白い宴 :渡辺淳一

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この作品は、いまから53年前の1969年(昭和44年)に発表された「小説・心臓移
植」を改題・加筆して再出版したもののようだ。
内容は、1968年(昭和43年)8月に札幌医科大学が行なった日本初の心臓移植をド
キュメント風に小説化したものだ
この日本初となった心臓移植は、当時、大きな衝撃を日本社会に与えた。私も当時、この
心臓移植がテレビのニュースで伝えられたときの情景が、未だに記憶の奥底に残っている。
この心臓移植が衝撃的だった理由は、人間の肉体のみならず精神の中枢と考えられていた
心臓を、他の人間に移植するということの是非であったと思う。いくら医学が進歩したか
らといって、心臓を移植するという行為は、人間の生命の尊厳を、逆にないがしろにする
行為ではないのかという疑問があったのだ。
さらに、心臓を提供する側の「死の定義」という問題があった。当時はまだ、死の定義と
しては心臓の鼓動の停止というのが一般的であった。しかし、この移植手術に際しては、
脳死」という新しい死の定義が使われた。これによって、「死とは何か」という大論争
がまきおこったのだ。
そういうことを考えながらこの作品を読むと、この心臓移植には、二つの大きな問題があ
ったのでは、と私には思えた。その一つは、提供者の死の判定の問題である。提供者の心
臓は、まだ明らかに動いていた。それを、脳は死んでいるからと死の判定をするわけだが、
しかもそれを脳の専門医ではなく胸部外科の専門医が勝手に判定したのだから、それは明
らかにおかしいと思える。さらには、脳死の根拠となる脳波などのデータも取っていなか
ったようだ。
もう一つは心臓移植を受ける者の側の問題だ。この作品を読むかぎりでは、主治医だった
内科医の見立てでは、心臓移植をするほどまで悪い状態ではない人に、心臓移植を行なっ
たことになっている。実際に、どうだったのかは、悪いとされる移植前の心臓を解剖して
みればわかると思うのだが、それについてはこの作品の中では触れられていない。
そういうこと以外にも、この作品を読んで考えさせられたのは、心臓を提供する側の家族
や提供を受けた家族の堪えがたい苦悩だ。移植手術を執行した医師たちは、心臓移植に前
のめりになりすぎて、これらの家族の苦悩に対する配慮が欠けていたのではないかと思わ
れた。これでは誰のための心臓移植なのかわからなくなる。
この心臓移植手術を行なった教授は、その後刑事告発されたようであるが、嫌疑不十分で
不起訴となったようだ。しかし、この日本初の心臓移植は、その後、大きなわだかまりと
なり、1999年までの31年間、日本では心臓移植手術が行なわれることがなかったよ
うだ。
もっとも臓器移植法(1997年)が施行された後後は、徐々にだが行なわれるようにな
り、2019年には84例が行なわれたようだ。移植後の5年間生存率も90%以上とな
ったようだ。
ずいぶん多くなったと感じる。しかし、提供者の側になるにして提供される側になるにし
ても、心臓移植には、相当の覚悟と心の準備が必要だと私には思えた。
ところで、この作者の作品にはかならず、これは作者自身のことではないかと思われる人
物が登場する。当時作者は、この心臓移植が行なわれた札幌医大の整形外科講師だったよ
うだが、そのような人物はこの作品の中には登場してこない。しかも、この作者の得意と
する女性との赤裸々な関係のシーンも少ない。唯一、富塚という新聞記者と伴野絹子とい
う看護婦との関係だけである。ということは、この新聞記者という形で作者自身を登場さ
せているのではなかろうか。私にはそう思えたのだがどうだろうか。
先般読んだ作品「何処へ」のコメントにも記したように、この作者は、「小説・心臓移植」
を発表後、医科大にいづらくなり、医科大講師の職を辞して東京に出て作家活動に専念す
ることになったようだ。作者はべつに、告発のつもりでこの作品を発表したわけではなか
ったようだが、この本を読むと、告発と受け止められても仕方がなかったようにも思える。
しかし、この作品によって、一般の人々の多くに、心臓移植というものが、多くの問題を
抱えているのだということを、気づかせることとなったのではなかろうか。


<第一部>

蘭島海岸は北海道の西部、日本海に面した海水浴場である。車で札幌から一時間半、小
 樽からは二十分という距離にあるが、最盛期の日曜日でもせいぜい七、八万、平日は一
 万前後の人手で札幌近郊の海水浴場には及ばない。蘭島の方が水も砂浜もきれいなこと
 は分かっていても、札幌の人はつい、車で三十分で行ける大浜や銭函といった海水浴場
 へ行ってしまうし、小樽にはさらに近い朝里、熊臼といった海水浴場がある。
・「泳がないか」江口克彦は、テントの中で横になってラジオを聞いている沢田研一に声
 をかけた。沢田は克彦と同じ東京のR大学の四年生で年齢も同じ二十一歳であった。
・克彦は首を左右に振り、それから両手を真上に上げると思いきり後ろへ反り返った。続
 いてその位置から一気に前へ屈み込んだ。空と海が一転し、砂地が目前に迫った。瞬間、
 克彦は軽い眩暈を覚えた。もとの姿勢に戻すと彼は息と止めて海を見つめた。それから
 二度ほど大きな呼吸を繰り返した。眩暈はすぐに止まった。
・克彦は泳ぎは格別上手ではない。自由型は二十メートルもやると息がつまったが、平泳
 ぎなら急ぎさえしなければ、二、三百メートルは泳ぐ自信があった。
・「じゃ俺はテントにいるからな」「もう少し泳いでからいくよ」うなずきながら沢田は
 克彦の唇が少し蒼ざめていると思った。
  

・沖から三十メートルのところを中学一年生の少年が泳いでいた。少年は浜っ子らしく真
 っ黒に日焼けした顔を上に、沖へ向かって背泳ぎの姿勢で手を使わずに浮いていた。
・瞬間、少年は右の足元に鈍い抵抗を感じた。不思議に思って少年は寝泳ぎから立泳ぎに
 かえた。
・波が目の高さに近づいた時、目の前の水面が青黒く変色し、黒ずんだ横長の物体が水中
 に浮かび上がってくるのが見えた。波とともにそれは一気に少年に近づき、寄り添うよ
 うに彼の肩に触れた。それに合わせて黒い頭髪が左右に揺れた。
・「人だ・・・」咄嗟に少年は息をつめた。少年は狂気のように四肢を振り回すと十メー
 トル先の小舟めがけて泳ぎ出した。舟には三十くらいと高校生らしい二人の男が櫂を休
 めて仰向けに寝ころんでいた。
・「おじさん、おじさん」「人が溺れている」「あそこ」少年は蒼ざめた顔で十メートル
 先の海を指した。
・二人が少年の示した場所へ着いた時、溺水者はうつ伏せの形で水中に浮いていた。
・それから十分後に、二人はようやく波打際から三メートルのところに溺水者を運び上げ
 た。すぐ、まわりを海水浴客がとり囲み、そのなかの一人が日赤救護班のいり小屋へ駈
 け出した。
・舟に乗っていた三十近い男は蘭島で漁師をしていた。漁師は腹に跨り人工呼吸を始めた。
・それから五分ほど経ってから、荒い息遣いと同時に、三人の警官と腕章をつけた救護班
 の医師たちが駆け付けてきた。
・「どうですか先生?」先生と呼ばれた男は溺水者の左手の脈を探り、それから聴診器を
 胸に当てた。そのまま、まわりの者が溺水者の鼓動を求めるように黙り込んだ。
・やがて聴診器を離すと若い医師は一寸首を傾けた。まだ二十四、五歳の青年であった。
 「ないようだよ」「駄目ですか」若い医師は聴診器をまるめながらうなずいた。
・警官が言った。「救急車を呼ぶように手配してくれ」
・奉仕団員が酸素ボンベを開き右の鼻孔からチューブをおし込んだ。
・若い医師はもう一度脈を探ってみたが、やはり前と同じに触れなかった。
・「溺れたんですか」突然麦藁帽をかぶった中年の男が人垣の中から身を乗り出して聞い
 た。「僕は小樽療養所の医師だけど・・・」自分で名乗ると男は溺水者の横に屈み込ん
 だ。その医師は脈を探り、それから横にあった聴診器を耳にかけた。
・「どうも・・・よくないな」しばらくして顔を上げると彼は言った。
・無言のまま医師は聴診器を戻し、一寸溺水者を見詰めてから人垣を離れていった。
・「注射をしたらどうですか」最前列で見守っていた年輩の男が言った。若い医師は促さ
 れたように聴診器を当てた。初めはわずかながら聞えたようにも思った心音が、今は
 まったく聴きとれなかった。こんな状態で注射して効果があるのかどうか、彼には自信
 がなかった。
・奉仕団員に言われて若い医者は仕方なさそうに救急箱を開いた。強心剤にビタカンとテ
 ラプチクがあったが、テラプチクを彼はまだ使った経験がなかった。
・無駄だと思いながら彼はビタカンを注射筒につめた。針はぶすぶすと上腕に抵抗もなく
 入った。痛みに反応して起る皮膚のひきつる反射もなかった。それに死人に注射してい
 るのと同じだった。
・「先生のお名前は?」先程から聴診器を当て、脈を探っていた若い医師に村井巡査がた
 ずねた。
・「K医大、医学部四年、中林敬三 二十五歳」
・国道の方から救急車のサイレンが聞えてきた。皆が一斉に音の方を振り返った。救急車
 は運転手に救護人二名の三人編成であった。
・「誰か乗りますか」「先生、乗ってください」「じゃ」「お願いします」
・車の中では丸顔の男が人工呼吸を続け、若い男が酸素ボンベを支えていた。医学生の中
 林は黙ったまま 溺水者を見詰めていた。
・「先生、能登病院に行きますから・・・」突然、運転手が中林に言った。
・偶然だが、中林は夏休みに入ってから一日おきに小樽の能登病院で当直のアルバイトを
 やっていた。そして日中は八月からこの蘭島海水浴場に仮設された日赤救護所にアルバ
 イトに来ていたのだった。
・能登病院は小樽の駅の近くに古くからある病院だった。院長は六十近く、内科が専門だ
 が、札幌の大学から外科医を応援に頼んでいた。病床は百床をこえ、小樽の個人病院で
 は二番目に大きかった。
・突然、人工呼吸をしていた若い方の男が声を上げた。「先生、呼吸をしているんじゃな
 いですか」
・いわれて中林と丸顔の男が、両側から溺水者を覗き込んだ。たしかに青年の胸はかすか
 に動いているように見える。中林は慌てて聴診器を当てた。低く不規則だがまさしく心
 臓の音である。聴診器を耳にかけたまま放心したように彼はその胸元を眺めていた。浜
 では確かに聞えなかった。聴診器をいくら強く押し当てても音はなかった。それが何故
 動き始めたのか、医学生の中林には理解できない。すべてが初めての経験であった。
・二人が交互に胸に耳を当てた。聴診器がなくては心音は聞きとれないが、胸が呼吸とと
 もに上下するのは二人にも分かった。
・「助かるかもしれませんよ」若い男は再び胸を圧し始めた。
・五分もしないうちに黒ずんだ唇にかすかに赤みがさし、顔に血の気が甦ってきた。脈も
 触れる。生きている、とすると砂浜では本当に死んでいたのではなかったのか。中林は
 不気味なものを見るようにもう一度、青年の顔を覗き込んだ。
 

・救急車が着いた時、能登病院は午前の外来が終わり、職員は食事をとっているところだ
 った。
・「なに、車の中で生きかえった?」外科の辻本医師は飯を口に含んだまま大声をあげた。 
・患者はそのまま外来の処置室に入れられた。辻本が診ても呼吸と心臓は、なお微弱だが
 確かに動いている。脈も触れた。血圧だけは、六十でかなり低い。
・「アドレナリン」点滴に昇圧剤を加え、さらに強心剤をうつ。それにつれて青年の顔は
 皮を剥ぐように赤みが加わり、手足にも温かみが甦ってきた。
・三十分して辻本が二度目の血圧を測りかけた時、一人の青年が現われた。「蘭島で溺れ
 た患者の友人ですが、江口君は・・・」大柄な青年の声は震え、顔は蒼ざめていた。
・「死んだのですか」「まだ大丈夫だ」「君はこの人の友達?」「そうです。沢田研一と
 いいます」「この患者は?」「江口克彦です。僕と同級生です」「君はこの人が溺れた
 時、浜にいなかったの」「実はテントで寝ていたんです」
・午後三時半に患者の両親が駆けつけてきた。
・江口克彦は眠り続けていたが、呼吸は自発呼吸で、心臓は二段構えの軽快な正常の心音
 に戻っていた。 
・青年が何分間、水中にうずくまっていたかは分らないが、浜に運ばれた時、呼吸も心音
 も消え、瞳孔が散大していたのは間違いないことのようである。中林は経験の少ない医
 学生だが、呼吸や心音の有無といった初歩的なことを見逃すわけはない。事実、小樽療
 養所とかの医師、これはかなり年輩らしいが、その人も駄目だと言ったらしい。しかし
 辻本は、奇蹟的に蘇生したという例をなにかの本で読んだおぼえがあった。その本には
 こうした例を「よみがえり」と総称していた。
・最近、米国では絞首刑を含めて急性事故死の死体を収容する寝棺には、内側から押しボ
 タンを付けたものを用いている。これまで二名の事故死患者が内側のボタンベルの合図
 により、寝棺から救出され、蘇生している。
・病死ではない偶発の事故死にはこの種の奇蹟があるらしい。心臓だけがやられて他の臓
 器が元気な時には往々にしてこんなことがあるらしい。溺死、窒息死、ショック死とい
 った事故死では、諦めず蘇生をくり返すべきだということになる。それは死ではなく仮
 死とでも言うべきものである。
・脳の細胞は体のなかで最も高級で、それだけに最も脆い。手足なら四、五時間血行を止
 めても後で血が行き渡れば元に戻るが、脳はそんなわけにはいかない。脳の血行を完全
 に遮断してなんの後遺症も残さずに恢復できる期間はせいぜい十分以内である。その間、
 脳は酸欠状態になり、その時間が過ぎると脳細胞は部分的に死に始める。それかれでは、
 いくら血の巡りがよくなり、酸素を送り込んでも脳の細胞は恢復しない。
・青年の場合、心音と呼吸が戻り始めたのは救急車が長橋のカーブにさしかかった時だか
 ら午後一時十分である。午後零時に溺れたとして一時間少しの時間が経っている。溺れ
 始めてからしばらく、心臓は微弱ながら動いていたと考えても、三十分以上は完全に停
 止していたとみなければならない。はたして脳のなかでも最も高度な大脳の細胞が、そ
 んなに経っても甦るものだろうか。
・辻本は右の人差し指を、閉じられた患者の睫毛に近づけた。指先が触れた瞬間、睫毛は
 素早く瞬きをくり返した。手で眼を遮り、急にライトの光を当てると瞳孔は絞られたよ
 うにまわりから収縮した。反射は正常である。
・四時半に辻本は院長室にいた。院長の能登誠一郎は、昼からロータリークラブの会合に
 出て、三時過ぎに戻ってきたのだった。
・「急患で溺水者が入っているのですが」「浜では仮死状態だったらしいのですが、ここ
 に着いた時は軽く自発呼吸がありまして、今は呼吸も心音も良好です」
 

・能登院長が外科病棟詰所に現われたのは五時半であった。
・病室には克彦の両親に加えて妹が来ていた。依然として患者は眠り続けていた。院長は
 克彦の胸元を開き心臓に聴診器を当てた。
・「まだ呼んでも答えないのですが、脳がいけないのでしょうか」「もう少し様子を見ま
 しょう」
・「二十一歳か・・・」院長は腕を組み、思いきり椅子に背を持たせると目を閉じた。


・N新聞記者、富塚健太郎が小樽警察署の記者クラブで救急車の出動を聞いたのはその日
 の夜、午後七時であった。
・「昼間溺れた患者を札幌の大学病院に運ぶよう緊急依頼があったのです」 
・「能登院長の説明では夜に入って急に容態が悪くなったそうです。肺炎も起きてきて呼
 吸が苦しいそうです」
・「大学病院には高圧酸素室ってのがあるそうです。そこに入れると助かるかもしれない
 というのです」
・「しかし溺れた患者を大学に運ぶなんてこと、今までありましたか」「初めてだよ」
 「高圧酸素室が出来たからじゃないですか」「それは一体、いつからあるんです」「今
  年の三月かな」


・午後七時に札幌にある北日本血液センターの当直室の電話が鳴った。
・「K医大胸部外科ですが、AB型の血液十本ほど用意してくれませんか」
・一本は二百ccである。十本で二千ccになる。大変な量であった。
・二千ccといえば大人の全血液量のほぼ半分に当たる。こんなに大量に血液を一度に使
 う手術とは、どんなものだろうか。


・救急車は夜の札幌国道を疾駆していた。車の寝台に克彦は仰向けに寝ていた。二人の救
 護人は無言のまま克彦をはさんで坐っている。あとに十分で着く、救護人は後ろを振り
 返ったが、患者の家族が乗ったはずのタクシーは遅れたらしく分からなかった。
・その日、八月七日の救急部当直医は脳外科に二年前に入局した柚木良幸であった。
・どやどやと音がして救急外来の玄関口に話し声が聞えた。何事かと廊下に出ようとした
 時、胸部外科の医師が二人入ってきた。
・救急車の着く入り口にはさらに五、六人、同じ胸部外科の医師たちがたまって立ち話を
 している。救急外来に一つの科の医師がこんなにたくさん集まってくることは珍しかっ
 た。
・「何かあったんですか」「救急患者が来るんだけどね。知っている病院から直接頼まれ
 たので僕等がやるから」
・時間外急患であれば本来、一旦は救急部の医師が見なければならないことになっていた。
 それを、わざわざ胸部外科の連中が玄関口まで迎えに出て、彼等自身でやってくれると
 いうのだから、こんなありがたいことはなかった。
・「なんの患者ですか」看護婦がたずねた。「なにか、直接、胸部外科が頼まれた急患ら
 しい」答えながら柚木も興味をかられた。
・「すぐ手術場に、それから気管切開の用意をして」中尾助手が叫んでいる。「教授に連
 絡して」 
・脳外科の研究室に柚木が着いた時、電話がなった。「私、N新聞の富塚というものです
 が、溺れた患者の容態はどんなものでしょうか」「溺れた人なの?」
・思いがけないことであった。胸部外科に送られてきたのだから何処かの病院で開胸手術
 に失敗したか、肋骨でも折って肺臓損傷を起こした患者なのかと思っていた。溺水患者
 なら胸部外科より、むしろ蘇生学を受け持つ麻酔科の患者のように思えた。
・「高圧酸素室に入れると聞いたのですが」「高圧酸素室?」
・「高圧酸素室というのはどういう役目をするのですか」記者は柚木の動揺にかまわずた
 ずねてくる。受話器を持ったまま柚木は戸惑った。
・これまで溺水者を高圧酸素室に入れたという例は聞いたことがなかった。全身の広い火
 傷で、皮膚呼吸が損なわれた時とか、手足の血管の血の巡りが侵されるような病気の時
 には、よく高圧酸素室が利用される。気管が切開され、気道から充分な酸素が送り込ま
 れる状態なら、あえて高圧酸素室に入れる必要もないのではないか、柚木にはそう思え
 た。
・「僕は脳外科の者ですからよく分かりません」


・その夜、医大附属病院の中央手術場では大久保邦子、池上照代の二名の当直が残ってい
 た。大久保は正看で、池上は準看である。
・大久保が風呂に入り、池上が留守番をしている時、胸部外科から電話があった。「急患
 が来て気道切開をする予定だから準備をしておいてくれ」
・池上照代は手術器械室にゆき、切開セットを用意した。
・わずかに開かれたドアから照代は手術室を窺った。十人近い医師が詰めかけている。覗
 いただけで中の緊張した空気がわかる。教授がわざわざ出てきているところをみると大
 手術が始まるかもしれない。照代は急いで当直室に戻った。
・「どうして七番にいれたのかしら、二番も大手術場も空いているのに」
・胸部外科の大きな手術はほとんどが大手術場か、二番の手術場でおこなわれた。そのい
 ずれかの方が室内に人工心肺やカテーテルが常備され器械室にも近くてなにかと便利だ
 った。七番は手術場としては大きい方で、学生のための見学室もついているが、主に腹
 部の内臓外科の手術に使われる部屋だった。
・患者待合室には四人がかたまって坐っている。両親と妹と弟らしい。手術場から出てき
 た照代を医師とでも思ったのか四人は一斉に顔を上げた。患者の家族と知って照代は眼
 をそらした。


・重藤庸介は教授室の中を檻の中の獣のように歩き続けていた。
・小樽の能登院長から電話を受けたのは午後六時であった。院長の説明は聞いたが、自分
 の眼で診てみないことにはなんとも言えなかった。
・それから三時間経っていた。重藤はいま、手術場でその青年を充分すぎるほど診てきた。
 診ながらさまざまなことを考えた。あらゆる場合を考えたが結論は出なかった。
・彼は頭の中で心臓移植を必要とする四つの場合を次々と思い浮かべた。あの子、佐野武
 男は第三の多弁心臓病の場合にあてはまる。内科ではいま以上には治しえない。あのま
 ま生きていても正常な社会人としては活躍できない。生きているというだけで社会的に
 は俳人だ。このまま生きてきても何時か絶望して自殺するかもしれない。いや必ず自殺
 するのだ。
・重藤は手術場で医師に囲まれたまま眠り続けている蒼ざめた青年の顔を思い出した。い
 ま重藤の前に豪奢で華麗な医学の壁がある。壁は聳え立ち彼を見下ろしている。冷徹で
 傲慢な壁である。これまで人間が何度も挑んで拒まれた科学の壁だ。振り落とし、見下
 しながら壁はなおも来れるなら来てみろと誘う。素知らぬふりをしながら、その実、エ
 ベレストのような魅力を秘めて重藤をおびき寄せる。
・あの青年は恢復しない脳死の状態で、だから死と認定し、もう一人の少年は寝たままで
 治る見込みはなく、そしていま俺が手術をすれば、いや、やらなければ二人の青年は助
 からない・・・、だが法的には・・・学会の空気は・・・大学の大勢は・・・。さまざ
 まな思いが重藤の脳裏を横切り、渦巻き、やがてある一点に集約していく。
・脳波が消失し、また、人工呼吸がもはや、何の役にもたたないときは、その患者の心臓
 を取り出してもよいだろう。すなわち重症で恢復不能の脳障害が存在すればいいのだ。
 しかし実のところ脳波にも誤りがないとはいえない。つまり脳の奥の脳幹が健全でも、
 表面の皮質は反応を示さないこともある。どの段階で治療を止めてよいか、誰も百パー
 セントの確信をもつことはできない。
・患者が昏睡状態にあり、動作がなく、反射を示さず、熱反応がなく、脳波が消失してお
 り、瞳孔が散大して固定し、針穴ほどの縮瞳があり、自発的呼吸がなく、血圧上昇剤な
 しには循環を維持できない場合には脳機能の恢復はない。
・望まれているのは最大限五年間の生存なんだから年齢はたいして問題にはならない。現
 在の免疫抑制の知識では提供心臓が五年以上生存するとは考えられない。
・なんの根拠でそんな馬鹿げたことを言うのか。事実まだ五年経った例はないではないか。
 今、生きている人が五年以内に死ぬとどうして断言できるのか。人間の体は理屈通りに
 いくようで理屈通りにはいかない。明日死ぬか、十年生きるか、やってみなければわか
 らない。
・脳波が停止した後でも蘇生する場合もあり、事実そうしてケースを私は経験している。
 提供者から臓器を摘出するということは私の場合心臓が止まらないかぎりやらない。
・死は患者を取り扱っている主治医がきめるものだ。私のところでは、脳神経外科医であ
 る場合が多いが、これが死だと認定すれば私は納得する。
・彼の頭の中にこれまで心臓移植を行なった心臓外科医と病院、その結果が第一例から順
 に甦った。
・累々たる死屍を越えてまだ進んでいく。それでも進んでいかねばあの壁には到達できな
 い。
・五月の末から六月の初めてにかけての手術は全例が失敗であった。
・彼は怯えたように顔を強張らせた。部屋は彼が入ってきた時と寸分変わらず静まりかえ
 っている。彼は一度大きく息を吸った。腕時計が十時に近づいている。決定の時間がき
 ている。十時に手術場から電話がくる。全員が息を潜めて彼の決定を待っている。
・「やる」と彼が一言言えばいいのだ。あの子は助からない。あの意識は恢復しない。も
 う少し生きたとしても結局は駄目になる。俺の見る目には間違いはない。脳波の記録は
 ないが恢復はしない。脳幹が生きているとしても死滅するのは時間の問題だ。
・一分、一分間、もし佐木がなにも言わなければ、一分間、佐木が沈黙を守り続けたら、
 「止める」。重藤は奇妙な賭にとらわれた。もしその間に佐木が一言でも言ったら、
 「やる」。もうなにも振り返らずにやるのだ。
・決めるのは俺ではない。俺を賭に追いやるもっと大きな別の力、それは一介の医者や科
 学者の遠く及ばない大きな力のように思える。重藤は時計を見詰めたままその瞬間を待
 つ。その時まで佐木は沈黙を守れるか、守るのか、問い詰める重藤の頭に再び医学の華
 麗な壁が甦る。それは重藤を見下し嘲っている。あと十秒。
・「先生っ、どうしますか」佐木の声が洩れた。
・切り返すように、重藤が言った。「やる!」
・一番でなければならない。一番しか意味はない。一番、最初、第一、それらの言葉しか
 彼は認めない。 
・手術で初めて胸を開いた時、初めて心臓の手術をした時、初めて人工弁を使った時、そ
 れらがはっきりと順を追って思い出された。
 

・その夜の麻酔科の当直医は、今年、医師国家試験を受けて医者になったばかりの笹原雄
 次であった。彼は午後、整形外科の上腕骨折の手術の麻酔を担当した。
・電話が鳴った。「外科だけど、イソゾールとレラキシンを貸してくれないか」「何処で
 使うんですか」「手術場さ」「早く、急ぐんだから、すぐ持ってきてくれよ」
・急患で麻酔をかけるなら一応専門の麻酔科に連絡するのが筋ではないか。そのために大
 学には各科の医者が当直している。それを無視して勝手に自分たちだけで麻酔をかけよ
 うとして、おまけに薬を借りるのに持ってこいとは、虫がよすぎはしないか。
・笹原が仏頂面で麻酔科の瀬川講師の部屋に入ってきたのは午後九時半であった。
・「彼等がやるのか」「彼らは十人以上もつめかけて・・・」「何故そんなに沢山、医者
 が集まっているんだ」「なにか海で溺れた人らしいんですがね。小樽から運ばれてきた
 ようですよ」「これから人工心肺を使うらしいですよ」「その溺れた人にか」
・瀬川は半信半疑だった。人工心肺は心臓の手術のとき、一時的に心臓の血行を遮断して
 別の回路で回すために使われる。
・「溺れた患者に使うってことはないんですか」「あまり聞いたことがないな」
・これかで読んだ文献にもそうした例は瀬川は思い出せなかった。

十一
・瀬川と笹原が七番手術室に入った時、中は十四、五人の医者が詰めかけていた。二人を
 認めても胸部外科の医師たちは誰もなにも言わなかった。
・なるほど笹原の言った通りだ。何故人工心肺をつけるのか瀬川はいろいろ理由を考えて
 みたが、これというものを思い浮かばなかった。
・「ソルコーチフを注射」重藤が言った。
・「何筒ですか」「十筒」
・「えっ!」瞬間、瀬川は声を上げた。信じられなかった。彼は伸び上がって右腕の点滴
 チューブを握っている医師の手元を見た。十筒が一気に押し込まれる。
・瀬川は手術場を出かけた。「瀬川君」手術室を出たところで重藤教授の声が後ろから呼
 び止めた。
・「実は・・・この青年は脳死で意識も恢復しそうもないし、それO型なのでね・・・」
 「やろうと思ってね」
・瞬間、瀬川は背筋に冷水を浴びたような衝撃を受けた。  
・「説得するのにあと二、三時間かかるかもしれないけど、その時は頼みますよ」

十二
・「重藤教授は何と言ったんですか」「あの人は心臓移植をやるつもりなのだ」「あの青
 年にですか」「逆だ、あの青年は提供者だ」
・「ソルコーチフは拒絶反応をおさえるためだったんですね」
・「人工心肺は」「いまに胸まで開いて完全循環に切り換えるかもしれない」「何故です」
 「そうした方が家族が納得してくれるし・・・やりやすい・・・」
・「あの青年は本当に駄目なのですか」「やってみなければ分らん」「やるって何を」
 「決まっているじゃないか、蘇生術だ」「われわれは麻酔医だぞ、蘇生術は麻酔と同じ
 に麻酔科のもっとも大切な分野だ」 

十三
・医師が家族待合室に入った。ソファに掛けていた四人が医師の姿を見て一斉に立ち上が
 った。
・「お父さんですね」「お話ししたいことがあるのですが」瞬間、父親は戸惑った表情を
 見せ、母親は顔をつき出し下から医師の眼を窺った。
・「実は・・・いろいろやったのですけれど、どうもうまくいきません。呼吸も心臓もす
 べて器機で動かしているのです。今は器機で辛うじて生きているという状態です」「こ
 れ以上はどうやってみても助かる望みはありません」
・「教授から医局員全員が残って、なんとか助けようと全力を尽くしています」「これか
 らみんなが一生懸命やっているところを見てください」父親は怯えたように目を見張っ
 た。
・ドアのない小さな入り口があった。三段の小さな階段を登りきると金枠がある。それに
 触れた父親が顔を上げた瞬間、彼は殴られたように顔を引いた。恐怖で足元が小刻みに
 ゆれている。ガラス張りの向うに数えきれないほどの白衣の人がいる。男と同じ手術衣
 の人もベンケーシー・スタイルの瓦解の人もいる。それらは皆、頭から足先まで白一色
 であった。
・無影燈があり、その下の手術台に何物かが横たわっている。そのまわりを無数の白いロ
 ボットが取り囲んでいる。ガラスの部屋の中のその情景は、空想科学映画のひとこまの
 ように父親には異様なものに見えた。
・「貴方の息子さんは今、胸が開かれています。心臓の横の太い血管からチューブで人工
 心肺につながれているのです」「黒いものが肺で、赤く見えるのが息子さんの心臓です」
・いま突然、切り開かれた胸の中を息子のだと言われても、彼には全く見覚えがなかった。
 そんなことは信じられない。
・「器機を止めたら息子さんは直ちに死んでしまいます。今も器機が生かしているだけで
 すしかもそれももう限界です」「やるだけやったのですから了解してください」
・父親は目を伏せた。彼には反論する理由も気力もなかった。ガラスの見学室からただ一
 刻も早く逃げ出したかった。
・「そこでお願いがあるのですが」「あなたのお子さんの心臓をいただきたいのです」
・父親は医師の言っていることがわからなかった。
・「これだけやって助からないのですから、あなたの息子さんの心臓を有効に使わせて欲
 しいのです。心臓病で明日にも死にそうな人がいるのです。その人に息子さんの心臓を
 移してやりたのです」
・「移す?」「そうです、心臓移植に使わせて貰いたいのです」「医学のために落ち着い
 て考えてください。息子さんの死を無駄にしないためにも」
・父親は放心したようにガラスの向うを見ていた。彼は出来れば息子をガラスの部屋から
 引き出してやりたかった。器機の中で息子は帰りたいと叫んでいるように思えた。
・「すぐには決心はつかないと思います。一旦、お母さんとも話してみてください。ただ、
 これ以上は助けられないし、今なら心臓をお役に立てることができるのです。そのこと
 をお忘れなく」「相談してください。お待ちしています」
・蒼ざめたまま夢遊病者のように彼は手術棟を出て、家族の前へすすんでいった。

十四
・午前零時、七日から八日に変わった。重藤庸介は教授室のソファに横たわっていた。
・電話のベルが鳴った。「もしもし」笹木講師の声であった。
・「どうだった」「お父さんの方は一応納得しましたが、お母さんの方はまだ・・・」
 「手術場は見せたか」「「お母さんの方は怖いといって」「すぐにお見せしろ、それか
 ら私のところに案内しろ」
・午前零時、手術場二人の看護婦は当直室のベッドで横になっていた。「心臓移植をする、
 手術予定は午前一時頃」という連絡を彼女らは三十分前に受けていた。
 
十五
・重藤に向かい合って両親が坐った。母親はハンカチで目をおさえ続けている。父親はう
 つむいたまま体を動かさない。
・重藤が両手をテーブルにつけて頭を下げた。「お願いします」
・両親は何も言わない、母親の嗚咽だけが続いた。
・「このまま放置しておけば二人が死ぬのです。二人が死ぬより一人が生きる方がいい、
 そうでしょう、ここのところを分かってください」
・「よろしいです・・・」言ったのは母親であった。放心したように重藤は母親の小さく
 つまった顔を見ていた。彼はまだ信じられない。
・「いいのですね」重藤が聞き返したのにうなずくと母親は一度に泣き出した。泣き声は
 夜の部屋を満たすように拡がっていく。 
 ・「ありがとう、ありがとう」重藤が腰を浮かすと両手を差し出し、片方ずつの手で父
 親と母親の手を握る。
・「ありがとう、これで息子さんの死は無駄ではありませんよ。きっと立派に役立ててみ
 せます」
・彼は思い出したように両手の力を抜いた。二人は重藤に手を握られたまま左右へ顔をそ
 むけている。握っているというより手をあずけているといったほうが正しい。
・二人は目をおさえたままうつむいている。重藤が顔を上げた時、父親が待っていたよう
 に立った。母親が両手で顔を覆ったまま従った。二人は逃げるようにドアに近づいてい
 く。
・「克彦くんの心臓はこれからも生き続けるのですよ」重藤が言ったが両親はなにも答え
 ずドアの先に消えた。

<第二部>

・その夜、八月八日午前一時二十分、佐野武男を載せた患者運搬用ベッドは三階の胸部外
 科棟続きのエレベーターから二階の中央手術場へ向かっていた。
・麻酔科の助教授である岡村晃が胸部外科の佐木講師から電話を受けたのは午前零時半で
 あった。 
・導入のための一過性の呼吸抑制が切れると佐野武男は自発呼吸を恢復した。手術室は九
 番手術室で普通の手術室よりひとまわり大きい。隣の七番手術室には江口克彦が胸を開
 かれたまま横たわっていた。四人の医師がついて人口心肺を作動している。
・メスが入った瞬間も佐野武男は微動だにしなかった。重藤以下の助手のすべての手捌き
 は寸分の無駄もなく流れるように早い。二千例という全国一の心臓手術の経験から体で
 覚えた技術と自信があった。
・人口心肺の還流が順調なのを見定めたところで武男の創口にガーゼがかぶせられ、重藤
 と佐木はひとまず武男の横を離れ、七番手術室へ移動する。
・七番手術室の手術台の上には、胸を大きく切り開かれ、剔出されるばかりになっている
 心臓が待っていた。 
・提供者、江口克彦の心臓は、重藤の眼下三十センチのところにあった。人口心肺で酸素
 供給を受けながら、その心臓はなお鮮紅色を失っていない。
・メスが心房壁の二重の厚い筋層に突きささった。そこから後方へメスが走る。 
・「シャーレ」待機していた助手が生理食塩水を満たした減菌シャーレを差し出した。水
 輪を残して、心臓は径三十センチの大型シャーレの水中に納められた。
・「よし」うなずくと重藤は提供者の横を離れ、再び初めの九番手術室へ戻る。
・重藤は視線を眼前の肥大した心臓に移した。袋のように伸びきり、鼓動は不規則ではあ
 るが、たしかに少年の心臓は自力で動いていた。自分で動き、これからもなお幾日は動
 き続けることは疑いようがなかった。それを除いてあいつをはめ込む。眼前で動いてい
 るものを摘って動いていないものを入れる。
・「手術は成功したが患者は死亡した」重藤は何度かそういう説明をくり返してきた。聞
 いた大半の者は笑った。笑われても重藤はまた同じことを言った。
・「技術は充分であったのだ。現在人間がなしうる最高の方法であった。ただ命がもたな
 かっただけです」重藤はそう信じている。心臓外科はそれでいいのだ。それでこそ現在
 の心臓外科が成り立っているのだ。
・「部分還流」全身の血が少しずつ移植された心臓へ戻ってくる。異常はない。十分経っ
 た。 
・「止めろ」声と共に最後の部分還流も止まり、人工心肺はすべての作動を停止した。
・動くか、重藤は神に祈った。
・心臓に血液が満ちた瞬間、心臓が鼓動を開始しなければ血液は全身に行きわたらない。
 もし鼓動を打たなければ再び人工心肺を動かせばいい。それで当座は救える。だが人工
 心肺に頼れるのはせいぜい二時間である。一発で動かなければこの間に電気ショックを
 加えて心臓の自動律を促す方法だけが辛うじて残されている。
・はたして動き出すか。もし動かなければ、いやその先はいま考えるべきではない。
・血液が充満すると犬の心臓は動き出した。それは数えきれないほど見てきている。だが
 人間は?世界で三十例は動いている。
・「動いている」まぎれもなく心臓が動き始めた。
・「よしっ」思わず彼は口走った。
・心臓は一心不乱に動いている。見ていると涙が出るほど可愛い。命じられた通り、少し
 の狂いもなく動く。そんな従順さがたまらなく愛しい。出来ることなら撫ぜてやりたい。
 これらあるから俺は手術を止められないのだと重藤は思う。
・ドアひとつ隔てた第七施術場には中央の手術台の上に蒼白の屍体が横たわっている。胸
 の中央に一直線の傷痕があるが、創は三号絹糸で縫い合わされている。まわりには誰も
 いない。剔出に参加した医師たちも隣の移植手術に移っていった。一時の賑わいが去っ
 て心臓を提供したほうの屍体は人気を失ったようである。
・誰もいない部屋で屍体は全裸のまま仰向けに寝ていた。顔は真っ直ぐ上を向き、鼻梁が
 突き出ている。五百燭光の無影燈の下で屍体は早くも死後硬直を現し始めていた。
 

・手術場から三階下の地下の霊安室には四人が一団となって坐っていた。両親は座布団を
 敷いているが二人の弟妹は布団を除けている。四人の前にはそれぞれ薄い茶が手つかず
 のまま置かれていた。四人は一言も言わない。父親の右手には白い紙が握られている。
 死亡診断書である。
・四時五十分、佐野武男の胸は中央に十二センチの縦長の傷痕を残しただけで手術のすべ
 てが終わった。三時間近い時間が経っていた。
・自動扉を出たところに家族待合室があった。そこに二人の人影がある。昨夜までそこに
 は江口克彦の家族がいた。それが、今は佐野武男の両親に変わっている。瞬間の戸惑い
 に重藤は目を凝らした。母親のトキがかけ寄ってきた。
・「大丈夫ですよ、元気に動いてますよ」それだけ言ってから、彼はすぐに「植えた心臓
 が」とつけ加えた。 
 
 
・「おい富塚君、これからちょっとK医大へ行ってきてくれないか。胸部外科の重藤教授
 がなにか発表するらしいのだ」
・K医大の重藤教授といえば、自分から新聞記者を呼ぶので有名だった。直視下手術をや
 った、初めての人工弁を使った、外国からの手術希望者が北。高圧酸素室ができた、と
 いった具合に、ことあるごとに新聞に発表したがる。彼の今日の名声は学問的にはとも
 かく、マスコミによるPRも一役買っているという人もいた。
・八日朝、医大附属病院で日本初の心臓移植手術が行なわれた。手術を受けた患者の経過
 はよくほぼ成功したと言える。手術に当たったのは同大学胸部心臓外科主任教授重藤康
 介医学博士四十八歳
 

・記者会見のあと富塚は胸部外科の病室の方へ行ってみた。表面上は落ち着いて見えるが
 病棟全体に緊張した空気が漲っている。
・詰所の横の赤電話の近くまで来た時、富塚は向い側から来る一人の看護婦が自分の方に
 視線を向けているのに気がついた。看護婦は細身だが上背はかなりある。どこかで見た
 ような顔だと思うがはっきり思い出せない。すれ違いそうになった時、看護婦が立ち止
 まった。
・「あのう・・・失礼ですが、富塚さんじゃありませんか」「あたし伴野です、伴野絹子
 です。高校で一緒でした」
・富塚は改めて看護婦姿の伴野絹子を見詰めた。「いつからこの病院に」「五年前です」
 「この科にいるのですか」「そうです」
・このまま別れてしまっては折角のチャンスがふいになる。「今度一度逢いませんか・・
 明日にでも」 


・重藤はテレビ出演を終えると、真っ直ぐ病院へ行き、八時すぎに佐野武男のいる濃厚治
 療室に入った。病室には昨夜から主治医の佐木講師以下六人の医師と二人の看護婦がつ
 ききりで経過を見ていた。
・新聞社、雑誌社、放送局に加え外国からの電話もまじえて診察は五回も中断された。
 彼は向いの空病室にいる患者の両親を訪れた。室にはベッドと借り布団が置かれてあっ
 たが二人とも寝た気配はなかった。
・「お父さん、お母さん、武男君は大丈夫ですよ」重藤の言葉を聞いただけで二人は目を
 潤ませた。


・術後一時黄疸と不整脈が出て「要注意」だった佐野武男の容態は、三日目から、徐々に
 回復に向った。
・三日目午後の記者会見で重藤教授は初めて今回の心臓移植手術に心臓を提供した青年は
 R大学の四年生の江口克彦、二十一歳であることを公表した。
・「両親が発表するのに同意したのですね」「悲しみをのり越えて同意してくれたのです」
 記者団の質問を受けて重藤が答えた。
・提供者が四日前の昼、蘭島海岸で溺れた青年であることは記者仲間にはすでに知られて
 いたことであった。知りながら彼等が新聞に書かなかったのは重藤から家族の許しがあ
 るまでは書かないでほしいという強い要望があったからだった。
・記者たちが聞きたかったのは名前より提供者としての家族の心境であった。
・涙声で話す重藤の右手に提供者の父と母、そして洋裁学校へ通っている妹と高校生の弟
 が坐っていた。
・「お父さんは初めから心臓の提供に賛成でしたか」「できることならそのまま子供に残
 しておいてやりたいと思いました。でもこれ以上はどうしても助からないというので・
 ・・」
・「お母さんは?」「私は反対でした。でも手術場を見せてもらって、あれだけ多くの先
 生方が一生懸命やって下さって駄目なのなら仕方がないと・・・」「一旦は反対したの
 ですね」「始め主人と相談した時はおことわりしました。でも子供がだんだん悪くなり
 主人の後ろで手術室を見せられた時には、その有様にびっくりしてしゃがみ込んでしま
 いました」「先生方が一生懸命に息子のためにやってくれたこと・・・息子の体も元に
 戻らないと聞いて提供することにしました」
・「息子さんの心臓が提供されてどんな気持ちですか」「どうせ生き返らず灰となってし
 まったのですから・・・息子もきっと喜んでくれていると思います」
・「兄さんの心臓が生きいることについてどう思いますか」一つ違いの妹に記者がたずね
 た。「兄はまだ生きていると思ってます」
・控え室の入口に親戚らしい人が立っている。「御家族ですか」富塚は声をかけた。「克
 彦の叔父です」「感想を聞かせてください」「いいことをしたと思います。でも他人の
 体の中で元気に生きていける心臓ならば、どうして克彦の体の中にあるうちに生き返ら
 すことが出来なかったのでしょうね。そこが私にはわかりません」吐き捨てるように男
 は言った。
・心臓移植は本来罠を張っておかなければできない手術なのではないか。いい条件の心臓
 を得るためにあらゆるチャンスをとらえる。罠を張ってこそ初めていい手術ができる。
 とすると罠を張ること自体は悪いことではないのではないか。そのこと自体は非難され
 るに当たらない。術者として当然の心構えとは言えないか。
 

・四日目になると佐野武男の顔は赤みを増し、自発呼吸となり、全身状態は更に良くなっ
 た。
・N紙では心臓移植是非をめぐっての座談会の記事を載せた。慎重論が大勢を占めたが、
 心臓移植そのものを肯定する学者にも今回のケースには多少の疑問があるとしている人
 が多かった。提供者の死の判定をどこできめるのかということが最大の問題であった。
 たとえ脳波ななくても、それは脳の表面の脳皮質が死んでいることで、脳の中心の脳幹
 が死んでいることにはならないというのだった。地方の大学に先を越された一部学者の
 僻みとしても、問題はやはり残っているようである。
・「本当に脳波はとってあるんでしょうか」「わからないな」心音や心電図は発表されて
 いるが脳波はまだ発表されていない。何度たずねても「我々は確認した」という答えだ
 けで記録は公表しない。
・富塚は伴野絹子のことを考えた。胸部外科の内部を探るには彼女と近づくのが一番だ。


・その夜六時の富塚は薄野のレストランで伴野絹子と逢った。絹子は高校生の頃はあまり
 目立つ存在ではなかった。富塚も話した覚えはほとんどない。絹子はまだ結婚もせず、
 一人でアパートを借りているとのことだが、胸部外科では婦長に次ぐ主任だった。
・話は自然に心臓移植のことになった。もっともそれが富塚の狙いでもあった。しかし、
 肝腎のところになると絹子は口を閉ざす。
・食事を終えてから富塚は行きつけのスタンドバーに絹子を誘った。渋る絹子を三十分で
 いいからと強引に絹子を口説いた。ビールだけで富塚は赤くなるが絹子の顔色はほとん
 ど変わらない。
・「あなたは彼氏がいるんでしょう」「いないわ」「医者と看護婦というのは結ばれやす
 いからね」「富塚さんはもう結婚されたのでしょう」「いやまだ一人ですよ」「あら、
 本当?」絹子の一重の眼が大きく見開かれた。
・そろそろ三十歳になろうとしているのに一人身で何をしていたのか。ふと富塚は仕事と
 は別の興味を抱いた。 
・「ところで、提供者の江口君の脳波は取ってあるんでしょう」「脳波?」瞬間、絹子は
 硬張った表情になった。富塚に見詰められたまま絹子は少しずつ視線をそらした。「そ
 んなことは、私には分からないわ」絹子は冷たい表情になった。
・この女、一筋縄ではいかない。富塚はグラスを飲み干しながら、とり澄ました絹子の横
 顔を睨みつけた。 
・その日の夕刊では、ソ連のシニツイン教授が、拒否反応が克服されるまで心臓移植をや
 るのは時期尚早である、とモスクワ放送を通じて述べたと伝えた。中央では心臓外科の
 大御所であるZ医大のS教授は心臓移植に賛意を表し、自分も機会があればやりたいと
 述べた。T大のH教授は死の判定、拒否反応処理に問題があるとして反対を唱えた。
 一方、医事評論家やマスコミに関係のある医師たちはヒステリックに反対し続けた。
 

・佐野武男の病室の前の小部屋で、武男の両親は椅子に坐ったままぼんやりとテレビを見、
 姉の素子は新聞を見ていた。素子は改めて新聞の武男の顔を見詰めた。奇妙なことにそ
 の写真はいくらみても自分の弟という実感が湧かない。自分たちとは無縁の他家の少年
 のようにしか思えない。
・手術を受けた瞬間から武男は家族の手のうちから、はるか遠い処にいってしまった。武
 男は両親の息子で、その実、両親のものではなかった。誰も知らぬ間に話題の人物とな
 り、全国民の注目を集めていた。
・逢いたい時に逢い、看病したい時に看病してやりたい」それが武男の母、トキのたった
 ひとつの願いだった。 
・直接会わずに治療室の一方のガラス窓から見える武男は一層かけ離れたものに思われた。
 ガラスの向うの世界に連れて行かれたまま武男はもう戻って来ないかもしれない。
・「武男は重藤先生におあげしたんだから」トキが自分に言いきかせるように言った。
・「なにを言っているの母さん」母の弱気を叱ろうと思った素子も、今はむしろそう考え
 た方がいいのだと思っていた。  
・手術から一週間後の十四日である。「只今、武男君は完全に意識を恢復しました」
・「だが気をつけなければいけないのだ。本当に患者のためにやったのか。医学のためか。
 あるいは・・自分のためにやったのか」「あの人は何かにとり憑かれたんじゃありませ
 んか。何かの魔性に」
 

・その日の午後、重藤は教授室で各科の教授が集まるのを待っていた。教授会で彼は特に
 発言を求め、心臓移植の経過を簡単に報告した後、各科教授がそれぞれ専門の立場から
 佐野武男を診察して全学一致で協力の体制を作って欲しいと要望した。聞いていたごく
 一部の教授はうなずいたが、大半の教授は腕を組み目を閉じたまま一言も言わなかった。
・一人でも多くの教授が診察に来て全学一致という印象が与えられればいいのだと重藤は
 考えていた。 
・重藤は焦っていた。誰も来ないわけはないと思った。「何故来ないのか。俺を妬んでい
 るのか」 
・やらなければ駄目だ。言う暇があったらまずやることだ。やった奴が最後には勝つのだ。
 重藤は武者震いのように顔を左右に振った。世界ではすでに三十例からやられている。
 その後に俺がやったからといって何故批判されなければならないのだ。そこのところが
 重藤にはわからない。ここでもやはり出る杭は打たれるのか。
・「千野先生がお見えになりました」思いがけないことだった。千野宗興はK医大の名誉
 教授で七十八の老体である。専門科が違う上に、ここ数年近代医学から離れてしまった
 老医学者に移植患者を診察させたところで、直接、何の効果があるわけでもなかった。
 しかし彼が来てくれたことは貴重なことだと思った。千野は元K医大学長、名誉教授と
 いう絶対的な肩書きがあった。
・「村山教授と岩崎教授がお見えです」 
・三十五名の教授総数からみると全学一致には程遠い。しかしこれでいいのだ。重藤は千
 野名誉教授が来てくれたことで満足した。

十一
・ブラジルでは、大統領が同国の臓器移植規制法案に署名したことが伝えられた。その法
 案の骨子は、脂肪診断は移植手術に直接加わらない医師三人の承認が必要である。臓器
 移植手術をする場合、提供者については生前に提供者の承諾を得た上、さらに妻または
 夫、父母などのうち一人の承認を得ること。といった内容であり、これですでに一例行
 なわれている心臓移植は事実上不可能になったと告げられた。
・武男は初めてベッドから降り、椅子の坐った。病室には常に医師二、三人と看護婦一名
 が専属でついている。それらの見守るなかで武男は坐って朝食をとった。
・記者団に混じって姉の素子も武男を見た。「なかなか食べるじゃないか」「箸の使い方
 も上手だよ」記者たちの声が交錯する。素子は両手で耳を覆った。弟がみなの見世物に
 なっているような気がした。
・その夜、絹子は初めて富塚のアパートを訪れた。それまで二人は街で二度ほど逢ってい
 た。
・「こんないい部屋なのにもったいないわ」「寝るだけなんだよ」早く誰かもらいなさい
 よ」 
・「ところで脳波の件はどうだったい」「どうって・・・」「やはりとってあったの?」
 「それは透視で確かめたという話だわ」「しれじゃ客観性がないな、彼らが勝手に判断
 したら終わりだよ」
・富塚の手が思わず絹子の肩に触れた。弾かれたように絹子が振り返った。次の瞬間、絹
 子の上半身は富塚の腕の中に抱え込まれていた。彼は自分が今なにをしているのかわか
 らなかった。歯痒さと怒りと欲情が混然となり、一体となって爆発した。骨ばった絹子
 の体は無茶苦茶に暴れ廻る。暴れれば暴れるほど富塚の腕の力は強くなっていく。休む
 間もなく、繰り出される爪を持った手に顔をそむけながら、富塚は絹子が静まるのを待
 った。声のない窓際の格闘はしばらく止みそうもない。だが絹子の抵抗は時間とともに
 確実に弱まっていった。唇を吸われ、乳房を掴まれて彼女はたらしなく力を抜いた。耳
 元で絹子の断続する泣き声が聞える。
 
十二
・佐野武男の順調な恢復にもかかわらず、心臓移植への反対論は一向におさまる様子はな
 かった。
・瀬川は麻酔科の蘇生学の立場から心臓移植には賛成できないという意見を新聞に発表し
 た。
・自分が見た感じでは自発呼吸があり、顔も彼らが言うほど土気色で貧血ではなかったよ
 うに思う。自分ならあの段階で蘇生を打切りはしない。どこでという決め手はないが、
 医者としの経験でそう思った。それは勘と言った方が正しいかもしれない。実際やって
 みて明方までやっても駄目だったかもしれない。結局、重藤の判断の方が正しかったか
 もしれない。でも生かすためには、最大限の努力をすべきではないか。
 
十三
・提供者である江口家は表戸を堅く閉じたまま静まり返っていた。母親を初め家族全員が
 記者ノイローゼになっていた。
・記者に逢うとよそゆきの言葉になるので逢いたくなかった。もっとも不快で悪質だった
 のは女性向けの週刊誌だった。移植に反対した妹に手記を書いてほしいと毎日訪れた。
 断ると学校まで来た。最後にはサインだけでいいと言った。あまりの執拗さに負けてサ
 インだけやった。一週間経つと、その雑誌に「武男さんをお兄さんと呼びます」という
 立派な手記が載った。書きもしないのにいつのまにか自分が書いたことになっている。
 それを知って妹は泣いた。佐野武男の名前なぞ聞きたくもなかった。
・手術から十六日経った八月の末、江口克彦の両親はK医大病院によばれた。「武男君が
 あなた方に逢ってお礼を言いたいと言うのです武男君が克彦君の御両親と逢っても心理
 的に動揺しないかと思って精神科医と相談したのですが大丈夫なようです」
・二人は行く気はなかった。逢って励ます自信がなかった。動揺するのは自分たちのほう
 ではないかと思った。断ったが重藤から再び電話があった。
・「是非逢いたいと言うのです。お願いします」それだけ言われてはさすがに断りきれな
 かった。 
・「武男君、両手を伸ばして手を握ってもらいなさい」重藤が言った。
・「よかったね、武男さん」克彦の母親と別の、もう一人の母親が言った。「ありがとう。
 ぼく元気になります」
・突然、母親は握っている手を振り離したい衝動にかられた。振り払い、突き倒し、白い
 包帯の胸元に手を差し込んで心臓をえぐり出したい。
・「泥棒、お前は泥棒だ」叫び出したい気持ちを母親は必死にこらえていた。
・帰って克彦に逢いたかった。「母さんは誰が死んでもいいからお前が生きてくれること
 を今でも一番願ってるよ」駆けつけて仏壇の息子に彼女はそう話してやりたかった。
・その日、米国のシャムウエイ博士によって行なわれた三十三番目の心臓移植手術につい
 て、同地の地方検事が法にきめられた検視が行なわれずに、移植手術をやった疑いがあ
 るとして捜査を始めた、という記事が伝えられた。
 
十四
・術後三週間を経たが佐野武男の容態に大きな変化はなかった。拒絶反応の第二の山とみ
 られた二週間も無事にのりきり、食欲も日増しについて血色もさらに良くなった。
・いままで心臓移植を初めてやった医師が四十三日以上生存させた例はなかった。それ
 を破るのは目前のことだった。 
・「新記録」間違いなくそれは日本では新記録であった。日本でこの手術をやった医師は
 自分以外にはいない。とするとまず、移植心が動き出した第一日目から、それは新記録
 だった。
・二十四日目の午後、それまで記者たちに開放されていた病院会議室は元に戻され、病院
 内での記者の張込みは中止となった。佐野武男の容態が落ちつき、もはや院内に寝泊り
 する必要がなくなったからである。
・「二か月後にもう一度拒絶反応の山があるというからね」「その次は半年、そして一年」
 「それじゃいつまで経っても目が離せないじゃありませんか」
・それまで絹子とも別れられないのかと富塚は憂うつになった。
・夜、富塚は伴野絹子と逢った。あの夜以来、街で逢い夕食を済ませてから富塚のアパー
 トに行くのが、いつのまにか二人のお定まりのコースになっていた。
・富塚はぼんやり絹子の背を見ながら考えた。この女とこんな関係になったのも取材した
 いからでなかったか。そして俺は何を得たのか。一番大きなことと言えば、術後、一度
 簡単な再手術をしたという事実を確認したことだった。それも心嚢に貯まった血液を除
 くという極めて適切な手術であった。
・もう少しセンセイショナルな情報はないものか。とりとめないことを考えながら、彼は
 また義務のように、絹子を抱き寄せた。
 
十五
・K医大第三内科の木原教授は興奮した面持ちで麻酔科の井上教授と向かい合っていた。 
 「まったくけしからんことです。これ以上彼の暴走を許すわけにはいきません」「二度
 目の手術を阻止することは、K医大にも良識派がいることを示すことになります」
・心臓移植を受けた佐野武男は、手術の二週間前までは木原が担当している第三内科の患
 者だった。 
・「もっとも根本の問題として彼が手術を受ける必要があったかどうかという点です」
 「私が胸部外科に転科させたのは心臓の弁置換の手術を受けた方がいいと思ったからで
  す」
・心臓には血液の逆流を防ぐ四つの弁がある。僧帽弁、三尖弁、大動脈弁、肺動脈弁の四
 つである。現在はそのうちのどれかが悪い時には人工弁で置き換えることができる。
・人工弁置換は四つ全部にというわけにはいかない。悪いのをせいぜい一か所換えるのが
 限界だった。四つとも一様に悪いのでは一つだけ換えても効果はなかった。心臓移植は
 四つの弁が揃って悪く人工弁置換といった程度ではどうにもならぬ時だけが手術に踏み
 きる具体的な条件とも言えた。
・「僧帽弁は完全に悪かったのです。三尖弁もいくらかはやられていました。しかし大動
 脈弁はまず大丈夫のように思われました。武男君の場合はこれまでの経験からおしても
 僧帽弁の置換だけでいいと思いました。だから心臓移植をやる必要は全くありませんよ」
・臨床医学には常に実験的な面が加味されているように思える。内科医の薬の投与ひとつ
 にしてもそうした面がないとはいえない。しかしそれはあくまでも許容量という範囲内
 でのことだ。十のうち、せいぜい一か二という範囲で、しかも良かれと思って、やるこ
 とだ。それは生死といった大きな問題としてではない。実験的といってもおのずから限
 界があるはずだ。あれは誤りだ。行き過ぎてあったのだ。
・「この前の合同診察は学問的な意味からやられたのではないでしょう。全学一致の協力
 体制といった印象づけのためと、死んだ時の責任分担をはかろうというのが狙いですよ」
・重藤教授ならやりそうなことだと思った。外科医らしく外見はいかにも大胆で強引そう
 に見えるが、その裏には常に細かい計算がなされている。自分が勝つためには何でもす
 る。周知に計画しチャンスとみれば強引にやる。医学生時代から医局時代まで重藤と同
 僚だった者は皆いい印象を持っていない。してやられたという気持ちを持っている者が
 多い。それは若くして教授になり、一躍有名になったからという男の嫉妬だけでもない
 ようである。

十六
・十月になった。九月中は屋上を散歩したり、外科学会に車椅子で登場したりして新聞上
 を賑わした佐野武男も、このところ新聞への出番が少なくなった。
・この頃、富塚は伴野絹子と関係を持ったことを後悔し始めていた。彼が絹子に近づいた
 直接の理由は胸部外科の情報を得たいためであった。初めはそれだけのことで深入りす
 る気なぞ全くなかった。それがどこが狂ったのか。気付いてみると昔の同級生は立派な
 恋人同士になっていた。だが情報が欲しかったとはいえ、富塚が絹子の体そのものに多
 少とも魅力を感じていたことも否定できない。絹子は肌が黒く、容貌こそ十人並みだが
 細く撓うような体はそれなりに彼の欲望をそそった。
・富塚は絹子が処女でなかったことをはっきり覚えている。処女どころかすでに何人かの
 男と経験があったと思われた。絹子が処女でなかったことを非難する権利など富塚には
 勿論ない。だが、初めての夜の絹子の激しい抵抗を思うとなにか欺かれたような気持ち
 にとらわれた。
・結局、看護婦が知り得る範囲は限度があるのだった。やはり医者と近づかなければ駄目
 だ。さして利用価値もないのに深入りし過ぎてしまったようである。
・「馬鹿なことをしたものだ」功を焦り過ぎた自分が富塚は情なく許せないものに思われ
 る。だが十月の半ばになると、さすがに絹子は富塚の気持ちの変化を察したようである。
 電話が来なくなり、病院で逢っても知らぬ顔で行き過ぎた。
・絹子が離れ出してから富塚はかえって彼女に欲望を覚えたが我慢した。絹子は気が強い
 女だから泣きごとを言って追っては来ない。黙っていればこのまま別れることができる。
 多少の不自由は仕方ないのだと富塚は自分に言いきかせた。
 
十七
・「武男君は十八日から血清肝炎が現われ、微熱とともに食べた固形物を吐き、流動食し
 かとらなくなりました。そのため体力もかなり弱っています」「拒否反応ではないので
 すか」「違います。武男君は前から心臓疾患の影響で肝臓や腎臓もかなり悪化していた
 ため一層起きやすい状態であったんです」
・富塚はすぐに正面玄関の赤電話で詰所の絹子を呼び出した。「今逢えないか」「忙しい
 わ」「私、貴方に利用されるのは、もう御免よ」
・翌日、医師団は「武男君の容態は更に悪化し、意識の混濁と不整脈が現われた」と述べ
 た。 
・富塚は第三内科の木原教授に逢った。「あれはむしろ拒絶反応とみるのが正しいでしょ
 う。輸血による術後肝炎にしては病状が強すぎますよ」批判しながらも木原は直接手を
 出せない苛立ちを訴えた。
・一旦は危険と見られた佐野武男の病状は、その後再び持ち直し、初めの発表から一週間
 後の二十七日には、「黄疸がひどく、食欲もないが、危険な状態からは脱した」と重藤
 教授から発表された。
 
十八
・「胸部外科学会に上京中の重藤教授が今朝の一便で急に札幌に戻るというんですがね」
・日航ボーイング727の座席で重藤康介は腕組みをしたまま目を閉じていた。
 「とにかく俺はやるだけのことはやった。医学という名においてあれは当然である。許
 されねばならない。いや当然許されるべきなのだ」「誰かがやらなければならなかった。
 それを俺がやった。俺がやらなくても誰かがやった」

十九
・午前二時、深夜の国道三十六号線を小型タクシーが疾走していた。車の中には佐野武男
 の両親と姉の素子がいた。三人が病院に着いたのは午前四時であった。
・「今、大事なところです。一生懸命やっているのです。ちょっと別の部屋で待ってくだ
 さい」 
・一時間経った。まわりは無気味なほど静かである。石のように顔を伏せていたトキの腕
 の中から嗚咽が洩れた。嗚咽が素子のたかぶった心に火を注いだ。
・「もう御免だわ。もうこりごりよ。もう生かしてなんか欲しくないわ」言いながら素子
 も涙声になった。
・武男は武男なりに親だけに訴えたい気持ちがあったに違いない。自分がずっと横にいて
 やったら武男はもっと甘え、言いたいこともあったかもしれないとトキは思った。
・「どうせ長生き出来ないのから思いきり我慢を言わせてやりたい」武男が危ないと聞い
 た時、トキは一晩中同じことを言い続けた。
・「母さん、私行ってくる。先生たちに頼んでくる」「母さんも行くよ」三人は立ち上が
 った。 
・午前十時、三人は武男の病室の入口に立った。「武男」
・「近寄ってはいけません。ここで見てください」すぐ横にいた医師が駆け寄ろうとした
 トキを制した。「今が大事な時です。出来るだけやってみますから、医局で休んでいて
 ください」ベッドの脇から重藤が言った。
・「さあ、いきましょう」横にいた伴野絹子が声をかけた。三人はもう一度遠くにいる武
 男の顔に目を向けた。妙に白い顔だ。
 
二十
・午後一時半、重藤教授は待ち構えていた記者団の前に姿を現わした。
 「十分前、佐野武男君は死亡しました。死亡は血清肝炎にかかった時併発した気管支炎
 のため喉に痰がつまり呼吸困難となり、医師団がかのうなすべての方法を尽くしたが遂
 にだめでした」
・「死因は拒絶反応と関係はないのですか」「心電図にその兆候がないのだから関係ない
 と言えます」
・「その時、どんなことをしたのですか」「酸素を与え、器機呼吸をしながら心臓マッサ
 ージと、可能なかぎりの手段を尽くしました」「それを死ぬ直前まで続けられたのです
 ね」「もちろんです」「すると今日の午前零時から午後一時二十分まで、約十三時間で
 すね」「その通りです」
・「何故十三時やったのですか」「どんなになっても生かすように務めるのが医者の義務
 だからです」わからない奴だというように重藤が富塚を見詰めた。
・「江口君の場合はせいぜい三時間でしたが」
・「えっ」瞬間、虚をつかれたように重藤はおし黙った。後ろで小声で話し合っていた記
 者たちが急に静かになった。
・「それは溺死と事情が違います」「どういうふうに?」「医学的にいろいろと、今ここ
 では簡単に説明できません」 
・「今度の死因の判定はなんでしたんですか」「我々医師団二十名が立ち合って決めたの
 です」

二十一
・佐野武男の葬儀は翌々日に行なわれた。
・提供者、江口克彦の父親は隅で人目を避けて坐っていた。
・帰りかけて来る一団がある。戻って来る中に伴野絹子の細い顔がある。絹子の方も富塚
 に気付いたらしい。冷えきった寺の境内で二人は向かい合った。絹子の眼は死んだよう
 に冷たい。こうして逢うと二人の間に肉体関係があったなどとは、とても思えない。
・「武男君は一昨日の午後一時・・・」「いいのよ、その通りよ」「えっ!なにかあった
 の、頼む、教えてくれ」「私、知らないわ」
・鋭い一瞥をくれると絹子は身を翻すように富塚の横を通り抜けた。
・富塚は何か貴重なものを落としたような気持ちだった。いいところまで追いつめて、捉
 える寸前で失ったようである。
・「あの日に死んだのではないのか」絹子の消えた人混みの方をみながら、富塚はなお暫
 くその場へ立ち尽くしていた。 
・同じ時、K医大麻酔科の井上教授の部屋に内科の木原教授が来ていた。
 「全く秘密部見ですよ。内科の主治医であった私も連絡は受けていないです」
・折角の貴重なデータである。学問のためならすべての医学者に見せるべきではないか。
 どんな解剖でも院内に告示して誰でも見学できるようにするのが当然だった。
・「死因も痰がからんだ偶発事故だなどといっている。痰が吐き出せなくて死んだなどと
 いうことは老衰のお婆さんが死ぬ直前くらいに弱っていたということですからね。拒否
 反応がひどく進んでいたということじゃありませんか。そんなことは素人は誤魔化せて
 もちょっと医学の知識がある人ならすぐにわかることですよ」
・「ところであの心臓はどうしたと思いますか」「さあ、どこにあるのです?」「彼を含
 めて彼の教室員三人しかしらないところへ隠してあるらしいです」「見せてほしいです
 ね」「学術雑誌にはもちろん、見たいという学者には、すべて公開すべきですよ」「し
 かしあの人はしませんよ。大事に、あの人だけのものとして、誰にも見せませんよ」
・重藤は恋人に逢うように夜な夜な一人でその心臓に逢っているのだろうか。自分が勝手
 に死と判定し、勝手にとり出し、勝手に植えた心臓を。
 
二十二
・「あれはやはり、僕は医学の名でおこなわれた殺人だと思うのです」
・「そうともいえるし、そうでないともいえる」
・「そのことは、いずれ歴史が決めてくれるよ」
・「重藤さんも被害者であったように思うのです」
・「あの人はなんというか、大きな科学というか、自然科学の大きな魔性みたいな・・・
 それにとり憑かれた一種に被害者でしょう」
・「しかし、科学というものはあんな人まで狂気にするのかあ」