花影 :大岡昇平

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この作品は、今から58年前の1962年に発表たもので、銀座に生きるホステスの生涯
を描いたものだ。
主人公の葉子は、幼い頃から恵まれない境遇に育った。しかし、葉子には幼い頃から男を
惹きつける力があった。やがて生まれ育った静岡を出て、葉子は生まれつき自分に備わっ
ていた男を惹きつける力を頼りに銀座で生き始める。そして、無垢なこころを持ちながら、
遊戯のように次々と空しい恋愛を繰り返していたが、そんな葉子にも、女の盛りが過ぎる
年齢がおとずれ、それを悟った葉子は、やがて睡眠薬自殺を遂げることになるのである。
この作品の葉子には、モデルが実在したようだ。それは、坂本睦子という女性で、銀座の
文壇バーで、ホステスとして多くの文化人と関係を持ったと言われている。直木三十五に
口説かれて処女を奪われた後、坂口安吾と中原中也が彼女を争ったり、菊池寛にも庇護さ
れ、小林秀雄に求婚されたり、河上徹太郎の愛人も長く続けたようだ。また、男ばかりで
はなく、宇野千代や白洲正子とも親しかったようだ。
昔から銀座の夜の世界は、とても華やかだったようだが、その銀座の夜の世界で、男たち
の間を蝶のように舞いまわる銀座の女も、その影は決して華やかだけではないようだ。こ
の作品を読んで、華やかな銀座のホステスたちの影の一部を見せてもらったような気がし
た。
まして、今回のコロナ騒動では、その華やかだった銀座も、客足が遠のき閑古鳥ばかりが
鳴き続け、銀座のママもホステスも、青色吐息ばかりのようだ。
これは何も銀座の世界に限らない。どんな世界においても、ずっと日の当たるまま、華や
かなままに生涯を終えられるということは、不可能ということなのだろう。

・東京の二つの大学で西洋美術史を教えている松崎は、週に二度逗子から出て来る。講義
 日を二日続きになるように選んで、葉子の部屋へ泊っていくのである。
・おれが来ない日、何もすることがないのはよくない、編物でも習ったらどうだと、松崎
 は機械編みの道具を買い、講習会の規則書も集めて来てくれた。
・材木町の電車通りの美容院の二階にある講習会に、葉子は二、三度通ってみたけれど、
 女給でもなく、奥さんでもなく、年をとっているんだか、若いんだか見当のつかない葉
 子の身なりは、同じ会員の若い娘からじろじろ見られる。  
・銀座の店へ売り込むのがうまいという女の先生から、或る日授業が済んでから、近所の
 鳥料理に誘われてみると、そこには先生の遠縁に当たるとかいう四十がらみの男がいた。
 土建会社の課長をしているというその男は、あのアパートは設計が雑で、用心がよくな
 いんです。今度青山の方へ建てたアパートは壁も厚いし、隣へ物音が聞こえることは絶
 対にありませんと、まるで葉子が悪いことでもしているようないい方である。なんのた
 めの親切か、それは男の眼付で知れるから、そのまま失礼ともいわずに立って来た。
・無論講習会はそのまま欠席で、せっかく松崎が買った機械は持ち腐れになった。
・週に二回じゃいやだ、と葉子は前からいってある。そして講習旅行のついでに、奈良や
 吉野をこっそり廻ったりするだけではいやなのだ。松崎の肌が恋しいというわけにはい
 かないが、アパートで一人すごす時間の長さに、ずっと前から堪えられない気持ちにな
 っている。 
・葉子には自殺未遂の経験があって、死のうと思うことと、死ぬことはちがうのを知って
 いた。
・戦時中、若い葉子が銀座へ出るとすぐ、川崎の或る鉄工所主がバーを持たせてくれた。
 母と祖母と三人暮らしの目黒の家にも離れを建て増した。
・葉子のマダムでは心もとなかったので、工場主のさしがねで母のてつが勘定掛として、
 毎晩店へ出張って来た。同時に葉子の監督も兼ねていたわけで、彼女が客の小説家酒井
 史朗と親しくするのを、てつは好まなかった。 
・しかし葉子は母がああしろといえば、こうしたくなるようになっていたし、工場主とい
 うのも、女は葉子一人ではなく、馴染の芸者もいれば、映画女優もいた。最初はみんな
 手を切るなんていっていたが、無論それは実行されず、新しく同じ銀座のバーの女給と
 出来て、新宿へおでん屋を出させたという噂を聞いて、葉子の肚はきまった。
・死んでしまおうとは少女の時からの夢だったが、眼の前がただようわずらわしくなった
 時、ほんとに死ぬ気になった。夜の九時頃離れでカルモチンを飲んだ。バーテンの柿崎
 が運よく酒井の使いで呼び出しに来て、すぐに医者を呼んだので、彼女は三日目に意識
 を取り戻した。
・工場主もこれには驚いて、新聞種にでもなっては大変と、店はほしければくれてやる、
 とにかくかかり合いだけは御免だ、ということになった。
・酒井のいうままに大井町のアパートへ囲われる身となった。
・アパートの一人住まいは淋しかった。酒井は葉子を独り占めしたくなったらしい。言を
 左右して、約束のバーを出す工面をしようとしない。その腹いせというわけでもないが、
 取り巻きの若い編集者や文学青年と浮気をした。そのうち戦争は苛酷になり、酒井は従
 軍作家として徴用されて南方へ行き、葉子は目黒の家へ帰ったが、てつが持ち続けたバ
 ーは企業整備で閉鎖、目黒の家も戦災で焼けると、てつはさっさと憲兵中佐の後妻にな
 ってしまい、葉子はまた行きどころがなくなった。
・葉子の行く先は結局銀座よりないわけだが、以前彼女のバーで働いていた女が、第三国
 人をパトロンにのし上がって、ミンクの外套で風を切って歩いている終戦直後の銀座で
 は、彼女のような古い型の女は、もうはやらなくなっていた。古い友達が紹介してくれ
 たバーの片隅で、ひっそり坐るのを許される程度だったが、それでも葉子はまだ三十前
 だったし、古い馴染みもだんだん銀座に帰って来た。
・外国の新式の画風の解説者として、方々の画家の団体の顧問も兼ね、新制大学で西洋美
 術史を講ずる松崎は、そういう客の中ではましな方であった。
・子供の時から、家へ来る大人達に縹緻よしといわれ、道傍で遊んでいると、通りすがり
 の夫婦づれが「かわいい子ね」と囁きながらすぎて行ったりするので、その頃から自分
 に人を惹きつける力があるのを、葉子は知っていた。
・高島謙三は昔葉子がバーを持っていた頃からの客である。最初に連れて来たのは、例の
 工場主で、日本橋の骨董商も一緒だった。高島はその頃は齢も三十を越えたばかり、或
 る金持ちの蒐集家が挑戦から買って帰った陶器を整理して、図録を出したばかりだった。
・高島はそれからずっと葉子の身辺にあって、なにかの時に、相談相手になってやった。
 高島は葉子が小説家酒井を知ってから、とかく身辺に濃くなって来た文学的影響を、取
 り除こうと努めた。男は文士だけではないのだし、彼等はとにかく物事を大袈裟に考え
 るから、間違いのもとだというのが、彼の意見だった。
・松崎が葉子に会った頃も、高島は葉子の忠実な保護者であった。ただ、高島は戦災によ
 って、以前彼に贅沢な修業を許した財産的基礎を失っていたので、葉子にとって、それ
 ほど有益な保護者であるかどうか、を危ぶんだ。
・葉子の父は静岡から三里ばかり山へ入った小さな村の地主であった。掛川の商家から来
 た母は、酒乱の夫の虐待に堪えられず、一男一女を残して出奔していた。そこへ後妻に
 行ったのが、てつである。彼女には子供はなく、二年後にはその家を去ったが、三歳の
 葉子は彼女になついていて、てつが最後に家を出る時も、離れようとしなかった。いず
 れ返すつもりで、一旦三島の実家へ連れて帰ると、今度は祖母が葉子を離さなくなった。
・てつは東京へ出て後援者を見つけ、震災直後で空地が多かった有楽町で、新聞記者相手
 の支那料理店を開いた。料理店が成功して、目黒の家を借りるまで、葉子は三島の古い
 家で、祖母に育てられた。
・てつと血のつながりがないのを知ると、十四歳の葉子は、家の中で祖母のほかは、口を
 利かない子になった。よそ者という意識から、自分の中へ閉じ籠っただけではなく、そ
 れまでてつに向けていた愛情が裏切られた理由をそこに見つけて、てつを憎むようにな
 ったのだ、と松崎は解釈している。  
    
・まもなく松崎勝也はアパートの狭い階段を降りた。ドアを開けると、子供達の声が、ま
 ともに吹きつけて来る。路地の向こうは小学校なのだ。放課後の校庭でははしゃぐ子供
 の声が、一つになって、空にあがる。朝ならば、校舎から出る声が、しめ切った室内ま
 で侵入して来る。それを葉子の部屋で聞くのが、松崎には辛かった。
・娘の露子を思い出すからいやなのだ、と松崎はほんとうのことをいえない。妻の郁子と
 露子の前で葉子のことをいわないように、葉子の前では妻と娘のことをいわない。露子
 の名前を出したのは、今日が初めてたった。今日だけはどうしてもいわなければならな
 かった。するとそれはすぐ別れ話と結びついたのである。
・今度は別れることになるな、と松崎は思った。口では強くいいながら、窓へ向いてしま
 った葉子の肩が、がっくり落ちて見えたのに胸を突かれ、後から抱いて、考え直したら
 どうだいといってみたが、葉子は黙って首を振るだけだった。するとほっとした気持ち
 になったのに、松崎は自分で驚いた。     
・三年の間、松崎の苦労は大抵ではなかった。身から出た錆といえばそれまでだが、二軒
 の家を支えて行く金の苦労だけでも大変である。しかし結局一番面倒なのは、一度に二
 つの場所にいられないことである。二人の女の双方を満足させることが出来ないことで
 ある。
・郁子はまもなく噂を耳に入れた。しばらく露子をつれて世田谷の実家へ帰っていたこと
 もあったが、結局よくあることではないか、子供がある以上、いずれ過ぎてしまうと、
 実業家である父に説き伏せられたのであろう、一週間後に帰って来た。それっきり何も
 いわない女になってしまったのだが、松崎自身の知らない留守居の郁子が、どんな有様
 であったかは、「いっしょに死のうか」といった露子の言葉で知れる。
・妻子を棄ててしまおうと思ったこともあった。すると今度は葉子の部屋に眠る晩でも、
 新橋駅前の路地を、泣きながら自分を探して歩く露子の夢を見たりするのである。する
 とそういう自分の苦しみを知らぬげの、葉子の笑顔が癪にさわって来る。
・しかしもともと松崎が葉子に惹かれたのは、そういう無智、感情のとめどないだらしな
 さのせいなのである。子供のまんまに固まってしまったような人の好きがあって、それ
 が今日なお葉子の表情や仕種に、娘のような初々しさを持たせることがある。
・三十過ぎて郵便貯金のかけ方一つ知らない葉子に、通帳を持たせたのは、松崎である。
 祖母の手から、そのまんま銀座の真中に投出され、男達に蔽われていた葉子は、大人に
 なるひまがなかったわけである。
・葉子に男出入の絶えないのも、結局この人の好きで触れ合うものを男のどこかに見つけ
 て来るからだ、と松崎は思っている。
・松崎が、そういう葉子の人の好きにつけ込まなかったとはいえない。別れない、一生つ
 いている、と繰り返しながら、結局彼が分かれる時を待っていたのは、別れ話が出たら、
 ほっとしたのでもわかる。
・妻子に対しても同じことで、松崎は結局高をくくっていたといえる。女に怖ろしさがあ
 るように、男にも怖ろしさはあるのだ。葉子は或いは男全体を仇と思っているかもしれ
 ない。裏切られれば、憶えて行くのである。しかし仇がいるのを知っていても、仇を憎
 むことを知らなくてはなんにもならない。

・現在高島が占居している百坪ばかりの土地も、やはり係争の対象となっているのだが、
 父親が死んで相続がもつれそうになった時、さっさと家を建ててしまうことをすすめた
 のが、戸田潤子である。
・潤子は葉子が戦後バーへ出ていたらころ、キャバレーから流れて来た戦後派だが、バー
 を含む小さなビルが差し押さえになって、バーも立ち退くか、居抜きで債権者に譲り渡
 すかという瀬戸際になった時、一千万の貯金をぽんと投げ出して、ビルごと買ってしま
 ったのには、一同あっと驚いた。狸穴の小さなアパートにくすぶって、別にいいパトロ
 ンがある様子もなく、縹緻も十人並、ただ若いというだけが取柄の潤子が、そんな大金
 を隠し持っていようとは、誰も思い及ばなかったのである。
・こうしてバーのマダムは潤子になったわけだが、ビルの一室は弁護士に貸して、格安で
 相談に乗って貰うし、潤子のすることは、万事そつがない。パトロンもないかわりに、
 男も作らない。
・マダムになっても、家を持たなくては、一人前といえない時節になっていた。そろそろ
 東京では、土地が手に入りにくくなっていた。そこで客の高島の係争中の土地に目をつ
 けた。とにかく家を建ててしまえば、居住権が生じるとたきつけた。ただ赤の他人の潤
 子が家を建てるわけには行かない。高島の名で登記された離れがあり、高島の表札が門
 に出ているのは、そのためである。
・無論高島との間に、色の恋のということがあるはずはない。同じ敷地に隣り合わせだか
 ら、食事は潤子が賄う。離れの建物は名義通り高島のものになるが、土地は潤子のもの
 とするという取極めが、面倒な文書になっているということであった。
・しかし裁判が長びくにつれて、高島の待遇は悪くなって来た。     
・高島が、葉子にとって、かけがえのない人なのは、彼の葉子に対する態度に、ほかの奥
 さんやお嬢さんに対する態度と、区別がないためである。数あるバーの客の中には、
 「上品」とか「清らか」とか、いってくれる人もいる。しかし少し酔いが廻れば、妙な
 ところへ手が廻って来るし、タクシーで送ってもらえば、やはり普通の女給小説に書い
 てあるようなことしかない。
・高島は葉子の手を握ったこともない。葉子がまだ若い頃、そんな高島の態度がじれった
 くて、酔いに任せて、ずいぶん際どい甘え方をしたこともあるが、高島の態度は変わら
 なかった。父親のいない葉子にとって、自分をそういう風に扱ってくれる男は、ほかに
 なかったわけである。   
・高島が選ぶ女は少女か、商売女かに限られていた。最初母親があてがってくれた幼妻は、
 すぎに死んだ。二人目の芸者は二年しか続かなかった。三人目は葉子のバーにいた年増
 女給、客の前で着物を取り替っこしよう、なんていい出して、胸と長襦袢を見せる機会
 を作りたがるような女で、結局この女が一番長続きしたのだが、これも戦災で、高島に
 現金収入がなくなると、男をつくって出て行った。
 高島が現在潤子の俘虜みたいになってしまったのも、やもめ暮らしの不便につけ込まれ
 たのだ、と葉子は思っていた。
・骨董界の鬼才といわれたのは昔のことである。若く、健康に充ち溢れ、金も自由に使え
 たからこそ、自分の力を出し切った仕事をすることが出来たのである。しかしもう五十
 を越しては、万事に根気がなくなった。そういう自分のいつまでも「先生、先生」とい
 って、慕って来るのは、葉子一人だといってもよい。松崎のような理想家でもなければ、
 葉子に惚れているわけではない高島は、彼女をただの女として見ることが出来る。ずい
 ぶん人の好いところもあるが、結局は浮気な性分の女給にすぎない。それ以上でもなけ
 れば、以下でもないと思っているのである。
・高島の考えでは、葉子は囲い者が一人で過ごさなければならない時間に、堪えられない
 ように出来た女なのである。相手が誰であろうと同じことなのだ。一人で部屋に坐って、
 世間の全部と向き合ったような気持ちになる時、頭の中を去来する想念を、打ち払うす
 べを葉子は知らない。人間が生れ落ちると同時に背負わされた重荷なのだが、彼女の境
 遇はそれを露骨な形であらわすのだと、高島は思っている。男から男へ渡る間は、少な
 くとも、それを忘れることが出来るので、彼女が女給になったのには、相当の理由があ
 ったわけである。    
・だから、男とすぐ深くなる癖さえなければ、普通の銀座の女なみの経歴をたどることは
 やさしいはずだったのだが、酒、色気、金と、三題噺に統一された夜の世界を泳いでい
 ると、また新しい不安を感じ出すのが、葉子の性質である。そしてさっさと囲い者の生
 活に逃げ込んでしまう。  
・男に妻子はあるけれど、金がないなら、三年続けばたくさんだ。また一人立になって、
 もう一度花を咲かせることが出来れば、それに越したことはない。これが最後の機会か
 もしれない、と高島は考えていたのである。
・「松崎はほんとうに別れるといったのかい」と高島はやがていった。「別れることは、
 ないんじゃないか」女は一人になって働く方がいい、とかねて口癖のようにいっていた
 高島が、不意にそう言いだす真意を、葉子はかりかねた。
・葉子はバーで働くのが一番いいというのは、彼の変わらぬ信念であったが、潤子の話を
 聞いているうちに、彼女の新しいバーが、葉子にとっていい働き場であるかどうかに、
 疑いが生じたのである。
・潤子のいつものやり口から考えると、葉子は新店に古い馴染みを吸い寄せる役を振られ
 ただけで、そういう客が店についてしまえば、厄介物として放り出されるのではないか、
 という懸念がある。マダムと呼ばしておけば、いづらくさせる手はいくらでもあるから
 である。  
・葉子はもう三十八で、この三年の間に、急に齢が顔へ出て来たことは。高島も認めない
 わけには行かなかった。衰えは急に進行すると見なければならぬ。潤子のバーで、彼女
 の若さの最後の一滴まで、汲み尽かされた時、ほかに働く場所を見つけることが出来る
 かどうか。松崎が別れようというのでなければ、囲い者の孤独に堪えることを教える方
 がいいのではないか、と考えたのである。
・自分が葉子と結婚できる立場にいるのも、考えないではない。しかし現在の自分の収入
 はあまりにも少なく、係争中の財産は不定である。永い間の弁護士の費用もみんな潤子
 が立て替えている。解決しても、実際に自分の手に入るのは、いくらでもないのも、実
 は知っているのである。  

・潤子の新しいバーが、開店の運びになるまでには、ひと月かかった。新しいマダムの亜
 矢子はまだ三十にならない小柄な女で、大阪に一人、東京に一人旦那を持っていた。
 大阪方は月に二度東京へ出て来て、霞ヶ関の官庁街の近くに宿を取り、亜矢子と寝た翌
 日が休日なら、熱海、湯河原まで足を延ばし、旦那は夜行で亜矢子は湘南電車へと、熱
 海の駅で別れて来ることもある。
・マダムといっても所謂雇われマダムよりも、窮屈かもしれない。毎晩バーの勘定を〆め
 終わると、潤子が廻って来て、伝票に目を通し、売り上げは必ずされって行く。五分の
 約束の歩合も、月末払いだ。それも取れた勘定についてだけである。そのひと月分の利
 子までも、ひとに渡さない潤子のやり方を、憎らしいと思うゆとりが出て来た亜矢子な
 のである。
  
・「人間は自分の一生に、金輪際満足出来るもんじゃない。満足して死ぬ、なんて出来な
 い相談だ」と高島はいった。「じゃ、いつ死んでも、いいわけね」「だからお葉が死ぬ
 んなら、おれも死ぬって、いっているわけだ」
・葉子は夕方のこの時間にバーへ踏み込む時間が好きである。彼女の青春の大半は、この
 バーという異様な外国風の造作の間で過ごされて来たといってもいい。
・葉子が再び自分の齢を意識し始めるのは、若い子が酔って来て、彼女には理解できない
 笑い声を立て始める頃だ。その頃になると、足がくたびれて来る。化粧のくずれが気に
 なり出して、終始トイレへ入るようになる。直しても直しても、化粧がまとまらず、膝
 が抜けそうにだるい。 

・畑の丈は葉子とほとんど同じだ。男の厚い唇がゆがんでついているのが、眼の高さに見
 えた。それは毎晩見馴れた夜の男の表情だ。男達は自分の過去を知りはしない。彼等に
 とってはどうでもいいことだ。いつでも欲望だけ応える体と気分さえあればたくさんな
 ので、気楽に、手軽にすみそうに見えることが、欲望をそそり、ねじ曲げるのだ。
・葉子はただ酒を飲んだ。自分の笑い声が自分の耳に聞こえた。潤子がこっちを向いて、
 「葉ちゃん、少しうるさいわよ」といったようだった。それから少しわからなくなって、
 次はいつの間にか、玄関のたたきへ降りかけていた。下駄の片方がなかなか穿けなかっ
 た。脇の下へ手を廻して支えているのは、清水らしかった。
・「御苦労様ね。送り狼にならないでよ」という声は亜矢子だった。「これから稽古でス
 タジオへ行かなきゃならない。ついでですから、送ります」と、清水は高島に向かって
 いうらしかった。ほかの女の恋人から親切にされるのは、葉子にはいつもいい気持ちだ
 った。それが亜矢子の男であれば、なおさらである。彼女は体を延ばして、わざと清水
 の身体に、よりかかるようにした。
・赤坂のアパートの前でゆり起こされ、車を降りても、清水がまだ髄いて来るのに、葉子
 は満足した。部屋へ入ると、葉子はすぐ帯を解き出した。足を投げ出し、足袋を脱ごう
 として、眼の前の鏡を見ると、外套のままの清水の姿が、近づいて来るところだった。
 うしろから抱きしめられて、あとはいつものことになった。
・清水とはあとを引かなければいいがと思う。酔って男と寝るのは、珍しいことではない
 が、あとの男の出方一つで、もつれることがある。葉子にとって、男がこわいのは、そ
 のためである。 
  
・路地を曲がって、アパートの前に、男の姿を認め、葉子は立ちすくんだ。外套の背を丸
 め、葉子の室のドアのノブに取り付いているのである。声をかけようか、それとも管理
 人に知らせに走ろうかと迷っているうちに、不意にこちらを向いて、すたすた歩いて来
 た男は、よく見れば高島ではないか。
・「ずいぶん酔ってたね」と高島は葉子の動きを眼で追いながらいう。   
・「おれの心配なのは」高島は声を低め、「君が自分ことをごまかしているんじゃないか、
 ってことさ」
・「結婚なんて、結局取引きだからね。金でも愛でも結構だが、互いに帳尻が合っている
 内が、うまく行くってなもんさ。ところが君は決して帳尻が合ったためしがないんだ。
 男もずいぶん君に惚れるけどさ、君がほかのことで二倍も三倍にも返しちゃうんだから、
 引き合わない」
・「好きなら、好きで、どうとでもなったらいいじゃないか。ただ結婚することはない。
 女がみんな亭主持たなきゃならないってきめはない。一人の方がどんなにさばさばして
 いいか、わかりゃしないさ」 
・「執着があっちゃ、いけないからね。でも、一人暮らしが見栄になっちゃ、またそれも
 うまくないんだ。強がっちゃいけない。ぽっきり折れる心配があるからね。煙が地べた
 に匍うみたいに、低く延びて行く方が安全なんだ」
・祖母が死んでからは、高島は葉子にとって一番大事な人だ。しかし彼女は祖母になんで
 も打ち明けたわけではないように、高島にもいわないでおくことがある。例えば昨夜清
 水と寝たことなど、必要がなければいわないつもりだ。結婚が執着の一つだとしても、
 女には女だけしかわからないことがあるのを、葉子は知っている。それは高島にもかく
 しておくのである。 
・清水は落ち着かないテレビ・プロデューサーであった。週に一本の三十分物をこなすた
 めに、ぎっしり詰まった毎日には、スリルと緊張があった。彼の接触する作者もタレン
 トも、例外なく彼に鄭重であった。ただ彼自身は自分が与えられた仕事を果たしている
 か、どうかについて、不安があったのである。
・彼が民間テレビの制作部に入ったのは、古くから放送事業に関係していた父親の引きに
 よるものであった。しかしその父親も、昔とは比較できないくらい大きくなった現在の
 組織では、外郭団体の理事にすぎない。父親の恩顧を受けた人間は、まだ上役の中にい
 た。しかし人の交替のはげしい機構の中で、自分にいつまでも特別の庇護があると空想
 するのは、甘い考えであると思わせる例に、ぶつかることが多くなった。
・彼が暇な時間を銀座のバーやキャバレーでつぶしたのは、その不安をまぎらわすためで
 あった。彼の若さと独身者という条件のために、女達は悪い顔を見せなかった。これま
 でに執着した女はいなかった。
・清水の行きつけの本郷の旅館で、葉子は松崎と別れてから、はじめて打ち解けた気分で
 男と寝た。若い清水はずいぶん女をよろこばせることを知っていたつもりだが、葉子の
 体には、男の欲望を吸いつくす深さがあった。欲望は繰り返し前のめりに突き進んで、
 崩折れる。清水がそこに見出す快楽が、彼の毎日の不安を解きほぐすように感じた時、
 彼は葉子に溺れかけていたのである。
・葉子の愛撫に芝居じみたところがなかったとはいえない。しかし清水はそれをみな葉子
 が自分の若さに負けたくないために取った。愛されたいからだと自惚れた。
・その夜清水は、葉子のアパートへ泊った。「もう、だれに知られたっていいの」と葉子
 はいった。清水は葉子の匂いの染みついた蒲団のなかで目をさますのが、うれしかった。
 出勤時間になって、鏡の前に坐る葉子を、清水はうしろから抱いた。乳房にあてた手に
 手を重ね頬を合わせた顔が、鏡の中で笑っていた。
・葉子は清水がこれまでに知った女の中で、一番年とっていた。朝、眼の下の袋のような
 たるみを眼近に見て、どきっとすることもあったが、それがきにならなくなった時、彼
 はますます深くなっていたのである。
・清水が結ってくれる髪を、葉子は変えなかった。彼女が男の意を迎えて化粧するのは、
 これが初めてであった。清水が葉子のアパートへ泊ることは繁くなった。
・バーにおける葉子の動作に、甦ったような艶が出て来たのは、同僚の眼につかずにはい
 なかった。「恋人はやっぱり若いのにかぎるかな」「畑さんが荒れるわよ」というよう
 な、会話が、女給達の間で、ささやかれるようになった。
・畑は葉子にとっても頭痛の種で、清水のいう通り、ほかのバーを探してみる気になって
 いたのだが、不思議に畑は関西旅行以来、バーへ現われなくなった。
・亜矢子にとって、畑には別の利用価値が生じていた。彼を関西へ旅立たせたのは、亜矢
 子にほかならなかった。畑でなければならない仕事でもないのだが、潤子が利用してい
 る男を横取りする気になったのは、いままで彼女の抑えられた怨みが積っていたからで
 ある。    
・亜矢子は畑に向かって、葉子がいうことをきかなくなったのは、高島と潤子が邪魔した
 からだといった。清水との関係も誇張して話し、畑の興奮を鎮めるために、「浮気よ」
 と断って、身を任せることも辞さなかった。男を操るためには、結局それが一番いいと、
 亜矢子は信じていた。
  
・潤子は金について、ますますうるさくなったという話であった。高島は平気で、「どう
 も普通じゃないね。どっか悪いんじゃないか」といっていたが、或る日風邪を引き込む
 となかなか癒らなかった。三十九度の熱が三日続いてから、病気になっても医者にかか
 らない方針を曲げて、近所の開業医を呼んでみると、風邪はたいしたことはないが、片
 肺がすっかりやられている、それを癒さなければならないということである。
・町医者のいうことがあてになるものかと、熱が下がるとすぐに店へ出た。客の一人に、
 「ママさん、そりゃいけない。慶応の専門の医者を知っているから、紹介してやろう」
 とすすめられ、ただというのが気に入り、診て貰うと、すぐに入院しないと命が危ない
 とおどかされた。 
・長い間バーの悪い空気を吸いながら、身を粉にして働いた結果が出て来たのである。し
 ぶしぶ入院はしてみたものの、金儲けより楽しみのない潤子には、病院の夜の退屈は我
 慢できない。脱走しても結局また病院に引き戻される。それでも懲りずに脱走しては、
 また引き戻される順序を繰り返していて、潤子はなかなか治癒ということにはならない
 だろうという予想であった。   
・高島といっしょに病院を見舞った葉子は、ちょっと見ない間にすっかり痩せた潤子にび
 っくりした。白粉を落とすと悪い顔色が目立つのは、病にならずとも、銀座の女の共通
 点であるが、頬がこけて、頤が延びたように見える。眼は大きくなり、むしろ子供っぽ
 い顔になった。
・四日経つと、高島は珍しい客をバーに連れて来た。野方逸郎は五十歳の製糸会社の社長
 であった。その頃葉子が出ていたバーに来たこともあった。二十年以上前のことで、葉
 子は思い出せなかったが、野方は若い葉子を忘れていなかった。

・葉子は自分がもう銀座で働く齢ではないと思い込んでいる。四十、五十になっても、い
 つまでも若々しく、男を惹きつける力を持っている人もいるけれど、それは結局その人
 が店を持ち、ちゃんとしてパトロンを持っているからだ、と思っている。銀座に二十年
 もいながら、まだバーの「葉ちゃん」にすぎないという引け目が、自分からその輝きを
 奪ったと思い込んでいるのである。
・いい寄る男はいないわけではないが、いつまで経っても、惚れたはれたの一点張りなの
 に、葉子はうんざりしている。畑のように安上りの結婚の申し込みでなければ、清水を
 相手の、二十歳代の男女にふさわしいような、ままごとみたいな情事なのである。
・野方には葉子がそういう心遣いをしないですむだけでも気楽だった。清水がいうように、
 四十近い葉子が何者かであるのは、二十年前の彼女に憧れたことがある野方に対してだ
 けかも知れないのだった。
・野方はそれに金があるということでも、めずらしい男だった。こういう客が葉子に通い
 出したのは、戦争前若い葉子に店を持たせてくれた川崎の工場主以来のことだった。
・野方が連れて行った築地のふぐ料理屋で、葉子はその夜もしたたか酔っ払ってしまった。
 そして翌朝は、待合らしい室で、野方と同じ蒲団に寝ている自分を見出した。
・これも葉子にとってめずらしいことではない。銀座に出てからは、よくあった段取りに
 すぎなかった。自分が酔っ払ってしまえば、野方が帰りはしないのはわかっていた。帰
 さないために酔うのだということが、野方にもわかりそうな飲み方をしたつもりだった。
・待合は大川の岸にあるらしく、ディーゼル船の音がひびいていた。やがて眼をさました
 野方は葉子を抱いて、型通り、「後悔してるんじゃないかい」ときいた。黙って首を振
 ってみせる葉子の動作も、やはり型通りのものだった。五十男としては少し異常な情熱
 に、それに応える葉子の体も型通りだった。或いは二十代の自分の面影を抱いている男
 をよろこばすために、殊更昔のままの無邪気を装ったところがあったかも知れない。
・野方の注意を高島から外らすには、ひたすら甘えるよりほかに手はないと葉子は思って
 いたのだが、これは間違いだったかも知れない。葉子の女としての魅力は、言語動作に
 そういう作意がないということにあり、これまでにも女を知らないわけでもなかった野
 方が通い出したのも、その点に惹かれたからだとすると、そういう型にはまった媚態を
 見せることは、われとわが喉をしめるようなものだったはずだ。
・酔った葉子の姿には、そろそろ神経痛の出始めた、痩せた体を思わせるものは、どこに
 もない。男の欲望に向かって開かれた、一つの空虚な心を現しているだけである。男は
 そういう葉子を知っているのは、自分だけだと思い込み勝ちなもので、野方もまたその
 一人にほかならなかった。彼の思うに従うだけで、決して不意打ちも先回りもしようと
 はしない体を抱きながら、やっぱりおれはこの女を離すことは出来ない。高島がどこま
 でもついて廻るのも、かまいはしない。高島ぐるみ買ってしまったっていい理屈ではな
 いか、と考えた。
・しかし高島ぐるみ葉子を買ってしまおうと決めている野方の、自分の思っているほど、
 生きているわけではない。金を儲け、快楽を追求するのは、一見自由な行為のようであ
 るが、それは彼が実業という機械仕掛けに忠実であることを前提にしている。その機械
 仕掛けの許す範囲の、自由と快楽しか、許されないのである。
 
・空いたバーの中に、葉子の声だけ響いていた。松崎は葉子がこんなにせき込んで、もの
 をいうのを聞いたことはなかった。半年ぶりで来た元の男と、話し込まなければならな
 いほど、葉子には話し相手がないのだろうか。
・出口を求める欲求は、葉子を駆り立てて、絶えず生活を変化させるのだと、松崎は思っ
 ていた。 
・「あたしみたいなきれいな人を妾にして、悦に入っている顔よ。あなたの顔は」と、そ
 の頃の葉子はいったものだが、いまはそうはいわないだろうと、松崎は思う。それほど
 齢は急に葉子の体に暴力を振るったのである。
・このやせ衰えた顔のうしろに、松崎が見るのは、過去の影である。ただの男の手垢によ
 ごれたとしか見えないかもしれない。だから、ほかの男の目の前に出なくともよい、と
 松崎はいったのだが、それは実は葉子という一人の女の生き方とは、関しなかったので
 ある。  
・結局松崎は自分勝手な夢を見続けていた。教壇から彼自身あまり自信のないことを教え
 る時も、家庭で妻と娘を愛するふりをする時も、彼には姿勢がなかった。自分が生きて
 いないと感じる時、肉と生命に見放されたような葉子の姿が、却って生き生きとして見
 えることがある。だから松崎は葉子をほかの男に見せたくなかった。彼女自身には属さ
 ない男達の愛をわらうことによって、自分の生存を確かめようとしている高島には渡し
 たくなかった。盲人が盲人の手を引いたような、あぶない生活だ、と彼は思った。そし
 て彼自身もまた盲人であることには思い及ばなかった。
・神明町の旅館で休んで、葉子を抱くと、屍のような感じがしたので、松崎ははっとした。
 葉子は長く松崎を離さなかった。
・高島も清水も来なくなっていた。一週間の間、誰も男は葉子に近づかなかった。そして
 野方は花を届けさせただけで、棺の前へはあらわれなかった。
   
・ずっと前から、支度はすんでいたのである。薬の量は、若い時未遂の経験がある葉子に
 は、わかっていた。松崎と別れてから、少しずつ買っていた。好きな時いつでも死ねる、
 と思えなければ、この齢になって、銀座へ出られるはずはない。
・葉子はこれが大変子供っぽい考え方のような気がしていた。自分を欺くことではないか、
 とも思うこともあった。高島のために湯河原へ行くというのも、ただ自分がそう思って
 いたいだけだと、その話がだめになった時、気がついた。
・前からアパートの自分の部屋を死の部屋に選んでいたが、清水がいつかのように、窓か
 ら入って来て、死んでしまう前に発見されるのが、気にかかっていた。清水が店にもア
 パートへも来なくなったいまは、安心して薬を飲むことが出来る。
・しかし葉子が薬を飲むと決めるまでには、時間がかかった。まだ何か、しておかなけれ
 ばならないこと、しのこしたことがあるような気が、終始した。男の手紙や写真を焼い
 て行くうちに、読んで見たくなった。
・死んでしまう前に医者を呼ばれるのも困るけれど、時間が経ちすぎて、あまり醜い姿で
 見つけられるのも、いやだった。
・日曜の夜にきめてあった。土曜の夜、葉子はしたたか酔っぱらった。店がしまってから、
 二人の若い女給といっしょに、新橋駅前のキッチンへ連れて行った客は、いつも酔うと
 食べない葉子が、大きなビフテキを一枚とハヤシライスを平らげてしまったのに驚いた。
 死ぬと決めてから、葉子は急に大食になっていた。
・翌日の夕方また葉子の部屋から物音が聞こえなかったので、隣室の人は留守だと思った。
 しかし土曜日には、階段を降りたり昇ったりする音が、忙しく聞こえたという。部屋は
 その間に整頓されたのである。押入れの行李から、箪笥の隅々までひっくり返して、誰
 に見られても恥ずかしくないように整えた。
・部屋の中をもう一度見廻して、乱れがないのを確かめてから、寝巻に着替え、着物と帯
 をたたんで、箪笥にしまった。水と薬と手紙を盆に載せて、枕元に持ってきた時、部屋
 が暗くなりかけているのに気がついた。        
・鏡の前へ行って、もう一度顔を直してから、まっすぐ寝床に向かった。腿と足首を腰紐
 で縛り、仰向けに寝て、首だけねじって、枕元の薬へ手を延ばした。
・どこかに手違いがあって、死に損なうのではないかという危惧があった。二十年前目黒
 の家でカルモチンを飲んだ時も、この瞬間に来た危惧であった。そこには失敗して助か
 ればいいという望みがあったと、葉子は思っていた。
・今度は同じ望みはないつもりだが、危惧がやはり来たことが、腹立たしかった。こんな
 手間をかけて、用意したことまで、腹が立って来た。葉子は少しずつ、しかし急いで飲
 んで行った。