諦めの価値 :森博嗣

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この本は今から2年前の2021年に刊行されたものだ。
この本で述べられている内容をひと言でいえば「他者に期待するな」ということなのだろ
うと思った。
諦めとは、他に期待することを諦めるということだという。他者に期待すれば、その期待
がかなわなかったとき、「裏切られた」という感情が生じ、怒りや憤りへとつながってし
まう。他に期待していなければ、そういう感情が生じる余地はない。
なるほどとは思うのだが、いざ実生活でこれを実践しとうとしても、なかなか難しいので
はないかと私には思える。もっとも、筆者はこれを実践しているようだ。

この本から得た情報では、筆者はもとは名古屋大学工学部の教授であり、同時に作家でも
あったようだ。だが、作家活動が軌道にのり、本がたくさん売れて大金が手に入ったこと
により、経済的に将来へのめどが立った時点、つまり、もはや稼ぐ必要がなくなった時点
で、大学教授も作家活動もリタイアしたという。つまりは「アーリーリタイア」をしたの
だ。ただ、大金を手にしたからといって、生活レベルをあげるようなことはせず、今まで
どおりの慎ましい生活を送っているという。
田舎の人里から離れた場所に土地を買い、そこで日に1時間ほど仕事をしたあとは、趣味
の鉄道模型制作やラジコン飛行機を飛ばして遊ぶ毎日んでいるという。
つまり、筆者やもはや「他に期待する」必要がまったくなくなったのだ。
他に依存しない自由な生活を満喫しているのだ。なんともうらやましいかぎりである。

過去の読んだ関連する本:
「やりがいのある仕事」という幻想


まえがき
・なにかを成し遂げた人は、たいてい「諦めずに頑張った」と語るけれど、実は、目的を
 達成するために、数々のものを諦めている。
 たとえば、アプローチする方法たって、何度も変更しているはずだ。
 つまり、「これでいける」と信じた方法を諦め、別の方法に乗り換えた。それを繰り返
 しただろう。
 さらにいえば、なにかに集中するために、ほかのものを犠牲にしなければならない場合
 も多い。これは、一つの目的のために多数を「諦める」ことである。
 ようするに、成功というのは、「諦め」によって築かれている、といってもよいだろう。
・人間は生まれながらにして格差を背負っている。
 それぞれ違うものを持っていて、その個性を自分の人生に役立てるしか道はない。
 他人の成功を見て、自分もあんなふうになりたい、と思っても、ほとんどの場合は無理、
 不可能なのである。
・成功するかどうかは、半分以上が、その人間の能力、つまり才能によっている。
 自分の才能を見極めることが非常に大事であり、自分をよく知っていれば、そうそう大
 きな失敗はしないだろう。つまり、早めに諦めることだ。
・また、才能以外に人生を左右するものとして、「運」がある。
 これは、もっとわかりやすく言えば、「確率」だ。
・成功するには、少しでも確率の高いもの、あるいは期待値の高いものを選択すること。
 ほぼ、これに尽きる。
・いつまでもしつこくチャンスに賭け続けるようなことは無駄だ。
 早めに諦めたほうがよい。
 特に、賭け事は、少し遊んだら、潔く引き上げることが肝心だろう。
 負けたらすぐやめる。勝ってもすくやめること。
・確率の高い方法を選び、地道に努力を積み重ねることが、最も期待値が高い成功への道
 といえる。  
 
諦めなければ夢は叶うか?
・自分の時間をと労力を消費し、目的に向かってなにがしかの行動を起こす。しかもそれ
 を継続する。
 そうすれば、必ず夢は叶う。少なくとも目的に近づくことができる。
 行動すれば、自分は変化する。環境も変わる。自分以外の人の評価も変わってくるだろ
 う。
・諦めなければ、いずれ夢は叶うが、その前に、死が訪れるかもしれない。
 その場合でも、一生夢を追い続けたことになり、夢が叶ったのと同じくらい自由で幸せ
 な人生となるだろう。
・つまるところ、人生においてつぎつぎと直面する「どちらにするのか?」という判断は、
 「何をあきらめるのか?」という選択なのである。
 「とにかく諦めるな」「絶対にあきらめないぞ」という精神論は、この際、まったく無
 意味である。
 ものごとを進めるためには、無数の「諦め」を許容するしかなく、「諦め」を積み重ね
 て登っていくようなものだ。
・的確な判断とは、「的確な諦め」によって成立する。
 諦めきれない状態とは、判断がつかない状態であり、それではものごとが前進しない。
・もちろん、とことん考えることは大前提だ。時間が許すかぎり考える。
 このとき、感情的な要素に左右されず、客観的に、かつ巨視的、長期的に事象を捉える
 ことが重要である。  
 そして、いったん諦める決心がついたら、直ちに判断し、実行する。
 実行した後は、ぐずぐずと過去を振り返らない。
 次にやってくる問題を予測し、未来に備えることを優先すべきだろう。
・どんな仕事でも、あるいは人生でも、計画が必要だ。
 いつまでに何をするか、どのような手順でことを運ぶか、未来に対して、いろいろな想
 定をして、進むべき方向を決めていく。
 ここでも、やはり自分自身の条件に照らし合わせた「現実性」が重要となる。
 計画というのは、憧れを柄に描いたものではない。
 それは、道順を記したマップであり、タイムスケジュールなのだ。
・どうせ実現できないのだから、と最初から諦める人がいるけれど、それはなにもまだし
 ていない人である。 
 自分では諦めたつもりでも、実は一歩も進んでいないから、諦めているともいえない状
 況なのである。 
 なにかを実際に始めて、失敗して、諦めた人ならば、少なくともそこまでの段階で得ら
 れたものがあり、自身が進化している。
 次に挑戦したときには、もう少し高いところまで手が届くかもしれない。
 だが、最初から諦めていては、何もしなかったのと同じだ。
・こうしてみると、「諦めなければ夢は実現する」という言葉は、正確には間違っている
 かもしれない。 
 むしろ、「諦め続けることで、夢は実現する」のほうが現実に近い。
 何度も挑戦し、何度も諦めることで自分が成長する、という要素があって初めて、夢が
 実現する場合がほとんどだからだ。
・「諦める」ことは、別に悪いことでもなんでもない。単なる判断の結果である。
 たしかに、諦めるためには、ちょっとした無念が必要な場合もあるけれど、それも大し
 たことではない。 
 どんなときでも、なにかを諦めることになる。
・「せっかくここまでやったのに」とか、「これが自分の生き方だ」などと、拘ることの
 ほうが、むしろ危険な状況である。
 そうではなく、いつも柔軟に考え、現在の状況をよく把握したうえで、価値判断をする
 こと。 
 そのときに、「諦め」が結果的に現れるというだけである。
 「諦めたくない」といった感情は、きっぱりと捨てるほうが良いだろう。
 そういった「拘り」こそ諦めよう。
・大事な目標を、もっとよく吟味して、常に見つめ直し、必要なら修正をしたほうがよい。
 自分が満足することが第一優先ではあるけれど、そのディテールは、考えれば考えるほ
 ど広い範囲に分散していて、実際のところ、どのポイントを目指すのか、わかりにくく
 なっているのだ。 
 それに目を瞑って、ただ努力する、自分が取り組めることに日々励む、という行為に小
 さな満足を見い出してしまう。
 考えない状態になっていると、危ない。いわば、酔ってしまっているのと同じだ。
・目標が正確に定まらないと、そこへのプロセスで迷いが生じる。
 つまり、判断にブレが生じる。
 いったい、自分は何を求めているのか、と自問することを忘れてはいけない。
・遠い大きな満足と、近い小さな満足があるとき、人間は手短な方へ流れやすい。
 つい手が届くもので満足してしまう。  
・そうならないように、「計画」というものがある。
 これは、遠い大きな目標を、近い小さな目標に分散させる行為であり、その計画を守る
 ことで、本来の大きな目標を、より確実に手にする方法として、昔から多くの人たちが
 採用してきたやり方である。
 その計画も、常に修正を続けることが必要だろう。
・あるときは、失敗を恐れずにチャレンジすることも必要だ。
 この場合も、失敗することを充分に覚悟して上でチャレンジする。
 失敗を頭から消す、という意味では全然ない。
 「失敗を考えるな」という教えは、その意味どおりでは、ほぼ間違いである。
・日本語では、「そんなことはまったく考えておりません」という言い回しがあるが、
 どんな場合でも、思いつくすべてのことを考えておくべきだ。
 考えなければ、判断ができない。
 「諦めるなんて、まったく考えていない」という状況は、はっきりいうと危険である。
 常に、諦めることを想定して臨むべきである。
・諦めることは、非常に重要な姿勢というか、考え方の基本となるものであり、常にその
 選択肢を持っているほうがよい。
 ただ、すべてを諦めることではない。それは、生きることを諦めるのと等しい。
・諦めるのは、なにかもっと大事なものを守るための手段であることを忘れてはいけない。
 しかし、普通は「大事なものは何か」ということがしっかりと理解されていない。
・「自由」は、人間にとってもっとも大事なものだと思う。
 しかし、人間を拘束から解き放っただけでは、自由にはならない。
 人間は、思い込み、周囲にすがり、流される。
 自由を獲得するためには、自分の視点をもっと拡張して、時間的にも空間的にも広い視
 野をもって、いわば神様のような視点で自分自身とその周辺を観察し、自分をコントロ
 ールする。
 そうして初めて、自分が自由になった、といえる。
・どうしても上手くいかない、という窮地に立たされたときには、とにかく、何が諦めら
 れるか、と考えたほうがよい。諦めることで、救われる場合が多い。
 「諦めてはいけない」という言葉にすがってしまいがちで、この妄信が、あなたを窮地
 へ導いた、と言えるかもしれないのだ。
・「何を諦めようか?」と考えるだけでも、事態は改善する可能性がある。
 それは、「諦める」からではなく、「考える」からだ。
・人間の最大の武器は「考える」能力である。
 諦めるためには、考えなければならない。
 考えることを避けている状態が、「諦めない」という頑固な姿勢なのだ。
・「大失敗」は、だいたいの場合、諦めないことが原因だ。
 もう少し早く諦めていれば、「失敗」で済んだものが、諦めなかったために「大」が付
 加される。多くの歴史からそれが学べるはずだ。
・大勢が「絶対あきらめない」という信念で生きていたら、世の中はどうなるか?
 おそらく争いや戦争が絶えないだろう。
 相手を尊重し、譲り合い、平和な社会を築くには、自身の直近的な利益や感情的満足を
 「諦める」ことが必要であり、そうすることで、結局はもっと大きな利益を手に入れる
 ことができる。 

諦められないという悩み
・頑張って勝ちたい、という気持ちは、悪いとは思いませんが、しかし、「勝つ」とは、
 つまり誰かを蹴落とすことですし、負けた人間を惨めだと見下ろしたい、そういう願望
 が潜んでいるはずです。
 なぜ、他者に勝たなければならないか、というと、それは周囲の他者に認めてもらいた
 い、と望んでいるからです。
・もし、自分の楽しみを持ち、自分がやりたいことが明確にあるなら、他者に勝つ必要な
 んてどこにもありません。
・仕事は、対価を得るために、自分の時間と労力を差し出す行為のことです。
 賃金が得られたら、それが「やった」ことのすべてと考えるべきです。
 どんな目立つことをしても、あるいは、どんなに人から感謝されることをしても、
 それが仕事だったら、偉くもなんともない、と僕は感じます。
 大変な作業、あるいは才能がなければ成立しない作業であれば、それに応じた賃金が支
 払われているわけですから、そこで帳尻が合っている。
 だれでもできる簡単な仕事をして、少ない賃金を得ても、誰にも真似のできない仕事を
 して、多くの賃金を得ても、どちらが偉いわけでもありません。
・たまに、「あの橋は俺が造った」とか「ひと頃一世を風靡したものだよ」とか、過去の
 仕事の自慢をする人がいますが、ちょっと派手な服を着ている人、程度の印象で、服が
 人間の価値を高めているようには見えません。
・そんなことよりも、自分の趣味に没頭して、俺はこれをやった、と自分一人で悦に入る
 ほうが、よほど健全なのではないか、と僕は思いますが、いかがでしょうか。
・同じ努力をしても、成功に届かない人がいくらでも存在する。
 そうした多数があるからこそ、一部の成功者が際立つようにできている。
・成功した人は、努力を積み重ねたから成功できた、と語る。
 実際にはそれだけではないのだが、ストーリーとして取り上げやすい。
・子供の頃から、その種のサクセス・ストーリーが目の前にいくらでもぶら下がっていた。
 だがら、多くの人たちは、そこへ向かって走りたい、と期待する。
 誰もが、自分にも可能性がある、と信じてきた時期がある。
 だが、結局は確率的に、大勢が目指す目標を途中で諦めなければならなくなる。
 これは、誰にも否定できない数の論理でといえる。
 そもそも、一部に富が集まってこそ「成功者」なのだから。
・では、どこに問題があるのか、と言えば、「諦めるな」と教えた、その精神論である。
 明らかにそれは間違っていた、と言わざるを得ない。
 諦めなかったから、成功したのではない。成功できた人は、諦める必要がなかっただけ
 だ。
・また、たとえ成功した人であっても、長くその位置にはいられない。
 いずれ衰えて、その座を明け渡すことになる。
 「成功」とは、一時的な状態にすぎない。
・人生は無限ではない。
 個人の可能性も有限だ。
 自分が持っている時間と能力によって可能な範囲は知れている。
 それは人によって差があり、さまざまだが、その強さや大きさを比べられるようなもの
 ではない。  
 小さいことでも自分が満足できれば幸せが掴めるし、大きなことに挑戦して挫折する人
 生もある。
・誰かから植え付けられた欲求を捨てきれない、という人がたくさんいるようだが、もし
 自分で創造した楽しみであったら、諦めるもなにもない。
 そんな発想にもならないし、悩むこともないだろう。
 途上であっても、ずっと楽しいし、失敗も成功も楽しい。
 一人で毎日うきうきしていられるはずだ。
 僕には、そういう人こそ、本当にきらきらと輝いて見える。
 
何を諦めるべきか?
・どちらも欲しい、というわけには普通はいかない。
 どうして両方を採用できないか。
 それには、いろいろな理由があるが、不可抗力としてのしかかっている条件であり、そ
 こから逃れることができないからこそ、選択を迫られるのだ。
・もし、自分は諦めたくない、つまり、欲しいものはどちらも手に入る、という人生を歩
 みたい人は、選択を迫られる立場に自分自身が追い込まれないように、あらかじめ入念
 に考え、予防策を講じるなど、完璧に計画をしておくしかない。
 絶大な思考力と、それなりの実行力が必要となるだろう。
 決して不可能ではない、そんな人生もあるにはある。
 いわば、これが「後悔したくない」という生き方である。
・未来の予測を怠らず、できるだけ予防線を張っておいても、残念ながら思考力が完璧で
 なければ、予期せぬ場面も到来するだろう。
 しかし、そうなったときはしかたない、という「諦め」をあらかじめしておく。
 つまり、精神的な対処を事前にしておくこと、である。
 これは、簡単な言葉にすると、「覚悟」だ。
・やれるだけのことをしておく。人のせいではないから、腹を立てることもない。
 悔やむならば、あとではなく、さきにしておくべきだ。
 すなわち、「今の時点では、自分にはこれが精一杯だ」と悔やんでおく。
 そうすれば、後に後悔することにはならないはず。
・未来の失敗を覚悟し、起こりそうな最悪の事態を想像しておく。
 そうすれば、現実はこれよりも良い結果になる可能性が高い。
 したがって、後悔しない人生をまあまあ歩むことができる、というわけである。
・実際、後悔したり、くよくよして落ち込んだりするのは、非常に時間の無駄である。
 そんな時間があるのなら、さきにその時間を使って、悲観的に予想しておく。
 事前に悔やんでおけば、覚悟ができるという精神的安定のほかにも、好ましくない可能
 性も思いつき、実際に最悪の事態に対処する準備ができるかもしれない。
 そうなったら儲けものである。

・多くの人が諦める対象としているのは、やはり人間であり、その中でも多いのは、自分、
 あるいは身近な他者のいずれかだ、と言える。
・自分を諦める対象としている人は、自分の能力を諦める、自分の性格、容姿、履歴、あ
 るいは周辺環境などを「諦める」と口にするものだが、実際によく話を聞いてみると、
 周囲から見られている自分を気にしていて、要約すれば、みんなに「認められない自分」
 を諦めている。 
・裏返せば、自分に対する評価に不満を抱いているわけだから、どちらかというと周囲の
 他者に対して「恨めしい」感情を持っているように観察される。
 「自信がない」というような、一見「劣等感」を語っていても、実は周囲に理解を諦め
 ている、といえる。
・また、身近な他者に対して諦めを持っている、と語る人の場合も、対象が特定の個人で
 あるという違いがあるだけで、実際には、その他者の自分に対する評価に不満がある場
 合がほとんどだ。
・いずれにしても、人間の精神というものは、人を恨みやすくできている。
 なんでも、他者に不満をぶつける。
 気に入らないことは、すべて他者に原因がある、と思いたい。
 そういう思考に陥りやすい、ということを、まず自覚したほうが良い。
・誰にでも欠点はある。だが、欠点を指摘されただけで、「非難された」と思い込む人が
 いて、それは早合点というものである。
 「褒められたら味方で、貶されたら敵だ」という単純な反応というのは、なにかに取り
 つかれているか、幼い子供の精神だといえる。
 いわば動物的反応であり、実は誰もが持っているものでもある。
 だが、成長した大人ならば、それを理性で抑えることができるはずだ。
 理性というのは、自分の欠点を理解し、自分に対して本質的な指摘をしてくれる他者の
 言葉に耳を傾けるほうが得だ、という計算のことである。
・日本の社会も、戦後の成長期にあって、いわば「いけいけ」の時代だった。
 すべての行為が「登る」イメージで展開された。
 「元気を出せ」「頑張れ」「気合いを入れろ」「負けるな」「振り返るな」「上を向け」
 と鼓舞する言葉ばかりが世の中を席捲した。
・では、今の日本はどうだろうか?
 バブルが弾けて何十年にもなる。
 経済成長からは程遠い社会になった。
 けれど、いまだに大勢が上を向いたままではないだろうか。
 今は一時的に停滞しているけれど、また元通りの活気を取り戻すはずだ、と信じている
 人が多いようだ。 
・僕は、そうは思わない。
 上がったものは下がる。
 上がることが良いことで、下がることが悪いことだ、と決めつけるのも理不尽である。
 山登りには、山下りが必ずある。上手に下がってきて初めて、山登りは完結するのだ。
・今は明らかに下りの時代である。
 上りの時代で無理をして築いたものを、できるかぎり上手に維持しつつ、片づけていく
 時代になっている。 
 人口が減っていることだって、その一つの要素だ。
 人口を増やそうとする計画ではなく、人口が減っていく社会の維持をいかに上手に行う
 か、が問われている。これが少子化問題の本質である。
・今の老人たちは、特に「発展」しか頭にない。
 そういう人たちが社会をまだ牛耳っているから、現実と乖離した政策によって、ますま
 す歪なしゃかいになる危険がある。
 若者は本能的に、「発展」を諦めている分、現実を受け入れている。

諦めが価値を持つとき
・「諦めきれない」と悩んでいる人は、二つに分けられる。
 一つは、諦めることで失うものが大きい場合。
 既になんらかの努力重ねてきたため、諦めることで時間やエネルギーが無駄になる、と
 いう意味だ。
 せっかくここまで頑張ってきたのに、まだ完成していない中途半端なものを、今捨て去
 ってしまうのは忍びない、といった抵抗感だろう。
・もう一つは、諦めるものの実体が、自分でもよくわからない場合。
 つまり、まだなにも始めていない、ただぼんやりと憧れているだけの対象だった、遠く
 から眺めているだけの存在だった。
 したがって、諦めても、失うのはその憧れていた自分の時間だけである。
 実際には、これは失うことさえできない。
 頭をクリアすることは人間には不可能だからだ。
 忘れることができないから、必然的に「諦めきれない」となる。
・前者は、手放すのが多すぎる悩みであり、後者は、手放すものがまだ明確に存在してい
 ない場合だといえる。 
 この、諦めたいけど、諦めるものがない、という状況は想像以上に多い。
 僕が相談を受けた範囲でも、半数以上がこれだった。
 話を聞いても、いったい何を諦めようとしているのか具体的にわからないのだ。
・では、どうすれば良いか。
 そこは、悩み続けるしかない。
 諦めてみたり、また試してみたり、を繰り返すうちに、だんだん、自分がどの程度のも
 のなのか、どんなタイプなのか、何をしたいのか、どうすればもっと良い思いができる
 のか、と少しずつわかってくる。
・時間が必要だし、その間に多くの試行もなくてはならない。
 悩めるだけ悩めば良いし、できることはすべて試してみれば良い。
 諦めるとも言わず、諦めないとも言わず、「どちらつかずのまま、ぐずぐずしていれば
 よろしい」と僕は思っている。
 人生に〆切はないのだから、結論を急ぐ必要はない。

・「諦めるべきか」と悩む人は、何に追われているか?
 それは、「こうして悩む時間が無駄にならないか?」「努力しても駄目だった場合の損
 失は?」という問題である。
 それらは、放置しておけばどんどん大きくなる赤字みたいなもの。
 諦めるなら早くしなければ、と焦るのはこのためだ。
・「ぐだぐだ悩んでいる時間がもったいない」という考えのようだが、多くの場合、「悩
 んでいる」わけではなく、ただ「ぐだぐさしている」だけではないだろうか?
 悩むということは、頭を抱えることでもないし、布団にくるまって不貞寝することでも
 ない。
・そうではなく、考えることだ。
 考えるためには、データが必要で、それらをできるかぎり調査し、どんな未来が予測で
 きるか、何通りも箇条書きにして、それぞれについて、考察結果を整理するような「行
 為」、それを「考える」と僕は呼んでいる。
・そういう悩み、考える時間は、決して無駄ではない。
 真剣に考えれば、きっと名案がいくつか浮かぶし、たとえ、何かを諦める結果になって
 も、そこで考えたことは、後々自分にとって有益な材料として、頭の中に残るだろう。
 
・本気でその夢を実現したいと思っているなら、とことん考えるべきだ。
 「ああなってほしいな」という言葉を呪文のように繰り返すことでは、なにも進展しな
 い。
 どうしたら実現できるか、その方法を考えることだ。
 考えた具体的な方法を、箇条書きにしてもらいたい。
・現在の自分には不可能だ、という「夢」ならば、その不可能をどのようにして解消する
 かを考える。 
 足りないものがあるなら、それを手に入れる方法を考える。
 無理だ、無理だ、とつぶやくだけでは「考えてる」ことにはならない。
 それでは、願っているだけだ。
 神様に手を合わせてお参りしているだけなのだ。
 そういうものを、夢に向かう「行動」とはいわない。
・では、そうやって実現へ努力する人と、ただ憧れを思い浮かべる人と、どこが違うのか。
 もちろん、才能とか環境ではない。
 単に、夢に対する思いの強さが違うだけだ。
 本当にそれがしたいかどうか、という気持ちの強さの違いでしかない。
・「感情的になるな」は、一般的に正しい。
 しかし、違法であったり、他者に迷惑をかけるような行動を除けば、感情を抑える必要
 がない場合が多い。
 感情のおもむくまま、自分にできる範囲のことに手をつけ、可能な限り行動してみるこ
 とは、悪いことでは全然ない。
・「考える」も、僕は行動のうちだと思っている。
 ただ、ぼんやりと思い浮かべるのではなく、想像し、計算し、予測し、比較し、検討し、
 分析する。
 思考実験という言葉があるとおり、実験さで、考えることに含まれる場合がある。
・願っていることは、簡単に諦めず、とことん願い倒して、考え尽くすべきである。
 もし、本当にそれを願っているならば、それくらいのことは自然にやってしまうことに
 なるだろう。 
 抑えきれない力が、あなたをそうさせるはずだ。
・ほとんどの場合、強く望んでいない人ほど、他者に「どうしたらよいでしょうか?」
 と相談したり、「なにか良い方法はないでしょうか?」と尋ねる傾向にある。
 抑えきれない衝動を抱えている人は、そんなことをきかない。
 誰かにきくよりもさきに自分で試しているからだ。
 そして、自分で試してみれば、もっと詳細なディテールを知りたくなり、漠然とした質
 問をしなくなる。
  
・諦めるかどうかの判断の機会がなく、強制的にあきらめざるを得ない場合もある。
 たとえば、身近な人の死がこれに相当するだろう。
 長く時間をかけて、愛情を注いだ人もいるはずだ。
 最愛の人を亡くすというのは、諦めようにも諦めきれない体験といえる。
・そういった突然の喪失は、永く心の傷として残るけれど、諦めるかどうか、といった問
 題ではない。 
 はっきり言えば、諦めなくても良い。
 ずっと心に持っていられるし、それを抱いたまま生きることが、なにかの障害となるわ
 けでもない。
 「整理がつかない」とおっしゃる方もいるけれど、整理をするものでもないだろう。
・ただ、あまりにそれに囚われすぎて、時間を取られ、向かうべきものに集中できないと
 いう場合もあるだろう。 
 これはまた別の問題である。
 そういったときに「諦めろ」という言葉は、あまり相応しくない。
・くり返すが、諦めなくて良い。
 そのままで、少しずつ生活や仕事に向かううちに、しだいに癒えてくるものだ。
 つまり、「傷」と同じである。
 傷は、諦めるものではない。
 自然に治るのを待つしかないし、また、リハビリをして、普段の生活に慣れるしかない。
 
・失敗しても、諦めても、人間にはノウハウが蓄積する。
・「諦める」ことが、のちのちの利益につながるのは、諦めるものが、それなりの時間と
 労力によって作り上げられた場合である、ということだ。
・結果的に、目的実現に寄与できない失敗作であっても、ひたすら考え、誠実に作業を積
 み重ねていれば、それは「諦める」ことに値する価値を持ち、次に採用するアプローチ
 の成功率を高める土壌となる、ともいえる。
 もっと簡単にまとめると、とにかく目の前の課題に精魂込めて取り組んで損はない、と
 いうことである。 
・簡単に諦められないような取り組みをしていれば、たとえ諦めることになっても、大き
 な損はない。
 そう考えると、失敗を恐れることなく、何事にも取り組めるのではないか。
・なにも努力をしなければ、成功も失敗もない。
 誠実に生き、努力をする者は、たとえ失敗しても、どん底まで落ちることはないだろう。
 それは、目標が達成されなくても、なんらかの成果が、その人間に残るからである。

・子供から大人になる過程で、どんな人でも、自分に可能なものの範囲をだいたい認識す
 るものだ。
 だから、その時点で、諦めるものは諦めているのが普通だろう。
 僕は、子供の頃に野球ばかりしていたが、野球選手になろうとは思わなかった。
 どこかで諦めたはずだが、思い出せない。
・僕の場合、多少特徴的なのは、人からもらえる評価というものをほとんど期待しないと
 いう性格だろう。 
 どうしてこうなったのか、尋ねられることが多いので、しかたなく考えてみたのだが、
 父親の影響だったかな、とぼんやり思う程度である。
・「人を気にするな」「勝とうと思うな」「などと教えられた。
 人との比較に価値はない、のだから、競争して一番になっても意味はない、と教えれら
 た。 
・僕は自分の子供たちに、これといってなにも教えてはいない。
 まったく自由にさせていたが、二人の子供たちは、だいたい僕と同じような考えを今は
 持っているように観察される。
  だから、自然に受け継ぐものらしい、と感じている程度である。
・これは、教育というものを、僕は端から諦めていたといえるかもしれない。
 少しやんわりと言えば、教育に「期待していない」となる。
・僕は子供に期待をしなかった。
 家族というものにも一切期待していない。
 結婚をしたけれど、パートナーとなった今の奥さんにも期待していない。
 初めからしなかったつもりだ。
 たぶん、むこうも僕になにも期待していなかっただろう。
・期待をしていなければ、なにがあっても「諦める」ような事態にはならない。
 関係が破綻することもない、というわけである。
・諦められるようなものとは、つまり「期待」である。
 だから、期待をしなければ、諦めることもできない、という理屈になるだろう。
・今の社会を少しでも冷静に観察できれば、そこにあるのは、あまりにも多くの「期待」
 に満ち満ちた人間関係の幻想だろう。
 「つながりたい」「絆」「元気がもらえる」「力を合わせて」「喜んでもらいたい」
 「楽しさを分かち合いたい」といったキャンペーンが実に多い。
 みんながみんなに期待し、社会にも国にも期待している。
・期待するから、その裏返しに、不満が高まり、「裏切られた」と打ちひしがれることに
 なる。 
・打ち負かす相手を求めているところも気になるところだ。
 
諦める作法
・人は、他者によって救われることは実に稀であり、他者の援助はきっかけになるだけで、
 本人が本人を救うのである。
 病気だって、医者が治すのではない。本人の体力によって治る。
 「癒される」という言葉があるが、これれも、癒される本人が、自分で自分を癒すのだ。
・未練というのは、感情的なものであり、いわば過去の幻想といえるものだ。
 以前は価値があった。しかし今は価値がない。
 だから諦めざるを得ない。
 その残像のようなものが頭の中に残っているため、合理的な判断の正当性に対して、な
 かなか自分を納得させられない。
・この種の「どうすれば諦められるか」という問題は、気持ちの問題であり、本人が自分
 で考えて納得する以外に解決しない。
 本人がずっと悩みたければ、それに任せる方が良い。
 時間はかかるけれど、それもしかたないだろう。
・多くの場合、「どうすれば上手くいくのか」と尋ねられても、「方法」は存在しない。
 人はつい「方法」を尋ねたがる。
 「自分は方法を知らないから、こんな損をしているのだ」と思い込んでいるのだ。
 その思い込みを「諦める」しかない。
・いずれにしても確かなのは、「諦める」のは、諦めた方が良いという「判断」をその時
 点でしたからだ、という点である。
 「諦める」ことで得られるものがある、なにかの目的に近づくことができる、との計算
 があった。 
 だから「諦め」ようとしているのだ。
 そこを、今一度、自分でよく認識する。
 そうすることで自分を説得し、納得させることである。
 諦めきれない未練を断ち切るには、これしかない。
・目的に向かうためには、確かに「方法」が重要である。
 誰もが、「どうすれば欲しいものが手に入るのか」と想像するだろう。
 その方法が優れていれば、目的が達成される確率が高い。
 この想像力が、人間がここまで繁栄した理由である。
・だから、人は「どうやったら良いか?」とききたがる。
 「方法」に拘る。
 自分がやりたいことができないと、それは「方法が間違っているからだ」と思い込み、
 「なにかもっと良い方法があるはずだ」と想像する。
 これは正しい。
 いつもそれを問い続けることは、非常に重要なことだ。
  
・「諦める」のは、自分の感情をコントロールしうる行為であり、これが上手くできるよ
 うになれば、自分を思い通りにできる。素晴らしい能力を手に入れたのと同じだ。
 いろいろな場面で、有利な立場を得られるだろう。
・小さな「諦め」を重ねるうちに、大きな「諦め」も会得できるようになる。
 それにしたがって、あなたの目的は近づき、夢を達成する確率も高まる。
 そして、なにより、気持ちの良さが、自分のものになる。
・それを阻む唯一のものは、「自分は、そうはいかないんだ」という意味のない「諦め」
 である。  
 その「諦め」ができる人なら、無駄な感情に支配された自分を諦められるのではないだ
 ろうか。

生きるとは諦めること
・死を諦めている、というのは、死んだら自分はいなくなるのだから、もう自分には関係
 ないのないことだ、という割り切りである。
 「あとは野となれ山となれ」みたいな感じか。
 自分が死んだあとのことまで責任は持てませよ、という理屈は、まったく正しい。
 理論的に破綻していない。
・死を諦めていない、というのは、死んだあとのことを心配することだ。
 その心配を生きているうちにしておこう、という考え方である。
 自分の葬式の段取りまでする人がいるという。
 子供のことを考えて、いろいろな手配をしておいたりするのも、この延長である。
 自分が生きてきた証のようなものを遺しておきたい、と考えるようだ。
 お墓に拘ったりするのも、こちらのタイプだろうか。
・僕は、前者である。
 死をきっぱりと諦めている。
 死んだら、あとは野となれ山となれである。
 長生きしたいと思ったこともないし、今も思っていない。
 不思議なことに、子供のときから、ずっとそう考えてきた。
 病弱だったし、いつもどこか痛くて、気持ちが悪くて、自分は長くは生きられないだろ
 うな、と思っていた。
・僕の父も、不健康な人で、「もうすぐ自分は死ぬ」と言い続けてきた。
 そういう環境だったから、死が当たり前の日常として、今すぐにも訪れるものだ、と自
 然に認識したのかもしれない。
 その父は83歳まで生きたから、想定外の長生きだった。
 僕は、自分は60歳くらいまで生きられたから御の字だな、と思っていたのだが、すで
 に60を過ぎてしまった。これも、想定外なので、少々困っている。
・僕は墓に入るつもりはないし、僕の両親も墓に入れなかった。
 生きているときは墓に入りたかったかもしれないが、墓というのは、遺された者のため
 に存在するわけで、その判断は子孫の自由である。
・生きてきた証を遺したいとも、僕は思わない。
 なんの遺志もない。もちろん、遺言など書くつもりは毛頭ない。例外的に書き遺すとし
 たら、パスワードくらいだろう。
・葬式もしてもらいたくない。それだけは、いちおう子供たちに伝えてある。
 でも、これも僕の遺志はどうでも良いことだろう。遺族の勝手である。
・死ぬときは、人知れず孤独死するのが良いだろう、と考えている。
 どこかで野垂れ死にするのも良い。
 「良い」と書いたのは、「悪くない」からだ。
 望んでいるというよりも、それで充分だ、という意味である。
・もちろん「死にたい」とは考えていない。
 今日も明日も、来月も来年も、やりたいことが目白押しで、死ぬよりは、それをやって
 いる方が楽しい、という程度の比較はできる。
 そのやりたいことができなくなったとしても、まあ、それはそれで、しかたがないだろ
 う。   
・死ねば、なにもできなくなる。病気になれば、できないことがある。気分が乗らなけれ
 ば、できないことがある。
 そもそも、やりたくてもできないことは、いつも無数にある。
・病気になったら、できないことが悔しくて、残念な気持ちになるだろう。
 でも、死んだら、そんな悔しさもないわけで、綺麗さっぱりニュートラルとなるわけだ。
 だから、それほど悪い状況とは思えない。
・人が死を恐れているのは、突き詰めて考えると、死そのものではなく、死へ近づく時間
 を頭に想い描いているように思える。
 これから死ぬという、時間の体験をしたくないのだろう。
 それはそのとおりかもしれない。苦しかったり、気持ちが悪かったりするのは、誰でも
 避けたいはずだ。
 ならば、一瞬で気を失って、そのまま死ぬなら、問題はないのではにか。
 これは、多くの方が反論しないと思う。そういう死を望んでいる人は、わりといらっし
 ゃるようだ。
・死ぬことを忘れずに(つまり意識しつつ)生きることは、まあまあ良い方向なのではな
 いか、という気がしている。
 なにしろ、死ぬことを考えれば、生きている今の時間を楽しもう、となるからだ。
・短絡的に快楽に身を投じてしまう人もいるかもしれないが、それを悪いとはいえない。
 快楽に身を投じたまま、全然死が訪れず、長く生き続けることになって、つけが回って
 きて苦しみを味わう結果になる、という不幸が心配されるだけである。
・近頃は誰もが長生きになり、頭脳も肉体も衰えても生きている。
 一般的な傾向として、医療というのは、最小限の生命活動を維持するような処置を優先
 するものであるから、必然的に、不自由でも生かされる老人が増える結果になる。
・肉体的に不自由でなくても、頭が不自由になっている老人も増えているらしい。
 そういう姿を見ているから、自分の老後を心配し、不安を抱く人が多いという。
 お金がかかえるのではないか、誰が面倒を見てくれるだろう、と考えてしまう。
 ついこのまえまで、そういう心配をするものではない、縁起が悪い、というのが常識だ
 ったのに、もうそれどころではなくなってしまったようだ。
・僕は単なる変人であって、高僧でもなければ、徳もない。穏やかに死を受け入れる心境
 というものが、どんなものか、よくわからない。考えたこともない。
 考えるだけ無駄ではないか、と想像することはあるが、それ以上に考える気にもなれな
 い。
・せいぜい言えるのは、「死」は、誰もが一生に一度経験するイベントだ、という点だけ
 だ。
 それをどう受け止めるのかは、自由である。どのように受け止めてもよい。受け止めな
 くても良い。放っておいても、特に困ることはない。
・この「一生に一度」という言葉も、たびたび耳にするようになった。
 こういう、なんでも特別なものにしたがる症候群に、現代人は取り憑かれているようだ。
・どうしてこんなことになってのだろう。
 それは、そういったイベントを「あなたの晴れ舞台です」とスペシャルなものに仕立て
 上げることで、商売繁盛を企てる人たちが煽っているからである。
 マスコミも、宣伝費で成り立っているので、片棒を担いでいる。
・この人たちが、「経済を回さないと」と訴えたり、「元気を与えたい」と綺麗ごとをお
 っしゃるのだが、もちろん宣伝文句なのだから問題はない。
 それに乗せられる方がおっちょこちょい、というわけだ。
・葬式だって、それを商売にしている業界がある。
 遺体を火葬するだけでおしまいにできないように、あらゆる圧力をかけてくる。
 それでも、昔に比べれば簡素化されつつあり、騙される人は減っているようだ。
 そこまでは大衆は馬鹿ではない。
・何を気にしているかといえば、まちがいなく、「世間の目」である。
 しかも、その場合の「世間」とは、ごく身近な周辺、数人から多くても数十人だ。
 彼等から自分はどう見られているか、を気にしている。
 だから、それが気になって諦めきれない人は、期待に応えれば良いだろう。
 そうではなく、自分の自由にしたい人は、その周辺の人たちを諦めれば済む。

・人生は、やはりそれぞれ個人のものである。
 孤独を極度に恐れているようだが、それは、誰もがまちがいなく正真正銘の孤独だから
 だ。 
 大勢に囲まれていると思っているかもしれないが、それこそが幻想である。
 自分がみんなに理解されている、みんなから好かれている、という幻想にすがっている
 だけだ。なにしろ、他者の考えを知ることは不可能なのだから。
・自分の考えしかわからない。自分としか正直な対話はできない。自分だけが自分を理解
 している。それが普通なのだ。
 だから、全員がまちがいなく孤独死する。それが人間の人生である。
・孤独を恐れている人は、過去のどこかに一時的にあった賑やかな環境、大勢が集まって
 一緒に活動していた雰囲気、その楽しさが諦めきれないのだろう。
 誰でも、そういった賑やかさを経験する。
 しかし、それは長くは続かない。一時的なものだ。カップルであっても、また家族であ
 っても同様である。
・よく思い出してみると、そんな時期にも一人の時間があったはず、仲間と上手くいかな
 い時期もあったはずだ。   
 だが、どういうわけか、そういった都合の悪い部分の記憶は、無意識のうちに陰蔽され
 る。本能的な精神の防衛反応のためだ。
 つまり、良い思い出ばかりが繰り返し再生されるので、懐かしい思い出は、どんどん楽
 しいものになる。
・そういった楽しい経験が、忘れられない、諦められない。
 今の自分は、それに比べて寂しすぎる、と思えてしまう。
 そこにまた無理が生じる。
 それ自体がストレスになる。
・まず、自分が老人であることを自覚し、老人は寂しいものだと諦めること。
 否、老人だけではない。人間は寂しいものだ。人間なんだから、寂しさくらい我慢しよ
 う。 
・寂しさを紛らわせるために、無理に誰かとつながろうとか、賑やかな場所へ出ていって
 語りたがる老人は、だいたい疎まれる傾向にある。
 なぜなら、誰の目にも、それが不自然だと映るからだ。
・老人というのは、死期が近づいた人のことである。
 少しずつ、生きることを諦めつつ、穏やかに生きていれば、人生の最期を迎えるときで
 も、微笑んでいられるのではないか、と僕は思っている。

変化を選択する道について
・幸福感というのは、仲間と分かち合うものではない。
 自分の中で生まれ、外に出ていかない。自分の中で完結している。
 ここに注意が必要だ。
 同じ楽しさを味わっているように見えても、それぞれに満足度は異なる。
 だから、パートナーと一緒に、家族みんなで、仲間と一丸となって、と考えているとし
 たら、そこは注意すべきである。
・「え?分かち合えないなんて、寂しい」とおっしゃるかかもしれない。
 そのとおり、人間とは、寂しいものである。
 その本質を忘れようとして、集団の幻想が生まれる。
・みんなで分かち合おうと、ネットで広く伝えようなどとも、考えないほうが良い。
 そういうものは、本当の幸福感とはいえない。
 みんなが注目している、という幻想を抱いて、自分がスターになったような気分を味わ
 いたい人が、この頃多いけれど、それは、そういうスターを見て憧れているだけのこと
 で、スターは実はそんなもので幸福を感じていないはずである。
・スターは、「ファンのおかえです」「多くの皆さんに応援していただき感謝します」と
 いう言葉を発する。  
 大勢の声援に満足しているのだな、とファンは自然に信じる。
 実際はそうではない。
 スターは、自分の仕事を自分で評価して満足しているはずだ。
 そうでなければ、一流には到底なれないからである。
 
・ユニクロに行けば、たくさんのカラーのシャツを選べるだろう。
 クレヨンも色鉛筆も色数を誇って箱に並んでいる。
 そういうものに慣れ親しむと、色を混ぜ合わせて、自分の色を作る作業を忘れてしまう。
 そんな発想さえしなくなる。
 その間に存在するものは、もともとないものになるのだ。
・結果として、「自分なり」のものが、消えているのである。
 親切にも世の中は、「その色はありません。諦めるしかありません」とあなたに教えて
 くれる。 
・なんだか少し違うような気がするけど、まあいいか、と諦める癖がつく。
 色を「選ぶ」ことに比べて、色を「作る」ことは、格段に面倒で、時間もお金もかかる
 うえで失敗も多い。
 だから、誰も作らなくなり、選ぶだけになる。
・ここで本当に失われるのは、その色を作るために必要だった人間の「感覚」である。
 見極めること、違うと判別すること。そして、何が不足しているか、どうすれば「自分」
 が思ったものに近づくのか、という考える力である。
 誰も「諦めた」わけではないが、知らないうちに、自然に「諦め」させられているので
 ある。  
・自分の色を、並んでいるものの中から探し出すことを諦めれば、結果として、自分の色
 を見つけることにつながる。
 どこにもなければ、作るしかないからだ。
・「この色はどうでしょう?」と他者に問いかけたりしないことである。
 自分で判断する目を育てることが、色を作る能力の本質だからである。
・新しいものを得るためには、なにかを諦める必要がある。
 その新しいものとは、あなたの心の中にずっと、子供の頃から眠っていたものである。
 それを思い出し、心の中から取り出し、このリアルの世界で具体化する、それが「作る」
 という行為だ。
   
他者に期待しない生き方
・僕は、「なにものにも拘らない」ことを信条としているが、それは僕が拘り屋だからで
 ある。
 放っておくと、とことん拘ってしまう人間なので、自分に対して「拘るな」といつも言
 い聞かせて、ちょうど良いくらいなのである。
・僕は小説家に憧れてなったわけないし、すでに生活を維持するのに充分な定期収入があ
 ったから、小説家として失敗したところで失うものがなにもない、という気楽な立場だ
 った。
 好き勝手に書けたのは、そういう条件だったからだ。
 さらに、これまた幸運なことに、そういう周囲に忖度しない小説家が珍しかったのか、
 そこそこコンスタントに本が売れて、そのまま現在に至っている。
・なにも変わっていない。
 大金を手に入れたが、最初の目的どおり、土地を買って、そこに線路を敷いて遊べるよ
 うになった、というだけである。 
・生活はまったく変化がない。
 僕の家族も全員、以前のまま、同じである。
 パーティも開かないし、外食もしない。
 洋服は買わないし、投資もしない。
 だから、お金は貯まる一方である。
 なんというか、はっきりいって、金の使い道がない。
 もともと、そんなゴージャスな生活を期待していないので、想像も準備もしていなかっ
 たのだ。 
・若い頃から、人の上に立つことが嫌いだった。
 目立ちたくない。
 大勢と一緒にはいたくない。
 一人で静かに模型を作っていたい。
 一人で飛行機を飛ばして遊んでいたい。
・あまり異性にも興味がなかったのだが、そういう人間が珍しがられたのか、何人かの女
 性とデートくらいはしたことがあった。
 誰もあまりぴんとこなかったのだが、一人だけ、僕が18のときに会った女性が、
 「この人はちょっと違うな」と感じたので、興味を持った。
・三回目に会ったときに「結婚しないか」と話したら、彼女は頷いた。
 それが今の奥様である。
 まったく性格も嗜好も一致しない。
 話も合わないのだが、45年ほど一緒に暮らしている。
・共通していることは、金に興味がなく、ただ自分が好きなことをしていたい、という点
 くらいである。   
・したがって、家族というものを夢見たこともなかった。
 実は、結婚しても何一つ期待していなかった。
 彼女は子供が嫌いだと話していたので、それは僕もだ、と応えた。
 子供なんかいらないし、料理を作らなくても良い。
 洗うのが面倒だから、紙コップと紙皿で生活しよう、と提案した。
・だが、これは計画どおりにはいかず、彼女は料理をするようになり、毎日僕はそれをい
 ただいている。 
 子供も二人生まれて、今はもう三十代だ。
・僕の特徴的なところは、他人に期待しない、ということだ。
 理解を求めることもしないし、こうなってほしい、こうしてほしい、という欲求もない。
 その人が好きなようにすれば良い。
 そのかわり、僕のことを放っておいてほしい。
・家庭内では、各自が勝手な時間に起き、勝手なスケジュールで生活する。
 カレンダーに出かける予定くらいは書いておいてほしい、という要求がせいぜいである。
・家族の「絆」なんていらない。
 それよりも、お互いに自由を尊重するということが大事であり、それがわが家の「愛」
 であり、もしかしたら、「絆」といえるかもしれない。
・多くの「諦め」は、期待から生まれる。期待が大きいほど、大きな落胆を味わって諦め
 なければならなくなる。
 期待したのは、自分の欲望であるが、特に他者に向かった欲望は、どうしてもくずれて
 くる。
 その人にはその人の生き方があり、自分とは別の人間だからだ。
 いくら血がつながっていても、同じ人間ではない。
 まして、血がつながっていない他人ならば、なおさらである。
 それなのに、人間は他者に期待しすぎる。
 そこをもう少し誰もが考え直したほうが良いだろう。
・争いが起こるのも、期待の裏返しである。
 仲が良かったから、仲たがいになる。
 関係があったから喧嘩になる。
 お互いが期待し合い、自分がイメージした見返りを夢見ているから、いつかは、その幻
 想を諦める結果が訪れる。

・「つながりたい」が、今は子供のうちから目の前にある。
 「社会」というものに対しても、まるで視界が広く展開したように錯覚するだろう。
 大勢が「つながり」を求めている。誰かと「つながりたい」と呟き合っている。
・つながることが、自分にとって有利であり、また精神的にも安定させる、という期待を 
 大勢が抱いている。
 この「期待」が叶えられることはたしかにあるだろう。
 だが、叶えられないことも当然ある。
 あるときは、トラブルになり、「誹謗中傷」「いじめ」あるいは「詐欺」といった闇に
 陥る。
・注意すべきなのは「期待しない」こと、つまり最初から「諦めて」つき合いこと。
 これこそ、「人づき合いの極意」ではないか、と常々思うところである。
・「親しくなる」というのは、「期待する」にわりと近い。
 「頼りになる」というのも同じだ。
 「信頼を得る」というのも、「期待される」とほぼ等しい。
・自分が「信頼させる人間」になるのは問題ない。
 ただ、期待される人間になると、周囲は、あなたに過剰な期待を寄せるかもしれな
 い。
 そういった場合に、その過剰さより少ない成果しか出せないと、「期待を裏切られた」
 と言われてしまうだろう。
 期待からは、そういったトラブルがどうしても生じる。
・自分が期待されるのは、防ぐことは難しい。
 「期待しないでほしい」と伝える以外にない。
 だが、自分が相手に期待するかどうかは、コントロールできるので、とにかく、他者に
 期待しないように気をつけるようにしたい。
 どうしても、無意識に期待をしてしまいがちだが、それが過剰な期待になっていないか、
 どきどき意識して確認すべきだ。
・誰かのちょっとした言動に腹を立てたときに、少し立止まり、振り返って考えてみよう。
 なぜ自分は怒ったのだろうか、と。
 それは、相手に期待をしているからではないか。
 相手にこうあってほしい、と勝手に考えているのではないか。
・特定の個人に期待を寄せるのではなく、漠然とした周囲のみんなに期待するような場合
 もある。  
 特に、ネット社会になって、これが顕著に観察される。
 軽いものが多いけれど、たとえば、「みんなが注目してくれたら良いな」といった感情
 である。
・全然悪くない、普通じゃないか、と思われるだろう。
 ところが、そういった感情が知らず知らず強くなって、自分がしたいこと、自分が楽し
 めることよりも、周囲の注目を優先するようになり、いささか度を越しているのではな
 いか、と思われる場合が散見される。
 食べるものも、買うものも、すぐに写真を撮ってネットにアップし、みんなに報告して
 いる人を見かけるが、周囲から「いいね!」をもらうために生きているみたいだ。
 そういう趣味なんだろうな、と思うしかない。
 本当に自分が好きなものを食べたり、買ったりしているだろうか?
・人に見せる習慣に一度染まると、無意識のうちに、見せられるものを選ぶようになる。
 見栄えがするもの、大勢に受け入れられるもの、わかりやすいもの、短期間で変化があ
 るもの、みんなが びっくりするもの、が増えてくる。
・世の中には、もっと深もの、地味でわかりにくいもの、一見変化がないもの、長く続け
 ているうちに活路が見いだせるものがある。
   
・現代人は「つながりたい症候群」で病んでいる。
 スマホを切ることができない。
 かつては、「無人島」へ行くなら何を持っていきたいですか?」という質問が流行った
 が、現代人は「スマホに決まっているじゃん」と答えるだろう。
 おそらく質問がこう変わるはずだ。
 「スマホが使えないとき、何をしたいですか?」
・都会というのは、他者に依存する装置であり、都会に住むことは、ネット社会と同じメ
 カニズムで、少なからず他者へ期待を増幅させる。
 他者を諦めきれない人が、都会に集まっている、ともいえるからである。
・これに対して、「それは逆だろう。田舎の方が人同士のつながりが強く、共同体を重ん
 じているのではないか。都会は、個人として生きられるようにシステムができている」
 と反論する方もいらっしゃると思う。
・それも一理ある。そういった面も確かにある。
 僕は、人とつき合いたくない個人主義の変人であるから、一人で生活をするなら、絶対
 に都会だな、とかつては考えていた。
 都会というのは、隣の人と話をすることもないし、会話をしなくても買いものができる。
 たとえば、言葉が通じない土地で生活するとしたら、絶対に都会になる。
 田舎では、人とコミュニケーションが取れないことは死活問題となるからだ。
・では、なぜ、都会ではそのような個人主義が可能なのだろうか?
 それは、人間の代わりに機械や制度が援助してくれるからだ。
 お金を出せば、どんなことでもやってくれる仕組みがある。それが都会だ。
・これは面と向かって人とコミュニケーションを取る面倒を排除しただけのことで、自分
 以外の他者に依存していることに変わりはない。
 つまり、都会は周囲の装置に期待した仕組みなのだ。
・他者に依存すること、他者に期待することが悪いのではない。
 人間は、そうしないと生きていけないのは事実だ。
 社会は、他者依存で成立している。
 しかし、その状況や関係性を忘れてはいけない、ということである。
 人の姿が見ているうちは心配ないが、周囲が「装置」になると、他者の存在を忘れてし
 まう。それが都会の危うさである。
・都会でも、田舎でも、自分がいかに他者に依存し、期待しているか、と自覚することが
 大事だと思われる。自覚していれば、そういった期待が失われたときに、諦めがつくし、
 対処も的確にできるだろう。
・諦める能力とは、つまりは、次のステップへすぐに移れる身軽さを意味する。
 諦めれない時間は、判断を遅らせ、新しいものへの備えが間に合わなくなる。
 突き詰めると、頭の固さが、諦めきれない主原因といえるだろう。
・だから、日頃から自分がどんな状況にあるのか、高い視点で観察して、客観的な判断が
 できるように心の準備をしておく。
 そのために必要なのは、悲観的な予測と、柔軟な思考だろう。
 それが、「諦めの極意」である。
 
あとがき
・諦めることは、失うことではない。負けを認めることでもない。
 「わきまえる」ということではないか、と思う。
・自分の能力や、周囲の環境などを客観的に知ることで、無駄な労力をかけるまえに退く
 ことは、むしろ勝つための戦略ともいえるものだ。
・負けたくないから戦わない、というと「勇気がないのか」と顔をしかめられるかもしれ
 ない。  
 だが、被害を出したくないから、戦争を回避することが「平和」を維持する方針である。
 この場合、諦めることは、まぎれもない正義といえるのではないか。