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日本の歴史に関する書籍はたくさんあるが、その多くはいわゆる「表の歴史」について記
述したものである。しかし、歴史はきれいごとばかりが存在したわけではない。表には出
したくない「裏の歴史」もたくさん存在していたことは想像に難くない。その「裏の歴史」
のひとつとも言える性に関する古代から現代までの歴史「性の通史」を記したのがこの本
である。
この本の中では、「神社の鳥居は女性が男を迎い入れるために股を開いている形」だとい
う説や、「歌垣」や「夜這い」「雑魚寝」は、日本におけるフリーセックスの性風習であ
ったなどなど、非常に興味深い内容が盛りだくさんである。この本の内容を知らずして、
まさに日本の歴史は語れないと言えるだろう。一読に値する内容である。

はじめに
・日本人の第1号はイザナギとイザナミという男女である。この2人が性的な関係を結ぶ
 ことによって、すべての日本人は始まった。では2人はどんな場所で、どんな体位で関
 係したのだろう?
・日本では1960年代まで夜這いが行われていたが、一体、一番最初に夜這いをしたの
 はどこの誰だったのだろう?
・人生とはペニスとバギナの離合集散のドラマだ。

エロくて偉大な神様たち(神話〜古代)
・「古事記」の場合、イザナギが「自分には成りて成り余れるところがある」と語ったと
 ころ、イザナミは「自分には成り成りて成り合わぬところがある」と答えたので、イザ
 ナミが「汝が身の成りのあわぬところを刺し塞いで国生みをなさん」といって関係した
 という。
・「日本書記」には、イザナギが「自分には陽の元といわれるものがある」と言ったのに
 対して、イザナミが「自分には陰の元がある」と答えたので、イザナギは「自分の陽を
 あなたの陰と合一させよう」と言って関係したとある。
・「日本書紀」の「陽の元」「陰の元」という表現に比べると、「自分には成りて成り余
 れるところ」「汝が身の成りのあわぬところを刺し塞いで」といった「古事記」の記述
 のほうがはるかに生々しく、わいせつ感が漂っているように感じられる。これは「古事
 記」が1人の語り部による物語であるのに対して、「日本書紀」は大和朝廷が「正史」
 を残そうという意図のもとに編さんしたものだから、きれいごとの表現になったのだろ
 うと推測されている。
・「国生みの神話」は日本の発祥を示す根幹のエピソードだが、実はこの話には出典があ
 って、紀元600年頃に成立した中国の「洞玄子」という本の中に、似たような一節が
 あり、「日本書紀」の記述は明らかにここから採られたと思わる。「洞玄子」は古代中
 国の代表的な性の指南書である。つまり日本創世の神話は中国の性書からパクったもの
 というわけである。 
・ではこの時、2人はどんな体位で関係したのだろう?「日本書記」の「神代編」には各
 地に書き残されていた伝説や噂話などが「一書に曰く」という枕書きと共に羅列されて
 いる。その中でセックスシーンをそのまま解釈すれば、立ったまま、すなわち立位で関
 係したと想像するのがもっとも自然だろう。
・(イザナギ、イザナミは)遂に交合せんとす。しかし、その述を知らず、時にセキレイ
 ありて、飛び来たりその首尾を揺す。二柱の神、それ見て学び、即ち交の道を得つ」と
 いうのがある。2人がどうやって関係したらいいのか分からず困っているとき、セキレ
 イがつがいで飛んできて、頭や尻尾を振るわせながら交尾した。それを見た2人はセッ
 クスの仕方を学んだというわけである。小鳥の交尾は後背位であるから、それに学んだ
 イザナギ、イザナミも当然ながら後背位で結ばれたはずである。つまり日本人のセック
 スは立位ではなく、後背位からスタートしたということになる。その結果、日本の伝承
 の中ではいつしか立位説が無視され、後背位説が脈々と受け継がれることになった。
・後背位には検討すべき問題がもう1つある。それは後背位という呼び方は太平洋戦争後
 に流布されたもので、「日本書記」の時代からそう呼ばれていたわけではないというこ
 とである。戦国時代には後背位を「虎歩勢」と呼んでいた。江戸時代に入ると、後背位
 は「後ろ取り」と呼ばれ、この言い方が定着した。神話の時代から江戸時代以前まで、
 後背位がどう呼ばれていたか、今のところ見当もつかないが、江戸のエロ文化の社会で
 は「後ろ取り」という言葉が「市民権」を有するにいたったのである。この体位は特に
 妻が妊娠中の夫婦関係として推奨された。
・また「後ろ取り」は「一の谷」とも呼ばれた。源平の合戦で、源義経はわずか70騎の
 兵とともに平家が陣取る一の谷を裏から攻めて敗走させた。その故事にならったもので、
 後ろから攻めるというわけである。 
・いまだ風呂のなかった時代には、人々は一日の労働で汗まみれになったり、泥で汚れた
 りした体を川で洗い、近くに温泉がある場合には温泉で流していた。これを川浴びや湯
 浴びと呼び、2つを合わせて「湯川浴び」と呼ぶこともあった。湯浴びや川浴びは性風
 俗の面でもきわめて特徴的だった。いつでも混浴で、しかも大人数で盛大に行われてい
 た。それと同時に混浴はフリーセックスの場も兼ねていたようだ。
・神社には鳥居がつきものである。しかしわれわれは神社にお参りして鳥居の下をくぐる
 時、鳥居はなぜ、あんな形をしているのだろうか、そもそも鳥居とは何なのだろうと考
 えたことがあるだろうか。実は鳥居の形は、女性が男を迎え入れるために股を開いてい
 る形だという説があるのだ。 
・日本の純文学の作家は、「神社全体は女性の子宮にたとえられている。男性が水垢離、
 湯垢離をして体を清め、参道を行ったり来たりしてお願いごとをする。鳥居は女性が股
 を広げている格好で、上部に神社名があるところは、女性の敏感なところだとも言われ
 ている。そこを身を清めた男性が行き来するのは、男女がセックスをする姿だ。境内に
 男性の性器をかたどったものがあり、二つに分かれた樹の股を大切に扱ったりするのも
 そのためだ」とエッセイで述べている。
・春画のコレクターのある外国人は、「鳥居は女性の肢体、門の上にある開口部が女性器
 を表しているとか、正面から見た際に、神社自体が鳥居の二つの柱、つまり足の間に挟
 まれた女性器であるといったもので、春画に描かれた様々なシーンの中からも、この説
 を裏付けることができるかもしれない」という意見を述べている。
・日本の純文学の作家と春画のコレクターである外国人という異なる文化的背景を持つ2
 人が、鳥居に関して、まったく同じイメージを抱いたのである。   
・民俗学者によると、鳥居を女性器に見立てる考え方は出羽三山(湯殿山、羽黒山、月山)
 の修験道の中に、今でも生きているという。修行のため羽黒山へ籠るという前日、修験
 者は笈(仏具、衣類、食器などを入れて背負う籠)の前に小型の鳥居を置く。これは女
 性が陰部を開いた形であり、修験者は印を結んで仏の加護を祈念し、ア・ウンの声とと
 もに体を鳥居の前に投げ出す。これが男性が性交によって女性の体内に射精したことを
 表し、ア・ウンの声は快楽の叫びなのだという。
・ちなみに「ア・ウン」の声がなぜ性的な快楽を表すかといえば、イザナミ・イザナギが
 天の御柱を回って関係をした時、2人は「ア・ウン」と快楽の声を発した。羽黒山の修
 験はその故事にのっとっているのだ。
・1人の女性を巡って男たちが「夜這い合戦」を繰り広げることがあったのは、平安時代
 にできた「竹取物語」からも明らかである。「竹取物語」の方はかぐや姫を巡る男たち
 の「夜這い合戦」の話で、夜這いでは決着がつかなかったため、男たちに本各地の珍品
 を献上させるということになった。

歴史の始まりとエロ(飛鳥〜奈良時代)
・日本のエロの歴史には夜這いや雑魚寝、あるいは歌垣など、フリーセックスの民俗がさ
 まざまな形で残っている。その根源を突き詰めていくと、つまるところ混浴にたどり着
 く。
・混浴は男女の裸の付き合いであり、人間の社会的な地位や貧富の差、相手を武力でやっ
 つける能力といったこととは関係のない風習である。混浴が盛んなことはこの国の文化
 的な基盤として、現世の価値観とは異質な価値観が流れていたことを想像させる。
・縄文時代から利用されていたことが確認されている温泉が日本にはたくさんある。長野
 県の諏訪温泉や湯田中温泉、群馬県の草津温泉、愛媛県松山市の道後本線などはその例
 で、諏訪温泉からは6千年前の縄文人の生活の痕跡が発見されているし、湯田中温泉は
 縄文時代あから源湯が地面に湧き出していたと考えられている。さらに草津温泉や道後
 温泉は隣接して縄文時代の遺跡があることで知られているほか、縄文遺跡のすぐそばに
 温泉があるところは北海道岩内町のコタン温泉遺跡を始め、全国に点在している。
・日本には古代から「歌垣」と呼ばれる性的な風習があった。歌垣とは若い男女が近くの
 山や浜辺に集まり、歌を交換しながら次第に高揚して関係を結ぶというもので、見知っ
 た同士のこともあれば、見知らぬ男女がその場で意気投合する場合も同じくらい多かっ
 た。いわば日本における”乱交パーティー”の始まりというわけである。
・夜這いが盛んだったことは、夜這いの同義語として、「妻問」という言葉の使われたこ
 とからも想像される。ただ妻問と夜這いにはいくつかの条件の違いもみられる。先ず、
 夜這いにとって絶対的な条件とされた「夜」という時間が取り払われること、夜這いも
 妻問も男性が女性のもとへ通うのが基本形だが、妻問では女性が積極的に男性にアプロ
 ーチする例がみられる。そして相手に品物をプレゼントする例も多いなどである。
・日本に初めて仏教が伝来した時期については538年説と552年説があるが、現在で
 は538年説が有力視されている。もっとも渡来人の間では、日本に来る以前に仏教の
 教えに触れ、個人的に信仰していた人々が相当数いた。その人々は江戸時代の「隠れキ
 リシタン
」のようにこっそりと信仰を続けていたようだ。当時の日本はお伊勢さん(伊
 勢神宮)や名古屋の熱田神社など、神社を中心とした国であり、仏教は異端の宗教と見
 なされていたから、迫害を恐れたのであろう。その流れを劇的に変えたのが3人の少女
 (善信尼禅蔵尼恵善尼)だった。   
司馬達等は渡来人で鞍作りの職人だったが、以前から仏教を信仰し、自宅でひっそりと
 仏教を拝んでいた。敏達天皇の右腕といわれ、日本に仏教を導入しようと努めていた
 我馬子
が達等の存在を知って、達等の娘を恵便という僧に師事させたのである。恵便は
 高句麗からの渡来人で、やはり形だけ還俗していた人物だった。この3人の少女が日本
 仏教の信仰の第1号であり、日本の尼さんの初めである。 
・3人の少女は思わぬ迫害に遭遇する。積極的に仏教を取り入れようとする蘇我馬子に対
 して、排仏派の中心が物部守屋と中臣勝海で、物部は軍部のボス、中臣は神道の頂点に
 立つ人物だった。その守屋が3人の少女を歌垣で有名な海柘榴市に引きずり出し、公衆
 の面前で全裸にして、むち打ちの刑にしたのである。女性が全裸でさらし物にされるな
 ど前代未聞のできごとであった。
・この公開処刑が仏教の興隆に決定的な役割を果たすことになった。この事件をきっかけ
 に587年、蘇我一族と物部一族との間に武力衝突が勃発し、馬子や聖徳太子などの嵩
 仏派が完勝した。馬子は戦勝記念として奈良県明日香村に法興寺を建立した。聖徳太子
 も593年に大坂に四天王寺を建立した。3人の尼は蘇我馬子などの支援を受けて百済
 へ留学した。
・3人の少女は夢の世界への扉を開いた功労者であり、現実にそういう場所で日々の生活
 を送っているのだから、現代のアイドルタレントをはるかにしのぐスターだったことが
 想像される。 
・797年当時、東大寺を始めとする主だったお寺では庶民の健康のために寺に備えた湯
 屋で入浴させていた。この催しは混浴で、寺僧や尼僧は助手を務めていたから、彼らに
 よって混浴は見慣れた風景だったが、自分たちだけで混浴をする度に抑圧していた性の
 欲望が頭をもたげてきたようであった。藤原が「男女の混浴を戒む」という規則を発し
 たのは奈良への赴任後、まもなくのことであった。これが日本での初の混浴禁止令であ
 る。
・いわゆる秘具はエロの歴史の脇役として欠かせないものである。それらは日本ではいつ
 頃、登場したのだろう?中国では7000年〜8000年前から水牛が家畜として飼わ
 れていたといわれている。呉の時代のその角が張り形として利用されるようになり、そ
 れが奈良時代に日本に伝えられたというわけである。ちなみに水牛の角は内側が空洞に
 なっており、そこにお湯をつけた綿を入れると、べっ甲や象牙細工のように柔らかくな
 って、ちょうど勃起したペニス並みになるという。
・エロの歴史では有名人の一人である弓削道鏡は、もっぱら巨根の代名詞としてその名を
 留めている。彼が正座すると両膝の真ん中に、膝と同じ大きさのペニスがあると言われ
 た。761年、道鏡が病気の孝謙天皇を看病して以来、寵愛を受けるようになった。
 764年に太政大臣に昇進、そして翌年には法皇にまで上り詰めた。この出世ぶりをな
 ぞっても、孝謙上皇がいかに道鏡の虜になっていたかが想像される。
・孝謙天皇は道鏡を愛し、道鏡の出身地(現在の大阪府八尾市)に由義宮という離宮を設
 けた。道鏡は天皇の性的な快楽のために雑物を勧めたが、これが抜けなくなって体調不
 良となった。「雑物」とあるのが秘具で、これが日本初の秘具の記録とされている。
・称徳天皇(孝謙天皇)は道鏡の陰(ペニス)をなお不足におぼし召されて、ヤマイモを
 以て陰形を作り、これを用いていたところ、折れて中に詰まってしまった。そのために
 (陰部が)腫れ塞がって一大事になった。日本初の秘具はヤマイモをペニスの形に細工
 した張り形だったというわけである。 
・ジンギスカンはモンゴルを中心に東西の国々を征服し、一大帝国を造り上げたが、その
 原動力について、次のように語ったといわれている。「男子最大の快楽は、敵を撃滅し
 てそれ駆逐し、その財宝を奪い、彼らと親しい人々の顔が悲しみの涙に濡れるのを見、
 その馬に打ちまたがって、その女と妻たちを抱きしめることである」ジンニスカンは諸
 国を滅ぼす度に肌の色も髪の色も違う美女たちをモンゴルに連れ帰った。その数が5百
 人に達し、正式な后妃だけで39人を数えたという。これが元から中国に伝えられ、
 「英雄、色を好む」という諺として定着したわけである。
・ジンニスカンの言葉には、人間がなぜ権力の座を目指すのかという疑問の答えがすべて
 盛り込まれているが、日本でも国家の体制が整備されてくるにつれて、権力の座を満喫
 したいという天皇が現れてきた。 
・多淫・好色という側面で、最初に名を残した権力者は垣武天皇である。女性を次々に朝
 廷に引き入れ、「キサキ」と呼ばれる女性だけで27人を数えた。このため大宝律令で
 は皇后のほか妃2人以内、夫人3人以内、嬪4人以内と定めされていたが、それだけで
 は足りなくなり、超過した「キサキ」の称号として「女御」という地位が創出された。
・嵯峨天皇は、父親の桓武天皇よりもさらに派手で、子どもを産んだ「キサキ」だけで
 24人、皇女27人の50人に達した。このため桓武天皇の治世に新設された「女御」
 という身分だけでは足りず、さらに下の階層出身の女性が「更衣」という名称で呼ばれ
 ることになった。江戸時代にも第11代将軍徳川家斉のように、側室40人に、生ませ
 た子どもが55人という例があるが、800年代頃の嵯峨天皇の時代と、1800年代
 初めの家斉将軍の時代では社会の生産力が違っていた。
・家斉の場合も、子どもの教育費や婿養子先、嫁入り先を決めるために莫大な出費を伴い、
 幕府の財政に大きな負担を強いたが、嵯峨天皇の場合はもっと深刻で、当時は天候不順
 で農業の出来が極端に悪化していたこともあり、子どもの処遇が国家の財政をおびやか
 すほどであった。天皇自ら「男女やや多く、空しく府庫を費やす」と後悔したという。
 その立て直しのため、8人の子どもに「源」の姓を与えて臣籍降下させた。これが武士
 の集団としての源氏の始まりだが、そのために後々、大きな災いを招くことになった。
・そのほかエロの世界を彩るエピソードを残した権力者には事欠かない。たとえば自分の
 即位式は始まる直前に、参列者の女性の中に美人を見つけ、その場で、それこそみんな
 の見ている前で関係した天皇(第65代花山天皇)や、自分が関係した女を次々に臣下
 に下げ渡した天皇(第72代白河天皇)など多士済々である。    
・白河天皇の場合、「両刀使い」としても知られ、近臣として権勢を誇った藤原宗通や藤
 原盛重、平為俊はいずれも男色関係におかる愛人であった。中でも藤原盛重、平為俊は
 白河天皇が法皇になってから創設した北面武士で、それが男色にために創られた部署で
 あることは明らかであった。ただし日本の権力者の場合、悪逆非道の限りを尽くしなが
 らも潔さを感じさせるジンギスカンの例と違って、どこかせこい印象がついて回る。
 
エロが昂じる王朝文化(平安時代)
・人間の歴史に不可欠なものの一つにセックスの指南書がある。指南書とはさまざまな体
 位を紹介した本のことで、性典と呼ばれることも多い。人間はセックスの経験を重ねる
 につれて、「もっと刺激的な体位はないか」と求めずにはいられないようである。
・世界の歴史を見ると、性典は西暦が始まる前後に誕生した点で共通している。「アルス・
 アマトリア」を著わしたのは西暦0年頃、これが性典の第1号といわれている。さらに
 インドで「カーマ・スートラ」が成立したのは1〜2世紀頃。そして3世紀頃に成立し
 た中国の「抱朴子」によれば、古代中国には「玄女経」「素女経」「彭祖経」「容成経」
 など10種の房中術(性のテクニック)の書があったと記述されている。
・これに対して日本初のセックス指南書が誕生したのは平安時代の984年である。丹波
 康頼により翻訳書「医心方」全30巻が完成した。これは隋や唐時代の中国から伝来し
 た医書を治療の際に利用するために整理したもので、そのうち性的知識やテクニックを
 集めたのが巻28の「房内篇」である。  
・この「房内篇」が日本における性典の第1号というわけで、世界のすう勢からすれば、
 800年から1000年の遅れだった。「房内篇」には「玄女経」「素女経」など、中
 国では失われた資料のほかに「玉房秘訣」「玉房指要」「洞玄子」「千金方」など10
 種の性典が使われている。その意味では本家の中国よりも密度の高い性典だったという
 ことができる。
・「房内篇」の中味は大別して3部からなっている。第1は性についての考え方を説いた
 部分で、次が女性の快感を男はどうやって理解したらいいのかという疑問、そして快楽
 を楽しむ体位の説明である。
・性についての考え方では、古代中国の医祖といわれた黄帝は1200人の女性と交わっ
 た末に仙人となることができた。仙人になるためには美人を求めず、年が若くて、乳房
 がいまだ膨らまず、肉付きのよい女を第一とすること。そういう女性を常時、8人ずつ
 くらいそばに置いておくのがよいとしている。
・女性の快感の見分け方については、乳首が硬くなる、女性器が濡れてくるなど、現代の
 常識がきちんと指南されている。その知識は中国では紀元前から知られていたわけであ
 る。
・「房内篇」の最大の特徴は、「玄女経」と「洞玄子」から合わせて39種の体位をピッ
 クアップし、体位の絵と解説を加えていることである。ただし絵と言っても、ほとんど
 象形文字といってよい。
・第1を龍飜という。女をして正しく上に向いて臥せしめ、男、その上に伏し、股は床に
 隠す。女、その陰を上げて、もって玉茎を受く。その穀実(クリトリスのこと)を刺し、
 またその上を攻む。ゆるやかに動かし、八浅二深す。・・・女則ち煩悦し、その楽しみ、
 うたいめ(売春婦のこと)の如し。
・第2を虎歩という。女を俯き伏せさせ、尻を高くし、首を伏せしむ。男、その後ろにひ
 さまずき、その腹を抱く。すなわち玉茎を入れて、その中極を刺し、つとめて親密なら
 しむ。進退相迫り、五八の数を行はば、その度はおのずから得られる。女陰開き、精液
 外に溢れなば終りて急速す。
・平安時代中期の文人である藤原明衡は「新猿楽記」という著書の中で、当時、京の都で
 大流行していた猿楽という芸能の紹介と、それを見物している庶民の職業やその特徴、
 生活ぶりなどを描いている。その中に遊女の生態に触れた一節があり、「淫奔徴嬖が行、
 偃仰養風の態、琴弦麦歯の徳、竜飛虎歩の用、具せずといふことなし・・・」と述べら
 れている。「淫奔徴嬖」とは淫らで男に喜ばれる行為のこと、「偃仰養風」とは性交時
 のポーズのことで、男を喜ばせる姿態を刺す。そして「琴弦麦歯」はともに名器の表現。
 ペニスを挿入すると、琴や箏のような声を発する女性や、ペニスを歯でくわえこんだよ
 うに離さない女性の意。要するに淫乱で、男を喜ばせるために生まれたような女という
 わけである。問題なには「竜飛虎歩の用」という文句で、「房内篇」に挙げられた「龍
 飜」と「虎歩」にあたるという。
・つまり当時の遊行婦(遊女)はこういう体位に応じていたというのだが、では「源氏物
 語」の華麗なる世界ではどうだったのかとなると、体位に触れた箇所が見当たらない。
 その理由としては、当時の王朝では「唐や隋の文化はもうダサい」という空気が支配的
 だったから、「房内篇」の存在も、体位について記すことも敬遠されたのだろうと推測
 される。
・平安時代は「源氏物語」に代表されるように、宮廷内で華麗な恋愛ドラマが演じられた
 時代とされている。だが男女の文化は恋愛ドラマだけではない。恋愛ドラマが盛んな時
 代にはエロ本や春画集も登場した。日本初のエロ本が現れたのは平安時代中期の康平年
 間(1058年〜1065年)である。タイトルは「鉄槌伝」といった。「鉄槌伝」は
 700字余りの短文だが、鉄槌(ペニスのこと)を擬人化したもので、これまでの日本
 文化では考えられないような作品である。「鉄槌は袴の下、毛の中にあり、一名をマラ
 という。長さ7寸、雁首のところにいぼが付いている。成長するに及んだ女性器に出入
 りし、大いに寵愛される。女性器を発展させる人物として擢んでた功績を残し、あらゆ
 る名器の奥まで究めないものはない」というわけである。「鉄槌の妻(女性器)は容色
 が衰えた頃に鉄槌と関係を持ったが、鉄槌の老いた姿を見る度に涙を流して、こんな老
 人を選んだことを悲しんでいた。後に自分も落魄し、それまで着る暇もなかった腰巻き
 を付けるようになった。しかし性欲がきざせばガマンできなくなり、正常位から後背位
 まで思いのままに乱れた」全文こういった描写によって構成されており、まるで江戸時
 代の儀作者を先取りしたような洒落っ気に溢れている。この短い文章によって、男はペ
 ニスにイボのようなものがあることを尊ぶという俗説が、すでに平安時代には定着して
 いたことが知られるし、「開」という文字がこの頃から女性器の隠語として流通してい
 たことも確認される。
・日本で初めての春画は法隆寺の天井裏に描かれていた墨絵だといわれる。法隆寺は60
 7年に創建されたが焼失、700年頃に再建されたと推測されているから、この春画は
 再建工事に携わった大工が残したというわけである。 
・本格的な春画集である「小紫垣草子」が誕生したのは平安時代も終わりに近い1172
 年だった。986年、宮廷にとって思わぬスキャンダルが発生した、花山天皇の娘で、
 伊勢神宮の斎女となるため、京都の野宮神社で斎戒沐浴の生活を送っていた済子が、前
 日から済子の警護役として派遣されていた平致光と密通したことが発覚したのだ。致光
 は美男子として有名だったから、済子の方から誘ったと想像されるが、皇女が身分の低
 い警護の役人と密通したとあっては宮中の権威もがた落ちである。だから致光がレイプ
 したという形にしたのであろう。この事件を絵巻物にしたのが「小紫垣草子」である。 
・浮世絵研究の第一人者の解説において、「この有名な絵巻の原本は建礼門院(平清盛の
 娘)が1172年に高倉帝と婚約した時に彼女の伯母から贈られたものといわれ、秘画
 が花嫁の性の手引書として利用された最初の例であり、真に好色的、催情的といえる絵
 巻物の最初」と指摘している。これが正しいとすれば、春画は平安時代から花嫁道具の
 一つとされてきたわけである。
・江戸時代の川柳に「弘法は裏、親鸞は表」という句がある。裏とは男色のことで、弘法
 とは真言宗の開祖である空海を指している。これに対して「親鸞は表」というのは、僧
 侶の女色を認めたのは親鸞だという意味である。これらの例からしても、江戸時代には
 僧侶の男色は弘法大師から始まったという見方が、俗説として広く行き渡っていたこと
 が想像される。弘法大師が男色(ホモ)の始祖かどうかはともかく、平安時代にはさま
 ざまな男色のエピソードが残されている。
・平安時代中期といえば、天台宗において「弘児聖教秘伝」が記録されたのも同じ時期の
 ことであった。これは高僧が得度したばかりの少年僧を稚児として愛する「稚児灌頂」
 という儀式の一つで、ホモになるための式次第が「秘伝」として密かに残されたのであ
 る。阿闍梨はお歯黒筆で稚児の真っ白な歯を黒く染める。これは結婚した女性が、夫の
 ものになったことを示すためにお歯黒をするのと、同じ意味を持ってたようだ。さらに
 阿闍梨は櫛を取って稚児の神をなで化粧を施す。顔に白粉と眉墨を施し、髪を平元結い
 に結ぶ。この後、阿闍梨は菩薩に「煩悩消除」、すなわち自分の悩みを解消してもらう
 ために稚児を別室へ導き入れる。「煩悩消除」とは性の悩みを解決するという意味で、
 つまりアナルセックスのことである。この場になると、待ちかねたように頬ずりしなが
 ら誘う風景も珍しくなかったという。
・稚児は僧に会う前の作法として稚児自身が自分の肛門を「誘ふ」ことが必要とされる。
 具体的には稚児が自ら肛門をよくもみほぐし、油や唾などをさして、なめらかにするこ
 とをいう。十分に準備した後、僧の性器を受け入れることが「結願の夜」であり、稚児
 の方も交接をすませて初めて本当の菩薩の地位を得ることができるのだという。要する
 に「稚児灌頂」とは少年僧へのアナルセックスを正当化するための弁解であり、それを
 「煩悩消除」とか救済という言葉で美化したセレモニーといってよい。 
・平安時代には腰より長く伸ばした髪が美人の絶対条件とされたが、稚児の場合も同様で、
 美しく長い髪が求められた。衣装は通常は水干を着用したが、内裏の女房たちの上着で
 あった小袿や内掛けを着せる阿闍梨も多かった。また外出時には袈裟で頭からすっぽり
 と顔を包んで出かけた。出かける時の履き物も女物を使うように仕付けられたという。
 そのほか、身のこなしや日常の振る舞いなども、貴族の女か、それ以上の女であること
 が要求された。その姿に山門の山伏たちはうち震えながら見入ったという。
・いずれにしろ稚児によって、女以上の女の美しさを造り出そうとしたのであり、仏教の
 繁栄と絢爛たる貴族文化の中で、大変特異な性の世界が現出していたのである。
・日本の売春の歴史は、あるできごとをきっかけに様相が一変する。そのできごととは遊
 郭ができたことである。桃山時代の1589年、豊臣秀吉は京都・万里小路に初の遊郭
 を開設させた。これが後の島原遊郭である。江戸時代が始まって間もない1617年、
 吉原遊郭がオープン、以後、売春の歴史は遊郭の歴史とほとんど重なり合うことになる。
・万葉の時代には中央から派遣された官人にひけを取らない教養を持つ女性が地方にもた
 くさんいて、官庁などの宴会に誘われて参加し、歌作りでも非凡な才能を発揮した。し
 かも彼女たちは「生を楽しみ、はげしい情熱の表現者でもあったという。当時は歌垣の
 盛んな頃だから、彼女たちも宴の後には男性と寝たと想像されるが、金銭の授受があっ
 たかどうかははっきりしない。仮にお金を受け取っていたとしても、少なくとも専業の
 売春婦ではなかったというのである。むしろ歌の才能を通じて世に認められたいとか、
 女官に取り立てられたいという意欲の方が大きかったようである。
・奈良時代以前からこの国の基盤を形成したいたさなざまな性風俗は、国家が整備される
 につれて、国の繁栄を寿ぐセレモニーへと変質した。男女が歌を交わしながら性関係に
 いたる歌垣は、踏歌と呼ばれてエロティズムとは無縁の皇室行事になったし、田植えも
 豊作祈願と称して男女の性交の姿を演じたり、場所によっては豊作祈願を口実に、実際
 に性関係を結ぶケースが見られたが、皇室行事として定着した結果、御田祭りという色
 っぽさの削がれたイベントになった。
・「天下の五奇祭」として挙げられた祭りは、いずれも平安時代に生まれた新しい性の奇
 祭であった。五奇祭とは「江州筑摩社の鍋被り祭り、越中鵜坂社の尻叩き祭り、常陸鹿
 島神宮の常陸帯、京都・大原の江文社の雑魚寝、そして奥州の錦木」の5つを指す。
・江州筑摩社とは現在の滋賀県米原市朝妻にある筑摩神社で、鍋被り祭りは土地の女性が
 1年間に関係した男の数だけの鍋をかぶって参拝するという祭りである。沢山の男性と
 関係した女性が数をごまかすと神罰が下るとされたが、実際には過少申告する女性はい
 なかったらしい。それというのもこの地は交通の往来が激しく、朝廷の御厩も置かれて
 いた。御厩とは皇室や公家が旅行する際、馬や牛車などの世話をする役所である。そう
 いう繁華な土地だけに歌垣なども盛んだったらしく、沢山の男性とセックスすることは
 恥ではなく、女性の誇りであったからである。   
・同じことは越中鵜坂社の尻叩き祭り、常陸鹿島神宮の常陸帯にもいうことができる。鵜
 坂は現在の富山市にある鵜坂社神社のことである。つまり筑摩神社の鍋の代わりに男と
 関係した数だけ榊の枝で尻を打たれるというのである。ここにも中世には御厩が置かれ
 ており、歌垣も盛んだったと思われる。そこで多くの男を経験することは、当時の女性
 にとって勲章だった。女性たちはそれを告白することによって祭りのスターになったの
 である。    
・これに対して鹿島神宮の常陸帯は、やや趣が違っている。この地方では「常陸国風風土
 記」の時代から歌垣が盛んだったせいか、平安時代には沢山の男を知っていることが、
 さほど目立ったことではないとされた。常陸帯の「神事」はそういう土地柄を背景にし
 たもので、多数の男と関係した女性が、帯(紙の短冊)に男の名前を書きつけて神前に
 供えると、1枚だけが裏返る。その男を選びなさいというのである。ただし、そういう
 形の祭りは長くは続かなかったらしい。いつの頃からか、多くの男性と関係し、夫婦に
 なることを求められた女が、どの男と結婚するか迷った時、帯に名前を書けば、「これ
 は」と思う男性の帯だけが裏返るということになった。江戸時代の後期には雑魚寝で相
 手の女性を決めるための手続きとか、くじと見られていたようだ。いずれにしろ、これ
 らの奇祭が平安時代の女性たちの「自己表現」とみなされていたことは確かであった。
 遊女になることが理知的な女性のキャリアアップなら、これらの祭りは地方の女性が性
 のアイテンティティーを確認する機会だったといえるかもしれない。
・五奇祭の中でももっとも中江が知られ、後世にまで大きな影響を与えたのが大原の雑魚
 寝である。これは毎年節分の夜に、江文神社の拝殿に老若男女が雑魚寝して、関係する
 という風習で、江戸時代には冬の季語にも挙げられていた。大原の雑魚寝では関係した
 男の数だけ、女性が自分の足首にひもを結びつける風習があったというのである。
・江戸時代には雑魚寝の風習は全国に広かった。山形市の立石寺は松尾芭蕉が「静けさや
 岩にしみ入る蝉の声」という名句を残した寺で、860年、滋覚大師が開いたと伝えら
 れている。この界隈では雑魚寝が盛んで、一体にはざこね峠という峠もあり、雑魚寝の
 村は「めたくた村」と呼ばれていた。めたくたは雑魚寝の意で、「大原の古風」を表し
 ているという。
・五奇祭の錦木は女性に恋をした男がその家の軒先に錦木を立てかけ、女性が家の中に取
 り入れたら思いがかなうといわれる風習で、秋田地方の伝説が伝えられたものである。
 それは引っ込み思案の男女に、きっかけを与えるアイデアとして広がったらしい。
・平安時代は宮中やそれを取り巻く人々のセックスス・キャンダルの時代であった。白河
 天皇(第72代天皇は、関白の藤原師実の養女・藤原賢子を中宮とした。賢子との仲は
 非常に睦まじかったが、1084年、賢子が死んだ後は側近として仕える多くの女官・
 女房と関係を持った。とくに晩年には下級貴族の生まれである祇園女御を寵愛し、同女
 は天皇の愛をうしろ盾に公然と権力を振るった。さらに関係を持った女性を次々と寵臣
 に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河天皇の御落胤」であるという噂が広がっ
 た。
・1886年、白河天皇は実子である8歳の善仁天皇(第73代堀河天皇)に譲位すると、
 上皇となって院政を敷いた。白河天皇は養女の藤原璋子と長い間関係を持っていたが、
 孫の羽鳥天皇が即位すると璋子を羽鳥天皇の中宮とした。しかし上皇と璋子の関係はそ
 の後も続き、彼女が妊娠すると生まれた子を崇徳天皇として即位させた。この子が上皇
 の子であることは羽鳥天皇も周囲の者も知っており、公然の秘密だったという。
・また白河上皇はいわゆる「両刀使い」で女色、男色をともに好んだ。側近として重用さ
 れた藤原宗通や、北面武士の藤原成重や平為俊はいずれも男色関係の愛人といわれてい
 る。  
・太政大臣の藤原時平(871年〜909年)は、伯父の藤原国経の妻を手込めにして
 「自分の妻にしてしまった」という。国経を酔っぱらわせて、寝込んだすきに関係した
 のである。
・源俊房(藤原道長の孫)が、前斎院の娟子内新王(第67代後朱雀天皇の次女)を手込
 めにして屋敷に留め置いていたという話もある。斎院は処女であることが絶対条件であ
 るから、俊房には処女で天皇の娘という内親王の存在が魅力的に映ったのだろう。
 後冷泉天皇は宇治展(藤原道長の長男)の威光を恐れて曖昧な処理ですませようとした
 が、皇太子(後の後三条天皇)が激怒して、ようやく表沙汰になったという。
・もうひとつ、不倫の時代を支えた脇役として欠かせないのが臣下たちである。彼らは主
 人の不倫相手の侍女と示し合わせて、ふたりの仲を取り持ち、自分の出世をはかった。
 その場合、自分たちも不倫するケースが多かったという。こうして公家の密通事件が頻
 発した結果、それらの事件にはお互い感知しないという不文律が設けられた。あまりに
 多すぎて朝廷も仲間内でも、関わっていられなかったのである。 
・ちなみにテレビの時代劇などでは、冬の夜、腰に提灯をぶら下げた老人が「火の用心、
 さっしゃりませえ」と叫びながら、拍子木を打って回るシーンが時々登場する。拍子木
 を鳴らしながら夜回りがスタートしたのは平安時代のことで、その背景には火事や犯罪
 に対する警告とともに、「今、そこで姦通している男女」への警告の意味も込められて
 いたという。
 
戦乱の世を癒すエロ(鎌倉〜安土桃山時代)
・源の頼朝が鎌倉幕府を開いたのは1192年である。それによって平安時代の貴族文化
 が終わりを告げ、以後、700年近く続く武士の時代が幕を開けた。その前年、性風俗
 の面でも画期的なできごとが起こった。摂津国有馬温泉(現在の有馬温泉)に「湯女}
 という新しいサービスガールが登場したのである。湯女はその後の銭湯の歴史を大きく
 変えた存在であり、同時に性風俗を一変させた遊女であった。
・湯女とはどういうものか。湯女には大湯女、小湯女の区別があり、大湯女の中でも年配
 の女性は嫁家湯女と呼ばれた。小湯女とは13、14歳〜17、18歳の子を呼んだと
 いう。大湯女は共同浴場で客の世話をするかたわら、トラブルが起きた際のなだめ役と
 されていた。湯女とは高給遊女の走りとされる白拍子をマネたものだったことがうかが
 える。
・有馬温泉は奈良時代以前から知られており、平安時代になると、歴代天皇から藤原道長
 を頂点とする高級貴族や高僧たちまでが相次いで訪れ、有馬温泉に出かけることが上流
 階級にステータスとされた。当時は「湯山に入る」という言葉が流行したほどで、これ
 が有馬温泉に出かけることを意味していた。
・有馬温泉に遊女が誕生した背景には次のような事情が考えられる。平安時代には和歌作
 りの才能に自信を持つ女性や、美貌で鳴らした女性たちが、自分のキャリアアップのた
 めに次々と遊女を目指し、皇族や公卿などの高級貴族と性的な関係を持った。彼らとの
 間に子どもをもうけた例も多い。これによって遊女との交際に味をしめた高官たちの間
 に、長期滞在することが多い有馬温泉でも女性が欲しいという欲求が高まったことが予
 測される。
・こうして誕生した有馬温泉の湯女の人気を後押ししたのが、「西国三十三か所」の霊場
 巡りがスタートしたことである。レジャーと信仰を兼ねた旅行プランで、平安時代の中
 期には中下級貴族の間に人気が定着していた。有馬温泉はその途中に位置し、皇族や高
 級貴族と同じ女を抱くことができるという思いが、湯女の人気をさらに高めることにな
 った。
・こうして湯女の制度が誕生したのだが、それが今度は遊女の歴史を根本から変えること
 になった。これまでは大宰府の遊行女婦にしろ江口の里遊女にしろ、宴席に呼ぶことを
 前提としていたが、湯女の制度では”そこ”に行けば、いつでも女を抱くことができた
 のであり、後の遊郭制度の萌芽とでもいうべきものであったのだ。
・壇ノ浦の戦いで源氏方に敗れた平清盛の娘の徳子(建礼門院)は高倉上皇との間に生ま
 れた安徳天皇を抱いて入水したが、源氏方に助けられ、義経に京都へ護送された。その
 際、義経が建礼門院を犯したという。ところで義経の女性といえば、何といっても静御
 前のことが欠かせない。静御前は白拍子という新しい時代の遊女であり、義経という悲
 劇のヒーローの物語を大輪の花で飾った女性であった。
・日本における白拍子の起源は、鳥羽天皇の時代に千歳、若の前の2人が舞いだしたこと
 に始まる。初めは狩衣に似た男子用の服に立鳥帽子、白鞘巻きをさしていたので、男舞
 と呼ばれたが、まもなく烏帽子や刀ははぶいて水干ばかり用いたので、白拍子を名づけ
 られた。稚児が女装の美少年として、比叡山の僧侶や山伏たちの熱狂的な憧憬の対象と
 なったように、白拍子は女性が稚児の装いを取り入れることによって、男装の麗人とし
 て新興の武士たちの情感をそそったのである。  
・白拍子にはもう一つ特徴があった。それは全国を旅する遊女だという点である。遊行女
 婦と呼ばれた万葉集の時代から、和歌作りの才能や美貌を武器にキャリアアップをはか
 った平安時代中期の女性まで、遊女はその土地に根付いた存在であった。遊行といって
 も勝手に遊び回るという意味ではなく、「遊びごとを行なう女性」を意味していた。彼
 女たちは時代の先端を行く自立した集団であり、グループごとに「長者」と呼ばれるリ
 ーダー格の女性がいて遊女たちを束ねていた。しかしこの時代の終わりになると、女性
 の若作りは衰退し、美貌の女性も「美女」という名称の召使いの階層の一つとされた。
 その中から意にかなった女性が側室として引き立てられたのである。
・義経の母親の常盤御前も木曽義仲の愛妾として有名な巴御前も「美女」という召使いか
 ら出た例だという。大ざっぱな言い方だが、平安時代の特徴であった「女性が活躍する
 社会」は、武家社会の到来とともに次第に衰退しつつあったのである。その一方で全国
 を旅しながら遊女稼業を行う女性が登場した。そういう女性の代表的な存在が白拍子で
 あった。彼女たちは生まれ故郷や育った土地などに「座」(職業組合のようなもの)を
 結成し、そこを拠点として遍歴の旅に出た。出かける時には姉妹や下女などとグループ
 を組んでいることが多く、母親が座長を務めた。静御前の母親も磯禅師という白拍子で、
 巡業の座長も務めた。白拍子は廻国巡業の身となることによって、「美人」という下女
 の階層に組み入れられることもなく、「自立した女」としての遊女の地位を全うするこ
 とができたのである。
・義経と静御前が出会ったのは、1182年7月、児湯との神泉苑で「容顔美麗なる白拍
 子」100人による雨乞いの踊りが催された時が初めてで、静御前の舞を見た義経が側
 室にしたと伝えられる。とすれば義経は24歳ということになる。その後、ふたりの仲
 について残された記録は決して多くない。3年後の1185年10月、頼朝は部下に命
 じて、京都・六条堀川館にいた義経を攻めさせるが、いっしょに寝ていた静御前が敵襲
 に気づいて難を逃れることができた。義経は直ちに都落ちして九州に渡ろうと試みたも
 のの暴風雨に遭遇して失敗、仕方なく吉野山中に潜んだ。そこで11月初め、静御前や
 その母親の磯禅師と別れた義経は、性質の郷御前や4歳の娘、それに弁慶らと奥州を目
 指して落ちていった。
・静御前が取り残されたのは彼女が妊娠しており、山中の逃避行に耐えられないという事
 情もあったようだ。その後、頼朝の配下にとらえられた静御前は鎌倉に送られ、鶴岡八
 幡宮の社前で白拍子の舞を命じられた。この時、静は、
  「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
 と、義経への恋心を堂々と歌ったことで知られている。激怒した頼朝はその場で手打ち
 にしようとしたが、妻の北条雅子に止められて思いとどまった。しかし、約4か月後、
 生まれた子どもが男の子だったために、頼朝から取り上げられ、赤ん坊は由比ヶ浜に沈
 められたという。そして9月16日、静御前と磯禅師は京に帰され、その後の消息は不
 明、というのが、義経と静御前を巡る物語のすべてである。
・静御前が残したエピソードは、彼女の悲劇の生涯とプライドの高さを物語っている。美
 貌と踊りの腕によって、義経というスターを射止めたという自信がとらわれの身となっ
 た時にもくずれることがなかったのである。
・静御前の直後には、遊女としての性的な生き方と、芸の腕の両方で、後は鳥羽上皇をと
 りこにした白拍子も現れた。後鳥羽上皇は噛亀菊という白拍子を寵愛し、摂津国の長江
 庄と椋橋庄を所領として与えていた。ところがそのかたわら亀菊は僧侶と密通していた
 という。亀菊がそのような待遇を受けた理由よして、亀菊は自分の踊りの芸と性的な生
 き方に絶対の誇りを持っていた、後波鳥羽上皇はそういう亀菊のとりこになっていたか
 らだろ言われている。
・なお白拍子と同時代に、諸国を遍歴しながら遊女稼業を行なう女性は他にもいた。傀儡
 と桂女もその例で、白拍子以前から廻国巡業の遊芸人として知られていたのが傀儡であ
 る。当時の江口の里と、そのすぐ近くに位置する神崎の里が遊女の拠点として知られて
 いたが、傀儡は男の人形使いの傀儡師といっしょに遍歴しながら遊女稼業を行っていた
 女性である。
・一方の桂女は、もともとは京都の桂川沿いに住み、男たちが捕った鮎を鮎ずしにして売
 り歩いていた女性をいう。桂女も平安時代の中頃、つまり白拍子よりも先に登場し、物
 売りの女という意味で販女とも呼ばれた。天皇に鮎を献上する役を担ったこともあると
 いう。
・桂女は鎌倉時代の後半から合戦に同行して、陣中で武将の夜のお伽を務めるようになっ
 た。そういう桂女が増えた結果、御陣女郎という呼び名もできたというから、その人数
 も相当な数に上ったのであろう。将軍足義満の母親は桂女であり、徳川家康もお亀とい
 う桂女を陣中で寵愛し、その間に生まれたのが尾張藩の初代藩主・徳川義直だとも指摘
 している。
・しかし御陣女郎として、有力武将の愛妾の地位は手に入れても、桂女に白拍子ほどの誇
 りを認めることは不可能だし、傀儡の場合、最初からそういう生き方と関わりのない遊
 女であった。こうして「自立した女」としての遊女の時代は白拍子をもって終わりを告
 げ、戦国時代の終わりからは籠との鳥として、遊郭という「異界」に封じ込められるこ
 とになる。
・日本の歴史で「戦国時代」といえば応仁・文明の乱が起こった1467年から1590
 年、豊臣秀吉による天下統一までの約120年間を指すことが多い。しかしそれは政治
 の動きから見た時代区分であり、庶民の生活史という点からいえば、源平の争いが始ま
 った時から徳川幕府が成立するまでの400年以上、ズーッと戦国時代であった。
・なぜならその400年間、庶民の家は焼かれ、田んぼは軍勢が移動する際に踏み荒らさ
 れて、まるで津波に襲われた後みたいに使い物にならなくなったからである。1338
 年、北畠顕家軍が東海道を京都へ向けて進軍したが、50万の大軍が左右4,5里に広
 がって通過するのに5日かかった。その間、民家の財産を奪い取り、1軒の家さえなく
 なったというのである。そればかりではない。合戦に勝利した側が財宝を強奪し、村人
 を奴隷として連行することが当然の権利とされた。これを「乱取り」や「人取り」と呼
 び、大名たちも黙認していた。
・1564年のことだが、常陸小田(現在の茨城県つくば市)の小田氏治が上杉謙信に攻
 め落とされると、上杉軍の兵士は謙信御意(公認の意)のもと「人取り」に走り、1人
 当たり20〜30文という安値で人身売買が行われたという。主民は戦乱によって生活
 を破壊され、あげくの果てに市場で売買されたのである。
・これらの戦乱に加えて、1150年から1181年の間に相次いで飢饉が発生、養和の
 大飢饉では京都のメイン通りに放置された餓死者だけで4万2千体を超えた。飢えに耐
 えかねて幼児の肉を食う者も見られたという。
・1231年の大飢饉の場合、京都は春頃から餓死者が増え、道路には死骸が満ち溢れた。
 1428年には関東地方で飢饉が発生、死者は鎌倉だけで2万人に達した。さらに、
 1460年秋には中国地方から山陰にかけて大飢饉が発生。食糧を求める人々が京都に
 流入してきたため、1月からの死者だけで8万2千人に達した。死体は市中に溢れ、鴨
 川は死体が積もって水も流れず、橋の上に立つとあたり一帯は死臭に覆われていたとい
 う。そういう状況が400年以上にわたって続いたのである。
・その時、庶民の間で心の救済策として広がったのが「踊り念仏」であった。上流階級が
 眉をひそめている間にも、踊り念仏は燎原の火のように広がり、現代にまで伝わる2つ
 の風習の源泉となった。その1つとして現在、寄付金集めの際に用いられる「芳名帳」
 は、踊り念仏から始まったものだという。修行者たちは20人から40人(そのうち半
 分が女性だった)地方を巡回し、村々で踊り念仏を披露して宗教的なエクスタシーの世
 界を現出してみせた。その際、村人が何がしかの金を寄付すれば、名簿に名前が記入さ
 れ「念仏札」が与えられた。これを「賦算」といい、これが後の「芳名帳」の原点とな
 ったのである。
・もう1つのポイントは「踊り念仏」から「念仏踊り」への変化である。両者は踊りと念
 仏という言葉が逆になっただけだが、中身はそれ以上に異なっていた。踊り念仏はあく
 まで修行者や同調者による宗教的な行為であり、踊りを通して「無我の境地」を目指す
 祈りであった。これに対して念仏踊りの場合、御踊り念仏から派生した芸能であり、と
 ころによっては村祭りの一つとされたから男も女も着飾り、白装束で背中に旗印を背負
 うなどの工夫も凝らしていた。 
・踊り念仏は殿上人から「下品」とされたが、芸能に転じた念仏踊りも、正統な宗教者か
 らは「遊女みたい」とされたのである。しかし通俗的で遊女みたいな踊りはたちまち日
 本の村々に伝播し、踊りのスタイルも、歌の内容も、楽器もテンポも、さまざまな形式
 のものが創り出されていった。これが次の時代に「盆踊り」として定着するのである。
・弘法大使(空海)が中国からもたらしたさまざまな経典の中に「理趣経」と呼ばれるお
 経があった。仏教の教えでは性交は不淫華戒によって禁じられているが、「理趣経」は
 性交を通じて即身成仏にいたると説いている点が大きな特徴だった。即身成仏とは人間
 が生身のまま究極の悟りを開き、仏になることを意味する。つまり「理趣経」とはセッ
 クス至上主義の経典といってよい。 
・鎌倉時代にはそのセックス至上主義を教義の中心に据えた宗派が生まれた。それが立川
 流である。立川流は真言宗の僧の最高位である阿闍梨にまで上り詰めた仁寛によって開
 かれ、京都・醍醐寺・三宝院の僧だった文観によって大成されたとされている。
・立川流は「理趣経」の中にある「十七清浄句」といわれる教えを基本の教義としていた。 
 これは、
 「妙適」男女の交わりによって起こる快楽
 「欲箭」弓矢のようにすばやく欲望を起こすこと
 「触」男女が触れ合う抱擁
 「愛縛」男女の間に離れられない気持ちが生じて、互いに縛られること
 さらに欲望をもって異性を見た時、美しいと感じる心、男女の交合の実感とその歓びな
 ど17に及ぶ交合の効用を表している。
・これだけならセックス至上主義といっても、ほかの宗派でも暗黙のうちに容認していた
 ところだが、1270年、豊原寺の僧によって、立川流が秘密にしていた教義が露わに
 なった。そのポイントは2つあった。先ず立川流では性液は「H」という言葉で表され、
 男の性液は白、女の性液は赤色とされる。この場合、女の性液とはいわゆる愛液のこと
 だが、男の性液にはわれわれが知る精液のほかに男も性交中に愛液を出すという考えが
 あったようだ。こうして男女二根の冥合(性交のこと)と赤白二Hの秘儀こそ教義の中
 心とされた。第のポイントは各自が本尊を造ることだが、本尊は人間の頭の骨で造った
 「髑髏(どくろ)仏」と定められていたことである。  
・この異端の宗教が、当時の人々にどの程度受け入れられたかは分かっていない。その理
 由として、大成者とされる文観の行動や人となりが、怪しげな雰囲気に包まれているこ
 とが挙げられる。文観は後醍醐天皇から始まる南北朝時代に、天皇の側近としてさまざ
 まな策を弄したことが知られている。立川流の実相はその陰に隠れてしまったのである。
・策士としての文観の行動の最たるものに、河内の悪党として知られた楠木正成と後醍醐
 天皇を結びつけたことがある。正成は幕府に反逆しているという意味では悪党だったが、
 武将としての実力や、地元における人気という点では群を抜いていたから、南朝方にと
 って百人力だった。
・南北朝時代によって、日本国内は乱れに乱れた。1467年に応仁・文明の乱がぼっ発
 すると混乱はさらに拡大、庶民の家は焼かれ、田畑は戦場になったり、軍勢の移動で踏
 み荒らされて使い物にならなくなった。その結果、多くの男女が奴隷として国内や外国
 へ売られた時代でもあった。奴隷といえば、日本ではアフリカの黒人の話題かと思われ
 がちだが、日本にも奴隷の時代がちゃんとあったのである。
・1582年に九州のキリシタン大名の名代としてローマへ派遣された4人の少年の目撃
 談が記録に残っている。「売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しくみたときは、道
 義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、
 こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」
 「わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざま
 な地域へあんな安い値でさらって行かれて売りさばかれ、みじめな賤役に身を屈してい
 るのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか」と述べている。
・秀吉の部下の大村由己も、外国人が数百人の日本の男女を買い取り、手足に鎖を付けて、
 船底に閉じ込めているという、奴隷船の様子を報告している。
・秀吉は荒れ果てた京都を復興させるために、市民からアイディアを募集、「いかなる身
 分の低い者でも、国が富み、民が栄える案を抱く者は申し出る」よう、市中に告知させ
 た。これに応じて遊郭の開設を願い出たのは家来の原三郎左衛門だった。遊女を集めて
 遊郭を開設し、飲めや歌えやで人々を慰めれば、京の町は賑わい、国家の安泰になるだ
 ろうというわけである。
・京都ではこれ以前から売春が公認されており、中でも足利時代の1528年には1年に
 15貫文の税金を納めれば、誰でも売春が可能とされていたことが記録に残っている。
 その結果、約半世紀を経たこの頃には京都を南北に走る西洞院通り、東西では、三条、
 五条、七条から錦小路などに遊女がいて、土地柄や女の格による違いが表れていたので
 ある。ただし15貫文という税金は現在に換算すると180万円から200万円にもな
 る大金で、おいそれと出せる額ではなかった。このため遊郭といえるほどの遊女屋はな
 く、あっても各土地にせいぜい1軒か2軒ずつくらい点在しているだけであった。

花開いた大エロ文化(江戸時代)
・江戸時代の人々にとって、銭湯は絶対に欠かせない生活のインフラであった。表通りに
 店を構えた大店にも、庶民の住まいである裏長屋にも風呂はついていなかったからであ
 る。江戸の民家は木造だったから、火事でも出したら大変だというのが風呂のない理由
 だった。    
・江戸の湯屋は約100軒に達したと想像されているが、それらはいずれもざくろ口とい
 う江戸時代の銭湯に共通する造りだった。ざくろ口を設けていることは、その銭湯が沸
 かし湯であることを示していた。ざくろ口とは洗い場から浴室への入り口をいう。両者
 の境は板壁で仕切られていたが、その下の開いた部分がざくろ口で、浴客はそこをくぐ
 って、向こうお浴槽に入るのだが、床からの高さが1メートルに満たないところがほと
 んどだったから、身をかがめて入る必要があったという。
・そのような装置を設けた理由は、沸かし湯が冷めないようにという配慮によるものだっ
 たが、その壁がさまざまなトラブルのもととなった。ざくろ口の内側の浴槽には明かり
 とりの窓がないため(あっても板格子がはめてあって、ごくわずかしか明かりが入って
 こなかったため)、日中でも真っ暗だった。
・このため浴槽の中で人が殺されても誰も気づかず、ざくろ口の外に出た客が自分の手拭
 いが血で真っ赤に染まっていたことで、初めて異変に気づいたこともあった。また浴槽
 の中で放尿する客は跡を絶たなかったし、大便が浮いていることもしばしばあったとい
 う。
・江戸時代の銭湯は、その誕生以来混浴であった。日本では歴史が始まって以来、温泉に
 入ったり、水浴びなどをする時はずっと混浴だったから、ほかの選択肢はなかったので
 ある。ただし江戸の混浴は、過去の混浴とはだいぶ事情が違っていた。混浴がずっと行
 われてわけではなく、男女別浴が目立つようになったり、混浴が増えたりを何度か繰り
 返したからである。
・徳川家康が江戸幕府を開いたのは1603年である。ここから江戸時代がスタートした
 のだが、幕府が開かれたことが直ちに平和な時代が到来したことを意味していたことで
 はなかった。家康は豊臣方に対して1614年に大坂・冬の陣、翌1615年には夏の
 陣を仕掛け、それによって、ようやく豊臣方を滅亡させることができた。
・それでも平和な時代は容易に実現しなかった。その理由として、江戸の街では昼日中か
 ら殺傷事件が頻発したことが挙げられる。豊臣家の旧臣たちは徳川方の大名家に新しい
 奉公先を求めたが、主人や同輩たちから理由もなく手討ちにされたり、あまりの理不尽
 な仕打ちに怒りが爆発して、主人に切り掛かるという事件が跡を絶たなかった。
・殺伐とした雰囲気が造られる条件が、江戸にはもう1つあった。家康が天下を取って以
 来、江戸城の新築から海浜の埋め立てや町民用の長屋の建設まで大規模な街造りが実施
 されたが、そこに働く人夫は全国から出稼ぎに来た男ばかりだった。参勤交代の制度が
 設けられ、地方の大名が江戸に滞在する時、お伴を仰せつかったのも単身赴任の侍たち
 であり、さらに宗教の脅威を知る幕府は懐柔策を兼ねて寺社の設置を推し進めたが、お
 寺の小僧から住職までもすべて男で占められていた。つまり初期の江戸は男女の人口が
 極端にアンバランスな都会だったのだ。 
・江戸の初期の大店は1662年に開業した白木屋(1999年に閉店)であり、続いて
 1673年に越後屋(現在の三越)が開業したが、これらの大店では大番頭から飯炊き
 まですべて男性でまかなっていた。店の主人側からすれば、極端な男社会で、女中に店
 の前の掃除をさせたり、使いに出したりすれば、何が起こるかわからないという不安が
 つきまとったのである。一方、職場から町中まで、女性が1人もいないという風景も異
 常で、男の奉公人の勤労意欲にも響いた。これらの大店では男性奉公人の勤労意欲を高
 めるために、店の経費で吉原の妓楼と契約を交わし、毎日順番に遊女と遊ばせていたと
 指摘している。
・開設当初の吉原を利用できるのは、大名や家老クラスの侍か、裕福な商人に限られ、庶
 民や下級の侍たちには高嶺の花だった。彼らが利用したのは、もっぱら「湯女風呂」で
 ある。江戸時代の湯女風呂は客の体を洗い流した後、売春に応じたから、工事人夫たち
 に大人気であった。
・遊女の中で、最上級の者を太夫といい、太夫の値段は一晩で1両以上(15万円くらい)
 とされた。これはセックスだけの代金であり、ほかに太夫自身や下働きの男女に対する
 お土産や心付けも必要だったので、実際には3倍以上の金が消えた。それだけの金を自
 由にできる客となると、大店の主や大名・家老クラスに限定されるが、そこに1つの悩
 みがあった。それは客の中に老人が多かったことである。太夫はきらびやかな着物を着
 て、郭内をゆったりと歩いて客の待つ茶屋へ出向き、しばし酒でも飲みながら言葉を交
 わす。その後、いったん引き下がり、着物を脱いで床で客を待つのだが、その間に男性
 自身が精気を失い、できなくなる例がしばしばあったのだ。
・これは京都の遊郭の話だが、その悩みを解決するために、それぞれの妓楼にはエロ話に
 長けたやり手婆(たいていは遊女上りの30歳以上の女性が務めた)がいて、男性自身
 が勃起し続けるよう、刺激的なエロ話を語り続けたという。
・宮中や江戸城の大奥などの女官(長局)たちは、天皇や将軍などのハレンチなセックス
 を目の前で見せつけられるのに、自分はまったく性交の機会がなかったから、欲求不満
 が募ってくると世間では確信されていた。実際に化粧道具などを扱う小間物屋で大奥に
 出入りを許されていた業者は、張り形も用意していたといわれる。で、張り形を使って
 よがり泣きをするというわけである。
・江戸時代には百花繚乱といえるほどの秘具が盛んになった。その頂点の存在が両国米沢
 町の薬研堀(現在の東日本橋1丁目)に店を構えていた「四つ目屋」(1626年創業)
 であった。最初は長命丸、帆柱丸、女悦丸、いもりの黒焼きなど媚薬の販売をメーンと
 していたという。四つ目屋が販売していた秘具にはどんな種類があったのだろうか?
 肥後瑞喜、吾妻形京形、張形、互形、茶せん、革型なが挙げられる。
肥後瑞喜は男子が植物の芋茎をペニスに巻き付けるもので、性交中に湿気を帯びてくる
 とオクラのようにヌルヌルになる。それが女性の内部にかゆみを感じさせて、こすられ
 ると気持ちがいいというので、女性がさらに欲しがるとされた。まれには現在でも販売
 している薬局がある古典的が秘具であるが、ペニスに巻き付けるのに高度なテクニック
 が必要で、途中で抜けてしまうことも多い。
・吾妻形は男子がオナニーの際に用いるもの。京形は京都製の張り形という意。水牛製や
 べっ甲製があり、べっ甲の方が表面に滑らかなひだが刻まれているなど、江戸製よりも
 精巧だった。江戸の張り形は水牛製がほとんどだったから、牛とか角といい、御用の物
 という変わった呼び方もあった。 
・革形は「かぶとがた」と読ませ、吾妻形の小形のものとしている。実際の長さは2セン
 チメートル前後で、男性の自慰用としては小さすぎて取り扱いが不便なことから、あま
 り喜ばれなかったらしい。むしろ避妊用に用いられることも多かったが、これまた途中
 でずり落ちるため、秘具としての評判はパッとしなかった。
・琳の輪は小さな鈴を数珠のようにつなげたもので、ペニスのピストン運動の際に鈴がぶ
 つかり合って音がするという仕組み。海鼠(なまこ)の輪の方は乾燥させた海鼠を輪切
 りにして用いる方法で、肥後瑞喜と同じ効果を狙ったものである。
・琳の輪とよく似た秘具に琳の玉がある。こちらは琳の輪よりも大きめの鈴が2つか3つ、
 女性器の中に挿入し、ペニスで突くと鈴がぶつかって「りん、りん」と鳴るのだという。 
・両国の川開きで花火が打ち上げられるようになったのは1733年で、以後、江戸の風
 物詩として定着した。その日は隅田川の川面が見えなくなるくらい、花火見物の川舟が
 出たが、四つ目屋も舟を出して、行き交う舟の人々に秘具や媚薬を販売していた。これ
 が大変な人気だったという。

<性の四十八手>の登場
・時は戦国時代にさかのぼる。群小の武将たちが覇権を争った結果、庶民は悲惨な目に遭
 わされる一方だった。その時、庶民の味方として立ち上がったのが一向宗である。一向
 宗(現在の浄土真宗)の信者は農民を中心とした土着の人々で、地侍の指導ののもと武
 将の集団に挑み、しばしば全滅、大量虐殺の憂き目に遭いながら、最後まで闘うことを
 あきらめなかった。この反乱を一向一揆という。
・江戸時代になって平和な時代が到来した時、一向宗の阿弥陀さん信仰と教義の中心であ
 る「四十八願」は、庶民の守り神として大変なブームを呼んだ。四十八願とは阿弥陀如
 来が理想とする浄土に不可欠な48の条件という意味であるが、庶民の間に死の恐怖か
 ら解放され、生きる喜びの表れとして性を楽しみたいという欲求が顕在化してたとき、
 「四十八願」ブームとその欲求が重ね合わされ、性の理想を実現するための48の体位
 という形に転化されたのである。
 
近代、官製エロの時代(明治〜昭和時代)
・横浜に港崎遊郭が開設されたのは1859年だった。こう書いて「みよざき」遊郭と読
 む。場所は現在の横浜球場のある一帯である。今は市街地の真ん中に位置しているが、
 できた当時は出島のような埋め立て地だった。そこに外国人向け(日本人も可)の遊女
 屋が15軒あり、300人の遊女がいたという(ほかに日本人だけを相手にする安い遊
 女屋も44軒あった)。
・港崎遊郭に造られた岩亀楼、神風楼、伊勢楼、五十鈴楼などの妓楼はすべて瀟洒な洋館
 造りで、文明開化のシンボルとして日本人の憧れのマトになった。中でも岩亀楼は、外
 国人向けの部分は3階建て、日本人向けは2階建てだったが、贅沢な造りが評判を呼び、
 日中は見物料を取って日本人に店内を見物させていたほどである。また遊女たちの外国
 人客に対するサービスも大好評で、甘酸っぱい果物のような魅力から彼女たちは「ネク
 タリン」と呼ばれていた。
・東京が首都と定められてから1か月後に新島原遊郭がオープンしたという。場所は現在
 の東京・中央区新富町にあたり、沼地や埋め立て地を整地したところにあった。明治の
 新政府は東京を首都と定めれば、横浜に集中している外国人も東京に移ってくるだろう
 と見込んで、彼らの便宜のために遊郭を開設させた。その裏で横浜の遊郭の評判がよか
 ったので、その評判をこの遊郭でも・・・と期待していたことはいうまでもなかった。
 新島原遊郭の隣には築地の外国人遺留地だったが、外国人が利用しやすいように遊郭の
 シンボルである大門を居留地に接するところに設けたのも、そういう思惑の表れだった。
 しかし新政府の役人が勘違いしていることが1つあった。横浜で最初い開設された港崎
 遊郭は出島の埋め立て地に造られ、入り口には守衛や妓楼の若い衆がたむろしていたた
 め、女性が出入りすることは事実上不可能だった。これは高島町や真金町などの移転先
 でも同様だった。その理由は、遊郭が開設されたのはアメリカ総領事の強い要請による
 ものであるが、そのことは条約にも記載せず、外国人女性には内密にするように求めら
 れていたからである。 
・当時、日本に来る外国人女性は確固たるキリスト教の信者がほとんどだったから、男性
 が遊郭へ通うことは自分の存在はもちろん、信仰にに対する最大の侮辱だったのだ。と
 ころが新政府の役人はその間のいきさつを知らなかったらしいのである。築地の外国人
 居留地にはアメリカ公使館や外交官夫婦の住居、とくにミッションスクールは立教、明
 治学院、雙葉学院、青山学院、女子学院など、後の日本の女子教育を担う名門校がずら
 りと名前を連ねていたから、隣接する遊郭の存在は西洋文明に対する侮辱と受け取られ
 て、反日運動さえ起きかねない状況だった。
・こうして新島原遊郭は開業早々、閑古鳥が鳴く状況で、結局は新政府の役人が連日、入
 り浸って大騒ぎをやらかしていたという。それも木戸孝充や大久保利通など討幕の重鎮
 たちは吉原の高級な店を利用していたから、新島原遊郭にたむろするのはそれ以下の中
 級役人たちであり、もっとも鼻持ちならない役人のサンプルとされるような面々だった。
 開業3年目の1871年に、新島原遊郭は太政官命令により閉鎖を命じられた。500
 年以上続くのが普通という遊郭の歴史の中で、たった3年足らずで閉鎖に追い込まれた
 のは後にも先にもここだけであった。 
・アメリカのペリー提督は日本に開国を要求して1852年から3年続けて来日し、日本
 政府との交渉の経過を詳細に記した報告書を自国政府に提出した。その中では日本人の
 生活習慣が次のように描かれている。「人々は皆非常に礼儀正しく控えまである。しか
 し驚くべき習慣を持っている。ある公衆浴場での光景だが、男女が無分別に入り乱れて、
 互いの裸体を気にしないでいる。この入浴光景を別にしても、目を覆いたくなるような
 猥褻な図画が載る大衆文学が多数存在する。これらは淫乱の情を促すもので、現実に特
 定の階層で読まれており、胸が悪くなるほど度が過ぎているばかりか、人が汚らわしく
 堕落したことを示す恥べき烙印でもある」
・この報告書は1860年、有名な咸臨丸の軍艦奉行(司令官)として渡米した木村摂津
 守
がアメリカで入手し、仙台藩の学者として知られていた大槻磐渓に贈呈した。大槻は
 これを翻訳して藩主に差し出し、さらに幕府へ上納されたのだという。しかし幕府はこ
 の批判に対応する間もないまま消滅したため、その対策は新政府に委ねられた・
・盆踊りは中世の念仏踊りから起こったもので、最初から男女の乱交を伴ったレジャーで
 あった。盆踊りは江戸時代にとくに盛んになったが、その流行は明治の新政府にとって、
 不名誉きわまりないことであった。
・「五箇条の御誓文」は明治天皇が国のあり方を示した基本方針であったが、この御誓文
 がきっかけで、大阪・南河内郡磯城町(現太子町)ではフリーセックスが流行したとい
 う。御誓文の3条に「文官武官から庶民にいたるまで、それぞれ自分の志を遂げ、人々
 が飽きのこない人生を送れるようにすることが大切だ」とある。この条文を「飽きがこ
 ないようにセックスしてよろしい」と、こじつけて解釈したのである。ここでは毎年4
 月22日(旧暦)に会式が行われるが、この会式は「一夜ぼぼ」と呼ばれ、誰と寝ても
 よい日とされていた。 
・明治時代になって、この「一夜ぼぼ」の風習に対する警察の目が厳しくなってくると、
 この条文を逆手に取って、「一夜ぼぼ」の夜以上に乱交が盛んになったのである。それ
 までは、「一夜ぼぼ」の日以外には、亭主のある女性のもとへ夜這いに行くことはなか
 ったが、そういう制限もなくなったし、昼間でも、家の中でも、山の中でも、好きな女
 と寝ることが流行って、「ええ世の中になった」と、みんなして喜んだというのである。
・エロ写真の流行を決定づけたのは日露戦争の際、エロ写真が国策として戦場に送られた
 ことであった。1894年、日清戦争がぼっ発すると軍事郵便制度が設けられ、そのマ
 ークとして上半身裸の女性の絵が使われた。現在のハガキでは表面の左肩に花柄などが
 印刷されているが、軍事郵便はそこのセミヌードが用いられたのである。しかしハガキ
 の紙質が粗悪なため、何が描かれているのか分からないという悪評が殺到した。
・これに対して1904年に始まった日露戦争では、3人の芸者をモデルにしたヌード写
 真が撮影され、慰問品して戦場にばらまかれたのである。前線には好事家から提供して
 もらった写真や、エロ写真や浮世絵の業者に警察の方から話を持ちかけて作製されたエ
 ロ写真や春画も大量に出回っていた。
・戦場で初めてエロ写真に接した兵士たちは復員後、「自分もエロ写真を撮ってみたい」
 という欲に目覚めた。その結果、明治末期から大正時代にかけて、日本では一大エロ写
 真のブームが巻き起こったのである。
・しかし同じく国運を賭けた戦争でも、第2次世界大戦の際にはエロ写真や春画を兵士に
 送ることは禁じられた。エロ写真を慰みとするような不心得者は神国ニッポンにはいな
 いということなのだろう。唯一認められたのが志摩半島(三重県)の海女の写真で、乳
 房を露出させた彼女たちの姿は仕事の必要によるもので、わいせつではないとされたの
 である。
・1941年の太平洋戦争の開戦時には、東京ではすでに現像液や印画紙などが不足して
 いて、コレクター仲間の写真屋さんも出兵兵士の記念写真を撮るのが精一杯だった。
・性の関係を表現する言葉には庶民の間の用いられる俗語がある。俗語とは「おまんこ」
 や「ぼぼ」と言った言葉を指し、史料用語に属する例として陰茎、膣から精液、淫水、
 陰核などの言葉が含まれる。