雪呼び地蔵  :新田次郎

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この作品は、今から51年前の1970年に発表された短編小説である。小説の舞台とな
っているのが山形県と福島県の県境近くに位置する滑川温泉から一切経山にかけての山岳
で、東京から来た三人の女性が、滑川温泉に一泊した翌日、滑川温泉−霧の平−家形山−
一切経山−微温湯のコースでハイキングに出発したが、途中、天候が急変して、遭難し三
人とも死亡してしまうという内容である。
遭難の原因は何であったのか。東北の晩秋の山を甘く見ていたことやリーダーの不在、無
理な計画、お互いの信頼関係の欠如など、いろいろ考えられると思うが、どれかひとつの
ことが原因ということではなく、これらが積み重なった形で、結果的に遭難してしまった
ということなのではないだろうかと、登山経験のあまりない私には思えた。もっとも、こ
のリーダー不在というのは、今の日本の政治などでもしばしば見られる話ではあると思う
のだが。しかし、それでは、どうすれば一番よかったのだろうか。天候の変化に気づいた
時点で、直ちに滑川温泉まで引き返すべきだったと登山素人の私には思えたのだが、登山
のベテランの人たちはどう考えるのだろうか。
ところで、滑川温泉はいわゆる大自然の中の「秘湯」と言われるところで、温泉宿は一軒
だけのようだ。宿までの道もかなり険しいようで、狭くカーブも多ようなので、覚悟をし
て行く必要があるらしい。
なお、この作品に出てくる家形山は吾妻連峰の東吾妻に属する標高1877mの山だ。今
も火山活動を続ける一切経山(標高1949m)の北に位置している。この一切経山の山
頂から観る家形山と「魔女の瞳」と言われる五色沼の景色は素晴らしいらしい。しかし、
残念ながら私は行ったことがない。行く人は「雪呼び地蔵」に笑われないようにしなけれ
ばならないようだ。



・そのもみじの一枚にユミが眼を止めて、なんてきれいでしょうとひとりごとを言ったと
 きから三人の運命は狂い出したのである。もみじの一枚はビールの空瓶にさして、玄関
 脇の台の上に置いてあった。もみじは、手折ったばかりのように新鮮な紅の色をしてい
 た。殺風景な宿の玄関にはまったく調和しない存在だったから、かえってユミの眼に止
 まったかもしれないが、十人のうち九人までが知らずにすんでしまいそうな暗いところ
 に置いてあったそれが、ユミの眼に触れたのは、さしこんで来た朝の光が、そのもみじ
 の枝の末の一葉に当ったからであろう。
・「大滝っていうところへ行けばまだ見られるかしら」と悦子が言った。東京から此処ま
 で来る途中、この付近は、春先はこぶし、秋はもみじが美しいということを、千恵から
 さんざん聞かされて来たからであった。
・「さあ、もみじには少しおそすぎますね。もう半月も早ければ、あの沢はもみじでいっ
 ぱいでしたが」と番頭はそう言うと、宿の直ぐ前の滑川の方へ眼をやった。そこらあた
 りから、滝と紅葉で売り出している滑川の渓谷が始まっているのである。
・「大滝って遠いかしら」ユミはやはりもみじにこだわっているのである。宿の玄関で見
 たようなもみじの自然の姿を見たいと考えだすと、もうなにがなんでも見たくてたまら
 ないのは、末子として生まれた甘ったれた気持ち手伝ってはいるが、ここで無理してお
 せば、悦子は問題なく、ユミの言うとおりになるし、千恵だってユミの願いをそう簡単
 に拒絶するようなことはあり得ないという確信があった。
・「大滝までならかなりあるわ。往復一時間もかかるかしら、今日の行程からいうと、そ
 れはとても無理よ」千恵は静かに言って、日が短い季節のハイキングには時間がいかに
 大事かということをユミに教えてやるつもりのように腕時計を見た。八時半である。
・彼女たちのその日の行程は、滑川温泉−霧の平−家形山−一切経山−微温湯の行程を八
 時間かけて歩こうというのであった。滑川温泉を八時半に出ると午後の四時半に微温湯
 につく予定であった。そう無理な計画ではなかった。
・千恵は滑川の渓谷の方角とは反対の家形山登山口の方へゆっくり歩き出した。すぐ後か
 らユミと悦子がついて来ることをひそかに期待していたが、数歩行っても、うしろから
 の足音が聞こえないので、むっとしたような顔でふりかえると、ユミと悦子は顔をつき
 合わせてなにか話していた。
・「ちょっとでいいから、私たち大滝のもみじを見たいのよ」と悦子が言った。悦子が私
 たちと言ったとき、悦子とユミが、もみじを見るということで意見が一致したことをは
 っきり示していた。三人で山に来て、その二人がそうしたいというならば、千恵として
 も強いてそれに反対はできなかった。こんなところで、気まずいことになれば、今日一
 日が全く面白くないことになってしまうし、へたにここで、千恵だけの意見を通そうと
 すれば、それでは、あなたひとりでなどと言われないともかぎらなかった。
・千恵は、悦子とユミを会社の中でのみ知っていて、一緒に山に行ったことは今度が初め
 てであった。 
・千恵は引き返して、彼女等の先に立った。この春来たところだから、道はよく知ってい
 た。宿の裏手の吊橋を渡って、二十分ほど歩くと、尾根から大滝を見ることができた。
 そこで引き返すのだ。滝壺までおりて行くとすれば時間がかかって、今日の日程からは
 み出すおそれがある。
・もみじはもうおしまいになっていた。ほとんど落葉しているし、木の枝に残っている葉
 もすっかり色あせていた。
・だがそこから見る大滝はすばらしかった。数十メートルもあるような岩を、滑らかに覆
 いかくすように流れ落ちる主流の滝と並んで、幾条かの小さな滝が見えた。滝の下から、
 男女の声が聞こえていた。
・「道さえ、はっきりしていたら、私たち懐中電灯を持っているから大丈夫でしょう」悦
 子が言った。
・「ほんとうに、もう時間がないのよ」千恵はやや声を高めていうと、二度と後ろを振り
 向かずにもと来た道を引き返したかった。しばらく歩いて立止まって、背後の音に耳を
 すませると、悦子とユミの話し声がした。千恵は微笑した。
・吊橋を渡って、宿の傍を通るとき千恵は湯のにおいを嗅いだ。そのにおいから彼女は、
 ゆうべ湯船のなかで見た湯ばなのことを思い出した。千恵はこの年の春も、この湯に入
 った。湯ばなが浮いてはいたが気にかかるような存在ではなかった。それが今度は、な
 ぜこの湯ばなが、いやらしいものに見えるのだろうか。
・「もうちょっとゆっくり歩いてよ」悦子の声で千恵は、いま自分がかなり速いペースで
 歩いていることに気がついた。道草を食った一時間の遅れを取り返そうとして、意識的
 に足を速めているのだ。山登りははじめが大事だ。はじめいそぐと、あとでそれがこた
 えて来る。一時間の遅れは、一日かけて、なしくずしに取り返さねばならないと自分に
 言いきかせていた。
・「でも天気がよくてよかったわ」と悦子は、天気さえよければ一時間の遅れなんか気に
 することはないと言っているのである。千恵は空を見上げた。山と山にかこまれたせま
 い範囲の青空の中に、一片の雲が動いていた。
・「一時間ずつ交替で先頭を歩きましょうね。道を間違わないように、ゆっくり歩くのよ」
 と先頭を歩いている千恵が言った。三人だってパーティーを組めば、リーダーが要る。
 そのリーダーはこの場合、千恵であるべきだが、別にリーダーだのパーティーだと面
 倒くさいことを抜きにしての女性同士三人の気軽な晩秋のハイキングにしましょうねと
 いう、千恵の提案だった。
 

・滑川温泉は奥羽本線峠駅から南に約四キロ、標高七七七メートルのところにある。十一
 月に入ると訪れる人は急に少なくなる。滑川温泉はまだ晩秋の憂いを残しているが、山
 手に向って一時間も歩けば日陰に雪がある。春まで解けない根雪である。
・ユミが雪よ、雪だわと大きな声を上げたのは滑川温泉から一時間ほど歩いた霧の平の分
 岐点であった。石の堆積に半ば埋まるようになって、石の地蔵がユミに向って合掌して
 いた。何時ごろからそこにあるものか分からないが風化がはげしく、あっちこっちが欠
 けたり、摩耗しているにもかかわらず、地蔵の眼ははっきりとユミを見ていた。地蔵の
 眼は深くきざみこまれた眼であり、ほんのわずかではあるが、目尻が張っていた。その
 特徴ある眼と対照的に合掌している両手が上向きに反り返っているあたりに地蔵の両手
 にこめられた力が感じられた。
・地蔵の前にはひとかたまりの雪があった。地蔵自身が日をさえぎったためにそこに雪が
 解けずにそのままでいるものと思われた。雪は地蔵にささげられた供え物のようであっ
 た。
・「お地蔵さんがめずらしいの」悦子に言われたのでユミは地蔵から眼をそらした。寒い
 なと思った。立止まっていると、すぐ汗が引いて背筋に寒さが走るのである。
・地蔵の前のほんのひとにぎりぐらいの雪が、四方八方にどんどんひろがって行き、はて
 しなく野も山も包みかくしてしまうのを、地蔵はそこからじっと見ているように思われ
 てならなかった。
・「雪呼び地蔵さん・・・」ユミの口からそんな言葉が洩れた。
・三人が霧の平から、高倉新道の稜線を南に向って歩き出したころから、空の様子が急に
 変わり出した。白濁した空はもう空ではなく雲にかくされていた。かなり高いところに
 ある雲でありながら、時間と共に、その厚さを増し、高度をぐんぐん下げて来るように
 思われた。南風がつめたく、どんよりして来た空の下を歩くのがなんとなく不安でもあ
 った。
・一息登ったところに、奇妙な形をした岩があった。道はその岩の右側を通っていた。神
 楽岩だと千恵が二人に教えた。三人は岩を背にして少々早い時間の食事を摂った。食事
 をしながら、風が強くなったので、それぞれ、ウインドヤッケをつけた。
・霧の平から家形山までの南北を走る稜線は西の米沢盆地と東の福島盆地とを気候的にわ
 ける境界線であった。 
・「朝一時間の道草をしたから、あまりゆっくりできないわ、そろそろでかけましょうよ」
 と千恵がそう言っているとき、一人の男の登山者が、彼女等の前を滑川温泉の方へ降り
 て行った。 
・「あの人、なぜ山を降りるのかしら」とユミが言った。「別に山を降りるってわけでは
 ないでしょう。今朝早く吾妻小屋を出れば、いまごろこの辺りよ。あの人、五色温泉に
 でも行くつもりじゃないかしら」と千恵はそういったが、ユミには、その男が、家形山
 を目ざしていた登山者であって、天気が悪くなりそうだから、山を降りるのではないか
 と思われた。ユミは、その彼女の想像を悦子と千恵に言おうと思ったが、千恵も悦子も、
 それほど天気のことを気にしてはいない様子だから、ついそのことを口には出せなかっ
 た。
・それからずっときつい登りだった。時折稜線の両側の針葉樹林の中から飛雪が吹き上が
 って来ると、ほんとうに吹雪になったのかと思わず辺りを見廻すほど暗い気持ちになる
 のである。
・一時間置きに先頭をやろうと自分から言い出しておきながら、千恵はずっと先頭を歩い
 ていた。それは、他の二人がこの山は初めてだし、どうやら天気が変わりだしたようだ
 から、なるべく早く安全地帯まで踏みこもうという気があったからである。
・眼の前が白く開けた。ユミはそこだけになぜかたまって雪が降りつもっているのだろう
 かと思った。しかしそれは、雪ではなく白い砂の地帯だとわかると、なあんだという気
 持ちになって、白い砂の正体を掴もうとしゃがみこんで、手袋をはめている両手をそっ
 と白砂にさし出したとき、その灰色の手袋にほんとうの月が降りかかったのである。
・「雪だわ」とユミは今度こそ遠慮のない声を上げた。 
・「どうするの」と悦子が千恵に聞いた。千恵がリーダーだと決めているわけではないが、
 ここらあたりのことは千恵だけしか知らないし、だいたいこのコースを悦子とユミにす
 すめたのは千恵だから、必然的に千恵がリーダーであり、千恵の意志によって進むか退
 くかが決定されるべきところであった。
・「今ごろの、この辺の山は、ときどき雪がちらつくものよ」と千恵は驚いたふうは見せ
 なかった。千恵は地図を出して、あと一時間半も歩けは家形山の頂上に出られる。そこ
 まで行ってもまだ向かい風が強いようなら、一切経山の方へ行くのはやめて、五色沼へ
 降りて高湯へ行けばいいし、もし天気が悪くなったら、家形山のすぐしたの家形ヒュッ
 テへ逃げ込めばいいと言った。そのように説明されると、悦子もユミもまた気持ちを変
 えて前進する気になった。
・きつい登りになった。家形山の頂上が近くになるにつれて雪が激しく降り出し、吹雪の
 様相を示した。三人は着られるものを全部着こんだ。
・「とても家形山まで行くのは無理だわ。滑川温泉へ引き返しましょう」と悦子が言った。
・「でも頂上はすぐそこよ。ここまで来たら家形山のヒュッテに逃げ込むのが一番はやい
 のよ。家形山の頂上からほんのひといきのところにヒュッテはあるのよ」と千恵は前進
 することを主張し、悦子は引き返すことを主張した。二人は寒いので、歯をがつがつ言
 わせながら言い争った。
・「じゃあユミさんの意見によって決めましょうよ。多数決だわ」と悦子はユミが引き返
 す説に賛成してくれること間違いなしと見込んで言った。ユミは低い声で山を降りると
 言った。
・「ユミさんまで、そんなことを言うの。家形山の頂上はすぐそこなのよ。ほんとうに、
 二十分か三十分のところなのよ」と千恵は、ここまで来て、二人に裏切られたことがこ
 らえ切れなくなったように眼に涙をためた。
・「いいわ、ここでお別れしましょうね。私は登るわ。あなたがたは勝手にするがいい」
 と千恵は二人に背を向けた。そうすれば、この辺りの山に詳しくない彼女たちはきっと
 ついて来るに違いないと思った。千恵は十歩ほど登ったところで立止まって、彼女等の
 足音を待った。足音は遠のいて行った。千恵は彼女等の姿が見えなくなると、身が凍る
 ような孤独感の中に立ちすくんだ。
・千恵は二人のあとを追った。吹雪に中を寄り添うようにして降りて行く二人の姿を認め
 たとき千恵はほっとした。このままおりて行けば、あの二人とまた滑川温泉に泊まるこ
 とになるのだ。そんなことを考えているうちに、前を行く二人の姿は吹雪の中に消えた。
・「なによあの女たち・・・」千恵は二人の姿が消えたあたりに向って言った。あの二人
 に追いつけば、彼女たちに負けたことになる。意地でも二人に、さっきはごめんなさい
 ねなどと言えるものか。


・ユミはたわいなく滑ってころんでいやというほど尻もちをついた。ユミは枯草の上に降
 り積もった雪の上に乗って滑ったのである。地蔵の顔が眼の前に浮かんだ。このまま降
 りて行くと、地蔵はユミのほうにくるっと向きを変えて、声を上げて笑い出すかもしれ
 ない。そんな気がした。その地蔵の顔を見るのもいやだが、その地蔵のところまで悦子
 と二人で行けるかどうかが心配だった。悦子は年上だし、気も強いけど、山のことはな
 にも知らない。そう思うと、この場合は、年は七つも上だし、山にかけてはベテランだ
 と言われている千恵にたよるより仕方がないのではないか。彼女が家形山の頂上はすぐ
 そこだと言ったのをなぜ信用しなかったのだろうか。今ならまだ追いつける。ユミはく
 るっと山の方へ向きを変えた。
・「ユミさんどうしたのよ。なぜ急にまた・・・」と悦子はユミを引き止めようとしたが、
 悦子自身も、帰路を雪にさえぎられて不安になっていたから、今なら追いつけるわとは
 っきり口に出して、本気で千恵の後を追おうとするユミを見ると、千恵について行くの
 が、結局は一番安全だと考えるようになった。二人は声を揃えて千恵の名を呼んだ。向
 かい風に押し戻されて、その声は千恵には届かなかった。二人は千恵の後を追った。
・一人になってからの千恵は気が重くてしようがなかった。二人と別れてしまったという
 こともあったが、そのころになって疲労が彼女を責め出した。千恵は昨夜眠れなかった
 のである。山に登る前夜は、眠らないといけないと、自分に命令する声が邪魔になって
 かえって眼がさえることがたまにはあった。だが、昨夜の眠れない理由はそのようなこ
 とではなかった。その夜の彼女は湯ばなに悩まされつづけた。
・千恵は疲労と吹雪とを同時に相手にして、これからかなりはげしい戦いをしなければな
 らないことを知っていた。急坂を登り切って家形山の頂上の吹きさらしに出たときが勝
 負だと思った。
・千恵は霧の流れの中に身をゆだねながら家形山の頂上に立っていた。春来たときは、そ
 こは三角形の広場であったが、今は吹雪と共におしよせて来たガスのために十メートル
 先は見えなかった。
・「きっと家形山ヒュッテを探し出して見せるわ」彼女は霧の中に見当をつけて入って行
 った。
・ユミと悦子が家形山の頂上に立ったとき、丁度霧に切れ目ができて、ずっと向こうを、
 背を丸くして歩いている千恵の姿を望見した。二人は声を上げながら千恵の後を追った。
 霧がまた視界を閉ざした。激しい吹き降りになった。
・千恵は頭の中に描いた地図をたよりに歩いていた。家形山ヒュッテへ行くには、家形山
 の頂上から一切経山へ行く縦走路をおりて行って五色沼のほとりまで来たところの左側
 に立っている指導票をたよりに行けばいいのである。彼女は家形山の頂上から一切経山
 へ行く縦走路のおり口を探した。そこには指導票があったはずだ。霧と吹雪でその降り
 口がなかなか発見できなかった。彼女はかなり迷い歩いてから、信用できるかどうか分
 からないが、とにかく踏みあとには間違いないと思われる道を降りて行った。五色沼の
 ほとりまで行けば高湯へ行く道に必ずぶっつかるはずである。その道がわかれば家形ヒ
 ュッテへの道はすぐに分かる。彼女はそう考えていた。
・その踏み跡はやがて細くなって消えた。そうなればただもうそのあたりを歩き廻る以外
 に仕方がなくなっていた。だがそのころは吹雪の絶頂になっていた。吹雪は眼にも口に
 も入り、 ウインドヤッケから吹き込んだ雪は首のあたりで解けて身体にしみこもうと
 した。歩くことにより、なんとかして、その吹雪をさけてひといきつけるところに出た
 かった。
・悦子とユミは家形山の頂上で、霧の切れ目に見えた千恵の歩いていく方向を追った。二
 人は千恵のように歩き廻るようなことはしなかった。あっちへ千恵は行ったのだと思う
 方向に進んで行って、千恵が家形山の頂上でもたついている間に、家形山の頂上を越え
 て、五色沼の方向へ雪の斜面をがむしゃらに降りて行って、風の鳴る針葉樹の疎林の間
 を通り、二人は千恵の後を追うつもりで、吹雪の中をさまよい歩いた。
・「私はもう歩けないわ」とユミは雪の上に坐り込んで首を垂れた。千恵の後を追おうと
 して急いだことが彼女を急速に疲労させたのであった。馴れない吹雪の中の寒気が彼女
 をたたきのめしたのである。
・「あのまま滑川温泉へ降りたらよかった」とユミがひとりごとのように言った。「いま
 さらなによ」と悦子はうらめしそうな眼でユミを見たが、別にユミをせめようとはしな
 かった。それよりも弱りこんだユミをどうして引張っていこうかと考えていた。
・悦子はそのとき人の声を聞いたような気がした。「ユミさん、人の声を聞かなかった?」
 「案外この近くに家形ヒュッテがあるかもしれないわ。ちょっと待っててね。見てくる
 から」ユミは、なにも言わなかった。彼女はものを言うのも、億劫であった。そのまま
 そこに眠ってしまいたいような気持ちだった。
・悦子は、人の声が聞こえた方向に歩いてみた。ヒュッテはなかった。人の声ではなく、
 疎林の鳴る風の音を、人の声に聞き違えたのではないかという疑惑に取り付けられると、
 それこそ、遭難する前にきっと聞こえるという幻聴かと思った。
・悦子はユミのところに引き返したがユミはいなかった。確かにこの辺だと思うのだけれ
 ど、そこにユミが居たという証拠はなにもなかった。声を上げて叫んだが応答はなかっ
 た。
・悦子はユミと離れてしまったときから、自分の足が思うように動かなくなって来たこと
 を知った。暗くなって来た。もうまもなく日が暮れるのだと思いながらも、腕時計を見
 る元気がなかった。彼女は、風の陰を探した。ほんのちょっとばかり休養すれば、そし
 てルックザックの中のお菓子を食べて、水を飲めば元気が出て、家形ヒュッテを探し出
 すことができるのだと思った。


・ユミはいつまで待っても帰って来ない悦子の名を呼びながら歩き出した。ひょっとする
 と悦子に捨てられたのではないかと思った。千恵にとっても悦子にとってもユミは厄介
 者なのだ。山の経験はなく、足だって弱いし、なにかと言えば年長者に甘ったれるユミ
 なんかと一緒にいて、死ぬまでおつき合いさせられたらたまらないと思って、ユミを一
 人にして逃げたかもしれない、そうだ逃げたに違いないと思うようになると、ユミはも
 う悦子の名を呼ぼうとしなかった。自力でなんとかしてこの場を脱出することを考えね
 ばならないと、彼女は四方に眼をやった。
・雪は小降りになったかわりに風が強くなった。降雪が少なくなるにつれて風が南西から
 西に廻りつつあった。その風向きの変わり方は彼女には分からなかったが、雪よりも風
 のほうが始末に負えないほど厄介なものだということを彼女の身体がよく知っていた。
・「どこかに逃げ込まないと私は死んでしまうわ」と彼女は口のなかでつぶやいた。彼女
 は寒い風を背に受けて歩いていた。この場合、風に耐えるにはそうするより仕方がなか
 った。
・夜が来た。彼女はルックザックの中から懐中電灯を取り出した。スイッチを入れると前
 方に石の地蔵が座っていた。「あら、もうここまで来たのだわ。ここまで来れば、滑川
 まではあと三十分か四十分よ」ユミは彼女のうしろにいるつもりの悦子に言った。悦子
 の返事がないし、それは地蔵ではなく、背の低いブッシュが雪をかぶったものだった。
・ユミは、滑川に向って降りているのではなく、家形ヒュッテを探しているのだと自分に
 言いきかせてまた歩き出した。しばらく歩くと、今度こそ地蔵がこっちを向いていた。
 あの地蔵に間違いなかった。 
・「家形ヒュッテを探しているのではなく、やはり私たち三人は滑川に向って下山してい
 たのだわ」とユミが地蔵に向ってそういうと、地蔵はげらげらと笑い出した。
・彼女は懐中電灯を大きく廻した。霧が薄らいで来たので、光芒はずっと先まで届いた。
 右手の方になにか大きなものが見えた。それは大きな岩であった。その岩の陰に入ると、
 西風はぴたりと止んだ。嘘のようにその付近が静かになり暖かかった。
・「とうとう私は吹雪にも風にも負けないですんだのよ」するの彼女のまわりから、いっ
 せいに地蔵の笑い声が起った。ユミは懐中電灯をふりまわしてその声をおさえると、そ
 の不謹慎な雪の地蔵たちに言った。「ほんのちょっと眠るうちだけ黙っていてね」ユミ
 は膝を抱え込むようにして眠り込んだ。
・悦子は懐中電灯をつけたとたんにもみじを眼の前に見た。こんな寒い、こんな風の強い
 雪の原野になぜ、こんな美しいもみじがあるのだろうかと思った。それを取ろうとした。
 (あのもみじの枝さえ取れば、私はもうなんの心配もないのだ)悦子は頭の中でそんな
 ことを考えた。
・頭の芯が痛いなと思うとき、ふと彼女は、いま自分は吹雪の中で幻視におそわれている
 のだと思った。こんなことをしていてはいけない、どこかに逃げ込まなければとあせり
 出すと、ぽかっと前にもみじが現われるのである。彼女も風を背にして歩いていた。無
 意識に風に背を向けていた。
・懐中電灯の光の中に悦子は懸崖をとらえた。その懸崖からもみじの枝が垂れ下がってい
 た。今度こそ取れそうなところにあった。一歩、二歩、三歩のところで風が止んだ。あ
 れほど強かった風がぴたりと止んだ。そのわけは直ぐにわかった。岩の陰に出たのだ。
 もみじは消えた。
・「これで助かったわ。ここで一休みして、食事でもするうちに風は止むだろう。それか
 ら道を探せばいいのよ」彼女はルックザックからチョコレートを出して食べた。砂を噛
 むような味だった。
・岩の陰に入ったので急に暖かになったような気がしたが、それはそのときだけで、すぐ
 寒さがやって来ることを彼女は考慮してはいなかった。とにかくしばらく休むことだ。
 彼女は眼をつぶった。彼女のすぐ近くにユミが同じような格好で眠っていることを悦子
 は知らなかった。
・千恵は彷徨をつづけた。彼女は頭の中に描いた地図の中を歩き廻りながら家形ヒュッテ
 を探していた。だが、彼女の身体は寒いのが嫌いだから、彼女の考えと、彼女の足の方
 向とは必ずしも一致しなかった。吹雪が止んで西風が強くなると、彼女の歩く方向は決
 まったようであった。結局、彼女もまた風に送られて岩の下に出たのである。
・三人は別々に行動していたが、風が三人を同じところに追い込んだのである。千恵は岩
 の陰に入って、寒さから解放されたとき、「道はこの岩の下だわ」と叫んだ。
・彼女は豊富な山の経験を持っていた。疲労困憊して朦朧となった彼女の頭の中に、岩の
 下に道がある風景が思い浮かんだ。彼女は岩の下へ向って歩き出した。そこは、かなり
 の急傾斜面で、一面に草で覆われ、その上に雪が降りつもっていた。彼女は滑ってころ
 んだ。起き上がってもすぐころんだ。体力の限界が来ていた。三度目に転んだとき彼女
 はふわっとしたものを感じた。そうだ。滑川温泉に入っているのだなと思った。湯に入
 っているのになぜ着物を着ているのだろうかと思った。彼女はウインドヤッケをはぎ取
 り、セーターを脱いだ。なにかすうっとした。眠りが彼女を誘った。
 
・持田新介は彼の会社の三人の女性の遭難が確実になると、捜索本部を滑川温泉に置き、
 彼女等の歩いたと思われる道を捜した。三人が休んでいたのを見かけたという青年が現
 われた。神楽岩のあたりで、三人が食事を摂ったあとが発見された。
・山に入った場合、千恵は食べた物の後始末はきちんとしていた。食べ散らかしておいた
 のは、よほど先を急いでいたのだと考えられた。
・持田新介は、捜索本部を高湯に移して、五色沼の付近を重点的に探した。当日の吹雪が
 非常に速くやってきたところから考えると、家形ヒュッテに逃げ込もうとして遭難した
 可能性が強かった。遭難してから七日目に三人の遺体が発見された。
・ユミと悦子は海老のように身体を丸くして死んでいた。二人の間隔は数メートルほど離
 れていた。悦子はチョコレートを食べた形跡があった。その二人から二十メートルばか
 り下に、千恵がウインドヤッケとセーターを脱ぎ捨てたまま仰向けに倒れていた。
 ・霧の平の下の分岐路を通るときに持田新介は石の地蔵に眼を止めた。「この地蔵は通
 る人を嘲笑しているような顔をしているな」と持田新介がひとりごとをいうと、「十一
 月と言えば山は冬です。軽装で、しかも吹雪の中を歩けば誰だって遭難するさ。地蔵は
 それを笑っているのでしょう」と地元の人が言った。皮肉とは聞こえなかった。
・持田新介は手っ取り早く遭難記録をまとめた。
 「結局この遭難の原因は山を軽視したことにあり、その責任の大部分はリーダーの負う
  べきものと思われるが、他の二人になんの落度もなかったと断言はできない。三人に
  途中で会った登山者によると、彼女等は、その地点に行き着くまで、一時間ないし、
  一時間半の時間を空費している。宿を八時半に出てから、神楽岩までの間に、どうし
  て一時間ないし一時間半という貴重な時間をロスしたのか不明である。結局この時間
  の遅れが彼女等を死に追い込んだのである。しかし彼女等は最後まで立派に行動した。
  リーダーは二人を岩の陰に休ませて、道を探しに行く途中、力が尽き果てて倒れ、そ
  して二人は、帰らぬリーダーを待ちながら永遠の眠りについたのである」
・持田新介は遭難報告を書き終えて、風呂場に降りて行った。帳場の前の台の上にビール
 瓶にもみじが一枝さしてあった。持田は思わず手を出した。「なあんだ造花のもみじか」