そうか、もう君はいないのか :城山三郎

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この作品は、いまから15年前の2008年に刊行されたもので、城山三郎氏と妻の容子
さんご夫婦の出会いから最期の別れまでが綴られたエッセイである。
この作品を読むと、城山さんご夫婦は、まさに理想的なご夫婦だったのではと思える。
城山三郎氏が「天から妖精が落ちてきた」という表現で言い表した容子さんとの出会い。
まさに、生まれながらにして赤い糸で結ばれていたのではないかと思えるような出会いと
そして奇跡的な再会。まさにお互いに「運命の人」だったのだろう。
結婚生活も素敵だし、容子さんの最期も理想的な最期だったと私には思える。
そして、城様三郎氏の最期をつづった娘さん(井上紀子)の手記を読んでいて、不覚にも
私の眼から涙が流れて落ちてしまった。
私もこんな最期を迎えたいものだとつくづく思った。

前に読んだ関連する本:
この命、何をあくせく



・妻の容子は、日本橋の三越や高島屋の前から、銀座を抜けて新橋駅まで歩くのが、唯一
 の健康法と自称していた。
 ときにバーゲンセールなど掘出物を買ったりもするようだが、それよりも眼福を求めて、
 とにかく見る、見て歩く。それが、まちがいなく彼女の生きる楽しみの一つになってい
 た。
・そうした時、人工衛星の利用法として、遺骨を積んで飛行し、ぐるぐる地球を廻る、
 文字通り、天国で永眠させるプランができた、とのアメリカからのニュースが流れた。
 夕食の席で一緒にテレビを観ていた容子が、まじめな顔で切り出した。
 「お願い。あなた、決してあんな風になさらないでね」
・そうしたニュースをまともに受け止めているといった様子の彼女。
 私は半ばあきれ、半ばとまどいながら、
 「そうして、そんなこと心配するんだ」
 「だって、あなた、飛行機とか、空を飛ぶことが好きだから」
  

・ふたりの出会いは学生時代にさかのぼる。
 それは、昭和二十六年早春のある朝の何でもない偶然、そして、誤解から始まった。
 五分、いや三分でも時間が行き違ったら、初対面もなく、二人は生涯会うこともない運
 命であった。
・当時まだ学生の私は、何か用があって、名古屋の実家に戻っていたが、近くに名古屋公
 衆図書館なる古びた建物があった。
 読書好きの私も子供の頃から利用しており、大学に入ってから帰省するたび、折々に自
 分に課したテーマ次第で、ふらりと訪れていた。
・ところが、その朝出かけてみると、規定の休館日でもないのに扉は閉ざされ、「本日休
 館」の札が下がっている。
 何かの都合で開館時間を遅らせているのかと思ったが、建物の中に人の気配はない。
 (・・・おかしいな)
 とまどって佇んでいると、オレンジ色がかった明るい赤のワンピースの娘がやって来た。
 くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天から妖精が落ちてきた
 感じ。 
・(あら、どうして今日お休みなんでしょう)
 小首をかしげた妖精に訊かれても、私にも答えようがないし、ずっとそこに立っている
 わけにもいかない。
 仕方なく、私は実へ戻ることに決めた。
・「とにかく、栄町にでも出ましょうか」
 とりあえず二人は歩き出した。
 歩きながら、「どこの大学ですか」と訊かれ、校名を告げたが、はじめて耳にする校名
 らしく、 
 「ヒトツバシ、ですって?」
 不思議そうに訊き返しただけで、ノー・コメント。
・無理もなかった。校名だけが二転三転。新しい校名になってまだ日が浅く、彼女の知る
 はずがない。 
・しかし、さらに彼女を戸惑わせたのは、ヒトツバシを経済の大学と説明されて、
 「では卒業されたら、会社員になるんですか?」
 という質問への私の答えであった。
・「就職するつもりはなく、いまは学者の卵だけど、とりあえずどこか大学に勤めるにせ
 よ、行く行くは筆一本で生きたいと思って・・・」
 そう告白すると、彼女はびっくりしたように、立ち止まって私の顔を見直し、
 「筆で!」
 と、念を押すように確かめたあと、「そうなの」とつぶやいて、黙り込んだ。
・私の言葉足らずというか、彼女のほうも早とちりをしたというか、たまたま、彼女の無
 二の親友が名古屋の大きな筆問屋の娘であった。
 その大問屋の様子を思い浮かべて、「私にはとてもとても」と彼女は思い込み、私の発
 言に対して、とっさに何もコメントできなくなり、またもノー・コメントになった。
・一方、「あの図書館へよく来ますか」という私の問いに対しては、かぶりを振り、
 「はじめて」
 家は中村公園近くだと言い、かなりの距離を来たわけだから、よほど読書好きだろうに、
 意外な答えであった。
・結局、二人は並んだままで、そのまま広小路通りを散歩する形に。
 目抜き通りだけに、話題には事欠かなかった。
 訊くとはなしに訊くと、彼女はまだ高校生だという。
 それなのに、図書館通い。学校の勉強に飽き足らぬのだと、私はひそかに感心した。
・後日の説明によって、この感心も私の早とちりとわかる。
 彼女は読書家でもなんでもなく、その日は高校の運動会をさぼっての時間潰しと、溜ま
 った宿題をやるために、半ばしぶしぶ、図書館にやって来たのだ、と。
・そうしてのんびり歩いて行った先に図書館がいくつかあり、その一つに、アメリカの音
 楽映画がかかっていた。     
 かねて見たいと思っていた映画だし、図書館休館のおかげで時間もある。
 「一緒に見ませんか」
 誘うと、彼女は一瞬驚いたようだが、笑顔でうなずく。
・映画館から出て、再び広小路通りへ。口の渇きもあって、明るい感じの喫茶店を見つけ
 て入るのも、自然な流れ。
・向き合って映画の感想など話し、ついでに、そのときポケットに入れていた本を、彼女
 に貸した。  
 休館の図書館にやって来るくらいだから、とにかく本好きの妖精だと思い込んで。
・あらためて彼女の顔を眺めると、優しいが、整った顔立ちをしている。
 私は、このまま会えなくなるのが惜しくと、図書館で再会することを約束し、さらに彼
 女のアドレスと電話番号を訊ねて、手帳に書きつけていると、ふくみ笑いの声が聞こえ
 てきた。
 私がジャンパー姿であり、目つきもするどいせいもあってか、
 「あら、刑事さんみたい・・・」
・別れたあと、追いかけるように彼女から葉書が来た。
 「お借りした日本史の参考書がとても役に立ちましたことをお礼申し上げます。まこと
 に勝手なことではありますが、この書物をお返ししたいと思いますから、図書館へ14
 日午後1時半から2時ころまでにいらしていただけませんでしょうか」
  
・ところが、彼女が言った「刑事さんみたい」という言葉は冗談に終わらなかった。
 私たちを尾行している刑事もどきの男がいたのである。
・名古屋はもともと親藩筆頭の尾張徳川家が三百年間、居城を置いた町だめに、つとに市
 中お取締まりなどがきびしく、このため、明治に入ってからも、その空気は残り、司法
 や警察の力が強かっただけでなく、「教護連盟」なるものがつくられ、教師や一部の父
 兄が、学生・生徒の素行や挙動を監視した。
・戦後になってもなお、それに似た組織が残り、現代風に言うなら、青少年補導に当たる
 民間人ボランティア団体なのだが、怪しいというか、気にくわぬ青少年の振舞を見れば、
 注意しるだけでなく、親や学校にさっそく、通報する。
・たまたま、彼女の家の近くに住む、そうした「刑事さんみたい」な男が、映画館を出た
 私たちを見咎め、尾行した挙句、彼女の家を訪ね、父親に警告した。
・このため、約束した再会の日が近づくと、会うのは図書館でなく、広小路沿いの小さな
 広場に変更したい旨、彼女の緊張した感じの電話があり、そこでも、会うなり、ベンチ
 に坐ろうとともせずに、
 「もうお会いできません」
 震えた声でそう言うと、どこからか見張られているかのように、慌ただしく走り去って
 しまった。私の手もとに、封書を残して。
・手紙は、父親に書かされたらしい硬い文章の絶交状であった。
 今後、二度と会わぬだけでなく、便りや電話なども一切やめてほしい、と。
・恋の弱みで、再会の日まで、「妖精か天女か」とまで思いつめていた私はショックを受
 けた。  
 妖精はやはり妖精でしかなく、手に入るものではないのだ、諦めるほかないじゃないか。
 私は自分に言い聞かせた。
・滑稽かもしれぬが、一度しか会っていない彼女を、ゆくゆくは伴侶に、とすら考えてい
 た。 
・東京暮らしのあいだに、私にも幾人かの女友達ができたが、結婚まで思いつめたのは、
 はじめてであった。
 それだけに、失恋の痛み、絶交の痛みは大きかったが、ただ茫然としているわけにもい
 かなかった。


・私は軍神「杉本五郎」中佐遺書「大儀」に深く魅了されており、人生を大義一本にしぼ
 って、両親の心配や説得を振り切り、というより両親を裏切る形で徴兵猶予を返上し、
 海軍に志願し、少年兵となった。
 待っていたのは、「大儀」も何もなく、「人の嫌がる海軍に志願してくるバカがいる」
 と、朝から夜中まで、ただひたすら殴られ続けるだけの毎日。
・戦後になると、その大儀がまちがいであり、「あんなものを信じて海軍を志願するとは、
 子供のように幼稚で低能だ」などと批判され、こちらは「戦争にも行かないで、何をこ
 の卑怯者!」と思うものの、論戦となると歯が立たない。
・そこから立ち直るのは一苦労であった。
 立ち直るために、ひたすら本を読んだ。
 私は廃墟になって生きてきた。
 私はすべてを疑うことから始め、すべてを自分の手で作り直さなければならなかった。
・私は、復員してからずっと、ひょっとすると今に至るまで、「はげしく人生が終わり、
 別の生を生きている」という思いにとらわれていた。
 自分を廃墟のように感じていたが、そんな余生に似た人生の中で、私にとって、たしか
 なものとは何であろうか、とぼんやり考え始めていた。
 はげしく生き、そして死んでしまった者たちに代わって、私は、何ができ、どう生きれ
 ばいいのだろう。   
 私は大儀の呪縛からいかにして自分自身を回復していけるのだろうか。
 やがて、私は、そうした問いかけに対して、小説という形で答えようと決めた。
 
・天使かと思ったほどであったから、「彼女を伴侶に」というのは、当時の私にとって、
 かけがえのない大きな夢であった。
・私はまだ在学中の身であり、帰るべき世界があるというか、東京へ戻らなければならな
 かった。  
 いや、東京での新生活への楽しみもあった。
・予科・学部と六年間にわたる一橋大学の生活で、五年間を武蔵野のはずれで暮らした後、
 最終の一年間は江戸のにおいのするところへ住み、かつ都心生活をエンジョイしようと
 決めて、その春から移り住むための借間も見つけていた。
・そこは谷中墓地のはずれの、断崖の下に立つ一軒家の二階であり、三方を墓地、残る一
 方を崖に囲まれていたが、そんなことは気にしない。
 一階には、家主である老女とその娘が住んでいた。
・それまでの五年間は、大学寮をはじめ、禅寺やYMCA寮に住み、読書一筋で過ごし、
 傘すら持っていなかった。
 読みたい本や、考えたいことが多く、部屋の中でひたすら本を読んで過ごしたので、傘
 がいらないのであった。  
・そんな地味な生活とは裏腹に、谷中へ移ってからは、いわば下宿を基地に日々出撃する
 形で、私は都心へと出かけていった。
・昼間は日比谷で、「進駐軍の図書館」などと呼ばれたGHQ民間情報教育局(CIE)
 の図書室へ通い、何時間も英・米文学の新刊書を読み続けたし、神田の研数学館では、
 専攻の理論経済学のために、やや泥縄ながらも高等数学の勉強もはじめた。
・夕方になると、お茶の水のアテネ・フランセでフランス語を若いパリジェンヌから学び、
 ニコライ学院では、小肥りの中年の小母さんから、ロシア語の中級会話を。
 そして、夜はダンス教室に通う。
・そうした日々の中で、各所で未婚・既婚さまざまの女性を知り、心を通わせる相手もで
 きた。   
 あるいは結婚をと思わせる女性に出会いもしたが、結局、具体的に考えることはできな
 かった。
・下宿の一階に住む娘が、「温かいものでも」と毎夜のように階段を上り、五目粥をもっ
 てきてくれた。美しい娘であった。
 私は、粥を下宿生に対する単なる好意と受け止めていたが、それにしてはきちんと化粧
 をし、着るものも整えてのことである。
 いつまでも、ただ「有難う」では済まない気がしたが、今の私の状態で、さらに一歩を
 踏み出す気にはなれなかった。やがて私は下宿を引っ越した。
・いずれにせよ、妖精に見放された暗い淵の底から、私はそれほど深い傷を受けることな
 く、這い上がっていた。
 だが、妖精をきれいさっぱり忘れ去ることまでは、できていなかった。 


・昭和二十七年春、大学を卒業。
 大病をした父親から「店を継がなくてよいから、名古屋へ戻るように」と促され、私は
 近隣の岡崎市にある愛知学芸大学の専任講師となり、名古屋の実家から通勤するように
 なった。
・一方で、次々に縁談が持ち込まれた。
 商家の長男ながら家は継がず、「国家公務員・文部教官」なる安定した身分というので、
 堅実本位の名古屋の土地柄では放っておいてくれない。
 いや、勤務先の岡崎でも次々と縁談を持ち込まれ、写真を見せられた。
・縁談攻撃がすでに始まっていた頃から、一橋の同期生が十人ほど名古屋へ赴任してきて
 おり、独身者ばかりなので、ときどき集まってはビールなどを飲み、その勢いで、ダン
 スホールへ繰り込んだりもした。当時はタンスブームであった。
・ホールには、レッスンかたがた相手をしてくれる女性たちもいて、躍るも見るも、気楽
 な雰囲気。
 ダンス上手もいれば、全くの初心者もいて、それぞれがそれなりに踊っている。
 その男女たちを何気なく酔眼で追っていて、私は声を立てそうになった。
・一種の奇跡であった。
 妖精、彼女がいて、私と同年輩の男と踊っている。
 そして、私と眼と眼が合ったとき、笑顔で懐かしそうに会釈してくれた。
・やがて、バンドの交代があって、ダンスは休憩。
 彼女の姿は消えたが、次の演奏が始まるときには、ふたたび現れ、パートナーの男と話
 しながらも、ときどき視線をこちらへ。
・演奏とともに、ダンスが再開された。
 私は思い切って、彼女に近寄り、「二人で踊りませんか」と。
・彼女もそれを待っていたかのように、パートナーの男から離れ、私の腕の中に。
 相手は、知り合いの銀行員の由。
・そして、ダンスする中で、
 「いま私の勤め先なの」
 電話番号を記したメモを渡してくれた。
・父親から、手紙や電話を含めて一切絶交を命じられているはずだが、勤務先なら知られ
 ることはない。 
・「電話していいんだね」
 念を押すと、笑顔を深めて、大きくうなずいた。
・次の朝、もどかしいような気持ちで電話すると、
 「M社の秘書課です」
 と、まぎれもない彼女の声。嬉しかった・
・デートの日時と場所を伝えると、
 「はい、承知しました」
 言葉を選びながらも、声ははずんでいた。
 秘書課なので、電話は直接、彼女に通じる。
 私にとっては、まさに「天の配剤」、世界が一気に明るくなった。
 こうして、私たちは、誰かに気付かれることも、また気がねすることもなく、デートを
 重ねるようになった。  
・ある日、母と街を歩いていると、すれ違った若い女性が、頬を染めて会釈する。
 「あのひとからも、縁談が来てるのよ」
 「う〜ん」
 そんな会話から、母は私の心中に気づいて、
 「おまえ、きっと好きな娘さんがいるんでしょう」
 迫られて、私は、容子のことを白状した。
・少々せっかちなところもある母だが、縁談を断り続けるのに、うんざりしていたのか、
 これはいい話と思ったのか、アドレスを頼りに、さっそく、先方の家へ訪ねて行った。
・当時の名古屋では、結婚は本人同士というよりも、家と家。
 お見合いはもちろんだが、縁談があると、仲人や縁者を通じての情報収集、いわゆる
 「聞き合わせ」を重ね、仲人が間に入って、話を進めていくのが普通であった。
 私の母はそうした名古屋的手続き抜きで、私の告白を聞くといきなり相手の家にすっ飛
 んで行った。
・幸い、相手の父親は、東京生まれの東京育ちの上、ハルビン・大連などの外地暮らしが
 長く話が早い。
 母のそうした「飛び込み」が気に入って、話は一気にまとまってしまった。
・アメリカの作家アンブローズ・ビアスによると、
 「人間、頭がおかしくなると、やることが二つある。ひとつは、自殺。ひとつは結婚」
 なのだそうだが、私も容子も、頭がおかしくなっていたのかどうか、結婚に躊躇はなか
 った。私が二十六歳、容子は二十二歳のときのこと。
 

・次は、むろんというか、結婚式。
 普段の生活が質素な割りに、冠婚葬祭には思い切った金をかける、というのが、名古屋
 のしきたり。
 とりわけ、披露目である結婚式には金をかける。
 だが、面倒臭がりの私は「家業を継ぐわけではないから」と、それら一切を断った。
 どうせ、「筆一本で」生きられるかどうかはともかく、貧乏学者として終わる。
 世間の目など、気にしなくていい。
・このため、式は市営結婚式場で簡単に済ませ、披露宴も省く。
 そのかわり、そうして浮かせた金で、九州の「三島観光」という新婚旅行をしよう。
・さて、結婚式当日、容子は未明に起こされ、入浴させられた。
 次に髪を結い、厚化粧を施され、朝食はほとんどとらぬまま、近所に挨拶廻りをし、祝
 いの盃を空けさせられて家を出た。
・さらに三々九度の盃。
 形だけ口をつければよいのに、情報不足で、頑張って飲まねばならぬと、全部飲んでし
 まった。   
・式そのものは無難かつ簡単に終わった。
 ところが、私の父が、「せっかく、お客さんに来ていただいたのに、宴なしでは申し訳
 ない」と、式途中で馴染みの料亭に電話して無理を言い、急に祝宴を持つことに。
・そこでまた祝いの盃が次々に差し出され、花嫁としては、箸を取るひまもなく、形だけ
 でも受けざるを得ない。
 このため、宴が終わり、ハイヤーに乗ったときには、容子はぐったり。
・その夜は、京都に泊ることにしておいてよかったのだが、宿に着いた時には、もはや飲
 食する気にならず、そのまま床に。
・やがて二人はいくぶん正気と元気を取り戻し、はじめて体を合わせたものの、敷布団に
 初の交わりの跡を残してしまい、その後京都へは幾度も一緒に行ったが、そこは二度と
 泊れぬ宿になった。
・後になっての容子の告白によると、その辺のことを彼女の父は心配したものの、男親と
 しては話しにくく、絵入りで解説した一種の手引書を入手し、「大事なことだから、こ
 っそり読んでおくように」と式場に向かう車の中で彼女に渡した、という。
 式場のトイレで本を開いて見た容子は、驚くやら恥ずかしいやらで、慌てて閉じて、そ
 のままトイレに捨ててしまった。
・容子の母は、戦時中、満州で亡くなっており、それからは男手ひとつで育てられたのだ
 が、その影響が思わぬところで出た恰好。
・京都の宿で布団を汚して大慌てしたが、しかし、その後は、
 「私、眠る時間がないわ」
 妖精は半ば甘えながら、こぼしていた。
・神戸へ上陸すると、埠頭に立つホテルに惹かれて、予定にはなかったが、さらに二泊。
・名古屋へ発つとき、彼女は実家へ電話して、無事に旅を終えたことを報告した。
 その際、「とてもよかった」を連発したとかで、後日、陸軍少年飛行兵上りの義兄から
 「あのときには、すっかり当てられて、参った、参った」と冷やかされ、私としてはど
 うにも答えようがなかったことをおぼえている。
   

・私がただ甘かったというのではない。
 それから始まる日々は、妖精にとって決して甘いものではない。
・戦時中の度重なる米軍の絨毯爆撃のため、ほぼ全市が焦土近くなった名古屋の住宅事情
 は、結婚した昭和二十九年になっても、なお最悪の状態。
 このため、二人は名古屋栄町の私の実家に住むことに。
・住むのは、「インテリア」つまり室内装飾業を営む私の実家の二階の一室。
 新郎である私は、岡崎にある大学に出かけるが、彼女には、商家の主婦としての生活も
 待ち構えていた。  
・早朝に起きて、炊事。
 お手伝いさんがいるとしても、住み込みの店員さんや職人さんの分も含め、十何人分も
 用意しなければならない。
・店員さんが五人ほどいて、さらに通勤の職人さんが毎日出入りする。
 残業があり、深夜作業も珍しくなく、三食に加えて、夜食も用意しなければならぬし、
 忙しいときには、容子もインテリアの作業を手伝わされたりもした。
・たいへんだったろうが、いま思い返しても、彼女がその辺の苦労を口にしたことはない。
 それも辛抱してというより、若かったし、多少、もの珍しさもあったようだ。
 ただ、愚痴をこぼさないが、疲れていくのが、傍目にも明らかであった。
・それに、彼女自身がもの珍しさの対象にもなった。
 たとえば、夜ふけ、ひとり入浴していると、浴室のまわりで小僧さんというか、住み込
 みの若い店員さんたちが好奇心旺盛。
 「あ、若奥さん、いま湯に入った」
 「体を洗ってる!」
 などと、実況中継まがいの大きな声。
 恥ずかしくて、湯への出入りにも音を立てられず、洗うに洗えず、動けなくなった、と
 悲鳴をあげた。   
・いや、別のことでも容子は悲鳴をあげた。
 私は愛知学芸大学商業科の専任講師であったが、英文科のスタッフたちと月一回、文学
 書の勉強会を持つようになった。
 そして会場は仲間の家を順番で、とした。 
 嫁いでできた容子は、初めてその席へ給仕に廻ったが、あわてて駆け下りた。
 「お母さまたいへんです。主人たちが怒鳴り合いの喧嘩をしています」
 うろたえる容子に、母はにが笑いして、
 「いいの、いいの。あの人たちは変わり者ばかりで、いつも、ああなんだから」
・容子には他にも、普通の新婦にはない、おつとめがあった。
 私の父が、私に輪をかけた動物好きで、街の真ん中なのに、小さな庭に池を造り、金魚
 や鯉はもちろん、亀や鮒など放す一方、兎も放し飼いを始め、二階は、背丈ほどもある
 鳥小屋を作って、カナリヤだけでなく、大小さまざまな鳥を飼い、その世話もまた容子
 の仕事の一部に。
 おかげで、彼女の日常はさらにてんてこ舞い。 
・このため、姑である母が見かねて、「早くここから出なさい」。
 しかし、まだ焼跡も残っているような名古屋ではなかなか恰好の家が見つからず、私は
 困り果てた。
・そうした生活が二年ほど続いたであろうか。
 私たち夫婦に長女が生まれ、喜んだのもつかの間、その子は生後三ケ月で亡くなり、
 続けて母も急逝した。
・母はわずか半日の病床生活で逝った。
 まだ高校生であった弟が、映画を観に出かけるとき、元気に声をかけたのに、帰ってく
 ると死んでいた。  
 商家の主婦として、忙しく立ち働き、ちょうど京都でルーブル美術館展が開かれるとい
 うので、絵の好きな父と一緒に、数年ぶりに旅に出られると喜んでいた矢先であった。
・母の死後すぐ、私と容子の間に、今度は男の子が授かった。
 乳呑児を抱えた容子だが、亡母に替わっての、商家の主婦としての仕事がさらに増えて
 いった。 
・これは、もう、どうしても独立しなければと焦っていたところへ、妹の嫁ぎ先が持つ貸
 家が空いたというニュース。
 飛び立つようにして、昭和三十二年三月春、そちらへ引っ越した。
 

・私は、その三月を転機にしようと、本格的に小説に取り組み、「輸出」と題して、書き
 始めた。
 戦後に登場した新しい<大儀>、忠君愛国の大儀ではなく、輸出立国という大義のもと、
 組織と個人なら相変わらず組織のほうを大事にする日本と日本人を、商社マンの実態を
 借りて描きたかった。
・「輸出」を書き上げると、「文學界」誌に投稿した。
 城山へ三月に引越したから、ペンネームは「城山三郎」として。
・投稿して二、三ケ月たったある夜、文藝春秋社から「「文學界」新人賞に決定しました」
 という電報が来た。
 ちょうど私は風呂に入っており、容子が電報配達の男性に、
 「シロヤマ?うちにはそんな人いませんけど」
 と応えている声が聞こえた。
 あっと思っていたら、風呂の戸が開いて、容子が不審そうな顔つきで、
 「なんだか電報が来て、シロヤマサブロウって人がこの住所にいるはずだって言うんだ
 けど、そんな人、聞いたことないわよねえ?」
・容子は、私がそんな名前で小説を書いたことも知らなかったわけで、いくぶん呆れ顔に
 なった。  


・二夏続けて家を空けて、収穫なしだったが、容子は、何ひとつ文句も質問も、口にしな
 かった。
 それも、深い考えや気づかいがあってのことというより、
 「とにかく食べていけて、夫も満足しているから、それでいい」
 といった受け止め方であり、おかげで私は、これ以降も、アクセルを踏み込みながら、
 ゴーイング・マイ・ウェイを続けていくことができる、と思った。
 

・新人賞の波紋は妙なところで拡がった。
 名古屋は大都会なのに、当時は新人作家のデビューが少なかった。
 このため、ひたすら原稿に取り組むべき身だというのに、地元のメディアからはさまざ
 まな原稿の依頼があったり、講演会などに呼ばれたり、会合への出席を求められたりと、
 たちまち有名人扱い。
・地縁があって、断れば角が立つし、あるいはキザに見られたりする。
 私は危険を感じ、「無名」に戻らなければと思った。
 書ける量は多くなくても、ともかく私にしか書けない小説を書くためには、一刻も早く、
 この暖かな呪縛のようなものから抜け出さなくてはならぬ。
 それはわかっているのだが、気の小さい私には、その気力も体力もない。
・となると、唯一の退路という活路は、名古屋を離れることしかなかった。
 もちろん、妻子のある身で無職になるわけにはいかないので、文学そのものですぐ食べ
 ていくことは考えず、大学講師は続けよう。
 肝心なのは妻子を養うことと、文学への情熱や初心を失わぬこと。
 とりあえず住まいを東京に移し、私はそこから特急列車で勤務先の岡崎へ通えばよいの
 では、と思った。
・この先、何が起こるのか、何が待っているのか。
 私そのものがよくわかっておらず、無鉄砲な旅立ちであった。
 東京もまだまだ焼跡の名残りがあるような住宅難の時代。
 遠縁の人が探してくれた板橋近くの借家、いや借間にようやくたどり着いた。
 ところが、共同で使えるはずの台所が、家主一家が使っている間は、こちらに立ち入れ
 させてもくれない。
 長い時間、ミルクも水も飲めない赤ん坊は泣き続けた。
・覚悟はしてきたものの、このありさまではとても腹が立ち、悲しくもなって、妹夫婦が
 神奈川県の茅ヶ崎に住んでいたので相談すると、すぐに、同じ値段で借間でなく、小さ
 な庭付きの家を借りることができると報せてくれた。
 さっそく見に行って、即座に契約。
 遅れて名古屋から着いた家財道具は、荷を解くことなく、そのまま茅ヶ崎へ。
・まだ新幹線のない時代であったが、早朝の準急列車に乗ると、岡崎での午後の講義に間
 に合い、名古屋の実家に二泊することで、週に三日か四日、出講できる。
 にもかかわらず、経済学担当の教授に「県外からの出勤者には、専任講師以上の昇進は
 認められない」と、厭味を言われた。
 現実に首都圏では、県外や都区外からの通勤が普通だというのに。

・朝は早く起きて、できるだけ午前中に筆を進める。
 そして昼食をとり、一休みしてから、海に出かける。
 クロール、背泳ぎ、平泳ぎなどで泳ぐだけではなお物足りず、海獣のように、海の中で、
 思うぞんぶん体を廻したり、潜ったり。
・海から帰ってきて、午睡、それから夕食まで書き、さらに夜十二時過ぎまで書く。
 訪ねてくる人もいない。東京に出かけることもない。
・濡れた体で家に戻ると、容子が食事の仕度をしておいてくれ、今日は息子が畠でネギを
 引き抜いてお百姓さんに叱られたとか、ニワトリに追いかけられてほうほうの態で逃げ
 て帰ってきたなどと、報告を受ける。
 そしてまた、原稿を広げる。
・こんな生活をしたかったのだ。
 私は、自分が充たされているのを感じた。
・無名になりたくて引越してきたのだから、忙しくなったり気軽に東京に呼び出されたり
 するのを避けるために、電話を急いで引くこともしなかった。
・静かに、マイペースで書き続けていくのに、やはり茅ヶ崎は向いている。
 人付き合いの苦手な私は、文壇づき合いに気をつかったりせず、東京から少し離れたこ
 の土地で、「継続は力なり」と、自分の小説を書き続ければいい。
 当て込みや変なアピールなど不要。
 焦らず、コツコツと書いていこう。
 それで認められなければ、自分の力不足ということ。
 改めて、自分にそう言い聞かせた。
 「静かに行く者は健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く」
  
11
・もともと私は慌て者というか、せっかちな人間だが、それでいて、腰を上げるまでには、
 時間がかかる。人見知りをするし、出不精なせいもある。
 このため、容子で代行できることがあれば、まず容子にやらせた。つまり、彼女は私の
 パイロット・フィッシュ役。
・近くに空手道場ができたと知ると、さっそく、容子を見学にいかせた。  
 男ばかり、若い男の汗の匂う道場へ、まだ三十代半ばにもならぬ容子が、どんな風に入
 って行ったのかは知らない。
・私はそのパイロット・フィッシュを、「武」だけでなく、「文」にも放った。
 新聞社のカルチュアスクールの一つで、ナポレオンについての連続講義があると知り、
 テーマも面白そうだし、講師の大学教授も信頼できそうな人物。
 取材は誰の手も借りずにすべて自分でやらないと気が済まないものだが、私がその講義
 に出るのはスケジュールが合わず、どうしても無理だとわかった。
 そこでわが家のパイロット・フィッシュをそちらにも放つことに。
・取材を手伝ってもらったのは後にも先にもたった一度、この時だけ。
 学問好きとはいえぬ容子は、行き渋ったが、毎週一日いわば「公用」として東京へ出か
 けられるというので、とうとう引き受けたものの、毎回、眠気との格闘であったらしい。
  
12
・「夫婦」と書けば、親しげな顔して付いてくる言葉が「喧嘩」
 ところが、幸か不幸か、いや、もちろん「幸」だが、喧嘩らしい喧嘩をした覚えがない。
・理由はいくつかある。
 ある時期から、私は駅前のマンションに仕事場を持ち、朝早くから、そちらに出かけて、
 再び夫婦が顔を合わせるのは、夕食時、ちょうど子供たちが独立した頃であり、夕食は
 夫婦二人きり、駅かいわいのレストランや居酒屋で待ち合わせ、ワインや焼酎のお湯割
 りなど飲みながら済ませてしまうことも珍しくなくなった。
 その日一日の電話のメモや、仕分けした郵便物の中の急ぎの物などを持ってきれくれる。
 このため、帰宅して改めて喧嘩するような種子はなくなっている。
・よく一緒に旅に出たが、旅先での喧嘩も皆無と言ってよかった。
 というのも、旅先での夫婦の行動範囲が全くと言ってよいほど違っていた。
・取材などがあって、私が「旅に出るが、来るか」と問うと、いつだってすぐに容子は、
 「行きます」。
 それはいいのだが、しかし行く先の国や土地について、彼女が何か口にした記憶がほと
 んどない。   
・「旅好きっていうけど、どこにでも行きたい、というのは旅好きでも何でもないんじゃ
 ないか」 
 そう訊いたら、
 「だって、家事をしなくていいんですもの」
 という一種の名言。
・「家事しなくて済む」から旅に出た容子は、名所・旧跡など眼中になく、お値打ちな土
 産物買いに廻る。 
 私は私で、興味を持った旧蹟や名所を一つ二つ見ればたくさん。
 あとは、ホテルで土地に新聞雑誌を読んだり、ビールやワインを飲む。
 何のための夫婦旅と言われそうだが、三食いつも一緒というだけでも満足。
 
13
・二人でオーロラを見に出かけたことも。
 以前から一度はオーロラをわが目で見てみたかった。
 一週間も滞在せれば大丈夫だろうと旅程を組んだ。
 確かにオーロラは出ていた。
 その証拠というか、オーロラの磁気がグラフに記録されていくのを見た。
 しかし、オーロラそのものは目には見えなかった。
 愉しみにしていた夜になっても、あたりは明るいまま。
 夏のことで、アラスカは白夜であった。
 私は呆然とした。
・現地の人が気の毒そうに、
 「冬に来れば確実に見られます」
 しかし、私は寒さに弱いから、この時期に来たので、ついに生涯オーロラと縁はないの
 か、と諦めざるをえない。
・それにしても、いくら理科系に弱いとはいえ、闇にある時間がほとんどない白夜の季節
 に、はるばるオーロラを見るためにアラスカに来るなんて・・・。
 時間も費用も、大きな無駄。
 容子自身、理科系に弱かったにせよ、「まったく、あなたという人は!」と、呆れられ
 たり、愚痴を言われておかしくないところだが、その種の反応は皆無で、
 「あら、そうだったの。残念ね」
 と言っただけ。
 あまりに呆気ない反応に、こちらが拍子抜けした形であった。
・もっとも、天はこのときの償いを思いがけぬ形でしてくれた。
 それから二、三年後、家内とともに夜行便でヨーロッパへ。
 夜が更けると、機内のライトは弱まり、乗客は、眠りの中へ。
 その中で、私だけが読書灯をつえ、本を読んでいた。
 「本を読むのは、あなたの仕事」と、彼女は眠りこんでいる。
・そして、どれほどの時間が経ったであろうか。
 足音を忍ばせるように、スチュワーデスが巡回してきて、小声で教えてくれた。
 「お客さま、窓の下にオーロラが出ています」
 窓のシェードを開けた私は、慌てて容子を起こした。
 読書灯も消し、夫婦で顔をぶけんばかりにして、下を見た。
 二人とも、声が出なかった。
 この世の物とは思えぬほど、美しく巨大な光の舞い。
 まるで私たち夫婦のためにのみ、天が演じてくれている。
 私たちは手を握り合い、夫婦で旅してよかったと、あらためて胸を熱くした。

14
・ナポレオンの行動半径は大きく、全ヨーロッパに及ぶというより、ヨーロッパをはみ出
 している。
 それも魅力であったのだが、いざ取材となると、たいへn。
 幾度かヨーロッパ内外へ旅をすることになり、いつもはこちらが声をかけるまで留守を
 守っていた容子を、しばしば伴うことになった。
・家内が旅のお荷物どころか、行く先々での荷物の整理や手続きなどで、秘書がわりに必
 要な年齢にもなっていた。 
・このときの私の旅は、当時とりかかっていたナポレオン関係の取材のためであったが、
 コルシカから脱出したナポレオンは、イタリアの山峡の細道を北へ縦走してフランスへ
 向かっており、そのルートを私なりに追ってみようとしたもので、より詳しい資料や言
 い伝えなど求め、道中にある役場に立ち寄りもした。
・私のそうした取材の時間、乗ってきたタクシーを待たせ、容子はそのあたりの数戸の商
 家の店先を覗いていた。
 そこへパトカーが通りかかり、駐車違反とのことで、タクシーに戻ったところの容子を
 取り調べ。
・ところが、私を見送ろうと出てきた役場の男女たちが、威丈高になっている警官に食っ
 てかかった。  
 日本からはるばる訪れてくれた客人に何ということか、とでも言ったらしく、警官は、
 がらりと態度を変えた。
・わかりにくいルートだから、案内しようと、タクシーを先導する形で走り出し、そのお
 かげで、草深くて見落としかねなかった隠れ道というか旧道を知ることができた。
・女房を伴っていなければ、あれほどうまくことが運んだか、どうか。
 欧米はどこも女性に甘い。
 古女房は、茶飲み友達ならぬ代え難い旅友達でもあった。
   
16
・わが家の子供たちは結婚して独立し、夫婦だけの生活が始まっていた。
 結婚して三十年ほど経って、また二人きりになった。
 正確には、二人暮らしは初めてであった。
・親の責任を果たした解放感もあれば、子育てが終わった空しさもあり、家の広さにどこ
 か落ち着かない感じもする。
 体の重心を失いかねたい心持ちがした。
・桜の季節、同じような思いの容子が弁当を作り、私は洋酒の小瓶をポケットに入れて、
 二人でローカル線に乗って多摩動物公園へ出かけた。
 例によって、動物好きな私は、青空の下で動物を眺めながら、酒でも呑んで気晴らしを
 するつもりで。 
・車中で酒をゆっくり嗜み、容子と並んで車窓からぼんやり桜を眺めていると、ふと心が
 空っぽになり、それまでの落ち着かぬ感じが消えて、静かで穏やかな気分になっていく
 のを自覚した。  
・人生の一区切りがあって、夫婦二人になるという気持ちは、良くも悪くも、独特なもの。
 しかし、いつか二人きりでいることにも慣れてしまえるが、やがて永遠の別れがやって
 くる。

・容子が死んでみてわかったことだが、死んだ人もたいへんだけど、残された人もたいへ
 んじゃないか、という考えが浮かんだ。
 理不尽な死であればあるほど、遺族の悲しみは消えないし、後遺症も残る。
 そんなところから、少しの時間でも結婚生活を送って、愛し合った記憶を持った夫婦を
 描けないかと思った。
・夫婦だけでなく、親子だってそうだ。
 先に子供に死なれたら、その痛みや喪失感がなくなることなどないのでは・・・。
  
17
・容子の欠点らしい欠点と言えば、ときどき約束の時間に遅れること。
 中食事に、茅ケ崎市内の行きつけのそば屋で落ち合うはずだったのに、彼女が現れたの
 は、約束より半時間ほど後。
 五分や十分待たされても驚かないが、彼女なりに努めていたのであろう、遅刻すること
 がほとんどなくなっていたのに、大幅な遅刻。
・そば屋は客の回転が速い。
 私ひとり粘っている形で、居心地が悪かった。
・ようやく「ごめんなさい」を連発しながら走りこんできた彼女は、それまで見たことの
 ない蒼白な顔つき。
 「すぐ近くで、前の車に接触したの。私はきちんとブレーキを踏んだのに・・・」
・いずれにせよ、警官が来ての現場検証などで、時間が流れた。
 「ちゃんとブレーキ踏んだのに」
 いかにも心外といったふうに、またつぶやく。
・容子は運転が好きで、この辺りの道は走り馴れており、大事故を起こして二度と車に乗
 らなくなった私と違って、接触事故などもなく来ていた。
 それなのに、どうして・・・といった表情。
・幸い怪我人が出たわけでもなく、相手の車の修理費など払うということだけなので、
 その程度でよかった」と慰めたが、彼女は「こめんなさい」を繰り返しながらも、まだ
 合点がいかぬといった様子でいる。
 「歳だもの、そういうことも起こるさ」
・けれども容子は、納得がいかないような、曖昧な顔のまま。
 それもそのはずで、後になってわかったのだが、この頃すでに癌細胞が血液の中に入り
 込んでいての悪戯、頭脳の機能を阻害したための事故であった。
 このときそれがわかっていれば・・・と、後々まで、悔やむことになった。
  
18
・癌はいずれにせよ、早期発見が肝要にちがいない。
 たまたま、茅ケ崎の駅前ビルに、東京の有名病院の内科医が独立して開業したので、
 容子は血圧が高めでもあるし、さっそく、月二回の検診を受けることにした。
・ところが、この医師のいた大病院では趣味人というか、筆の立つことでも有名な医師が
 何人も輩出しており、この医師もまた風流人。
・それゆえかどうか、名医という評判ながら、どこか患者を見下すようなところがあった。
 そして、ある日、処方箋にそれまで比べて記載漏れかと思われる箇所があり、不要かど
 うか医師にたしかめてくれと、薬局で言われ、医院に引き返して、そのことを訊くと、
 とたんに医師は大声を張り上げ、
 「医者に教える気か!」
 と、怒鳴りつけた。
・その後になって、この医師に検査を受けた折、
 「あんたの肝臓はフォアグラだな、アハハ」
 と笑われたが、ただそれだけで説明がなく、といって訊くなり、問い返すなりすること
 も、怒鳴られたことを思い出すと、こわくてできない。
・私がこのやり取りを知ったときは、もう後の祭りであった。
 「フォアグラ」というのは、つまり、すでに肝硬変が進んでいたのではないか。
 その段階で、きちんと検診し、本人にも自覚させ、本格的な治療を受けていれば・・・。
・なぜもっとはっきり病状を伝えなかったか、なぜ悪い肝臓を放置したか、その医師には
 いまも恨みが残る。
・容子は、定期的に検診を受けているので、まさか重い病気が進行しているなどとは思い
 もせず、同じ病院に通い続けた。
・私も容子も病状を把握せぬまま、取材のために、ヴァンクーヴァーへ。1999年7月
 のこと。 
 買い物となると駆け出すような彼女が、少し歩いただけで「疲れた」とベンチにへたり
 込む。
 帰国しても、「ぐうたらばあさんで、ごめんね」と幾度も謝りながらソファで横になる。
 いつもの容子ではなかった。
 「歳だから」
 「夏だから」
 などと慰めにもならぬ言葉を二人言い合った。
・ところが、娘が母親の様子を見てきて、「お母さんは、女子高生を追い抜いたって言わ
 れるくらい早足だったのに、足取りが重いし、歩き方もおかしい。いままで元気過ぎた
 のかもしれないけれど」と詳しい検診を勧めた。
・駅前ビルの医師は諦め、それ以前からかかっていた、親切で温和な町医の許へ。
 そこで容子が診察されるなり、それまでになく暗い、きびしい表情で、最新の検診設備
 などが完備している徳洲会病院で、一刻も早く精密検診を受けるよう、忠告というか、
 警告された、という。
・そして、その日、いつものように駅前のマンションにある仕事場へ出た私は、徳洲会病
 院にも近いことから、そこで、彼女の帰りを待つことになった。
 ほぼ一日たっぷりかけての検査。
 七、八分は癌と、覚悟する他はなかった。
 それを彼女の口から告げられたとき、私は何と応じればよいか。
・慰めようもない。せいぜい、「医学は進んでいるから、心配することはないよ」
 くらいしか言えない。
 いや、悲痛な彼女の眼前にして、それさえ口にできぬ気がする。
・両腕をひろげ、その中へ飛び込んできた容子を抱きしめた。
 「大丈夫だ、大丈夫。おれがついてる」
 何が大丈夫か、わからぬままに、「大丈夫」を連発し、腕の中の容子の背を叩いた。
 こうして、容子の、死へ向けての日々が始まった。
・容子の希望を病院に伝え、手術はしない、抗癌剤も使わない。ただ「効きそうだ」と本
 人が望むワクチンやサプリメント類は用いる。
 入院せず、定期的に通院して、注射などをするだけ。そう決まった。
・慌しいような、虚ろで、時間が止まったような十月、十一月が過ぎた。
 私と容子は、表面上、とりたてて何かを話すこともなかった。
 後で聞くと、九月末の段階で、鎌倉に住む娘と、ニューヨークから一時帰国した息子に
 は、「三ケ月もつか、どうか」と告知がなされていた。
 容子には、「癌だけど、治そうね」とだけしか言えていない。
・十一月も半ばになって、容子が気にしたのは、体調や通院のせいで、毎年のお歳暮を手
 配していないこと。    
 一家を差配する主婦らしい心配であった。
・十五日、「そんな体調でわざわざ・・・今年は失礼させてもらってもいいじゃない?」
 と反対する娘をお供に、東京日本橋のデパートまで出かけた。
 あれこれ手配して、「疲れたわ」と言いながらも満足そうに帰宅。
 これが自分の意志での最後の外出となった。
・翌日夜、台所に立つ容子の様子が変で、声をかけた。
 「どうした?」
 「うーん、ちょっとトイレに行くわ」
 トイレに入るなり大きな音。
 駆け寄ると、容子が意識を失って倒れていた。
・急いで救急車を呼び、娘に連絡する。
 救急指定でもある徳洲病院へ運ばれる。
 夜間受付には、医師や看護師、何人ものスタッフが待ちかまえていてくれ、運び込まれ
 た容子を、文字通り走り回り、血眼になって応急措置。
・ああ、これだけの人たちが一所懸命やってくれているのだから、もし、今夜このまま、
 容子がもう助からなくても、やむ得ないんだ。
 一瞬のことであったが、私ははじめて、そんな覚悟をしていた。
・応急措置が小休止して、医師から説明を受けた。
 癌の病勢と関係があるかないかはわからないが、おそらく脳血栓、しかも心肺停止の状
 態だという。   
・その夜、容子の意識は戻らなかった。
 いや、医師によると、九割がたは心肺停止状態のままだろう、と。
 奇跡的に心臓が動きはじめても、意識は戻らず、植物状態になる可能性が高い、とも。
・十七日は、NHKテレビの年末番組「総理と語る」のために、官邸で小渕恵三綜理と対
 談する予定であった。
 東京に行って、収録し、茅ケ崎へ戻ってくるまでに、容子は死んでいるかもしれない。
 いったん引き受けた仕事ではあるが、綜理なんかと話している場合ではなかった。
・すると、そんな私のスケジュールのことなど何も知らないはずの娘が、
 「今日、『綜理と語る』なんでしょう?」
 と言う。一昨日、日本橋までの往復でいろいろ話すうちに、聞かされたことであるらし
 い。  
・「お母さんは、自分の病気が篤くなったとき、お父さんがきちんと仕事できるかどうか、
 気にしていたわ。こんなに急に穴を開けると、テレビ局の人たちも困るでしょう?お母
 さんのためにも、ちゃんと行ってきてください」
・たしかに容子ならそう言うだろうし、そう望むだろう。
 そして、いまばかりは私の我を通すより、容子の望むように行動してやりたい。
 これでお別れだ、と思って、東京へ出かけた。
 もっとも、対談番組にもかかわらず、私は終始むっつりとして、綜理とはほとんど口を
 きかないままであった。
・二日後、容子の意識が奇跡的に回復した。
 目を開いた容子は、自分の顔を覗き込んでいるのが娘だと確認すると、何よりもまず、
 こう訊いた。
 「パパ、行った?」
 すぐに、「総理と語る」のことだ、と察した娘は、
 「行ったわ、きちんとスーツを着て」
 そう応えると、容子は心底ホッとした顔になった、という。
 
20
・最後の伴侶の死を目前にして、そんな悲しみの極みに、残される者は何ができるのか。
 私は容子の手を握って、その時が少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであっ
 た。
・息子と娘に告知された余命三ケ月を越して、容子は新年を迎えることができたが、状態
 の悪い日が多くなってきた。
・私は一日に二度病院に行き、一緒に夕食を食べた。
 食事を容子の口元まで運んであげ、他愛のないおしゃべりをする。
 そして、こういう時間ができるだけ長く長く続くように、なにものかに祈る。
 そんなことしかできなかった。 
・二月に入ると、衰弱が目立つようになり、やがて起き上がれなくなって、モルヒネも使
 うようになった。
 ああ、もう別れるんだ、本当におしまいなんだ、と覚悟した。
 2000年2月24日、杉浦容子、永眠。享年68。
・あっという間の別れ、という感じが強い。
 癌とわかってから四ヶ月、入院してから二ヶ月と少し。
 四歳年上の夫としては、まさか容子が先に逝くとなどとは、思いもしなかった。
・もちろん、容子の死を受け入れるしかない、とは思うものの、彼女はもういないのかと、
 ときおり不思議な気分に襲われる。
 容子がいなくなってしまった状態に、私はうまく慣れることができない。
 ふと、容子に話しかけようとして、われに返り、
 「そうか、もう君はいないのか」
 と、なおも容子に話しかけようとする。

父が遺してくれたものー最後の「黄金の日日」:井上紀子(次女)
・母が桜を待たずに逝ってから、父は半身削がれたまま生きていた。
 暗い病室で静かに手を重ね合い、最後の一瞬まで二人は一つだった。
・温もりの残るその手を放す時、父は自分の中で決別したのだろう。
 現実の母と別れ、永遠の母と生きてゆく、自分の心の中だけで。
 この直後から父は現実を遠ざけるようになった。
・通夜も告別式もしない、したとしても出ない、出たとしても喪服は着ない。
 お墓は決めても、墓参りはしない。
 駄々っ子のように、現実の母の死は拒絶し続けた。
 仏壇にも墓にも母かいない。
 父の心の中だけに存在していた。
 他人の知らぬ、踏み入れられぬ形で、喪主であるはずの父に代わり、あれこれ手配を進
 める私たちに、「悪いねえ」と言いいながらも、心はどこかに置かれたまま。
 形式的にも、現実の出来事としても、母の死を捉えることは耐えられなかったのだろう。
・その後、母との終の住処には帰れず、仕事場が父の住居と化してしまった。
 しばらくして父の様子を見に仕事場に行くと、夕日の射す西側のカウンターの隅に、見
 覚えのある小さな母の写真が置かれていた。
 父も気に入って遺影にしてもらった笑顔の母。
 きちんと写真立てに入れられ、両サイドにはどこから探してきたのか、一対の天使のろ
 うそく立ても。 
 どんな顔をしてしつらえたのか。
 父だけの祈りの場。
 誰にも邪魔されぬ所で、父は母との会話をし続けようとしていた。
・母は母で、父に看取られ幸福であったにちがいない。
 亡くなる前日、夜間の付き添いを珍しく頑なに、私ではなく父の頼んだのも、自分の最
 期を察し、自らの幕を二人だけのセレモニーの中で下ろしたかったからだろう。
・母の死後、数日経って、父は独り言のように、「
 「看取ることができて幸せだった」
 とぽつりと言った。
 つまり、実は共に幸せな最期のときを迎えることができたのである。
・しかし、以後の七年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない。
 想像以上の心の傷。その大きさ、深さにこちらのほうが戸惑った。
・連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。
 子や孫は慰めになっても代わりにはなれない。
 ポッカリ空いたその穴を埋めることは決してできなかった。   
・家族も本人さえも想像つかぬほどの心の穴。
 その喪失感を拭うことはできないとも、一瞬でも解き放たれるよう、私は家族と共に茅
 ケ崎の実家に移り、仕事場の父の付かず離れずの生活を始めた。
・母が突然倒れて入院してからというもの、父は帰るどころか、よほどのことがない限り
 寄りつかなくなってしまった自宅。
 晩年、母が夫婦二人で住みやすいようにと、あれこれ考えて建てた家。
 同じ敷地には、私が子供の頃に住んでいた古い家が、いまも並んである。
 こちらはもはや住人もなく、全室どころか廊下や階段まで積み重ねられた本の山によっ
 て崩壊寸前の状態。 
・そうなる直前に、この教訓を踏まえた母のたっての希望により、作家の匂いの一切しな
 い、本や資料を持ち込まない、安らぎの家屋として新棟が建てられた。
 母の想いが強いだけに、二人だけの最後の思い出の家だけに、父は戻れなくなってしま
 ったのか。
・サラリーマンのように仕事は仕事場で、家では寛ぐのみの生活。
 それが母の晩年の理想であり、その実現こそが父の妻への感謝のしるしでもあった。
・父が仕事場にいる間は、母にとってはほっとできる時間であり、父にとってもまた、
 思い切り仕事に集中できる大事な時間であった。
・1999年12月半ばのある晩、その日に限って母からではなく、父から鎌倉の自宅に
 電話が入った。  
 夕食の片づけの途中、濡れたままの手で取った受話器の向こうから、父の抑揚のない、
 平坦な声が聞こえてきた。
 「ママが倒れて、○○病院に運ばれた。今、ICUにいる」
 私は夫に連絡をとると、娘に留守を頼み、一人茅ヶ崎へと向かった。
 病院に着くと、父はICUの前の廊下で迷い子のようにポツンと一人、背を丸めて座っ
 ていた。
・秋に判明したガンとの関係はわからぬが、医師は脳血栓と診断。
 心肺停止で運ばれ、以前意識不明の状態で、99パーセント一両日の命だと。
 仮に1パーセントの確率で命を取り留めたとしても、以後は植物状態のままでしょう、
 とも医師は告げた。
・父は医師の言葉が終わるか終わらないうちに、
 「そうだ、そうなったら長野か山梨で、ママと二人で暮らす。長野か山梨で」
 とブツブツと念ずるように言い出した。
・母は一連の父の言動を察してか、まさに奇跡的に回復し、周囲を驚かせた。
 数日後、長い眠りから覚めるや、「パパ、ちゃんと仕事しているの?」と、すっかり元
 の母に戻り、私達を安心させてくれた。
・もしもあのまま、突然母が逝ってしまっていたら、父は一体どうなっていただろうか。
 母は何よりそれを案じて、敢えてこの世の辛い医療現場に踏みとどまってくれたのだろ
 う。 
・このあと年を越し、ほほ二ヶ月、母は苦手な痛みに耐えながら生き続けてきれた。
 父や私達に、”その日”を迎えるための心の準備、猶予期間を与えてくれたのである。 
・実は、母にはもとより父にも、母のガンが絶望的な末期であることは最後の最後まで伏
 せていた。
 手のほどこしようがなく、九月の段階で余命三ヶ月、年内ぎりぎりもつかどうかと診立
 てられていた。
・本人の意志により、倒れる日まで、通院以外は通常の生活を続けていたのだ。
 脳血栓を克服し、余命期間もクリアした母は、年明け、一時的に本来の元気を取り戻し、
 いつもの明るい表現で病院のスタッフや見舞いの友に笑いを振りまいていた。
・今思えが、このひと月余りの日々が、父、母、兄、そして私にとって最もかけがいのな
 い、濃密な家族の時間となっていた。
 母は父を気遣い、父は母を心配し、共に私に「頼むね」と告げ、微笑み合う毎日。
 ある種、幸福の時でもあった。 

・七年後、これと全く同じ状況が、同じ季節に巡ってきた。
・母の七回忌を終えた晩年(2006年)の春頃から、ガクッと心身の弱り始めた父。
 父も大分気にしてか、老いをめぐる本が仕事場のあちこちに点在するようになった。
 それまで付かず離れずの生活をしていた私達は、さすがに仕事だけでなく生活面におい
 ても完全にフォローできるようにと思い、父に仕事場から自宅に戻るように説得を開始
 した。
・年末から年始にかけて、子側から半ば一方的に続けられた。
 完全同居の申し入れ。
 誰よりも本人が一番恐れ、自覚もしていた老い、衰えを、まるで「早く自覚せよ」と追
 い詰めてしまうようなことだったかもしれない。
・しかし、真冬の寒さの中、弱った父をこれ以上マンションの一室で一人で過ごさせるわ
 けにはいかない。
 父は父で、私達の気持ちはありがたいと言いつつも、「大丈夫、迷惑かけないから」と
 なかなか承知してくれなかった。
・平行線が続くなか、私の夫が最後の一言として、「一人の親の身を案ずるというだけで
 なく、『城山三郎』という作家の側にいる者の責務として、何より一読者としてお願い
 しているのです」と言うと、父は急に態度を軟化させ、素直に折れてくれた。
・実際、寝食を共にしてみると、あらためて痩せ細った父の身体に胸が絞めつけられた。
 まさに骨と皮になった薄い背中を流しながら、痛々しくて不覚にも涙が出そうになった。
 手を貸す度に、「いいよ。悪いねえ」と言う父。
 互いに照れ屋で頑な父と娘。
 誰が二人のこのような姿を想像できただろうか。
・強固な心身を持つ父への敬愛が、いつしか慈愛へと化してゆく。
 親を子のようにいとおしいとさえ思う気持ち。
 命を感じながら生きるようになると、自ずと出てくる感謝の気持ち。
 そして再び崇高な尊敬の念が生まれてくる。
・こうして、メンバーは代われど、かつて自宅から仕事場へ通っていた頃の生活が再開し
 た。
 父と歩く仕事場までの散歩道。
 ほころびかけた梅のつぼみ。芽を吹きはじめた木々、草花。春を求めてさえずる野鳥た
 ち。どれも温かく幸せに感じられた。
 すべてに命がいとおしい。こんな思いになれたのも、父からの最後のプレゼントだった
 かもしれない。
・正直、この間、私の全神経は二十四時間父に向けられ、心身ともに休まることはなかっ
 た。
 なのに、心の中は今までにない温もりで満たされていた。
 「しんどい」のに「ありがたい」。大変だと思いつつ、今は親孝行をさせてもらってい
 るのだ、という不思議な感覚。
・そんな早春のある朝、ソファに座ったままの父が動かない。
 手にはペンを握ったまま。明らかに様子がおかしい。熱もある。
 しかし、父は「大丈夫だよ。ちょっと咳が出るけど、馬鹿は風邪はひかないって言うじ
 ゃない」などと、言ってみせる。
・私は娘に車を出してもらい、二人で父を両脇を抱えながら、病院に急行した。
 無理矢理、病院に連行された形の父は、救急措置のあと、酸素ボンベとともに横たわっ
 たままの姿で現れた。狐につままれたような顔をして。
・「急性肺炎です。この年齢の方にはよくあることですが、肺に水がだいぶ溜まっている
 ので、即入院してください」
 医者の言葉が痛かった。
 私が側についていながらなんということ。
 こんなことなら、これまで通り仕事場で、自由にマイペースなまま過ごさせてあげれば
 よかったのではないか。
 父に済まない気持ちでいっぱいになった。
・よかれと思って始めた同居だが、果たして本当によかったのか。
 父は折りに触れ「ありがとう、ありがとう」と仙人のような笑みを返してくれていたが、
 私の自問は「最期の日」まで続いた。
・入院当初は、「仕事は?」「原稿は?」と何度も質問を繰り返した父。
 「今日は休むのが仕事だから」と言うと、「ほお、そうか」と意外にもすんなりと納得
 してくれた。  
・そしてしばらくすると、宙を見つめる場面が多くなった。
 「どうしたの?」と聞くと、「どうして僕だけここにいるんだろうと思ってね」とぽつ
 り。
 亡くなった戦友や作家仲間、地元茅ヶ崎在住の開高健氏や同年代の藤沢周平氏、吉村昭
 氏などなど、次々に思い浮かべていたようだ。
 「お父さんにはまだやるべきこと、お役目があるから残されているんじゃないの?」
 と言うと、「そうか、そうだなあ」とまた、宙を仰いでぽつり。
・そんな父も、当初の病原菌による肺炎に、死因となった間質性肺炎を併発してからは、
 さすがに苦しそうに見えた。
 回復してほしいと強く願いながらも、この年齢、この体力では完治は望めないと告げら
 れると、退院後の生活を考えるより、今、この時を少しでも楽にしてあげたい、と思う
 日々に変わった。 
・鼻も口も器具で繋がれた父は本当に痛々しく、私はそっと骨と血管の浮き上がった手を
 擦りながら、心の中で何度も「ごめんね」と呟いた。
・見舞いの子供を気遣い、どちらが患者かわからない。
 「私達のことはいいから、いいから」と言うと、父は翁の面のように目を細めていた。
・治療の望みが絶たれ、呼吸が加速度的に苦しくなる中、家族に最後の判断が求められた。
 兄と私は父の平安のみを願った。
 そして、その日から父は深い呼吸とともに、夢と現の世界をたゆたうこととなった。
 一日の大半は目を閉じたまま。
 それでもこちらが耳元で呼びかけると、精一杯の力を込めて応えようとしてくれた。
・亡くなる二日前、兄と私が「もう帰るけど、また明日来ますからね」と声をかけると、
 パッと目を見開き、兄と私の顔を順にじっくりと確かめるように見つめ、最後に一言、
 声なき声で尋ねてきた。
 その問いかけは、口唇の動きから「ママは?」と読み取れた。
・私はとっさに、「ああ、お母さん?お母さんなら大丈夫だから・・・」と言葉を濁した。
 もうろうとした意識の中で、必死に母を追い求めている眼。
 それが、父からの最後のメッセージとなった。
・それから一昼夜が過ぎた朝方、病院からの容態の急変が知らされた。
 春の柔らかな朝陽を背に受けながら、病院まで全力で走ったが間に合わなかった。
 一瞬、涙が溢れたが、すぐに不思議と落ち着きが戻った。
 父の顔に救われたのだ。
・額に手を添えながらしみじみ顔を覗き見ると、なんとも幸せそうな顔をしているではな
 いか。  
 こちらがふっと微笑み返したくなるような、純心子供のような安らかな笑顔。
 これは間違いなく母への笑顔だった。
・ちょっと斜め上空を向いたまま、ほっとしたような、嬉しそうにさえ見える。
 不思議な死に顔。
 兄も私も同時に思った。「お母さんが迎えに来てくれたんだね」と。
 そして、心も体も、頬に伝わった涙さえもじんわり温かくなった。
・「とかったねえ、お父さん。やっとお母さんの所に行けて」という言葉が、思わず口を
 つく。  
 不思議かもしれないが、これが本心。
 こう思えたのも、母の死、父の日がともに私達にとって、それこそ「ありがたい」最後
 の「黄金の日日」だったから。