祝い人助八 :藤沢周平

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この作品は、いまから35年前の1988年に刊行された「たそがれ清兵衛」という時代
小説の短編集のなかのひとつだ。
「たそがれ清兵衛」は2002年に映画化されており、その映画は原作として「たそがれ
清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」の三つの作品を合わせてつくられているとのことで
あった。
映画「たそがれ清兵衛」というと、どういうわけか私の頭の中に残っている記憶は、清兵
衛(真田広之)の髪を朋江(宮沢りえ)が結うシーンだけなのだ。ほかはあまり記憶に残
っていなかった。
今回、この「祝い人助八」という作品を読んでみて、私の記憶に残っている映画「たそが
れ清兵衛」は、この作品のシーンだったことを知った。

この作品は、現代で言いうなら、いわゆる”ドメスティック・バイオレンス(DV)”を取
り上げたものと言えるのではないかと私は思った。
この作品の主人公である下級武士の伊部助八は、自分の家より裕福な家庭から年上の妻を
迎えたが、その妻は夫をなじる気性の荒い悪妻だったのだ。助八は、その妻が病死するま
での間ずっと妻から束縛され虐げられた生活を送ってきたのだ。そしてその妻が死んだと
き、それまでの束縛された生活の反動から自堕落な生活を送るようになってしまった。
一方、幼馴染の倫之丞の妹の波津は、嫁入り先の夫から虐待を受けて離婚したのだった。
妻から虐待を受けた男と、夫から虐待を受けた女。その二人が運命の再会をすることにな
ったのである。
そんな心に傷を持つ二人なら、今度はきっとあたたかい家庭をつくれるのではないか、つ
くってほしい。そんな期待を持たせるシーンが、あの髪を結うシーンだったのだと私には
思えた。

ところで、この「ほいと(祝い人)」というのは、乞食のことを言うらしいのだが、現代
であまり耳にすることはないのではと思う。しかし、私は自分が子供のころには耳にした
ことがあった。もっとも、私の生まれた地方では「ほいと」ではなく「ほいど」だったと
思う。「あまり遊んでばかりいると”ほいど”になるよ!」などと親から叱られた記憶があ
る。なんだかとても懐かしい言葉に出会った気がした。

過去に読んだ関連する本:
たそがれ清兵衛



・祝い人(ほいと)は物乞いのことだ。
 しかし、伊部助八が”ほいと助八”とか、”ほいとの伊部”とか人に陰口を利かれるように
 なったのは、むろん物乞いをして回ったわけではなく、もっぱら身なりの穢さが原因で
 ある。
・助八はいつもうす汚れている。衣服は垢じみ、湯を使うのも稀なのか、時どき体そのも
 のが悪臭を放っている。 
 助八は御蔵役だが、城の詰所に入る日はともかく、家から直接城外の御蔵に出る日は、
 髪も結わずひげも剃らないのだといううわさがあった。
・去年の五月、帰国して間もない藩主が急に思い立って御蔵を視察したときのことである。
 蔵奉行の久坂と助八は、要所要所で俵をあけて籾の保存状態を説明したり、味噌やする
 めがすぐにも役立つように管理されているのを見てもらったりした。
 蔵の視察が半ばすすんだころから、藩主は時どき、上品な面長の顔を曇らせて物を嗅ぐ
 ような表情を見せるようになった。そして、あとわずかで無事に視察が終わるというと
 ころまで来たときに、藩主はついにさっきから自分を悩ませている異臭、蔵の貯え物の
 匂いとは異なる悪臭の出所に思いあたったらしかった。
 「におうのは助八か」
 「はい」
 助八は顔が真っ赤になり、つぎに青くなった。
・藩主はにがい顔で、悪臭を放ちながら立っている助八を見た。そしてたしなめた。
 「家中は庶民の範、むさくるしいのはいかんぞ」
・その話はその日のうちに城中にひろまって、伊部助八は家中の笑い者になった。
 笑い者にされただけでは済まず、藩主の視察に同行した月番家老の溝口主膳が息まいて、
 危うく処罰されそうなところまで行ったが、助八の上司である久坂庄兵衛が弁護して事
 なきを得た。  
・伊部助八は二年前に妻を病気で失い、以来傷心のやめも暮らしである。近頃うす汚れて
 いるのはそのせいで、同情の余地はある。一方、助八は御蔵役としては一点の落ち度も
 ない良吏だと、久坂はかばった。
 その上でさらに久坂は、助八が香取流の剣で先代藩主雲景院さまに一家を立てることを
 許された、伊部藤左衛門の倅であることについて、月番家老の注意を喚起した。 
・「伊部藤左衛門の試合を見たことがある」
 と家老が言った。
 「武術指南役を勤めた志田采女之介を一撃で破った試合だ。あれを見たとき、わしはま
 だ二十前だったが、いまだに忘れがたい」
・「香取流を助八に残したのか」
 「残らず伝えたといううわさです」
 「ただしうわさでござりまして、誰一人助八が木剣や竹刀をにぎったのを見た者はおり
 ません」 
・しかし処分は免れたものの、助八に向けられた家中の嘲りまでそれで消えてしまったわ
 けではなかった。”ほいと助八”という渾名はそれからついた。
・塊って自分を眺めている男たちを、鎌首をもたげるようにじろとにらんで通り過ぎたい
 する助八の姿は、三十前にして妻を失った男の孤影が感じられないでもなかった。
  

・ところが事の真相というものはとかく散文的なもので、伊部助八のうらぶれた姿に男や
 もめの悲哀を見る御蔵奉行ほかの目は、助八の本心を見抜いたものではなかったと言わ
 ざるを得ない。
・たしかに男やもめで不自由はしていたが、助八は人が考えるほど妻の死を悲しんでいる
 わけではなかった。むろん六年余も連れ添った妻の急死を悲しまなかったわけではない
 が、ひととおりの死後の始末が終わると、意外にはやく解放感がおとずれた。
 誰にも言えぬことだったが、亡妻の宇根は、助八が手を焼いた悪妻だったのである。
・宇根は助八より二つ歳上だった。婚期を逸して、このままでは行かず後家になるかと心
 配しているところに持ち込まれた縁談だったので、考える間もなく伊部家の嫁になった
 という按配だったようだが、実家は百石で伊部助八は三十石である。家の暮らしも違え
 ば作法も異なった。
・宇根は最後まで、その身分の差になじめなかったようである。骨折って出世なさいませ、
 そうでないと実家の者が悲しみますというのが、この女の口癖になった。
 宇根ははじめは物陰で助八にそう言うだけだったが、年月が経つとそのころはまだ生き
 ていた助八の母の前でも、ことごとに裕福な実家を引き合いに出して、婚家の暮らしの
 貧しさを謗るようになった。そして姑が病死したあとは、誰はばかることもない悍婦に
 なったのである。
・しかしその口やかましい干渉が、助八の箸の上げおろしから、やがては閨の内のことに
 までおよんだところをみると、宇根は嫁いできて急に悍婦になったわけではなく、もと
 もとがそういう性格の女子だったに相違ない。
・だが、気にいらないからと簡単に離縁できる嫁でもなかった。宇根との縁談をすすめた
 のは、助八には恩義のある母方の親族で、その上、悪妻には違いないけれども、宇根は
 家事では手落ちのない嫁でもあったからだ。最後に助八にできたのは沈黙することだけ
 だった。
・宇根の死後、助八がにわかにうす汚れてきたのは、もちろん女手を失ったためであるこ
 とはたしかだが、亡妻の手きびしい干渉から解放されて、いささか暮らしのタガがはず
 れたということでもあった。  
・助八は宇根との暮らしのなかでいささか男女の間に介在する地獄をのぞき見た。
 誰も何も言わない、一人暮らしはこのように気楽なものかと思うことがあった。
 厳密には助八は一人暮らしではなく、家の中には心配した親戚が回してよこしたおかね
 という手伝いばあさんがいる。しかしおかねはもう七十近い年寄りで炊事専門、ろくに
 家の中の掃除もせずに、ひまさえあれば台所で眠りこんでいる。
・湯なども気が向けば使い、気が向かなければしばらくは汗臭いままでいる。そして時々
 は内職で得た小金をつかんでは頬かむりして近くの町に出かけ、腰かけの飲み屋で一杯
 やって来る。これは男やもめになってから覚えた楽しみだった。
・しかし女客が訪れて来た四月のその夜は、助八は悪臭をはなちながらも背筋だけはしゃ
 んとのばして、日頃愛読する史記を読んでいたのである。
   

・おかねばあさんの知らせで玄関に出た助八に、女客は頭巾をとりながら親しげに挨拶し
 た。
 「しばらくぶりでございます」
 「やあ、これは」
 返事はしているものの、助八には相手が誰かわからない。ひょっとしたら家を間違えて
 いるのではないかと思ったとき、まるでその気配を察知したように、目の前の美女がに
 っこりと笑った。
 「お忘れでしょうか。飯沼の波津でございますけど・・・」
 助八は呆然として、つぎに強い狼狽に包まれながら言った。
 「これはこれは、お波津どの。あまりに見事に成人されて、すぐにはわからなかった」
・飯沼は右筆の飯沼家で、ここの嫡男倫之丞が助八の親友だった。二人のまじわりは、
 子供の頃にともに朱子学の富田佐中塾に学んだことからはじまり、ひところは飽きもせ
 ずお互いの家をたずね合った仲だった。
・倫之丞の父は学問の素養が深く、外交文書の作成は飯沼にまかせろと言われるほどに藩
 主の信用が厚かった右筆である。壮年のころまでは、藩主の参勤にしたがって一年ごと
 に国元と江戸を往復した。そのせいで飯沼家には常に江戸の空気が漂っていた。
・そういう家風のためか、倫之丞の二人の妹もことさら深窓に隠れるようなことはなく、
 助八がいる席に気軽に菓子を運んで来たり、三月の雛の節句に行き合わせた助八を雛祭
 りの座敷に招いて、白酒を振舞ったりした。したがって、助八は、いま目の前の波津を、
 子供のことからやや大人めく時期まで見ている。といってもそれは、せいぜい波津が
 十三、十四になるまでのことだろう。そのあとは姉妹ともども、文字どおり深窓に隠れ
 てしまって、助八の目に触れることがなくなった。
 そしてその波津に関して言えば、つい二年ほど前に御番頭の甲田家に嫁入ったと倫之丞
 かれ聞いていた。
・「ところで、何か、それがしに急ぎの用でも?」
 「はい」
 波津はうつむいた。しかし顔を上げたときには微笑していて、自分が甲田の家を出たこ
 とは聞いているかと言った。
・「耳にいたした」
 「では、豊太郎どのが離縁を不承知で荒れ回っていることもお聞きでしょうか」
 「それも聞いておる」
 と助八は言った。
・「ご亭主どのは、よほど波津どのを去らせ難く思われているのであろう」
 助八が言うと、波津はうつむいてちょっと笑った。意味不明の少し秘密めかした笑いに
 見えた。
 「離縁の手続きは終わっています。あの方はもう、夫ではありません」
・「さきほど、仲人の安松さまから酒に酔った甲田がそちらに向かったから、用心するよ
 うにと急ぎのお使いがあったのです」
 「それを聞いた兄がたいそう狼狽えて、今夜はこちらに泊めていただけというものです
 から、取るものも取り合えずうかがったのですけれど」
・甲田豊太郎は城下の坂巻という一刀流の道場の高弟で、腕力にすぐれた大男である。
 それに対して飯沼の男たちは、父親は病弱、倫之丞は子供のころ藩の武道場で竹刀にさ
 わった程度という文弱の徒である。
・倫之丞の狼狽ぶりが手に取るようにわかった。しかしと助八は思った。こちらは男やも
 めである。そのことが外に洩れれば、家中をゆるがす醜聞になりかねない。
・「それは、ちと無理でござろう」
 助八がきっぱりと言うと、波津の顔にまた、さっきの不可解な微笑が浮かんだ。
 そして波津は、少々軽々しいような口調で、たぶんそうおっしゃられるのではないかと
 思いましたと言った。
 「伊部さまはおひとりですものね。でも、ちょっとの間ならかくまってもられますか」
 「あ、それはもちろん」
・助八はみるみるさっきの狼狽がもどって来たのを感じた。時ならぬうつくしい女客を迎
 えるには、この家も、家の主人もあまりにうす汚れてはいないかと思ったのである。
・「「ばあさん、茶を持って来い」
 どなったのは、また居眠りをしているかもしれないおかねを呼びさますためでもあった
 が、大きな声を出せば、多少なりとも波津の関心が畳に浮いている埃や悪臭を放つ自分
 から逸れはしないかと、助八は実に姑息なことを懸命に考えている。
・「汚い家で、さぞおどろかれたろう」
 「いいえ」
 「これで、この部屋が一番きれいなのだ。半月に一度は塵を掃き出しますからな」
 助八は自虐的に言って、波津の顔を見る。波津はにっこり笑って助八を見たが、その顔
 には助八が予期したような嫌悪の表情は見えなかった。
  

・助八と波津が、助八の家を出たのはそろそろ九ツ(午前零時)と思われる時刻だった。
 波津の家の門は押すとすぐに開いた。閂は降りていなかった。家は寝静まっているよう
 に見えた。
 「どうやら、やつは帰ったらしいな」
 振り向いて助八が言うと、波津が深々と頭を下げた。
 「今夜はお手間をとらせて、申しわけございませんでした」
・何の警戒もなく玄関に近づいたとき、玄関の戸の内側にちらちらと灯の色が動いた。
 誰か、人が出て来るようであった。
・提灯を持った男が外に出て来た。ひときわ丈高いうしろ姿は、甲田豊太郎に相違なかっ
 た。  
 「では、よろしいか、場所は般若寺裏、時刻は八ツ(午後二時)
 「いきなりそういう無道を言いかけられても困る」
 「それがしは行きませんぞ。果し合いなどとはとんでもない話だ」
 「甲田豊太郎、それほど愚か者ではない。ただ、木刀を一本持ってござれと言っている
 だけだ。武士は武士らしく、それで決着をつけようと」
 「今度の離縁話をお膳立てしたのが貴公だということは、もうわかっているのだ。安松
 のじじいがそう白状している」
 「波津に未練はない。いやなものは仕方ないだろう。だが、貴公に対しては言い分があ
 る。貴公のおかげで、女房に逃げられた男とまわりの笑いものにされた」
 「はっきり言うが、木刀などにぎったこともない」
 「そんなことはこちらの知ったことか」
・武士の風上にもおけぬ男だな、と思った助八は、いつの間にか袴の後ろをにぎっている
 波津の手が、まるで瘧を病んだようにはげしく震えているのに気づいた。
 この男を、恐れているのだ。
 なぜ、もっと早く気がつかなかったかと思った。
・波津が離婚したことを助八に話したとき、倫之丞は波津はよほどいじめられた様子だと
 言った。その言葉を助八は、単純に世の嫁姑の関係と思い込み、波津は姑にいじめられ
 たのだろうと解釈したのだが、いじめたのはどうやら目の前にいるこの男だったようで
 ある。  
・助八は家にたずねて来たときの波津が見せた、奇妙な笑顔を思い出した。あれは一番訴
 えたいことを訴えかねている笑いだったに違いない。
・「その果し合い、代役ではいけませんかな」
 助八が声をかけると、豊太郎は大きな身体がおどろくほど敏捷に動いた。豊太郎の左手
 は刀の鯉口を切っていた。 
・「貴様、何者だ」
 「伊部助八、御蔵に勤めております」
 「ほいと助八とかいうのは、貴様だな」」
 「貴様、飯沼や波津とはどういう関係だ」
 「倫之丞はガキのころからのつき合い、波津どのは倫之丞の妹御というだけで、残念な
 がら貴公がいま邪推しているような関係はありません」
 「よし、明日般若寺裏八ツまで。得物は木剣。立会人はこっちで用意しよう」


・助八は鐘が八ツを知らせるのを聞いた。助八はいそぎ足で林を抜け、寺裏の空地に出た。
 数人の男たちが、一斉に末八を見た。豊太郎の友人と思われる。いずれも身なりのいい
 若い男たちだった。男たちに囲まれて、豊太郎もいた。
・「おそかったではないか」
 「いや、そんなに遅れたとは思いませんな。八ツの鐘は、すぐそこで聞いたばかりです」
・豊太郎は助八が手ににぎっている白木の棒を見咎めて、険しい声を出した。
 「それは何だ」
 「わが流派の棒です。木刀代わりに使います」
 「約束が違うぞ」
 「それがしはほいと伊部と言われる男です。近間に木刀を構えては、そちらが悪臭で卒
 倒する恐れがある」  
 男たちは今度は遠慮のない笑い声をあげた。
 「いや、ただいまのは冗談。木刀は打ちどころが割れ受ければ死にます。ただの野試合
 に使いにはふさわしくない。その点、この棒なら安心です。当たってもアザぐらいで済
 む」
・二人は足場を定めて向かい合うと、得物を構えた。豊太郎は木剣を青眼に構え、助八は
 棒を右斜めに構えた。
 わずかずつ足場を移しながら、二人の対峙は長くなった。見ている男たちは息を呑んだ。
 隙のない棒の構えもさることながら、助八の眼光の鋭さに圧倒されていた。
・先に仕かけたのは豊太郎だった。気合いとともに鋭く踏み込んだ豊太郎が、助八の肩を
 打った。神速の打ち込みだったが、助八の引き足の方が速さで勝った。助八は流れるよ
 うにうしろにさがった。四尺の棒が、その瞬間ほんの一尺ほどに縮んだのを男たちは見
 ている。
・助八は踏みとどまると、そこからわずかに一歩、逆に踏み出した。その動きが豊太郎の
 打ち込みをぴったりと迎え撃つ形になったと見えたとき、助八の手もとに繰りこまれて
 いた棒が、魔のようにのびて豊太郎の小鬢を打った。ぱんと、乾いた音がした。
 見ていた男たちの目には、一閃の白光が動いたとしか見えなかったが、豊太郎の身体は
 はじかれたようにうしろに飛んで倒れた。そのまま昏倒した。男たちが騒然となったと
 きには、助八はもうその場に背を向けていた。
 
・その夜飯沼倫之丞が、礼物を持って助八をたずねて来た。それから数日して、今度は助
 八の留守中に波津が来て、家の中を掃除して行った。波津はそのあとも時どき来て、掃
 除をして帰った。
・さらにひと月ほどたったころ、また倫之丞がたずねて来て、敗北を恥じたのか甲田豊太
 郎はあれ以来姿を現さないと報告した。
 そして話のついでのように、波津を後添えにもらう気はないか、波津もそうのぞんでい
 ると言ったが、助八はことわった。
 身分違いの縁談には懲りたと言った。飯沼の家も百石である。
・波津の性格の好もしさはわかっていた。しかし嫁に来たら、その波津といえども、長い
 年月の間には婚家の貧しさに疲れて悍婦になりはしないかと、助八は思っている。
 助八の胸の中には、まだ亡妻宇根とのにがい歳月の記憶がしこっていた。波津をあんな
 ふうにはしたくないと思った。 
・飯沼の家が、豊太郎との果し合いに代わってやったのを恩に着ているようなのも、いさ
 さか気が重かった。
 助八は人前で家に伝わる剣の技を披露したのを、少々後悔していたのである。
 それは助八に流儀を伝え終わったときに、亡父が戒めたことだったのだ。
 「伝えた技は、わが身を守るときのほかは、秘匿して使うな。人に自慢したりすると、
 のちのち災厄を招くことになるぞ」
・亡父のその言葉を思えば、人前で軽々しく使った技で、うつくしい嫁を贖うことになる
 始末は、助八には受け入れ難いものだった。きっぱりと固辞した。
・そしてその年の秋に、亡父が予言した災厄が、助八に降りかかってきたのである。


・「殿村弥七郎が、中老を刺殺した一件は聞いておるだろうな」
 と、家老の溝口主膳が言った。
・この夏のはじめに、城下を震撼させた出来事があった。組頭の殿村弥七郎が、中老の内
 藤外記を城内で刺殺したのである。非は内藤の方にあるとも言われていた。
・そのせいか、本来ならすぐにでも腹を切らせられるはずの殿村は、大目付の糾問のあと、
 屋敷に閉じ込められたまま、まだ判決を待っていた。いや、判決は出ているのだが、江
 戸にいる藩主に最後の決裁を仰いでいるのだという噂もあった。
・「江戸の殿から弥七郎の処分について、お指図があった」
 と溝口は言った。
 藩主の指図は、殿村を一族もろとも領外追放せよというものだった。殿村に理があるこ
 とを認めて罪を減じたのである。当然、殿村弥七郎は、藩主の寛大な処置に感謝すべき
 であった。
・殿村は寛大な処分には感謝のほかはない、仰せに従って家の者は残らず領外に出させて
 いただく。ただし自分は、この土地、この屋敷で生を享けたものである、他領をさすら
 うのは堪えがたいので、ここで死にたい。藩は討手を送れと言ってきた。
・「即刻、殿村の屋敷に人をやって望み通り討ち果たせという殿のお指図だ」  
 「重役相談の結果、討手にはその方がよかろうということに相成った」
・総毛立つ思いがした。殿村弥七郎はただの組頭ではなく、剣客である。それも甲田豊太
 郎など及びもつかない、本物の剣士だった。
・「この春ごろの話かな。甲田の息子を相手に、そなた水ぎわ立った技を見せたそうじゃ
 ないか」  
 「首尾よく仕とげれば加増がある。わしの見積もりだと、五石、十石どころではない加
 増になる」

・家老屋敷から家にもどると、助八は台所をのぞいて、ばあさん、髪を結えるかと言った。
 討手を引き受けたからには、身体を洗い、髪を結っていかねばならないだろう。
 「昔はやりましたけどもね、近ごろはできませんよ」
・助八は思案にくれたが、ふといい考えが浮かんだ。
 「飯沼の波津どのをお呼びして来い。たぶん来てきれるはずだ」
・そのあとで井戸から水を汲んで、丁寧に身体と髪を洗った。
 助八が見込んだとおり、半刻(一時間)もしないうちに波津が駆け付けて来た。
 助八が事情を話すと波津は驚愕したが、そのあとは言葉寡なに助八の着換えを手伝い、
 髪を結った。
・助八が縁談のことを口にする気になったのは、落ちついてしかもテキパキと支度をすす
 めている波津の姿に、つかの間の家族の幻影を見たせいだったろう。
 「前に倫之丞どのから言われた話だが、波津どのさえよければ、この家に来てもらおう
 かと思うのだが・・・、いかがだろう」
・髪を結う手がとまった。しかし波津は何も言わずにまた手を動かした。そしてしばらく
 してから言った。   
 「もう少しはやく、その話をおうかがいできればよかったのですけれど」
 「ついこの間、よそとの縁組が決まったのです」
・「おう」と助八は言った。にわかに目がさめたような気がし、助八は自分の身勝手な思
 い込みが恥ずかしくてならなかった。
 「これは失礼した。すると、こんなことをやってもらってはいかんのですなあ」
 「いいえ、かまいません。呼んでいただいてうれしゅうこざいまいた」
 「しかし、めでたい」
 「いいえ、そんなにめでたいお話でもないのですよ」
 「あちらさまじゃ御子が二人もおられまして、齢もずいぶん・・・」
・波津の言葉は、殿村の屋敷に向かう途々、助八の胸中に浮かんでは消え、浮かんでは消
 えた。 
 波津のためにも、自分のためにも、何か途方もない間違いをしでかしたらしいと思い、
 助八はめずらしく気持ちが滅入った。
・門は大きく開かれていた。しかし殿村の姿は見えず、屋敷は静まり返っている。助八は
 羽織の紐をとき、刀の鯉口を切ってから、太い敷居をまたいで屋敷の中に入った。
 すると、すさまじい音がして門がしまった。助八はとっさに羽織をぬぎ捨てて、うしろ
 を振り向いた。すると魁偉な顔をした男が、助八に目を配りながら、門の閂をしめてい
 た。   
・「さあて、これで余人をまじえず斬り合えるというものだ」
 男は手をはたいてそう言うと、改めて助八を見た。背が高く胸の厚い男だった。
 齢は四十を過ぎているのだろう。
・殿村は、家を継ぐまでの十年余を、江戸で直心流の修行に費やしたと言われる剣客だっ
 た。帰国したころ、殿村の剣は藩中に敵なしと言われたという。ただ、十数年も前の話
 である。 
・「藩がさしむけて来たところを見るとかなりの遣い手だろうが、名前を知らぬ。名乗れ」
 「伊部助八」
 「伊部・・・すると貴様、藤左衛門の倅か」
・殿村弥七郎は伊賀袴をはき、足元を草鞋で固めていた。おそらくは斬り合いのためにそ
 の身支度をしたのだと思ったとき、助八は背筋に寒気が走るのを感じた。
・斬り合い相手は剣鬼だった。予想どおりの難敵だと助八は思った。   

・四つん這いの形で肩の間に深く首を垂れたまま、助八は全身で喘いだ。
 しかしそうしていると、次第に静まって行った。助八は首を上げて、倒れている殿村弥
 七郎を見た。
 およそ一刻(二時間)におよぶ斬り合いの間に、日は傾いて薄雲の中に消えかけていた。
 殿村の身体は、ぴくりとも動かず横たわっていた。
・助八も二の腕と腿に手傷を負っていた。襷をはずして腿の傷の上を縛ってから、助八は
 羽織を拾い上げて歩き出した。 
・「終わりましたか」
 大目付の配下とみて、男の口調は丁寧だった。終わったと助八は答えた。
 「や、手傷を負われましたな」
 「いや、かすり傷です。後をたのみます」
・歩い出すと、傷は激しく痛んできた。傷口から新たな血も流れはじめたようである。
 ばあさんに湯を沸かせて・・・ 
 まず傷の手当をせねば、と助八は思ったが、一人では心もとない気がした。あるいは、
 すぐに医者に行くのがいいかも知れなかったが、その医者がどこにいるのかもわからな
 かった。
・波津なら知っているかも知れなかったが、その波津はもう帰ったはずだった。
 お帰りはお待ちしませんからと波津は言い、小声で、御武運を祈りますと言って助八を
 送り出したのである。
・当然だ、あの人は赤の他人なのだからと助八は思った。そして突然に、これまで感じた
 ことがないような強い孤独感に、身体をひしと締め付けられるのを感じた。
 歯を喰いしばって痛みをこらえながら、助八は歩きつづけた。
・ようやく住む町にたどりつき、わが家の粗末な門を目でさぐったとき、門の前のうす暗
 い路上に、黒い人影が立っているのが見て来た。助八は立止まった。
・助八が立ち止まると、黒い人影は下駄の音をひびかせながら走り寄ってきた。
 ほの白い顔は波津である。幻を見ている、と助八は思った。