山の音    :川端康成

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この小説が発表されたのは、終戦から4年後の1949年(昭和24年)頃のようだ。作
者が五十歳過ぎあたりの作品だと思われる。戦後日本文学の最高峰と評され、川端康成の
作家的評価を決定づけた作品として位置づけられているということらしいのだが、正直に
言って、私にはちっともその素晴らしさというのが、いまだにわからない。
内容としては、主人公(信吾)が、自分の老いを自覚し始め、ふと耳にした「山の音」を
死期の告知ではないかと怖れつつも、自分の息子(修一)の嫁(菊子)に淡い恋心を抱く
というものだ。昭和24年当時の日本人男性の平均寿命が六十歳を切っていたようである
から、この作品を書いていた五十歳頃の作者は、現代で言うなら六十五歳を過ぎた頃の年
齢に当たろうろうか。もう老齢期に入り、自分の老いと残りの寿命を、かなり意識してい
たのではないかと推察する。
当時においては、もうすっかり枯れた年代と一般的には思われていたであろう主人公が、
自分の「息子の若い嫁」に恋心を抱くというのは、一般的な世間の感覚では考えられない
ことだったのかもしれないが、実際にはそんなことはない。何歳になっても多くの男は若
い女性に性的欲望を持ち続けるのだということが公に認められるようになったのは、そん
なに古い話ではないようだから、当時としては、かなり刺激的な内容であったのではない
のだろうか。
しかし、まだまだ敗戦の傷跡が色濃く残っている当時においては、そんな淡い老齢の男の
欲望は、満たされる筈もなく、却って哀れさを増すばかりである。残り少ない人生、叶え
られなかった自分の夢や希望。自分の息子や嫁の若さに対する嫉妬心みたいなものが感じ
らる。家の大黒柱として家族を支えてきて、長男に嫁を迎え、娘を嫁に出し、やっと肩の
荷が下りて、ほっとしたのも束の間、長男は他に女を作り、嫁に出した娘は二人の孫を抱
えて戻ってくる。それもこれも、自分がいけなかったのかと責任を感じ、人生の黄昏を迎
えた男のさみしさが漂う作品である。
しかし、会社では自分専用の部屋を持ち、自分専用の女性秘書を持ち、女性秘書を誘って
ダンスに出かけたり、家族で映画を観に行ったりと、終戦の痕跡がまだ色濃く残る時代に
おいては、主人公(信吾)は成功者に分類される人物であったのだろうと思う。
ところで、この小説の中で、烏山という男の帰宅恐怖症の話が出てくる。女房が怖くて家
に帰れず、仕事が終わった夕方は、毎晩ぶらついたり、映画を見たり、寄席へ入ったりし
て、女房や子供が寝静まってから帰るという。なんだかどこかで聞いたようは話だ。現代
社会では、似たようなサラリーマンが少なからずいるらしいので、それほどめずらしい話
ではないようだが、終戦まもない時代からそんな人たちがいたとは、ちょっと驚きである。
小説の中だけの話ではないだろうと思う。実際のそういう人たちがいたから、それを見て、
筆者が小説の中に取り入れたのだろう。終戦後まもない社会も、現代の社会も、人間同士
の営みはそれほど変わっていないんだと、改めて思わされた。

山の音
・真吾の妻の保子は、一つ年上の六十三である。一男一女がある。姉の房子には女の子が
 二人出来ている。保子は美人ではないし、若い時は勿論年上に見えたから、保子の方で
 一緒に出歩くのを嫌ったものだ。それが何歳ごろから、夫が年上で妻が年下という常識
 で見て無理がなくなったのか、信吾は考えてみてもわからない。五十半ば
・還暦の去年、信吾は少し血を吐いた。肺かららしいが、念入りの診察も受けず、改まっ
 た養生もせず、その後故障はなかった。これで老衰したわけではない。むしろ皮膚など
 はきれいになった。半月ほど寝ていた時も、目あ唇が若返ったようだった。信吾は既往
 の結核の自覚症状はなかった。六十で初めての喀血というのは、いかにも陰惨な気がす
 るので、医者の診察を避けたところもあった。
・保子は達者なせいかよく眠る。信吾は夜中に保子のいびきで目がさめたのかと思うこと
 がある。保子は十五六の頃いびきの癖があって、親は矯正に苦心したそうだが、結婚で
 とまった。それがまた五十過ぎて出て来た。
・はっきり手を出して妻の体に触れるのは、もういびきをとめる時くらいかと、信吾は思
 うと、底の抜けたようなあわれみを感じた。  
・修一は信吾と同じ会社にいて、父の記憶係りのような役もつとめていた。保子は勿論、
 修一の嫁の菊子も、信吾の記憶係りの役目を分担していた。家族三人で信吾の記憶をお
 ぎなっていた。
・会社で信吾の部屋つきの女事務員も、また信吾の記憶を助けていた。
・修一が信吾に一冊の本の頁を開いて見せた。「ここでは貞操観念が失われているのでは
 ない。男は一人の女性を愛し続ける苦しさと、女が一人の男を愛する苦しさに堪えられ
 ず、どちらも楽しく、より長く相手を愛し続け得られるために、相互に愛人以外の男女
 を探すという手段。つまり互いの中心を堅固にする方法として・・・」そんなことが書
 いてあった。パリの小説家の欧州紀行だという。信吾の頭は警句や逆説に対して、もは
 や鈍くなっていた。しかし、警句でも逆説でもなく、立派な洞察のようにも思えた。
・修一はこの言葉に感銘したわけではあるまい。会社の帰りに女事務員をつれ出そうと、
 素早くしめし合わせたのに違いなかった。そう信吾はかぎつけた。 
・信吾は会社からの帰りにさかな屋に立ち寄った。娘が二人店先に立った。信吾は、はっ
 として娘をぬすみ見た。近ごろの娼婦である。背をまる出しにして、布のサンダルをは
 き、いい体である。
・さかな屋の亭主が、「あんなのが鎌倉にも増えましたね」と吐き出すように言った。信
 吾はさかな屋の口調がひどく意外で、「だってしゅしょうじゃないか。感心だよ」とな
 にか打ち消した。信吾は確かに娘に好意を持ったのだが、その後で自分がうらさびしい
 ように感じられてならなかった。
・菊子は八人兄妹の末っ子である。上の七人とも結婚していて、子供が多い。菊子の親か
 らの盛んな繁殖ぶりを、信吾は思う時がある。菊子の兄や姉の名を、いまだに信吾がよ
 く覚えてくれぬと、菊子はたびたび不平を言った。大勢の甥や姪の名はなお覚えない。
・菊子は末っ子らしく育ったようだ。甘やかすというよりも、みなに気安く愛されたらし
 い。少しひ弱いところはあった。
・菊子が嫁に来た時、信吾は菊子が肩を動かすともなく美しく動かすのに気づいた。明ら
 かに新しい媚態を感じた。ほっそりした色白の菊子から、信吾は保子の姉を思い出した
 りした。信吾は少年の頃、保子の姉にあこがれた。姉が死んでから、保子は姉の婚家に
 行って働き、遺児を見た。献身的につとめた。保子は姉のあとに直りたかったのだ。美
 男の義兄が好きでもあったが、保子もやはり姉にあこがれていたのだ。同じ腹と信じら
 れぬほど姉は美人だった。保子には姉夫婦が理想の国の人に思われた。
・保子は姉の夫にも遺児にも調法だったが、義兄は保子の本心を見ぬ振りした。さかんに
 遊んだ。保子は犠牲的な奉仕に甘んじて生きるつもりらしかった。信吾はそのような事
 情を知って、保子と結婚した。三十幾年後の今、信吾は自分たちの結婚が間違っていた
 とはおもっていない。長い結婚は必ずしも出発に支配されない。しかし、保子の姉のお
 もかげは、二人の心の底にあったわけだ。信吾も保子も姉の話はしないけれども、忘れ
 たわけではなかった。息子の嫁に菊子が来て、信吾の思い出に稲妻のような明かりがさ
 すのも、そう病的なことではなかった。  
・修一は菊子と結婚して二年にもならないのに、もう女をこしらえている。これは信吾に
 は驚くべきことだった。田舎出の信吾の青春時代と違って、修一は情欲にも恋愛にも悩
 む風がなかった。重苦しく見せなかった。修一がいつ初めて女を知ったのかも、信吾は
 見当がつかなかった。今の修一の女は商売女か娼婦型の女に違いないと、信吾はにらん
 でいた。会社の女事務員などは、ダンスにつれ出すくらいのもので、あるいは父の目を
 くらますためかと疑われた。相手の女はこんな小娘ではないだろう。信吾はなんとなく
 菊子からそれを感じた。女が出来てから、修一と菊子との夫婦生活は急に進んで来たら
 しいのである。ある夜、信吾が目をさますと、前にはない菊子の声が聞こえた。

蝉の羽
・娘の房子が二人の子供を連れて来た。上の子は四つ、下の子は誕生を過ぎたばかり、そ
 の間隔でいくと、後はまだ先のはずだろうが、信吾はついなにげなく、「後は出来ない
 のか」と言った。房子もさっそく「こちらの菊子さんはまだなの?」これもなにげなく
 言っているのだが、菊子は赤ん坊を覗き込むようにしている顔が、ふと固くなった。菊
 子の顔色に気づいたのは、信吾だけらしかった。しかし、信吾はそれは気にかけないで、
 赤ん坊の開放された裸の脚の運動を可愛く眺めていた。 
・房子がブラウスを下から持ち上げて、乳を飲ませた・房子は不器量だが、体はよかった。
 胸の形もまだくずれていない。乳をふくんで乳房が大きく張っていた。
・真吾は家の近くのよその家のひまわりの花を見て、そのさかんな自然力の量感に、ふと
 巨大な男性のしるしを思った。この蕊の円盤で、雄しべと雌しべとが、どうなっている
 のか知らないが、信吾は男を感じた。しべの円盤のまわりの花弁が、女性であるかのよ
 うに黄色に見える。菊子がそばに来たので、変なことを思いつくのかしらと、信吾はひ
 まわりを離れて歩きだした。
・真吾は、死んだ人の夢を見た。たつみ屋の小父さんに、夢でそばを御馳走になったのだ。
 夢で死人に出されたものを食うと死ぬというようなことがあるのだろうかと、信吾は思
 った。食わないで目が覚めたようである。たつみ屋というのは、三四年前に七十過ぎで
 死んだ指物師だ。昔風の職人気質を信吾は好きで、仕事をさせていた。たつみ屋には娘
 ばかりが六人あった。その六人の娘のうちの一人であったかどうか、信吾は夕方の今は
 もう思い出せないが、夢で一人の娘に触れたのだった。触れたことはたしかに覚えてい
 る。相手が誰であったかは、まったく思い出せない。夢がさめた時は、相手が誰か、よ
 く分かっていたようだ。ところが、夕方の今は、もうまったく思い出せない。
・娘に触れた驚きで夢が破れたとする方が、夢の定石ではなかろうか。もっとも、目をさ
 ますような刺戟はなかったのである。これも筋道はなにも覚えていない。相手の姿も消
 えてしまって、思い浮かばない。信吾が今覚えているのは、ゆるい感覚だけだ。からだ
 が合わなくて、答えがなかった。間がぬけていた。信吾は現実にもこれほどの女を経験
 したことはない。誰かはわからないのだ、とにかく娘なのだから、実際にはあり得ない
 ことだろう。 
・真吾は六十二になって、みだらな夢をみるのもめずらしかったが、みだらとも言えぬほ
 ど、それが味気ないものであったのには、目覚めてからもけげんに思った。
・房子は毎日、保子に愚痴をこぼしているらしいが、いつ帰るとも言わないところをみる
 と、まだ肝腎の話を切り出せないのかもしれない。保子は寝床へ入ってから、その日の
 娘の愚痴を、信吾に取りつぐのだった。 
・親の方から相談に乗り出してやらねばと思っていても、嫁に行って三十になる娘は、親
 もそう簡単には割り切れない。二人の子持ちを引き取るのも容易ではない。なりゆきを
 待っているという風な一日延ばしになった。   
・「お父さまは、菊子さんにやさしくていいわねぇ」と房子は言ったりした。夕飯の時で、
 修一も菊子もいた。「そうですよ。わたしだって、菊子にはやさしくしているつもりで
 すよ」と保子が答えた。房子は答えを必要とするような言い方でなかったのに、保子が
 答えた。笑いを含んだ声でありながら、房子を抑えつけるようだった。「このひとが、
 わたしたちに、たいへんやさしくしてくれますからね」菊子は素直に赤くなった。保子
 も素直に言ったのだろう。しかし、なにか自分の娘にあてつけがましく聞こえた。幸福
 に見える嫁を好いて、不幸に見える娘を嫌うように聞こえた。残酷な悪意を含むかと疑
 われるほどだ。
・保子の自己嫌悪だと、信吾は解した。信吾のうちにも似たものがある。しかし、女の保
 子が、年老いた母が、みじめな娘に向かって、それを爆発させることもあるのかと、信
 吾はいささか意外だった。
・真吾が菊子にやさしくすることは、修一や保子は勿論、菊子もよく知っていて、誰も改
 めて口に出さないことなのだが、房子に言われてみると、信吾はふとさびしさに落ち込
 んだ。
・真吾にとっては、菊子が鬱陶しい家庭の窓なのだ。肉親が信吾の思うようにならないば
 かりでなく、彼ら自身がまた思うように世に生きられないとなると、信吾には肉親の重
 苦しさがなおかぶさって来る。若い嫁を見るとほっとする。やさしくすると言っても、
 信吾の暗い孤独のわずかな明りだろう。そう自分をあまやかすと、菊子にやさしくする
 ことに、ほのかなあまみがさして来るのだった。
・菊子は信吾の年齢の心理まで邪推はしない。信吾を警戒もしない。房子の言葉で、信吾
 はちょっとした秘密を突かれたようだ。 
・会社の女事務員と信吾がダンス・ホオルへ行ったのは、一昨夜である。信吾は近年ダン
 ス場へ出入りしたことがない。英子は誘われて驚いたらしかった。信吾とでは、会社の
 評判になって困るからと言った。黙っていろと信吾は言った。
・修一がよく英子と踊りに行くらしいので、信吾は行ってみたのだ。英子と踊りに行くダ
 ンス・ホオルに、修一の女がいるかもしれないと思ったからだ。英子は思いかげない信
 吾と来て、上気しているらしく、調子っぱずれなのが、信吾にはあぶないものだと見ら
 れて、可憐になった。 
・栄子は二十二なのに、ちょうど掌いっぱいくらいの乳房らしい。信吾はふと春信の春画
 を思い出していた。

雲の炎
・女事務員の英子が信吾の帰り支度を手伝ってから、自分もいそいで支度をした。白い透
 き通る雨外套を着ると、なお胸がぺちゃんこに見えた。踊りにつれて行って、栄子の乳
 房の貧弱なのに気づいて以来、かえって信吾はついそれが目につくのだった。
・田舎町で保子の父は盆栽道楽だった。とりわけもみじの盆栽に凝っていたらしい。保子
 の姉は乳の盆栽いじりを手伝わされた。嵐の音の寝床で信吾は、盆栽棚の間に立つ、そ
 の人の姿を思い出した。父は嫁にゆく娘に、盆栽を一つ持たせたのだろう。娘がほしが
 ったかもしれない。しかし娘が死ぬと、娘の実父の大事な盆栽だし、婚家で世話する者
 はないし、返してよこしたのだろう。父が取り戻したのかもしれない。今、信吾の頭い
 っぱいに紅葉するもみじは、保子の家の仏間に入れてあった盆栽だ。してみると、保子
 の姉が死んだのは秋だったかと、信吾は思った。信濃だから秋は早い。
・信吾が少年のころ、保子の姉にあこがれたことが、保子と結婚して三十幾年後、まだ古
 疵なのだろうかと、もみじのくれないのある頭の一方で思った。
・英子は修一の女を知っていた。「ひどくしゃがれ声のひとですの。しゃがれ声っていう
 より、声が割れているようで、二重になって出るようで、エロチックだっておしゃいま
 すの」と英子が口を割りそうになると、信吾は耳をふさぎたくなった。自身にも恥辱を
 感じ、修一の女や英子の本性の出そうな嫌悪も感じた。女のしゃがれ声がエロチックと
 いう、話の切出しも、信吾はあきれた。修一も修一だが、英子も英子だ。  
・町の店々は戸締まりして、これも一夜でさびれ、映画帰りの人々の行手は、しんと人通
 りがなかった。「昨夜眠れなかったんで、今夜は早寝だね」と信吾は言いながら、肌さ
 びしくなり、人肌恋しくなった。なにか、いよいよ生涯の決定の時が来ているような、
 そんな気持ちもした。決定すべきことが迫っているようだ。

栗の実
・保子には姉夫婦が理想の国の人だったし、信吾もその保子と結婚したことで、義兄たち
 には及びもつかぬ人間と決定してしまったわけだ。房子が生まれた時にも、保子の姉に
 似て美人になってくれないかと、信吾はひそかに期待をかけた。妻には言えなかった。
 しかし、房子は母親よりも醜い娘になった。信吾流に言うと、姉の血は妹を通じて生き
 てはこなかった。信吾は妻に秘密の失望を持った。
・真吾は部屋つきの英子までがその女に会っていて、修一の家族がその女を知らないのは、
 世間通例のことなのだろうが、信吾は納得ゆかなかった。ことに英子を目の前に見てい
 ると、なお納得がゆかなかった。英子は見るからに軽そうな女だが、それでもこの場合
 は、人世の重い帳として信吾の前に立っているようだった。なにを考えているか、知れ
 たものではない。 
・烏山という人の告別式の通知の手紙を英子が持っていた。「この男は、細君の更年期に、
 ひどく虐待されてね。細君が飯を食わせてくれないんだよ。その男は、夕方は女房がこ
 わくて帰れないから、毎晩ぶらついたり、映画を見たり、寄席へ入ったりして、女房や
 子供が寝静まってから帰るんだ。子供もみなおふくろに加勢して、おやじを虐待するん
 だ」と信吾は英子に話した。英子はいくらか、からかわれていると思ったらしい。「で
 も、ご主人の方に悪いことがおありなんでしょう」と言った。「当時はりっぱなお役人
 だよ。後で民間会社へ入ったが、役人の時分は道楽もしなかった」「君らにはわかるま
 いが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜中に外
 をさまよってるのは、いくらもいるんだよ」と信吾は言った。
・烏山の告別式の帰りに、「君のうちはどうだ」と、だれか旧友に出会ったら、信吾はそ
 う聞いてみるつもりで、寺の門に待っていた。「烏山だって、死んでみれば、細君に虐
 待されたことなんか、跡形もないじゃないか」「烏山の息子や娘の家庭がうまく行って
 いると、烏山夫婦の成功ということになるかね」「今の世で、子供の結婚生活に、親が
 どれほど責任が持てるんだ」旧友に向かって言ってみたい、そんなつぶやきが、どうし
 たはずみか、信吾の胸に続々と浮かんだ。

島の夢
・真吾は玄関で靴をはきながらも、香奠返しに玉露をもらった友人の名前を思い出そうと
 した。菊子に聞いて見ればいいのだが、だまっていた。その友人は温泉宿へ若い女を連
 れて行っていて、そこで突然死んだからである。
・「われついに富士に登らず老いにけり」と信吾は会社でつぶやいていた。昨夜、松島の
 夢を見たせいで、こんな言葉が浮かんだのかもしれない。信吾は松島へ行ったことがな
 いのに、松島を夢に見たのは、今朝不思議に思った。この年になるまで、日本三景の
 「松島」も「天の橋立」も行ったことがないのに気がついた。「安芸の宮島」だけは、
 季節外れに冬だったが、九州の社用で出張の帰りに、途中下車してみたことがあった。
・夢は朝になると、断片しか覚えていなかったが、島の松の色や海の色は鮮明に残ってい
 た。そこが松島だったということもはっきりしていた。信吾は松陰の草原で女を抱擁し
 ていた。おびえてかくれていた。連れを二人で来たらしい。女は非常に若かった。娘で
 あった。自分の年はわからなかった。女と松のあいだを走った工合から考えても、信吾
 も若いはずだった。娘を抱擁して、年齢の差は感じていなかったようだ。若い者がする
 ようにした。しかし、若返ったとしても、昔のことだとも思わなかった。信吾は六十二
 歳の現在のままで二十代だという風だった。 
・香奠返しに玉露をもらったのは水田という名前だった。水田は温泉宿で頓死をした。葬
 式の時に、旧友たちはいわゆる極楽往生だとささやき合った。しかし、若い女を連れ込
 んでいたからといって、水田の死がどうしてそう推量されるのか、後で考えると少し怪
 しい話だった。でもその時は、相手の女が葬式に来ているかなどと好奇心を働かせたり
 した。女は一生いやだろうと言う者があり、もし男を愛していれば、女も本望だろうと
 言うものがあった。今は六十代の連中が、大学の同期だということで、書生言葉でしゃ
 べり散らしているのも、信吾には老醜の一種だと思えた。お互いに若いころを知られて
 いるのは、親しさなつかしさばかりではなく、苔むした自己主義の甲羅がそれをいやが
 りもした。前に死んだ烏山を笑い話にした水田の死も、笑い話にされた。
 
冬の桜
・今年から満で数えることに改まったので、信吾は六十一になり、保子は六十二になった。
・房子の結婚の不幸が、子供の里子に暗いしみをつけている。それを信吾もふびんとは思
 わぬではないが、じりじりと頭の痛むことの方が多い。娘の結婚の失敗に対して、処置
 がないからでもある。 
・嫁に出した娘の結婚生活については、もう親の力は知れたものだが、別れるほかはない
 ところに来てみると、娘自身の力のなさがいまさら思われるばかりだった。子供二人を
 抱えた房子を、親もとへ引き取れば、それでことが済むというわけにはゆかない。房子
 は癒されはしない。また房子の暮らしが立ちはしない。女の結婚の失敗には、解決がな
 いのだろうか。
・「(修一さんは)奥さまのことを、子供だ、子供だって、よくおっしゃってましたわ」
 「子供だから、おやじに気にいると、おっしゃってましたわ」と英子は信吾に言った。
 修一は菊子のからだのことを言っていたのだと、信吾は察した。修一は新妻に娼婦をも
 とめていたのだろうか。おどろいた無知だが、そこにはまたおそろしい精神の麻痺があ
 るように、信吾には思えた。修一は妻のことを絹子や、また英子にまでしゃべる、つつ
 しみのなさもこの麻痺から来ているのだろうか。
・信吾には修一が残忍に感じられた。修一は菊子の純潔を感じなかったのか。末っ子で、
 ほっそりと色白の菊子の幼な顔が、信吾に浮かんだ。息子の嫁のために、息子を感覚的
 にも憎むのは、信吾も少し異常だと気づきながらも、自分をおさえられなかった。
・保子の姉にあこがれたために、その姉が死んでから、一つ年上の保子と結婚した信吾は、
 そのような自分の異常が生涯の底を流れていて、菊子のためにいきどおるのだろうか。
 菊子は修一にあまり早く女が出来たので、嫉妬のすべにも迷うありさまだったが、しか
 し修一の麻痺と残忍との下で、いやそのためにかえって、菊子の女は目ざめて来たよう
 でもある。 

朝の水
・真吾の学校仲間と言えば、現在六十過ぎで、戦争の半ばから敗戦の後に、運命の転落を
 したものが少なくなかった。五十代では上の方にいるから、落ちるとひどく、また倒れ
 ると立ちにくかった。息子を戦争で死なせる年齢でもあった。北本も三人の息子を失っ
 た。会社の仕事が戦争向きに変った時、北本は不用の技術屋になっていた。「鏡の前で、
 白毛を抜いているうちに、頭が狂ってきたんだそうだよ」旧友に一人が信吾を会社へ訪
 ねて、北本のうわさをした。「とうとう精神病院に入れられたんだね。わずかに残って
 いた毛も、北本は病院で抜いちゃったんだそうだ。気味が悪いだろう。恐ろしい妄執だ
 ね。老いぼれたくない、若返りたい。気がちがったから白毛を抜き出したのか、白毛を
 抜き過ぎたから気がちがったか、ちょっとわからないが」「北本は白毛を抜いて、年齢
 の運行に反抗し、没落の運命に反抗したのかもしれないが、寿命というやつは別だとみ
 える」
・北本が死んだことは、ほかからも耳にはいって、確かである。友人の話がすべて事実で、
 誇張がなかったとしても、北本を嘲弄するような口調はあっただろう。老人が死んだ老
 人の噂を、軽薄に残酷にしゃべった。信吾は後味が悪かった。
・真吾の学校仲間で、変わった死に方をしたのは、この北本と、それから水田だった。水
 田は若い女と温泉宿に行って、そこで頓死した。信吾は去年の暮れ、水田の遺品の能面
 を買わせられたが、北本のためには、谷崎英子を会社に入れたということになるだろう。
 谷崎英子が北本の娘の紹介状を持って会社に来た時、北本の遺族が岐阜県に疎開したま
 までいることを、信吾は初めて知ったのだった。 
・英子は北本の娘の学校友だちだという。しかし、信吾は北本の娘から、そんな友達の就
 職を頼まれるのが、いかにも突然の感じだった。信吾は娘を見たこともない。英子も戦
 争中から北本の娘には会っていないという。信吾には二人の娘が軽薄に見えた。信吾は
 娘の紹介状に責任を感じなかった。紹介されて来た英子を見ると、これがまた体に薄い、
 心の軽い娘のようだった。しかし、信吾は英子を社に入れて、自分の部屋づきにした。
 英子は三年つとめた。  
・英子を信吾は軽便な娘と考えていたが、会社を辞められてみると、英子にも小さい良心
 と善意とがあったのを感じた。その良心と善意とは、まだ結婚していないため清潔のよ
 うにも思えた。

夜の声
・男のうなるような声で、信吾は目が覚めた。犬の声か人間の声か、ちょっと分からなか
 った。門の戸に倒れかかる音がした。信吾は肩をすくめて、起き上がるように身構えた。
 「菊子う、菊子う」菊子を呼ぶ、修一の声だった。舌がもつれて、「く」の音がでない
 のだ。ひどく酔っている。
・真吾に修一のかなしみが伝わって来た。自分はあんなに絶望的な愛情をこめて、妻の名
 を呼んだことが、一度だってあっただろうか。外地の戦場にいた修一の、ある時のよう
 な絶望も、おそらく自分は知らずに来たのだろう。今の修一の声を聞くと、東京の女と
 のあいだも、もう先きが見えていると、信吾は思った。
・菊子は修一の足を自分の膝にのせて、靴を脱がせてやっているらしい。菊子はゆるして
 いる。信吾が案じるまでもなく、夫婦のあいだでは、菊子もこんな風にゆるせる時を、
 むしろよろこんでいるかもしれない。それにしても、修一が女のところから酔って帰っ
 たのに、その足を膝に抱き上げて、靴をぬがせてやる、菊子のやさしさというものを、
 信吾は感じた。
・二十を出たばかりの菊子が、修一と夫婦暮らしで、信吾や保子の年まで来るのには、ど
 れほど夫をゆるさねばならぬことが重なるだろうか。菊子は無限にゆるすだろうか。ま
 たしかし、夫婦というものは、お互いの悪行を果てしなく吸い込んでしまう、不気味な
 沼のようでもある。絹子の修一に対する愛や、信吾の菊子に対する愛なども、やがては
 修一と菊子との夫婦の沼に吸い込まれて。跡形もとどめぬだろうか。戦後の法律が、親
 子よりも夫婦を単位にすることに改まったのはもっともだと、信吾は思った。「つまり、
 夫婦の沼さ」とつぶやいた。
・「夫婦の沼さ」とつぶやいたのは、夫婦二人きりで、お互いの悪行に堪えて、沼を深め
 てゆくというほどの意味だった。妻の自覚とは、夫の悪行に真向うことからだろう。
・修一の声で起きる前にも、真吾は夢で目がさめたのだった。その時は夢をよくおぼえて
 いた。ところが、修一に起こされた時は、夢をほとんど忘れてしまった。おぼえている
 のは、十四五の少女が堕胎をしたということと、「そうして、なになに子は永遠の聖少
 女となったのである」という言葉だけだった。十四五で堕胎をして、聖少女は奇怪だが、
 それには長い物語があった。少年と少女との純愛の名作物語を、信吾の夢は読んでいた
 のだった。少女は妊娠とはしらないし、堕胎とも思わないで、ただ別れさせられた少年
 を、慕い通したというようなことだったろうか。それでは不自然だし不純だ。
・夢のもとは、昨夜の夕刊の記事に過ぎなかった。「少女が二児を産む。青森にゆがんだ
 (春のめざめ)」という大きな見出しで、青森県の公衆衛生課が調べると、県内で優生
 保護法による妊娠中絶者のうち、十五歳が五名、十四歳が三名、十三歳が一名、高等学
 校生徒の年齢、十八歳から十六歳までが四百名、そのうちで高校生が二十パーセントを
 占めている。また、中学生の妊娠は、弘前市に一人、青森市に一人、南津軽郡に四人、
 北津軽郡に一人、しかも性知識の欠如のため、専門医の手にかかりながら0・二パーセ
 ントが死亡、二・五パーセントが重症、という恐ろしい結果を招いていることがわかり、
 なお隠して、指定医以外に扱われて死んで行く幼い母の生命には、まことに寒心すべき
 ものがある、という内容だった。 
・青森市の高等学校二年生、十七歳、クラスの男生徒と未来を約束して、昨年の夏、妊娠
 した。双方の親たちは、まだ少年少女が学生だというので中絶した。しかし少年は、「遊
 びではない。近いうちに結婚する」と言っている。
・この新聞記事に、信吾はショックを受けた。そして眠ったので、少女の堕胎の夢を見た。
 しかし、信吾の夢は、少年少女を醜いとも悪いともしないで、純愛の物語とし、「永遠
 の聖少女」とした。眠る前には、思ってもみたいことであった。信吾のショックは、夢
 で美しくなった。なぜだろうか。信吾は夢で、堕胎の少女を救い、また自分をも救った
 のかもしれない。老いのうちにもゆらめく青春の名残りが、少年少女の純愛を夢見させ
 るのかと、信吾は感傷にもあまえた。

春の鐘
・「その押入れに、面がはいっているのだが、出してみてくれないか」「これは妖精でね。
 永遠の少年なんだそうだ」と信吾は菊子に言った。菊子は慈童の面を顔にあてた。面の
 目の奥から、菊子の瞳が信吾を見つけているにちがいない。これを買って帰った日、信
 吾は茜色の可憐な唇に、危く接吻しかかって、天の邪恋というようなときめきを感じた
 ものだ。艶めかしい少年の面をつけた顔を、菊子がいろいろ動かすのを、信吾は見てい
 られなかった。菊子は顔が小さいので、あごのさくもほとんど面にかくれていたが、そ
 の見えるか見えないかのあごから喉へ、涙が流れて伝わった。涙は二筋になり、三筋に
 なり、流れつづけた。「菊子」と信吾は呼んだ。「菊子は修一と別れたら、お茶の師匠
 にでもなろうかなんて、今日、友だちと会って考えたんだろう?」慈童の菊子はうなず
 いた。「別れても、お父さまのところにいて、お茶でもしてゆきたいと思いますわ」と
 面の蔭ではっきり言った。

都の苑
・菊子と約束通り、新宿一丁目の大木土門から、信吾は新宿御苑に入った。入苑して来る
 のは、アメリカ人夫婦だけではないが、若い男女の二人づればかりで、ゆっくり歩いて
 いるのは、アメリカ人だけだった。喬木に重いほど盛んな緑が、菊子の後姿の細い首に
 降りかかるようだった。池はやや日本風で、小さい中の島の灯籠に白人兵が片足をかけ
 て、娼婦とたわむれていた。岸のベンチにも、若い二人づれがいた。
・菊子は信吾に寄り添って、欅の大木の下から広い芝生に出た。緑の大きい見通しに、信
 吾は胸がひらけた。「ほう、のびのびする。日本離れがしていて、東京のなかにこんな
 ところがあるとは、想像がつかないね」と、新宿の方へ遠い緑のひろがりをながめた。
 ヴィスタに苦心してあって、奥行がよけい深く見えるんですって」「ヴェスタってなん
 だ」「見通し線というのでしょう。芝生の緑やなかの道は、みなゆるやかな曲線ですわ」
 菊子は学校から来た時、先生に説明を聞いたと言った。喬木を散植した、この大芝生は
 イギリス風景園の様式だそうである。
・広い芝生に見える人たちは、ほとんど若い男女づればかりだった。二人で寝そべったり、
 腰をおろしたり、ゆっくり歩いたりしていた。五六人づれの女学生や子供の群も少しは
 見えたが、あいびきの楽園に信吾はおどろき、場ちがいを感じた。皇室の御苑が解放さ
 れたように、若い男女も解放された風景だろうか。信吾が菊子と芝生にはいって、あい
 びきのなかを縫って歩いても、誰も二人を見ようとはしなかった。信吾はなるべく避け
 て通った。  

傷の後
・信吾は雨の音を聞く間もなく寝入ったのに、やがて邪悪な夢でまた目覚めた。信吾は尖
 り気味の垂れ乳をさわっていた。乳房は柔いままだった。張って来ないのは、女が信吾
 の手に答える気もないのだ。なんだ、つまらない。乳房にふれているのに、信吾は女が
 誰かわからなかった。わからないというよりも、誰かと考えもしなかったのだ。女の顔
 も体もなく、ただ二つの乳房だけが宙に浮いていたようなものだ。そこで初めて、誰か
 と思うと、女は修一の友だちの妹になった。しかし、信吾は良心も刺戟も、起きなかっ
 た。その娘だという印象は微弱だった。乳房は未産婦だが、未通と信吾は思っていなか
 った。純潔のあとを指に見て、信吾ははっとした
・夢の信吾は愛もよろこびもなかった。みだらな夢のみだらな思いさえなかった。まった
 く、なんだ、つまらない、であった。そして味気ない寝覚めだ。信吾は夢で娘を犯した
 のではなく、犯しかけたのかもしれない。しかし、感動か恐怖かにわなないて犯したの
 であれば、覚めた後にも、まだしも悪の生命が通うというものだ。信吾は近年自分が見
 たみだらな夢を思い出して見ると、たいてい相手はいわゆる下品の女だ。今夜の娘もそ
 うだった。夢にまで姦淫の道徳的苛責を恐れているのではなかろうか。 
・「あっ」と信吾は稲妻に打たれた。夢の娘は菊子の化身ではなかったのか。夢にもさす
 がに道徳が働いて、菊子の代わりに修一の友だちの妹の姿を借りたのではないか。しか
 も、その不倫をかくすために、苛責をごまかすために、身代わりの妹を、その娘伊賀の
 味気ない女に変えたのではないか。
・もし、信吾の欲望がほしいままにゆるされ、信吾の人生が思いのままに造り直せるもの
 なら、信吾は処女の菊子を、つまり修一と結婚する前の菊子を、愛したいのではありま
 いか。その心底が抑えられ、ゆがめられて、夢にみすぼらしく現われた。信吾は夢でも
 それを自分にかくし、自分をいつわろうとしたのか。
・それがたとい菊子であろうと、修一の友だちの妹であろうと、みだらな夢にみだらな心
 のゆらめきもなかったのは、なんとしてもなさけないことに思えて来た。どんな姦淫よ
 りも、これは醜悪だ。老醜というものであろうか。 
・信吾は戦争のあいだに、女とのことがなくなった。そしてそのままである。まだそれほ
 ど年ではなうはずだが、習い性となってしまった。戦争に圧殺されたままで、その生命
 の奪還をしていない。ものの考え方も戦争で狭い常識に追い込められたままのようであ
 る。
・夢で菊子を愛したっていいではないか。夢にまで、なにをおそれ、なにをはばかるのだ
 ろう。うつつだって、ひそかに菊子を愛していたっていいではないか。信吾はそう思い
 直そうとしてみた。しかしまた、「老いが恋忘れんとすればしぐれかな」と蕪村の句が
 浮かんで来て、信吾の思いはさびれるばかりだ。

蚊の群
・娘の夫だった相原が心中の片割れとなってから、あわてて離婚届を出したが、娘と二人
 の子を引き取った形だ。修一は女と別れたにしても、どこかに子供がいることになるだ
 ろうか。二つとも解決できない解決、一時の糊塗ではないか。自分は誰のしあわせにも
 役立たなかった
・信吾はいつか宴会の帰りの車で、膝に乗せた若い芸者を思い出した。その子が来ると、
 友人は隅におけないとか、目が高いとか、つまらぬことを言い続けた。顔もよくおぼえ
 ていないのに、名をおぼえていたのは、信吾にしては上出来だが、可憐で上品な芸者だ
 った。信吾はその子と小部屋へ行った。信吾はなにもしなかった。いつのまにか、女は
 信吾の胸にやさしく顔をすり寄せて来た。媚びるのかと思って見ると、女は寝入ったよ
 うだった。
・信吾はほほ笑んだ。胸に頭をつけて、すやすや眠っている子に、信吾は温かいなぐさめ
 を感じた。菊子よりも四つ五つ若く、まだ十代だろう。娼婦にみじめないたましさかも
 しれないが、信吾は若い女に寄り添われて寝るという、やわらかい幸福になごんだ。幸
 福というものは、このようにつかの間で、はかないものかもしれないと思った。信吾は
 性生活も、貧富や運不運のあることを、ぼんやり考えてみていたが、そっと抜け出すと、
 終電車で帰ることにした。
 
蛇の卵
・信吾は胸をしめつけられていた。菊子が妊娠と聞くと、絹子の妊娠がなお強く迫って来
 た。一人の男の子供を二人の女が同時にみごもったとしても、不思議はないかもしれな
 い。しかし、それが息子の現実となると、奇妙な恐怖をともなった。なにものかの復讐
 か呪詛で、地獄の相ではないのか。

秋の魚
・「僕はそんな感傷的な運命論者じゃありませんよ。敵の鉄砲玉が耳すれすれに、ぴゅん
 ぴゅん鳴って通って、一つもあたらなかったんだ。中国や南方にだって、落とし子が生
 まれているかもしれない。落とし子と会って、知らずに別れるくらい、耳のそばを通る
 鉄砲玉にくらべたら、なんでもありませんよ。命の危険はない」と修一は言った。
・横浜で降りた女ね。あお女は自由ですよ」「自由とはなんだ」「結婚していないし、誘
 ったら来ますよ。お高い風を見せているが、まともな暮らしじゃなく、不安定につかれ
 ているんだ」 信吾は修一の観察にたじろいだ。「菊子だって、自由ですよ。ほんとう
 に自由なんですよ。兵隊でも囚人でもありゃしない」と修一はいどみかかるように吐き
 出した。