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この作品は1994年に発表されたもので直木賞受賞作ある。
大正初め、第一次世界大戦で日本の俘虜となったドイツ人たちを収容した、徳島にあった
坂東俘虜収容所」で実際にあった出来事を描いたものだ。
この坂東俘虜収容所の所長をしていた松江豊寿という人は、元会津藩士を父の持つ人物だ
ったようだ。幕末から明治にかけて、新政府軍と旧幕府軍との戦いとなった戊辰戦争にお
いて、敗れた会津藩士たちは、「官軍」といわれた新政府軍から、「賊軍」の汚名を着せ
られ、非情な扱いを受けたといわれている。そんな話を父親から聞いて育った松江豊寿は、
敗れた側の心情が痛いほどよくわかる人物だったようだ。松江豊寿は、ドイツ人俘虜たち
を、例のない寛容な処遇で取り扱った。これにより、ドイツ人俘虜たちと徳島の地域住民
たちの交歓も行われるまでになったようだ。
昭和の日中戦争・太平洋戦争では、日本軍の俘虜の扱いは、「バターン死の行進」や「
緬鉄道建設のための強制労働
」などに見られたような、恥ずべき非人道的な扱いが多かっ
たようだ。しかし、この大正初期はまだ、日本軍人の中にも世界に誇れるような人道的な
精神を持ったりっぱな人物がいたのだと知って、胸が熱くなった。
なお、この作品は「バルトの楽園」として2006年に映画化もされたようだ。


・大正3年(1914年)8月、日本は同盟国イギリスの要請に応えて、ドイツ帝国に対
 して宣戦を布告、ミクロネシアのドイツ領南洋諸島の占領を急ぐ一方、中国山東省のド
 イツの租借地「青島」の攻略をめざした。
・青島のドイツ守備軍はアルフレッド・フォン・メイヤー・ワルデック総督以下5千足ら
 ず。対して日本軍は神尾光臣陸軍中将以下約3万であった。天津からきたイギリス軍1
 千と合して神尾中将を総司令官とした日英連合軍は、青島要塞に籠城して抵抗するドイ
 ツ軍に向かって総攻撃を開始、ついに青島を陥落させたのである。
・しかし、ドイツ軍の投降は決して恥ずべきことではなかった。圧倒的に優勢な連合軍に
 包囲され、孤立無援の戦いを展開する間に、かれらは日本軍に対して戦死415、負傷
 1451の痛打を与えていた。それに較べて、ドイツ軍戦死者数はわずか191に過ぎ
 ない。4791名が生き残って俘虜となる運命をたどった。うち軍医や衛生兵を解放し
 た連合国側は、傷病兵の措置はイギリスが担当し、残る4600余名を日本国内に輸送
 することにした。
・かれらを詰め込んだ輸送船は、おおむね老朽化した木造貨物船。石炭蒸気船であったが、
 その乗船に先立って日本軍は持物検査や身体検査をあえて行わなかった。 
日露戦争中、旅順陥落後の水師営の会見に際し、「乃木希典」陸軍大将はステッセル
 下のロシア軍代表団に帯剣を許し、その名誉のために映画撮影を禁じた。
・おなじく「日本海海戦」に際し、「島村速雄」海軍少将は、逃走をはかった海防艦アド
 ミラル・ウシャーコフに対してまず万国船舶信号によって降伏を勧告。同艦が戦闘旗を
 降ろさないのを見て撃沈させたが、その後すぐ乗組員を救助すべく磐手、八雲の両艦を
 その沈没海域に急行させた。
・青島のドイツ人俘虜たちが、のちの「バターン死の行進」や「泰緬鉄道建設のための強
 制労働
」のような悲劇と無縁であったのは、このような時代の雰囲気がまたつづいてい
 たからだ、というのが定説である。
・かれらを乗せた輸送船は、日本の門司港、広島港、神戸港に入った。そこから彼らは鉄
 道か船により、全国12カ所(東京、静岡、名古屋、姫路、大阪、松山、丸亀、徳島、
 大分、久留米、福岡、熊本)に設けられた俘虜収容所へ護送されていった。
・しかしまもなく、福岡俘虜収容所に事件が起きた。大正4年(1915年)11月、5
 人の将校が相次いで脱走したのである。うちドイツに無事帰りついたのは1人のみであ
 ったが、これによって収容所側は態度を硬化させた。
・福岡の収容所長は、再発防止すべく俘虜たちに誓約書の提出を命じ、俘虜全員の顔写真
 を撮った。ほとんどの俘虜は誓約書の提出に応じたが、中にはそれを拒む者もいた。所
 長は、そのような者に対しては、手紙の送受、毎日の散歩、外部への遠足などを含む特
 典の保留で対抗した。その罰則は、所内に根深い不満を生じさせた。
・問題は、ほかの収容所でも次々に起こっていた。久留米俘虜収容所はもっとも悪名高く、
 かつてここに収容されたドイツ人たちは、今日なお「日本の強制収容所」と呼んでいる、
 という報告もある。この久留米俘虜収容所最大の問題点は、所員が俘虜を殴打すること
 が規則として認められていた点にあった。その所長は、「真崎甚三郎」中佐。のち大将
 に昇り陸軍参謀次長、教育総監となるが、「二・二六事件」の陰の指導者とみなされて
 失脚する人物である。
・大阪や松山の所長も高圧的で、所員たちもその風潮に染まってドイツ人俘虜たちを苦し
 めた。次第に俘虜たちは、援助の手をさしのべてくれるキリスト教団体などを介して、
 本国へ苦痛を訴えるようになった。ドイツ外務省はこれを重視し、まだ中立国であった
 アメリカに対して日本の俘虜収容所の調査視察するよう求めた。
・こうしてワシントンから訓令を受けた駐日大使は、三等書記官「サムナー・ウェルズ
 にこの調査を担当させることにした。彼は全収容所をまわり、俘虜たちへの面接調査を
 し、120ページにおよびレポートを大使に提出した。彼は一般的に収容所が過密状態
 にあることを認め、これを批判した。収容施設の主体をなしている多くの古い建物や寺
 がヨーロッパ人の住居にすべて不適当であると判断した。天井も非情に低く、ふつうの
 ヨーロッパ人が真直ぐ立つことができないほどであった。
・けれどもウェルズは、状況を改善しようとする意図も見逃さなかった。彼の目に久留米
 と大阪の状況は、徳島とは逆に映った。食事の単調さ以外にはまったく問題のない、俘
 虜たちと当局の間に協同の気風が存在する徳島俘虜収容所。その所長は44歳の陸軍歩
 兵中佐「松江豊寿」。 


・徳島俘虜収容所は、供出された徳島市冨浦町の二階建ての県会議事堂とそれに隣接して
 建てられたバラックから成り立っていた。収容人員は初め195名、のち208名に上
 ったのに対し、居住区域はわずか90平方メートル。その息苦しさは久留米同様であっ
 たが、ウェルズが徳島を高く評価した背景には、松江中佐と真崎中佐の天と地ほどの気
 質の相違があった。
・真崎中佐は、俘虜たちを精神的、肉体的に抑圧すべき対象とみなしていた。一方、松江
 中佐は警備兵たちにいかなる暴行も許さず、俘虜たちに対して人道的に接するよう求め
 つづけた。
・この頃、松江はよく語った。
 「かれらも祖国のために戦ったのだから」
 これはむろん、だから戦争がくぁってドイツへ帰還できる日まで大切に扱ってやるべき
 だ、という思い、いってみれば、松江個人の「武士の情」に発したことばであった。
・松江はまた、「ドイツ人俘虜たちの中には学者や技術者が少なくないから、その指導を
 受けたい場合は所轄の商工会議所を経て申し出よ」と、かれらの持つ知識や技術を大い
 に摂取すべきだ、と意見具申していた。
・松江は、まず腕のいい技術者を欲しがっていた市内の木工所に俘虜6名を派遣した。か
 れらが1週間で蒸気エンジンを修理すると、エンジンは故障以前にも増して快調な音を
 響かせはじめた。狂喜した木工所側はこの6人の長期雇用に踏み切ったばかりか、もっ
 と技術者を送ってほしいと松江に申し入れた。ほかの地元企業もこれにならったため、
 さらに14名の俘虜たちが「就職」を果たし、定収入を得ることになった。
・収容所内においても、松江は俘虜たちが身につけた技能を存分に発揮するよう求めてや
 まなかった。彼は、青島籠城ドイツ兵の3分の2は職業軍人ではなく、青島ないしアジ
 ア各地に何らかの職を得ていた義勇兵であることを知っていたのである。その結果、久
 留米では禁じられていた家具の修理も徳島では大工だった俘虜の手で行われるようにな
 り、所内には肉屋、パン屋、印刷所などが次々に誕生して俘虜たちに生気を甦らせた。
・「ハーグ宣言」は俘虜収容国に対し、自国の軍隊の規律に従って俘虜のたちの生活を保
 障するよう求めていた。日本政府はこれを守り、食費や光熱費を計上し、衣料費として
 軍隊での階級により、現金を月々支給した。時島の俘虜たちには、この金を持って週に
 一度、のちには必要なたびに日本兵ひとりにつきそわれ、市中に買物に出ることが許さ
 れた。
・徳島人たちが目を奪われたのは、紅毛碧眼のドイツ人の背の高さ、体格の良さとともに、
 かれらが異常なほどスポーツに熱心なことであった。俘虜生活も軍隊の生活の一形態と
 考えている彼らは、帰国の日にそなえて体力増強に励んでいたのである。収容所内にい
 る時も、かれらはただ暇をもてあましたりしない。何事か話しながらも敷地内をきびき
 びとした動作で歩きつづける。その規律正しい歩調は日本人の目には壮観と映り、これ
 に感服したさる小学校の教師は生徒たちに「ドイツの兵隊さんたちのように、足並みを
 そろえて歩きなさい」と命じたほどでる。
・松江は16歳の光寿と6歳の安仁寿とを故郷の父母に托し、妻のうた(36歳)と智寿
 (8歳)、勇寿(5歳)、寿子(3歳)とともに市内出来島の官舎住まいをしていたの
 である。
・俘虜たちのスポーツ愛好癖にも理解を示していた松江は、かれらを定期的に徳島中学の
 校庭や市内の公園に出かけさせ、集団スポーツを楽しませた。松江は、夏が巡ってくる
 と俘虜たちに川や海で水泳することも許した。
・しかしたちに、松江がよりユニークだった点は、俘虜のひとりである膠州沿岸砲兵隊
 (MAK)軍楽隊長ハンゼンと軍楽隊のメンバーたちに、MAK楽団、別名「徳島オー
 ケストラ」の音楽活動を許したことであった。軍楽隊のメンバーたちは各自の楽器を持
 参していたのである。
・松江は収容所内でこの徳島オーケストラに演奏会をひらかせ、市民たちに聞かせたこと
 もある。聴衆の中には母うたに手を引かれた寿子の姿もあった。大小の空きびんにそれ
 ぞれ異なる量の水を入れ、木琴のように演奏する芸はよほど驚異的だったらしく、寿子
 はそれから80年近く経った今日もこの光景を覚えている。
・大正6年(1917年)4月になると、松山、丸亀、徳島の三つの俘虜収容所は狭さ解
 消のため、1カ所に統合されることになり、松江はその所長に任じられた。新しい収容
 所は、その名匠を「坂東俘虜収容所」といった。
 

・徳島俘虜収容所を出た206名のドイツ人俘虜は、衛兵たちの監視も気にせず隊列をく
 ずし、散歩気分で坂東へ歩いて行った。かれらは新しい収容所の所長も松江だと知って
 いるから、何の不安も感じなかったのである。丸亀から333名、松山から414名の
 俘虜たちが移送されてきた。
・松江は俘虜たちが到着するたびに正門近くに徳島オーケストラを勢ぞろいさせ、ハンゼ
 ン指揮のもとにドイツの愛国歌「プロイセン行進曲」を盛大に演奏させて歓迎の意をあ
 らわした。 
・しかし松山の俘虜たちがこの正門に近づいた時、事件が起こった。松山の収容所長は、
 規則一辺倒のやかましやとして知られた前川譲吉中佐。この前川所長以下松山連隊の衛
 兵48に護衛された松山の俘虜414名は、大阪商船に乗って愛媛県高浜港を出発。春
 の瀬戸内海を東進して、徳島市南郊の小松島港に入った。そこで俘虜たちは銃に着剣し
 た衛兵たちに厳しく監視されながら坂東までの行進を強いられた。沿道は桜の季節だっ
 たが、不安で桜に見惚れるゆとりもなく、誰もが顔をうつむけて、黙々と歩いた。
・ところがある時、一軒の家の陰から4,5歳の女の子が走り出てき、にっこり笑って手
 を振ってくれた。「オーー!」思わず驚きの声が上がった。
・四国霊場巡りのお遍路さんお数は、今日でも年間10万人にのぼる。その一番札所霊山
 寺のある坂東には古くから遍路宿、善根宿の習俗があり、失意を抱いてこの地に流れて
 きた他国の者たちを優しく迎える伝統が息づいている。この少女の出現によって俘虜た
 ちはある予感を得たのだが、それが確信に変わるのはもう少し先のことであった。
・かれらが「プロセイン行進曲」に迎えられて坂東俘虜収容所の正門をくぐった時、やっ
 てきた隊列の中に戦友の姿を見つけたかれらは歓喜の叫び声を上げ、駆け寄って再会
 を祝おうとした。すると松山の衛兵の指揮官は、やにわにサーベルを抜刀して命じたの
 である。
 「俘虜たちを整列させい!」
 衛兵たちは、これに応じて俘虜たちに突進すると銃の台尻でかれらを打ち据えはじめた。
 これを見た徳島と丸亀の俘虜が戦友たちを助けようとしたため、事態は今にも暴動に発
 展しそうな雲行きとなった。
・その時、「やめい」と大声を放って両者の間に割って入ったのは、松江所長そのひとで
 あった。最初に抜刀して手荒な命令を下した衛兵指揮官を叱咤し、サーベルを納刀させ
 た松江は、414名の俘虜たちに対し、通訳を介して一場の挨拶をおこなった。
 「本管は、この坂東俘虜収容所の所長松江中佐である。ただいまの衛兵たちの非礼につ
 いて衷心から陳謝するとともに、改めて歓迎の辞を申し述べる」
 この松江のことばは、何事も規則ずくめの息苦しい生活を与儀なくされていた松山の俘
 虜たちには、にわかには信じかねるものであった。
・翌年8月に久留米から89名の俘虜が移送されてくると、松江は本来夜10時の就寝時
 間を12時まで延長し、それまで構内において自由行動をとることを許した。このため、
 親戚同士、戦友同士が再会を歓び合い、その酒宴は深夜までにぎやかにくりひろげられ
 た。


・この収容所の置かれた坂東村檜地区の人口は、約500人と俘虜たちのほぼ半分にすぎ
 ない。そのため、これがドイツ人俘虜約1千名を収容するための施設と知れて地元民に
 恐怖をきたされまいとして、当局はこの施設の用途を落成の日まで秘密にしていた。こ
 れが逆に地元民の好奇心を煽ることになり、中には日没後大工たちが姿を消すと建物現
 場へ探索に赴く者もいた。そのひとりは、建物の中に丸い穴に蓋をつけた装置を見つけ
 た首を傾げた。当時の坂東の住民には、洋式便器などは見たこともない代物だったので
 ある。
・収容所側では、通訳3人のほかに松江も少しドイツ語を話した。特にその女房役の高木
 繁大尉はドイツ語に堪能で、俘虜たちに一目置かれていた。
・さらに、俘虜側にも日本語通が何人かいたことが、両者の間に「協同の気風」を育てる
 のに大いに役立った。 


・松江所長は彼らの生活をより快適なものとすべく腐心しつづけた。その結果、収容所中
 庭には、不思議な区域に出現することになった。この区域に店開きした約40軒の小屋
 は、すべてプロの職人たちの経営する専門店といっていい。
・俘虜たちの住まう各バラック内にも煙草・ビールの販売店、温水浴場、レストラン、な
 どがあり、図書館や印刷所も設けられていた。図書館は6千冊の蔵書数を誇っていた。
 またこの印刷所からは、収容所内だけで通用する紙幣や切手も発効された。後者はのち
 に「坂東切手」と名づけられ、切手コレクターの間で幻の名品と騒がれることになる。 
・俘虜たちは水浴や水泳を好んだ。そこで松江所長は、夏季には土曜を除いて毎日、徒歩
 20分のところを流れる乙瀬川でかれらに水浴をさせることにした。4日に一度は大麻
 山の西麓を越えて瀬戸内海の櫛木海岸へ終日遠足にゆくことを認め、ここでは海水浴を
 許しさえした。 
・こうしてかれらが定期的に櫛木海岸に通ううち、近在の村から大男と評判のドイツ人と
 背較べをするためにやってくる老人さえあらわれた。かれらがフライパンで料理をして
 いると、料理法を知りたくて地元の主婦たちが取り囲むこともあった。
・坂東が純農村地帯だったこともあり、文化交流は主としてドイツ人による農業指導とい
 う形をとって始められた。農学士シュミットは板西農産学校において西洋野菜の栽培法
 について講習会をひらいたし、農民出のゲーベルは地元農家にピクルスの漬け方を教え
 た。
・俘虜たちの手による家畜の飼育と自給促進は、健康管理と食糧不足対策とを兼ねたもの
 でもある。俘虜たちはこれに全面協力し、所内にはついにソーセージ工場、牛乳搾取所
 まで開設され、県の農業試験場の技師たちが見学にくるほどになった。
・まだ中世の雰囲気を湛えていた純朴な村は降って湧いたようにドイツ文化の恩恵を受け、
 ドイツ人俘虜と地元民との間には教師と生徒のような奇妙にもほほえましい人間関係が
 芽生えたのである。 
・さらに特筆すべきは、この俘虜たちによって初めてドイツ菓子、ドイツ・パンの製造法
 が日本に知られたことであった。当初、俘虜たちが酒保で購入できる間食用の食物とい
 えば、カステラと煎餅くらいであった。そのためかれらは、何とかもっとカロリーもあ
 り味覚にも合うものがほしいと考えた。この要望に応えて開設されたのが収容所製菓所
 「ケーバ」で、8人の職人たちによって運営された。
・松江所長は「ゲーバ」の職人たちに頼んで、うた夫人や将校夫人たち、それに地元青年
 たちをも対象とする菓子作りとドイツ料理の講習会をもひらかせたほどで、その技術を
 修得した者には署名入りの「修業証書」さえ発行していた。この講習会で伝えられたパ
 ン作りのノウ・ハウは今も鳴門市のパン屋「独逸軒」に受けつがれている。
・坂東以外nお俘虜たちの中にもパンと菓子作りの技術を日本に植えつけた者たちがいた。
 名古屋俘虜収容所のブロインドリーフはのち「敷島パン」の主任技師に、同じくアウグ
 スト・ローマイヤー
は東京銀座のドイツ料理店「ローマイヤー」および「デリカテッセ
 ン」の創業者となった。大阪俘虜収容所のカール・ユーハイムは、神戸に菓子店「ユー
 ハイム」を開業することになる。
・しかし俘虜たちが快適に暮らせば暮らすほど、それを不快に感じる日本人もいた。ほか
 ならぬ陸軍上層部がそれであった。 
 

・松江家の祖は代々会津藩士であった、といわれている。その祖は平安末期に出て平家方
 武将となり、斎藤別当実盛に遡ることができる。その一族の斎藤行元が鎌倉時代初頭に
 陸奥国伊達郡茂庭村(今日の福島市大字飯坂町茂庭)に土着して「鬼庭」姓を名乗り、
 実良の代に仙台伊達家の祖伊達朝宗に出仕したのである。そして良直・延元(綱元)の
 代に「茂庭」姓となり、伊達政宗の奉行として活躍。
・慶長8年(1603年)、延元のせがれ良元が志田郡の松山城を預けられて1万3千石
 を領した。その後茂庭氏は代々松山1万3千石を領有して幕末期を迎えるが、良元から
 かぞえて7代目の善元の代に御家騒動が勃発する。善元には庶子が多かったため、その
 相続問題がこじれたのである。
・その庶子のひとりに、儒学と医学とを併せ修めた良策という者がいた。騒動に巻き込ま
 れて暗殺されることを怖れたかれは、会津坂下へ出奔。松江良策と名乗り、坂下で医者
 を開業した。良策は三瓶忠平の娘と結婚して3人の子供に恵まれるが、その次男松江久
 平こそ富寿の父となる人物なのである。久平は、藩政時代にいかなる役についていたの
 はか知られていない。はっきりしているのは、慶応4年の春に始まる戊辰戦争に際し、
 会津藩朱雀隊に属して越後口で戦ったということのみである。
・この戊辰戦史史上最悪の戦いにあって、新政府軍の俘虜となった会津人の運命は悲惨で
 あった。新政府軍は、会津人と見れば武士でなくともためらいもなく銃火を浴びせた。
 不幸にも縛された会津兵を地雷火の上に座らせて爆殺するかと思えば、頭頂に五寸釘を
 打ち込んだり睾丸を切り取ったりしてなぶり殺しにする。それを知った会津藩士たちは、
 負傷して自刃するゆとりもなく捕らわれた時には罵詈雑言を浴びせかけ、敵を逆上させ
 てその場でおのれを殺させるよう仕向けた。
・新政府軍軍医として会津入りし、敵味方の別なく治療しようとしたイギリス人「ウィリ
 アム・ウィリス
」などは、「なぜ会津人には負傷して俘虜となる者がまったくいないの
 か」と首を傾げている。
・会津藩主「松平容保」は、「奥州越列藩同盟」の提唱者仙台、米沢両藩も新政府の軍門
 に降ったと知ってやむなく降伏を決意した。城を出た老幼婦女のうち正規の会津藩士は
 猪苗代に、城外で戦っていた藩士は若松北方の塩川村に謹慎するように通達された。
・やがて新政府軍は、猪苗代謹慎組は東京へ、塩川謹慎組は越後高田城下へ護送、幽閉す
 ると決定。   
明治天皇は、徳川最後の将軍慶喜と松平容保の罪を許し、会津松平家には、容保の実子
 慶三郎(のち容大)を立てて相続を願い出よ、と伝えた。会津松平家がこれに応じたた
 め松平容大は華族に列し、陸奥国のうち3万石を下賜されることになった。名づけて
 「斗南藩」。その藩領は、陸奥二戸郡のうち12村、三戸郡のうち12村、その北に七
 戸藩領をはさみ、本州最北端の北郡(下北半島)のうち46村、加えて北海道の胆振国
 山越郡と後志国瀬棚、太櫓、歌棄の4郡であった。
・そして、その生活は塗炭の苦しみに満ちたものであった。というのも斗南移住の実態は、
 いつ死に直面するかわからない強制収容所送り同然のものだったことが知られているか
 らだ。次第にそのような悲惨な生活に耐えかね、元会津藩士の誇りもかなぐり捨てて贋
 金作り、窃盗などに走る者があらわれた。それにもまして移住者たちに衝撃を与えたの
 は、地元商人たちの囲い者になる寡婦や娘が続出したことであった。


・明治6年、明治政府は政変を孕みつつあった。西郷隆盛征韓論を受け入れられず下野
 すると、各地の不平士族が不穏な空気をかもしたので、これに対処すべく全国規模の巡
 査大募集がおこなわれた。そこで注目されたのが無為徒食している旧会津藩士たちだっ
 た。結果として、旧会津藩家老「佐川官兵衞」以下300名の会津人が東京警視庁に奉
 職した。 
・先帝「孝明天皇」が、もっとも信頼していたのは会津藩主松平容保であった。それを知
 る会津人たちは、薩長両藩こそ明治天皇がまだ幼少なのを利用して「官」を名乗った賊
 ども、しなわち「官賊」だと考えていた。
・その会津人たちが振るい立ったのは、明治10年2月「西南戦争」が起こった時であっ
 た。警視局は薩軍討伐のため警視隊を出動させることになった。あわせて出征志願者を
 各地に募り、警視徴募隊を組織したため、会津人は戊辰の汚名を晴らすべくこぞって募
 に応じたのである。
・今日の福島県から巡査、徴募巡査として出撃した人数は1136人。おなじ賊徒の汚名
 を着せられて静岡県に集まった徳川家の旧旗本御家人層からはまったく応募するものが
 なく、「勝海舟」が困惑したという史料がある。
・出征警視隊の人員は、延べ1万3千名と見られており、11人か12人にひとりは会津
 人だったわけで、かつての官軍を晴れて賊徒として追討できると知った会津人たちの胸
 の思いが、この数字にあらわれている。
・西南戦争で散った会津人の数は、元家老の佐川官兵衞以下71名に上った。新選組出身
 で会津藩の同化し、会津女性を妻としていた「斎藤一」改め藤田五郎警部補は、この西
 南戦争の軍功を賞されて金百円を下賜されている。
・いわゆる「会津降人」に対する薩長藩閥政府の非情さは、戊辰戦争終結後の明治2年春
 まで会津側戦死者の遺体収容を許さなかった行為にもよくあらわれていた。そのような
 話しを聞いて育ったからこそ、松江富寿は青島からの「ドイツ降人」に対し、あえて武
 士の情を示しつづけたのではなかったか。


・松江富寿は明治22年、16歳にして仙台の陸軍幼年学校に入学。19歳にして陸軍士
 官学校へ進み、明治27年に陸軍歩兵少尉に任じられて職業軍人としての人生を歩みは
 じめた。しかしこれは、果してかれが望んだ人生だったのだろうか。依然として会津差
 別のつづいていた明治時代ににあって、旧藩以来の武勇の伝統を持つ会津人がつける職
 は、軍人か巡査しかないといわれていた。しかも陸軍幼年学校や士官学校なら授業料は
 不要だから、貧しい会津の子弟はこぞって軍人をめざしたのである。
・明治19年、「山川浩」が陸軍少将に昇進したと知り、時の内務大臣兼陸軍中将「山県
 有朋
」が、「賊徒会津の出身者を将軍とするとはなにごとか!」と叫んだ話は有名であ
 った。以後陸軍部内には、会津出身者は原則として少将までしか昇進させない、という
 不文律さえ出来上がっていた。 
・松江富寿も、次第に軍隊内における差別の実態を理解し、軍隊に対する批判の目を育て
 たものと思われる。 
・また松江が醒めた軍人になっていた背景には、韓国駐在体験が大きな影を落としている
 ように思われる。明治37年に韓国駐箚司令官「長谷川好道」大将の副官を仰せつけら
 て、明治40年10月までソウルに赴任した。この松江の赴任期間は、第一次日韓協約
 調印、韓国統監府の設置、韓国軍解散と進む日本の韓国植民地化政策の総仕上げの時期
 に当たっていた。それは一方において、韓国各地で反日運動が勃発しはじめていた時代
 であったことをも意味する。
・明治40年初夏、韓国皇帝高宗は、オランダのハーグで開かれた世界国際会議に密使を
 派遣し、日本の韓国併合政策を欧米列強に訴えようとして拒絶されるという事件が起こ
 った。このハーグ密使事件を契機に、「伊藤博文」総監は高宗に退位を迫った。
・明治41年7月、長谷川司令官は新帝純宗に迫って勅命を発布させ、韓国軍人に銃器弾
 薬を返納するかわりに恩給を与えて軍隊を自由解放させたのである。多くの韓国軍人た
 ちは、恩給をその場に叩きつけて抗日義兵に合流していった。また侍衛第一聯隊第一大
 隊長朴勝煥は、憤激のあまり兵舎でピストル自殺を遂げた。
・これを引金として同隊および第二聯隊第一大隊の計8百は、ソウル西小門内の兵営に立
 てこもって日本軍との決戦を試みた。これを包囲した日本軍は、わずか2時間でこの韓
 国軍を鎮圧してしまった。 
・つづいて8月下旬におこなわれた純宗の即位式も、韓国人にとっては屈辱的なものでし
 かなかった。純宗は伝統の髷を落として洋髪となるよう強いられた上、礼式用の道袍で
 はなく洋服の大元帥服を着せられ、胸には明治天皇から与えられた大勲位菊花章を飾っ
 ていた。純宗が断髪する際、野蛮な洋風になることを諫めるべくかれにすがりついた廷
 臣たちもいた。長谷川司令官が叩頭もせずその面前に進んだ時、奏でられたのは従来の
 伝統曲ではなく、忌まわしい西洋音楽であった。 
・こうして韓国併合が着々と進行する時期に、松江は長谷川司令官の副官としてかれと行
 動をともにし、その舞台裏に立ち会ったのである。松江は会津の山河を追われて斗南に
 移り、その開拓の夢も破れて会津へ帰った会津藩士の息子である。その自分が長州閥の
 巣窟である韓国駐箚軍の司令部勤務となり、韓国人たちから故郷の山河を奪う戦略の一
 翼を担う羽目になろうとは。
・会津人なるがゆえにやむなく選んだ職業軍人としての人生が、隣国のひとびとにかつて
 会津人が味わったのとおなじ屈辱を与える役目を自分に割りふったとあるとき松江は気
 づき、その時からかれは軍隊を見限りはじめたのではあるまいか。
・さらにもうひとつ松江に苦々しさを感じさせたものに、長谷川好道の素行の悪さがあっ
 たかと思われる。伊藤博文の女癖の悪さには定評があり、ソウルでも料亭花月の芸妓艶
 子ほかふたりを手活けの花としていた。長谷川もそれに負けず劣らずの剛の者で、掬翠
 楼の中居の五郎という女を妾にしていた。 
・戊辰戦争の官軍に対する賊軍、軍隊内部の長州閥に対する会津出身者とつねに少数派の
 立場に身を置いてきた松江は、国を奪う日本対亡国の道を強いられる韓国という図式に
 おいては、後者にこそ同情を禁じ得なかったはずである。そのような胸の痛みを曳きず
 っていたからこそ、松江はドイツ俘虜を迎える立場になった時、思わず語ったのではな
 かったか、「かれらも祖国のために戦ったのだから」と。
 

・そのような松江の方針を天下に知らしめたのが、大正7年3月に12日間にわたり、霊
 山寺とその門前の板野郡公会堂とを会場として開催された第一回「俘虜作品展示会」で
 あった。その数カ月前から徳島市内には展示会のポスターが貼り出され、俘虜たちはド
 イツ文化の優秀さを示すのはこの時とばかり作品制作に没頭した。
・この展示会の入場者数は約5万1千人。地元人口わずか5百の僻村にもかかわらず、で
 ある。来場者は教師に引率された地元児童から徳島県知事、農林省代表など、多士済々
 であったが、きわめつきは「東久邇宮」の来場であった。
・俘虜たちの技術により、大麻比古神社の森の中、収容所と坂東とをつなぐ地点に2年が
 かりで三つの橋を架けたのも大事業であった。うち木製だった橋は今では失われてしま
 ったが、残るアーチ構造の石橋ふたつは、「ドイツ橋」、「眼鏡橋」と呼ばれてなおも
 堅牢な姿を誇っている。 
・あわせて特筆すべきは、パウル・エンゲル指揮のエンゲル・オーケストラの活動であろ
 う。「ベートーベンにかけては、ドイツで五本の指に入る」と俘虜仲間から尊敬されて
 いたエンゲルは、その練習をよく霊山寺でおこなったことから地元の音楽愛好家たちに
 親しまれた。エンゲルは坂東俘虜収容所内で22回に及ぶ演奏会をこなしただけでなく、
 村民のための演奏会もひらいた。やがて徳島の音楽愛好家たちはこれを聴きにゆくだけ
 では飽き足らなくなり、直接エンゲルの指導を受けて自分たちも演奏技術を身に付けた
 い、と松江に申し入れた。
・大正7年(1918年)6月開催のハイゼン指揮、徳島オーケストラの第二回シンフォ
 ニー・コンサートでは、ベートーベンの「第九交響曲」が合唱つきで演奏された。第九
 の本邦初演である。大正8年10月にはエンゲルも徳島市新富座でおこなった演奏会で
 第九を指揮し、桝席は3日間連続札止めの大人気を博した。ドイツ俘虜たちは第九を聴
 くうちに故郷の山河を思い出し、いつか頬に涙を伝わらせていた。 
・大正7年暮からスペイン風邪が猛威をふるった時にも、松江は俘虜たちを守るために努
 力を惜しまなかった。しかし坂東関係の俘虜からは、累計すると11名の死者が出た。
 大正8年2月、ハンス・コッホがその記念碑の建立を提案すると、松江はこの希望に応
 じた。ミューラー予備少尉の設計になるこのドイツ兵士の墓が完成したのは、半年後の
 夏の盛りのこと。
・この除幕式をおえて、坂東俘虜収容所長としての松江の任務はほぼおわりに近づいた。
 同年6月のうちにベルサイユ条約が調印され、俘虜たちは今や帰国の日を待つばかりと
 なっていたからである。
・坂東俘虜収容所が正式に閉鎖されたのは大正9年2月のこと。この「模範収容所」が地
 上に存在したのは、2年10カ月間であった。


・松江豊寿は大正11年1月には大正4−9年戦役の功により、金千七百円が下賜された。
 しかしこれは、坂東俘虜収容所運営の妙を評価されたというよりも、結果として陸軍か
 らの手切れ金めいたものとなった。大正11年2月、松江は陸軍少将に昇ったが、5月
 に予備役入りを命じられた。賊徒会津の出身者は少将までしか出世させない。この不文
 律は、松江にも適用されたのである。
・時の若松市長は、第八代松本時正(71歳)、典型的な旧会津藩士である。ところが松
 本は老齢と病気を理由に大正11年5月には市長を辞任してしまったため、若松市はそ
 の後任市長不在となっていた。そこで市議会が、次期市長の白羽の矢を立てたのが松江
 であった。当時の市長選挙は市議会議員だけによる間接選挙だから、市議会が指名すれ
 ばそれで決まりなのである。 
・こうして松江は、陸軍幼年学校に入学して会津を去って以来、33年ぶりに故郷へ帰っ
 てきた。もうかれは、49歳になっていた。
・しかし、大正14年11月、市議会に松江の政治的失脚を狙う者が急増したので、愛想
 を尽かしたかれは市長を辞任してしまった。だが実際のところ、実行力のある松江は市
 民たちには評判のいい市長であった。市長辞任後の市民の形勢が険悪なので、狼狽のあ
 まり、翌年6月の市議会改選後まで市長選挙は抛棄して置くことになったという。松江
 の次の市長の就任まで若松市は約8カ月間にわたって市長不在となったわけである。
 

・松江豊寿は、都下狛江に屋敷を建て、ここを終の住処とした。  
・昭和3年(1928年)、会津人に「賊徒」「朝敵」の汚名を与えたあの戊辰の年から
 かぞえて二度目の戊辰の年がまわってきた時、全会津人を狂喜させるニュースが伝わっ
 た。宮内省は松平容保の四男恒雄の長女節子姫(のちに勢津子)と、秩父宮雍仁親王
 の婚儀に勅許が下されたと発表。これは若松市のひとびとにとっては重大な意味を持つ
 出来事であった。「会津松平家から妃殿下が誕生するということは、天皇家が会津藩は
 賊徒ではなかったとお認め下さったということだ」
・しかしおそらく松江がひそかに喜んだのは、婚儀に先立つ7月下旬、節子姫をふくむ松
 平家一行があいさつのため若松市を訪問し、白虎隊墳墓へも参拝したことであろう。

十一
・坂東俘虜収容所の跡地は、その後軍用地となり演習用兵舎や射撃場として利用された。
 そのため地元民も寄りつかなくなり、歳月とともに周辺は荒れ果てる一方であった。
 太平洋戦争がおわると、まだ残存していた建物は大陸からの引揚者用住宅として使われ
 ることになり、「新生寮」と名づけられた。
・ここに入居したひと組に、朝鮮の梁山からの引揚者高橋敏治・春枝夫婦がいた。敏治は
 シベリア送りとなって死線をさ迷った人物。それより早く帰国した春枝にも、梁山の日
 本人墓地にある先祖代々の墓を放置してこざるを得なかったという苦い体験がある。
・昭和23年のある日、裏山に分け入った春枝は鬱蒼たる藪の中に不思議な石碑を発見し
 て首を傾げた。隣町出身の夫に尋ねると、昔ここにいたと聞くドイツ兵士の墓ではない
 かという。 
・ついに故郷の山河を見ることもなく異境に朽ち果てた者の口惜しさは、ふたりにとって
 は他人事ではない。以後春枝は、みずから墓守となってその墓石を清め、定期的に下草
 を刈っては線香を供えつづけた。 
・この地味な行為が次第に地元の話題になり、「徳島新聞」その他によって報道されたの
 は昭和35年10月のことであった。すると、11月、駐日西ドイツ大使ヴィルヘルム・
 ハース夫婦とベーグナー神戸総領事夫婦が、このドイツ兵士の墓に参拝すべく坂東俘虜
 収容所跡を訪れた。墓碑に花輪を供えて黙祷を捧げたあと、ハース大使は通訳を介して
 頼んだ。「高橋春枝さんに会いたい」
 はるか後方に慎ましく控えていた羽織姿の春枝がおずおずと進み出ると、ハースはその
 小さな手を両手で握りしめて日本語でいった。「アリガト、アリガト」そこでハースの
 声は、急に途切れた。かれは、13年間無償の行為をつづけた春枝の心に胸を打たれて
 いたのである。翌年西ドイツに帰任したハースは、マスコミに対してこのバンドーのド
 イツ兵士の墓のことをくりかえし語った。 
・実は昭和9年頃から、坂東での生活を懐かしがる元俘虜たちの間では、「フランクフル
 ト・バンドー会」と「ハンブルク・バンドー会」が結成されていた。ハースの談話を知
 ったこれらの会員が中心となり、やがて元俘虜たちの坂東の古老たちとの間に交流がは
 じまった。  
・昭和47年、鳴門市は、これを背景として収容所跡の近くにドイツ館を建設。地元に残
 された俘虜たちの作品を展示し、昭和49年には多くの俘虜の出身地だったリューネブ
 ルク市との間に姉妹都市盟約を結んだ。  
・そして昭和51年11月には、ドイツ兵士合同慰霊碑の除幕式がおこなわれた。ドイツ
 兵士の墓の隣に建てられたこの記念碑には、日本各地の収容所で死亡した85名のドイ
 ツ人全員の姓名が刻まれていた。
・これらの元俘虜たちもすでにほとんど鬼籍に入ったが、民族を異にするかれらからかく
 も慕われつづけた松江は、やはり不世出の軍人であった。そのかれは今日、故郷会津の
 山河を一望のもとに見わたす会津若松市東北の高台、大塚山墓地公園内の高厳寺墓地に
 父久平とともに眠っている。墓石には「松江家之墓」とだけあり、かれの事績を伝える
 碑文はどこにも刻まれていない。