仙台 飯沼貞雄終焉の地2022
ここは自宅から徒歩圏内にあるのだが、いままでこの辺りを通ったことはあまりなかった。
そのため、いままで知らずにいたのだが、友人のブログを見てこの存在を知り、リハビリ散歩がてら訪ねてみた。
飯沼貞雄という人は、もとは飯沼貞吉という名前で、あの明治維新のときの会津戦争において、
飯盛山で会津城が燃えていると思い込み自刃した白虎隊のただ一人の生き残りと言われている。
飯沼貞吉は、他の隊員と同様に、皆に遅れじと咽喉に脇差しを突き立てたが死にきれずにいたところを、
会津藩士・印出新蔵の妻ハツに救出されたという。
ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、
心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。
その後、飯沼貞吉は新政府軍に捕らわれたが、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られたようだ。
明治なって、飯沼貞吉は貞雄と改名し、勉学に励んで明治5年に東京にある工部省技術教場に入所し、電信技師になったようだ。
明治14年には、広島藩士松尾錬太郎の娘れんと結婚し、3人の子にも恵まれたようだ。
明治43年に仙台逓信管理局工務部長に就任したという。
退職後も仙台に住み続け、昭和6年に永眠したようだ。墓は仙台市内にある輪王寺にあるようだ。
現在、この地にはマンションが建っており、道路に面した一角に、この記念碑が建っている。

なお、飯沼貞吉の父・飯沼時衛一正の妹が、会津藩家老・西郷頼母の妻であり、
飯沼貞吉の母・文子の姉は、山川大蔵(浩)山川健次郎大山捨松山川二葉らの山川兄弟姉妹の母という関係だったようだ。

【所在地】 仙台市青葉区錦町1丁目1−44

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