雪明かり  :藤沢周平

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この作品は、いまから42年前の1979年に発表された短編の時代小説である。
東北の小藩の貧しい下級武家に生まれた主人公の菊四郎は、口減らしのためもあり、12
歳で格式の高い武家の養子となった。格式ばった養家の生活にも馴れた頃、実家の継母の
連れ子である由乃と偶然出会った。18歳になった由乃は、美しい娘に成長していた。
おそらく二人は、最初に出会った幼い頃から、どこか互いに惹かれ合っていたのではない
だろうか。血の繋がりのない兄妹。嫁ぎ先で、病気の由乃がむごい扱いを受けていること
を知り、菊四郎は由乃を背負って実家に連れ帰った。そのことがきっかけに、二人の心の
繋がりは、離れ難いものになっていく。
ひとのしあわせとは何なのか。暮らしが豊かだからしあわせとはかぎらない。豊かでなく
ても、こころを許せるひとと一緒に暮らせることが、いちばんしあわせなのではないだろ
うか。そんなことを思わせる物語だ。
ところで、この物語を読んだとき、以前テレビで観た映画のストーリーと似ていると思い、
調べたところ、2004年に公開された山田洋次監督の映画「隠し剣鬼の爪」が、藤沢周
平原作の「隠し剣鬼の爪」とこの「雪明かり」を題材にして作られたことがわかった。映
画のストーリーは、この小説とは少し違っているが、一部似たような内容となっていた。
由乃の役は松たか子が演じていた。



・雪は、夜になると急に勢いを増して、切れめなく降り続いた。町通りは早く戸を閉め、
 明るいのはいま菊四郎が歩いている坂下の一角である。傘がすぐ重くなる。菊四郎は、
 傘を傾けて雪を払った。そのとき傾けた傘に、柔かく重いものが触れた感じがした。
・「ごめんなされませ」若い女だった。肴屋の軒先から走り出して、ちょうど来合わせた
 菊四郎の傘にぶつかった模様だった。女は傘をあげた菊四郎に、もう一度小腰をかがめ
 て去ろうとしたが、不意に足をとめて視線をもどした。同時に、菊四郎にもその女が誰
 だかわかってきた。
・「由乃か」菊四郎が言うと、由乃は頭にかぶせていた手拭いを取って、「兄さま」と言
 った。呟くような小声だった。
・軽い驚きが心の中にある。由乃に会ったのは、四、五年ぶりだろうと思われた。それが
 偶然にこんなところで会った驚きと、由乃がすっかり大人っぽくなっていることに対す
 る驚きが混じり合っている。
・城中で、実父の佑助に会ったとき、由乃が来春嫁入りする、と聞いている。そのときも
 びっくりしたが、由乃がもうそんな年になるか、と思っただけだった。だがこうして会
 ってみると、由乃はもう一人前の女だった。
・由乃は、どこか自分を恥じているようにみえた。傘もささず、粗末な身なりで、町女の
 ように魚を買いもとめている姿を、菊四郎に見られたのを恥じているようだった。傘の
 下に入っても、菊四郎に身体が触れないように、気を配って歩いている。その気配が、
 菊四郎を刺した。 
・実家の古谷の家では、菊四郎が芳賀家の養子になる前と変わりない貧しい暮らしが続い
 ているようだった。養家では、鰯は喰わない。そう思ったとき、菊四郎が何かのおりに
 実家のことを考えるとき、いつもそうであるように、あるうしろめたさに心をとらえら
 れていた。
・菊四郎が、御勘定預役で三十五石の古谷家から、同じ家中の芳賀家に養子に入ったのは、
 十二のときである。芳賀家は二百八十石で、当主は物頭を勤める家柄だった。
・この破格の養子縁組が調ったとき、芳賀家から条件が出された。両家の間で親戚づき合
 いはしない。菊四郎は特別のことがないかぎり、実家の古谷家に出入りさせない、とい
 うのが条件の中身だった。
・古谷家では、三年前に母親が病死し、後妻を迎えたが、子供が五人もいたのである。菊
 四郎と、ひとつ年上の兄の滝之助、後妻の満江の連れ子由乃と、すでに三人もいたのに、
 満江は嫁いできてから男の子二人を生んだからである。父親の佑助は、芳賀家との養子
 縁組を名誉だと思っていたが、一方で菊四郎を外に出すことは口減らしになると考えた
 のであった。
・菊四郎が芳賀家の人間になって、ほぼ一年経ったころ、兄の滝之介が急死した。交際を
 禁じられたまま、実家は次第に遠ざかり、二百八十石の芳賀家の跡取りという境遇に馴
 れて、年月が経ったようであった。
・菊四郎は、時おり脈絡もなく実家の貧しさを思い出した。そして思い出すのは、不思議
 に父親や、まだ幼異母弟たちのことではなく、継母の満江や由乃のことだった。二人と
 も働き者だった。満江は乏しい家計のやりくりに頭を痛めながら、懸命に内職し、由乃
 は母親に連れられて、古谷家に引き取られたその日から、掃除、洗濯を手伝い、母親が
 内職を探してくると、それも手伝った。由乃はそのとき、六つの子供だったのである。
 古谷家の貧しい暮らしを支えていたのは、継母と由乃だったのではないか、と菊四郎は
 思うことがある。
・由乃はつるりと雪に滑った。あわてて手を出した菊四郎に縋りながら、由乃はまた滑っ
 た。 
・菊四郎は、傘を捨てて両手で由乃をつかまえ、上に引き上げるようにした。由乃の小柄
 な身体が、菊四郎の腕の中に入ってきて、抱き合う形になった。小柄だが、由乃はずし
 りと重く、雪がくっついた下駄を履いている菊四郎は、押されたぐあいになってよろめ
 き、今度は由乃が菊四郎をささえた。
・由乃はくすくす笑った。菊四郎も笑った。見ようによっては、若い男女が戯れていると
 とらわれ兼ねないが、夜の坂道には雪が降りしきっているだけで、人影はみえなかった。
・「大きゅうなったし、美しくなったものじゃ」菊四郎は慨嘆するように言った。嫁に行
 く前の由乃に会い、そのしあわせを祝福してやれてよかったと思っていた。
・「お兄さまも、間もなくでございましょ?」「おきれいな方だそうですね」と言った。  
 由乃が言っているのが、許婚者の朋江のことだとわかった。朋江は美しいが権高な女で
 ある。
・菊四郎が、何かを言おうとしたとき、由乃は身をひるがえすように、狭い山伏町の町並
 の中へ走り込んで行った。背を向けたとき、一瞬なまめかしくくねった、若い女の腰の
 動きが、菊四郎の眼に残った。


・菊四郎は少し気持ちが苛立っている。苛立ちは、眼の前にいる由乃の夫、宮本清吾の煮
 え切らない態度に触発されている。
・実父の佑助から、由乃のことで相談を受けたのが昨日である。由乃は大病で寝ているら
 しいと佑助は重苦しい顔で言った。宮本家の近所の口で知ったのである。宮本家から何
 の知らせもないので、佑助も満江もしばらく様子を窺ったが、こらえ切れなくなって満
 江が見舞いに行くと、玄関で追い返されたというのであった。
・真吾の母親は、医者も呼んで、手落ちなく看護している。それをあてつけがましく見舞
 って来たのは、手当ての仕ように不服があっておいでか、と凄い剣幕で、満江は驚いて、
 家に上げるどころか見舞いの品も出しかねて帰ったとのである。だが、満江はそれから
 夜も眠れずに心配していると佑助は言った。
・菊四郎がいろいろと問いただすのに、宮本の答えようが、いっこうに要領を得ないので
 ある。話しているうちに、菊四郎は、青白い顔をし、手足も細い宮本から異様な感じを
 受け取った。由乃が、宮本親子に監禁されているような気さえしてくる。
・宮本の家へ行ってみると、出てきたのは母親だけで、清吾はまだ帰っていません、と言
 った。仕方なく菊四郎は身分と名前を名乗り、由乃を見舞いに来た、と言った。
・古谷の家では、由乃の嫁ぎ先に、菊四郎が芳賀家に養子に行っているとは話していなか
 ったらしく、清吾の母親の顔には怯んだようないろが浮んだ。宮本は五十石である。
・「それは、ご無用にして頂きます」宮本の母は、切口上で言った。四十を過ぎているだ
 ろうに、顔には皺ひとつなく、若い身なりをしている。「嫁にもらったからには、由乃
 はわが家のもの。あれこれと実家の方が差し出がましくなさるのはお慎み頂きたいと申
 したのです」
・「いや、曲げて見舞って帰りたい」菊四郎は、思わず荒い声を挙げた。相手の異様に頑
 な態度に、怒りよりも不安も感じていた。
・菊四郎は由乃に呼ばれたような気がした。耳を澄ましたが、家の中はしんとしている。
 菊四郎は下駄を脱いだ。 
・「何をなされます、あなた。理不尽な!」宮本の母は後ずさりして叫んだ。その眼に憎
 悪の光が走るのを、菊四郎は睨み返した。
・「家捜ししてはぐあいが悪い。ご案内頂きましょう」宮本の母は、不意に背を向けて先
 に立った。案内されたのは、むかし隠居部屋にでも使ってらしい、古い部屋だった。
・部屋に入ると、いきなり異臭が鼻をついた。臭いには、あきらかに糞便の香が混じって
 いる。小さな明かり取りの窓から、暮れ色の光がぼんやりと射し込み、その下に由乃が
 寝ていた。襤褸のように、厚みを失った身体だった。
・「これは・・・」茫然と菊四郎が振り返ると、宮本の母が口を歪めて言った。「身体が
 弱いばかりで、役立たずの嫁ですよ」
・「由乃、由乃」菊四郎が呼ぶと、由乃は薄く眼を開いた。しばらくぼんやりと見つめ、
 やがてその眼が大きく見開かれた。由乃の眼に涙が盛り上がり、眼尻から滴り落ちた。
・「心配いらんぞ。山伏町に連れて帰って、養生させる」菊四郎が言うと、由乃はうなず
 いた。それから「はず、かしい」と由乃はか細い声で言った。
・由乃は菊四郎をひたと見つめたまま、堰を切ったように喋りはじめた。声は小さくかす
 れて聞き取りにくく、菊四郎は由乃の口に耳をつけるようにして聞いた。
・由乃は梅雨が明けるころ、流産した。だが宮本の家は、流産したから寝て身体を休めら
 れるような家ではなかった。家事のほかに、山伏町の実家と同じように内職をしていた。
 由乃はきりきり働いた。
・ある暑い日、由乃は激しい腹痛と目まいに襲われて倒れた。そしてそのまま起き上がれ
 なくなった。暑い夏の間、由乃は物をたべる気力もなく、腹の痛みに堪え、目ざめては
 眠り、目ざめては眠って過ごした。身体は驚くほど衰えて、はばかりに立つこともでき
 なくなっていた。宮本の家では、一度も医者を呼んだことはなかった。
・「ひどい家に嫁にやったものだ。親ひとり子ひとりという家は、えてしてそういうこと
 があると聞いたが、本当だったな」菊四郎は、背中の由乃に言った。外が薄暗くなるの
 を待って、菊四郎は由乃を背負って宮本家を出た。背中の由乃は、子供を背負っている
 ように軽い。軽い寝息が耳に触れる。ただ菊四郎の首に回した手だけが、目覚めている
 かのように、しっかりとまつわりついていた。  
   

・「祝言を挙げる前から、茶屋通いをしているのでは、朋江が可哀想でしょ」養母の牧尾
 はちらりと横に坐っている朋江をみた。朋江は、二百石で郡奉行を勤めている加瀬三十
 郎の娘で、牧尾の姪である。派手な顔立ちの美貌に、取りつくしまもない冷やかな表情
 が浮んでいる。
・「菊四郎殿が、若い女を背負って町を歩いていた、と聞いたのは、あれはいつごろだっ
 たかしらね、朋江」「秋口でございました」と朋江が答えた。「そのときの女のひとが、
 いま滝沢という茶屋で、あなたのお酒の相手をしている人だそうですね」「しかし由乃
 は妹ですぞ。何か淫らなことをお考えのようだが、それは母上のお考え違いでござる」
 「でも、そのかた血の繋がりはないのでございましょ?」不意に朋江が口をはさんだ。
・菊四郎は無視したが索漠としたものが胸をかすめるのを感じた。その味気ない気分は、
 格式ずくめの芳賀家とその周囲のやりかたからもきていたが、非難の座に据えられて、
 女二人に詰問されている自分の腑甲斐なさからもきていた。由乃のことを隠していたが、
 弁明の余地のない弱味になっている。そういう自分の立場を承知しているから隠してき
 たが、裸にむかれてみると、ひどくみじめだった。
・「小禄とはいえ、武家の家の娘が茶屋勤めをしているとは、どういうことですか。あな
 たはだまされているのではありませんか。由々しいことです」
・理詰めて高圧的な、養母の言葉を聞いている中、菊四郎は次第に堪えがたい苛立ちにと
 らえられていた。苛立ちは、出口をもとめて菊四郎の内部で荒れ狂うようだった。
   

・「そういうわけでな。ここにも来辛くなった」と菊四郎は言った。菊四郎がさし出した
 盃に、由乃は黙って酒をついだ。由乃の頬には、ふっくらと肉がつき、眼には以前はな
 かった愁いのようなものがある。一度躓いた女の陰翳のようなものが、由乃につきまと
 っている。
・宮本家から、菊四郎に救い出されて家に戻ってから、由乃は二月ほど寝ていた。だが医
 者にかかり、満江の手厚い看護をうけると、由乃の若い身体は、驚くほどすみやかに回
 復した。そのあとすぐ、由乃は茶屋に女中奉公に出たのである。医者に払いが溜まって
 いた。それからさらに三月経ち、医者の払いは済んだと言ったが、年を越えてからも、
 由乃はそのまま勤めている。
・「それで、どうなさるんですか」由乃は低い声で言って、菊四郎をじっとみた。その視
 線にうろたえたように、菊四郎は盃を呷った。
・「不思議なものだな。お前が茶屋の女中などをして、俺はこうして酌をしてもらって酒
 を飲んでいる」「お前と母上を古谷の家に引きとったとき、親爺はいずれお前を兄貴に
 娶らせるともりだったらしいな」「ところが兄貴は死んで、お前は女中勤めなどをして
 苦労している」「そして俺はいま、芳賀家の人間だから、酒を飲みにくるぐらいのこと
 しか出来ん」「ところが婆さんは、お前に会うのも止めろと言うわけだ」「仕方がない
 ことです。みんな世間体に縛られて生きているんですから」
・「俺はなあ、こうしてお前と一緒にいるときが一番気楽だ。俺が俺だということがわか
 る」「養子になぞ、なるんじゃなかったな。俺は一生裃を着て通さなければならん」
 「でも、朋江さまという方は、おきれいなひとそうですね」「高慢ちきな女だ。由乃の
 方が、よほど美しい」 
・菊四郎は由乃の手を取った。滑らかな手触りだった。不意に菊四郎は、酒がさえるよう
 な気がした。指をまかせたまま、由乃は俯いてじっとしている。
・由乃に会うとき、いつもやってくる場所にきたのを、菊四郎は悟った。立ち止まるその
 場所から、その先はひと跳びの距離に過ぎなかった。だが菊四郎は繋がれていた。跳べ
 ば由乃もろともその裂け目に堕ちるのがみえている。
・「跳べんな」由乃は物思いに捉われていたらしく、ぼんやりした眼で菊四郎をみた。そ
 れから、さながら今の呟きを理解したかのように、身を寄せて菊四郎の肩に、額をつけ
 た。熱い額だった。
・山伏町の家を出た菊四郎の胸に、いまみたひとつの所書きが焼きついている。それをみ
 たために、菊四郎の胸は、激しく波立ち、雪の道に躓いた。所書きは、江戸の牛込北、
 白銀町という場所にある一軒の商家のものだった。そこに由乃がいる。由乃は江戸に行
 くとき、菊四郎が訪れてきたら渡すようにと、その所書きを母の満江に残して行ったの
 である。由乃は江戸の逃げたのではなかった。遠くから菊四郎を呼んでいた。
・いまなら、まだ跳べると由乃が言っている。菊四郎はそう思った。朋江との婚礼が、月
 末に迫っていた。今日、茶屋を訪ねたのは、その前にもう一度由乃に会おうと思ったの
 だ。だが、由乃は、ひと月も前に茶屋をやめていた。菊四郎はすぐに山伏町の実家に行
 った。そこではじめて、由乃が江戸に奉公に行ったことを知ったのである。だが由乃は、
 所書きを残していた。
・由乃は、跳べと言っている。そうやって、由乃と夫婦になるしかないのだと思った。汚
 物にまみれ、骨と皮だけになった由乃を宮本の家から救い出したときから、そのことは
 わかっていたのだった。そして由乃もそれをわかっていたのだ、と思った。
・江戸に行くのだ。芳賀家との絶縁、朋江との破約。そうしたひとつひとつに、人々の非
 難と軽侮が降りかかってくるだろう。騒然とした罵りの声が、もう聞こえる。その声を
 背に、一人の人でなしとして、故郷を出るしかないのだと思った。   
・いま、跳んだか。と菊四郎は思った。遠く由乃が呼ぶ声を聞いたように思い、菊四郎は
 立ち止まった。雪明かりの道があるだけだったが、驚くほど身近に由乃がいるのが感じ
 られた。