たそがれ清兵衛 :藤沢周平

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この作品は、いまから35年前の1988年に刊行された短編の時代小説だ。
「たそがれ清兵衛」というと、2002年に映画化されており、テレビでも何度か放送さ
れていて、私もそれを見た記憶がある。
しかし、原作となったというこの作品を読むと、映画のストーリーとは内容が違っていた。
映画のほうは、この作品のほかに「竹光始末」「祝い人助八」の作品を加えたものになっ
ているという。映画化するには、この作品だけでは内容が少なすぎたのだろうか。

私がこの作品を読んで心に残ったのは、病気で寝たきりの妻を抱える主人公の清兵衛が、
家老から上意討ちの役目を打診される場面である。病気の妻の尿の世話があるために上意
討ちの役目を躊躇する清兵衛が、家老から「藩の一大事と女房の尿の始末とは一緒にでき
ん」と上意討ちの役目を迫られたのだ。
これは現代であるならば、会社の重役から「会社の仕事と家族とどっちが大事なのか!」
と迫られたようなものだ。自分がこんな状況に立たされたらどうするだろうと、つい考え
込んでしまった。
清兵衛にとっては、藩の一大事よりも妻の尿の始末の方が大事だったのだ。おそらく作者
がこの作品に込めた思いは、この部分なのだろうと私には思えた。
藩にとって、清兵衛の代わりはいるが、清兵衛にとっては病気の妻が唯一の家族であり、
清兵衛の妻にとっても清兵衛が唯一の頼れる家族である。清兵衛にとっては、妻が何より
もこの世で一番大切な、かけがえのないものなのだ。
私はこの作品を読んで、清兵衛に男の生き方の手本をみたような気がした。



・藩でいま、根の深い厄介事をひとつ抱えていた。筆頭家老堀将監の専横である。だが、
 堀の専横には、杉山頼母たちほかの執政にも責任があった。
・七年前に、藩は未曽有の凶作に見舞われた。異常の天候のせいである。
 領内の川という川、溝という溝はことごとく溢れた。ようやく雨がやんだとき、平地で
 は田も畑もすべて水の下に沈んでいたのである。
 田畑だけではなかった。城の前面を流れる五間川が氾濫して、城下の町々も水浸しにな
 ったし、その川は下流では堤が切れて、人家が押し流される村落さえ出た。
・領内は前年も不作だったが、財政が苦しい藩は強引に年貢を取り立てたので、村々では
 取り置きの古米まで年貢に回した者が少なくないとみられていた。その翌年の大凶作で
 ある。今度は領内から餓死者を出すおそれがあった。
・領民は争って野山に入り、葛の根、蕨の根を掘った。大根、蕪、白芋、唐芋は葉まで干
 して食用に回したし、蕗の葉、イタドリ、あざみの葉までゆでたり、灰汁抜きをしたり
 して糅飯の種にした。
・予想通り、領内は秋から冬いっぱいにかけて飢饉に見舞われ、領民は飢えと寒さに責め
 られる苦しい冬を送った。
 三月になってようやく手当しておいた上方の米と雑穀が届き、藩では家中、町方、郷方
 の順に合積り(配給)の制度をしいて米、大豆、麦の売り出しにかかることができた。
・時の執政たちは、ともかく餓死者を出さずに、どうにか飢饉をしのぐことに成功したが、
 そのあとの財政の窮乏には頭を抱えた。形ばかり割り当てた年貢は、三分の一も収納で
 きず、すべて貸付けになっていた。その貸付け分も、飢饉の手当てに支出した藩金も、
 いつになったら回収できるのか、めどが立たなかった。
・めどが立たないのは、一昨年の不作、昨年の大凶作と二年つづきの打撃で、村々が疲弊
 しつくしてしまったからである。春になっても、田に蒔きおろす種籾を持たない百姓が
 村々に続出していた。
・そういう情勢をよそに、藩の支出は出るだけは確実に出る。藩では倹約令を公布したが、
 それも焼石に水だった。
・すでに藩に多額に金を貸している商人たちは、見返りどころか回収もおぼつかない金を
 貸すことに、一様に難色を示した。
・城下の富商たちとの交渉に失敗した直後に、家老三人、中老一人が職を辞した。執政の
 地位にとどまったのは、家老の成瀬忠左衛門、中老の杉山頼母の二人だけである。
・そしてかわりに組頭から家老職にのぼったのが堀将監だった。もう一人、新たに家老に
 なった野沢市兵衛も堀派の人間だった。中老には新たに吉村喜左衛門、片岡甚之丞が任
 ぜられた。吉村、片岡も堀派の人間だった。
 

・領内に能登屋万蔵という回漕問屋がいる。その富は底知れないとささやかれる新興の商
 人だった。
 かつて二度、藩と能登屋が膝をつき合わせて接触したことがある。しかしその折衝は、
 二度とも実を結ばず流れた。理由は能登屋の示した条件が、城下商人とは感触が違って、
 いずれも金貸しはだしの利にきびしいものだったからである。苦しい台所を抱える藩は、
 能登屋万蔵の富をつねに意識しながら、一方できわめて利にさといその商人が藩政に介
 入して来るのを恐れてきたのだった。
・その能登屋の財力を、堀将監は無造作に藩政の中に組み込んだである。藩を通さずに、
 能登屋が直接村方費用や種籾を貸し付けることができるようにした。
・藩公認の金貸しが村方制度の中に入り込むことになったのだが、外からみれば、それは
 疲弊した村々に対する藩の救済手段の一方便と映った。そして行末のことはともかく、
 沈滞していた村々の空気が、能登屋の金によって息を吹き返したことは事実だった。
・その結果が、いま出ていた。村方への投資を、能登屋はいま潰れ地を買い取って地主に
 なるという形で回収つつあった。以前にも一部の郡奉行、代官などが潰れ地を地主、富
 商に斡旋して利を得たという事件があって、きびしい咎めを受けたことがあったが、今
 度は能登屋が公然と潰れ地買収に乗り出し、しかも能登屋には未収の貸し金を田地買収
 で取り立てるという大義名分があるために、誰もそれを咎められないという状況になっ
 たのである。 
・領内には多数の小作百姓と、そして領内にかつて存在したことのない巨大な地主が出現
 しようとしているのであった。 
 能登屋は、藩というもっとも堅い融資先に密着することで、確実に財力を膨らませつつ
 あった。能登屋が城下に支店を開き、そこにひそかに出入りして金を借りる家中藩士が
 跡を絶たないということも、最近では公然の秘密になっていた。
 能登屋は藩の苦しい台所を救った救世主であったが、そこから絶えず利を吸いあげてい
 ることでは、巨大な寄生虫でもあった。
・そのことを指摘する声もあったが、堀将監は平然としていた。能登屋と組んだ手をゆる
 める気配はまったくなく、強く反対する者は容赦なく弾圧した。
 能登屋の融資を基本において農政を、きびしく批判した郡代の高柳庄八は、閉門処分。
 ひそかに調書を作成していた郡奉行の三井弥之助は左遷。意見書をそえて藩主和泉守に
 上書しようとした勘定奉行下役の諏訪三七郎は、家禄を半分削られた。
・諏訪三七郎は慎重な男で、作成した調書と意見書の控えをつくっていた。その控えは、
 藩主のそば近く仕える諏訪の友人の手によって、ひそかに藩主に届けられ、それを見た
 若い藩主が激怒したといううわさがあった。
・それを聞きつけた堀は、次第に藩主交替を考えるようになったようであった。
 堀が狙ったのは、藩主の三弟与五郎の擁立だった。和泉守正寛は、頭脳明敏で覇気もあ
 る藩主だったが、病弱だった。そのせいか、三十二になってもまだ子供がいなかった。
 堀はそこに眼をつけて、早い時期に和泉守を隠居させ、頭が切れて気性のはげしい現藩
 主のかわりに、性格温順な三弟を藩主に立てる画策をはじめたのである。
・堀将監には、二年ほど前から傍若無人な振舞いが目立つようになった。能登屋に献金さ
 せて海辺に別荘をつくったのもそのひとつで、家中、領民の困窮をよそに、堀は月に一
 度、その別荘でひとつのうわさにのぼるほどの豪奢な遊興を繰り返して平然としていた。
・堀の父、先代の将監は、筆頭の家老を勤めながら、専横の振舞いを咎められて、執政か
 ら除かれた人物だったが、専横は堀家の血とみえて、子の将監もまた、父親を上回る専
 横ぶりを示しはじめたとみるべきだった。

・「江戸の殿に急使を出して、一筆いただく」
 「上意討ちかの?」
 「さよう、上意討ちにかける」
 杉山頼母はきっぱりと言い、三人は顔を見合わせた。
・「さて、あとは誰を討手に選ぶかじゃな」と寺内は言った。
 「討手?」
 杉山は決定したことの重大さに心を奪われている顔つきで、ぼんやりと寺内を見た。
 「討手など誰でもよかろう。若い者の中から剣を遣える者をさがせばよい」
 「いや、いや、さにあらず」
 寺内は家老の無知に驚いたように、堀にはそばを離れない護衛がいるのだと言った。
 「近習組の北爪半四郎。北爪は江戸で小野派一刀流を修行した男だが、藩中に彼の右に
 出る剣士はいないと言われておる」
 「はて、厄介な」
 「それに堀自身、若いころは城下の平田道場で鳴らした男。上意討ちと申しても、一瞬
 のうちに事を運ばねば、会議の広場は修羅場となりますぞ」
・杉山は疲れ切った声で言った・
 「誰か、これはと思う者はおらんのか?」
 「さあて」
 寺内は太い腕を組んで、首をかしげた。
 やがて、それまで終始発言をひかえて来た大塚七十郎が、おそれながらと言った。
 「その役目、井口清兵衛に命じられてはいかがかと思われます」
 「聞いたことのない名前じゃな。何者だ?」
 「勘定組に勤めて、録はたしか五十石ほどかと記憶しておりますが・・・」
 「そうそう、たそがれ清兵衛という渾名で、一部にはよく知られておる男でござります」
 「井口はもっぱら家のことをいたしますので。それがし、見たわけではありませんが、
 城をさがると、飯の支度から掃除、洗濯と、車輪の勢いで働きますそうにござります」
 「その男、家の者はおらんのか?」
 「女房がおりますが、それが長年の患いで臥せっておりまして、しか致しておると聞い
 ております」 
 「ほほう」
 杉山は寺内と顔を見合わせた。
 「感心な者じゃな。病妻をいたわって、仲ようしておるのはよろしい」
 「しかし、たぶんその疲れのせいでございましょう。昼の城勤めでは、そろばんを握っ
 て居眠りをすることもあるとかで、たそがれ清兵衛というのは、同僚の陰口でもござり
 ます」
 「その清兵衛が、剣が出来るのか?」
 「諏訪の話によりますと、井口は無形流の名手だそうにござります」
 「鮫鞘町に松村と申す無形流の道場があります。井口はこの道場に学んで、若いころは
 師をしのぐと評判があった遣い手だった由にござります」
 「若いころというと、井口はもう若くはないのか?」
 「されば、もはや三十半ばにはなっておりましょう:
 「どうも、頼りない話じゃな」
 

・清兵衛の妻女の名は奈美である。五つのときに、両親を失って孤児となり、遠い血筋を
 頼って清兵衛の家に来た。清兵衛より五つ年下だった。ほかに子供がいなかったので、
 二人は兄妹として育てられ、歳ごろになれば奈美は井口の家から嫁に行くはずだったが、
 清兵衛の両親が早く病死したために、事情が違ってきた。遺言によって、二人は夫婦に
 なったのである。
・数年前に妻女は労咳にかかった。咳が出るわけでもなく、血を吐くわけでもないのに、
 清兵衛の眼には、日に日に痩せていくように見える。食が細くなっているのだ。
・町医の久米六庵の診立てを疑うことがあるが、六庵の言葉の中で、もっとも信用出来そ
 うに思われるのは、転地して、うまいものを喰わせれば、病気は半分方なおるという言
 葉だった。 
・心あたりはあった。五十石の平藩士では、山の湯に湯治など思いもよらないが、清兵衛
 は何とか奈美を山麓の湯宿にやりたいと思っていた。
 六庵の話では、奈美は心身ともに夫に頼りすぎていて、このままではやがて立ち上がれ
 ない病人になるだろうとも言っていた。そうなる前に、空気がよく食べるもののうまい
 湯治にやりたいが、それにはいま少し費用が足りなかった。
・清兵衛は顔を上げた。忍びやかに表戸が鳴っている。戸を開けると、頭巾で顔を包んだ
 男が立っていた。 
 「郡奉行の大塚じゃ」
 「これから、わしと同道して小海町まで行ってくれぬか。杉山さまが、そなたに会いた
 いと申されておる」
 「何か、急なご用でも?」
 「むろん、急用だ。ご家老は、ぜひともそなたに会って話がしたいことがござるそうだ」
・清兵衛は茶の間に引き返した。刀をつかみ上げて腰に差すとき、さりげなく目釘を改め
 た。それから、念のために襖をあけてみると、妻女が目ざめていて、不安そうに清兵衛
 を見た。 
 「じきにもどる。眠っておれ」
 

・一切他言しないことを誓わせてから、杉山頼母は上意討ちの一件を、清兵衛に打ち明け
 た。
 「恐れながら・・・」
 井口清兵衛は、伏せていた顔を上げた。
 「そのお役目、余人に回してはいただけませぬか」
 「ことわるというのか?
 杉山は険悪な顔になって、清兵衛をにらんだ」
 「話を聞いて臆したか?」
 「いえ」
 「ただ、その会議は夜分でござりまして・・・」
 「夜分はその、それがしいろいろと、のっぴきならぬ用を抱えておりまして・・・」
 「女房は、そなたが帰るまで、尿を我慢して待っておるのか?」
 「はあ」
 「それはよくない。身体にごくわるい」
 「しかし、そなたに命じておることは藩の大事じゃ。女房の尿の始末と一緒にはできん。
 当日は誰か、ひとを頼め」
 「余人には頼みがたいことでござります」
 「清兵衛、このことが首尾よく運んだら、加増してつかわすぞ」
 「清兵衛、申してみろ。何かのぞみがあるだろう。かなえてやるぞ」
 「女房は労咳だそうだが、さしあたり女房の病気が治ることなどは望んでいないのか?」
 清兵衛が、はじめて眼を上げて家老の顔をじっと見た。その顔に、杉山はうなずいてみ
 せた。
 「わしの屋敷に出入りしている辻道玄に、一度診させよう。道玄は名医だぞ。労咳など
 は、手もなく治す」
 その話は清兵衛の気持をとらえたようだった。


・杉山頼母の予想したとおりとなった。会議は堀派がわずかに優位を保ったまま膠着して
 いる。
 さて、ここであの一件を出すべきだ、と杉山頼母は思った。政策論議は、結局水掛け論
 になるのだ。
 だが、井口清兵衛がまだ来ていなかった。懸念したとおりだと、杉山は内心舌打ちする
 気持ちである。
 「女房の尿の始末か、ばかめ!」
 杉山頼母の頭が、かっと熱くなる。いまが藩主家に対する不遜な容喙ぶりを暴露して、
 堀の長年の専横にケリをつける最後の機会だった。だがその攻撃の詰めには、井口清兵
 衛が必要なのだ。
・「やつめ」
 一藩の危機と女房の病気の、どちらが大事だと思っているのかと、杉山は胸のうちにあ
 る井口清兵衛の馬面に罵り声を浴びせたが、あの清兵衛なら、どっちとも判じかねると
 首をかしげるかもしれないと思うと、苛立ちはよけいに募ってきた。
・堀は会議を、抜け目なく自派強化の宣伝に使っていた。とくとくと述べ立てると、その
 眼を重職会議を招請した杉山、成瀬両家老にじろりと向けて来た。つめたい眼だった。
・「夜も更けるようだ。いかがかな。会議はこのあたりで切りあげては?」
 「お待ちあれ。いま一項の不審がござる」
 と杉山が言った。
 井口清兵衛はまだ姿を見せていないが、ここで会議を散らしてしまえば、反堀派の敗北
 だった。このあと堀は、必ず報復の人事を発動して、杉山たちを執政職から追放するこ
 とはあきらかだった。   
・堀を弾劾している間に、清兵衛が間に合わぬものでもない、と杉山頼母はその一点に賭
 けた。だが、清兵衛が間にあわねば、おそらくは負ける。
・杉山は気迫のこもる声で、再び堀将監の弾劾をはじめた。
 堀将監が、病弱の和泉守に藩主交替を迫ったという杉山の言葉は、その事実をまだ知ら
 されていない反堀派、中立の旧執政だけでなく、意外なことに、堀派に数えられる人間
 にも衝撃を与えたようだった。彼らにも、そこまでの秘事は十分に伝わっていなかった
 ようである。会議の広間に、低いざわめきの声が生まれた。
・「頼母、そういうからには証拠があろう。証拠を見せろ」
 「証拠とな?」
 と言ったとき、杉山頼母は広間の隅の襖を開いて、ようやく井口清兵衛が姿を現したの
 を見た。  
・清兵衛の姿を見て、襖ぎわに控えていた堀の護衛人北爪半四郎が、すばやく立って清兵
 衛に近づいて行ったが、その北爪を、清兵衛は軽く両手を挙げて制した。妙に貫禄のあ
 るしぐさだった。清兵衛はそのまますたすたと重職が集まっている上座に来ると、寺内
 権兵衛の背後にぴたりと坐った。これでよいと杉山は思った。
・「しからば、堀将監どのに伺いたい。ここに、江戸の殿から直接に頂戴した御書付けが
 ござる」 
 杉山頼母は、懐から奉書紙を包んだ手紙を出した。それを見て一座が、しんと声を失っ
 た。
・「罠だ」
 堀将監がわめいた。顔面蒼白になっていた。
 堀は一座を見回したが、堀派の多くは顔を伏せ、ほかは一様につめたい眼を堀将監にそ
 そでいるだけだった。
・堀は険しい眼を、杉山頼母に投げて来た。
 「この始末、いずれはつけるつもり」
・立ち上がろうとする堀を、杉山ははげしく制止した。
 「会議はまだ終わっておらぬ。中座はお慎みありたい」
・「邪魔するな」
 堀が咆えた。立ち上がって部屋の入口に向かおうとする。そのときには、杉山の目くば
 せを受けた井口清兵衛が、風のように人びとの背後を走り抜けて、堀の背に迫っていた。
・清兵衛は、ひと言、堀に声をかけた。振り向いた堀が小刀に手をかけるところを、清兵
 衛は抜き打ちに斬った。軽やかな太刀さばきに見えたが、その一撃で堀は横転した。
・人びとがどっと立ち上がり、襖ぎわにいた北爪半四郎が刀の柄を抑えて疾走して来た。
・「静まれ、座にもどれ」
 同じく立ち上がった杉山頼母が叫んだ。
 「上意討ちである。いま、読んで聞かせる。聞かねば討ち果して苦しからず、と殿は仰
 せられておる。ほかに刀を抜いてはならぬ。抜けば、私闘とみなすぞ」


・井口清兵衛は、手に風呂敷包みを二つさげていた。ひとつには梨、柿など、昨日のうち
 に買い求めておいた季節の木の実が入っている。もうひとつの荷物には、この前の非番
 のときに持ち帰った洗い物と、辻道玄にもらった薬が入っている。
・城下から小一里ほどはなれたところにある湯宿に妻女が養生に行ってから四月ほど経つ。
 家老の杉山頼母の世話だが、辻という医者の薬も効いたらしく、妻女はいくらか元気に
 なった。ひと月ほど前に見舞ったときには、部屋の中を立って歩けるほどになっていた
 のである。 
・転地の宿の世話してもらい、医者の薬をもらい、妻女の日常の世話は宿の者の手をかり
 ず、家老屋敷に出入りしている地元の百姓の女房にやってもらっているが、清兵衛は約
 束だからかまわないと思っている。
・堀が誅殺されたあと、藩には政変があって、堀派は要職から一掃された。杉山頼母は筆
 頭家老にのぼり、寺内権兵衛は中老になった。
・杉山頼母、政変のいそがしい中にも、忘れずに辻道玄をさしむけて来て、なおほかに望
 むことがあれば、この際だ、言えと言ったが、清兵衛は固辞して、妻女の養生について
 の援助だけを受けることにしたのである。実際に、ほかにはさほど、望むものはなかっ
 た。 
・清兵衛は、足どり軽く町はずれの橋を渡った。そこを抜けると道は野道になった。だが、
 その野道を、いくらも行かないうちに、清兵衛は足をとめた。しばらく黙然と立ってい
 たが、やがて風呂敷包みを下に置いて、刀の下げ緒をはずした。
・道ばたに小祠があって、ひとつかみほどの木立がその上を覆っている。その堂の陰から、
 道の上に出て来た者があった。北爪半四郎である。
・北爪が、そなたを狙っているという噂がある、気をつけろと杉山家老に警告されていた
 のを、清兵衛は思い出している。
・半四郎がすべるように走って来た。まったく無言のまま、ただ一合、二人は斬り合った。
 一撃で北爪半四郎は地面にのめっていた。   
・清兵衛は、丁寧に刀を拭いて鞘におさめると、荷物を下げたまま、そこから見える下流
 の水門小屋に歩いて行った。
・街道にひとが死んでいると、杉山家老までとどけさせるつもりだった。死んでいるのが
 北爪とわかれば、杉山は事情を察し、すぐに処置するだろう
・村はずれの松の木の下に、女が一人立っている。じっとことらを見たまま動かない。
 その白っぽい立ち姿が、妻女の奈美だとわかるまで、さほどひまはかからなかった。
 「ひとりで歩けたのか?」
 「はい、そろそろと・・・」
 妻女は明るい笑顔を見せた。その顔に艶がもどっている。
・「ここにいるのも、雪が降りるまでじゃな」
 「はい、家が恋しゅうござります」
 「それに、もったないことですが、少し美食に飽きました」
 「それなら家に戻るしかないの。お望みの粗食をつくってやるぞ」
 清兵衛は面白くもない顔で、冗談を言った。
 「おまえさま、雪が降るまでには、すっかり元気になるかもしれませんよ。はやく、ご
 飯の支度をしてさしあげたい」 
 「無理をすることはない。じっくりと様子をみることだ」
 と清兵衛は言った。道に濡れてぬまるんでいるところがあったので、清兵衛は妻女の手
 をとって、その場所を渡した。