性のタブーのない日本 :橋本治

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この本は、今から7年前の2015年に刊行されたもので、主に平安時代の性風俗につい
て著者の視点で、面白可笑しく解説したものだ。この本を読んでから、源氏物語などを読
んだら、全然違った見方になるのではないかと思える。
この本で著者は、「日本には性のタブーはなかった」との考えを持っている。その根拠と
するのは、キリスト教圏では「旧約聖書」で「性交は子を得るため」という原則が明確に
なっていて、その原則に反する性行為はすべて罪になる。しかし、日本にはそんな原則は
なく、性的逸脱をジャッジする原則がないからだということらしい。

日本には「FUCK」に対する動詞がない、というのもなかなか興味深い話だ。それは、
古代の日本はその行為が「逢う」ということに含まれていたからという。つまり、逢った
らもう必ずその行為をやっちゃっていたから、その行為の部分だけを特別視する必要がな
かったからということだ。なんだか、ほんとかな、という気もする。
ただ、平安時代から明治に至るまでの間は、性交という行為が、それほど特別なものでは
なく、ごく日常的な行為の中の一つだったということのようだ。性交を特別視するように
なったのは明治以降からであるとのことだ。
平安時代には、日中に、男と女が顔を合わせるということはなかったという。男と女が会
うのは夜の暗闇の中でだけだった。そして、男と女が夜の暗闇で会うということは、性交
をするということであった。つまり、男と女が会うということは、そこには必ず性交があ
ったということであり、それは日常的なことであり、特別視するようなものではなかった
ということなのだ。

さらにこの本を読んで初めて知ったのは、平安時代の不動産の相続は、父から娘へされる
のが一般的だったということだ。息子には相続されない。そのため息子は、必死になって
自力で女との縁を求め、女のところの転がり込むしかなかったという。
これは、よく考えてみると、なかなかいい相続の制度ではないかと思える。現代社会も、
この平安時代の相続制度に変えたほうがよいのではと思った。
それにしてもこの本は、私にとって消化できないことが多い、なかなか難解な本だった。

過去に読んだ関連する本:
エロティック日本史


タブーはないが、モラルはある
・明治時代まで、日本に性表現に関するタブーがなかったことは確実です。
・明治時代製の日本の刑法には、「猥褻の罪」というものが存在して、性表現に制限をか
 けています。
・私が昔買った「口語刑法」では、この「猥褻の罪」の解説として、こんなことが書いて
 あります。
 「暗い部屋で、女が裸になり、陰部に照明をあてながら、はねたり踊ったりすると、見
 ている者は、興奮したり恥ずかしくなったりする。このような性道徳(風俗)を害する
 者は厳重に処罰しなければならない」
・1970年代の終わりにヨーロッパへ行った時、友達に「ポルノ買って来て」と言われ
 たので買ってきた。まだネットもなくてビデオも一般的ではないペーパーメディアの時
 代だが、私はそこら辺周到なので、ご禁制の「猥褻物」を巧みに持ち込んだ。
・帰りの税関で、私の前にいた若い男が、持っていたナップザックを関税職員に調べられ
 ていた。底の方に洗濯物が入っていて、その下から何冊かのポルノ写真集が出て来た。
 税関の職員も若い男だったが、うんざりしたような顔で「なんでこういう物持って来る
 のかな」と言って、没収に同意させていたが、きっと、毎日毎日そういう物ばかり発見
 させられてうんざりしていたんだろう。
・同じ頃、私は大手の小説雑誌のために「魔」(鞦韆(ぶらんこ)に収録)というエロ小
 説を書きました。いやらしい言葉を一つも使わずに、日常的な言葉だけを使っていやら
 しい気分にさせるという、明白なる「猥褻」目的の作品なんですが、出来上がってみる
 と全然尋常なものではないので、「これ、引っ掛かる?」と担当編集者に尋ねました。
 担当編集者の答えは「活字だったら今はなんの問題もありませんよ」でした。
・「チャタレイ夫人の恋人」や悪徳の栄え」とか、その以前に「芸術か、ワイセツか」と
 いう論争をやっていたのが嘘のようで、「活字表現だったらワイセツは存在しない」と
 いうことになっていたらしいのです。
・実のところ、「エロ小説を書いてやろう」と思った私が気にしたのは、警視庁でもなん
 でもなくて、ただの「世間の目」です。うっかりエロ小説なんかを書いたりすると「あ
 の人はそういう人なんだ」という目で見られます。
・そういう世間の目もありますが、実際にそう見られるかどうかとは別にして、「見られ
 るんじゃないか?」と書く方が思ったりします。「外部からの規制」ではなくて、世間
 の目を気にする自分の側からの自己規制です。
・1980年代の前半までは「ヘアが一本でも見えていたら警視庁に呼ばれる」という状
 況になっていましたが、いつの間にかヘアヌードの写真は当たり前に存在しています。
・1990年代になって雑誌連載をスタートさせた私の「ひらがな日本美術史」という本
 の中には、春画を取り扱った章が三つありますが、そこに掲載された図版は無修正の丸
 出しです。当時の担当編集者は「写真じゃなけりゃなんでもありませんよ」と言ってい
 ました。   
・1970年代末に私が外国から持ち込んだものの中には、浮世絵の春画の画集もあって、
 当時の日本で見られない「日本文化」が外国ではオープンにされ、ちゃんとした「画集」
 として出版されていたのです。それがOKになったのかを、私は知りません。刑法が改
 正されたわけでもなく、それこそ「時代につれて性道徳も変わり、猥褻の意味も変わる」
 なのでしょう。
・今じゃ、写真でも全裸の丸出しのヌードは、性行為を明示、暗示していなかったら、男
 女どちらのものでも法的規制は受けないというところへ行っているみたいです。
・「猥褻」の規定がなくなって、ポルノ解禁ということになると「町中にへんなものが氾
 濫してよくない」という心配も生まれるかもしれませんが、もしかしたら、たとえそう
 なってもそれは一時的なことかもしれません。というのは、性的な刺激を与えるもには
 「一時は大盛況になるのに、しばらくすると流行らなくなってしまう」という、へんな
 傾向があるからです。人間の性に関する欲望は不変であるはずなのに、なぜそんなこと
 が起こるのでしょう?
・日本が戦争に負けて軍国主義がなくなると、「性の解放」というものが起こります。な
 んでそんなことが起こるのかというと、「性的表現」に目くじらを立てる「軍部」とい
 う国家の一部が消滅しちゃったからですね。
・1947年、東京新宿にあった帝国座という劇場では、ちゃんと陰部が隠せる衣装をつ
 けた裸の女性達が、舞台に設置された大きな額縁の中で西洋名画のような静止ポーズを
 取る「額縁ショー」が大ヒットします。ここから、隠れた戦後日本の大衆文化の代表で
 あるストリップショーは全国に展開して、旅回りの大衆演劇の一座を寂れさせることに
 なるのですが、今やその面影はありません。
・戦後の一時期日本各地の有名温泉地には、どこにもストリップ小屋やヌードスタジオが
 ありました。ストリップ小屋は、「はねたり踊ったり」系、ヌードスタジオは静止系で、
 その後の「撮影会」へとつながるようなものです。
・ストリップ劇場が斜陽になった頃は、大衆娯楽の王様だった映画も斜陽になって、映画
 界はやがてヤクザ映画とお色気映画の方に進んで行きます。

・「猥褻の罪」という項目を持ちながら、日本の刑法には、「どうなったら猥褻か」とい
 う規定がありません。だからかつては、「芸術か、猥褻か」という法廷論争がありまし
 た。
・「猥褻性のある行為の最たるものが人間の性行為である」というのは、今のところ刑法
 的には動かないところらしいですが、それだから「そのものズバリの裏DVD]は取り
 締まりの対象になってしまうのでしょうが、しかし性行為を描写しても、「一般人の性
 欲を刺激したり興奮させて正常な羞恥心を害する」ということがなければ「猥褻」では
 ありません。
・しかし、「十分にやらしい気持ちになって性欲を刺激されてはいても、それだけで別に
 羞恥心は刺戟されない」ということもあります。
・「猥褻」という規定は、「それを猥褻と感じるかどうか」によって作動するものですか
 ら、感じる人間次第で「猥褻かどうか」は揺れ動きます。人間次第でもあるし、時代状
 況次第でもあるので、「猥褻の行為は、社会の性道徳に反する行為であるから、時代に
 つれてかわり、性道徳も違ってくるのが当然で、それにつれて猥褻の意味も違ってくる」
 という面倒な表現も出て来たのですが、早い話、「馴れたら感じない」です。
・一生ものの人間の欲望を刺激するものであるにもかかわらず、しばらくするとエロス産
 業に衰退の色が忍び寄ってしまうのはそのせいでしょう。そこに「成人指定」という制
 限があるのは、思春期の人間は性的なものに過敏に反応してしまうから、刺激が強すぎ
 るのだということにもなりましょう。
・「時代につれて性道徳も変わる」というのは、時代の方だっていつまでも思春期的状況
 にはいないということかもしれません。   
・結婚した夫婦がセックスレスになる、しかも年を取ってからではなく、結婚して数年く
 らいの段階で早々にというのは、時代そのものが老成化して、早々に「馴れちゃった」
 が来てしまったという一面もあるのかもしれません。
・現代日本の成人したばかりの若い男女の半数近くに、片想いも含めた恋愛経験がないと
 いう、とんでもないデータもあります。「自分」であることに忙しすぎて、他人への関
 心が生まれないまま老成してしまったのかもしれませんし、もしかしたら「性的なこと」
 を本当に「猥褻」と感じて忌避してしまうのかもしれません。
 
・法に「猥褻の罪」というものがあることによって「猥褻」を取り締まる警察や検察の公
 権力は、「これは猥褻だ」と言います。「猥褻」であることの根拠は、「今までこうい
 うものが”猥褻”とされて来たから」です。  
・公権力が言うことですから、そのまま受け入れてしまえば「猥褻」になりますが、でも
 よく考えると、現段階で「猥褻」を仮定される「これ」が、過去において「猥褻」とさ
 れていた「こういうもの」と同じかどうかは分かりません。
・取り締まる検察や警察の方は、従来通り「猥褻」としたいでしょうね。「猥褻の罪」と
 いうものはあるのだから、従来通りの基準に従いたい、基準が存在してしまっている以
 上、従うのが自然です。でも、「猥褻の罪」で告発される側はそうじゃない。
・「え?もう時代が違うでしょ」です。時代が違っていると思うから、告発された側は
 「猥褻」だとは思わない。そこで法廷論争は始まったのですが、告発された側は、「猥
 褻でなければ何だ?」という問いに答えなければならなくなって、「これは猥褻ではな
 い、芸術だ」という論拠を持ち出すことになる。
・性行為というのは、出来る人にとっては、「日常的なもの」で、そこにはあっさりと
 「エッチ」とか「やらしい」「スケベ」というような言葉がくっつきます。そこに「芸
 術」を持ち込んだって、やはり無理でしょう。言ってしかるべきことは、「私の作品が
 ”猥褻”として葬られる理由はない」だけのはずですが、「猥褻」という法的な概念がと
 ても強いので、それと対抗するためには「芸術」という「どういう根拠があるのかよく
 分からないが、しかし強力な優位概念」をぶつけるしかなかったのです。
・文章表現の場合なら「人の感じ方次第」なので、「性道徳の変化」というやつによって、
 「取り締まってもしょうがない」になり、「活字には制限はないですよ」になってしま
 いました。でも「官能小説」と名を変えたエロ小説は、やはり「いやらしさを感じさせ
 る」が目的のはずですから、全然「猥褻」のままでははるはずですけどね。
   
・「性表現の自由」というのがめんどうくさいことになってしまったのは、「猥褻の罪」
 というものが、刑法に存在しているからです。明治時代になって、行政府が「風紀」と
 いうものを問題にして、性表現に規制をかけた。「猥褻」という概念を導入して取り締
 まったから、我々は「性的なもの=猥褻」というような考え方を刷り込まれてしまった。
 だから「明治以前の日本に性表現のタブーはなかった」と言われると思う人は「え?」
 と思ってしまう。
・明治時代以前の日本には性表現のタブーはなかったし、性にもほぼタブーはなかった。
 その昔の日本には「変態性欲」という概念がなかった。
・日本人には性的タブーがなくて、その代わりにモラルがあった。だから、夫のある女が
 他の男と肉体関係を持つと、女とその相手の男は「姦通」の罪に問われた。そのおかげ
 で、今でも既婚者の婚外性交渉は「不倫」というカテゴリーに入れられる。

それは「生理的なこと」だからしょうがない
・日本には「万物の創造主」というような神がいません。だから、「そこに日本が存在す
 る世界」を創造するとなると、そのための具体的な行為が必要になります。日本人にと
 って、その「具体的な行為」というのは性交で、だからこそ日本神話は、男女二神によ
 る性交で始まります。
・日本人は「世界の始まり」をまるで無人島に流された男女の生活の始まりのように捉え
 ています。よく考えてみれば、イザナギとイザナミの男女二神は、「大地を固めろ」と
 いう指令しか受けていないので、その先のことは「自発的行為」になります。
・古代に「性交」を表す動詞はないかといったら、あります。それが「まぐわふ」です。
 「わぐわう」とか「まぐわい」ということになると、現代でも十分にいやらしい意味が
 あって、「交合」とか「媾合」という漢字に「まぐあい」というルビを振ったりします
 が、もしかすると「まぐわう」にいやらしい意味がくっついたのは、「まさぐる」とい
 う意味が重なっちゃったからではないかというようなつまらないことも考えられます。
 というのは、「まぐわう」は「目交う」で、視線が合うことなのです。
・昔は、家族は別として、男女が顔を合わせるおとはありません。だから、他人である男
 女が顔を合わせてしまったら、もうそこに「性交の合意」が出来てしまうのです。
・「身分の高い娘は家の中にいて、男と会うことがないのが当然」という平安時代になる
 と、「逢う」とか「見る」はほとんど「セックスするの同義語になる落ち着き方ですが、
 「古事記」の段階では、あだ「視線が合う」が大変なことになってしまう時代ですか
 ら、そう簡単に「会う」とか「逢う」の字は使えずに「不慮の事故に遭遇する」と似た
 ような「遭う」です。
    
・女性の性器に呪術的な力を見てしまう考え方はわりと長い間続いて、第二次世界大戦に
 出征する日本軍の兵士は、銃弾避けのお守りとして女性の陰毛を持って行ったりしまし
 た。男からすれば、かなりの部分が体内に隠れて存在するような女性性器は、なにが潜
 んでいるか分からない神秘の洞窟のようなもので、呪術的な力を感じたりもするのでし
 ょう。が、じゃ、その持ち主である女性にとってはどうなのでしょうか?
・昔の女にとって自身の性器はどういう意味を持つものだったのかというと、それはつま
 り「女であることを証明するもの」です。 

・古代ギリシアの女神像以来、整容はオッパイ文化です。女性の衣装でも胸を誇示します。
 しかし、日本の彫刻の中心は仏像で、仏様は女でないのでオッパイがありません。日本
 のオッパイ文化は土偶の段階で終わっているようなものです。性愛の具としてのオッパ
 イは、日本ではかなり無視されているのです。
・江戸時代の日本は春画の全盛期で、当時の日本はこの方面では世界一です。やたらの数
 の春画が出版されていますが、全裸のからみ合いというのはそれほどありません。浮世
 絵が肉体表現を獲得した後では、ほとんどと言っていいほど、着物を着てやっています。
 男も女も和服の着流しですから、裾をまくればすぐに性交可能で、ということはつまり、
 性交中の女のオッパイが見えることはそんなにないということです。
・我々はセックスの最中に男が女のオッパイを揉んだりオッパイを吸ったりするのを当り
 前のように思っていますが、意外なことに江戸時代の浮世絵春画にそういうシーンはほ
 とんどありません。女が官能に疼いて乳房を揉むというのもありません。するんだった
 ら、ホトに指をもって行きます。裾をまくってするセックスシーンでは、オッパイでは
 なく口を吸います。男女共に性器を舐めるとかしゃぶるをしますから、口唇的なものが
 未発達だったということはありませんが、大の男がオッパイにむしゃぶりつくという図
 柄は、まずありません。  
・浮世絵のジャンルには「あぶな絵」というものがあります。意味的には「あぶない絵」
 ですが、春画ではありません。春画がAVだとすると、あぶな絵はグラビアです。グラ
 ビアにはセックスシーンはありません。享保の改革で春画が禁止された時があって、
 「だったら・・・」というんで出て来たのがあぶな絵です。日常の中で、女性の肉体が
 ちらりと見える瞬間を絵にしています。
・そういうあぶな絵があるのだから、江戸時代の男達がオッパイに関心を持っていなかっ
 たわけでもないし、だからこそ舞台の上では「乳改め」なんかが演じられたりもするの
 ですが、江戸時代の男達にとって、オッパイは「見る刺激」ではあっても、しゃぶった
 り揉んだりして楽しむ性愛の具ではないようです。
・かつて、日本の男にとってオッパイというものは、子供がむしゃぶりつくものであって、
 大人の男がしゃぶったり揉んだりするものではなかった。  
・「日本の男はオッパイに関心を持たない」ということはないと思います。オッパイ丸見
 えのあぶな絵はいくらでもありますから。しかし、昔の日本人はオッパイを性行為と結
 びつけなかった。「女の肉体は女の肉体でなんだかそそるものがある」と思っても、そ
 れが性交とは直結しない。「AVとグラビアの差」を明確にする日本人は、昔からいた
 ということかもしれません。 
・神通力を得た「久米の仙人」は、雲に乗って空を移動していますが、ふと下を見ると吉
 野川で、そこで若い女が洗濯をしています。昔の洗濯なので、着物の裾をまくって足で
 踏み洗いをしていたのですが、久米の仙人は「女の脛の白さ」を見てクラクラッとなっ
 て、空から落ちてしまうのです。平安時代の前期か奈良時代のこととされる話ですが、
 やっぱりあぶな絵的な「肉体ちら見せ」は、十分に効果的だったのです。 
・久米の仙人を落下させる「膝から下丸出しの若い女」は浮世絵の題材になります。女脛
 というものはそのように危険なものなのですが、そういうことを知らない女子高生達は、
 太腿まで見えているミニスカートを着用して、平気で会談を上って行きます。
・江戸時代の浮世絵版画が描くのは、真っ裸のからみ合いではありません。ほとんどが男
 女共に着物を着ていて、その裾をめくりあげて下半身だけを丸出しにして行為に及んで
 います。それが浮世絵春画の基本スタイルです。
・春画というのは、浮世絵版画の中では「高級品」のジャンルで、彫りも刷りも手が込ん
 でいますし、版木の色版も数を重ねます。だから、春画の中の登場人物は凝った衣装を
 着ることが出来るのですが、凝っているのはそれだけではありません。その場所の設定
 や情景描写にも凝ります。
・座敷で若い後家さんが若い男とやっていたり、座敷で若い娘が前髪姿の若い男とやって
 いて、その若い男のケツを中年男が犯しているとか、奥女中がむくつけな仲間とやって
 いるとか、後家さんだから、眉毛を剃ってお歯黒をつけているとか。同じ「座敷」では
 あっても、江戸時代のラブホでもあるような茶屋の座敷であるのか、お嬢様が普段に暮
 らしている商家の奥座敷なのか、あるいは台所の隅なのかで違います。武家の奥女中な
 ら髪型も衣装も違いますし、「高い身分」であるなら、相手もそれ相応に設定されます。
・どっちにしろ、そういう設定を活かすためには、それなりのしっかりした情景描写が必
 要になります。そういうことからして、江戸時代の浮世絵版画の登場人物が彼等にふさ
 わしい着物を着ているのは、そのことによってそれが行われる場所や人物の日常的なリ
 アリティを表現するためだということが理解されます。
・江戸時代の着物を着たままの浮世絵春画は、「日常の中の非日常はいつでも現われるの
 だ」という、人の願望を表したものだと言えるのでしょう。
・江戸時代に大量の春画が出回っていましたが、それで風紀が乱れたとは思いません。江
 戸時代に多くの人は日常的な「褻」の世界に従事することに忙しかった。だからこそ、
 思いのままにならない「晴」の世界を夢想していた。大量に出回った春画需要の背景に
 あるのは、意外にあっさりしていた現実世界のリアリティかもしれません。
・誰も見ていない大自然の中でセックスをすると、とんでもない解放感を与えられると言
 う人もいます。セックスだけではなく、排泄行為に関しても同じことを言う人がいます。
 個人的な行為が大自然と一体化してしまうから、自分が大自然の一部に溶け込んだよう
 な気がするのでしょう。それは、「自分はこの大自然の中で生きている!」ということ
 を証明してくれるようなマーキング行為でもあるはずです。
・それと同時に、自分の性的行為を人に見てもらいたがる人もいます。その人達は、大自
 然ではなく、広大ななる人間社会の中で閉塞感を味わっていて、人間社会に対して「自
 分は孤立していない」ということを示したいのでしょう。それもまたマーキング行為の
 一種だと思われます。江戸時代に春画が氾濫していたのも、「この現実の中に、そうま
 まならない欲望が存在していてもいい」ということを示す、一種のマーキング現象では
 ないかと思います。

・平安時代の結婚は、女の許へ男が三晩連続して通うというステップを前提にします。こ
 れを踏襲したのが江戸時代の遊廓で、客は女のところへ三日続けて通わなければなりま
 せん。最初の日が「初会」で二日目が「裏」、三日目にならなければ女とは同衾出来な
 いというシステムで、二日目までは「顔だけは見せました」という儀式でしかないので
 すが、平安時代の結婚は最初の日からやれます。
・男は夜遅くにやって来てやり、夜が明ける前に帰って行き、家に帰ると女の許に手紙を
 贈る。このことを三日目の夜まで繰り返すわけです。  

「FUCK」という語のない文化
・モーゼの十戒に「汝姦淫するなかれ」という一項があります。「姦淫」がどんなことを
 指すのかというと、広い意味では「性的不品行」で、モーゼの十戒における「姦淫」は
 姦通、他人の妻や他人の婚約者の女との性交であるらしいです。
・「旧約聖書」の世界は、「産めよ増やせよ、地に満てよ」の原則結びついているので、
 妊娠に結びつかない性行為はだめなのです。妊娠に結びつく行為であっても、その最終
 段階で「妊娠を成就させない行為」にしてしまったら、罪なのです。だから、ローマ法
 王は長い間「避妊」を認めなかったのです。
・「旧約聖書」の論理は「子孫繁栄第一」で、「性交は子を得るため」です。その原則が
 あるからこそ、原則から逸脱した性的行為はタブーになるわけですが、日本にそんな原
 則があるのかどうかは知りません。「ない」とはっきり言ってしまった方がいいですが、
 「性的逸脱」をジャッジする原則が日本にはありません。だから「日本には性的なタブ
 ーがないのか」ということになります。
・タブーというのは「なんだかよく分からないけれど”してはいけない”とされる行為」
 と思われて、「近代にはない古代的なもの」と考えられたりもしますが、そういうわけ
 ではありません。   
・タブーというのは、共同体の存続を守るためのもので、「旧約聖書」が「子孫繁栄」を
 第一にするのは、発展がむずかしい砂漠の民の宗教として起こったものだからで、「人
 口が多くなるとやばくなるから性交を控えろ」とは考えずに、「この状況の中で発展し
 て行かなければならないから、まず”産めよ増やせよ、地に満てよ”だ」ということに
 なって、「妊娠に結びつかない行為で精液を洩らすなんていうもったいないことをする
 な」という形で、性的逸脱をタブーとしてしまうのでしょう。
 
・古代の日本にだって、ちゃんと性的なタブーのようなものはあります。
・神社では今でも旧暦六月の終わりに「水無月祓」といって、神社の前庭に置かれた大き
 な茅の輪を人にくぐらせるところがあります。今では「健康を祈って」ということにな
 っていますが、祓というのは本来、神に祈って罪をなくしてもらう、祓ってもらうこと
 です。水無月祓はその名残りです。ということは、古代の日本には「神様に頼んで祓っ
 てもらう必要のある罪」というものが存在したのです。
・古代の日本には、「天津罪」と「国津罪」というのがあり、天津罪が社会秩序を破壊す
 るような罪であるのに対して、国津罪は人間の性的タブーに関するものが中心です。
・「古事記」の「国津罪」に該当するものを挙げると、それが「性的タブー」であること
 ははっきりすると思います。「古事記」が挙げるのは「上通下通婚」「馬婚」「牛婚」
 「鶏婚」「犬婚」の五つです。
・「上通下通婚」の「上下」は親子のことで、だからこれは近親相姦なのです。
・「延喜式」では「上通下通婚」に該当するのは四つに分かれていて、それは、
 ・己が母犯せる罪(母子相姦)
 ・己が子犯せる罪(父娘相姦)
 ・母と子と犯せる罪(母とやってその娘ともやるのはいけない)
 ・子と母と犯せる罪(娘とやってその母ともやるのはいけない)
・あまりやっちゃいけないことだからつい隠していて、隠しているとそれが「穢れ」にな
 る。つまり、「良心が濁ってしまうから、オープンにして神様に清めてもらう」が大祓
 という国家的行事で、そういう行事が存在するということは、国民が「やらなくてもい
 い身近なものに対してついやっちゃう」 ということをしがちだということで、「それ
 は身近な相手かもしれないけれどやらない方がいいよ」というジャッジは、神が下すも
 のでもなく、国家が下すものでもなく、国民の間で自然発生的に理解されているものと
 いうことになってしまいます。
・つまり、日本の古代には「性的なタブー」というのはなかった。ただそこに「モラル」
 があったというだけです。
・それを考えると、「我々はとんでもなく高度な文化地域に暮らしていたんだな」と思っ
 てしまいます。「タブーはないがモラルはある」という文化の高度性はすごいもんです。
 
・日本語には「FUCK]に対する動詞がありません。女性器名をサ変動詞にして「おま
 んこする」という種類の表現にしているだけで、性交自体を表す動詞がありません。
・なぜその動詞がないのかというと、日本には「その行為」だけを特別にピックアップす
 る習慣がなかったからです。日本では、その行為が「逢う」ということに含まれていて、
 逢ったらもうやっちゃってるわけで、「その行為の部分」だけを特別視する必要がない
 のです。 

・平安時代は、今の常識からすれば不思議な時代です。まず、女たちに貞操観念というも
 のがありません。そして、強姦罪というのものがありません。女が兵器で二股三股をか
 けて、「色好み」とか「恋多き女」になっているのに、そのくせ「男の不実」を嘆くこ
 ともあります。現代は平安時代に近づいてんのかもしれないとは思います。
・平安時代の貴族の娘は、自分名義の土地建物を持っています。不動産の相続は父から娘
 へされるのが当時です。一方、貴族の息子にはその相続がありません。「住む家ほしけ
 りゃ、自力で女のところに転がり込め」というのが、当時の「通い婚」の実態ですから、
 いつまでも親の家に住んでいられない息子たちは、必死になって女との縁を求めます。
 結婚が成立すれば、男は女の家に転がり込み、舅である女の父から様々な援助を受けて、
 やがては女の邸を自分のものにして、これを女が産んだ娘に相続させます。
・なんでそういうことになるのかと言えば、当時の「顔を隠す階級」の女達に自活能力が
 なかったからですね。なにしろ就職口がほとんどない。平安時代は「女房文学の時代」
 と言われていて、多くの数の女達が宮仕えに出ましたが、彼女達のあり方は、今で言え
 ば、「非正規雇用の派遣」と同じです。「正社員」というのは、天皇を中心とする朝廷
 に雇用されているもので、皇后というのは「正社員」です。しかし、清少納言や紫式部
 は、皇后が私的に抱えた女房なので「正社員」ではありません。
・宮仕えに出た女のことを悪く言う男のことを怒って、宮仕えしている自分を自慢してい
 る清少納言は、たとえて言えば「超一流企業で働く派遣社員」です。だから、その立場
 は不安定で、それだからこそ彼女は「えらい人だっていくらでも会える」というような
 自慢をして、その挙句に「晩年は悲惨なことになった」という言われ方をします。清少
 納言に限らず、小野小町だって「若い時には美貌をかさに着ていたもんだから、それ見
 たことか」的に想像力を張りめぐらされてしまって、「悲惨な晩年の小野小町」という
 伝説も生まれてしまいますし、紫式部だって「嘘八百の物語を書いて人を惑わしたから
 地獄に堕ちた」などと言われるようになってしまう。
・平安時代は、身分の差がはっきりしている階層社会で、朝廷につながる男達の身分は世
 襲制で、大体のところは生まれと同時にほぼ決まっているようなものだから、男はなか
 なか自分の身分を上げることができない。しかし、娘のところに高い身分の男が婿とし
 てやって来てくれたら肩身が広くなる。婿の力でいい思いが出来るかもしれない。それ
 で、「いい婿」をせっせともてなすようになり、大物貴族の方だって「身分の高い貴族
 の娘」より「身分が高くないが地方に転出して蓄えを得た受領クラスの男の娘」を妻に
 するようになる。前者だと、その妻の生活を支えなければならないが、後者だと、自分
 の生活をバックアップしてもらえるからです。
・自分の娘が自分より身分の高い男の妻になる可能性もあるし、そうなってもらわなくて
 は困るから、娘に対して敬語を使う父親は当たり前にいる。その娘は厳重に、人目に触
 れないように、陽の光にも当たらないように育てられるから、夜中に不意に侵入者が現
 われても、声を出すことさえ出来ない。入って来られたらやられちゃうのが当然だから、
 貞操観念もへったくれもない。女の方にそのつもりはなくても、男の方が「お試し感覚」
 で一度来て、やったらもうそれっきりということだってある。
・だから、平安時代の結婚成立のためのルールとしては「三晩続けて通う」というのがあ
 ったけれど、「一度やれちゃったからもういいか」と考える男だっている。なにしろ平
 安時代は一夫一妻制の時代じゃありません。既婚の男が平気で「恋」を求めてやって来
 て、「別にここで結婚を成立させなくてもいいか」の不倫状態になることはいくらでも
 あるし、男が求めるものが「女」であるのか、「女にくっついて来る財産」であるのか
 どうかもはっきりしない。だから、何人もの男が同時に「逢わせろ」と言ってやって来
 たりして、女にそのつもりがなくても二股、三股状態になってしまうことは当たり前に
 ある。  
・「恋」という言葉が氾濫する平安時代ですが、相手の顔を見て恋をしているわけじゃな
 いですね。だから、三晩通って結婚を成立させた男でも、成立した朝の光が訪れるまで、
 自分の妻の顔を知らないし、結婚を成立させた後でも妻が顔を見せようとしなかったら、
 「結婚生活に慣れた妻が顔を隠すのを忘れた」ということになるまで、自分の結婚相手
 の顔を知らないままです。
・そんな時代に男が何によって恋に落ちるかと言ったら、「噂によって」ですね。それ以
 外に「恋の相手」となる女の知りようはない。噂を元にして自分の妄想をふくらませる
 わけですから、出会い系のネット恋愛に似ていなくもありません。「高貴な姫君だから
 さぞかし・・・」と妄想を募らせた光源氏が実際にやった相手は、「意志薄弱なブス」
 だったというのは、「源氏物語」の末摘花の巻に書かれていることですが、これは「殊
 更の作り話」というよりも、当時にはありがちなことだったということだけでしょう。
・「性交は可能だが相手の顔を見られない」というへんてこりんなことが当たり前である
 のは、平安時代の性交渉が、明かりのない闇の中で行われるものだったという理由が大
 きいと思います。女達は、照明のない、明かりといえば月の光が差し込むのが精々であ
 るような暗い夜の中で男を待ちます。男が女のところへ出掛けるのも、夜が十分暗くな
 ってからで、夜が明ける前には女のところから出なければなりません。「人にばれたら
 困るから」であるよりも、「そうするのがルールだから」です。
・性のタブーなんかどこにもないけれど、恋及び結婚に関する行為は「秘め事」でもあっ
 て、その行為は「男が女のところへ出掛けて行く」というところから始まって、「夜明
 け前に帰って行く」まで続くものなのですね。だから、女のいる部屋に力ずくで入り込
 んだくせに、光源氏はその行為後も「こまやかに語らひ置きて」ということをしなけれ
 ばならない。「事が終わったらさっさと出て来る」じゃいけないわけですね。女にすれ
 ば、勝手に入ってきた男にやられて、しかもその男が行為後も一方的に喋り続けている
 わけですから、踏んだり蹴ったりではあるのでしょう。
・女がやりたくなって男の所へ出掛けて行くなんてことは、まずありえない。「男がやっ
 て来る」ということがセックス可能の条件で、男は律義にも夜しか来ない。男が「した
 くなって女の部屋に昼間からやって来る」というのは、「結婚してもう同じ敷地内に住
 んでいる」というようなことでもないと無理でしょう。
・男が「やろう」と思って女の所へ出掛けるのなら、それは「新しい相手」であっても
 「以前からの相手」であっても、「恋を始める」で「恋をまた始める」ですから、そう
 なればその時間帯は必然的に「夜」ということになってしまうはずです。
・夜は「性交の時間」でもあって、性交につながることは夜の中で行われます。だから、
 華やかであってしかるべき平安時代の「帝のお妃になる女の入内の行列」も、真夜中に
 行われます。着飾った何人もの女房を乗せた牛車が何台も続くのですが入内の行列が、
 それは「性交にも続く秘め事」でもあるので、人の目に触れない夜中に行われるわけで
 すね。
・女と夜との相性がよくて、女にとって夜は、「身を守ってくれるヴェール」でもありま
 した。だからこそへんてこりんなことも起こるのです。つまり、光のない闇の中で性行
 為が行われるわけですから、女が男に袴の紐を解かれて「ホト」を丸出しにされても、
 女にとっては「するべきことをされている」というだけで、「見られている」とも思わ
 ないし、「恥ずかしい」という気になる必要もないのです。清少納言のように、「私は
 女よ」ということを証明するために「顔」ではなくて「下半身の性器」を丸出しにして
 しまうのも、平気だったのかもしれません。
・この時代の女にとって、「犯される」というのは、夜の中の性交の方にではなく、「顔
 を見られる」というところにあったはずです。
  
・「闇の中でセックスをするのは平気だけれど、顔を見られるのはいや」と女達が思って
 いる平安時代は、へんな時代です。思春期の人間が自分のことを勝手に「醜い」と思い
 込んでしまうのと似ているような気もしますが、なんでそんなことになってしまうのか
 と言えば、この時代の人間が「自分の肉体」なるものを自分で把握していないからです。
・醜貌恐怖のような状態は、女ばかりではなく男にもあります。男だって身分が上の方の
 人間になれば、「他人から直に顔を見られる」ということがあまりなくなります。人か
 ら見られず、自分が一方的に見るだけということになれば、「自分の外貌がどんなもの
 か」ということを意識しなくなり、自分の容貌を把握するということが出来にくくなり
 ます。  
   
後白河法皇は、実際に起こった「伊勢の斎宮の密通事件」をポルノな絵巻物にして作ら
 せてしまいます。それは「小柴垣草子」あるいは「灌頂の巻」といわれる絵巻ですが、
 「神の花嫁」として伊勢神宮に下って行くはずの斎宮が、身を清めるため京都の嵯峨野
 にある野の宮に籠もっていて、その時にいた警備の男と密通をしてしまったという事件
 を題材にしたものです。    
・伊勢の斎宮は、天皇の未婚の娘がなるもので、野の宮に籠もって精進潔斎をしているも
 のだから、男なんかご法度であるはずが、でもやってしまった。斎宮は斎宮の立場を罷
 免されて出家してしまった。「神の花嫁」から「独身を守る尼」へと直行ですから彼女
 も可哀相です。
・「小柴垣草子」は「本邦初」であるような堂々たる春画の絵巻物です。登場人物は二人
 だけです。でもそれだけでスキャンダルを成立させる要件は満足させているのだから、
 後はやるだけです。
・男の名前は平致光で、斎宮の目から見ると「とてもいい男」で、建物の中からこれを見
 ていた斎宮はたまらなくなってしまうのですね。
・斎宮は大きく股を広げて、「白く、美しき所」も「黒く、にくさげなる所」も致光の前
 に丸出しにして、その尻を抱え上げた致光は「黒い所」の中心を舐め、やがては真っ裸
 になって、そのど真ん中に己れの物を嵌めてしまいます。一段高い廊下で斎宮は股を広
 げ、地面に立った男はそれに「成り成りて成り余れる処」を嵌め込み、廊下に上がって
 立ったままやったり、二人で重なり合っりして、ずーっとそれだけ。
・この時代にセックスのタブーはありません。時代の盟主である後白河法皇自身が官能作
 家としての筆を執られているわけですから、ポルノの絵巻物は他にいくらでもあったっ
 てよさそうなのに、「小柴垣草子」しか見当たりません。
・しかし「小柴垣草子」は「ポルノであることを目的とした絵巻物」ではないのです。こ
 れは歴史上の大事件を再現した絵巻物なのです。
・「夜になればセックスの時間」ということを平気で受け入れて暗い中でセックスを当た
 り前にしていたこの時代の人達は、「ポルノか否か」という線引きをしていないのです。
 大放火事件も、斎宮のスキャンダルも「有名な事件」として同列なのです。だから、後
 白河法皇の時代って「性表現のタブーがなくなった」というわけではありません。
 「人はみな肉体というものを持っている」ということが、この時代になってやって理解
 されたのです。  
・闇の中で性行為が行われている以上、自分達の肉体は見えません。後白河法皇の時代に
 なって、「肉体を持ったものとして人間を見る」ということがやっと起こっただけで、
 それは別にポルノである必要はありませんでした。性的には解放されている時代なので、
 したかったら「やる」ということを考えればいいのであって、そういう時代だから「ポ
 ルノを見たい」という欲望にあまり気づかなかったのでしょう。

男の時代
・紫式部が生きた時代は、摂関政治の全盛期です。摂関政治というのは、藤原氏の摂政や
 関白が天皇に代って政治の実権を握るスタイルですが、「政治の実権を握る」というよ
 りも、「人事の一切は掌握する」と言った方がいいように思います。
 人事の一切が摂政や関白に握られているので、この意向に従わないようなことを天皇が
 計画しても、「NO」と言われて不可能になってしまいます。
・奈良時代になる以前の摂政は、皇太子級の皇子のための職掌でしたが、これが平安時代
 になって、皇族外の藤原氏のものになりました。どうしてそうなったかと言うと話は簡
 単で、藤原氏の娘から生まれた幼い皇子が即位して、後見役として母なる娘の父が起用
 されただけです。「起用された」と言うよりも、「他に人がいないじゃないか」と思わ
 れた結果です。
・その後で、天皇が幼い間の政治代行者を「摂政」にして、天皇が元服すると同じ職掌を
 「関白」と言うようになります。天皇は十代の初めで元服してしまいますから、「元服
 =成人した」と言っても、まだそんなに一人前ではなくて、お母さんの父である藤原の
 お祖父さんの助力が必要となるのです。
・藤原の氏の長者であるような者が摂政になり関白になるために必要なのは、「皇子の子
 を産む娘」です。だから、摂関政治の時代に価値があるのは、男ではなく女です。
・この日本は昔から女が力を持っている国です。平安時代以前、女帝は何人もいます。
 「その女帝は飾り物だ」と言いたがる人もいますが、複数の女帝が存在した結果、父な
 る天皇から皇位継承を受けた男の天皇というのは、日本の最初の女帝である推古天皇の
 時以来、平安京を作った桓武天皇になるまで一人もいないのです。桓武天皇になって初
 めて、男の天皇を父にする天皇が登場します。飛鳥から奈良時代まではそういう時代で
 すから、この時代の女達は強いです。自分から進んで兵を率いて戦争をしたり、我が子
 を天皇にするために現天皇の暗殺を計画したりします。そういう「強い」が「凶暴」に
 方に傾いた女達のいた後、多分ですが、女の父親達は娘を鎖につなぐ方法を考えたので
 しょう。娘を尊敬し、持ち上げ、「でもそれは私の力だよ」と言って、娘に父親を尊敬
 させるのです。

・藤原道長の息子頼通は不思議な人です。
・藤原頼通が最後の摂政関白だったというわけでは全然なく、その後も力を失いながら摂
 政関白は存在し続けますが、政治の実権を天皇に与えてしまって、そのことによって天
 皇に院政を可能にさせてしまった張本人が藤原頼通であることは確かです。
・藤原頼通の最大の失敗は、院政の時代の最初の天皇である後三条天皇に娘を贈らなかっ
 たことです。摂政関白がしなければならないことは、藤原道長がしたように、代々の天
 皇に娘を贈り続けることですが、頼通はそれをさぼった。だからそこで、娘を介して天
 皇の上に立つという回路は途切れてしまった。
・摂関家の栄華を維持するために必要なのは、まず娘を持つことです。道長の幸運は、后
 になった三人の娘を産んでくれた妻に恵まれたことですが、頼通の正妻である皇族出身
 の隆姫女王は、子供を産みませんでした。そういう場合は妻以外の女を得て子供を産ま
 せるのが定石ですが、頼通はそれもなかなかしませんでした。摂関家を存続させるため
 には、子供を作るというのは不可欠のことですが、頼通がそれをとりあえずしなくても
 よかったのは、父の道長が三代の后の座を頼通の姉や妹達でふさいでいたからです。
   
・鎌倉時代の前半に出来たと思われる絵巻物に「稚子草子」というものがあります。
 内容は「言い寄って来る年上の坊主にはちゃんとやらせてくれる心掛けの稚児達の話」
 文章だけならそれほどのすごさはありませんが、すごいにはその絵です。色白でムチム
 チの大柄な体をした稚児と坊主が全裸で絡み合っています。その肉体の充実した丸出し
 感は、「小柴垣草子」の斎宮と同じで、こちらはほぼ「色白の体育会系のマッチョ」で
 す。
・男色を成り立たせるのは、身分の上下です。つまり、上の人間が「やらせろ」と言った
 ら、身分が下の男は脱がなきゃならない。顔も見えない相手とやるために、断られるこ
 とを前提として何度も通わなければならない男女関係が、どこかで謎のベールに包まれ
 ているのに対して、初めから顔が見えている男同士の場合は、社会的な位置関係がその
 まま投影されてしまうのです。

・摂関政治の時代に「武士」というものはほとんど表舞台に登場しません。しかし、院政
 の時代になると源義家という「武士界のスター」が登場します。マッチョな稚児のいる
 僧侶の世界は都から遠いけれども、都には武士、当時的には「武者」ですが、が登場し
 て、「あれはカッコいい」と上皇様も思し召されるようになるのです。つまり、「男が
 男性的であることがカッコいい」とう新しいトレンドの登場です。
・摂関政治の時代というのは、人の頂点に立つ天皇が、「性的指導権」を持てなかった時
 代です。なにしろ、天皇の后は天皇が決めるのではなく、その后候補となる娘の父親、
 摂関家の長が決めるのです。天皇が「自分の后くらい自分で決めたい」なんてことを言
 い出すと、「困ったお方だ」で、藤原氏全体の人事権を掌握している「后の父」にそっ
 ぽを向かれてしまう可能性があります。ところが、藤原頼通が子供を作るのに熱心では
 なく、后になる娘を贈ろうにも贈れなくなり、そういう状況に目をつぶって兄弟喧嘩を
 しているうちに、「摂関家の主流に属する后」持たない天皇や、「摂関家主流に属さな
 い女性」から生まれた天皇が登場してしまうのです。それはつまり、天皇の性的主導権
 が、藤原頼通達のいた摂関家から離れ、天皇自身に帰属するようになってしまうことで
 す。
・天皇はパブリックな存在です。だから、その下に朝廷という行政のシステムがあって、
 そこには相変わらず、多くの藤原姓の人間が所属してシステムを動かしています。しか
 し、天皇が譲位してそのシステムから離れてしまうと、もうシステムに縛れることがな
 くなります。しかも、「私は天皇の父だからもっと偉い」ということもなくて、朝廷を
 動かしうる私的なシステムが作れるのです。そういうシステムを作って朝廷を動かして
 しまうのが院政なのです。不思議かもしれませんが、性的主導権の獲得は、人事権の獲
 得とも重なってしまうのです。院政時代の男色は、そのようにして存在します。
・院政時代の保元の乱に敗れて死んだ藤原頼長という人がいます。彼は摂関家の次男で、
 関白に次ぐポジションの左大臣になりました。関白になったのは、彼とは母の違う兄の
 忠通で、不仲な兄弟のもつれはついに合戦というところまで行ってしまいますが、藤原
 頼長は院政時代の男色のあり方を代表する人物の一人です。彼は何人もの男、元服前の
 未成年なんかではなく成人男性と性的関係を持っていますが、彼の欲望を刺激するのは
 「美しい」というものではありません。人間関係の補強のために、男と性的関係を結ん
 でしまうのです。
・院政の時代は男色の時代です。というか、男色の時代の始まりとなる時代です。院政の
 時代はそのまま、武士の時代へとつながっていて、武士の時代は「男の時代」です。
 時代の中心軸に「戦い」があって、男達はこれを前提に存在していて、女の地位は低く
 なって、「子供を産むもの」になってしまいます。
   
・誰が言い出したかは知らないけれど、「日本三大悪女」というのがあって、それは源頼
 朝夫人の北条政子、足利義政夫人の日野富子と、徳川家光の乳母の春日局ですが、なに
 が「悪」かと言えば、つまるところ「権力者のそばにいた出しゃばり女」というような
 もので、三人とも武士の時代になってからの「悪女」です。武士の世界は、女を排除し
 て男だけで出来上がっているのが基本だから、そこへ入り込んできた女は「悪女」と見
 做されてしまう。
・武士の時代の初めの北条政子は、頼朝の死後に男達の信頼を集めていたし、日野富子は
 公家の娘だから、伝統的に「悪い女」であっても不思議ではなく、「出しゃばり婆ァ」
 の春日局とはちょっと質が違うかもしれません。 

・明治七年、実年齢十三歳だった森鴎外は成績優秀で、若すぎると年齢制限で入学できな
 い後の東大医学部の予科に、年齢を二歳水増しして合格、入学しましたが、若すぎる彼
 は、学校へ行くのに懐剣を隠し持って行かなければなりませんでした。なぜかというと、
 十三歳の少年は学校へ行って「貞操の危機」に遭遇しそうだったからです。
・当時の学生、もちろん男子学生です、は硬派と軟派の二つに分かれていました。硬派は
 「年下の男」を恋愛対象として、軟派は女を恋愛対象とするもので、「恋愛対象」とい
 う言葉が美しすぎれば「性欲の対象」です。だから、学校で誰よりも若い森鴎外は硬派
 の同僚に迫られることを怖れて、武器を携帯したわけです。
 
・平安時代に、恋愛と結婚の様式はすでに完成してしまっています。男は、顔も知らない
 女に対して「これかな?」と目星をつけて手紙を贈ります。女の方から「いいかもね」
 というような返事が来たら、暗くなるのを待って出掛けて行き、暗い中で関係を持って、
 女と会話なんかをして、夜が明ける前に帰って行きます。自分の住まいに帰って来たら、
 朝になりきる前に、女に対して「後朝の文」というものを贈ります。これを三日続けた
 ら「結婚成立」で、男が三日のうちに来なくなったら、「不実の男」と言われて結婚は
 中止か、じゃなかったら「彼を信じて待ってみるわ」のペンディング状態になります。
・三日間を無事に過ごすと、「誰だか分からないけど男が来ていましたが、その男はこの
 人です」ということを女の身内にオープンにする「所顕し」というパーティが開かれて、
 結婚成立です。その前に新郎新婦の二人は、「三日夜の餅」という餅を食うわけです。
 三々九度の盃の代わりに、餅を食います。
・吉原をはじめとする江戸時代の幕府が認可した正式の遊郭の遊びのシステムは「この平
 安時代の結婚」を踏襲する形で出来上がっています。
・遊郭でなにを遊ぶのかというと、「結婚のあり方を遊ぶ」です。平安時代の終わりから
 江戸時代までは四百年もあって、その間に結婚の段取りはそんなにめんどくさいもので
 はなくなっていたのに、どうして江戸時代にこんな段取りが「遊び」の中に復活したの
 かはよく分かりませんが、落ち着いた時代になって「遊び」だからこそ、「古い時代の
 悠長にして優雅なシステム」が復活したんだろうなと考えられます。
・「遊女」というのを、そもそも「売春を業とする女」と考えるのが誤解です。「遊女」
 の「遊」は「エンターテインメント」の「遊」で、古い日本語で「あそぶ」というのは
 「音楽を楽しむ」「演奏する」であり「歌を歌う」で、「遊女」はポップスを歌う歌手」
 でもありました。
・「長者」というと、「富裕な暮らしをしていられる人」ですが、女で「長者」というこ
 とになると、これは「遊女宿を経営する、自立した遊女」のことです。「遊女宿」とい
 うのは、当然、売春施設ではなくて、「遊女が客を接待する宿泊施設」で、平安や鎌倉、
 室町の街道や、海や川の港や船着き場のある場所にはありました。江戸時代になって街
 道が整備されるとこういうものはなくなって、ただの宿場になってしまいますが、それ
 でもその宿場には「飯盛女」という、客の求めに応じて肉体を提供する女が当たり前に
 いました。
・「遊女」というのがどういう種類の女かということの説明が難しいのは、近代以降の我
 々は、「性交の有無」というところに一線を引いてしまっているからです。「遊女」と
 いうものを存在させていた時代は、彼女達が客に対して性行為を提供していたかどうか
 を、あまり問題にしません。彼女達は、客にエンターテインメントを提供する職業の女
 性で、性行為は、そのエンターテインメントと一線を引かれて特別扱いされるようなも
 のではなかったのです。  
・瞽女とか歌比丘尼というような、放浪の女芸人が日本の昔にはいました。彼女達は「売
 春をしていた」というような言われ方をしてしまいますが、売春婦ではありません。放
 浪の芸能者で、芸能によって金銭を得るのと、肉体によって金銭を得ることの間には一
 線がないのです。 
・「遊女」というものを分かりにくくさせているのは、「彼女達は売春行為をしていた」
 という一線うぃ引いて特別視してしまうことで、「遊女」は、「肉体提供」の方ばかり
 を特別視されるものではなくて、ただ「遊女」なのです。だから江戸時代の一流の遊女
 は、客に呼ばれた揚屋でお茶を点てて客をもてなします。 
・源頼朝の父の義朝は子沢山で、男の子が九人いました。だから末っ子の義経は「源九郎
 義経」でした。義朝はわりと若いうちに死んだので男の子は九人ですが、義朝の父の為
 義には男の子が十人います。それだけの子供が全部一人の女から生まれるわけではなく、
 子の母となった女は複数で存在するわけですが、その女達のかなりの数は遊女です。武
 士だと、あちこちへ移動しなければならないので、各地の遊女宿に泊まって、そこの遊
 女と関係を持って子を儲けるのです。複数の男と関係しているはずの遊女を妻や妾にし
 て、子供を産ませて平気でいられる感覚はよく分かりませんが、遊女を売春婦とはしな
 い昔は違ったものです。

・江戸の吉原よりも古い京都の遊郭島原は、旧京都の南西のはずれにあります。戦乱で荒
 れ果てていた京都を整備して、平安京の東半分だけの現在の京都市街の基礎を作ったの
 は豊臣秀吉ですが、豊臣秀吉の時代に遊郭は、もっと違う所にありました。もっと東北
 寄りの、京都御所のすぐ南で「柳の馬場」と言われたところですが、江戸時代以前に遊
 郭のあった場所です。
・院政の時代に、上皇や女院が今様の名手である遊女達を御所に呼んだように、朝廷は
 「芸能」を退けません。だから、すぐ近くに遊郭があってもよかったのです。それが、
 日本文化の本来系でもあったのですが、徳川幕府は「風紀上よろしくない」として、
 柳の馬場にあった遊郭を京都のはずれに移したのです。
 
・昔の「遊女」は、今の我々が思うようなものとは少し違ったあり方をします。だから、
 我々が勝手に「売春施設」と思う遊郭も、やはり我々の思うものとは違います。平安時
 代の結婚のプロセスを遊びに変えた、「性欲だけではない、もう少し違った欲望を満足
 させる悠長な娯楽施設」でもあります。
・遊郭というと、どうしても「男の欲望を満たす売春の場所」と考えられてしまいますが、
 遊郭はまず「紳士の社交場」で、そこで満たされる欲望は、性欲とは少し違ったものな
 のです。