この大川小学校は、あの3.11の東日本大震災での大津波が押し寄せて、74名の児童と10名の教職員が犠牲となったところだ。
月日の流れるのは早いもので、あれから約8年半の歳月が過ぎ去った。
いつの日か訪れたいと思っていたが、やっと今日それがかなった。
被災した小学校校舎は、まだほぼ当時の状態のまま残されていた。
今では悲惨な状態の姿の校舎であるが、被災前は、なかなかモダンですてきな校舎の小学校だったことが忍ばれる。
震災発生後当時、この痛ましいニュースを聞いて、どうして小学校の裏山に逃げ登らなかったのかと、ずっと疑問に思ってきた。
どうしても、それを自分の目で確かめないと気が済まなかった。
地震直後、教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認したものの、そのまま校庭に留まったまま、避難先について議論を始めたということだった。
校庭のすぐそばには裏山を登るための緩やかな傾斜が存在し、児童らにとってシイタケ栽培の学習でなじみ深い場所である裏山は有力な避難場所であったとのことであったが、
悪天候(降雪)により足場が悪いことなどから、登って避難するには問題があったとされていた。
しかし、実際にその裏山を自分の目でみて見ると、想像していた以上に急斜面だった。
しかも、階段がついているわけでもなく、辛うじて「けもの道」のような細い道があるだけだ。
大人の自分でも、そこを登って行くのは躊躇した。ましてや、小学生の小さな児童たちが、しかも降雪で足場が悪い状態の中を、果たして登っていけるのか。
もし、自分が教師の立場だったら、子供たちにここを登れと言えただろうか、と思った。
それでも、あんな大津波が押し寄せてくると分かっていたら、死にもの狂いで登らせたかもしれない。
しかし、当時は、あんな大津波が押し寄せてくるとは、だれもが予想していなかった。
他に、もう少し条件がいい避難場所がないのかと、周囲を歩いてみたが、他に避難場所となるような所は見当たらなかった。
当時、教師たちが校庭に児童を留めたまま避難先をめぐって議論を始めたということだったが、そのことがなんだか理解できるような気がした。
この小学校には「逃げ場」がなかったのだ。
現に、この小学校の周囲には、小学校意外には適切な避難場所がなく、この小学校がこの地域の避難場所に指定されていて、
実際に地震の直後には近所の住民がこの大川小学校に避難してきたようだ。
最終的に、新北上大橋のたもと三角地帯に避難することになり、教職員と児童らは地震発生から40分以上たってから移動を開始した。
そして、児童らが県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだという。
その新北上大橋のたもとの三角地帯にも行って見た。
確かにここは、この地域では、唯一小高い所となっており、小学校の裏山以外だと、ここくらいが避難場所になるだろうと思えた。
しかし、実際の津波は巨大過ぎて、そこではダメだったのである。
この学校側の対応をめぐって、今でも一部の遺族が裁判で争っている。
確かに、これだけの数の児童の犠牲が出たのだから、児童の遺族の心情からして、学校側にまったく責任はないというのは、納得できないだろう。
しかし、教師たちに全部その責任があるというのも、残酷のような気がした。
あえて言うならば、行政などが、小学校の裏山に階段を整備したり山頂に公園を作るなどして、いざという時の避難場所として整備しておくべきだったのだろうと思う。
しかし、これも、事後のむなしい意見のひとつに過ぎない。
いまはただ、犠牲となった子どもたちと先生たちのご冥福を祈ることしかできない。
なお、この被災した小学校は、旧校舎を存置という形で、全体を震災遺構として保存することとなったという。
遺族の中には「校舎を見たくない」という意見もあるため、周辺を公園化して、植栽などで校舎を囲むことが検討されているという。
【所在地】
宮城県石巻市釜谷山根1