谷中・首ふり坂 :池波正太郎

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この作品は1969年に発表された短編小説で、「谷中・首ふり坂」という本に収録され
ているものの一つである。
内容は、下級武家の次男坊が養子に入ったが、養家の妻のあまりに激しい夜の営みに、へ
きえきしていたが、悪友に初めて連れていかれた谷中の茶屋の女に魅せられ、武士の身分
を捨ててしまうというもの。
なんとも、面白くもあり可笑しくもあり、読んでいると、知らないうちについ顔がニヤけ
てしまう。世の中の男女の関係には、いろいろあるのだろうが、この本を読むと、男とい
うのも、なかなかたいへんなのだと改めて思った。
ところで、この谷中・首ふり坂という坂は実在する坂のようで、実際の坂の名前は「三崎
(さんさき)坂という名前のようだ。かつて私が東京で暮らしていた頃に、谷中界隈を散
したことがあるが、そのときこの坂を通ったかもしれないと思った。



・源太郎と辰之助は、下谷・二長町の屋敷がとなり合わせで、幼年のころから仲の良い友
 だちの二人なのだが、気質もちがえば体質もちがう。
・神田・相生町に一刀流の道場をかまえる井狩又蔵の門下で、剣術のほうでは相当な腕前
 の辰之助はいかにもそれらしい風貌の所有者だが、源太郎のほうは長身ながら、腰に横
 たえた大小の刀に足がふらつきかねぬたよりなさ。
・幼年から少年時代にかけて、年中、病気ばかりしていた源太郎だが、十七歳の夏の大病
 の後は、すっかり病みぬいてしまったのか、めきめきと丈夫になり、その素直な人柄を
 見込まれ「ぜひ、むすめの婿に・・・」と、江戸城・本丸留守居番をつとめる五百五十
 石の旗本三浦忠右衛門の養子に入ったのが、今年の正月であった。
・その三浦家の長女・満寿子は二十歳。武家のむすめとしての教養百般に通じているとい
 う。 
・なにぶん、武家の次三男は養子口がなければ父や兄の世話になったまま、肩身のせまい
 おもいをしながら一生を送るより仕方がないのだから、実家の父も兄の主馬も大喜びだ
 ったし、むろん、源太郎自身もほっとするおもいであったのだ。
・「あの三浦のむすめの面はまずいよ。そのことだけは覚悟しておけ」といつか金子辰之
 助が源太郎にいったことがある。なるほど美女ではない。どこかこう、ずんぐりした小
 柄の体つきだし、小さな両眼が妙に白く光る。いくらか三白眼の、やぶにらみじみた人
 相で、鼻の穴が正面からはっきり見える。それにしても二十歳の肌のかがやきは、彼女
 の顔貌をさほどみにくいと源太郎に感じさせなかった。
・ところが、いざ満寿子と夫婦にちぎりをかわし、三浦家の人になってみると・・・さあ、
 いけない。俗にいう「処女の生ぐささ」というやつで、一月にする源太郎、げんなりと
 してきた。 
・これまで源太郎は、まったく女の肌身を知らなかったわけではない。そこはそれ、金子
 辰之助のような幼な友だちがついていたことから、彼の案内で数度、岡場所へ足をふみ
 入れたこともある。
・むろん、新妻の満寿子は処女であったけれども、新婚の日々が経過するにつれ、次第と
 どのような味わいをおぼえこんだものか、すこぶる大胆な所作をするようになった。大
 きな鼻の穴を層倍にふくらませて鼻息も荒々しく、不様に身をもだえする態が露骨にき
 わめはじめた。
・(ああ、岡場所の女たちのほうが、ずっと、つつましやかだし、色気もある。これが、
 五百石の旗本のむすめか・・・)と、源太郎は興ざめがしてきはじめた。
・それでいて、日中の満寿子は、夜の狂態など、どこのだれがするのか、といった顔つき
 で、つんと見識高くすましこんでい、なにかにつけて、源太郎を養子扱いにするのだ。
 満寿子はおのが教養の高さをこれみよがしにただよわせ、気取りきっている。
・一心流の薙刀の名手とかで、この新妻の膂力の強いことは大したものだ。夜のひめごと
 の最中、真剣に相手をつとめている夫の源太郎の背中へ、満寿子がむっちりとした両腕
 をまわし「うむ!!」と妙な声を発してしめつけると、恐ろしい痛みが走って、源太郎
 は思わず悲鳴をあげてします。
・腕のちからをゆるめたかと思うと、今度はもう火焔のような鼻息を夫の顔へ押つけ、強
 烈な愛撫を要求するのであった。
・あきれ果てて男のちからも萎え、満寿子の体からはなれてしまうと、さあ承知をしない。
 手をねじられたり、尻をつねられたり、さんざんにいためつけられ、二十六歳の源太郎
 が翌朝、体の痛みに耐えかねて床から起き上がれないことがあったほどだ。
・薙刀の相手をつとめさせられたこともある。源太郎の剣術なぞというものは、まるで無
 きにひとしい、というわけだから、これまたさんざんに叩きのめされる。
・剣術も好きだが色事も大好きという辰之助は、異常な興味をそそられたらしく、夜の閨
 房のありさまを執拗に問いかけてやまない。
・「なるほど、しかし、おあれならなあ、おあれなら・・・」であった。それほどに自信
 があるなら、いっそ辰之助に代わってもらいたい。自分は部屋住みの身で、ひっそり実
 家の厄介者で一生を送ってもいいのだがと、つくづくそう思うのだが、いったん、養子
 に入った身が自分の一存で勝手なまねはゆるされぬ。そこは現代より百何十年も前の封
 建の世であるから、実家・養家の恥さらしになることは何としてもつつしまねばならな
 い。


・その日、金子辰之助は三浦源太郎をつれ、上野・不忍池の東をまわり、谷中へ出た。
 谷中・天王寺門前から駒込の千駄木へ通ずる道の、両側にびっしりと立ち並んだ寺院の
 中に竜谷寺という寺がある。この寺の前は坂道になってい、ここを「谷中の首ふり坂」
 とよぶ。
・竜谷寺と天竜寺にはさまれ、小さな茶店があった。老爺の久兵衛というのが主で、これ
 が一人きりで店をきりまわし、ささやかに暮らしているらしい。辰之助は、この茶店へ
 源太郎をつれこんだものだ。
・この久兵衛は、そのころ「あほうがらす」とよばれた一種の私娼紹介業もしている男で
 ある。私娼といっても、こうした手合いの扱う女たちはそれぞれの事情によって、その
 場しのぎの金を得るための素人女が多く、その新鮮な肌の香を好む客が後を絶たぬ。い
 うまでもなく、お上の取り締まりもきびしいから、あくまでも秘密を守れる客でないと
 相手にしない。
・辰之助が源太郎夫婦のいきさつをぺらぺらとしゃべるのを、久兵衛は、かすかに嫌悪の
 表情を浮かべて聞いたようである。
・「では、たのむよ」いいおいて辰之助は、首ふり坂を上って行く。自分は天王子門前の
 「いろは茶屋」という岡場所で昼あそびをするつもりなのである。
・それから間もなく、久兵衛の茶店に入って来た女がある。これが源太郎の相手によばれ
 た女だ。大女である。背丈は六尺に近い。肩幅も胸幅も腰まわりも大きくひろく、ふと
 やかに、それでいてぬけるような肌の白さである。笑うと右の頬に可愛らしいえくぼが
 生まれ、やさしい目じりの下がった、どう見てもにくめない顔をしている。この女、名
 をおやすといい、年齢は源太郎の新妻と同じ二十歳。
・そのころ、辰之助は「いろは茶屋」の升屋という店へあがり「いまごろ、源太郎はどん
 な女を相手にしているかな。びっくりしたろうよ。気の弱いあいつのことだから、手も
 足も出ずに、しょんぼりと帰ってしまったかな・・・」そんなことを思いながら、にや
 りにやりと、妓を相手に酒をのみはじめていた。
 

・この日から間もなく、三浦源太郎は養父母や満寿子に、「おもいたって、いささか剣術
 の修業にはげむことにした」と、言い出した。かくて源太郎が入門した先は、金子辰之
 助の師匠・井狩又蔵の道場であった。
・それから五日に一度ほど、源太郎の首ふり坂通いが始まった。
・おやすは、砂村の百姓・権六のむすめで、十になる妹のおこうが一人いる。中に三人も
 兄妹がいたそうだが、いずれも病死してしまい、母親も二年前に世を去ったというので
 ある。父親が病気がちになったのも、そのころからであった。
・久兵衛の茶店の小屋で、はじめて源太郎を客にした日に、おやすは自分の身の上を語っ
 ている。ということは、おやすがそれだけのことを語る気持ちになったほどに、男のや
 さしさ、いたわりが「客」としての愛撫の中にこもっていたものと見える。
・おのが巨大な肉体を恥じる仕種が初々しく、まっ白なおやすの肌を、そのはじらいの血
 がそめてゆくのは美しかった。
・大きいといっても、長身の源太郎が抱いてみると、骨格がすぐれているだけに肉づきも
 あまりたるんではいず、たっぷりとふくらんだ乳房の見事さが、この時代の女にはない
 ものであった。
・あの、はじめての日。おやすが先へ出て帰ったあとから、源太郎が茶店を出て来るや、
 「お気に入ったようでございますねえ」「うん」素直にうなずいた源太郎の態度が、む
 じ久の気に入ったらしい。 
 

・夏がやって来た。三浦源太郎の剣術修業?は、たゆむことなくつづいた。
・この間に、首ふり坂の久兵衛が茶店をたたみ、故郷・(駿河・石田)へ帰ってしまった。
 だが、源太郎とおやすは別に困らない。源太郎が深川・扇橋の船宿「大黒」へ出かけて
 行き、ここへおやすを呼び出すのである。このほうが、おやすが住む砂村からも近いの
 だ。
・久兵衛の茶店で会っていたときのように源太郎は一分の金を「大黒」で会うたびに、お
 やすへわたしてやった。そのころの一分という金、現代に直して一万円ほどであろうか。
・源太郎は婿入りをする際に、実家の母から金二十両をもらってきている。まだ当分は大
 丈夫であった。 
・五日か六日に一度の逢瀬が、源太郎にとってはたまらなく待ち遠しかった。
・相変わらず、閨房における満寿子はいやらしかった。奥の土蔵をへだてた離れが若夫婦
 の居間と寝間に当てられてい、それだけに満寿子は若い女のつつしみも忘れて荒れ狂う
 のである。
・窓をあけ、ふりけむる雨をながめている源太郎である。裾を端折り、素足にわらじをは
 き、蓑に笠といういでたちながら、まさに、おやすである。源太郎が窓から乗り出して
 手を振ると、おやすはくびを振って手招きをして見せた。こっちへ来てください、とい
 うのらしい。
・仕方がないので源太郎は下りて行った。「どうしたのだ?」「お父つぁんが、昨夜・・」
 おやすは哀しげにうなだれている。
・このとき、扇橋をわたって来た荷車が米俵をつんで通りかかった。曳き手が何かにつま
 ずいてよろけたとたん、米俵へかけわたしてあった縄が切れて、上へつんだ三俵ほどが、
 ごろごろと道へころげ落ちた。
・話をやめたおやすが、何気なく近寄ったかと見るうちに、あの重い米俵を、何と片手で
 つかみにつかんで、ひょいひょいと、まるで芋でもなげるように軽々と、荷車の上へほ
 うり投げたものである。
・遠慮するおやすの肩を抱くようにして、源太郎が「大黒」の前へ戻って来たときであっ
 た。
・「おのれ。見つけた」わめきざま、飛び出してきた女がある。女は、満寿子であった。
 これにつきそうは、よねと三津の二女中。いずれも三浦家へ長く奉公する男まさりの女
 中で、さらに若党・花田文吉が若主人の源太郎をにらみつけている。
・「おのれ、姦婦め」満寿子は、三津の手から稽古用の樫の薙刀を受け取り、猛然と、お
 やすへ打ちかかった。 
・女の悲鳴があがった。おやすの悲鳴ではない。満寿子の声であった。満寿子の樫の薙刀
 を避けもせず、この打つ込みを平然とわが体に受け止めたおやすは、その打撃の痛みに
 はかまわず、ぐいと薙刀をつかんで引いた。すると、あの満寿子がたたらをふんでよろ
 めき、薙刀をつかんだ手をはなしてしまったのである。おやすは一言も発せず、よろめ
 いた満寿子を両腕につかんで頭上へさしあげた。おやすに投げつけられた満寿子の体は
 宙を飛び、水しぶきをあげて小名木川へ落ち込んでいた。
・おやすは、これらの人たちが、源太郎の妻や屋敷の者であることなど、毛頭知らぬ。た
 だもう愛しい男と自分の危急を感じ、とっさにはたらいたまでのことで、へたりこんで
 いる源太郎を抱えおこし、背中へつかませると一気に背負いあげ、泥しぶきをはね散ら
 しながら、砂村の方角へ走り出した。
 

・この日以降、三浦源太郎は、ついに屋敷へもどらなかった。養家へも実家へもである。
・しきりに、わけをきくおやすに、「心配するな。あれでよかったのだ」源太郎は、しず
 かにいった。
・彼は、懐紙を出し、おやすの家のちびた筆をとって、実家の兄・主馬にあてて、これま
 での事実をあますことなくしたためた。妻としての満寿子、女としての満寿子について
 も、ことばを飾らずにしるした。
・近辺の人びとにすべてをたのみ、源太郎は、おやすと妹のおこうを急ぎたて、小舟をや
 とって砂村をはなれた。ふところには、折よく七両余の金があった。この実母がくれた
 小づかいは肌見はなさなかったのがよかった。
・こうして、彼らが江戸の地をはなれた後、この事件はあまり大ごとにはならなかった。
 三浦源太郎失踪の事は、れっきとした幕臣の養子だけに、逃れぬ罪である。けれども、
 三浦家の息女にして源太郎の妻である満寿子が女だてらに路上で薙刀を振りまわし、そ
 のあげくが、百姓女の手にかかって川の中へ投げ込まれたのでは、はなしも何もなった
 ものではない。このことが公けになれば、三浦家としても只ではすまない。で、三浦忠
 右衛門は懸命に奔走し、養子・源太郎を離別のかたちをとった。
・源太郎の父も兄も、おどろきはしたが、間もなく、源太郎自筆の手紙がとどくにおよん
 で、兄の主馬は「可哀そうなことをいたしましたな」父も「あの満寿子どのがのう・・」
 「女という生きものは、はかり知れぬものでございますな」母は「わたくしは、あの縁
 談に、はじめから気のりいたしませなんだ」
・それから七年の歳月がながれた。
・かつて、むじなの久兵衛老人が茶店をいとなんでいた地所を借り、ここへまた新しい茶
 店を出した夫婦がいる。これがなんと、三浦源太郎とおやすなのだ。源太郎は、すっか
 り町人姿が板についていたし、おやすは相変わらず大女ながら、三十四、五に老けて見
 える。
・おやすは、肌着一枚のわが体へ大八車に米五俵を乗せ、その上で曲芸師に演技させたり、
 原の上へ臼を乗せて餅をつかせたり、という力技を見せ、大評判になった。
・あの折、三浦の満寿子へ源太郎たちのことをこっそり告げたのは、金子辰之助だった。
 辰之助は、源太郎の後釜へ首尾よく入って、満寿子との間に三人も子が生まれた。いま
 は辰之助が家督し、引きつづいて御役にも出ているが、どうも評判はよろしくないよう
 だ。何かこの暗く、陰険な人柄に変わってしまい、あの大きな肉づきのよい体が、この
 ごろではげっそりとやつれ、顔つきもとげとげしくなって、ろくに口もきがぬそうだ。