臨んだが、大島も吉田を説得することがで きなかった。会談後食卓につくと吉田は得意の冗談を言って周囲の人々を笑わせた。 大島は翌日ロンドンを去った。 ・しかし、吉田大使不同意のまま昭和十一年の十一月には「防共協定」は調印されるはこ びとなる。 ・昭和六十二年の夏、私は白洲正子夫人に伴われて世田谷区成城にある辰巳栄一氏のお宅 を訪れた。 辰巳氏は小柄な方であったが、九十二歳とはとても思われぬ、矍鑠とした様子だった。 ・白洲次郎の思い出話を始められた辰巳氏は軍人というより、一人の老学者といった印象 であった。 記憶力が抜群である。 白洲次郎と親しくつき合った人々に共通する一種独特の清潔感、そして潔癖さに裏打ち された意志の強さのようなものが、会話の端々に感じられ、不思議なことだがそれが対 面する者にある種の安らぎを与えてくれる。 この人が三国同盟問題、あるいは東京の疎開問題で「東条英機」とあたりあった人であ るのかと思うと、感慨深かった。 (辰巳は昭和十九年二月十五日にサイパンの軍参謀長に転任の命を受けるが、同月十八 日急遽取りやめとなる) ・白洲次郎は昭和十五年に仕事から退き、小田急沿線の鶴川村に引き籠った。 白洲の国際情勢の判断は、このまま行けば日本が世界大戦に巻き込まれるのは必定とい うものだった。 戦争が始まれば、いずれ東京は爆撃に遭い、必ずや日本は戦争に敗れる。 そうして食糧難に陥るであろうというのが白洲の予見であった。 彼は水道橋にあった家を引き払い、鶴川村に五千坪ほどの土地を求め、百姓をするのだ と言って、都から身を引いたのである。 翌十六年二月八日、果たして日本は対英米宣戦布告に至る。 ・昭和十七年九月に帰国早々、東部軍参謀長に補せられた辰巳が先ず直面したのが、帝都 防衛の問題であった。 東条首相から「君はドイツ空軍の爆撃をロンドンで体験したただ一人の将官である。 東京もゆくゆくは敵の本格的な爆撃を受けるようなことになるかもしれない。東京は政・ 戦両面の中枢都である。君は帝都防衛の責任者として、各方面とよく協力して任務の遂 行を望む」という訓示を受けた。 ・日本の防空兵力は、戦闘機が五十数機、高射砲が六十数門しかない。 ロンドンの防空兵力とは雲泥の差である。 遠からず東京は爆撃される、 辰巳は会う人ごとにロンドンの実情を説明したが、軍の中枢部には帝都が爆撃されるな どと真剣に考えている人は皆無のように思われた。 ・当時、辰巳は小田急線の経堂に住んでいた。 昭和十九年、二十年になると、次第に食糧事情が苦しくなってきた。 その頃、辰巳は度々白洲の来訪を受けた。 しかし来訪と言っても、それは一風変わっていて、鶴川村で開拓して穫れた大根や人参 を新聞紙で乱暴にくるみ、ドサッと玄関に放り込み、そのまま立ち去って行くだけで ある。 これには辰巳の家人が驚いた。 「ちょっと声をかけて下さればいいのに」と家人は言う。 ドサッという音を聞き玄関に出てみると、すでにその姿はないのである。 辰巳の知り合いで、戦前から疎開を実行し、実際に百姓を始めたのは白洲次郎一人であ る。 ・「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、 ある日白洲さんが言えに見えて、『辰巳さん、俺、召集されちゃんたよ』と言われるん です。『白洲さん、あなたもう四十を過ぎてるじゃありませんか、丙種でしょ』という と、『ああ丙種』と。 東部軍の参謀長なんていう役職についていると、方々の人から召集についてはいろいろ 頼まれるんです。軍人の奥さんかんかからですね。私は一切そういうのを断っておった んですが、白洲さんの時は早速に召集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説 明し、そんな人を召集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取消 しになったんです。そうしたら白洲さん喜ばれましてね、いろいろ缶詰を山のように持 って来られまして、『これは辰巳さんの分、これはその召集主任にやってくれ』と、と ても感謝されました」 ・辰巳は昭和二十年三月に第三師団長となり、中国広西省の南寧地方に渡る。 そして八月十五日の終戦を九江で迎える。 中国で終戦処理にあたり、日本に帰ってきたのは昭和二十一年の五月であった。 ・留守宅は妻の郷里である島根県の大社に疎開していたので、辰巳は福岡に上陸するとそ の足で大社に帰った。 大社で一週間も過ごさぬうちに、復員局の「上月良夫」中将から「至急状況サレタシ」 という電報がと届いた。 ・辰巳は戦犯を覚悟した。 過去を振り返ると、日独伊三国同盟の欧米課長であったし、東部軍参謀長として俘虜問 題の責任もある。 ・辰巳は上京し、復員局長の上月中将のもとに出向くと、「すぐに吉田総理大臣のところ へ行ってくれ、あなたに会いたがっている」と言う。 いったい何事であろう。 吉田と久しぶりの面会をしてみると、挨拶もそこそこ吉田は切り出した。 「わたしはこの度総理になったが、相手は占領軍で、マッカーサー元帥以下ほとんどみ な軍人だ。私は承知のとおり軍人嫌いで、軍事のことは何もわからんので、君ひとつよ ろしく頼む」 吉田の横には、終戦連絡事務局次長となった白洲次郎が立っていて微笑みながら、 「辰巳さん引き受けてくれよ」と言う。 辰巳は意外な話に当惑した。 辰巳は追放の身である。 戦犯問題もこれからどうなるかわからない。 ・辰巳は一度大社に戻った。 すると、白洲次郎から上京をすすめる度々の連絡が入る。 再度上京し白洲と会うと、 「辰巳さんは戦争反対の電報を何度も打ったじゃないか。戦犯問題は俺が引き受けるよ。 ジイサンが言ってるんだ、承知したらどうだ」 と言う。 ・辰巳は「公職追放の身ですので、表向きはできないので、陰ながらお役に立つよう努力 します」と吉田に返事をした。 一応「Confidential Adviser」なる役職を与えられ、連合国総司令部(GHQ)に勤 務することとなった。 ・吉田が辰巳に先ず紹介したのが、参謀第二部情報局長の「チャールズ・A・ウィロビー」 少将であった。次長はR・S・プラットン大佐であった。 プラットンと辰巳は旧知の仲だった。 かつて辰巳が欧米課長を務めていた際、プラットンは語学将校として日本に滞在してい た。 辰巳はプラットンのところへ頻繁に通うようになる。 参謀第二部(G2)が収集した種々の情報、終戦後追放となった元将校の動静、共産党 の動き、その他の国の内外の諸問題、についての辰巳の所見が求められた。 やがて、ウィロビーの発案でG2直轄の情報機関として、「河辺虎四郎」を中心にした、 いわゆる河辺機関が作られることになる。 ・昭和に十三年に国外ではソ連によるベルリン封鎖問題が起き、二十四年には「平事件」、 「下山事件」、「三鷹事件」、「松川事件」などの社会的大事件が相次ぎ、二十五年六 月には朝鮮戦争が勃発する。 アメリカの日本に対する態度は急速に転換する。 ・ウィロビーは辰巳に「講和が成立したら米軍は日本から撤退することになる。 その時は日本は自分の力で国を守らねばならぬ」と言い、日本の再軍実を促す。 ・昭和二十五年七月にマッカーサーが警察予備隊創設を指令する。 警察予備隊の創設に辰巳は中心的な立場で参加することになる。 ・一方、講和の問題も本格化し、昭和二十六年一月には講和特使ダレスが来日し、吉田に 講和後の再軍備を迫る。 ・辰巳栄一は表にこそ出なかったけれども、警察予備隊、及び自衛隊創設の中心人物であ った。 ・辰巳はしばしば吉田茂に再軍備、憲法改正の必要性を訴えたという。 しかし吉田はそれに応じなかった。 吉田は、再軍備反対、憲法改正反対の理由を三つあげた。 第一に、日本は敗戦によって疲れ切っている。いかに頑張ってみても、諸外国に対抗し 得るような軍備を持つことは財政上不可能である。今は経済力をつけて民生の安定をは かることが先決問題だ。 第二に、国民の間にみなぎっている反戦、反軍の思想は、日本の再軍備に反対である。 戦争による傷跡はまだ深く残っている。 第三に、日本が今再軍備することになれば、近隣の諸国に、日本に再び軍国主義が復活 したという不安を与える。 ・辰巳はこの問題に関しては自説を譲らず、自衛隊法ができた際には、「自衛隊が国土防 衛の任務を与えられた以上、当然憲法第九条は改正されるべきである」と主張した。 ・辰巳と吉田が再軍備をめぐって議論していた当時、終戦蘭楽事務局は解散し、白洲次郎 は「東北電力」の会長として電力業界に身を投じていた。 第二章 ・白洲次郎は明治三十五年(1902)二月、兵庫県芦屋に生まれた。 白洲家は元禄時代から歴代儒者役として三田藩主九鬼氏に仕えた家柄である。 ・白洲次郎の父親の「白洲文平」は、若くしてアメリカに渡り、ヨーロッパにも留学した 明治の新青年であった。 留学中に「池田成彬」を知り修正交わりを結ぶ。 ・次郎の父親の文平には逸話が多く、けた外れの豪傑であった。 彼は建築が道楽で、家にミヨシさんと呼ぶ腕のいい大工を住まわせており、次郎は子供 の頃、その人から多くのことを学んだという。 ミヨシさんは、京都の御所の宮大工であったが、大酒飲みで、御所の修理中に酔っぱら って失態をしでかし、首になった。 それを哀れんで、というより、その腕に惚れ込み、彼を家にひきとったのである。 ・破産した後、小さな家に移った母親は、これでやっと人並みの暮らしができると喜んで いた。 やがて金も仕事も失った父親は、阿蘇山の麓の荒涼とした畑の中に、六畳ひと間の掘立 小屋を建て、たった一人で愛犬とともに暮らしていた。 狩猟が好きだったから、毎日犬を連れて、山を歩いていたのである。 その孤独な老人の姿を想うと同情に堪えないが、この世に生まれて、思う存分やりつく したという諦観には達していたと思う。 そうしたある日のこと、掃除のために近所の農家のおばさんが来てみると、ベッドの中 で死んでおり、ベッドの下には棺桶が用意されていたという。 ・次郎の少年時代、文平の羽振りは相当なものだった。 綿の貿易商「白洲商店」にはアメリカの綿産地の天候が逐次打電され、文平自らが作況 の統計を作るというふうであったという。 白洲商店の番傘には「二十世紀の商人白洲文平」と大きく書かれており、文平には「白 洲将軍」というあだ名がととけられた。宏壮な邸宅が芦屋にあった。 ・文平の次郎に与える小遣いは法外なものであったらしく、その与え方も「これで一年過 ごせ」といったような按配で、文平の金に対する観念は常人のそれを隔絶していた。 中学生の次郎に当時珍しかった自動車を買い与えるぐらい何のこともなかった。 次郎が「傲慢」もしくは「驕慢」になるのは言ってみればあたりまえである。 ・中学生の次郎が乗り回していた車は、アメリカのペイジ・グレンブルック、1919年 型、であったという。 ・次郎は、大正八年神戸一中を卒え、英国に渡り、ケンブリッジ大学のクレアーカレッジ に入学することになる。 ・次郎が大正八年に英国の渡り、大正十四年にケンブリッジ大学を卒業し、昭和三年にお りからの金融恐慌の波をかぶり、実家が倒産し、帰国するまでの九年間、英国で次郎が どのような生活を送ったか、それを知る手がかりは少ない。 しかし、生前に彼が近しい人々に語ったところを総合すれば、この九年の歳月の間に白 洲次郎は白洲次郎になったのである。 自己を磨いたと言ってもいいし、己に目覚めたと言ってもいいが、君子豹変すという古 い言葉を用いたい気がする。 おそらく、彼は「島流し」にあって自らの「傲慢」「驕慢」を国際的に試したに違いな い。そうして、己の豹たることを自覚したに違いない。 ・ケンブリッジ大学を卒業した次郎は、昭和三年(1928)に帰国する。 十五銀行がつぶれ、「白洲商店」が倒産したためである。 倒産していなければ、学問をつづけ中世史を専攻する学者になっていたところだったと いう。 世界大恐慌を翌年にひかえ、次郎はいよいよ、自分の力で稼がねばならない立場に立た された。 日本の土を再び踏んだのは、彼が二十六歳のときである。 第三章 ・白洲次郎が「樺山愛輔」の娘・正子と結婚したのは、昭和四年のことだ。 次郎二十七歳、正子十九歳。 仲人は「大久保利武」(「大久保利通」の子息)だったが、二人の交際のきっかけを作 ったのは正子の兄、樺山丑二だった。 ・樺山丑二は昭和二年にアメリカのプリンストン大学を卒業し、さらに遊学をつづけよう としていたが、父・愛輔の関係していた十五銀行が倒産したために余儀なく帰国せざる を得なくなった。 女子学習院卒業後渡米し、ニューシャージー州のハートリッジスクールで勉学をつづけ ていた樺山正子も、昭和三年の春、兄とともに帰国した。 ・白洲次郎の口から時に「noblese oblige」(高貴さは義務を課す)という言葉が発せら れるのを聞いたと証言する人は多い。 一般的なこととして言えば、どんなに生まれ育ちがよい人間でも、日本人が、 「noblese oblige」などと言いながら、一種の使命感をもった素振りをされたら、 何とも気障で歯の浮くような印象を与えるだろう。 しかし、白洲次郎の生涯眺めわたしたとき、彼が身をもって実行し、己を律し、さらに は高い立場にいる人間を容赦なく叱りつける際の言葉として浮かんでくるのは、不思議 なことにさらりと気障な衣装を脱ぎ捨てた、この「noblese oblige」という言葉である。 おそらく彼は、この語を受動的に解することをせず、きわめて攻撃的な語として用いた のである。 十年近くイギリスの遊学し、ベントレーやブガッティーを乗り回す生活をしたという特 権を、なんらかのoblige(義務)として社会に還元せねばならぬというふうに考えたは ずである。 ・次郎と正子が結婚するに当たっては次郎の父・文平は結婚祝いとしてランチア・ラムダ という、当時東京に二台しか走っていない自動車を贈り、正子は樺山家から家事を任せ る特別な女中さんを連れて嫁入りしているのである。 今日の感覚で言えば、それほどの経済的な余力があるなら、まだイギリスなりアメリカ なりで勉学を続けられるのではないかと思ってしまうのだが、彼らは早速に帰国させら れたのである。 ・白洲次郎氏が夫人に対して我慢強かったことは確かだったろうが、逆を言えば正子夫人 が次郎氏に対して「我慢強かった」のも本当のところだろう。 白洲次郎氏とだけつき合いがあって、正子夫人をしらないある人が、「白洲さんのよう な方の奥様はさぞ大変な御苦労をなさったでしょうな。よほど辛抱強い方でなければつ とまりますまい」と言ったという。 ・ある時、私の友人は次郎氏から「君に夫婦円満の秘訣を教えてやろうか」と話しかけら れ、是非ともお願いしますと耳をすましたら「一緒にいないことだよ」と語ったという。 ・昭和四年に正子と結婚した次郎が、昭和十五年に三十八歳で職を退き、鶴川村に疎開す るまでの間に、彼は三つの職についている。 彼が生涯のうちで最も「生活に苦労した」時期を上げるとすれば、この時期であろうし、 また俗な言い方になるが、世に出る準備の時期でもあっただろう。 当時珍しかった自家用自動車を父から贈られたとはいえ、実家は倒産の憂き目にあって いるし、夏には樺山家の別荘とは別の別荘を軽井沢に借り切って生活するとすれば、か なりの生活費を稼がなくてはならない。 ・三つの職業の最初は、「ジャパン・アドヴァタイザー」という英字新聞の記者。 やがてケンブリッジ時代の友人ジョージ・セールとの縁で、二番目の商業セール・フレ ザー商会という貿易会社の取締役に就任している。 セール紹介という会社は現在では聴きなれない商社名となってしまったが、当時は多方 面の商売を行っていた大手の外資系の商社だった。 日本におけるフォード自動車の一手販売を担っていた。 (ちなみに、大正末年の資料によれば、当時日本に存在した一万五千台の乗用自動車の うち、七十六パーセントがフォード自動車であったという) 次郎二十九歳、月給は五百円であった。 ・その後昭和十二年三月に、白洲次郎はセール・フレーザーから、日本食糧工業に移籍す る。 日本食糧工業は、共同漁業に吸収合併され、水産関係を統合した日本水産株式会社へと 発展する。 ・戦争が始まる前まで、白洲次郎が日本に「滞在」したのは一年四カ月ほどだという。 日本水産時代も毎年イギリスへ行き、鯨油を売りに行ったというのが彼のもっとも大き な仕事だったようだが、意地を張って、自分でも食べぬ鯖缶を英国人に食べさせたとい うのは、いかにも当時の彼の気概があらわれているように思われる。 ・しかし、昭和十六年に太平洋戦争が勃発すると、やがて農林省から水産統制令が発令さ れ、日本水産株式会社は、日本海洋漁業統制株式会社と帝国水産統制株式会社に分割さ れることになる。 白洲は辞表を提出し、正式に三度目の職場を離れる。 日本海洋漁業のもち船は次から次に徴用され、戦争で沈没していった。 ・昭和初期の職歴とは別に、白洲次郎にはもう一つの活動があったと思われる。 それは吉田茂、あるいは近衛文麿との関係において現れる。 ・近衛内閣の成立の時から、白洲は「政治の野次馬みたいになった」という。 彼自らが言う「政治の野次馬」とは何だろう。また、彼はいかなる「野次馬」であった のだろうか。 ・近衛文麿は長男の「近衛文隆」を、昭和七年にアメリカのローレンスヴィルへ留学させ、 卒業するとプリンストン大学へ入学させた。 文隆のアメリカ留学の世話をしたのは、「樺山愛輔」だった。 樺山は、元駐日大使であった「ローランド・モリス」に文隆を預けた。 ・文隆が樺山の世話でアメリカ留学を続けている昭和九年に、白洲次郎の幼馴染の「牛場 友彦」が近衛文博に従い、二か月間のアメリカ旅行を行った。 この旅がきっかけで昭和十二年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるので ある。近衛文麿が四十六歳、牛場友彦が三十六歳の時である。 ・今更ここで書くまでもないが、近衛文麿の登場に対して、当時の世の中の人々が期待す るところは多大であった。 近衛は文人政治家のいわば最後の切り札として政界にかつぎ出された。 ・これもまた周知のことだが、近衛はいつか軍部の力をひっくり返そう、いつか機をつか んで戦争を終結にもっていこうという努力をしたが、時代の波に呑まれてしまった。 その近衛文麿という人物を青年白洲次郎がどのような目で見ていたのか、それはわから ない。 ・近衛文麿が白洲家に遊びに来たおり、近衛が興に乗じて何か書をしたためようというこ とがあったそうだ。 筆硯を用意すると、近衛は、これは「小野道風」の字、これは「橘逸勢」の字、これは 「世尊寺流」の字と、古来のありとあらゆる書体で筆をあやつることができるような印 象で、周囲の人々を驚かせたが、正子夫人が言うには、決して自分の字でものを書かな かったことが、悲しいような気がしたという。公家の孤独が惻々と伝わってくるような エピソードである。 ・比喩的に言えば、白洲次郎は自分の書体でしかものが書けなかった人だ。 人と会えば相手が誰であれ、先ず自分の意見をぶつける人である。 白洲が牛場友彦と極く親しかったにもかかわらず、近衛文麿のブレーンから一歩離れた 場所にいたような印象を受けるのは、近衛に一種の「公家の孤独」のような壁があった からではなかろうか。 しかし、白洲にしてみれば、近衛もしくは近衛側近グループとの付き合いによって、 時代を読む目は養われたはずである。 日本の政治の動きが欧米にどう響いて行くか、あるいは欧米の世の動きに日本の政治が どう対応しているか、それを白洲は度重なる洋行の折に、自分の目で確かめたはずであ る。 昭和十六年以前に白洲が、日本は必ず英米を相手に戦争を始めるだろう、そして必ず敗 れるだろう、そして日本は食糧不足に陥るだろうと予測し、鶴川村に引き籠った。 その先見性は、当時の日本の政治に対する絶望から成り立っている。 ・正子夫人の文章にも「吉田さんも育ちは江戸っ子で、毒舌家で、向う気が強かったから、 白洲とははじめからウマが合ったらしい。大使館の地下室で、ビリヤードをいっしょに していると、『コノバカヤロー』、『コンチクショウ』、時にはもっとひどい罵詈雑言 が飛び出す。 『喧嘩をしていらっしゃるのでは・・・』と、館員さんが心配して呼びに来るようなこ ともあった」という件があるが、まことに気のおけない二人の交友ぶりが髣髴としてく る。 ・正子夫人の話でも、麻生和子の思い出でも、吉田茂と白洲次郎は「ウマが合った」と言 うよりも、その性格が実によく似ていたというべきだろう。 ・吉田と白洲との二人の個人的な思い出の中ではロンドン時代は楽しく、なつかしいもの であったろうが、世界情勢は二人にも厳しく迫っていた。 あるいは、日本の孤立を誰よりも憂える二人が、大使館の地下室で放った「コノバカヤ ロー!」「コンチクショウ」という声は日本を動かしている首脳部に対して向けられて いたと考えるべきかもしれない。 日本の商売人は一寸成功すると金持ちぶった態度をとるし、外交官は自分の保身ばかり 考える。 ・昭和十五年の「日独伊三国軍事同盟」につながって行く「日独伊三国防共協定」が結ば れたのは昭和十二年十一月、やがて吉田は官を辞し、帰国し、いわゆる「ヨハンセング ループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれる反戦活動を開始することになる。 一方、白洲は四十歳にも至らぬ年齢で、鶴川村に隠居することになる。 ロンドンの大使館でビリヤードに興ずる二人が、まさか敗戦直後の日本の行政を担う二 人になると誰が想像しただろうか。 第四章 ・「小林秀雄」は、「私は隠居という言葉を考えてみようと思って、英国に長いこと暮ら し非常に英語の堪能な男に、隠居という語は英語で何というのか聞いてみたのです。 そうしたら彼は『カントリージェントルマン』と言うのだと答えました』と言うのだと 答えましたと話し、講演の聴衆からその意外な訳ゆえであろう、笑い声が起こり、小林 氏はひきつづき、「しかし、隠居はカントリーには行かないのだ、横丁にいるんです。 おそらく隠居という思想は東洋独特のものだろう」と話しを続けている。 ・小林秀雄に「カントリー・ジェントルマン」と告げた男は、白洲次郎であったろう。 白洲の次男・兼正と小林の一人娘・明子とが結婚しており、二人は縁戚観慶でもあった。 ・しかし三十八歳の白洲次郎の「隠居」を東洋的に捉えると誤ることになるだろう。 「カントリー・ジェントルマン」は、毎朝新聞を読み、常に中央の政治に目を光らせ、 「いざ鎌倉という時は、中央へ出て行って、彼らの姿勢を正す」のである。 いかに彼が世界大戦に巻き込まれていくような日本の政局に絶望を抱いていたとしても、 彼は遁世を試みたわけではない。 カントリーにおいて、世の中をにらみ返す覚悟を決めたのである。 ・それともう一つは、白洲次郎には、農業という自らの肉体を濃くして食料を生産し、 それを人々に供する行為に対して素朴な憧れがあったと思われる。 ・白洲次郎が再び日本の表舞台に登場するのは、昭和二十年の十二月である。 白洲が十二月に終戦蘭楽事務局の参与として公職につくことになったのは、時の外務大 臣(終戦連絡事務局総裁を兼ねていた)吉田茂の要請によるものであった。 翌二十一年三月にはその終戦連絡事務局の次長に就任し以後ほぼ占領の全期間中GHQ 当局との交渉に当たることになる。 そして、後世のジャーナリストは白洲を特に「新憲法誕生の生証人」というふうに捉え、 彼は概ね口を閉ざすことになる。 ・昭和三十一年八月号の「文藝春秋」に発表された牛場友彦の「風にそよぐ近衛」という 文章は、は以前から自殺にいたる数か月間の近衛の心中の動揺を記したものであるが、 近衛という人をよく理解している牛場ならではの鋭い観察の光っている的確な文章であ る。 当時、近衛が最も恐れていたことは共産分子が軍の強硬論者一味を利用して敗戦、国内 混乱から革命の目的を達しようとするかもしれないということだった」という。 近衛は、マッカーサーが厚木に降りるまでの約半月間は絶えず身辺の危険を感じ、荻窪 の自宅に帰らず、秘書官の細川護貞、美術愛好家仲間の「わかもと」社長の長尾欣爾、 知友の後藤隆之助の家を毎夜泊まり歩いた。 近衛は自分の心配が杞憂になりつつあると知ると、関心事は徐々にアメリカの対日政策、 そして自分自身の身の上に移って行った。 ・アメリカ側から言っても近衛は日本で最も興味のある人物の一人だったらしい。 続々と乗り込んでくる新聞特派員たちを始め、いろいろな人が面会を求めた。 近衛はアメリカ人あまり家人の感たえ方を知るためにもつとめてこれに応じた。 これらのインタビューは例外なく友好的で、近衛に対する悪感情はおよそ感じられなか った。 近衛に対する攻撃は国内から起こった。 特に九月末頃の朝日新聞社説の近衛文麿攻撃は痛烈だった。 しかしこれらの攻撃が終戦直後に起こらずに、進駐軍の威力が絶対的になってから起こ ったことは興味あることだ。 ・近衛は東久邇宮内閣の国務大臣、副総理を務めていたが、九月末に東久邇宮首相がマッ カーサーと会見し、「この内閣の閣僚中に、やめた方がよいものはいないか?」と率直 に尋ねると、マッカーサーは「一人もいない」と明言した。 その報告を受けて、近衛は初めて安心した。 さらに十月に近衛は司令部を訪問し、マッカーサーから、日本は新しい憲法を作らねば ならないが、貴下がその任に当たれ、またこれから新しい民主主義のリーダーとなっ て国民を導けという激励の言葉を受けた。 「この時の会見で暗雲の晴れかかっていた近衛の胸は日本晴れになった」と牛場は書き、 「大いに勇気づけられた近衛は、彼の悲劇がここから始まるとは知らずに、一途に憲法 改正の仕事に取り組む決意を固めた」と書く。 しかし、その直後、内務大臣、警視総監、警察部長を罷免せよという指令が出て、 東久邇宮内閣は瓦解する。 さらに十一月二日の司令部の覚書で、近衛を中心とする憲法改正の動きは当局司令部と しては関知せぬことであるという発表があった。 結果を見て、マッカーサーの「食言」であり、これが決定的に近衛に打撃を与えるので ある。 ・牛場は、近衛とマッカーサーの会見と、十一月二日の覚書発表の間に、アメリカ本国で 重大な対日政策の決定がなされたのだろうと推測する。 日本の戦犯問題をどう処理するかという根本方針が十一月二日の直前に決まったのだろ うという感触を、牛場は当時毎日のように連絡をとっていたマッカーサーの副官のフェ ラーズ准将とのやりとりから得たという。 ・十一月九日には近衛は芝浦沖に碇泊中の米海軍の砲艦において戦略爆撃調査団の査問を 受け、完全に打ちのめされた。 近衛はそれでも十一月二十二日に憲法改正要綱を天皇に奏上し、同二十四日には「佐々 木惣一」博士が草案を進講した。 ・近衛は戦犯に指名されても巣鴨には行かない覚悟を早くから決めていたという。 ・それにしても、天皇神権論の憲法などアメリカに通じるはずはないと白洲は思っていた。 天皇神権論の憲法草案を作成した「松本烝治」に「そんなのだめです」とはっきり進言 した日本人が当時ほかにいただろうか。 白洲次郎は、その後アメリカ人を相手に「言いたいことは言う」という態度を貫いたが、 その前には日本人を相手にしても、言いたいことだけは言ったのである。 彼が言いたいことには、よく先が見える目の裏付けがあった。 ・十二月十五日の荻外荘における近衛文麿の、言わば最後の晩餐に招待された白洲次郎は、 自宅の部屋に入ったまま動こうとしなかったという、彼は最後の晩餐に欠席したのであ る。 ・近衛は「刑務所は寒いから」といって贈られた毛布やセーターに全然関心を示さなかっ た。白洲には、この段階で「自殺反対論」は無駄なことだと思われたのだろう。 最後の晩餐への不参加は、白洲流の近衛に対する礼儀であったと思われる。 ・白洲の終戦連絡事務局での初仕事(というよりも、白洲の仕事は次々に沸き起こってく る難問を片っ端から処理していくというものであったようだが)は、「バー・モウ事件」 ではなかったかという。 ・吉田外相はサザランド参謀長に呼ばれ、松嶋鹿夫次官はCIS(民間諜報部)のソープ 准将に呼び出されて質問を受けた。 松嶋次官はソープ准将から「吉田外務大臣の首はもちろんのこと、天皇制も吹っ飛ぶ ぞ」とどなりつけられた。 ・白洲次郎は「バー・モウ氏のいうような地下反抗運動などは全然無根のことだ。とにか く果たしてそういう運動があるかどうか、現地に人を派して調査させるから、しばらく 待ってもらいたい」と、ソープ准将に申し入れ、終戦連絡事務局の政治部長曾禰uが六 日町に向かった。 もとより地下組織などなく、CIDも事実無根のことと結論を出し、拘置された関係者 も釈放され、バー・モウだけが所期の目的を達し、独立を果たしたビルマに帰国した。 ・後代の我々から見れば、いささか滑稽な印象すら受ける事件であるが、当時としては吉 田外務大臣の責任問題にまで発展しかねなかった危うい事件であったという。 ・昭和二十年暮れから二十一年にかけて日本政府に課せられた最大の問題が憲法の改正問 題であったことは言うまでもない。 近衛の憲法草案作成は挫折するし、またマッカーサーが幣原首相に指示した、いわゆる 「民主化五要求」を受けて設置された「憲法問題調査委員会」の松本案が二月一日新聞 に洩れ、その旧態依然としたプランを総司令部が無視することによって、実質的に頓挫 した。 ・昭和二十一年二月十三日、総司令部民生局長「コートニー・ホイットニー准将」は、 ケネディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐の三幕僚と共に、麻布市兵 衛町の外務大臣官邸を訪れた。 これを迎えた日本側のメンバーは、外務大臣吉田茂、憲法担当国務大臣松本烝治、通訳 に当たる外務省の長谷川元吉、そして白洲次郎の四人であった。 ・ホイットニー将軍は、ゆっくり次のように述べた。 「先日諸君が提出された憲法改正案は、自由と民主主義の文書として最高司令官が受諾 するにはまったく不適当なものである。 しかしながら、最高司令官は、過去の不正と先制から日本国民を守るような自由かつ 開明的な憲法を日本国民が切望しているという事実に鑑み、ここに持参した文書を承認 し、これを日本の情勢が要求している諸原理を体現した文書として諸君に手交するよう に命じられた」 ・ホイットニー将軍のこの声明に接して、日本側は明らかに愕然とした。 ことに吉田茂氏の顔はショックと憂慮の表情を示していた。 ・三十数分後、白洲にうながされてホイットニー等は再び席に着いた。 松本国務相は「草案を読んでその内容はわかったが、自分の案とは非常に違うものなの で、総理大臣にこの案を示してからでなければ、何も発言できない」と述べた。 松本はホイットニーの話すことを非常に注意深く聴いていたが、決してホイットニーの 顔を見ることはしなかった。 吉田外相は「暗く厳しかった」が、熱心にホイットニーを見つけていた。 長谷川通訳官は、口を開くときに「生理的困難を感じ、たえずその唇を濡らしていた」 ホイットニーの発言中、白洲は「鉛筆でたくさんノートを取った」 ・ホイットニーは、最高司令官マッカーサーが天皇を戦犯として取り調べようという圧力 から天皇を守ろうと思っていること、この憲法が受け容れられれば「天皇は安泰」にな ること、さらに「日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与 えられる」と考えていることを告げた。 ・また、マッカーサーはこの憲法の案を受け容れることを「要求」しているのではないが、 もし「あなた方」が「この案に示された諸原則を国民に示す」ことをしないならば、 「自分でそれを行うつもり」であること、そしてこの案を受け容れることが「数多くの 人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会」であり、「あな た方が『権力の座に』生き残る期待をかけるただ一つの道」であるとマッカーサーは考 えていると告げた。 ・吉田茂はホイットニーが話している間、「両方の掌をズボンにこすりつけ、これを前後 に動かしていた」。 ・松本博士は草案中の国会に関する規定について、「そこでは一院制が採られているが、 これは日本の立法府の歴史的発展とはまったく無縁のものである。したがってどういう 考えでこの条文が作られたか知りたい」と述べた。 ・これに対しホイットニーは、華族制度が廃止になること、この草案の「抑制と均衡の原 理」のもとでは一院制の議会をおくのが簡明であること、アメリカの下院に相当するも のは必要がないと考えると述べた。 ・再度、松本博士が二院制の長所を述べると、ホイットニーは「この憲法草案の基本原則 を害するものでないかぎり、博士の見解について十分討議がなされるであろう」と答え た。 ・吉田が、すべて総理大臣に報告せねばならぬこと、総理大臣および閣議の意見を徴しし てから、次の会議の機会をもちたいと述べた。 ・「江藤淳」氏は特にこの記録の冒頭を取り上げ、「ホイットニーは、倦き淦に日本側に 心理的圧迫を与えようという意図をもって、『太陽を背にして坐った』のである」と言 い、また、「ポーチを去り日光を浴びた庭に出た」後の彼らと白洲とのやりとりを、 「いうまでもなく、ここでもホイットニーはが飛び去った米軍機の爆音を計算に入れて、 わざわざ『原子力エネルギーの暖』に言及し、米側に三発目の原爆攻撃を行い得る能力 があることを誇示して、白洲氏に心理的圧力をかけようとしたことは、あまりにも明ら かだと言わざるを得ない」と述べている。 ・ホイットニーの一連の行動と言辞が吉田等に対して甚だ威嚇的なものであったことは、 右の記録を一読する者誰しもが持つ感想であろう。 ・私は今ここで現憲法が「押しつけられた」のか「押しつけられたものではない」のかと いう議論をしようとは思わない。 また、ホイットニーの言辞や行動に批判を加えようとも思わない。 ただ、ケイディス、ラウエル、ハッシーの三人が「階段から戻った直後一時間以内に」 「記憶を持ちよって、できるだけ正確に状況を記録したもの」という、その記録自体が 舞文曲筆とは言わないまでも事実を粉飾したものになっている疑いは充分にあると思う。 ホイットニー等がいかに威風堂々と、オドオドとする日本の代表者達に対して接し、 憲法草案を手交したか。 あるいは、戦争の勝者が、敗者の立場、それも「あなた方」「数多くの人によって反動 的と考えられている保守派」の立場も斟酌はするが、「基本的自由」を「与えられる」 べき日本国民を充分尊重したうえで、「保守派」の愕然とした反応の中で「劇的緊張感 に満」しつつ草案を手交したという一文を綴ることによって、民政局の権威は高めら れ、彼らのヒロイズムは満足されるのである。 ・白洲はびっくりしなくとも、日本政府は「大さわぎ」であったことは想像するに難くな い。手交されたGHQの草案を前に、対応策もなかった。 翌々日の二月十五日、白洲はホイットニー宛の手紙を出している。 いわゆる「ジープ・ウェイ・レター」として有名なものである。 ・「彼らの政府は、政党政府ではありません。彼らには、どこまで国民の支持をあてにで きるかを知る方法がありません。彼らは毎日、いろいろな新聞を見て、極端に左翼的な 直接行動について(の報道を)読んでいまいます。 しかし、他方彼らは、国民の大多数が激しく共産主義に反対し、心から天皇に味方して いることを知るすぎるほどよく知っています。 彼らは、いかなる改正であれ、それが「あまりにも急進的な」形で提出されれば、議院 で野次り倒されるだけで、それによって何も成し遂げられぬだろうということを、恐れ ています。 いまもなお彼らは、この国の政党政治の時代を、はっきり記憶しています。 政党政治がしばしば近視眼的であり腐敗していたとしても、当時政党が『民主的原理』 と考えていたものは、すみずみまでいきわたっておりました。 国内いたる所で、軍人は非常に蔑視されました。 軍軽蔑熱は、遂に、士官がサーベルをさげては電車にとうてい乗れないというところま で行きました。 予算は、軍備に関しては、各方面で削減されました。 はたして、烈しい反動が起こって、貴下のよく御承知の軍国主義が登場しました。 彼らは、あまりにも完全な改革を即時に行うことは、(このように)あまりにも極端な 反動を招来するのみだろうと恐れており、それを避けることを切望しているのです。 改正を発議する権利が、ひとたび天皇ではなく衆議院に与えられれば、戦いは勝利も同 様で、それ以後の政府は、国民の意思に従い、その欲するだけ改正できるだろうという が、彼らすべての一致した気持ちだと、小生は考えます」 ・白洲の「ジープ・ウェイ・レター」は、松本国務相、吉田外相と相談の上、一任された 彼がしたためた手紙であって、白洲のみが綴られているのではないと推察されるけれど も、手紙の内容の率直さには白洲の個性が光っている。 ・手紙では白洲は一貫して、「日本側(重臣)を『彼ら』と記して」おり、本来なら、 この『彼ら』は(我々)でなければならない」という感想は、この手紙を読む誰もが持 つものであろう。 ・だが、一方で、”やっぱり、そうか”とホッとする思いも膨らむ。次郎の、いかにも次郎 らしい「騎士道」が見えるのだ。 日本側の閣僚を「彼ら」と呼ぶ姿勢には二つの意味があると思う。 一つは自分は日本の政府を代表する者ではない、あくまで「連絡機関の責任者」であっ て、そのつもりでこの手紙を読んでもらいたいという周到な配慮である。 そして、もう一つは、そうした立場であるからこそ率直に自分はものが言えるのであり、 自分は自分個人に立脚しないもの言いは決してしない、という態度表明である。 ・「ジープ・ウェイ・レター」の語るところを現在読んでみると、重要な点が二つあると 思われる。 一つは、この手紙ではじめてGHQの草案の、その「object」を評価し、それを伝えて いる点である。(かるに評価しなかったとしても、草案は押しつけられたであろうが) そしてもう一点は、幣原内閣が国民の支持による「政党政府」ではなく、いわばその臨 時内閣が「あまりにも完全な改革を即時に行う」ことの不安の表明であり、「改正を発 議する権利」を「衆議院に与え」ることをもって一段落としようという提案である。 これは占領という特殊な環境を考に入れなければ、全で正論である。 ・しかし、白洲の手紙は展開を変えるに至らなかった。 以後約三週間にわたる日本政府とGHQとの交渉も功を奏せず、三月五日の閣議で、 総司令部案を受諾する方針で、天皇の「いまとなってはいたしかたあるまい」という御 裁可を仰いだのである。 そして三月六日、幣原内閣は総司令部草案を、「憲法改正草案要綱」として公表した。 ・GHQ側は、草案を日本側に手渡すと、その具体化を急いだ。 まだ、日本政府内の意見がまとまらないうちの某日(三月二日のことであったと思われ る)、白洲氏はホイットニー氏に呼び出された。 至急、翻訳者を連れて来いというのである。 そこで外務省翻訳官だった小畑薫良死らと同道して改めて訪ねると、彼はGHQ内に一 室を用意しており、”マッカーサー草案”の前文を一晩で日本語に訳すように要求した。 ・こうして、日本語で書かれた最初の”新憲法草案”は、専門の法律学者の検討を経ること なく、一夜のうちに完成しました。 もっとも元の英文による原文とて、おそらくは専門の法学者の手には触れていまい。 せいぜい法律家の目を通していたとしても、戦時応召でマッカーサー麾下に入った弁護 士あがりの二、三の将校たちぐらいではなかろうか。 したがって、たとえ翻訳の際にこちらの憲法学者が立ち会っていたとしても、何ほどの 効果を上げ得たかは疑問である。 ・が、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ「」となっている点は、 さすが外務省きってのわが翻訳官たちをも大いに惑わせた。 ・終戦連絡事務局に関係していた期間、白洲は一日四時間以上の睡眠をとったことがなく、 吉田が外相時代には外相官邸に、総理になってからは総理官邸にほとんど毎日起居して いた。 白洲の部屋には、総司令部との内線電話が引かれ、GHQの高官、各駐屯地の部隊長ク ラスからの電話の応接にいとまない。 家族のいる鶴川から出てくる時には小田急線に経堂駅まで乗車し、経堂に外務省の車が 迎えに来てるという生活だった。 翻訳作業は二泊三日の仕事だったという。 ・戦後初の総選挙で鳩山一郎率いる日本自由党が141議席を獲得するが、鳩山は総司令 部から追放命令を受け、吉田茂が自由党の総裁に就任する。 吉田は、総理大臣と外務大臣、さらに終戦連絡事務局の総裁を兼ねることを嫌い、白洲 に総裁の任に当たることを要請するが、彼は断った。 理由は、「僕は政治家じゃないんだし、そんな責任だけ負わされることはいやだ。そん なのなることない」というものだった。 第五章 ・ソ連と米国との冷戦を背景に、占領政策が変化していく中でも、白洲次郎の姿勢は一貫 していた。 「あの時分にいちばん残念に思ったのは日本人というものがほかの東洋人にはえらそう なことをいうけれども、西欧人に対してはからきしだらしがないということを痛感した ことです。僕は反対なんだ。いわゆる西欧ずれしているのでしょうね」 「敗戦のあとで、好むと好まざるとを問わず、政策的には左翼的にならなかったら、 この国の治安はいじしてはいけないというのが僕の信念だったのです。 今でもそう思っていますよ。だから、吉田茂という人の本質は保守反動ですよね。 保守反動の人であるにもかかわらず、吉田内閣は司令部うんぬんを抜きにしても、あの じいさんと性格的にせんぜん合わないことをたくさんやってますよ」 といった回想にうかがわれる姿勢である。 ・当時、白洲の役人嫌いも有名なものだったらしく、「役人の仕事なんか六か月やってい れば覚えられる」というのが彼の口癖だったようだ。 後年においても「役人はすぐ向こう側につくんですよ、アメ公側につくのが楽だもの。 いまだに思いますけれども、これは日本人だなと思って僕らが気を強くしたのは、内務 省の役人でしたね。若い人で、『殺されてもいやだ』というやつがいましたよ。 いちばんだらしなかったのは外務省の役人、いちばん馬鹿だったのは文部省の役人なん だ。いまもだいたいそうでしょう」と語っているぐらいである。 ・のちに白洲が日本テレビの社外重役として迎えられるようになって互いによく知ること となる「小林與三次」氏は、終戦当時内務省行政課の事務官として、GHQの追放令と 闘っていた。 GHQは執拗に追放令という形で、選挙制度に介入してきた。都道府県会議員から果て は市町村長、町内会・部落会・隣組まで「追放」は及んだ。 GHQは知事から町内会にいたるまでの行政経路を「部隊組織化」としてとらえ、 これを破壊しようとした。 小林は、「あれはどう考えても行き過ぎだった」と言う。 ・小林は、地方の役人が追放されれば櫓漕に迷うだけだと考え、追放前に解職し退職金を 支給してしまった。 やがてそれがGHQに知られ「半追放」となり、行政課から審議室に移されることにな る。 ・小林氏は「GHQはとにかく早く内務省を解体してしまいたかったのです。結果的には、 内務省の解体が遅れることによって、大蔵省や文部省が助かったと言えるでしょう」 と語り、「それにしても」とつけ加え、「終戦直後はとにかく占領軍を利用して儲けよ うという連中がいっぱいいたんです」と語った。 ・当時の人間で後に、口の悪い白洲次郎が誉めた人に、「石橋湛山」と「東畑精一」の二 人がいる。 石橋湛山は占領軍に対して一歩も退かずにへいきでものを言った。 「まさか殺すとは言わんじゃろう」と。 東畑精一は自身が三重県の有数の地主であるのに、農地改革を積極的に推し進めた。 私心のない行動、信念をもって己を投げ出すことにできる人間、そういう行動、そうい う人間のみを白洲次郎は信じたのである。 ・昭和二十二年五月、吉田内閣が総辞職すると白洲は終戦連絡事務局から身を引く。 そして翌二十三年に第二次吉田内閣が成立すると、今度は貿易庁長官に就任する。 ・当時、あらゆる物資は公定価格と配給制度がとられており、生産者価格と公定価格との 差額は国の補助金で埋めていた。 そして貿易もすべて国が行っていた。 高い輸入品を安い公定価格で売るために補助金を出し、メーカーから五遭った輸出品を 外国製品と競争できる値段にまで引き下げるために、ここでも国は支出を余儀なくされ ていた。 さらに、為替レートも複雑であって、「生産費の高い商品は高いレートで、安いものは 安いレートで換算して政府が買い上げて輸出をするという仕組みをとっていた。 国のこの輸出入を司っていたのが貿易庁であった。 貿易庁は昭和二十年十二月に商工省の外局として設置されたものである。 ・白洲自身は「占領下わが国の貿易は、当時、まだ”政府貿易”しか許されていなかったた めに、海外への輸出は、政府のライセンスを必要とし、このライセンスの順番をめぐっ て、汚職のウワサが絶えなかったのである。貿易庁汚職のウワサは、国際的にも喧伝さ れ、ワシントンでは”ボーエキチョー”という言葉が、一時、汚職の代名詞として使われ た。 ここの至り、マッカーサーは連合軍最高司令官の威信をかけ、占領下日本のスキャンダ ル摘発に乗り出すべく、ぼくを貿易庁長官に任命したらしいのである」と語っている。 ・しかし、白洲の貿易庁長官の目的は単に「汚職防止」「スキャンダル摘発」にとどまる ものではなかったし、むしろそれより大きなテーマが吉田茂と白洲次郎の間で話し合わ れたようである。 すなわち商工省改組の問題である。 ・のちに白洲と最も深い交友関係を持つ一人となった「永山時雄」は、白洲の長官就任直 前、商工省の物資調整課長の職にあった。 ・永山は率直に白洲が一体商工省をどうしようと考えているのかを尋ねた。 白洲からは細かいことはふっとばして、産業を復興させて行くには輸出マインドに徹底 いしなければ駄目だ、石炭や食糧をアメリカから買うためにも、輸出を積極的に推進す ることを使命とする役所に商工省を改革していかなくてはならないという正論がストレ ートに跳ね返ってきた。 また、商工内部の二、三人の人物の名を挙げ、芳しくない評判がある、あいつらの首を 切っちまえという話題も出た。 永山は自分の言うべきことは主張した。 多少、論争のようなことはあったが、永山は白洲次郎という人物に非常に魅力を感じた。 言うことは筋が通っていて、くもりがない。 白洲と永山の会談は数を重ねることになる。 ・永山と白洲の出会いには伝説がある。 その伝説とは、商工省きっての切れ者と言われた永山が白洲に喧嘩を売りに行って、 大立ち回りを演じているうちに気づいてみるとミイラ取りがミイラになっていたという ものである。 ・永山が単に白洲の御説をうかがいに出向いただけではないことはうかがわれる。 「言い争い」の種の一つは、白洲の商工省の役人達に対する不信であったようである。 事実、貿易庁の役人の中には新聞種になったような汚職を犯す者がいた。 しかし商工省の幹部に不信を抱かれるような人物はいない。 永山時雄も自分の筋を通す人である。 白洲は次第に永山に信を置くようになった。 白洲は貿易庁長官に就任するや、貿易庁の筆頭課長である貿易課長のポストに商工省か らの永山を据えた。 白洲次郎は貿易庁長官の印を永山に預けた。 のみならず長官の給料をもらう私的な印まで永山に預け、永山から給料を受け取る格好 である。 ・白洲の発想は、商工省の領域だけから湧いてくる発想を越えていた。 戦争を放棄し、軍隊を持たない国となった以上、これからの外交は軍備を背景とした政 治外交はなくなるのである。 経済外交以外に道はない。 当たり前の話だが、今の外務省の役人は経済に関して何も知らないのではないか。 これからは経済外交になると外務省も言っているが、経済に無知で何で経済外交ができ るのか。 外務省の役人七十名から百名くらいに新しい通商産業省でポストを与え、経済の教育を 施しつつこれからの外交の足ならしをさせたい。 白洲はそう主張する。 吉田も「それはいい」と同意する。 ワンマンで有名な吉田茂を思うように動かしている。 「白洲三百人力」という陰口がたたかれるが、事実大した政治力である。 ・商工省の改組にひきつづき、公的には何の地位にもついていない白洲次郎が次に取り組 んだ仕事は電気事業再編成であった。 戦争中は電力国家管理体制の下で日本発送電株式会社(日発)なる会社が日本全国の発 電と送電とを一元的に行ってきた。 送電にあたっては、電気を最終の需要家に配給するのは九配電があたっていた。 ・戦後、重要産業の社会化が求められ、全国発送電事業の一社化案が検討されたり、 社会党の電気事業国有化案が発表されたり、多くの論議がたたかわされていたが、昭和 二十三年二月に「日発」と九配電は過度経済力集中排除法の指定を受けた。 ・「日発」は発送配電の全国一社化案を主張し、配電側は「日発」の解体によるブロック 別分割案を主張し、そこに国有国営案、地方自治体が主張する地方公営案が重なり、 政界、財界、言論界において電力再編成の問題は大きな波紋を投げかけるにいたったの である。 ・昭和二十三年四月、時の芦田内閣は「電気事業民営化委員会」を設置し、再編成の基本 方針とその具体策を調査審議することとなった。 その年の十月に委員会は折衷的な内容の答申を行ったが、GHQの承諾を得ることがで きず、芦田内閣が総辞職したため実現をみず、昭和二十四年度以降に持ち越された。 ・昭和二十四年五月に誕生した通産省の官房長には永山時雄が就任した。 永山は就任早々マッカーサーから通産大臣宛の衆生を受け取った。 それは電力再編成を早急に行えという指令であった。 再編成をどのような形で行うか、永山は白洲と相談した。 白洲も永山も「日発」を解体し、いくつかのブロックごとの私企業を発足させることが 最善の道であるという考えを持っていた。 この案はGHQ案でもあった。 ・GHQは「稲垣平太郎」通産大臣に「電気事業再編成審議会」を設置するよう命じた。 審議会の会長に誰を据えるのか。 永山時雄によれば、「松永安左衛門」がいいと最初に言い出したのは白洲次郎であった という。 ・松永安左衛門は大正十一年に名古屋に東邦電力を創立、企業集中を重ねて五大電力会社 の一つに育て上げたが、昭和十三年の電力国家管理体制という軍部の統制に真っ向から 反対して実業界から身を引いていた。当時七十四歳。 埼玉県下に隠棲して「耳庵」と号し、茶人としての数奇者ぶりも世に知られていた。 電力再編成にあたって、分割民営論の方向で突き進める人物は松永安左衛門以外にいな いというのが白洲の判断だった。 ・審議会の会長の人選に苦慮した吉田茂は同じ大磯に住む「池田成彬」に人物起用につい て適任者はなかろうかと問うたところ、池田成彬が推した人物が慶応義塾の後輩でもあ る松永であったという。 また一説として、池田成彬は松永を推すにあたって「再編がすんだらすぐ御用済みにす ることですな。松永に権力を持たせると濫用するおそれがある」という注意も付け加え た、という話を紹介している。 ・吉田茂はその外交官としての経歴からして、財界人との接触も少なく、広い範囲の付き 合いを持ってはいなかった。 財界からの人物起用について、吉田に最も影響を及ぼしたのが白洲の意見であった。 白洲は池田成彬という人物を高く評価していたが、松永安左衛門の評価は低かったとい う。 その理由は「松永というジイサンはその時の状況を見て、白を黒と言ったり、黒を白と 言ったりする」というものだった。 しかし、審議会の会長として現状では松永に頼むほかはないという判断では白洲次郎も 池田成彬に同意見であった。 ・松永以外の審議会の委員には、小池隆一(慶応大学法学部長)、「工藤昭四郎」、 「三鬼隆」、「水野成夫」の四人が選出された。 委員の推薦に際して、白洲と永山は松永の意見を支持しそうな人物を極力選んだという が、実際は予定どおりには審議会は進まなかった。 ・松永は、 「三鬼隆は自分がリードするでしょう。また入った連中は、革新的な意見を誰も別に持 っている者はない。大勢順応というか、勢力者に順応するというくらいの弱い時代です から、五人委員会ができても、私の案にはみな反対です。 私の案を採用するかというと採用しない。どういう案を自分たちで立てたかというと、 一種の融通会社案というものです。つまり融通会社というふうな電力供給会社をつくる。 民間の電力会社は、そこから電力の供給を受けて、そうして配分をする役を持つという わけです(民間の電力会社自身も発電設備は持ち、不足分を融通会会社から受け入れる 案)。形を変えて前の日本発送電を温存する案の一つです」 と語っている。 ・日本発送電を温存せんとする三鬼案と日本発送電を完全解体し、九配電を独立させよう とする松永案との対立は最後まで持ちこされ、松永の気魄に動かされた水野成夫が他の 委員たちを説き伏せて、三鬼案と松永案との異例の二本立て当審を提出することとなっ た。多数案に少数案を添える形である。 ・かねて七ブロックもしくは十ブロック制を主張していたGHQは、三鬼案・松永案とも に不満であったが、度重なる松永とそのスタッフとによる説得によって松永案に傾いて 行く。さらに松永は通産大臣を兼ねることになった蔵相「池田勇人」を説得することに 成功した。 ・松永以外の四人の委員は世論に従って内実は国家統制の日発を形を変えても温存すると いう思想で、ほぼ一致していた。 事務局の通産省官僚も、本心は彼らと同じであった。 ・当時の通産省の官房長であった永山時雄は、九分割民営論者であった。 戦後の荒廃、電力の不足から脱却するには、新たな電源を開発しなければならない。 「日発」を完全に解体し、九つの電力会社を民営化し互いに競争させるしかない。 地域によって電力料金の格差が生じて不公平だと言うが、電力資源に近いところの電力 料金が安いからこそ、そこに産業が発達する。 意図的に産業の分布を全国に平均化したら、強い産業は育たない。 また、発電と送電とが別々にあったら、外資の導入は難しい。 新しい電源の開発には外資の導入が是非とも必要だ。 その観点から永山は松永案を支持した。 ・白洲次郎も同様である。 むしろ、松永案を少数案として答申に添えるように働きかけたのが他ならぬ白洲・永山 であったようだ。 白洲は松永案を採択するよう首相の吉田を説得したという。 ・しかし、日本発送電を解体し、九配電が発電、送電までの一貫した会社として独立すれ ば、その地域における独占企業となるので、新しい法律を作らねばならない。 国会でもめるのは必定であった。 松永案に対して社会党はもとより反対、自由党内部でも反対の声は強かった。 公聴会が開かれ、さまざまな財界人が意見を述べたが、やはり松永案に賛成を表明する 人は少なかった。 ・普通、役人は政府委員として国会で答弁するのだが、永山は証人として喚問され宣誓さ せられ、マッカーサーから通産大臣宛に電力再編成の通達を受けたかどうか、時の大臣 と官房長とかが対立するという一齣もあった。 ・第七国会では審議未了、GHQは電源開発に対する見返り資金融資停止という手段で再 編成の実行を督促し、ついに十月ポツダム政令によって松永案の実行をGHQは日本政 府に命令するということになり、政府は十一月に電気事業再編成例と公益事業令を公布 した。 ・九つの電力会社の人事の問題などを決めるための公益事業委員会が設けられた。 それまでの経過からすれば、松永安左衛門が委員長になるのが順当なところだが、首相 吉田は委員長に松本烝治を据えた。 ・松永は闘争力が旺盛であり、もし委員長になると東方電力系の人脈に重点を置いた人事 を行うであろうという予測を持ったのは白洲次郎であり、白洲はそれをそのまま吉田に 進言した。 吉田が松永を委員にいれることすら反対するようになった時、松永が委員長代理に就任 するよう吉田を説得したのは、最後の日本発送電総裁の「小坂順造」であったと言われ る。 やがて松永と小坂は、東京電力の人事問題で鋭く対立することになる。 一説のよると、「日発」総裁に小坂順造を推薦したのも白洲だという。 ・公益事業委員会は、松永が先導して二度の電力料金値上げをし、都合六十七パーセント にはね上がった。 松永は国民から「電力の鬼」とののしられ、委員会は昭和二十七年の八月廃止された。 再編成の人事で、白洲次郎は昭和二十六年五月に「東北電力」の会長に選ばれた。 ・昭和二十五年六月に朝鮮戦争が始まり、七月に警察予備隊が設置され、翌二十六年四月 にはアメリカ大統領「トルーマン」はマッカーサーを解任する。 それと並行して講和特使のダレスによって講和会議および日米安全保障条約締結の準備 がすすめられていた。 同年九月サンフランシスコのオペラハウスでの調印式に出席する全権団一行に白洲次郎 も加わった。 ・吉田茂が演説を行う二日前、白洲のもとに吉田から電話が入り、首席全権の演説原稿に 目を通してくれたかという。 まだ見ていないと答えると、早く見てくれと言う。 「外務省は僕に見せると文句言うと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。 それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感謝と書い てある。 冗談言うなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせやってるのです。 英語のこういうものを日本の首席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってある わけです。そんなの勝手にしろと言ったんです」 ・白洲は外務省の随員に、書き直せと言い渡すと、その随員は草稿を抱え、白洲に渡すま いという姿勢をとった。 白洲は怒り、渡せと、英語で怒鳴った。 草稿をひったくった白洲は外務省翻訳班長の小畑薫良をよび、こういう趣旨の演説に改 稿すると言い渡し、糟糠の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。 そこに以前の原稿では一言も触れられなかった沖縄の施政権返還を白洲はもり込ませた。 なるべく早期に沖縄を返してもらいたい、と。 二日後、吉田茂は巻紙に書き記された日本文を読み上げた。 しかし各国の高官たちには従来の英文の草稿が事前に配布されていた。 ・各国全権のうち、備え付けのペンを使わなかったのは、吉田総理だけだったので、大変 な反響を呼んだ。 なぜ自分のペンを使ったのだろうかと、不思議に思った人もたくさんいたようだ。 総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、細かいことは知らないが、 英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。 演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。 だから、議場で演説と同時にイヤホーンで放送したのは、その草稿の英文だった。 ・「なぜ日本語で演説したかという理由」云々は、オトボケであると同時に皮肉であろう。 吉田が巻紙の原稿を読み上げたとき、一部のアメリカ人は「あれはトイレットペーパー か」といぶかったという。 自分のペンを使ったことを不審に思った人がいても不思議ではない。 白洲は吉田を「昔の人」と言い、その「堂々とした」「一徹」さに、改めて感動を催し ている。 ・その晩、「宮澤喜一」は白洲次郎の涙を初めて見たという。 白洲のその晩の涙の半分は占領終結に対する涙であったろうが、半分は吉田という「昔 の人」に対する涙であったのではなかろうか。 国際的な舞台に立って、堂々と自分の信念と流儀を貫いた吉田の姿に白洲は打たれたの だと思う。 ・宮沢氏や永山氏がしばしば白洲から聞かされた「昔の人」の話に、戦前の大蔵省の財務 官「森賢吾」と言う人の話がある。 国際派の開明的な人物で、大変に英語が達者であったが、国際的な重要会議には、紋付 の羽織袴を着こなし、信玄袋を提げて臨む。 やおら立ち上げると、わざと流暢な英語をさけ、漢詩を朗詠するが如く、言うべきこと を言うのである。 ・怒ると無意識に英語を喋る白洲は、講和会議における日本の首席全権の演説は、日本語 でなければ我慢ならなかったのである。 ・白洲は講和条約が成立した段階で天皇の退位を考えていたようである。 しかし、それは実現しなかった。 おそらく、この点では白洲は吉田と鋭く対立したはずである。 ・昭和二十六年五月に発足した東北電力の社長は「内ヶ崎贇五郎」であった。 本社は仙台、白洲は東京事務所の役員室を常駐場所とした。 東北電力はほかの電力会社にもまして、水力開発が期待され、中でも只見川水系の電源 開発は国家的事業と言ってもよかった。 会長就任早々、日本最大の水力資源と目されていた只見川の水利権は白洲の政治力によ って東北電力にもたらされていたのである。 ・東京事務所には政財界の要人が訪ねて来ては、白洲と打ち合わせをして帰って行く。 「池田勇人」などは隠密にやってきて長時間仕事をしていくことが度々あり、邪魔をさ れずに執務する場を白洲が提供していたと思われる。 当時の白洲番の新聞記者は、毎日新聞が「安倍晋太郎」、日本経済新聞が「田中六助」、 二人とも事務所にはよく訪れていた。 その頃、白洲の許に度々足を運んだ人に読売新聞の「正力松太郎」がおり、日本テレビ 開設に際して白洲が尽力をした縁で、その後も種々の相談をしにやって来た。 後楽園、巨人軍、よみうりランド等の読売グループの事業計画にはずいぶん白洲のアイ デアが取り入れられていたらしい。 ・白洲は度々東北に出向いたが、旅費は一切自弁、仙台の本社に顔を出すよりもダムの工 事現場に姿を見せる方がはるかに多かった。 作業着を着こみ、ゴムの長靴を履いてランド・ローバーを運転し、工事現場の人々と楽 しそうに話し合っていた。 白洲が会長をつとめていた期間に、東北電力は只見川水系に柳津、片門、宮下、上田と 次々に発電所を作って行った。 工事には様々な建設会社がたずさわっていたが、白洲は前田建設を特にかっていた。 前田建設では社長の「前田又兵衛」自らが、笛を吹き、赤と白の手旗をもって現場で陣 頭指揮をとっていた。 ・鹿島建設の「渥美健夫」が白洲次郎と出会ったのも昭和二十八年のことである。 山中の工事現場には簡便な呑み屋が建ち、酌婦が泊まり込み、肉体を酷使した人夫は夕 暮れに酒と女を求めてやってくる。 そういう光景がダム工事現場のあふれた光景であったが、奥只見の現場以来、呑み屋の 設置が禁止された。 そのために人夫を募集しても、次々に人夫が現場から去って行く。 鹿島建設では当初の見積もりでは到底仕事を続けられなくなり、東北電力に対してクレ イムの文書(契約の条件変更の書類)を提出した。 ・東方電力の建設担当重役の反発は強かった。 鹿島建設としては東北電力に諒解をとり、挨拶をしにいかなければならないが、その役 目を引く受ける者がいない。 そのいやな役目を進んで引き受けたのが、当時専務であった渥美健夫であった。 ・白洲会長が「大池の発電所」で出会うという。 渥美は上野から夜行列車で青森に着き、弘前に出てさらに陸奥能代という駅に行き、 そこから陸奥岩崎にたどり着く。 汽車は陸奥岩崎で終わり、営林署のトロッコで熊の出る山を三時間かけて登って行くと、 そこに大池の発電所の工事現場がある。 二日間を旅程に費やし、三日目の晩、スーツにネクタイに着替え、白洲の到着を待った。 ・会長が到着したというので、渥美はバラックの似合いに上がって行くと、白洲はストー ブに手をかざし、コム長を履いた足を放り出している。 それを遠巻きに東北電力の役員連が囲み、あたりを静寂が包んでいる。 ・渥美が、今回のクレイム文書提出の経緯を述べ、アメリカなどでは条件が変わればクレ イム文書の提出はよくあることだというような話を始めると、 「生意気言うな!クレイムなんて何事だ!請負人と芸者は泣くもんだ!」 という怒声が帰って来た。 渥美は東北電力の役員達の面前で怒鳴られ、「鹿島は親分が代議士になると、急に偉く なるのか」と罵声を浴びせられた。 ・渥美が白洲に怒鳴られたのはこの時一回限りであった。 その後工事は順調に進み、「鳴子のダム」も鹿島建設が請け負い、いい仕事ができたと いう。 ・白洲は現場を訪れるときには、現場で働く家族のために必ずチョコレートやキャンディ などの土産を持参し、夜は人夫達と酒を飲み、その苦労話にしばしば涙を流した。 ・若い頃からスキーが得意だったので、山形県の「上山温泉」で東北電力のスキー大会を 催すことを提案した。 スキー大会に現れるときの白洲は日頃の仏頂面とはうってかわって連山や松岡がくやし がるほどに、機嫌のいい顔をしていた。 彼らがいまでも不思議だったと語るのは、小さな子どもがすぐに白洲になつくことだ。 白洲が聞き取りにくい言葉で一言二言話しかけるだけで、田舎の人見知りする子供も、 じきに白洲の膝の上に乗ってしまう。 連山や松岡がそれをやっても子供は近寄らない。 白洲は「子供はいい奴か悪い奴かすぐにわかるんだよ」と笑う。 ・蔵王の自然は白洲を魅了した。 白洲は蔵王の中腹に山小屋を建て、雪のある時期にはスキーを楽しんだ。 山小屋に滞在中は、握りこぶしに親指を立てた絵の旗を屋根に掲げ、地元の碑飛び地の 来訪を歓迎した。 ・山形県知事の「安孫子藤吉」や山形市長、あるいは山形交通や山形新聞の社長を集め、 蔵王を東洋の「サンモリッツ」にしたらいい、資本は東京から自分が斡旋導入するから 登山電車を敷けと熱心にすすめた。 そして、それには「山形県の蔵王」などと言っていては駄目だ。 「蔵王」だけで日本中の人が諒解するようなイメージのポスターを作れ、としきりにせ っついたが、地元の人々は容易に動かなかった。 見込みがなければすぐに放ってしまうのも白洲次郎の流儀で、彼らのその気がないとわ かると、白洲は山小屋をさっさと山形交通にゆずってしまった。 ・東北電力という会社を経営にしていく上で、白洲が株主総会をどのようにさばくか、 社員全員の関心事だった。 仙台本社で初めての株主総会が開かれた際、白洲は開催の一時間ほど前に仙台に到着し、 会場を下見した。 会場には舞台がしつらえてあり、役員がその壇上に並んで座る予定になっている。 白洲は「株主疎開は年に一度、株主達の意見を聞くために開くものだ。役員が壇上にあ がって何をするんだ」と、すべて壇を取り払い、一般席と同じ高さにしつらえ直させた。 ・アメリカなどでは司会は株主に向かって”Your company”というのだ、その精神で進行 しなければいみがないと主張する。 ・東京事務所が第二鉄鋼ビル内に移転する際、机も椅子も書類棚もすべてレミントンラン ド社のスチール製の事務機器を購入し、机はすべて出入口側に向けて配置させ、一番後 列に課長の席を作らせ、以後仕事中は禁煙、女子社員がお茶を配ることは廃止、煙草を 吸いたい者は喫煙室へ行き、お茶を飲みたい者は自分で用意するように徹底させた会長 である。 連山、松岡両氏は「白洲さんに初めてデモクラシーというものを教えてもらった」とい う。 ・昭和三十四年四月、白洲は東北電力の会長から退く。時に五十七歳。 只見川の電源開発も一段落した。 吉田茂が政界から引退したことも、白洲に撮ったカントリー・ジェントルマンにもどる 誘惑となったのであろう。 白洲はポルシェ911を乗り回す鶴川村の一農夫に立ちかえったのである。 終章 ・白洲はポルシェ911ばかりではなく、ベンツ、パブリカのビックという小型のトラッ ク、三菱のミラージュ、スバルの4WD等を七十を過ぎてなお運転し、時にスピード違 反でつかまったりしていたが、八十歳を超してようやく自らが運転することをやめた。 豊田自動車の豊田章一郎が工学博士であることを知らずに、「君も少しは機械のことを 勉強しろよ」と言い、国産車の欠点をいろいろ指摘したという。 白洲はトヨタにソアラにも乗っており、ソアラの欠点、小回りがきかないとか、 ハンドルが小さく太いとか、も指摘する。 ・豊田は白洲の忠告を是非活かしたいと思い、ソアラ担当の岡田稔弘を紹介した。 岡田は何でも白洲の許に足を運び、白洲の車に対する見識に驚嘆し、白洲の喜んでもら う車を作ろうと決心する。 白洲は自分のポルシェ911で東富士試験場に乗り込み、これを分解してソアラを作る ときの参考にしたまえと言って愛車を提供した。 岡田はニュー・ソアラに開発に全力を注ぐ。 しかし、昭和六十一年のニュー・ソアラ発表の前年十一月、白洲次郎はこの世から去っ ていた。 ・白洲の一周忌に豊田章一郎と岡田稔弘は完成したニュー・ソアラに打ち乗って兵庫県の 三田にある白洲家の墓参りをし、白洲次郎の墓の前に、その車を横づけして、完成の報 告をした。 ・旅から帰って四、五日たった十一月二十六日の夕方、食事の支度ができたことをお手伝 いの長坂そのが報せると、白洲次郎は返事をしたが、なかなか二階の部屋から降りてこ ない。その時、永山時雄から電話がかかってきた。長坂が重ねて永山からの電話を報せ ると「具合が悪いから、後でと答えてくれ」という。 長坂は急いで、正子夫人に知らせ、東京の病院を手配した。 ・正子夫人は、 「お腹が張るというので、レントゲンをとってみると、胃潰瘍がひどく、心臓は肥大し て脈拍は乱れ、その上腎臓まで冒されていた。 先生は、ここ一両日が山だといわれた。 一病息災というけれども、あまりに身体が頑健すぎたために、限度まで持ちこたえたの であろう。 ベッドへ入る前に、看護婦さんが注射しようとして、「白洲さんは右利きですか」と問 うと、「右利きです。でも夜は左・・・」と答えたが、看護婦さんには通じなかった。 その言葉を最後に、気持ちよさそうに眠りに落ち、そのまま二日後に亡くなった。 いかにも白洲次郎らしい単純明快な最期であった。 ・遺言により、葬式は行わず、遺族だけが集まって酒盛りをした。 彼は葬式が嫌で、知りもしない人たちが、お義理に来るのが嫌だ、もし背いたら、化け て出るぞ、といつも言ってた。 そういうことは書いておかないと、世間が承知しないというと、しぶしぶしたためたの が、「葬式無用、戒名不用」の二行だけである。 ・若い友人の「堤清二」は語る。 「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し厳しい 反応を示した人をほかに知らない。 そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。 白洲が晩年にいたるまで、仲良くつき合っていた人に共通した性格があった。 私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、 本当の愛情のある人。 白洲次郎は真の意味での国際人であったが、『国際化』という言葉が叫ばれる今日、 むしろ国際化の逆コースをたどっている。 経済界で本当の『国際人』が何人いるか。 白洲の目には寥々たるものに映ったであろう。 ・日本の経済が発展し、孤立している、その孤立していることにすら気付かず、あるいは 孤立していることを、諸外国が日本経済の発展をやっかんでいるとしか思わない、 そういう人間を白洲は「イヤシイ奴だ」と言っていた。 白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、そういう「イヤシイ奴」と決してつ き合おうとしなかったことだろう。 |