氷葬 :新田次郎

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この作品が発表された時期は、明確にはわからなかったが、第一次南極地域観測隊が南極
にいったのは1957年のようだから、その後に書かれたものということになるのだろう。
この話は、私も若い頃、酒の席で何度か聞かされたことがあった。いわゆる「南極1号
というダッチワイフの話で、南極観測隊は、そういうものを持って行っているんだという
ことが、まことしやかに語られ、酒の席を盛り上げたものだった。そして若かった当時の
私は、なるほど南極に行くということは、そういうことなんだと、その話を半ば信じて訊
いていた。
当時はまだ、南極大陸というもの、まったく未知の世界だったということもあったのだろ
う。未知の世界への冒険に挑むにあたって、あらゆる想定される事態に備えようと当時の
知識人たちが真剣に考えた末にぶち当ったのが、「男の性の問題」だったということなの
だろう。真面目な人たちだっただけに、真面目に考えすぎてしまったのかもしれない。
この南極における「男の性の問題」は、小松左京の小説「復活の日」でも取り上げられて
いたことを思い出した。この「復活の日」では、日本だけでなく、南極に基地を持つ他の
国々でもダッチワイフというものをもち込んでいたことになっていたが、それはほんとう
なのだろうかと、この「氷葬」を読んで思うようになった。
しかし、この「男の性の問題」は、将来、人類が月や火星などに住み始める場合に、また
問題になりそうな気がする。その頃には、この問題に対して、どのような対処がおこなわ
れるのだろうか。
いずれにしても、「男の性の問題」を持つ男として、ちょっと滑稽な、そして物悲しい気
持ちにさせられた物語であった。



・南極大陸の昭和基地で見る真夏の太陽は、なにかしら物憂げに見えた。南極の夏は十二
 月、一月、二月の三カ月であった。この間はほとんど一日中明るかった。太陽は地表上
 を来る日も来る日も休むことなくぐるぐる廻った。太陽が南の方に一時間か二時間姿を
 かくすことがあっても、外は昼と同じように明るかった。
・成瀬春生は南極基地においてはじめて対面した、この奇妙な動き方をする太陽の下を、
 時間に余裕があるかぎり歩き廻っていた。はじめての南極のことでもあるので、すべて
 が彼の興味を牽くものばかりであった。
・彼はここに来るまで南極に関する資料を読み、話を聞いて、南極基地がどんなところで
 あるか、おおよその知識を得て来たつもりであった。しかしそれは、南極基地の二月の
 平均気温が零下三・二度であり、平均風速が五・四メートルであるというふうな概括的
 な資料であって、地表線上をぐるぐる廻る、あの詠嘆的な表情をした太陽が、予想外に
 多量な熱エネルギーを放射して、基地の周辺の氷雪を溶かして南極の基地を裸にしよう
 としている事実は想像もしていないことであった。南極の氷雪が溶けて、岩石が露出し、
 垂水が音を立てるのを聞くと、ここが南極であるということさえ、ふと忘れてしまうの
 であった。
・建物は、彼の眼には、科学の粋を誇る、南極基地とは思われなかった。それは予算の削
 減と、設営時間の時間的節約を受けたがために充分なことができなかったという理由は
 あるにしても、なにかしら、やっつけ仕事のように思われるふしがないではなかった。
 建物は、長いトンネル式回廊によって接続されていたが、それらの建物と離れているも
 のもあった。何年か前に使用されたが、現在は使われていないものもあった。南極観測
 開始以来十二年の歴史のあとが、それらの廃屋の一つ一つに映し出されていた。
・南極観測が始まった昭和三十二年のこの地の氷雪は比較的少なかったが、その年の冬に
 訪れた寒気と激しいブリザードによって、建設当時の幾つかの施設は氷雪の下になった。
 以来南極の寒気は夏が来ても緩和することなく、ずっと今日まで続いた。そして、南極
 に、十二年ぶりで異常に暖かい夏が訪れたのであった。
・十年ひと昔というけれど、昭和三十二年十一月、南極観測隊員を乗せた宗谷が歓呼の声
 に送られて日本を 離れたことは既に遠い昔の物語になっていた。当時成瀬春生は小学
 校六年生であった。
・成瀬春生は、基地の建物と二十メートルほど距離を置いたところに、雪の中から鉄骨を
 突き出している、おそらく、なにかの物置にでも使ったと思われるような建物の崩れた
 あとを見た。風速五十メートルを越えるようなブリザードに吹き倒され、その上を氷雪
 が覆ったものと思われた。
・ぐんと突き出している鉄骨の腕に当った日ざしが長い影を作っていた。その影の先端に
 あたるところに、赤い点が見えた。それは、氷雪の上にこぼした一滴の赤いインクのよ
 うであった。
・彼はそこにしゃがんで、前傾した姿勢で、右手を伸ばした。氷雪が鳴った。彼の体重が
 かかったからである。三十センチほど離れたところの、やや盛り上がったように見えて
 いた氷塊の表面の氷が音も立てずに崩れて落ちた。
・女の顔の半分が現われた。長い睫をした女の眼が成瀬春生を見詰めていた。成瀬は声も
 出ないほど驚いた。「女が死んでいる、女が死んでいる」彼は、そう叫びながら建物の
 中に駆け込んだ。
・「隊長、女が死んでいます」越冬隊長の部屋をノックしながら彼は怒鳴った。「女が?」
 越冬隊長の玉村八郎は机の上に地図を開いていたが、顔色を変えて飛び込んできた成瀬
 を見ると、ゆっくりと立ち上がった。
・玉村は成瀬の顔を穴のあくほど見ていたが、一時こわばった表情がすぐほどけて「その
 女は眼が開いていただろう、ぱっちりと」玉村は、ぱっちりと、というところに力を入
 れて言った。 
・「それは人形だよ。北の方だよ」「北の方?」「中世の領主は、その細君を館の北側の
 居室に置いた。だから、奥方のことを通称北の方と呼んでいた」「それが人形とどうい
 う関係があるんです」
・「十二年前に、あそこに北の方の居室を儲けてお移し申しあげたのだ」そういうと、玉
 村はなんがおかしいのか突然笑い出した。心の底からおかしくて笑っているようであっ
 た。
・「北の方というのは人形の名前ですか」「いやあの人形には名前はなかった。北の方と
 いうのは、あの人形に与えられた俗称でしかない」「人形と言ったって、人間そっくり
 な・・・」「そうだ、あの人形は等身大の女の身体をしているのだ」玉村の顔が突然き
 びしくなった。
・「あの人形の正式の名称は、保温洗浄式人体模型第一号というのだ」「なんのことです」
 「南極観測開始に当って、愚かなる、多くの人間が創り出したセックスに対する恐怖の
 幻影だよ」


・日本の、国際地球観測年ならびに南極地域観測への参加が決定されて、南極観測統合推
 進本部という官庁機構ができ上がったのは昭和三十年の秋であった。
・南極観測が成功するかどうかは、結局はその隊員の素質にかかっていた。各界は、その
 人選に苦心した。まず健康であること、安定した人格を持った人であり、専門技術に卓
 越している人であることが選定の基準となった。
第一次南極観測隊の隊長として選ばれた青柳真之助は四十三歳であった。地球物理学者
 としてその名は日本よりも海外において知られていた。学者でありながら、学者らしく
 ない強健な身体つきをしていたのは、学生時代から山で鍛えていたからであった。大学
 の実験室で助手を相手に、地球磁場の研究に没頭していた青柳真之助は、突如として下
 った、南極観測隊長という大任を一応は辞退した。だが、二度三度と先輩を通じての申
 入れに彼はその仕事を引き受けざるを得なくなった。
・青柳真之助が隊長に決まったというラジオニュースを彼は彼の研究室で聞いた。その直
 後から、彼は応接のいとまもないほどの電話を受けた。そろそろ辟易したころまた電話
 があった。青柳真之助と中学校の同級生だった男からだった。
・「誰が隊長になるにしても、女っ気のない南極に一年間もいるということは、たいへん
 なことだ。へたとすると生きては帰れないぞ」「南極の嵐だとか、病気だとかいう危険
 を言っているのではない。おれが言うのは、女が居ないということの危険性を言ってい
 るのだ。一年間も、女っ気のないところに置かれた男が、どうなるか知っているか。何
 人が越冬するか知らないが、その半数は頭がへんになるだろう。禁欲生活というものは
 おそろしいものだ。きみと同級生だ。言うべきことははっきり言わねばならない。きみ
 はなによりも先に、女の代用品としてなにを持っていくべきかを考えることだな。それ
 が隊長として一番大事な仕事だと思う」
・青柳真之助はきわめて複雑な顔をして立っていた。こんなことを言われるとは思ってい
 なかった。しかし、旧友が真剣な声でそれを言っているのだから、そのことについても
 考えねばならないだろうと思った。南極観測にセックスを持ち込むと考えただけで悪寒
 が走った。
 

・彼が南極におけるセックスの話を、公式に耳にしたのは、専門部会の席上であった。か
 なり面倒な学問的な討議が終わったあとで、「隊長、越冬隊員のセックスについてはど
 のような準備をしているのかね」と、ある委員に訊かれた。その委員は著名な学者であ
 った。その質問をした委員はひどく真面目な顔をしていたし、その質問を耳にすると他
 の委員たちも立ちかけた椅子に戻って、しんとなった。笑いを浮かべるような不謹慎な
 男はひとりもいなかった。
・「特にそういうことは考えていません」青柳真之助はそう答えながら、この問題はやは
 り、考えねばならないことになるだろうと思った。越冬隊員のセックスについての質問
 は、他の委員会でも、専門部会でもしばしば話題にのぼった。みだらな雰囲気ではなく、
 せっぱつまったような言い方をする者さえあった。
・「セックスを処理するには非常に精巧にできたものがあるそうではないか、それを持っ
 て行ったらどうか」と真面目に彼に耳打ちをした者もいた。しかし、それをどこで売っ
 ているのかと訊くと、横浜だとか神戸だとか、港町の名が出てくるだけで、具体的にそ
 の販売店を知っている者はなかった。
・「性の問題は怖ろしいものだ、おれは戦争中、おおぜいの若い兵隊を扱って充分そのこ
 とを味わった」「アメリカのバード少将が南極探検をやったときも、完全人形を持って
 行ったそうだ」「今度のアメリカ南極観測隊は電気仕掛けのダッチワイフを用意してい
 るそうだ。その設計図を見た人の話によると、人体並の体温を保ち声まで発するそうで
 ある」などと言う者があった。しかしその話を追究していくと、それは結局噂に過ぎな
 いことがわかった。
・だいたい、ダッチワイフというものからして、多くの人たちは間違えていた。ダッチワ
 イフというものは、もともとは枕の補助のようなものであった。東南アジアでかなり以
 前から使われている、ごくありふれた家庭用具の一つであった。木又は陶器で作った枕
 状のもので、熱くて眠れない夜など、子供たちが、このダッチワイフに足を乗せたり、
 からませたり、抱きついたりして眠っている風景は珍しいことではなかった。ダッチワ
 イフがセックスを対象とした人形であるというのはまったくの風説であった。
・「南極のセックスが問題にされているのは、そのこと自体がやはり重大なことだからだ。
 そっぽを向かずに、むしろ積極的に取り組むべきだ」と先輩の委員が青柳に忠告した。
・青柳真之助が、山梨県の船津にある性博物館を見学に行ったのは、この直後であった。
 川口湖畔にある、その性博物館には、性に関する器具のコレクションが陳列してあった。  
 しかし、その中に、越冬隊員のために持たせてやりたいようなものは一つもなかった。
・青柳は、いつかわざわざ電話をかけて来てくれた中学当時の同級生と連絡を取って、具
 体的な協力を依頼した。彼は、そういうことなら任せておけと、気軽に引き受けたが、
 一カ月もたって、青柳のところに持ってきたものは、イソギンチャク状のゴム製品であ
 った。ゴム管の先に、手で操作できるスポイト状の吸引具が付属したもので、使用する
 際には、イソギンチャクの内部圧力を手動で調整できるというしろものであった。とて
 も南極へ持っていけるようなものではなかった。
・青柳は、その性具を見せられたとき、ひどい侮辱を受けたような気がした。しかし青柳
 は、なにかしらこういう物があることを知らされ、もしかすると、もっとましな物があ
 るかもしれなと思った。
・青柳は、既に選ばれている隊員に、こういうものが必要かどうかをそれとなく聞いた。
 「さあ、ぼくにはそういうものは必要としないのですが、中には・・・」選ばれた隊員
 たちは謙虚であった。一人として、そのものを否定する者はいなかった。唯一一人、南
 極行きがほぼ決まっているドクターだけは、「そんなものが要るものか、欲求が起きた
 ら自家発電をすればいいではないか」とまっこうから反対した。
・青柳真之助は難特委に所属する学者たちの意見も、それとなくただしてみた。その話を
 聞いて怒るものはなかった。「そういうことは真剣に考えてやるべきだな」それが元老
 たちの共通した考えだった。
・青柳真之助は、この問題について、なんとかけりをつけたかった。しなければならない
 ことが山ほどあった。セックスの問題なんか南極観測全体から見ると、論ずるに足らな
 いほど小さいものだと思いこもうとした。
・日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会を構成する委員の中には実業家が多かった。
 青柳真之助はこの委員の二、三にこの問題を問わせた。なぜさっさと用意しないかとい
 うような言い方に反発を感じた彼は、「もし皆様のなかに、南極のセックスについて妙
 案がありましたら、御教示願いたい。もし適当な器具、用具があったら教えていただき
 たい」と開き直った。しかし、誰も、実物を提示してくれる者はなかった。
・厳冬の乗鞍岳や北海道での訓練が行われた。青柳真之助はこの訓練にも参加した。隊員
 たちはすべて真面目に職務を遂行しようという者ばかりだった。酒癖の悪い者もいない
 し、猥談をするような者もいなかった。彼等は学術優良、品行方正、身体健康に過ぎた。
 青柳真之助は、その乱れのない訓練ぶりにあまりにも優秀な人たちが集められたことに
 対して、ふと杞憂を抱いた。
・(あのような整い過ぎた人格者だけを集めて南極へやって一年間越冬させた場合、なに
 ごとか予期しない大事件が起きるのではなかろうか。彼等にはなにかしらの笑いが必要
 であり、なにかしらの精神的逸脱が必要ではなかろうか)
・そのとき青柳真之助の頭に浮かんだものは、すばらしくよくできた等身大の人形であっ
 た。セックスとは関係のない飾って眺める人形だった。美しい着物を着せて飾って置く
 だけでも、なにかしらのうるおいが得られるだろうと思った。彼は東京に帰って、その
 考えを二、三の人たちに話した。 
・「どうせ作るなら、眺めるだけでなく、セックスの相手を務める人形を作ったらどうだ。
 そういうことも、南極観測という未知な部門を開拓するには必要なことではなかろうか。
 南極観測と言っても、人間の生活を無視することはできない。その人形に対して、人間
 がいかなる反応を示すかを見るのも広い意味での科学研究になるのではなかろうか」
・青柳真之助はその先輩委員の意見を取り入れて、セックスを対象とする人形を制作する
 ことを決意した。 
 

・青柳真之助は人形の仕様書を誰に書かせるかに苦慮した。どの部門に持って行っても、
 それはわれわれの部門ではないといって拒絶された。青柳真之助は、推進本部の庶務課
 長に相談した。推進本部の庶務課は、文部省関係の役所から応援編成された、暫定的な
 事務機関であった。約三十名の事務官が山積する事務処理に当っていた。
・「その仕事なら吉見君が適当でしょう。彼は事務官と言っても、もともとは技術屋出身
 ですから」庶務課長はそう言って吉見信男を推薦した。
・吉見は青柳から人形の話を聞くと、はじめ戸惑った顔をしたが、青柳が熱心にその必要
 性を説くと、黙って頷いた。だが、決して喜んで引き受けたという顔ではなかった。
・吉見信男は二週間かかって仕様書を起草した。
 保温洗浄式人体模型仕様書
  一、本器は南極において南極隊員が使用するものとす
  一、本器の購入個数は全く同一なるもの二体とす
  一、本器は別第一図に示すような標準型成人女性体の模型にして、特に指示された部
    分については図面どおりの構造を有するものとす
  一、本器は全体を、ゴム又はゴムの化合物を用い、容易に変色もしくは変性しないよ
    うに配慮すること
  一、本器は、内部に電熱線を埋没し、温度を常に摂氏三十七度に保つものとす
  一、本器は別第二図に示す如く、手及び足は自由に動かすことが可能にして、任意の
    位置に静止できるような構造とす
  一、本器の下腹部の内部構造は別第三図に示す如くし、本器を使用した後の洗浄は簡
    単容易なるような構造とす
  一、本器の下腹部恥丘には良質なる人毛を密植するものとし、その毛植部分の構造寸
    法は別第四図に指示する
  一、本器の頭部は日本髪、洋髪、及び断髪の三種とし、それぞれ、本体に着脱容易な
    るような構造とす  
  一、本器の付属品として一体につきそれぞれ、次に示すものを納入すること
    イ、振袖一着(下着つき)
    ロ、ワンピース二着(下着つき)
    ハ、ワセリン百グラム入り三瓶
・この仕様書には本文の他に詳細なる図面がつけられ、閲覧決裁文書として上司の机上を
 移動して行った。保温洗浄式人体模型と名称をつけたのは、国家予算によって制作され
 た器械であり、備品台帳に登録すべきものであるのでセクシーな名前はつけられなかっ
 たのである。
・仕様書の上にクリップで止められた決裁文書には、上司の職名が十三も並んでいた。そ
 こに十三個の印が押されるのに、二週間を要した。その間、起案部局の庶務課長が、呼
 び出されて内容について説明を求められたことは一度もなかったし、付箋を添付されて、
 再審議に持ち込まれることもなかった。
・決裁はおりた。吉見事務官は発注の手続きを取らねばならなかった。そして彼は製造業
 者選定の段階で暗礁に乗り上げた。
・そういう種類のものは、横浜に製造するところがあるというので、業者を通じて調べた
 が、探し出すことはできなかった。一般人形製造業者の出る幕ではなかった。大企業、
 中企業が制作図面を引くような品物ではなかった。
・吉見事務官は思案に余って、その仕様書を持って、本郷のいわし屋へ行った。いわし屋
 というのは、医療器具製造業者のうち義足を作る業者の俗称であった。どのいわし屋も
 首を振った。五軒目のいわし屋が、吉見の困り切った顔を見てやっと引き受けた。
・明治の初年からいわし屋として業績を誇っている笠部八郎兵衛は、二体で三万八千円と
 いう見積りを出した。予算がないから四万円以下にしてくれと、吉見から頼まれたから
 そうしたのである。 
・吉見事務官は、急にもといた勤務先に帰任することになった。吉見事務官のかわりに、
 この仕事を担当したのは、羽塚事務官であった。
・このころ南極観測隊の準備工作は大詰めに入った。各部門で出して来た予算を総合する
 と、国が南極観測のために用意した予算の三億円をはるかに超過した。二割削減の通知
 が各部門に通達された。
・羽塚事務官は、南極観測に対して批判的だった。戦争の後始末も終わっていないのに膨
 大な国費を使って南極観測をやろうとする政府に対して怒りを覚えていた。彼は南極観
 測隊員が使う人形に対して怒りの鞭を当てた。「二体で二万円でやってくれないか」彼
 は笠部八郎兵衛に電話で言った。
・羽深事務官は吉見事務官が書いた仕様書を書き直した。全体がゴムであったのが、腰部
 だけがゴムになり、電熱保温が、下腹部だけを湯に入れて保温する方式に書き改められ
 た。
・そのころ更に予算一割削減の通達があった。羽塚事務官は、削減の斧を当然のことのよ
 うに再び保温洗浄式人体模型に当てた。両手両足が切断された。細かいところでは、恥
 丘に密植させるべき人毛をブタの毛に変更した。
・両手両足を失くして、二体で一万三千円で作れと羽塚事務官に言われた笠部八郎兵衛は、
 色をなくした。
・青柳直之助は、本部の羽深事務官から、人体模型ができたから検査官を出すようにとい
 う電話を受けたので早速、東京在住の越冬隊員に電話をかけた。しかし、当日になると、
 夫々の隊員から、ことわりの電話があった。腹が痛いとか風邪を引いたとか、会議があ
 るという理由であった。選抜された隊員は殺しても死なないような男ばかりだった。仮
 病を使っていることは明瞭だった。
・立ち合い検査には、青柳真之助一人が当った。彼は、両手両足のない哀れな人形に言葉
 も出なかった。羽深事務官が予算削減のためにやむなくこうなったのだと説明したが、
 それに抗議する気すらおこらなかった。役所仕事というものが、いかにくだらない結果
 を生むか痛感させられた。
・笠部八郎兵衛は薬缶にわかした湯を、人形の臀部の栓を抜いて注ぎ込んで置いて、人形
 をもとどおりにして、腿のつけ根しかない人形のそこを開いて見せようとした。「もう
 いい」青柳真之助は顔をそむけた。そのとき、彼は、いかにしてこの人形を南極へ持っ
 ていかないようにするかを考えていた。彼はそのときほど、彼自身の立場を悲しく考え
 たことはなかった。


第一次越冬隊長の松谷重久は、隊員の玉村八郎を呼んで備品リストの一点を指して言っ
 た。「これがなんだか知っているかね」「そういうものが送られて来たことは知ってい
 ますが、どんな構造のものか知りません」「使ってみたいと思うかね」「いや、少なく
 ともぼくには無縁なものですね」「使うにしても使わないにしても人間である以上、隊
 員たちが興味を持つのは当然です。はやく見せてやったほうがいいと思います」
・隊長室に越冬隊員全員を集めて松谷重久が言った。「この人形は、われわれ隊員のセッ
 クスの問題を解決するために本部が作って、備品として送りつけてくれたものだ。おれ
 は夜の間だけ、この人形のために部屋を開けることにする。この人形をテストしたい者
 は自由にやって見るがいい」松谷重久が言った。誰も答えるものはなかった。その人形
 に近づくものもなかった。
・その夜松谷重久は隊長室を出て隊員の部屋で寝た。翌朝隊長室に入って見ると、人形は
 箱に入ったままだった。五日後に松谷重久はその人形を庁舎の北のはずれに建てられた
 物置に移した。しかし、その物置に近づく者はいなかった。
・松谷越冬隊長は保温洗浄式人体模型二号を梱包したまま宗谷に乗せて送り返すことにし
 た。その処置について松谷は、南極観測隊長として基地に来ている青柳真之助には相談
 しなかった。人形について、青柳真之助がいかに気まずい思い出いるかを知っているか
 ら、彼の前ではいっさいこの件には触れなかったのである。
・越冬隊が非常に健全な生活をしていることは、彼等の仕事の量を見ても分かることだが、
 彼等の酒類の消費量を見てもわかる。南極観測隊は食堂の一隅にバーを設けて、夜間、
 時間を限って酒類を実費でわかち与えた。一年間の統計によると、一番酒を飲んだ人で
 六千円、平均千五百円であった。一番飲む人で月五百円の飲み代ということになる。共
 同生活だから一人だけが酔っぱらって翌日仕事をさぼるというようなことはできないので
 ある。仕事に追い廻されているから、人と人とのトラブルも少なくなり、セックスの問
 題も、当初考えていたようなことはなにごとも起らなかった。
・一年経って、宗谷が第二次越冬隊員を乗せて昭和基地へやって来たときには、人形のこ
 とは第一次越冬隊員の頭からは完全に消えていた。
 

・保温洗浄式人体模型第二号は、宗谷に送り返されたその日から、好奇の眼につきまとわ
 れた。それが保温洗浄式人体模型であることは分かったが、その内容について知る者は
 いなかった。しかし人間の直感は、性に関する限り鋭く働くもので、どこからともなく、
 梱包の中には、精巧無比な等身大の女体人形が入っているという噂が流れ出した。当時
 有名なある女優の顔にそっくりな人形で、すべて電気仕掛けになっていて、スイッチを
 入れさえすれば、生きた女体にはできないような演技もするし、痴語まで発する人形だ
 などとまことしやかに言うものもいた。
・たまたま物品管理官として宗谷に乗船して来た浦尾清武はこの噂を聞いて、乗船中の南
 極観測隊長の青柳真之助に梱包の内容がいかなる構造のものかを訊いた。青柳は不可解
 な微笑を以て答えた。その青柳の微笑は自己嫌悪や彼の立場の苦しさや口では言えない
 それまでの経緯などをすべて含めた微笑であったが、物品管理官の浦尾清武には、それ
 がすこぶる猥褻な内容物であることを示唆する笑いだと解釈された。
・人事院通達の精神によれば、南極観測隊員も、船員も同等なもてなしを受ける権利があ
 った。それなのに、南極観測隊員にだけ、すばらしい人形が与えられ、船にないのは片
 手落ちである。紳士の集まりである南極観測隊員はその事情を知って、人形のうち一体
 を船員のために割愛したのだという解釈があった。この説は、一般船員の間にまことし
 やかに語り伝えられて行って、ついには、噂どおりだと信ずる者も出るようになった。
・船員の中にあくまでこの噂の真相を確かめようとする三人がいた。彼等は、ひそかに船
 倉に忍び込んで、梱包を開けることに成功した。人形は振袖を着て、箱の中に横たわっ
 ていた。二人の船員はその頭と足を持って外へ出した。足の方を持った船員が足のない
 ことに驚きの声を上げた。着物を脱がされて提電灯のもとに明らかにされた人形を見た
 三人の船員は唾を飲んだ。
・「なんだ、こんなものか」「こんなものなら、使う気は起こらないだろうな、返送する
 のは当たり前だ」「なあに、使おうと思えば、使えるさ」いささか酔っていた船員はズ
 ボンを取ると、その人形に覆いかぶさって行った。他の二人の船員は思わず顔を見合わ
 せた。
・船員から叫び声が起こった。彼はワセリンを使わなかった。彼は彼自身を押さえて飛び
 退いた。使用法を誤ったので自身に擦過傷を負ったのである。その船員は、わけのわか
 らぬ怒りの叫び声を上げると、力一杯、人形の恥丘を踏みつけた。ブタの毛の恥丘は醜
 くつぶれた。
・浦尾清武は物品管理官としての職責をはたす目的で船倉におりた。二人の幹部船員が同
 行した。梱包は既に開けられているばかりでなく、人形は箱の外に放り出されていた。
 三人はそれを見たとき人形はこわされていると思った。しかし手と足は初めからつけて
 なかったことがわかると、三人は唖然とした。恥丘が踏んづけられて凹んでいるのは人
 為的な仕業だと判断された。
・物品管理官浦尾清武は怒り出した。期待をものの見事に裏切られたこともあるが、恥丘
 を踏みつぶされた人形をまともに見せつけられたのが、彼の激怒を買った。「即座に海
 に投げ込んでください」「棄てるのですか」「勿論」
・人形を抱えていた男がタラップを上がろうとしたとき、日本髪の首がころりとはずれた。
 首は水葬を嫌うように船倉の床の上をころがって行った。浦尾清武がその首の髪を引っ
 つかむと、真っ先にタラップを上がった。海はあくまでも青く、あたりに島影も船も見
 えなかった。浦尾清武腐った水瓜でも棄てるように首を海に投げ込んだ。続いて、二つ
 の首と、首のない人形が投げ棄てられた。
・物品管理官浦尾清武は一時の興奮にまかせて処分した人形のことが心配になった。管用
 備品をなんらの理由もなしに棄却したことは彼の職務が物品管理官であっただけに、も
 し表沙汰になれば、減俸もしくは戒告処分と受けることは間違いなかった。日が経つに
 つれて彼はそれを気にするようになった。
・一年経った。南極から越冬隊員が帰って来ると、浦尾清武は松谷重久を訪れて言った。
 「保温洗浄式人体模型二号は、航海中水葬にしました」「そうか棄てたのか」松谷は大
 きく頷いた。理由は聞かなかった。「物品管理の手続き上、廃棄処分にしたので、これ
 に印鑑をお願いいたします」
 <始末書>
 左記の物品は使用中故障を発生し、鋭意修理の努るも、修復する能わず、依ってこれを
 棄却処分せり
・松谷重久は、始末書を一読したあとで、第二号の後に、及び第一号と五字を書き加えて
 捺印した。 
 

・「越冬隊員二十九名中隊長だけしか真相を知っていなかったというのは、やはり十二年
 の歳月の経過なのでしょうか」成瀬春生がふりかえって越冬隊長の玉村八郎に訊いた。
 「その真相を知っていたのは、第一次越冬隊に属した十一名の他には、ごく限られた人
 だけだった」 
・その第一次越冬隊に属していた隊員は、ここには玉村八郎しかいなかった。南極観測は
 年毎に施設が拡張され人員が増加されると共に、観測隊員も新しい人に交替して行った。
・「このような面白い話がなぜ語り伝えられなかったのでしょうね」成瀬がひとりごとの
 ように言った。「面白いかね、この話が。おれには、ちっとも面白くない。ゆうべ食堂
 で、ことの真相を話すときも、決して楽しい気持ちではなかった」と玉村は言った。
・玉村は、隊員三名をつれて、氷の様子を見に行った。ところどころに、ぱっくりと口を
 開いた氷の割れ目があった。厚さを測ると約二メートルほどあった。玉村が手を上げた。
 適当な氷の割れ目が見つかったからである。
・「さあ人形をおろして、氷葬の用意をするんだ」玉村は言った。「隊長、これが最後だ
 から、人形にもう一度日の目を見せてやりたいのですが」成瀬春生が言った。
・「北の方という名はほんとうの名前ではない。なにかこの人形にふさわしい名前はない
 だろうか」成瀬春生が言った。「名前が無いのだから、ななこはどうだ。名の無い子と
 書いてななこと読ませるのだ」成瀬春生の隣に立っている隊員が言った。
・「そうだ名無子がいい」成瀬春生は、そういうと、箱の蓋を取った。「十二年も雪の下
 にあったというのに、少しも痛んではいないな」と一人は言った。
・「へんなものがくっついていなけりゃあ、このまま飾って置いてもいいのだがな」その
 言葉にいっせいに笑いが起こった。笑いがしずまったところで、成瀬春生が、箱のふち
 に手をかけ、人形を覗き込むようにして、なにかつぶやいた。お経でも唱えたようだっ
 た。
・「南極の花とよ名無子氷葬す」成瀬春生はこんどは誰にでもはっきり聞こえるように言
 った。
・石の錘をつけられた箱は、徐々に氷の割れ目の奥深いところへ沈んで行った。十メート
 ルほどの鉄線の末端を握っていた成瀬春生の手から鉄線が離れた。鉄線が氷の割れ目の
 壁を擦る音が、名無子のすすり泣きのように聞こえた。