夜の雷雨 :藤沢周平

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この作品は、いまから43年前の1979年に出版された「神隠し」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
なんともやりきれない気持ちにさせられた作品であった。この作品は、おつねという老婆
が主人公なのだが、ひたすら働き、懸命に生きてきて、小さな小間物屋を開いて繁盛させ
もした。そして、小さい時から畳屋に奉公に上がった弟を可愛がり、一人前になるまで何
かと面倒を見た。しかし、五歳の男の孫を残して息子夫婦が流行り病で亡くなった。その
孫を誰にも後ろ指を指させないようにと、大事に育てた。孫が息子夫婦を失った後の希望
のすべてだった。店を益々繁盛させて、跡を継がせるのが夢だった。
しかし、その孫は二十になる前に、悪い仲間に誘われて、いっぱしの極道になってしまっ
た。そして、醜悪で絶望的な最後を迎える。
主人公のおつねは、たしかに意地の悪い老人なのだが、病気の娘を預かって、心をこめて
看病するなど、やさしい心情もあった。このおつねの何が悪くて、こんな不幸な人生とな
ってしまったのか。この作品で作者は何を言わんとしたのか。孫を甘やかし過ぎて罰があ
たったといいたいのか。それとも、真面目に懸命に生きても、必ずしあわせになれるとは
限らないのだ人生は、とでも言いたかったのか。私にはわからなかった。



・「これが家賃でな、こっちが喰い扶持だ」弟の松蔵は、巾着のなかから、紙包みを二つ
 出して、おつねの膝の前に押してよこした。
・「すまねいねえ」おつねは紙包みをにぎって押しいただいた。
・「しょうがねえじゃねえか。たった一人の身内だ。干乾しにもできめえよ」松蔵はずけ
 ずけと言った。 
・「はやくお迎えが来てきれりゃいいと思ってね。ほんとにこんなに長生きしちまって、
 お前に迷惑かけるなんて、夢にも思わなかった。あたしゃ、自分が情けないよ」おつね
 はぼろぼろと涙をこぼした。
・「せめて清太でも帰って来れば、こんな厄介かけずに・・・」
・「かわいい孫か知らねえが、清太はあてにしねえほうがよかろうぜ。うん、あいつは帰
 らねえほうがいい」腰をあげた松蔵を、おつねは家の戸口まで見送った。
・松蔵は背丈も肩幅もあって、かんじょうな男だが、六十を過ぎてさすがに少し腰が曲が
 ってきた。髪は真っ白だ。
・おつねが子供夫婦に先立たれ、孫にも捨てられて、たったひとりで裏店住いをしている
 のをあわれんでのことだったが、松蔵の気持ちの中には、おつねがひとりになったとき、
 自分の家に引き取れなかったうしろめたさもひそんでいるようだった。
・おつねと松蔵の女房おとくとは、若いときから気が合わず、何かと言えば角突き合って
 きた。二人とも勝気だったせいもある。
・それで松蔵は、三月に一度、裏店にいる姉をたずねてくるのである。松蔵が金を運んで
 くることも、女房のおとくが快く思っていないらしいことは、松蔵の話のはしばしから
 も窺われたが、松蔵は六十を過ぎても、まだ店に出て、一人前の仕事をする。勝気なお
 とくも、その金にまで口を出すことははばかっているらしかった。
・姉弟といっても、つき合いが薄ければ他人同様になる。げんにおつねは、松蔵の女房の
 妹だなどとは思っていないし、後継ぎの甥の顔もろくに知らないほどである。それなの
 に、たった一人の姉だと思って、松蔵がたとえかつがつ喰えるほどにしろ、金をとどけ
 てくるを、有難いと思わずにはいられない。
・だが、その松蔵にしても、孫の清太をこきおろすことは許せない。
・松蔵の、帰りがけのひと言がしゃくにさわって、おつねは家の中にもどりながら、心の
 中でひとしきり弟を罵った。
・清太が何をしたかは、おつねも十分わかっている。息子夫婦が、流行り病にかかって間
 をおかずに死んだときには、おつねは茫然としたが、そのあとは懸命になって孫の清太
 を育てた。この子が二十になったら、嫁をもらって店を譲って、とそればかり考えて、
 必死に働いたのだ。
・だが清太は、二十になる前に、いっぱしの極道に出来上がっていた。そしておつねがた
 のしみにして二十を過ぎたときには、店も住居も売っぱらって、どこかに姿をくらまし
 てしまった。悪い女がついていた、という噂をおつねが聞いたのは、裸にされて外にほ
 うり出されてからである。
・両親を失ったとき、清太はまだ五つだった。その孫があわれで、おつねは毎晩肌に抱い
 て寝た。欲しがる物は何でも与え、子供同士の喧嘩で、清太が泣かされて帰ると、泣か
 せた相手の家にどなりこんで行った。
・清太が道楽息子に育ったのを見て、松蔵やまわりの者は、おつねが甘やかしたからだと
 非難し、ばあさんっ子は三文安いと嘲ったが、おつねは人情を知らない奴らが何を言う
 かと思っただけである。
・悪ければ悪いで、その孫が不愍でならなかった。おつねには、自分の胸に取りすがって
 眠ったころの、清太のすべすべした肌の感触が、まだなまなましく残っている。
 

・おつねは浅草寺の本堂にお詣りしたあと、横手の延命地蔵の祠にまわり、その前に膝を
 折ると、長い間首を垂れてお祈りをした。
・「おばあちゃん」おつねが顔をあげるのを待っていたように、うしろから声がかかった。
 若い娘の声だった。
・振り向いたおつねの前に、顔は浅黒いが、眼鼻だちのかわいい娘が立っていた。ほっそ
 りとした身体つきで、年は十六、七にみえる。
・「清太さん、まだ帰らないの?」
・「まだだ。こないだ手紙が来てね。帰るのは半年先になるってさ」
・「帰ったら、すぐにお見せを開くの?」
・「手紙には、そう書いてあったよ。小さな店でいいさ」
・「あんたを清太の嫁に出来たら、どんなにいいだろうね」
・「いやだあ、お嫁なんて」娘は手で口を覆い、身体をくねらせて笑った。
・「あたい、もう行かなきゃ」
・「もう行くのかい?いそがしいねえ」
・「仕方ないわ。また後でね」
・娘は後じさって笑顔を見せ、くるりと背をむけると、境内の横の方に走って行った。裾
 からこぼれる赤い二布と白い足が、躍るように遠ざかるのを、おつねは眼をほそめて見
 送った。おつねの顔は、上気したように、ほんのりと赤くなっている。
・おつねは娘にもらった紙包みを開いてみた。干菓子が二つ入っていた。おつねはしばら
 くその菓子を眺めてから、大事なものを包むように紙を包み直し、小袋に入れて立ち上
 がった。
・娘の名はおきく。川越の在から、燈明寺の隣の山伏町にある足袋屋に奉公に来ていた。
 女中ではなく、縫い子だった。
・おきくは江戸に知り合いがいるわけでもなく、また店にも気が合った友だちがいるわけ
 でもなかったらしい。はじめて会ったときの、おきくのさびしそうだった姿を、おつね
 はいまでもおぼえている。だから、そのときふっと声をかける気になったのである。
・おつねは自分のことを正直に話したわけではない。店は、息子夫婦が急死したためにつ
 ぶれたことにし、孫の清太は店を盛りかえすために、上方に働きに行っている感心な若
 者に仕立てあげた。
・そういう作り話をするのは、はじめてではなかった。裏店に、松蔵につきそわれて引越
 してきた当座、裏店の者にしばらくそういう話を触れ回ったことがある。裏店の者はす
 っかりおつねに同情したが、その中に池ノ端に知り合いがいる者がいて、おつねの嘘は
 間もなくばれてしまった。
・裏店の者は、おつねを嘲り、油断のならない嘘つき婆さんだと噂した。おつねは、いま
 でも裏店の中で孤立している。 
・だがおきくは、おつねの嘘を、何の疑いも持たずに信じた。そして孤独な身の上をしき
 りにあわれんでくれた。そのなぐさめは、おつねの胸に沁み通った。そしてもうひとり、
 新しい孫が出来たような気持ちで、おきくに会うのが楽しみになったのである。今年の
 正月の藪入りに、おつねは自分の家におきくを呼んでもてなし、一晩泊めた。
・おつねは清太は半年たてば帰ってくるだろう。そして自分がつぶした店をりっぱに立て
 直し、小間物屋をはじめるに違いないと思った。清太は二十四、おきくはまだ十六だが、
 一緒にできない年でもない、とおきくに会ったあといつも考えることを、胸の中で繰り
 返した。その考えは、おつねを酔わせる。
・裏店にもどり、自分の家の敷居をまたぐと、おつねは家の中の暗さに眼が馴れずに立ち
 すくんだ。そして眼を開くと、土間に見知らぬ男が二人、立っていた。
・「清太はいるかい」「清太の野郎は、十日ほど前に江戸に帰って来てるんだ。ここに顔
 を出したんだろ?」 
・「帰って来たって?どこから?「上方から帰って来たのかね?」
・「上方なんかじぇねえよ。野郎は不義理をして、ずっと上州の方にずらかってたんだ。
 ここへ来たのかい、来ねえのかい?はっきりしろい、ばあさん」
 

・「しばらくじゃないか、おばあさん」
・「あんたも元気そうで何よりだよ。いいねえ、ああしてちゃんとお帳場に坐っていられ
 るんだから。あんたは利口者だよ」
・「そりゃ、皮肉かい」男は苦笑いしながら言った。善次郎という名で、履物屋の後とり
 だった。この男が清太に女遊びを教え、手なぐさみの楽しみも教えたのだ。
・「清太が来なかったかね」とおつねは言った。善次郎がぎょっとした顔になった。
・「江戸にもどっているらしいんだよ」「そのうち、きっとあんたをたずねてくると思う
 よ。来たら、あたしの家を教えてやっておくれ」
 

・おつねは、清太が裏店をたずねてくるのを待った。たずねて来たとき、留守にしてはい
 けないと思って、家を空けなかった。燈明寺にも行かなかった。
・だが清太は来なかった。そして藪入りの七月十六日になったのに、おきくも来なかった。
・ずっと会わなかったから。おきくは来にくくなったのかもしれない、とおつねは燈明寺
 に行かなかったのを悔んだ。そして翌日さっそく、地蔵さまのお詣りに行ったが、おき
 くには会えなかった。そして世の中に見捨てられたような、暗い気持ちになった。 
・三日続けて地蔵参りに行っておきくに会えなかったおつねは、四日目に思い切って足袋
 屋を訪ねた。
・「おきくさん、どうしてますかね?お店をやめたんですか」
・「いま、病気で寝ています」女房は顔をしかめた。
・「誰か看病に来るように、川越の家の方にも知らせたんですがね。誰も来ないし、うん
 でもすんでもなく、家も手が足りないし困っているところですよ。そうかといって遠い
 から、病人を送り返すということも出来ないしね」
・おつねは胸が破れるほど動悸が高まるのを感じた。おきくの家は、両親が病気で死んだ
 あと伯父夫婦に養われたが、おきくは叔母と折り合いが悪く、家出するように江戸に出
 てきたのだ。病気になったからと、もどれる家ではない。
・「おきくさんに、会わせてもらえませんか、おかみさん」
・「会っても、仕方ないと思うけどね」女房はそう言ったが、しぶしぶながら、それじゃ
 お上がりなさいと言った。女房に案内された部屋の暗さに、おつねはどきりとした。窓
 もない部屋だった。女房が部屋を出て行ったあと、おつねは畳みに坐ったがしばらく何
 も見えなかった。
・「おばあちゃん」とおきくが言った。おつねはおきくの顔にさわった。火のように熱か
 った。手を頬にずらすと、手のひらがおきくの眼をあふれる涙で濡れた。おつねは胸が
 つぶれる思いをした。
・「いつから、あんなふうなんでしょ?」
・「さあ、かれこれ十日近くなるかねえ」
・「十日?お医者にはみせてもらってますか?」
・「医者は呼ばなかったんだよ。本人も呼ばなくていいというから」女房はとまどったよ
 うな眼で、おつねを見た。
・「でもちゃんと薬を買ってきて、のましていますよ、高い薬をね」 
・「さしでがましいようですが、おかみさん」おつねは腰に手をあて、背の高い女房を見
 上げるように見つめながら言った。
・「あたしに、あの子の看病をさせてもらえませんかねえ」「家に連れて行って、養生さ
 せてやりたいんです。お願いしますよ」
・「そりゃ、そうしてもらえばウチは助かるけどねえ」女房は言ったが、すぐにいまの言
 葉を打ち消すような強い口調でつづけた。
・「よござんすよ。連れて行ってもらっても。でもウチでも何もしなかったわけじゃあり
 ませんよ。出来るだけの手はつくしたんですからね
・「そりゃそうですよも、おかみさん」おつねは、顔に喜色をみなぎらせて言った。
  

・おきくを引きとると、おつねはすぐに医者を呼んだ。医者は、風邪をこじらせたようだ
 が、もう少しで手遅れになるところだったと言った。そしてすぐに薬をつくってくれた。
・おつねは心をこめて看病した。たとえ病人でも、家の中にもう一人ひとがいるというこ
 とは張り合いのあることだった。
・まる一日、おきくはこんこんと眠ったが、三日目ごろから、手当てが効きはじめたか少
 しずつ元気を取り戻した。快方に向うと、若い身体は強いものだった。
・二日前から、おきくはすかり熱がとれ、今日は朝から起きて、台所仕事を手伝った。連
 れて来てから半月近く経っていた。
・だがその間に、医者のかかりと、おきくに精がつくものを喰べさせたりしたかかりで、
 おつねは金を使い果たしてしまってのである。金は一文も残らず、あと二日ぐらい喰え
 るだけの米があるだけだった。心細かった。
・だが、おきくを救って、元気な身体にもどした喜びは、何ものにもかえがたい。ともか
 く、明日は足袋屋におきくを返して・・・。そのあと、もう一度松蔵にかけあってみる
 しかない、とおつねは思った。
・「降られちまったよ」土間に入って戸を閉めながら、おつねがそう言ったとき、家の中
 で女の叫び声がした。その声をおしつぶすように、重おもしく雷が鳴り、急に激しくな
 った雨が地面を叩く音がした。また女の叫び声がした。
・「どうしたね、おきくちゃん」おつねは下駄をはねとばして、茶の間に這い上がった。
 奥の寝部屋で、男がおきくを組み伏せようとしていた。抗うおきくの足が、白く空を蹴
 ったのを、おつねは一瞬茫然と見たが、土間に引き返すと杖を持って寝間に入って行っ
 た。ちくちきしょう、ちきしょうと叫びながら、おつねは、背を向けている男の頭に杖
 を打ちおろした。
・男はおきくから片手をはなし、無造作に杖をもぎとった。そしておつねの顔を見ると、
 にやりと笑った。 
・「清太」おつねは茫然と立ちすくんだ。頬に刃物の傷あとをとどめ、荒み切った悪党づ
 らをしていたが、男は清太だった。
・「ばあさん、どこでこんな上玉を手に入れたんだい。こいつは高く売れるぜ」清太は卑
 しげに笑い声を立てた。 
・「だがその前に、味見をしなくちゃな」清太は、畳をかきむしって逃れようとしている
 おきくを引きもどすと、その上に身体をかぶせて行った。おきくが鋭い叫び声を上げた。
 魂を凍らせるような、悲しげな叫びだった。
・「こら、やめな。バカ、何てことを」おつねはうしろから清太の背を拳で叩いた。
・「ばばあ、ひっこんでろ」清太のひと突きで、おつねは茶の間の隅まで軽がるとふっと
 んだ。おつねはぼろ切れのように、うずくまったが、やがてのろのろと立ち上がると台
 所に入った。そしてふるえる手で、暗やみの中から出刃包丁を探り取った。
・おきくは半裸にされていた。清太の片手は、おきくの手を押さえつけ、片手は胴を抱き
 込んでいる。おきくの白い片脚が、一度むなしく空を蹴りあげて畳みに落ちたあと、静
 かになった。そしておきくの号泣が、おつねの耳を搏った。
・「やめな、清太」とおつねは言った。
・うるせえやと、清太は言い、おきくの胸から腹も、顔をすべらせた。その背に、おつね
 は渾身の力をこめて、出刃包丁をふりおりした。
・わっと叫んで反り返った清太は、手を回して背中の包丁を抜き取ろうとした。だが、手
 がとどかなかった。背に包丁を突き立てたまま、清太はよろめきながら立ち、身体をね
 じったが、その姿勢のまま、物が倒れるように、部屋の隅にころがった。その身体の下
 から、おびただしい血が畳の上に流れ出すのを、おつねは襖につかまったまま見ていた。
・おきくは泣きじゃくりながら身じまいをなおし、それが終わると顔をそむけて出口に歩
 いた。土間に下りるとき、一度よろめいたが、後ろをふりむかずに雨の中に出て行った。
・戸口の外の暗い闇の中で、雨の音がつづいていた。すさまじい雨の音も、ひらめく稲妻
 も、自分の生涯を嘲り笑っているように、おつねは感じた。