わたしを離さないで :カズオ・イシグロ

この本は、いまから18年前の2006年に刊行された長編小説だ。
著者は長崎生まれで、長崎の幼稚園に通っていたようだが、父親の仕事の関係で英国に移
住し、成人した時点で英国国籍を選択したようだ。2017年にノーベル文学賞を受賞し
話題になった。
この作品は、孤児院をイメージしたような、社会から隔絶されたある施設のなかで育つ、
少年少女たちの日常とその生涯が淡々と書き綴られている内容だ。
正直言って、大きな事件があるわけでもなく、あまりにも変化が少ないので、じっくりと
腰を据える覚悟で読まないと、途中で飽きてしまうよう。
しかし、じっくり読んでみると、少年少女たちが大人に成長していく過程での不安や葛藤
などが丁寧に書き綴られている。
しかし、何と言っても、この作品の底流にあるのが「クローン」の問題だ。
1997年に、ドリーと名づけられた羊のクローンが発表されて世界に衝撃が走った。
これは哺乳類としては初めてのクローンだった。
その後、ブタやネコや犬、はたまた馬のクローンが作製されていった。
当然ながら、このままいったら、人間のクローンが登場するのも時間の問題となっている。
しかし、そのクローン人間を、われわれは自分たちと同じ人間として迎え入れることがで
きるだろかという問題がある。
この作品では、臓器提供のためにクローン人間を作製・飼育する社会を描いている。
現代社会においては、臓器移植技術は進歩したが、肝心の臓器の提供の少なさがネックと
なっている。
もし、クローン人間を作製・飼育し、そのクローン人間から臓器を取り出せば、この臓器
不足問題は解決できる。しかし、クローン人間を、あたかも動物のように扱ってもいいも
のだろうか。この作品は、そんな近未来の問題を提起しているように私には思えた。
なお、この作品は2016年にテレビドラマ化されている。


第一部
第一章
・わたしの名前はキャシー・H。いま31歳で、介護人をもう11年以上もやっています。
・わたしが介護した提供者の回復ぶりは、みな期待以上でした。
 回復にかかる時間は驚くほど短く、「動揺」に分類される提供者など、四度目の提供以
 前でさえほとんどいまでした。
・わたしがアパートや車を持ち、介護する相手を選ばせてもらうなど、どれもきっと腹立
 たしいでしょう。それにヘールシャム出身だということも。
・ルースは、わたしが選べるようになって間もなく、ほんの三人目か四人目に選んだ提供
 者です。もう別の介護人がついていましたが、何とか替わってもらいました。
 今振り返っても、ずいぶん強引なことをしたものだと思います。
 ドーバーの回復センターでルースに会った瞬間、かつて私たち二人の間にあったあれこ
 れは・・・そう、すべて消え失せたとは言いませんが、さほど重要なことではなくなり
 ました。ヘールシャムで一緒に育ち、だれも知らない二人だけの思いでもある。
 そちらのほうがずっと大切に思いました。
 わたしが介護相手に過去の知り合いを、それも、できればヘールシャムの人間を、意識
 的に選ぶようになったのは、たぶんそれからです。
 
第二章
・ヘールシャムではあれやこれやと、ほとんど毎週のように健康診断がありました。
 普通は本館最上階にある十八番教室で、トリシア看護婦に診てもらいます。
・ある晴れた朝、いつものように健診を受けに中央階段を上っていくと、先に終わって降
 りてくる生徒たちがいて、階段はすれ違う二つの列で混雑し、ざわついていました。
 前の人のかかとを見ながら、うつむきかげんで上がっていくわたしの耳元で、突然、
 「キャシー」と呼ぶ声がしました。トミーでした。
・階段を下りてくる列の真ん中で立ち止まり、開けっぴろげの笑顔を見せていました。
 見ただけで神経に障る笑顔でした。
 あと二つ三つ幼ければ、思いがけない人に偶然出会ったときにああいう笑顔もいいでし
 ょう。でも、わたしたちはもう十三歳です。
 大勢の目のある場所ですし、そのうえ男の子と女の子です。
 「トミー、少しは大人になって」思わずそう怒鳴りそうになりましたが、なんとかこら
 えて、「トミー、みんなの邪魔だよ、あなたもわたしも」と言いました。
・ちょっと恥ずかしい出来事でしたが、からかいや噂の種にならなかっただけでよしとし
 ましょう。   
 それに会談でのあの立ち話がなかったら、たぶん、次の週数間、わたしはトミーが抱え
 ている問題にあれほどの関心を持つこともなかったでしょうから。
・ヘールシャムでは年に四回、春・髪・秋・冬に一度ずつ、交換会というのがありました。
 展示即売会といってもいいかもしれません。
 ここには、わたしたちが前回の交換以後、三カ月間に作り溜めたあらゆるものを出品し
 ます。絵画あり、焼き物あり、彫刻あり、そして潰した缶やら、瓶の王冠貼り付けたボ
 ール紙やら、その時流行の素材を使ったありとあらゆる種類のオブジェがありました。
・この交換会に何かを出品すると、保護官が見て、出来栄えに応じて何枚かの好漢切符を
 くれます。そして、交換会の日、わたしたちはその切符を手に展示物を見て回り、気に
 入ったものを「買う」わけです。
 変えるものは同学年の生徒の作品だけという規則がありましたが、製作期間は三カ月と
 いう長さで、ほとんどの生徒は多作でしたから、選ぶ作品に不自由はしませんでした。
・今振り返ると、わたしたちがなぜ交換会をあれほど大事に思っていたか、わかるような
 気がします。  
 単なる物探しの場という以上に、もっと複雑な機能を持つイベントだったことも、いま
 になってみてわかります。 
 考えてみてください。誰かが何かを作っていて、いずれそれが自分の宝物になるかもし
 れないのです。当然、友人関係にも影響します。
 ヘールシャムで生徒同士がどういう目で見合うか、他の生徒にどれだけ好かれ、どれだ
 け尊敬されるか。それは、それだけいいものを作れるかにかかっていたように思います。
・数年前、ドーバーの回復センターでルースの世話をしていたときにも、思い出話の中に
 よく交換会のことが出てきました。
 二人でそんな話をしたのは、ルースの初めての提供から数カ月後、最悪の時期は脱して
 いたある夏の日のことでした。
 そのときルースがいた回復センターは、わたしも気に入っている施設の一つです。
 わたし自身、ああいうところで最期を迎えられれば、と思っています。

・ルーシー先生というのは、ずんぐりして猪首、ほとんどブルドックを思わせる体形の保
 護官でした。 
 でも、そんな外見からはとても想像できないほどの、ヘールシャムきってのスポーツウ
 ーマンでした。
 健康そのもので、体力は抜群。野外走で戦線についていける子など、年長組の男子にさ
 えあまりいなかったでしょう。

・「いままで不思議だと思いながらそのままにしてたことが、あ、やっぱり、と思えてき
 た。いつも考えてたのよ。マダムは何しに来るのかとか、なぜできのいい絵だけを持っ
 て行くのかとか。あれ、どうするんだろう」
 「展示館行きだろ?」
 「ても、その展示館っていったい何よ。ときどきやって来て、出来のいい作品を持って
 いく。もう山のように溜まっているはずじゃない。マダムはいつ頃から来てるのか、っ
 て訊いたことがあるの。そしてら、ヘールシャム創設以来ずっとだって。展示館って何
 なの。なんで、わたしたちの作品を展示するの」
 「売るんじゃないか、外で。外の世界じゃ、何でも売るみたいだから」
・トミーの話に出てきた展示館というのは、物心つく頃から私たちの意識にありました。
 みな、そういうものがあるという前提で話題にもしましたが、実際に存在するものかど
 うか、知っている人は誰もいませんでした。
・展示館が架空のものだったとしても、マダムの来訪は確固たる事実でした。
 たいていは年に二度、ときには三度も四度も来て、わたしたちの作品からできのいいも
 のだけを選んでいきました。 
 「マダム」という呼び方は、フランス人かベルギー人だという噂があったからですが、 
 保護官もいつもそう呼んでいました。
 背が高く、ほっそりして、ショートヘア。
 おそらく、とても若かったはずですが、当時は誰もマダムを若い女性などと考えません
 でした。
 いつも灰色のスーツを隙なく着こなし、冷ややかな視線で私たちを遠ざけ、もちろん口
 などきいてくれません。
 その点で、人懐こい庭師や、生活用品を運んでくるトラックの運転手など、外の世界か
 らやってくる他の人々とは違っていました。
 そんなマダムを、わたしたちは長い間「お高くとまっている」のだと思っていましたが、
 八歳の頃のある晩、ルースが新説を言い出しました。
 「怖がってるのよ」そう断言したのです。
・それから数日間、わたしたちは顔を合わせるたびにそのことを話し合いました。
 ほぼ全員がルースの意見に反対でしたが、反対されればされるほど意固地になるのがル
 ースです。 
 結局、今度マダムがヘールシャムに来たら試してみようということになり、わたしたち
 はそのための計画を練りました。
・マダムの来訪が事前に知らされることはありません。
 でも、数週間前から始まる準備のせいで、そろそろだなということは誰の目にもわかり
 ました。 
・ルースの新設を確かめるため私たちが考えた計画は、ごく単純です。
 実行するのはわたしたち六人。
 どこかに潜んでいて、マダムが近づいた時一斉に現われ、整然と通り過ぎる。それだけ
 です。
 おとなしく歩くだけですが、もしうまくタイミングが合い、マダムの不意をつくことが
 できれば、本当に私たちを怖がっているかどうかわかる、ルースはそう主張しました。
・一番の心配は、マダムがヘールシャムにいる短期間のうちに実行できるかどうかでした
 が、フランク先生の授業が終わり、窓から真下を見ると、ちょうど中庭にマダムが車を
 停めるところでした。
・マダムはまだ運転席にすわり、ブリーフケースを開けて、何か探し物をしていましたが、
 やがて車から降り、玄関に向かって歩いていきました。
 いつもの灰色のスーツ姿で、ブリーフケースを両腕で胸に抱えていました。
 ルースの合図で、わたしたちは一斉に行進を始めました。
 マダムに向かって真っすぐに、夢遊病者のように。
 マダムの足が止まり、体が硬直しました。
 マダムの直前で、わたしたちは左右二手に分かれ、それぞれ小声で「失礼します」とつ
 ぶやいて歩み去りました。
・グループ全員が起こった不思議な変化を、わたしたちは一生忘れないでしょう。
 その瞬間まで、対マダム作戦はジョークのようなもの、仲間うちで少しはっきりさせて
 おきたいことがあるというだけの、気軽な行動でした。
 対象はマダムでも、実はマダムなどどうでもよく、主役はあくまで私たち。
 多少の冒険をともなうお遊びだったのです。そう、作戦が成功したあの瞬間までは。
 マダムも、予想外の反応をしたわけではありません。
 はっと凍りつき、わたしたちが通り過ぎるのを待つ。まさに予想どおりです。
 絶叫もなく、恐怖の喘ぎもありません。
 ただ、わたしたちの神経は、マダムの反応を細大漏らさずとらえようと研ぎ澄まされて
 いました。 
 だからこそ、あの大きな衝撃だったのと思います。
 マダムが立ち止まったとき、わたしたちはその表情を盗み見ました。
 全員が同じことをしたはずです。
 そこで見た恐れとおののきが、うっかり触れられはしないかという嫌悪と、身震いを抑
 えようとする必死の努力が、今でも目の前に浮かびます。
 わたしたちはマダムの恐怖を全身で感じとり、そのまま歩き続けました。
 日向から急に肌寒い日陰に入り込んだ気がしました。
 ルースの言うとおり、マダムはわたしたちを恐れていました。
 蜘蛛嫌いな人が蜘蛛を恐れるように恐れていました。
 そして、その衝撃を受け止める心の準備が、わたしたちにはありませんでした。
 蜘蛛と同じように見られ、同じように扱われたらどんな感じがするか・・・計画時は夢
 想もしないことでしたから。
・中庭を横切り、芝生にたどり着いたときの私たちは、マダムが車から降りるのをわくわ
 くしながら待っていたグループとは別人になっていました。
 ハナはいまにも泣きだしそうでしたし、あのルースでさえうちのめされたように見えま
 した。
・いま振り返ると、そういう時期に差しかかっていたのだと思います。
 自分が誰で、保護官や外部の人間とどう違うかを少しは知り始めた時期。
 でも、単なる事実として知ることと、それの持つ深い意味を理解することは別物です。
 これに似たことは、きっとどなたも子ども時代に経験しておいででしょう。
 出来事の細部は違っても、心への衝撃という意味では似たようなことを…。
 保護官がどれほど教育上手でも、理解への最後の一歩は詰め切れません。
 いくら話を聞き、ビデオを見、討論をし、警告を受けていても、どこか他人事。
 わが身のこととしての理解までは無理でした。
 少なくとも、ヘールシャムのような施設に集まって暮らし、エミリ先生以下の優秀な保
 護官に見守られ、「坊ちゃん、お嬢ちゃん」と呼んでくれる庭師や配達人に囲まれ、
 冗談を言って笑い合うような育ち方をした、まだ8歳の私たちには到底無理でした。
・それでも、教えの一部は染み透っていたはずです。
 教えはどこかに潜み、わたしたちの一部となって、ああいう瞬間がやってくるのをじっ
 と待っていたのでしょう。
 わたしたちはそれを知らずに、きっとあの瞬間を待っていたのだと思います。
・自分は外の人間とはとてつもなく違うのだと、本当にわかる瞬間を。
 外にはマダムのような人間がいて、わたしたちを憎みもせず害しもしないけれど、
 目にするたびに「この子らはどう生まれ、なぜ生まれたか」を思って身震いする。
 少しでも体が触れ合うことを恐怖する。
 そのことがわかる瞬間、初めて人々の目で自分を見つめる瞬間、それは体中から血の気
 が引く瞬間です。
 生まれてから毎日見慣れてきた鏡に、ある日突然、得体のしれないなのか別のものが映
 し出されるのですから。

第四章
・この時間は好漢切符についての意見を述べ合いましょう、と提案しました。
 皆が色々な意見が出るなかで、ポリーがいきなり「先生」と質問したのです。
 「マダムはなぜ私たちの作品を持っていくんでしょうか」と。
・全員が一斉に黙りました。ルーシー先生はあまり怒らない方ですが、怒ったときの先生
 には出会わないのが無難です。 
 わたしたちは、一瞬、ポリーのばかと思い、先生を見ました。
 でも、先生は怒っているというより、ただ考えに沈んでいるようにみえました。
 わたしたちは、不文律を破ったポリーニ腹を立てながらも、一方では、先生が何と答え
 るだろうか、とひどく興奮してもいました。
・先生が口を開くまで、ずいぶん待ったような気がします。
 「ちゃんとした理由がある…と、いまはそれだけしか言えません」と先生は言いました。
 「とても大切な理由があります。いま説明しても、まだ理解してもらえないでしょうが、
 いつか、どなたかがちゃんと説明してくれるといいですね」
 わたしたちは、先生をそれ以上追及しませんでした。
 
第五章
・秘密親衛隊ごっこがどれほどの間つづいていたか、はっきりした記憶はありません。
 ドーバーで世話をしていたときのルースは、ほんの二、三週間だった、と言っていまし
 たが、それは違うと思います。
 たぶん、あまり思い出したくないことだったのでしょう。
 わたし自身は、九ヵ月から一年ほども続いたような気がします。
 わたしたちが七歳、年内に八歳になろうという歳頃でした
・秘密親衛隊がルースの発案だったかどうかは知りませんが、隊長が誰だったかは疑いよ
 うがありません。 
 隊員の数は六人から十人。
 ルースが新人を引っ張ってくれば増え、誰かを除名すれば減りました。
 親衛隊はみな、ジェラルディン先生こそヘールシャム一番の保護官だと信じ、先生に渡
 すプレゼントをせっせと作ったりしました。
 親衛隊を名乗っている以上、最大の任務は、もちろん、ジェラルディン先生の護衛でし
 た。
・ごっこ遊びなどすぐ飽きて当然なのに、なぜあれがつづいたのか、ルースが熱心だった
 から、と言って片づけるのは簡単です。
 確かに、ルースにとって親衛隊は重要でした。
 ルースこそ誰よりも早くから誘惑計画の存在に気づいていた人物で、それを権威の拠り
 どころにしていましたから。
・わたしは、ルースがチェスに詳しいと思い込み、ぜひ習いたいと思っていました。
 根拠のない思い込みではありません。
 年長の生徒が窓際や芝生でチェス盤を囲んでいるのに出会うと、ルースはよく横に立ち
 止まって盤面をじっと見つめていました。
 やがてまた歩き出し、しばらく行ってから、どっちも気づいていないうまい手があった、
 と教えてくれるのです。
 そして首を横に振りながら、あれを見逃すなんて、とつぶやきます。
 わたしは憧れました。
 あの奇麗な細工のある駒を自在に操ってみたいという思いに取りつかれ、販売会でチェ
 スセットを見つけたときは、恐ろしいほど交換切符が必要だったのに、すぐに買うこと
 を決めました。
 ルースがさし方を教えてくれるものと思っていました。
・でも、次の数日間、私が頼もうとするたびに、ルースは溜息をつき、いまどうしてもや
 らなければならない用事があるから、と言うばかりでした。
 ある雨の日の午後、私はとうとうルースをつかまえ、ビリヤード室にチェス盤を持つ込
 みました。 
 そこでルースが教えてくれたのは、チェッカーを少し変えたようなゲームでした。
 とても信じられないことで、わたしはひどくがっかりしました。
 でも、口には出さないように気をつけ、しばらくルースに付き合いました。
 やがて、これをとれば私の勝ちというとき、それはだめ、とルースが言いました。
 それじゃ駒の動きが真っ直ぐすぎるから、と。
・わたしは立ち上がり、チェスセットをしまい込んで、部屋を出ました。
 チェスなんて知らないんじゃないの。
 口から出かかりましたが、いくらがっかりしても、詰問まではできません。
 でも、わたしが憤然と出ていったこと自体が、ルースにはこたえたのでしょう。
・たぶん、翌日だったと思います。
 私は教科書を両手に抱え、ルースたちがおしゃべりしているところへ歩いていきました。
 額を集めてひそひそ話している様子から、親衛隊のことを話し合っているのだとわかり
 ました。
 ルースとの気まずい出来事はほんの前日でしたが、私はなぜか何のためらいもなくルー
 スたちに近づきました。
 そしてその相談の環に顔を突っ込もうとしたとき、メンバー同士が目配せし合ったよう
 な気がしました。
 その間、わたしには、これから何が起こるかがわかりました。
 みなが黙り込み、わたしをじっと見る前に、わたしはもう痛みを感じていました。
 ルースの言葉が聞こえてくる前に・・・。
 「あれ、キャシーじゃない。こんにちは。悪いけど、ちょっと相談事があるの。すぐす
 むからね。ごねん」と。
・ルースがそう言い終わるより、わたしが背を向けて、部屋から出ていった方が早かった
 かもしれません。
 ルースや仲間たちより、自分自身に腹が立ちました。
・ジェラルディン先生にまつわるあれこれを考えていると、その三年後に起きたことも思
 い出します。 
 わたしたちは本館裏側一階の五番教室で、授業が始まるのを待っていました。
 あの冬の朝、ルースが椅子にすわり、私は机の蓋にすわっていました。
 あと、グループの二、三人が近くにひしめいていて、私は横にもう一人すわらせてあげ
 ようと思い、お尻を少しずらしました。
 その時、見たこともない筆入れが机の上にあるのに気づきました。
・茶褐色の地に赤い水玉模様。
 磨きたての靴のようにぴかぴかした筆入れでした。
 危うくお尻の下敷きになるところを、ルースがすばやくわきにどけたのですが、もちろ
 ん、私の目に留まることは計算済みだったでしょう。
 わたしは「あら、それ、どうしたの。販売会で買ったの?」と尋ねました。
・近くにいた女の子たちが聞きつけ、すぐに四、五人が寄ってきました。
 みな目を丸くして、その筆入れに見とれていました。
 ルースはしばらく何も言わず、周りに集まった顔を順繰りに眺めていて、やがて思わせ
 ぶりな口調でこう言いました。
 「そうしておこうかな。販売会で、ね?」
 そして、意味ありげな笑いを浮かべました。
・わたしにとっては、ルースがいきなり立ち上げり、なぐりかかってきたような衝撃でし
 た。体がかっと熱くなり、同時に心がすうっと冷たくなって、しばらく呆然としていた
 と思います。 
 答えと笑いの意味は明らかでした。
 これはジェラルディン先生からのプレゼント、ルースは暗にそう言っていました。
・間違いようがありません。何週間も前から、そう思わざるを得ないような雰囲気作りが
 なされていたのですから。 
 ルースのあの笑みとあの声、ときには唇に指をあてるしぐさや、大仰な手の動き。
 ジェラルディン先生に特別に目をかけられ、贔屓されていることを、それとなくほのめ
 かしたい時のルースの常套表現でした。
・いつもそうでした。はっきり言葉にはしないのです。
 あの笑みと「これ以上は言わぬが花」というあの表情。
 いつもほのめかすだけで、わたしたちが勝手に想像するように仕向けていました。
・もちろん、保護官の依怙贔屓などあってはならないことです。
 でも、建て前は建前として、ある程度のことはしょっちゅう起こっていましたし、ルー
 スがほのめかしていたようなことは、とくに目に余ることとも言えなかったでしょう。
 それでも、私はルースの思わせぶりが気に入りませんでした。
・あの冬の朝、五番教室で起こったことは、まさに青天の霹靂でした。
 筆入れは見ました。でも、それが保護官からのプレゼントだなんて…。  
 そんな思いがけない展開に、私はまともに不意打ちをくらい、感情の波立ちをいつもの
 ようにやり過ごせませんでした
・五番教室でのあの朝以後は、しばらく放心状態でした。
 会話中に頭が真っ白になったり、心ここにあらずで、いつのまにか授業が終わっていた
 り・・・。
 ルースに勝ち逃げさせないという思いだけはありましたが、そのために何をするという
 でもなく、長い間、ただルースの嘘をあばき、全部作り事でしたと認めさせる場面をい
 ろいろと夢想し続けました。
・そんな状態でも、さすがに数日もすれば物事を現実的に考えられるようになります。
 あの筆入れがジェラルディン先生からのプレゼントでないなら、では、どこから?
 他の生徒からもらったとは、ちょっと考えられません。
 あれだけ目立つ筆入れです。
 誰かの持ち物だったら、たとえ上級生のものだとしても、誰の目にも止まらなかったは
 ずがりません。
 すでにヘールシャムのだれかに見られているかもしれないのに、ルースがあんな話をこ
 しらえるでしょうか。それは危険です。
 とすれば、そう、まず間違いなく販売会で手に入れたものでしょう。
 普通の販売会なら、ルースが買う前に誰かが見ている危険もありますが、もし、あの筆
 入れのことを生徒会委員の誰かから聞いて、販売会当日以前に確保してもらっていたら
 ・・・?
 してはならないことですが、ときに行われていたのも事実です。
 これなら、ほぼ誰にも知られずに手に入れられます。
・ルースにとって不運なことに、販売会で売れた品物は、購買者の名前とともに販売台帳
 に記載されることになっていました。 
 この台帳は、販売会の終了後、生徒会委員の手でエミリ先生のオフィスに運ばれますか
 ら、そう簡単には見られません。
 でも、最高機密ではないことも確かです。
 次の販売会で、委員のそばをうろついていれば、隙を見てページをぱらぱらとめくるぐ
 らい、さほど難しいことではないでしょう。
・私はざっと計画を立てました。
 何日間もかけて作り直し、練り直しましたが、ふと、こんな面倒な手間をかける必要は
 ないことに気づきました。 
 筆入れが想像通り販売会の商品だったのなら、後は、はったりで何とかなるではありま
 せんか。
・こうして、ルースとわたしの二人、軒下で雨宿りしながらのあの日の会話となったので
 す。
 これこそ待ち望んでいた絶好の機会ではないか・・・私は次第に緊張してきました。
 何かが起こりそうだということは、きっとルースも感じていたでしょう。
 わたしは、思い切ってぶつけてみることにしました。
 「先週火曜日の販売会でさ、わたし、あれ見たよ。あの販売台帳ってやつ」
 「台帳?また、なんでそんなもの?」
 ルースはすぐに反応しました。
 「台帳なんて見て、どうするつもりだったのよ」
 「特に理由はなし。ただ、クリストファーが生徒会委員の一人でしょ?だから、ちょっ
 と話をね。で、話をしながら、そこにあった台帳をなんとなくぱらぱらと」
・ルースの頭がフル回転しているのがわかりました。
 私が何を言おうとしているかもわかったはずです。
 でも、落ち着いた口調で、「また、ずいぶん退屈なものを」と言いました。
・「そうでもない。なかなか興味深いよ。誰が何をかったのか、みんなわかるんだもの」
 私は雨に向かってそう言った後、ちらりとルースを見てショックを受けました。
 わたしは何を期待していたのでしょうか。
 それまでの一カ月間、ありとあらゆる空想や妄想を描きながら、実際にいま起こりつつ
 あるような状況になったらどうするか、一度も考えたことがありませんでした。
 目の前に取り乱したルースがいます。
 今度ばかりは一言も発せず、涙をこぼしそうにして、そっぽ向いています。
 わたしは、なんということをしたのでしょうか。
 あれだけの努力をして、計画を立てて、それは何のため?最も近しい友人を苦しめるた
 め?
・確かに、ルースは筆入れのことで嘘をつきました。
 でも、だからどうだというのでしょう。
 あの保護官やこの保護官が私のためだけに規則を曲げ、何か特別のことをしてくれる、
 それは誰もがときおり夢見ていたことではありませんか。
・わたしは惨めになり、混乱しました。
 二人並んで立ち、霧と雨を見つめながら、自分がしたことの後始末をどうしたらよいか
 わからずにいました。 
 結局、ありきたりのことを言ったと思います。
 数秒間の沈黙ののち、ルースは雨の中に歩み去っていきました。
 
第六章
・もう取り返しがつかないのか、私は次第に悲観的になっていきました。
 ある夕方、体育館の外に並ぶベンチのひとつにすわり、仲直りの方法を思案しながら、
 後悔と苛立ちに堪えきれず泣きだしそうになったのも、その頃でした。
 あのままの状態が続いていたらどうなっていたのか、とよく考えます。
 実際には、思いがけないところから大きなチャンスがやってきました。
・ロジャー先生の美術の授業でのことでした。
 何かの事情があって、専制は途中で教室を出ていってしまい、残されたわたしたちはお
 しゃべりをしながら、互いのイーゼルからイーゼルを歩き回り、作品をながめ合ってい
 ました。 
 そのとき、一学年上のミッジという女子生徒がわたしたちのいる辺りにやって来て、
 親しげにルースに話しかけました。
 「あんた筆入れはおどこよ。あのかっこいいやつ」
・ルースは緊張し、ちらりと辺りを見回しました。
 誰が近くにいるか確認したのでしょう。
 いたのはいつもの仲良しグループと、たまたま近くをぶらぶらしていた二、三人でした。
 わたしは販売台帳のことをだれにも話していまでんでしたが、ルースはそれを知りません。
 普段より低い声で、ミッジにこう答えました。
 「ここにはないのよ。宝箱にしまってあるから」
 「あれ、かっこいいよね。どこで手に入れたの」
・ミッジに他意がないことは、見ていて明らかでした。
 ルースは明らかに返事をためらっていました。
 千載一遇のチャンスだった…と、後から振り返り、頭の中で状況を再現してみて、しみ
 じみと思います。 
 でも、その時は考えるより直観で動いていました。
 ルースの様子がおかしいとミッジや仲間が感じ始める前に、わたしが割って入りました。
 「そんなの教えられるわけないじゃん」
 ルースもミッジも、ほかの子も、少しびっくりした様子で一斉に私を見ました。
 わたしは平然としてミッジにだけ話しかけました。
 「教えられないちゃんとした理由があるのよ」
 ミッジはがっかりしたように肩をすくめました。
 「じゃ、秘密ってこと」
 「そう、大きな秘密」
 わたしはそう言って、ただの意地悪で言っているのではないことを示すために、ミッジ
 に笑顔を向けました。
・仲間たちもうなずいて、わたしに同意してくれました。
 ルース自身は複雑な表情でした。
・販売台帳の件では、わたしが真正面からルースに仲直りを持ちかけられませんでした。
 今度はルースが同じ状況です。
 本心では、ミッジの詮索をさえ切ってくれたことを感謝したかったでしょうが、わたし
 と同じ理由から、表立ってそれができません。
 でも、その後の数日間、いえ、数週間は、態度がはっきり変わり、わたしに好意を示し
 たがっていることが見てとれました。 
 つい最近まで同じ立場にあった私ですから、手に取るようにわかりました。
 ルースはお返しに、私に何か特別に親切にする機会を探している…。
 白状すると、なかなかいい気分のものでした。
・ミッジの件から一カ月ほど後に、ルースの求めていた機会が訪れました。
 私が大事なテープをなくしたのです。
・そのテープはまだ私の手元にあります。
 それは、ジュディ・ブリッジウォーター「夜に聞く歌」というアルバムです。
 いま持っているのは、わたしがヘールシャムでなくしたカセットそのものではなく、
 何年か後にトミーと二人でノーフォークで見つけたものです。
・もともとはLPレコードだったようですが、私が持っていたのは、カセット版で、ジャ
 ケットの写真もLPジャケットのそれを縮小したものだと思います。 
 このジャケットで気になるのは、ジュディの両肘がカウンターにあって、一方の手に、
 火のついたタバコがあることです。
 販売会でこのテープを見つけたときから、何となく人目にさらすのがはばかれたのは、
 このタバコのせいでした。
・他の施設ではどうだったか知りませんが、ヘールシャムでは、保護官が喫煙にとても厳
 しい態度をとっていました。 
 できれば、喫煙などと言う行為そのものを知られたくなかったのでしょうが、それは不
 可能でしたから、タバコという言葉に神経をとがらせ、聞こえるたびに必ずお説教を忘
 れませんでした。
 いくら古典的名作でも、主人公がタバコを吸い過ぎるような本は、ヘールシャムの図書
 館にはないという噂もありました。
 喫煙の害についての正式な授業もあって、タバコが体内にどんな害を及ぼすかを、ひど
 い写真の数々で教えられました。
・わたしたちは芝生にすわり、ルーシー先生からいつもの禁煙の教えを聞いていました。
 そのとき、マージが突然手をあげて、先生はタバコを吸ったことがありますか、と尋ね
 たのです。
 先生はしばらく沈黙して、こう答えました。
 「ない、と言いたいところだけど、正直に言うと、しばらく吸ったことがあります。二
 年間くらいかな、昔ね」
・わたしたちの受けた衝撃を想像していただけるでしょうか。
 先生が答える前、わたしたちは全員でマージをにらみつけていました。なんて無礼なこ
 とを訊くの、と。
・でも、先生が喫煙をしたと言ったあの瞬間、わたしたちはもううろたえるばかりで、
 マージにかまうどころではありませんでした。 
 何か恐ろしいものを見るように先生を見つめ、その口から次に何が飛び出してくるのか
 と緊張していました。 
・先生はようやく口を開き、言葉を慎重に選びながらこう言いました。
 「タバコを吸ったのはよくないことでした。たから、やめました。でも、これはよく理
 解しておいて。わたしにとっても悪いことだけれど、あなた方にとってはもっとずっと
 悪いことなの」
・そう言って、先生は黙り込みました。
 あとになって、ぼうっと白昼夢でも見ていたんだろう、と言う生徒もいましたが、私は、
 ルースも、そうは思いませんでした
 次に言うべきことを真剣に考えていたのだと思います。先生はこう言いました。
 「あなた方も教わっているでしょう。あなた方は、特別な生徒です。ですから体を健康
 に保つこと、特に内部を健康に保つことが、わたしなどよりずっとずっと重要なのです」
・先生はそこでまた口を閉じ、実に奇妙な表情で私たちを見ました。
 後になってこの時のことを話し合っている中で、「先生は質問されるのを待っていたの
 よ」と言う子がいました。わたしたちにとってずっと悪いって、それはんぜ、と。
 でも、誰も訊きませんでした。
 あれ以後のことを考え合わせると、わたしにはいま確信に近いものがあります。
 あのときひと言訊いていれば、先生はすべてを話してくれていたでしょう。ただひと言、
 なぜ、と・・・・。
・あの日、わたしたちはなぜ黙っていたのでしょうか。九歳、十歳の子供でした。
 でも、そんな年齢でも、微妙な話題であることを薄々感じていたのだと思います。
 当時の私たちが何をどれだけ知っていたか、いまとなってはわかりません。
 でも、自分が保護官とは違うこと、外の世界の人とも違うことはわかっていたはずです。
 ひょっとしたら、もちろん、浅く、不完全な理解ではあったでしょうが、将来に提供な
 るものが待っていることも知っていたかもしれません。  
 わたしたちに特定の話題を避ける傾向があったとすれば、それはたぶん違和感のせいだ
 ったと思います。
 わたしたちがその話題に近づきそうになると、いつも冷静沈着な保護官が急にそわそわ
 し始めます。
 それが、わたしたちには奇妙であり、嫌でした。
 そんなふうに変わる保護官を見たくありませんでした。
・ともあれ、わたしがテープをひと目にさらしたくなかった理由はタバコです。
 ジャケットを裏返してジュディとタバコを隠し、プラスチックケースを開けないと見え
 ないようにしていました。 
・このテープを私にとって特別なものだったのは、先頭から三曲目に「私を離さないで」
 があったからです。
 スローで、ミッドナイトで、アメリカン。
 「ネバーレットミーゴー・・・オー、ベイビー、ベイビー・・・私を離さないで・・・」
 このリフレーンが何度も繰り返されます。
 わたしは十一歳で、それまで音楽などあまり聞いたことがありませんでしたが、この曲
 にはなぜか惹かれました。
 いつでもすぐ聞けるように、必ずこの曲の頭までテープを巻き戻しておきました。
・この歌のどこがよかったのでしょうか。
 ほんとうを言うと、歌全体を聞いていたわけではありません。
 聞きたかったのは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というフィルレーン
 だけです。聞きながら、いつも一人の女性を思い浮かべました。死ぬほど赤ちゃんが欲
 しいのに、産めないと言われています。
 でも、あるとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれます。
 その人は赤ちゃんを胸に抱きしめ、部屋の中を歩きながら、「オー、ベイビーベイビー、
 わたしを離さないで」と歌うのです。
・歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ、とは当時の私
 でもわかっていました。  
 でも、気にしませんでした。
 これは母親と赤ちゃんの歌です。
 わたしは暇さえあれば、飽きずに何度でもこの歌を聞いていました。
・その頃にあった不思議な出来事も、ぜひここでお話しておきましょう。
 とても気になる出来事でした。
 裏に隠れた本当の事情を知るのは何年も後になりますが、何か深い意味があることだけ
 は、あのときの私にも感じられました。
・晴れた日の午後でした。何かを取りに寮に戻ったのだと思います。
 テープを聞くつもりで戻ったのではありません。
 でも、せっかく一人きりになれたことでもあり、半ば衝動的に宝箱からカセットを取り
 出して、プレーヤーに差し込みました。
・たぶん、直前に使った人が音量を上げていたのだと思います。
 いつもよりずっと大きな音で曲が鳴りだしました。
 人の気配にすぐ気づかなかったのはそのせいでしょう。
 それに、どうせ一人きりだという油断があったかもしれません。
 いずれにせよ、その時、私は胸に赤ちゃんを抱いているところを想像しながら、曲に合
 わせてゆっくりと体を揺らしていました。 
 いえ、きまり悪いことに、単なる想像だけならまだよかったのですが、赤ちゃんに見立
 てて枕を抱いていました。
 そして、目を閉じ、リフレーンを一緒に歌いながら、スローダンスを踊っていました。
 「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで・・・」
・曲が終わる直前でした。何かを感じ、部屋に誰かいるような感じがして、ふと目を開け
 ました。 
 すると、目の前にある戸口の向こうに、マダムが立っていたではありませんか。
・一瞬、私はショックで硬直しました。
 でも、一秒、二秒とたつうちに、今度は別の驚きに襲われました。
 実に奇妙なことが起こっていました。
 寮では、就寝時以外、ドアを完全には閉じないという決まりになっていて、あの時もド
 アは半開きになっていました。 
 なのにマダムは部屋に入って来ようとせず、敷居の向こう側の廊下にじっと立っていま
 した。その位置から頭を一方に傾げ、ドアの内側をのぞき込むようにして、わたしを見
 ていました。
 そして・・・泣いていたのです。
 わたしを夢心地から引き戻したのは、いま思うと、マダムのしゃくりあげるような泣き
 声だったかもしれません。
・マダムはただ廊下に立ったまま、泣き続けていました。
 気味の悪いものでも見るようなあのいつもの眼差しで、ドアの向こうからわたしを見て、
 しゃくりをあげていました。
 ただ、あのときは、それに何かが加わっていたような気がします。
 わたしにはうかがい知れない何かが、あの眼差しには含まれていました。
・戸惑っている私の前で、マダムはくるりと背を向け、次の瞬間、寮から走り出ていく足
 音が聞こえました。 
 ふと気づくと、次の曲が始まっていました。
 私はあわててプレーヤーを止め、近くのベッドにへたり込みました。
 前方の窓から外を見やると、本館に急ぎ足で帰っていくマダムが見えました。
 振り返りはしませんでしたが、背中を丸めている様子から、まだしゃくりをあげている
 ことがわかりました。
・数分後、私は仲間のところへ戻りました。
 いま起こったことは黙っていました。
 わたしの様子がおかしいことに気づいた子がいて、理由を訊いてきましたが、わたしは
 ただ肩をすくめただけで、何も言いませんでした。
 恥ずかしかったから?いえ、恥ずかしいのとはちょっと違います。
 以前、車から降りてくるマダムを中庭で待ち伏せしたことがありました。
 あのときと同じ思いでした。
 あのとき、こんなことは絶対起こってほしくなかった、とどれほど後悔したでしょう。
 いまも、私自身のため、みなのため、黙っていることが最善だろうと思いました。
・ただ、二年ほどして、トミーには話しました。
 寮でマダムとの間にどんなことが起こったかを話すと、トミーはかなり単純な答えを返
 してきました。 
 もちろん、その二年間で、わたしたちは以前知らなかったことをいろいろ知るようにな
 っていました。
 例えば、誰も赤ちゃんを産めない体だ、とか。
 ですから、可能性としては、私がまだ幼いころにどこかでそのことを小耳にはさみ、
 意味の分からないまま頭の隅にしまい込んでいたということも考えられます。
 それなら、あの歌を聞いて、過ぎに「ベイビー」から「恋人」でなく「赤ん坊」を連想
 したことの説明もつきますが、当時の私がそれを意識していなかったことは確かです。
 ともあれ、二年後にトミーに話した時点では、もう生徒全員がはっきり教えられていま
 した。
 さほどのショックはありませんでした。
 深刻に悩む生徒は一人もおらず、むしろ、煩わしいこと抜きでセックスができるじゃな
 いか、と喜んだ生徒もいたほどです。
 本格的なセックスなど、わたしたちにとってまだまだ先のことでしたけれど・・・。
 ともあれ、あの日のマダムのことを話すと、トミーはこう言いました。
 「たぶん、マダムは悪い人じゃないんだ。気味悪いけどね。君がそうやって赤ん坊を抱
 いて踊っているのを見て、これは悲劇だと思ったんだよ。赤ちゃんが産めないってこと
 がさ。それで泣いたんじゃないかな」
・マダムのことがあってから二、三カ月後、テープがなくなりました。
 ほかの子たちがバスルームから戻ってくるのを待つ間、暇つぶしに宝箱の中を引っ掻き
 回しました。
 そして、テープが見えないことに気づいた瞬間、まず頭に浮かんだのは、なぜか、自分
 のパニック状態を悟られてはならない、と言うことでした。
 なぜ隠したかったのか…あれから何度も考えましたが、いまだにどう説明していいかわ
 かりません。
 たぶん、わたしにとっていかに大切なテープか、みなには秘密にしていたことと関係が
 あるでしょう。
・テープがないことに気づいた夜、私は部屋の全員に尋ねて回りました。
 当然、ルースにも尋ねました。
 いま思うと、テープの紛失が私にとってどれほどの重大事か、ルースはその場で悟った
 に違いありません。
 同時に、わたしが大騒ぎにしたくないと思っていることにも気づいたでしょう。
 ですから、その場ではこれと言った反応を示さず、ただ肩をすくめるだけで、やりかけ
 のことを続けていました。
・それから二週間ほどして、わたしがもうとうに諦めていた頃、ルースがお昼休みに私を
 探しに来ました。
 ルースはわたしを見つけると、ちょっと散歩しよう、と誘いました、
 いかにも何か話したいことがあるふうでしたから、ルースのあとをついていきました。
 しばらく丘の下の風景を眺めながら立っていると、唐突に、ルースが小さな紙袋を差し
 出しました。 
 直観的に中身はカセットテープだと思い、心臓がどきんとしました。
 でも、ルースがすぐに申し訳なさそうな顔でこう言いました。
 「あのね、キャシー。それ、あなたのじゃないのよ。あなたのは・・・何とか探してあ
 げようと思ったけど、ほんとうになくなったみたい」
・わたしは袋からテープを取り出しました。
 正直、がっかりしていて、テープをためつすがめつしながらも、落胆の表情を隠しきれ
 ていなかったかもしれません。 
・それは「ダンス曲二十選」というテープでした。
 後で再生してみるまで、内容はわかりませんでしたが、似ても似つかないものだろうと
 は、手渡されたときに想像がつきました。
 でも、思えば、ルースには違いがわかるはずがなかったのです。音楽の「お」の字も知
 らないルースでした。
 きっと、このテープが前のテープの代わりになると信じて手に入れてくれたのでしょう。
 そう思ったとき、わたしの落胆はたちまち薄れていき、心の底から感謝の念と幸福感が
 湧いてきました。
 私は両手でルースの手を握りしめ、お礼を言いました。
・「この前の販売会で見つけてさ」とルースは言いました。
 「あんたの好きそうなやつかなと思って・・・」
 「うん」と私は答えました。「こういう曲が好きなんだ」と。
・いまでもそのテープを持っています。
 とくにどうこう言うような音楽ではなく、聴くこともあまりありません。
 テープ自体が、ブローチや指輪同様の思い出の品です。
 ルースがいなくなった今、わたしに残された大切な宝物の一つです。
  
第七章
・ヘールシャムでの最後の数年間、十三歳から十六歳で巣立つときまでをお話ししましょ
 う。わたしのヘールシャム時代の記憶は、最後の数年間とそれ以前という二つにはっき
 り分かれています。
・思えば、池の端でのトミーとの立ち話が、二つの期間をわける境目だったのかもしれま
 せん。少なくとも私にとっては、あれが一つの転換点でした。物事を見る目が大きく変
 わったと思います。
 それまでは微妙な問題から尻込みしていた私が、あれを境に物事を直視し、疑問を持つ
 ようになりました。声を出さないまでも、心の中でいつも問いかけていました。
・一番変わったのはルーシー先生を見る目です。
 先生の姿があるところでは、かならず注意深く観察をし続けました。
 もう単なる好奇心からではなく、重要な手がかりを得るための情報源としてです。
 次の一、二年、私は先生の言うこととすることを子細に見つづけ、仲間たちがあっさり
 見逃していたいくつもの興味深い事実に気づきました。
・どうもルーシー先生は他の保護官と少し違うようだ、と私は思い始めました。
 先生の心配や悩みがどんな性格のものだったのか、当時はすでに分かりかけていた・・
 といいたいところですが、さすがにそれは言い過ぎでしょう。
 たぶん、そうしたことに気づきはしたものの、それをどう解釈したらよいか見当もつか
 ずにいた、というのが正直なところでしょうか。
・当時、わたしたちは十五歳。ヘールシャムでの最後の一年を迎えていました。
 その日はラウンダーズの試合をすることになっていて、体育館で着替えなどの準備をし
 ていました。
 ちょうど男子生徒が色気づきはじめた頃で、わたしたち女子生徒との接触を目的にラウ
 ンダーズに殺到しましたから、あの日の体育館には男女合わせて三十人以上もいたでし
 ょうか。
・ルーシー先生のことをすっかり忘れ、ローラと大笑いしているとき、突然、周囲が静ま
 って、先生が何かしゃべっていることに気づきました。
 「違う、違う・・・。ごめんなさい。でも、ちょっと口をはさませてもらいますよ」
 先生はそう言いました。
 話しかけている相手は、先生の目の前のベンチに座っている二人の男子生徒です。
 声の調子が特に変ということはありませんでしたが、大きさが違いました。
 大勢の生徒に何かを発表するという感じの大声でしたから、全員の耳に届いて、それで
 おしゃべりが止んだのでしょう。
 「ピーター、悪いけど、やめて。もうこれ以上黙って聞いていられない」
・先生は視線をあげ、わたしたち全員を見渡して、一度、大きく息を吸い込みました。
 「いいわ、あなた方全員に聞いてもらいます。そろそろ誰かが話してもいい頃でしょう」
 先生はしばらく私たちを見つめ、わたしたちは待ちつづけました。
 わたしたちには、先生が何も言わないうちから、重大な何かだとわかりました。
 「立ち聞きするようなことになって、君たちにはすまないと思っています。でも、私の
 すぐ後ろですからね、嫌でも聞こえてしまいました。ピーター、いまゴードンに言って
 いたこと、みなにも聞かせてあげて」
 ピーターは仕方ないと肩をすくめました。
 「映画俳優になれたらいいな、と話しました。スターの人生ってどんなだろうって」
 「そう」と先生は言いました。
 「で、俳優になるにはアメリカに行くのが手っ取り早い。そうも言っていましたね?」
 ピーターはまた肩をすくめ、おとなしく「はい、先生」とつぶやきました。
・先生は、今度はわたしたち全員を見て、こう言いました。
 「悪気のないことはわかっています。でも、この種のいい加減な話が横行しすぎていて、
 わたしの耳にもよく入ってきます。なのに誰も止めようとしません。それはいいことで
 はありません。」
 「他に言う人がいないのなら、あえて私が言いましょう。あなた方は教わっているよう
 で、実は教わっていません。それが問題です。形ばかり教わっていても、誰一人、本当
 に理解しているとは思えません。そういう状態をよしておしておられる方々も一部にい
 るようですが、わたしはいやです。あなた方には見苦しい人生を送ってほしくありませ
 ん。そのためにも、正しく知っておいてほしい。いいですか、あなた方は誰もアメリカ
 には行きません。映画スターにもなりません。先日、誰かがスーパーで働きたいと言っ
 ていましたが、スーパーで働くこともありません。あなた方の人生はもう決まっていま
 す。これから大人になっていきますが、あなたがたには老年はありません。いえ、
 中年もあるかどうか・・・。いずれ臓器提供が始まります。あなた方はそのために作ら
 れた存在で、提供が使命です。あなた方は一つの目的のためにこの世に生み出されてい
 て、将来は決定済みです。ですから、無益な空想はもうやめなければなりません。間も
 なくヘールシャムを出ていき、遠からず、最初の提供を準備する日が来るでしょう。
 それを覚えておいてください。みっともない人生にしないため、自分が何者で、先に何
 が待っているのかを知っておいてください」
・そして、口をつぐみました。でも、私の印象では、先生の頭の中でさらに何かを言い続
 けていたのだと思います。
 視線がわたしたちの顔から顔へ、何かを話しかけるように何度も往復しましたから。
 やがて、くるりと背を向け、また雨の運動場を見はじめました。
 わたしたちは、ほっと溜息をつきました。
・先生が言ったことは、それで全部だったと思います。
 数年前、ドーバー雄回復センターで話したとき、ルースは「もっといろいろ言われたよ
 うな気がする」と言っていました。提供を始める前にまず介護人をすることとか、提供
 にいたるまでの流れとか、回復センターのこととか・・・。
 でも、わたしは、多分、それはなかったと思います。
 確かに、最初はそこまで話すつもりだったのかもしれません。
 でも、いざ話始めると、目の前に私たちの困ったような、居心地の悪そうな顔があり、
 とても最後まで説明しつづけることはできないと悟ったのでしょう。
・ルーシー先生の突発的発言がわたしたちにどう影響したか・・・はっきりは言えません。
 噂はすぐに広まりました。
 でも、興味の中心は、先生の話の内容より先生ご自身のことでした。
 例えば、一時的に頭いかれたんじゃないか、と言う生徒がいました。
 先生が言おうとしたことは話題にならず、たまになっても、「だから何だよ。そんなこ
 と、とっくに知ってたじゃん」という反応が普通でした。
・わたしたちは、確かに知っていたのです。
 でも、本当には知りませんでした。
 数年前、このときのことをトミーと振り返っていて、先生の「教わっているようで、教
 わっていない」説に話が及んだとき、トミーがこんなことを言いました。
 「何をいつ教えるかって、全部計算されていたんじゃないかな。保護官がさ、ヘールシ
 ャムでのおれたちの成長をじっと見てて、何か新しいことを教えるときは、ほんとに理
 解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、
 できないなりに少しは頭に残るだろ?その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分
 でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」
・確かに、わたしたちはずっと以前から、もう六、七歳の頃から、ぼんやりとですが、提
 供のことを知っていたような気がします。
 成長して、保護官からいろいろなことを知らされたとき、そのどれにも驚かなかったの
 はなぜか。
 言われてみれば不思議です。
 以前どこかで聞いた気がするということばかりでした。
・いま思い出すのは、本名苦的な性教育が始まったときのことです。
 確かに、どの保護官も性と提供をないまぜにして話す傾向がありました。
 当時、わたしたちは十三歳くらい。
 ちょうど性について心配したり、わくわくしたりする年齢ですから、ほかの話を添えら
 れても、そちらのほうは上の空だったでしょう。
 保護官が性の話題にかこつけて、わたしたちの将来の重大事をこっそり語っていた可能
 性もないではありません。 
・わたしたちが赤ちゃんを産めないという重大事実も、そうやって教えられたような気が
 します。
 性教育では、エミリ先生ご自身がかなりの時間を受け持っていました。
 ある授業で、生物学教室から等身大の骨格模型を持ち込み、それを使ってセックスとは
 どうするのかを見せてくれたことがあります。
 先生が骸骨をあれこれねじ曲げ、棒であちこち指し示すのを、わたしたちはびっくり仰
 天し、目を丸くして見ていました。
 先生は何の気恥しさも見せず、地理の授業とまったく変わらない態度で、セックスの仕
 組みを淡々と説明していきました。
 何がどこにどう入り、どんな入れ方があるのか・・・。
・卑猥な姿勢の骨格模型をそのまま机に放り出し、いきなり私たちに向き直って、
 「相手は慎重に選ばなければなりません」
 と話しはじめました。
 「病気はもちろんですが、問題はそれだけではありません。性行為は思いがけない形で
 感情を動かします。外の世界での性行為には、くれぐれも慎重で会ってください。施設
 卒業生以外の人とする時は注意が必要です。外の人にとって、性はとても大きな意味を
 持っていて、誰が誰としたかで殺し合いさえ起こるほどです。その重要性はダンスやピ
 ンポンなどとは比較になりません。もちろん、それだけの理由があります。それは、
 外の人があなた方と違い、性行為で赤ん坊ができるということです。ですから、誰が誰
 とするかがとても重要なのです。あなた方には、知っての通り赤ん坊が生まれません。
 それでも、外の世界で生活するかぎり、周囲と同じように振舞わなければなりません。
 外のルールに従い、性を特別なものとして扱ってください」
・「教わっているようで、教わっていない」とは、こういうことだったのかもしれません。
 わたしたちの注意をセックスに引きつけておいて、その間にほかの内容を忍び込ませる。
 たぶん、あの日のエミリ先生の授業がその典型だったのでしょう。
・「ファスナーで開閉」という冗談が、提供全般についての冗談としてはやり始めたから
 です。そのときが来たら、体の該当部分のフスナーを引っ張ればいい。そこがスパッと
 開いて、腎臓でも何でもひょいと取り出して、手渡せる・・・。
 それ自体はたいして面白くもない冗談でしたが、誰かの食欲をなくさせる手段としては
 かなり効果的でした。
 例えば、脇腹のファスナーを開け、取り出した肝臓を相手のお皿にどさりと載せるので
 す。 
・「ファスナーで開閉」の冗談は、その後もたびたび繰り返されました。
 純粋に笑いをとり、夕食時に誰かを食欲不振にし、そして、たぶん、将来への心構えを
 作るための冗談絶ったと思います。
 私が言いたいのもそこのところです。
 その頃のわたしたちは、一、二年前とは違い、提供の話題から尻込みしませんでした。
 かといって、真剣に向き合い、話し合うということもありませんでした。
 将来に待つ提供、それに対する十三歳のわたしたちの思いが、この「ファスナー開閉」
 に集約されていたように思います。 
・わたしたちは「教わっているようで、教わっていない」
 二年後にそう指摘したルーシー先生は、ですから状況をほぼ言い当てていたことになり
 ます。
 そして、その指摘を受け、わたしたちの態度は大きく変化しました。
 あの日以後、提供についての冗談は影をひそめていき、わたしたちは物事を真っ正面か
 ら考えるようになりました。
 冗談の対象から外れた提供は、再び避けるべき話題になったように思いますが、同じ避
 けるのでも、幼かったころとは意味合いが違います。
 もう「何となく」話しづらいのではなく、重く、深刻な問題であるとはっきり認識し、
 それ故の忌避だったと思います。
・数年前、二人で当時を振り返っているとき、「俺たちは利己的だったのかな」とトミー
 が言いました。 
 「あんな話をした先生が面倒なことになることくらい、わかったはずだ。なぜルーシー
 先生のことを誰も心配しなかったんだろう。変だな。自分のことで精一杯だったってこ
 とかな」
・「でも、それで責められたら辛いわよ」と私は言いました。
 「生徒同士が互いに思いやることは教えられていたけど、保護官までなんて、保護官の
 間に意見の対立があるなんて、思いもよらなかった者」
 「でもさ、わかってもいい年齢だったと思わないか。わかって当然の年齢だったのに、
 わからなかった。あわれなルーシー先生のことを、これっぽっちも考えなかった。君が
 先生を見かけたあのあとでさえな」
・トミーが何のことを言っているか、すぐにわかりました。
 わたしたちにとってヘールシャム最後の年、初夏のある朝、わたしたちは二十二番教室
 でルーシー先生を見かけました。 
 思えば、トミーのいいとおりです。
 あのあと、ルーシー先生がどんな難しい立場にあったか、わたしたちにもわかって当然
 だったのです。
 でも、わたしたちは先生の立場に身を置くことができませんでした。
 先生を支えるために何かを言い、何かをすることなど、思いつきもしませんでした。
 
第八章
・その頃までに、わたしたちの多くはもう十六歳になっていました。
 当時、わたしたちには秘密の遊びがありました。
 辺りに誰もいないとき、立ち止まって無人の光景をながめるのです。
 窓の外を見るのでもいいし、戸口から部屋の中をのぞき込むのでもかまいません。
 とにかく無人であれさえすれば、どこをどうながめてもよく、要は、ほんの一瞬でも、
 別世界にいることを想像したかったのだと思います。
 この遊びでは、自分を夢見状態にし、漂ってくる騒音や人声をすべて締め出さなければ
 なりません。
・あの朝も、教室から忘れ物をとり、四階の階段の脇を戻ってきたとき、わたしはその遊
 びをやっていました。 
・窓際にじっと立っていました。
 その窓は中庭に面していて、先ほどまで私が友達といた場所が見下ろせます。
 友だちはもうおらず、中庭全体からも徐々に人影が消えつつありました。
 あともう少し・・・。
 完全に無人になる瞬間を待っていたとき、背後から、ガス化蒸気が漏れるような音が断
 続的に聞こえてきました。
・シューという音が十秒間ぐらい続いて、止まり、また始まるのです。
 とくに危険な感じはしませんでしたし、辺りには私しかいませんでしたから、行って調
 べてみようかな、と思いました。
・さっきまでいた教室の前を通過し、奥から二番目、二十二番教室まで来ると、ドアが少
 し開いていて、わたしが来るのに合わせたように、またシューという音が始まりました。
 しかも、一段と強く。
 わたしはドアをそっと押しました。
 そこにはルーシー先生がいて、私はとても驚きました。
・教室はいつも以上に暗かったように思います。
 テーブルが二つくっつけられ、何人かがいれば会議でもできそうな感じでしたが、
 いたのはルーシー先生ひとりだけです。
 教室の後ろ寄りにすわり、目の前のテーブルに黒光りする紙を数枚散らばして、それに
 覆いかぶさるようにしていました。 
 両腕をテーブルの上に置き、鉛筆を持った手で一枚の紙に向かって猛烈なジグザク運動
 を繰り返していました。
 わたしたちが図画の時間に陰影をつけるときの動きに似ていましたが、ただ、紙が破れ
 てもかまわないというほどの荒っぽさがありました。
 私は、ああ、これか、と気づきました。
 あの奇妙な音は、先生が鉛筆で紙をこする音だったのです。
 紙にはたちまち濃い黒い影が描かれていき、わたしの位置からでも、先生のきちんとし
 た青い手書きの文字が影の下に消えていくのが見えました。
 賭すれば、テーブルの上に散れているほかの黒い紙も、ついさっきまでは、きれいな文
 字で埋まっていたノートのページだったのでしょう。
・先生はその作業に没頭していて、わたしが戸口にいることにしばらく気づきませんでし
 た。びっくりしたように顔をあげたとき、その顔は紅潮していました。
 でも、涙の跡などはありませんでした。
 先生はわたしを見つめ、鉛筆を置きました。
 「こんにちは、お嬢さん」
 そう言って、深く一呼吸しました。「何かご用かしら」
・わたしは、先生からもテーブル上の紙からも目をそらせました。
 先生はわたしにいてほしくなかったはずですし、わたしもいたくありませんでした。
 何か謝りの言葉を言って、そそくさと教室を出たと思います。
 あんなところを見ずにすんだらどんなによかったかと思いましたが、では何にそれほど
 動揺したのかと問われると、どう答えてよいかわかりません。
 恥ずかしさは確かにありましたし、怒りもありました。
 ただ、その怒りは先生に向けられたものではなかったように思います。
 わたしは混乱していました。
 混乱が大きすぎて、長い間、友だちにさえこのことについて何も話せませんでした。
・あの後、わたしは一つのことを確信しました。
 ルーシー先生に関わる何かが、もしかしたら、おそろしい何かが、もうすぐ起ころうと
 している。 
 ぜったいにそれをみのがしてはならない・・・。
 わたしは耳目を全開にして待ち受けました。
 でも、何日過ぎても何も起こりません。
 わたしは知らなかったのです。
 二十二番教室で先生を見かけてからほんの数日後に、もう先生とトミーとの間に重大な
 出来事があったことを・・・。
 トミーのひどい混乱の原因がそこにあったことを・・・。
 少し前までなら、その種のことが何かあれば、トミーと私はすぐに報告しあっていたは
 ずです。
 でも、あの夏はいろいろなことがあって、二人がそう自由に語り合える状況ではなくな
 っていきました。
・いま思うと、わたしたちはセックスとその周辺の事柄についてとても混乱していました。
 もちろん、ほんの十六歳ですから、当然といえば当然かもしれません。
 でも、わたしたちの混乱に加えて、保護官側にも混乱があったことが状況を複雑にして
 いたのではないか、と最近はよく思います。
 一方には、たとえばエミリ先生などのお話がありました。
 自分の体を恥じてはなりません、「肉体の欲求を尊重する」ことが重要です、双方がそ
 れを望むなら性行為は「相手へのとても美しい贈り物」です、等々。
 でも、実際はどうだったでしょうか。
 規則違反でもしないかぎり、大したことはできない仕組みが作られていました。
 セックスがいくら美しいと称揚されていても、それは建前。
 実際には、もし現場を保護官に押さえられたら、きっと面倒なことになるという雰囲気
 が支配的でした。
・現に、わたしが知りかぎり一つだけですが、表面化したケースがあります。
 ジュエニーとロブ。十四番教室でのことでした。
 二人は、昼食後、机の上でしていたようです。
 そこへジャック先生が何かを取りに入ってきて、ジェニーが言うには、真っ赤になり、
 回れ右をして教室から出て行ったそうです。
 二人は気がそがれ、つづける気をなくしました。
 そうして、身支度をほぼ終えた頃、先生が戻ってきて、いま初めて来てびっくり仰天し
 たようなふりをしました。 
・「君たちが何をしていたかは明らかなように思う。とても適切とは言いがたい」
 ジャック先生はそう言って、エミリ先生のところへ行くよう指示しました。
 でも、二人がエミリ先生のオフィスに行くと、
 「何をしていたか知りませんが、してはならないことだったのはわかっていますよね?
 二度としないよう期待します」
 そう言って、書類を抱えて出て行ったそうです。
・ところで、わからないといえば、同性間のセックスはいっそうわかりにくいものでした。
 わたしたちはそれを「アンブレラセックス」と呼んでいました。
 傘セックス?由来は不明です。
 ほかの施設ではどうかわかりませんが、ヘールシャムでは同性愛に非寛容でした。
 とくに男子は、実に残酷な対応していたように思います。
 幼い頃、それと知らずに互いにずいぶん性的な行為をしていた経験があって、だから、
 いまになってばかばかしいほど激しく反応するのだそうです。 
・わたしたちは、性に関わる問題をいつまでも議論して飽きることがありませんでした。
 でも、いくら議論を重ねても、結論は出ませんでした。
 いったい、保護官はわたしたちにセックスをしてほしいのでしょうか、してほしくない
 のでしょうか。
・私自身は、ルースの説が一番正しいように思いました。
 「保護官が言っているのは、要するに、わたしたちがヘールシャムを出た後のことよ」
 と言っていました。
 「外に出たら、病気をもらわない範囲で、どうぞ好きにしてちょうだい。でも、ヘール
 シャムの中ではノーサンキューよ。いろいろ煩わしいことが増えますからね、ってこと」
・それに、現実問題としてはどうだったのでしょうか。
 みなが口で言っていたほど、セックスが盛んに実践されていたとは思えません。
 ペッティングぐらいなら、うなずけます。
 でも、経験済みを匂わせていた幾組ものカップルのうち、どれだけが本当だっただろう
 か、と今振り返ってみて思います。 
 みながみな口先だけではなかったとしたら、ヘールシャムは右も左も真ん中も、いたる
 ところでセックスだらけだったはずですから。
・みなが言っていることが額面通りに受け取れないことは、当時のわたしにもわかってい
 ました。
 それでも、最後の夏が近づくにつれ、わたしだけが仲間外れという思いが強まってきま
 した。
 セックスが強迫観念になっていたのかもしれません。
 まだ経験していない人は、ぜひ。それも、お早めに、という雰囲気でした。
 わたしの場合は、友人二人が確実に経験済みだったことも、その思いに拍車をかけまし
 た。
 ローラが、公認カップルでもなかったのにロブと、そしてルースがトミーとです。
・ただ、一方には「本当にこの経験を分かち合いたいと思える相手が見つからなかったら、
 おやめなさい」というエミリ先生の忠告もあり、わたしはそれを心の中で繰り返しなが
 ら、延々と待ちつづけていました。
・でも、なんだか、誰かとしてもいいなという思いが湧きはじめました。
 どう言うものか知りたいというだけでなく、今後のために慣れておく必要があるのでは
 ないか、と思ったのです。 
 練習のためなら、さほど好きな相手でなくてもかまわないでしょう。
 誰かとやって慣れておけば、後に特別な誰かと出会ったとき、すべてを正しくやれる可
 能性が高まります。
 セックスというものが、エミリ先生の言うほど二人の間で大きな意味を持つものなら、
 うまくいくことが絶対に必要な場面に初体験では臨みたくない。わたしはそう思いまし
 た
・そこで、一年上のハリーに目をつけました。
 ハリーを選んだのにはいくつかの理由があります。
 まず、確実に経験済みだったことです。
 相手は、やはり一年上のシャロンでしょう。
 次に、特に惹かれてはいなくても、嫌いではなかったことです。
 穏やかで、人格的にもまともな生徒でした。
 仮に私が大失敗しても、後でそれを言いふらすような人ではないと思いました。
 それに、ハリーのほうからも、気があるという素振りが何度かありました。
・こうして、相手はハリーと決まりました。
 ただ、決めてから二カ月ほどぐずぐずしていたのは、肉体的に万全を期したかったから
 です。 
 「十分に濡れていないと、痛いだけで大失敗に終わることがあります」
 エミリ先生のその言葉が心に引っかかっていました。
 あそこが引き裂かれるのよ、などと冗談ではよく言い合いましたし、内心、それを本気
 で恐れている女の子もたくさんいましたが、わたしは違います。
 直ぐに濡れれば問題はないのだと自分に言い聞かせ、何度も何度も一人で連勝を重ねま
 した。
・まるでノイローゼだと言われそうですが、ほかに、性描写のある本をあれこれ探し、該
 当部分を繰り返し読んだことも思い出します。
 何度も読み直して、そこからヒントを得ようとしましたが、ほとんど役立ちませんでし
 た。いくら読んでも、何が起こっているのかはっきりわかったため市がありません。
 たぶん、読者に十分な性体験があるという前提が問題なのだと思います。
 細部は説明するまでもないというのが、作者の考えなのでしょう。
 結局、本からの情報収集ではいらいらが募るばかりでした。
・こうして、一週間また一週間とその日を延期しながら、わたしは準備をつづけました。
 夏になる頃には、もうこれ以上準備のしようがないと思うようになり、自身らしきもの
 すら湧いてきて。ハリーにそれとなく合図を送りはじめました。
 でも、すべてが予定通り運ぶかに見えたとき、ルースとトミーの破局があり、状況が一
 気に変わりました。

第九章
・ルースとトミーが別れたあと、わたしの計画はめちゃめちゃになりました。
 いまでも、ハリーには申し訳ないことをしたと思っています。
 一週間ずっと思わせぶりな言動をしながら、週が変わると、突然、言い訳ばかりなので
 すから。
 たぶん、わたしに一方的な思い込みがあったのだと思います。
 ハリーがいまか今かと待っていて、少しでも油断したらのしかかられるのではないか、
 というような・・・。
 ですから、ハリーを見るたび、わたしはちょこちょこと何か言い訳をし、相手の答えを
 待たずに脱兎のように逃げ去りました。
 違ったかもしれないと思うようになったのは、ずっとあとになったからです。
 わたしとのセックスなど、ハリーの念頭にはなかったのかもしれません。
 向こうとしては忘れても少しもかまわなかったのに、廊下やグランドで顔が会うたび、
 わたしがちょろちょろ駆け寄り、いまはちょっと都合が・・・と一方的にささやいてい
 たのかもしれません。
 変な子だと思ったでしょう。
 ハリーが温和な人格者でなかったら、私はきっとヘールシャム中の笑いものになってい
 たはずです。
・いずれにせよ、ハリーを断り続けること二週間。その時、ルースからあることを頼まれ
 ました。
 唐突に「トミーとよりを戻したいの」とルースが言いました。
 「だから、キャシー、手伝って」と。
 「で、わたしに何をしてほしいの」
 「トミーに話してくれればいい。あなたなら、昔からトミーとはいい関係だし、トミー
 もきっと聞いてくれると思う。あなたがいいかげんなことを言ったりしないのは、トミ
 ーもよくわかってるから」
 「頼るにしてくれてありがとう」
 「トミーへの橋渡しなら、確かにわたしが適任かもね」
 「わかった。トミーに話してみる。確かに、もうすぐヘールシャムを出て行くんだし、
 無駄にできる時間はないよね」
・その後数日間は何だかだとあって、トミーと話をする機会がありませんでした。
 これでは、埒があきません。私は、自分から声をかけることにしました。
 「トミー、ちょっと話さない?話したいことがあるの」
 「トミー、最近、あんまり幸せそうじゃないね。見ればわかるよ」といいました。
・「どういう意味だよ。おれは幸せそのものさ、ほんとに」
 トミーはそう言って、大きな笑い顔を見せ、豪快な笑い声を立てました。
 この返事に、わたしはかっとしました。
・後年にはトミーのそんなところがほほえましくさえ思えるようになりましたが、あの夏
 は、「なんて子供なの。だから付け込まれるのよ」としか思えませんでした。
・「トミー、ばかみたいに笑うのはやめて。幸せそうな振りをしたいんだったら、やる方
 が間違ってる。わかる?そんなふうにするもんじゃないの。違うのよ。トミー。もっと
 大人になって。しっかりしてよ、トミー。いまのあなたはぼろぼろじゃない。その理由
 だって、あなたにもわたしにもわかってる」
・トミーは怪訝そうな顔をしました。
 私がしゃべり終わるのを待って、こう言いました。
 「確かにな、キャス。君の言うとおり、いろいろうまくいってない。けど、君に理由が
 わかってるってどういう意味だ。おれはだれにも話してない。君にどうしてわかる?」
 「そりゃ、詳しいことまでは・・・。でも、ルースと別れたことなんて、誰だって知っ
 てるわよ」
・トミーはまだ怪訝そうな表情のままでしたが、やがて、もう一度小さく笑いましたが、
 今度は本物の笑いでした。
 「なるほど・・・」とつぶやき、じっと何かを考えていました。
 ようやく口を開き、「正直に言うとな、キャス、そっちはあまり気にしてないんだ」と
 言いました。
 「もっと別のことなんだよ。いつも頭から離れないのは別のこと、ルーシー先生のこと
 なんだ」
・こうして、夏の初めにトミーとルーシー先生の間に何があったか、わたしも知ることに
 なりました。 
 後になってあれこれ考え合わせると、どうもあの日から、二十二番教室でルーシー先生
 が書類を塗りつぶしているのを見かけたあの朝から、数日後の出来事だったに違いあり
 ません。
 なぜもっと早く、トミーを問い詰めてでも聞きださなかったのか、悔やまれてなりませ
 ん。
・それは、授業が終わって夕食まではまだ少しあるという、所在ない時間帯のことでした。
 ルーシー先生が本館から出てきました。で、
 フリップチャートやらファイルやらを両手に一杯抱え、そこからいつ何がこぼれ落ちて
 も少しも不思議ではないほどに見えましたから、トミーは先生のところに駆け寄り、手
 伝いを申し出ました。
 「部屋に運ぶからって、先生はおれにいろいろと持たせてくれた。二人で運ぶにしても
 多すぎるほどでさ、おれも途中でいくつか落っことしたよ。で、オレンジ温室まで来た
 ら、先生が急に立ち止まったもんで、あ、先生も何か落っことしたな、って思ったんだ
 けど、違った。先生はおれの顔を、しばらく・・・こう、すごく真剣に見つめててな、
 ぜひ話したいことがあるって言うんだ。じっくり話したいことがあるって。だから、お
 れは、いいですよって答えて、一緒にオレンジ温室から先生の部屋に行った」
・「先生は昔のことをよく覚えていて、まるで昨日のことみたいに、あのときのことをし
 ゃべりはじめた。何の説明も前置きもなくさ、いきなり『トミー、わたしは間違ってい
 ました』だもんな。『あなたに話したことは間違いです。もっとはやく訂正してお
 くべきでした』だって・・・。『前に話したことは全部忘れてください。絵がへたでも
 いいし、描きたくなければ描かなくてもかまわないなんて言ったのは、とんでもない間
 違いでした。ほかの先生がたの言うとおりです。あなたがこんなくずみたいな絵を描い
 ていいわけはありません・・・』 
・「あなたは何て言ったの」
 「なんて言ったらいいかわからんさ。最後に先生のほうから訊いてきたよ。『トミー、
 いま何を思っています?』おれは、よくわかりませんって答えた。おれのことなら大丈
 夫ですから、心配しないでください、とも言った。だが、先生は、大丈夫じゃない、っ
 てさ。おれの絵がくずなのは、あんなことを言った先生にも責任がある、って。『昔の
 ことはもういいじゃありませんか、先生。おれを笑いものにする生徒は誰もいないし、
 もうかんけいないでしょう?』そう言うと、先生は首を振って、『関係はあります、あ
 んなことを言うべきではありませんでした』って。で、おれはふと気づいた。先生は、
 おれたちがここを出た後のことを考えているのかもしれんな、と思った。だから、『大
 丈夫ですよ、先生。身心異常なし。自分の面倒も見られます。提供するときになったら、
 上手にできますよ』そう言ったら、先生はまた首を振り始めた。すごく激しく、これじ
 ゃ目がまわるって心配になるほど振って、そのあと、『トミー、よく聞いて、絵は重要
 です。証拠だからというだけではなくて、あなた自身のために重要です。絵がうまけれ
 ばいいことがあるかもしれません。だからあなた自身のために腕を磨いて』
・「ちょっと待って、何それ、証拠って?」
 「わからん。けど、先生は確かにそう言った。『絵は重要です。証拠だからというだけ
 でなくて』って。何のことだろうな。実はな、先生がそう言ったとき訊いてもみたんだ。
 『先生、よくわかりませんが、それはマダムや展示館との関係があることでしょうか』
 って。先生は大きな溜息をついてこういった。『マダムの展示館?そう、あれも重要で
 す。わたしが思っていた以上に重要。いまになってわかります』それからこうも言った。
 『ね、聞いて、トミー。あなたがまだ理解していないことがたくさんあって、なのにわ
 たしから話してあげることができません。ヘールシャムのこと、外の世界に出たときの
 あなた方のこと、いろんなこと・・・。でも、いつか、わかるかもしれません。わかっ
 たからと言って楽にはならないでしょうけれど、でも、望めば・・・心の底から望めば、
 わかるかもしれません』そのあと、また首を振りはじめた。さっきほど激しくはなかっ
 たけどな。それからこんなことも言った。『でも、あなただけが特別って言うことがあ
 るかしら。ここを出て行く生徒たちは、結局、大してわからないまま・・・。あなただ
 けが特別って言うことがあるかしら』何のことだか分らんからさ、もう一度、『おれな
 ら大丈夫ですよ、先生』って言っておいた。先生はしばらく黙り込んでた、そして、い
 きなり立ち上がって、おれの上に屈んで、ぎゅっと抱きしめてくれた。セクシーなのじ
 ゃなくて、ほら、小さな子にやるみたいな、ああいうやつ。おれは必死でじっとしてい
 たよ。そのあと、先生は一歩下がって、もう一度、あんなことを言ってごめんなさい、
 と謝った。でも、まだ遅くないから、いまから始めて、できるだけ取り戻せって。おれ
 は何も言わなかったと思う。先生はおれをじっと見てた。また抱きしめられるのかなと
 思ったけど、違った。『必ずやって』と言った。『わたしのためにやって、トミー』っ
 て。おれは早く部屋から出たくてさ、一応、『はい、精一杯やります』と答えておいた。
 たぶん、真っ赤になってたと思う。あんなふうに抱き締められたらさ、ほら、やっぱり
 小さな頃とは違うから」
・そのときまで、わたしはトミーの話に聞き入っていて、なぜトミーに会いに来たかを忘
 れていました。
 でも、「小さな頃とは違う」の一言で、最初の目的を思い出しました。
 「わたしたち、この夏にはここを出て行くんだから。それまでに心の整理もしておかな
 くちゃ。まずはルースのことよ。これはすぐにでも解決できる。ルースがね、もう全部
 忘れましょう、って。もう一度やり直しましょう、って。あなたにはチャンスよ。乗ら
 ない手はないと思う」
・トミーはしばらく黙っていました。そして、「そう簡単にはいかんよ。キャス」と言い
 ました。「考えることがあり過ぎるんだ」
 「でも、トミー、聞いて。あなたは運がいいのよ。なんて言ったって、ルースに好かれ
 てるんだから。ここを出たあと、ルースと一緒なら絶対後悔しない。ルースは最高よ。
 ルースと一緒なら、何があったって大丈夫。ルースがやり直したいって言ってるんだか
 ら、だめにしないで」
・私は待ちましたが、トミーは何も答えません。
 トミーが答えたとき、その答えが静かで思慮深いのに、私は驚きました。
 後年、しだいに強く現われてくるトミーの知られざる一面でした。
・「わかってるよ、キャス。だからさ、だから、ルースと慌ててよりを戻したくないんだ。
 次にどうするのが賢明か、互いによく考えないとな」そう言って、溜息をつき、真っ直
 ぐにわたしを見ました。「君が言うとおりだ、キャス。もうすぐここを出る。もう遊び
 じゃない。よく考えないといけない」  
・突然、わたしは何を言っていいかわからなくなり、ただ座って、クローバーを摘みつづ
 けました。トミーの視線を感じながら、顔をあげられませんでした。
 いずれにせよ、二人だけの話は終わり、わたしは寮に帰りました。
 目的を果たせなかったという残念さと、ルースを裏切ったような後ろめたさがありまし
 た。
・トミーとの話し合いがわたしにどう影響したかは、けっきょく、わからずじまいでした。
 何しろ、その翌日にあの大ニュースが飛び込んできましたから。
 教室からぞろぞろ出て行こうとするときでした。
 シャルロッテが息せき切って駆け込んできて、ルーシー先生がヘールシャムを辞めると
 いうニュースを知らせたのです。
 噂は一瞬にして教室中に広がりました。
 授業を担当していたクリス先生は、とうに知っていたに違いありません。
 質問攻めにあう前に、ばつが悪そうな顔をして、そそくさと出て行きました。
・私はすぐにトミーを探しに出ました。
 このニュースだけは、どうしても私の口から知らせなければならないと思いました。
 でも、中庭に出たときは、もう遅すぎました。
 向こう側にトミーがいて、男の子の輪に加わり、そこで話されていることにうなずいて
 いました。 
 興奮したように目を大きく見開き、手足を振っている子も周りにいるなかで、トミーの
 目はうつろでした。
・トミーとルースのよりが戻ったのは、その日の夜です。
 数日後にルースがわたしを探しにきて、「手際よく片付けてくれた」ことを感謝してい
 きました。
 私の力ではない、といくら言っても、ルースは聞き入れませんでした。
 
第二部
第十章
・ヘールシャムから来たばかりのわたしたちは、ヘールシャムでの日常しか知りません。
 それをできるだけつづけたくて、外に出て、伸び放題の草の上で、一日の大半を過ごし
 ていました。
 それでも、いまお話ししている頃の午後ともなると、外にいたのは、草原で読書してい
 たわたし以外にせいぜい三、四人程度だったでしょうか。
 わたしは一人になりたくて、わざわざ目につかない隅っこを選んでいましたから、ルー
 スとの間で起こったことは誰にも聞かれなかったと思います。
・わたしが『ダニエル・デロンダ』を読んでいると、そこへルースがふらりとやって来て、
 横にすわりました。
 そして、本の表紙をじろりと見て、なるほど、というふうにうなずきました。
 待つこと約一分、恐れていたとおり、やはり始まりました。
 ルースが『ダニエル・デロンダ』のあらすじをとうとうと語りはじめたのです。
 わたしはいまのいままで上々の気分で、ルースが来てくれたことも歓迎でしたのに、
 とたんにいらいらしはじめました。
 前にも二度ほどおなじことをされていましたし、ルースが他の人にそれをやっているの
 を見ていました。
 いらいらの原因は、助けてあげるから感謝しなさいと言わんばかりのルースの態度です。
 親切めかした押しつけがましさとでも言うのでしょうか。
 そんな態度の背後にある理由にも、あのときのわたしはすでにうすうす気づいていたよ
 うに思います。
 初めてコテージに来てからの数カ月間に、わたしたちはなぜか読書量で何かが計れるよ
 うな気がしていました。
 どれだけコテージに馴染んだか。新しい環境にどれだけ適応できているか。それが読ん
 だ本の冊数に現れる・・・。
・もちろん、ある程度は全員の馴れ合いのもとで行われていたゲームです。
 でも、ルースのやり方は少し度が過ぎていました。
 誰が何を読んでいても、ルースだけは必ずもうそれを読み終わっているのです。
 そして、誰よりも読書量が多いことを証明するために、その誰かがいま楽しんでいる本
 の内容を周囲に向かって話すのです。
・常々がそういうことでしたから、あの日、ルースが『ダニエル・デロンダ』野あらすじ
 を語りはじめたとき、まあ、あまり面白い小説ではなく、別に楽しみを邪魔されたとい
 うわけではありまでんでしたが、わたしは本を閉じ、起き直りました。
 いきなりで、ルースは驚いたでしょう。
 「ルース」とわたしは言いました。
 「前から訊こうと思っていたの。あなた、トミーと別れるとき、いつも肘のところを叩
 くよね?あれはなぜ?言ってること、わかるでしょ?」
 「大した問題じゃない。みんなやってることだし」
・「みんな?クリシーとロドニーってことじゃないの?
 そう言い終わった瞬間、わたしは自分の過ちに気づきました。
 そのときまで窮地に追い詰められていたルースが、二人の名前が出た瞬間、するりと脱
 け出しました。
 どの程度の過ちだったかまだ分からず、胸中にパニックが広がっていく瞬間・・・。
 やはり、ルースの目がギラリと光りました。
 そして口を開いたとき、声がまったく違っていました。
・「そうなのか。それであわれなキャシーちゃんは大騒ぎしていたのね。ルース姉さんに
 かまってもらえなくて寂しかったんだ。
 ルース姉さんに大きなお友達ができて、キャシーちゃんは遊んでもらえない…」
 「やめて。とにかく、普通の家ではそんなことしないのよ、ルース。あなたはわかって
 ない」
 「そう。キャシーは普通の家のオーソリティだものね。でもそうなんでしょう?わたし
 たちヘールシャム卒業生は永遠に一緒。新しい友達を作るなんてもってのほか、でしょ
 まだそんなことを思ってたの」
 「そんなことを言ってない。クリシーとロドニーのことを言っただけ。二人のやってい
 ることを何から何まで真似して、ばかみたい」」
 「でも、わたしの言ってるとおりでしょ?わたしが先へ行きそうで、新しい友達も作っ
 て、それであなたは慌てちゃった。あなたの名前さえ覚えてくれない先輩がいる。
 そりゃ、そうよ。あなた、ヘールシャムの人間以外とは話さないんだもの。でもね、
 わたしがいつまでもあなたの手を引いてあげると思ったら大間違いよ。ここに来てもう
 二カ月なんだもの」
・私は挑発に乗りませんでした。
 ただ、「わたしのことはどうでもいいの。ヘールシャムもどうでもいい。でも、トミー
 をおもちゃにしないで」とだけ言いました。
 「見てたわよ。この一週間だけで何度も・・・トミーはどうしていいかわからなくて、
 途方にくれてたじゃない。それいいの?あなたとトミーはカップルじゃないの?あなた
 がきをつかってやらずにどうするのよ?」
 「そのとおり、わたしたちはカップルよ、キャシー。首を突っ込まないでほしいわ。
 言っておきますけどね。二人で話し合って、もう了解済みよ。トミーがクリシーやロド
 ニーと一緒にいたくないというなら、それはトミーの自由よ。まだやる気分にないこと
 を、わたしから強制したりしない。でも、話はついたの。トミーもわたしを拘束しない。
 心配してくれて、ほんとに感謝するわよ、キャシー」
 そして、それまでとは一変した声音でこう付け加えました。
 「考えてみたら、あなただって手が遅いほうじゃないわね。先輩の一人、二人とはもう
 お友達になったんだっけ?
・ルースはわたしをじっと見て、ちょっと笑いました。
 「わたしたち、まだ友達でしょ?」
 と言いたげな笑いでした。
 でも、ルースの最後の言葉は、とても一緒に笑えるようなことではありません。
 私は本を拾い上げ、何も言わずに立ち去りました。

第十一章
・ルースの言ったことがなぜそれほど気に障ったか、説明が必要かもしれません。
 コテージでの最初の数カ月は、わたしたち二人の関係にとって奇妙な一時期でした。
 些細なことでしょっちゅう喧嘩しながらも、一方では、それまで以上に深い打ち明け話
 をしていました。
・あの時期、二人の友人関係がなぜ成立していたかと言えば、相手から聞いたことは絶対
 に他に漏らさないという暗黙の合意があったからです。
 秘密の話は秘密のままにしておく。たとえどんなに激しく争っても、相手の攻撃の材料
 には使わない。
 もちろん言葉で約束したことではなく、あくまでも暗黙の合意です。
・あの午後、ルースが「あなただって手が遅いほうじゃないわね。先輩の一人、二人とは
 もう・・・」と言ったとき、わたしはかっとしました。
 いえ、機嫌を悪くしたなどというものではありません。裏切られた、と思いました。
 ルースが言っていたこととは、わたしがある晩セックスについて打ち明けたこと踏まえ、
 明らかにすれを皮肉っていたのですから。
・ヘールシャムとコテージでは、当然、セックスのあり方が違いました。
 コテージのほうがずっと「大人」で、ずっと率直でした。
 誰と誰が何をしたなどと噂し合い、くすくす笑い合うようなことはしません。
 二人の生徒がセックスをしたことがわかっても、あの二人はカップルになるのだろうか、
 などと先走って考えませんでしたし、ある日、突然に新しいカップルが誕生しても、そ
 れがさも大事件であるかのようには触れ回りませんでした。 
 ただの事実として静かに受け入れ、以後は、たとえば「クリシーとドロニー」とか「ル
 ースとトミー」のように、一方の名前を言うとき、忘れずにもう一方の名前を添えるだ
 けでした。
・誰かとセックスをしたいというようなときも、単刀直入でした。
 相手のところへ行って、「たまには、ぼくの部屋で過ごすなんてどう?」などと言いま
 す。大袈裟に騒ぐようなことはありませんでした。
 その相手とカップルになりたいという場合もあるでしょうし、一夜のセックスを望むと
 いうだけでもかまいませんでした。
・要するに、ずっと大人の世界だったということです。
 でも、いま振り返ってみると、コテージでのセックスはやや無機的で、情緒に欠けてい
 たような気がします。
 噂や秘密で覆われていなかったからでしょうか。
 それとも、ただ寒かったからでしょうか。 
・コテージでのセックスを思い出すたび、私の頭には、凍るような寒い真っ暗な部屋で、
 一トンもの毛布をかぶってしているイメージが浮かびます。
 毛布と言いますが、よく見れば古いカーテンがあり、カーペットの切れ端があり、いろ
 いろなものの寄せ集めでした。
 とにかく寒くて、手当たり次第に何でも上に乗っけましたから、その底でセックスをす
 るということになると、まるで寝具の山を押し上げながらするようで、男の子としてい
 るのか、毛布としているのかわからなくなるほどでした。
・ともあれ、コテージに入って間もなく、私にもそういう一夜限りの経験が何度かあった
 ということを申し上げておかなければなりません 
 そんなつもりはありませんでした。
 もっと時間をかけ、相手を慎重に選んでカップルになるつもりでした。
 それまでカップルというものは未経験でしたし、ルースとトミーの様子をしばらく見て
 いて、わたしも試してみたいと思っていましたから。
 なのに、意図と違って一夜だけの関係が続けざまに起こり、わたしは少し不安になって
 いました。
 あの夜、ルースに打ち明ける気になったのも、その不安ゆえでした。
・わたしたちはコテージにいる男子の品定めをし、わたしに適した男がいるかどうか話し
 合いました。
 あの夜のルースは優しく、面白く、如才なく、賢く、最高の話し相手でした。
 だからでしょう、わたしにも一夜だけの関係が何度かあったことを告白する気になった
 のは・・・。
 そんなつもりはなかったのに、なぜかそうなった、と話しました。
 赤ちゃんができないことはわかっていても、エミリ先生の警告どおり、セックスで気持
 ちが不思議に変化したことも話しました。
 そのあとで、ルースにこう尋ねました。
 「ねえ、ルース。聞かせて。どうしてもしたくなることってある?相手が誰でもいいか
 ら、みたいな?」
・ルースは肩をすくめ、「さあ」と言いました。
 「わたしはカップルだからね。したければトミーとするから」
 「そうよね・・・わたしだけなのかしら。わたしのあそこ、ちょっと変なのかもしれな
 い。だってね、ときどき、したくてしたくてたまらなくなることがあるの」
・「それは変ね」そう言うルースの表情はいかにも気がかりというふうで、わたしはいっ
 そう心配になりました。
 「あなたはそんなふうにならないの?」
 ルースはまた肩をすくめ、「誰とでもいいから、なんてことはないわね」と言いました。
 「なんだか不思議な話に思えるけど、でも、少ししたら落ち着くんじゃない?」
 「普段はちっともしなくたって平気なの。でも、突然、来るのよ。最初に起こったとき
 は瞬のうちだった。相手がしつこく触りはじめてね、もうやめて、と思った。でも、
 突然きたの。どうしてかわからないけど、突然、猛烈にしたくなって・・・」
 ルースは首を横に振り、「確かに不思議な話だけど、いずれ消えるわよ」と言いました。
・コテージでの最初の数カ月間、わたしたちの友人関係には少しもひびが入りませんでし
 た。それは、少なくともわたしの側に、ルースには二人の人間が同居しているという認
 識があったからです。 
・秋になる頃には、わたしもコテージの環境にかなり慣れてきて、来た当初には見逃して
 いたいろいろなことに気づくようになりました。
 たとえば、コテージを最近去っていった生徒についての、周囲の腑に落ちない態度です。
 わたしたちが到着する直前までここにいた生徒のことは、きっと親しくしていたに違い
 ないのに、ほとんど何も言おうとしないのです。
 もうひとつ、これもきっと関係があるでしょう、「講習会」に出かけた先輩についても、
 突然、みなの口が重くなりました。
 それが介護人になるための講習会であることくらい、わたしたちにもわかっていのです
 けれど・・・・。
 出かけているのは四、五日ですが、その間、その先輩のことは話題にもなりませんし、
 帰ってきてからも、誰も何も尋ねません。
 親しい友人にはこっそり何かを話したかもしれませんが、おおぜいの耳のある場では講
 習会への出席に触れないというのが、暗黙の合意だったようです。
・ただ、コテージを去った生徒の話題が完全にタブーだったかと言えば、必ずしもそうで
 はありません。話題にする必要があるときは、話題になりました。
 名前が出る頻度が一番高かった人物といえば、やはりスティーブでしょう。
 どういう人だったかはわからずじまいでしたが、ポルノ雑誌の愛好者だったことだけは
 わかっていました。 
 コテージには何十冊ものポルノ雑誌が出回っていました。
 ついでに、ケファーズさんがポルノ雑誌を目の敵にしていたことも申し上げておきまし
 ょう。とても信心深い方だったようで、ポルノはもちろん、セックスそのものを毛嫌い
 しているという噂でした。
 ときどき、何かの拍子に怒り狂い、灰色の髭の下に憤怒の赤い染みを浮き出させて、ポ
 ルノ狩りに乗り出すことがありました。
・ある日のポルノ狩りでは、六、七冊もの収穫がありました。
 ケファーズさんはそれを小脇に抱え、憤然とバンに戻っていきました。
 ケファーズさんはバンのドアを開けましたが、中の何かを動かすのに急に両手が必要に
 なったのでしょうか。抱えていた雑誌を、一旦ボイラー小屋の外にあるレンガの山に置
 きました。
 少し前までの激怒戻声やら、雑誌のことなどもうすっかり忘れている様子がうかがえま
 した。
 はたして、数分後に作業を終えたケファーズさんは、一度腰を伸ばし、そのまま運転席
 に乗り込むと、手荒くドアを閉め、走り去っていきました。
・それから三十分ほどして、ボイラー小屋の横を通りかかると、雑誌はまだそのままにな
 っていました。 
 わたしは、一瞬、自分の部屋に持ち帰ることも考えましたが、自室で見つかったらどう
 なるかは火を見るより明らかでした。
 きっと、いつまでもからかわれるでしょう。
 そして、わたしがなぜそんなことをしたのか、とても理解はしてもらえないでしょう。
 わたしは雑誌の束を取り上げ、それをもってボイラー小屋に入りました。
 光はあまりありませんでしたが、背後のどこかにすすけた窓があって、一冊を開いてみ
 ると、どうやら不自由なく見られそうでした。
・女の写真がたくさんありました。
 両脚を大きく開いている女、お尻を突き出している女・・・。
 わたしは同性とすることなど考えたこともありませんが、以前もこういう写真を見て、
 ときには興奮したことがあるのを認めます。  
 でも、あの日は興奮することが目的ではありませんでした。
 ページから漂ってくる淫靡さに惑わされないよう、さっさとページをめくっていきまし
 た。くねった体にはほとんど目もくれず、ひたすら顔だけを見て進みました。
・そうやって、雑誌の束の終わりに近づいた頃です。
 誰かが小屋の外、戸口のすぐわきのところに立っているような気がしました。
 ドアは開けておく習慣でしたし、それに光もほしかったので、あのときも小屋の戸は開
 けたままでした。
 それまでも二度、何かの物音が聞こえたような気がして、そのたびに雑誌から顔お上げ、
 戸口の方に目をやりましたが、誰も見えないまま、わたしはまた雑誌に戻っていました。
 でも、今度は確信がありました。
 わたしは雑誌を下に置き、外の誰かにも聞こえるように大きく溜息をつきました。
・「ふふふと笑い声がして、戸口にトミーが現れました。
 上目遣いに、「よお、キャス」と言いました。
 トミーはそっと近づいてきて、「そういうのが好きだなんて知らなかったよ」と言いま
 した。  
 「女だから禁止ってこともないでしょ」
 わたしはページをめくりつづけ、トミーもしばらく黙っていました。
・わたしが目を上げると、トミーの表情は真剣でした。
 わたしをじっと見つめていました
 「何か探してるのか、キャス?」
 「どういう意味?ポルノ写真を見てるだけよ」
 「興奮したくて?」
 「そういうことになるかしら」
 「キャス、それじゃ違う・・・興奮したいっていう見方じゃない。写真はもっとじっく
 り見るもんだ。そんなにさっさと見てったら、なんにもならない」
 「キャス、何を探してる?」
 わたしはトミーを無視しました。 
・「前にも君がそうやっているを見たよ」とトミーが言いました。
 「刺戟がほしかったんじゃないだろ、君は?おれにはわかったよ。いまもわかる。君の
 顔なんだよ、キャス。チャーリーの部屋で見たとき、表情が変だった。悲し気っていう
 か、怖がってるっていうか・・・」
・わたしはトミーのわきをする抜け、小屋の外に出ました。
 何も話してもらえず、トミーががっかりしていることはわかっていました。 
 でも、私自身、まだ何をどう考えてよいかわからず、他人に話せる状態ではありません
 でした。
 ただ、トミーがわたしを見かけて、ボイラー小屋まで来てくれたことが嫌ではなく、
 むしろ慰められた気がした。保護されているようにさえ感じました。

第十二章
・突然、ルースがこんなことを言いました。
 「クリシーとロドニーが言っていること、聞いた?」
 聞いていない、というと、ルースはちょっと笑い、
 「たぶん、担ごうとしてるんだと思う。あの二人一流のジョークね。だから、忘れて」
 と言いました。
・でも、聞いてほしいと思っていることは見え見えでしたから、わたしはしつこくせがみ
 ました。 
 ルースはいかにも根負けしたというふうに、低い声でこう言いました。
 「その・・・ある人を見たって言うのよ。オープンプランの広々としたオフィスで働い
 ている人で、その人がね、どうも・・・わたしのポシブルじゃないかって」
・「ポシブル」については、わたしたちの多くがもうヘールシャム時代に知っていたと思
 います。でも、興味津々ながら、なかなか怖い問題でもあり、口にしにくい雰囲気があ
 って、あまり話題にすることはありませんでした。
 気軽に持ち出せる話題ではないことはコテージでも同じで、セックスなどに比べても、
 ずっと扱いにくかったように思います。
・ポシブルの理屈自体は簡単で、特に問題となるような要素もありません。
 わたしたちはそれぞれに、あるとき普通の人間から複製された存在です。
 ですから、外の世界のどこかに、わたしたちの複製元と言いますか、「親」がいて、
 それぞれの人生を生きているははずです。
 とすれば、その「親」と偶然出会うことも理論的にはありうるでしょう。
 外の世界に出かけるとき、わたしたちは、自分の、あるいは友達の、「親」に出くわさ
 ないか、いつも目を凝らしていました。
 これはと思う人が見つかると、「親」の可能性があるという意味で、「ポシブル」と呼
 んでいました。
・それに、そもそもなぜ自分の「親」を探したいのか、という問題もありました。
 たぶん、それがどんな人がわかれば、自分の将来が見えるという思いがあったのでしょ
 うか。
 「親」がどんな人か見れば、自分が本来どんな人間でありえたか、どんな人生を送りえ
 ていたかが少しはわかると、わたしたちのだれもが、程度はさまざまながら、信じてい
 ました。
・「親」なんて関係ないし、ポシブルを探すなんて馬鹿げていると考える生徒も一部には
 いました。
 「親」なんて、わたしたちをこの世に生み出すための技術的要件の一つにすぎず、それ
 以上とも、それ以下でもない。
 わたしたちはそんなこととは無関係に、自分の人生を精一杯生きればよい・・・。
 ルースは常々この考え方が正しいと公言していました。
 私も、どちらかと問われればそれに賛成したでしょうが、でも、いざポシブル発見のう
 わさが飛び交うと、それが誰のポシブルであっても、やはり耳をそば立てずにはいられ
 までんでした。
・ポシブルの目撃報告は、わたしの記憶では短期間に集中する傾向がありました。
 何もなく数週間が過ぎたあと、突然、誰かが見たと言い、それを合図のようにして報告
 が相次ぎます。
 もちろん、箸にも棒にもかからない報告がほとんどで、通りすぎていく車の中にちらっ
 と見えたとか、そんなレベルです。
 でも、ときには、これはと思わせる目撃談もありました。
 あの晩、ルースが語ったのも、そうしたものの一つでした。
・ルースによると、ロドニーがとても興奮していて、ルースのポシブルを見つけたとわめ
 きたてたと言います。 
・そのときわたしがどう答えたか、よく覚えていません。
 でも、かなり懐疑的ではありました。
 というより、正直に言うと、これはクリシーとロドニーの作り話だろうと思いました。
・クリシーのいるところには、必ずボーイフレンドのロドニーもいました。
 ロドニーは、ほぼ完全にクリシーの支配下にあって、どんな話し合いの場でもクリシー
 の意見を支持してした。 
・ルースのポシブルの話を聞いた瞬間、私は反射的に、信じられない、と思いました。
 クリシーが何かたくらんでいる、と。
 クリシーとロドニーの話の内容、正面がカラス張りになっているオフィスと、そこで働
 いている女性。これは、当時、わたしたちが知っていたルースの「将来の夢」と、あま
 りに一致しすぎていました。
・あの冬、コテージでは盛んに「将来の夢」が語り合われました。
 盛んと言っても、主として私たち新参者の間でのことです。
 先輩の姿もなかったわけではありませんが、年上の人たちは、とくに、もう介護の訓練
 を始めていた人たちは、そんな話が始まると溜息をつき、そっと部屋を出ていったよう
 に思います。そのことに、わたしたちは長い間気づかずにいましたけれど。
・将来の夢など語り合って、わたしたちはいったいどうするつもりだったのでしょうか。
 本気で話し合っていたとは思えませんが、かといって、まるきりのでまかせと問われれ
 ば、そうとも言い切れません。 
 まだ介護の訓練やら車の運転やら、その他、何やかやが始まっていなかった半年間ほど、
 わたしたちは自分が何者なのか忘れていられたかもしれません。
 保護官の言ったことを忘れました。
・たぶん、クリシーは、いえ、クリシーだけでなく、コテージにいた生徒たちの大半は、
 新参者のわたしたちに先輩風を拭かせながらも、一方ではヘールシャムの名前に多少の
 恐れを抱いていたのだと思います。 
 そのことに、ずいぶん後になって思い当たりました。
 例えば、ルースのオフィスの例えにとれば、そんなモダンなオフィスでなくとも、そも
 そもオフィスではナタクという発想自体が奇想天外に近かったはずです。

第十三章
・コテージから二マイルほど行ったところに、メチリーという村があります。
 そこの農家から、ロドニーが一日だけ車を借りる約束を取り付けてきました。
 ロドニーは運転免許を持っていて、過去にも何度かそうやって車を借りたことがあるそ
 うです。
・それまで、ルースは今回の小旅行を冗談程度にしか考えていないふりをしていました。
 自分が行きたいというより、クリシーを喜ばせるために行く。せっかくヘールシャムを
 出て自由になったのに、その自由をこれまで有効に使ってこなかった。
 もともとノーフォークには「みんなの落とし物」を見つけに行くつもりだったのだから、
 いい機会だ・・・と。
・車の問題は解決し、翌日早朝、まだ真っ暗なうちに、わたしたち五人は一台のロバーに
 乗り込みました。 
 ボディーは傷だらけでも、走るのには全く支障がない車です。
 運転席にロドニー、助手席にクリシーが乗り、わたしたち三人は後ろに座りました。
・コテージに来られただけでも運がいいってのは、わかってるんだけどね」とクリシーが
 言いました。
 「でも、ヘールシャム出身ならもっと運がいい。だって・・・」
 そして声を低くし、身を乗り出しながらこうつづけました。
 「あなたたちにぜひ訊きたいと思ってたことがあるの。コテージじゃ壁に耳ありでさ、
 何も訊けやしないから」
・クリシーはテーブルをぐるりと見まわしながら、ルースを見つめました。
 ロドニーも真剣な表情になって、やはり身を乗り出しました。
 そうか、とわたしは思いました。
 やはりクリシーとロドニーには目的があったのです。
・「実はね、ほかにもう一つ、ヘールシャム出身の生徒について聞いたことがあるのよ。
 過去に数人だけど、ある特別な条件をクリアして、猶予期間をもらった子がいるんです
 って。これはヘールシャムの生徒だけに認められることで、願い出れば三年から四年く
 らいも提供を猶予してもらえるらしいのよ。
 もちろん、簡単なことじゃない。でも、ときたま認められることがあるんですって。
 条件をクリアしてることが証明できれば」
・「こういうことらしいの。男の子と女の子がいて、二人愛し合っていて、ほんとうに、
 心底、愛し合っていて、それを証明できれば、ヘールシャムを運営している人たちが何
 とかしてくれるんですって。いろいろ手を回してくれて、提供が始まるまでの数年間、
 一緒に暮らせるようにしてくれるんですって」
・テーブルの周りに不思議な空気が漂い、わたしたちの体をじんじんさせました。
 「ウェールズにいるときにね。ヘールシャムのあるカップルのことが、ホワイトマンシ
 ョンで噂になってたの。男のほうはあと数週間で介護人になるはずだったんだけど、誰
 かに会いに行って、丸々三年間の猶予をもらったんですって。そのままホワイトマンシ
 ョンで、二人一緒に過ごさせてもらったらしい。丸々三年間よ。訓練も何もなし。三年
 間を一秒残らず自分たちのために使えたんですって。心から愛しあってることを証明で
 きたから」
・ルースが訳知り顔でうなずくのが見えました。
 クリシーとロドニーもそれに気づき、しばらく、催眠術にでもかかったような表情でル
 ースを見ていました。
・猶予の噂を聞いたのは、実は、わたしもこの時が初めてではありません。
 過去にもありましたし、とくにここ数週間は、コテージのそこここでかなり頻繁に耳に
 していました。
 噂の中心は、いつも私たちヘールシャム出身者でした。
 でも、一部の先輩たちにとって猶予がいかに切実な問題であるか、本当に理解できたの
 は、あの海への喫茶店でのことでした。
 「当然、あなたたちは知っているんでしょう?」と、クリシーが少し震える声でつづけ
 ました。「規則とか、そういうことを」
・突然、ドロニーが「誰のところへ行くんだい」と言いました。
 「もし、その・・・申請したいときは、どこへ行けと言ってた?」
 ルースはまた肩をすくめました。
 「だから、言ってたとおりなの。わたしたちもあんまり話し合ったことがないのよ」
 そして、応援を求めるようにわたしとトミーを見ました。
・本能的な動作だったでしょうが、間違いでした。トミーがこう言ったからです。
 「いったい何の話なんだ。さっぱりわからんぞ。規則って、何の規則だよ」
 ルースはトミーをにらみつけ、早口で「ほら、あれよ、トミー」と言いました。
 「ヘールシャムでよく噂になったあれ」
・トミーは首を横に振り、「覚えてない」とにべもなく答えました。
 反応の速さがさっきまでとは違いました。
 わたしがそれに気づいたくらいですから、きっとルースも気づいたでしょう。
 「ヘールシャムで?おれは憶えていない」  
・ルースはトミーから顔をそむけ、「説明が必要かも」とクリシーに言いました。
 「トミーってね、確かにヘールシャムにはいたんだけど、完全にヘールシャムの生徒っ
 てわけでもないのよ。いつも除け者にされてたし、みんなの笑いものだったしね。だか
 ら、こういう問題でトミーにあれこれ訊いても無駄。さて、そろそろ行きましょうよ。
 ロドニーの言っていた人、見たいね」
・トミーの表情が変わり、わたしは息をのみました。
 ちょうどルースが立ち上がり、コートを着ようとごそごそ始めていたこともあって、
 先輩二人はトミーの変化に気づかなかったようです。

第十四章
割愛

第十五章
・わたしは三人とは反対の方向に歩き出しました。
 トミーがわたしの横に並ぶようについてきました
 「気にするようなことじゃない。この頃のルースは、いつもあんなだ。たまったものを
 吐き出してるんだと思う。仮ほんとでも、ちょっとは当たってる部分があってもさ、そ
 れで何がどう変わるんだ。『親』がどんなだって、おれたちと何の関係がある?キャス
 気にするようなことじゃないぜ」
・「あのとき、おれは探し物をしてた。君のためにあるものを探してた」
 「わたしへのプレゼント?」わたしは驚いてトミーを見つけた。
 「ルースが嫌な顔をするわよ。わたしのより大きなのをルースにあげないと」
・「いや、贈りたいものは決まってるんだ。ただな・・・。あれがないかと思ってさ。
 ほら、君が昔なくしたやつ。覚えているか、キャス?おれはタイトルが思い出せなかっ
 た」
 「わたしのテープ?何で知ってるのよ、トミー」
 「うん、あのとき、ルースがみんなに探させたんだ。君がなくしてがっかりしてるから
 ってな。おれも探した。君は言わなかったけど、ほんとに一所懸命に探したよ。ずいぶ
 ん長いこと探したけど、結局、見つからなかった」
・知らなかった。ありがとう、トミー」
 「役に立てなかった。で、これはもう出てきそうにないなって思ったとき、自分に約束
 した。いつかノーフォークに行って、キャスのために見つけるぞ」
・「イギリスのロストコーナーか」わたしはそう言って、辺りを見回した。
・「トミー。すてきな思いつきで、感激ものだわ。ほんとにすごい思いつき。なんてった
 って、ここはノーフォークだもの」
 トミーは遠慮がちにこう言いました。
 「ま、君に打ち明けた理由はそれだ。ほんとは驚かせたかったんだけど、無理だったな。
 仮にテープの名前を知ってても、探す場所を知らないんじゃ・・・。さて、事情がわか
 ったところで、助けてくれよ、キャス。一緒に探そう」
 「トミー、何をバカなことを言ってんの」
 「たって、まだ一時間以上あるぜ。絶好のチャンスだ」
 「わかった。どうしようもないおばかさんに協力しましょ」
 「探す場所は中古品のお店ね」と、わたしは少し考えて言いました。
・最初は、見当違いの店にばかり入ってました。古本屋も中古掃除機屋も、音楽とは無縁
 でした。わたしの案内も大したことない・・・と、トミーもやがて悟ったようです。
 案内役を交代を宣言し、結果的にそれが成功しました。
 まったく偶然だったのでしょうが、すぐに、それらしい店が四軒、ほとんど軒を連ねる
 ようにして建っている通りが見つかりました。
・そして、もちろん見つけました。ほかのことを考えながらカセットケースを一つ一つ手
 に取っていき、突然、指の下にそれがありました。ヘールシャムで持っていたカセット
 と寸分違いませんでした。
・「それなのか」トミーは疑わしそうでした。わたしがあまり嬉しそうにしていなかった
 からでしょうか。
 でも、カセットをつまみあげ、両手に包み込んだ瞬間、大きな大きな喜びが湧いてきま
 した。 
 そして、ほかにもう一つ、もっと複雑な、わっと泣き出しそうな感情も・・・。
 わたしはそれをぐっとこらえ、ただトミーの腕に手を置いて引っ張りました。
 「そう、これがそう」わたしはそう言って、初めて興奮して笑いました。
 「ほんとに見つかったなんて、信じられない」
・「トミー、あまり喜んでくれないみたいね」と、冗談めかした口調で言ってみました。 
 「いや、嬉しい。君のために嬉しいよ。ただ、おれが見つけたかった」
  そして、ちょっと笑って、こうつづけました。
 「昔さ、君がそれをなくした頃な、いろいろなことをよく想像した。おれが捜し出して、
 君の所へ持っていくんだ。そのとき君が何て言うだろうとか、どんなかおをするだろう
 とか、いろいろとな」
・そして、不意にわたしの手からカセットケースをひったくりました。
 「けど、買ってやることはできる」
 そう言って、にやりと笑い、わたしが止める間もなく、カウンターに向かって歩いてい
 きました。
・トミーがわたしに言いました。
 「クリシーもロドニーも、頭はあのことで一杯なんだ。ほら、愛し合ってれば、提供を
 猶予してもらえるって、あれ。おれたちが知りながら黙ってって思いこんでる。けど、
 ヘールシャムじゃ、そんなこと誰も言ってなかったよな?少なくとも、おれはそんな話
 を聞いたことがない。キャスはどうだ。最近の先輩たちは、ずっとその噂でもちきりだ。
 そこへルースみたいなのがしゃしゃり出て、火に油を注いでいる」
・わたしはじっとトミーを見ていました。
 トミーのその言い方に含まれているのが、悪口の外見をまとった愛情なのか、嫌悪感な
 のかがわかりませんでした。 
 いずれにせよ、何かが、ルースとは関係のない何かが、トミーの心に引っかかっている
 ようでした。
・「先生がロイに言ったこと。覚えてるか、キャス?先生はロイにこう言った。絵も、詩
 も、そういうものはすべて、作った人の内部をさらけ出す・・・そう言った。作った人
 の魂を見せる、って」
・「つまりな」トミーの口調はゆっくりでした。
 「仮に先輩たちの言ってることがほんとで、ヘールシャムの生徒には特別な計らいがあ
 るとする。いま、二人の生徒がほんとに愛し合っていて、一緒に暮らす時間がもっと欲
 しいと申し出たとする。その場合、どうなる、キャス?二人がほんとのことを言ってい
 るかどうか判断する方法が必要だろ?愛し合ってるってのが口先だけじゃないのか。
 ただ提供の開示を遅らせたいだけじゃないのか。その見極めが難しいことは想像できる
 よな?ほんとに愛し合ってると思ってても、実はセックスしたいだけかもしれん。一時
 的にのぼせ上ってるだけかもしれん。だろ、キャス?判断はとても難しいと思う。毎回
 正しい判断を下すなんて、たぶん不可能じゃないか。で、これが言いたいのはさ、誰が
 判断するにせよ、マダムだろうが誰だろうが、判断の手がかりが必要だってことだ」
・わたしはゆっくりうなずきました。
 「だから作品を持っていったってわけ・・・?」
 「かもしれん。マダムの展示館ってどこにあるか知らんけど、生徒の小さい頃からの作
 品がぎっしる詰まっているんだ。二人の生徒が来て、愛し合っていると言う。マダムは
 どうする。昔からの作品を引っ張り出して、二人がほんとにやっていけるのか、その相
 性を見ようとするんじゃないか。何しろ、作者の魂を映し出すってんだから。なあ、
 キャス。本物のカップルか、一時ののぼせ上りか、くらい判断できるだろう」
・「わからない」と、わたしは言いました。
 「あなたが言うように考えれば、エミリ先生がロイに言ったことの説明はつくと思う」
 「だろ?だからだと思う・・・だからルーシー先生が誤ったんだと思う。大した問題じ
 ゃないなんて言って、ごめん、間違いだったって。きっとおれをかわいそうだと思って
 言ってくれたんだろうけど、心の中じゃ、大した問題だとわかってたんだ。ヘールシャ
 ム出身がどうかってのは、要するにチャンスがあるかどうかだ。だが、マダムの展示館
 に作品がなければ、そんなチャンス、ないも同然だよな」
・トミーがそう言ったとき、わたしはそれが何を意味するかを悟り、全身に悪寒が走りま
 した。立ち止まってと見に向き直り、何か言おうとしましたが、それより先にトミーが
 笑いました。
 「もしそういうことなら、おれはチャンスをドブに投げ捨てたってことだ」
 「トミー、展示館にはなんにも行ってないの?ずっと小さい頃はどうだったのよ」
・トミーはもう首を横に振っていました。
 「おれがだめなのは知ってるだろ?それにルーシー先生のあの言葉があった。先生はよ
 かれと思って言ってくれた。おれを気の毒がって、助けてくれようとした。絶対そうな
 んだ。でも、おれの考えるとおりなら・・・」
・「ねえ、トミー、あなたの説に一理あるとしてもよ、調べることがまだまだたくさんあ
 ると思う。たとえば、申請の方法一つとったって、カップルはどこへどう申し出ればい
 いの。用紙がその辺に転がっているとは思えない」
・「そのこともいろいろ考えた」トミーの声はまた静かに、深くなっていきました。
 「誰でも思いつく方法が一つある。それはマダムを探すことだ」
・わたしにとっては、マダムや展示館に関わることを話すのはもうご免です。
 「買ってくれてありがとう、トミー」
 トミーはにっこりしました。
 「君がLPを見てる間に、おれがテープの箱にたどり着いてればな。おれが見つけてや
 れたのに。トミー君はいつもついてない」
 「わたしの感謝は同じよ。あなたが探そうって言ってくれたから見つかったんだもの。
 ロストコーナーか・・・すっかり忘れてた。ルースがあんなこと言って、さっきまです
 っかり落ち込んでたのに。昔のは、いったい誰が盗んだんだろ」
・「なあ、キャス、ルースがああ言ったとき、君はずいぶん取り乱したように見えた・・」
 「もう言わないで、トミー。もう大丈夫だから。ルースが戻ってきても、蒸し返すつも
 りはないから」
 「いや、そう言うことを言いたいんじゃない。ただな・・・気がついた。ルースがあん
 なことを言い出したときにさ、君が何でポルノ雑誌を見たがるのかに気がついた。
 いや、気がついたってのは失礼か。ただの想像だもんな。おれの想像のひとつだ。けど、
 ルースがあんなことを言ったとき、なんとなくぴんときた」
・トミーはしばらく待ち、「けど、まだわからんこともある」と言いました。
 「ルースの言ったことが正しいとは思わん。だが、仮に正しくてもさ、なぜポルノ雑誌
 なんだ。なぜポルノ雑誌でポシブルを探すんだ。ああいうモデルが『親』だって理由で
 もあるのか」 
・「理由なんてない。ただ、なんとなくやってるだけ」
 そう言ったとき、目に涙があふれてきました。
 トミーに見られるのが嫌で、隠そうとしましたが、「そんなに気に障るなら、もうやめ
 る」と言ったときには声が震えていました。
・「確かに無意味なことだけど、でも、誰でも気にはなるんじゃない?『親』はどんな人
 だろうって。だって、『親』がいるから、わたしたちもいるわけだし。気にはなるわ」
・「キャス、わかってると思うけど、あのボイラー小屋でのことな、おれは誰にも言って
 ない。ルースにも、誰にもだ。ただ、わからん、なんでポルノ雑誌なのかわからん」
・「いいわ。じゃ、話してあげる。聞いたからって、わかる保証はないけど、でも、聞き
 たければ聞いておいて。ときどきね・・・ときどき、とってもセックスがしたくなると
 きがあるの。突然、強烈にしたくなって、一、二時間は自分でも怖いくらい。それはひ
 どいの。ヒューイとしたのもそうだし、オリバーともそう。理由はそれだけ。好き嫌い
 なんて関係ない・・・というより、どちらもあまり好きなほうじゃないわね。だから、
 どうしてそうなるのかがわからなくて、通りすぎたあとは、ただ怖いの。それでね、
 なぜそうなるのかを考えたのよ。もしかしたら、そう生まれついたせいじゃないかしら。
 だから、ああいう雑誌の中に『親』が見つかれば、少なくともあの衝動の説明にはなる」
・「おれだってときどきそうなる。ほんとにしたいときってのは、そんなもんだぜ。正直、
 誰だってそうだろう。君が特別だとは思わんよ、キャス。おれがそうなる頻度もかなり
 のもんだし・・・」 
 「私が言ってるのは、ちょっと違うの。いろんな人を見てきて、確かにそんなムードに
 なることもあるみたいだけど、でも、否応なくって感じじゃないでしょ?わたしみたい
 にはならない。たとえば、あのヒューイともするなんで気には・・・」
 わたしはまた涙をこぼしはじめたかもしれません。
・トミーがこんなことを言いました。
 「それは必ずしも悪いことじゃないだろ。組に誰かが、いつも一緒にいたいって男が、
 見つかったら、むしろすごくいいことなんじゃないか。保護官が言ってたこと、覚えて
 るだろ?ふさわしい相手とのセックスはすばらしい心地いいものだ、って」
・「忘れましょう。それにね、最近は、そんな衝動が来ても、ずいぶん我慢できるように
 なったのよ。だから、あなたも忘れて」
 「それでもだ、キャス。ポルノ雑誌なんか見てるのはみっともないぞ」

第十六章
・春になり、一人、また一人と、訓練のために、先輩たちがコテージを離れていきました。
 みなとくに騒ぐこともなく、ひっそりと去っていきましたが、その数の多さから、見な
 いふりをつづけるのは不可能でした。
 残るわたしたちの感情がどんなものだったのか、確かなことはわかりません。
 去っていく先輩への羨望も多少あったかと思います。
 もっと大きな、わくわくする世界への旅立ちという側面もありましたから。
 もちろん、その一方で、わたしたちの不安が募っていったことも間違いありません。
・去っていく人数の多さに、先輩たちの間にも動揺があったようです。
 その影響なのかどうか、また新たな噂が出回りはじめました。
 内容はクリシーとロドニーがノーフォークで語っていたものと大同小異です。
 どこかの生徒が愛し合っていることが認められ、提供開始を猶予された・・・。
・わたしたちノーフォークに行った五人は、そういう話題から身を引きました。
 つい先頃まで、その種の噂の中心にいたクリシーとロドニーさえも、いまは周囲が盛り
 上がるたびに居心地悪そうに目をそらせました。
・ある日の朝、トミーは架空の動物の絵を私に見せてくれました。
 「キャス、これを見てくれるか?ルースには先週見せたけど、それ以外はまだ誰にも見
 せてない。君に見てもらおうと思ってた。これだ、キャス」
・初めてトミーの動物を見ました。わたしたちが幼い頃に描いたような絵をただ小さくし
 ただけかと思っていました。 
 ですから、実物を見て、その一体一体が実に細かく、実に丁寧に描き込まれていること
 に驚きました。
 「これは二冊目なんだ」とトミーが言いました。
 「一冊目はさすがに見せられん。調子が出るまでちょっと時間がかかったんで」
・「トミー、すごい集中力。この小屋の中でこんな小さいもの、よく見えるわね。驚いた」
 何か適切な言葉を見つけようと時間稼ぎをしながら、結局、見つからないまま、「マダ
 ムが見たらなんていうかしらね」とお茶を濁しました。
・わたしは目を上げず、マダムなど持ち出さなければよかったと悔やみながら、四分の一
 ほど埋まっている手帳のページをめくりつづけました。 
 やがて、トミーがこう言いました。
 「そんなんじゃ、まだまだマダムに見せられんだろ」
・これは、褒めてほしいという合図だったのでしょうか。
 でも、合図など不要でした。
 私自身、そのときまでには、目の前の空想生物にすっかり心を奪われていましたから。
・よくわからない何かが邪魔をしていて、わたしは誉め言葉を口にすることができずにい
 ました。  
 やがて、トミーがこう言いました。
 「おれとしちゃ、あのことだけのために描いているわけじゃないんだ。描いているのが
 楽しい。どうだろう、キャス。この絵のことは秘密にしておいたほうがいいかな。おれ
 がこれを描いているって、ほかの連中が知ってもさ、問題はないんじゃないか。ハナだ
 ってまだ水彩画をやっているわけだし、先輩にも何かやっているのがたくさんいる。
 べつに見せて回ろうってんじゃないが、とくに秘密にしておく理由もないかな、と思っ
 てさ」
・ようやく、わたしは目を上げ、トミーを見て、こう断言しました。
 「そうよ、トミー。秘密にしておく理由なんてない。すごいわよ。とてもすごい絵。
 秘密にしたいからってこんなところでこそこそやってたら、そっちのほうがおかしい」
・トミーからは答えがありませんでした。でも、何か思い出し笑いでもしている感じで、
 顔がにやりと崩れました。
 それだけで、わたしの言葉にトミーがどれほど喜んだかがわかりました。
・そして夏になり、わたしたちがコテージに来て一周年という日、新しい生徒の一団がや
 ってきました。  
 わたしたち動揺、マイクロバスでの到着でしたが、ヘールシャムの生徒は一人もおらず、
 これは、ある意味、救いでした。
 いまのコテージにヘールシャム出身の新顔が増えたら、状況がますます複雑になること
 は目に見えてましたから。
 でも、私自身のことを言うと、寂しさのほうが強かったように思います。
 ヘールシャムの生徒が含まれていなかったことで、ヘールシャムがますます遠い過去の
 ものになり、仲間との結びつきが薄れていくような気がしました。
 すでにハナなどは、口を開けば、アリスにならって自分も訓練を始めたい、と言ってい
 ましたし、ローラのように、ヘールシャム出身者でないボーイフレンドを見つけ、わた
 したちとはもう無関係の生活を送っている人もいました。
・ある日の夕方、わたしたちが何を話し合っているかをお話しするには、少し過去に遡ら
 なければなりません。
 少しと言いますか、数週間前、あの夏のもっと早い時期のことです。
 当時、わたしはレニーという先輩と付き合っていましたが、そのレニーが急に訓練を受
 けると言い出し、コテージを去っていきました。
 正直に申し上げると、レニーとはほとんどセックスだけの関係でしたが、それでも、や
 はり少々落ち込みました。
 そんなわたしにルースはとてもよくしてくれました。
・レニーが去って二週間ほどした頃、わたしたちは例によって、真夜中過ぎにお茶の入っ
 たマグカップを手に屋根裏部屋に行き、おしゃべりをしていました。
 ルースがレニーのことで何か言って私を笑わせ、わたしからもレニーの秘密をいくつか
 話しました。
 やがて、ルースは近くの壁際に積んであったカセットの山に手を伸ばし、指を上下に滑
 らせはじめました。ほんとうに何気ない動作に見えました。
 ただ、あのあと、あれは偶然ではなかったのではないか、と疑いました。
 ほんとうは何日も前に気づいていて、よく確かめたうえで、「見つける」最適のタイミ
 ングを計っていたのではないか、と。
 ともあれ、哀れなレニーの実像が一つずつ暴露され、二人して笑い転げているとき、
 突然、時間が止まりました。
 ルースがいきなり敷物の上に腹ばいになり、弱い光の中でカセットの背を調べ始めたの
 です。次の瞬間、その手にジュディ・ブリッジウォーターのカセットがありました。
 永遠と思える時間が過ぎて、ルースがこう言いました。
 「それで?いつからここにあったのよ」
・わたしはできるだけ平静を装い、トミーとわたしが偶然見つけたことを話しました。
 「トミーが見つけてくれたわけだ」
 「そうじゃない。わたしが先に見つけたのよ」
 「でも、わたしには黙ってたんだ、あなたもトミーも。それとも話してくれだけど、
 わたしに聞こえなかっただけかしら」  
 「ノーフォークはイギリスのロストコーナー。本当だったんだって思った」
 「わたしもそれを思い出していればよかった。そうしたら、あの赤いスカーフが見つか
 ってたかもしれないのに、残念」 
・二人で笑い、危険は過ぎ去ったかに見えました。
 でも、ルースがもうテープのことには触れず、そのままカセットの山に戻した様子から、
 わたしは、まだ問題の蹴りがついていないことを悟りました。
・ともあれ、わたしたちはレニーの話題に戻りました。
 とくに、レニーのセックスの癖について。
 そして、また笑い転げました。
 あのときわたしは、とにかくほっとしていたのだと思います。
 テープは見つけられたものの、とくに大騒ぎにならず、ほっと
 するあまり、いつもの用心を忘れていたのだと思います。 
・笑いの対象がいつの間にかレニーからトミーに移ることを許したのは、わたしの不注意
 でした。
 もちろん、最初は穏やかな内容でした。
 トミーへの愛情があふれ、それが自然の笑いになっていました。
 でも、やがて私たちはトミーの動物をあげつらい、冗談の種にしてしまいました。
・すばらしい絵であること、あそこまで描けたトミーはすごいということを、話のどこか
 に一言添えておくべきだったのに、それをしませんでした。
 たぶん、テープのことで負い目があったのだと思います。
 それに、正直に申し上げると、ルースがあの動物の絵を軽く考えていて、その意味や背
 後にあるトミーの思いを知らないことを、わたしはむしろ嬉しく思っていました。
・ですから、数日後に教会墓地で起こったことは、まったく予想外でした。
 散歩で近くを通りかかり、今日はルースがいそうだと思うときは、自然に教会に足が向
 くようになっていました。
 墓石の名前などを読みながら歩いていくと、柳の下のペンチに、ルースだけでなくトミ
 ーも来ているのが見えました。
・ルースはベンチにすわり、トミーはわきに立って、ベンチのさびた肘掛けに片足を載せ、
 ルースと何か話しながらストレッチをしていました。
 深刻な問題を話し合っているようには見えませんでしたから、わたしはためらわず二人
 に近づきました。 
 向けられた二人の視線と声から何かを感じるべきだったかもしれません。
 でも、見てそれとわかる違和感はありませんでした。
 わたしは新入りの一人について面白い話を仕込んだばかりで、二人にも聞かせてたくて
 たまらず、しばらく、一方的にしゃべっていたと思います。
 その間、二人はうなずいたり、質問をはさんだりしていました。
 わたしがどこかおかしいと気づくまでに、しばらくあったと思います。
 気づいて、「あら、何かお邪魔だったかしら」と訊いたときも、冗談口調でした。
・すると、「トミーの高邁なお説をうかがってたのよ」とルースが言いました。
 「あなたにはもう何世紀も前から話したんだって?わたしは、ようやく今日、お仲間に
 加えていただいたわ」
・トミーは溜息をつき、何か言おうとしましたが、ルースが大袈裟なひそひそ声で「トミ
 ーの展示館理論」と言いました。 
 「的はずれな考えじゃないと思う」とわたしは言いました。
 「正しい可能性だってある。あなたはどう思うのよ、ルース」
・「そのためだけにやってるんじゃない」トミーは片足を肘掛に載せたまま、ストレッチ
 をつづけながら、不機嫌な声で言いました。
 「おれが言ったのは、もし当たってたらの話だ。展示館のことがもし当たってたら、お
 れも努力して動物の絵を展示館入りを・・・」
 「トミー坊や、大事なお友達の前でばかを言わないで。わたしの前ではいいわよ。でも、
 お願い。大切なキャシーちゃんの前ではやめて」
 「どこがそんなに変なんだ。けっこうまともな考えだと思うんだがな」
 「理論がおかしいって言ってるんじゃないのよ。理論だけなら、まあ、買う人もいるか
 もしれない。そうじゃなくて、あなたのそのちっぽけな動物を見せたら、マダムが動い
 てくれるっていう考えがおかしいの」
 ルースは笑い、首を横に振りました。
・トミーは無言でストレッチをつづけていました。
 わたしはトミー助けたくて、どういえばいいかを考えました。
 ルースをこれ以上起こらせずにトミーを助けてやるには、どういえばいいか・・・。
 でも、ルースに先を越されました。
 言われたときも相当なショックでしたが、それが後々までどれほどの威力を持つ一言だ
 ったか、あの日、教会墓地に立っていたわたしには想像もつきませんでした。
・ルースはこう言ったのです。
 「わたしだけじゃないのよ、トミー坊や。キャシーだってそう。そんな動物の絵はね、
 とんでもないお笑いの種だって」  
・瞬間、頭にひらめいたのは否定することでした。
 次に、笑い飛ばすことでした。
 でも、ルースのいい方は自信に満ちていました。
 長い付き合いの三人です。
 そんな言い方の裏には相当の根拠がある、とわかっていました。
 ですから、わたしは何も言わず、心の内で必死にその根拠を探しました。
 そして、思い当たりました。あの夜です。
 わたしの屋根裏部屋で、お茶を飲みながら、・・・。
 わたしは慄然としました。
・その間もルースの言葉は続いていました。
 「冗談のつもりでやってるならね、周囲のみんなが冗談と考えてくれるなら、わたしも
 文句を言わない。でもね。真剣だなんて、おくびにも出さないで、頼むわよ。トミー」
・トミーはストレッチをやめ、不審そうに私を見ていました。
 「だから、トミー、わかってよ」とルースはつづけました。
 「キャシーとわたしの笑いものになるだけなら、どうってことない。わたしたちの間柄
 だもの。でも、他人にまで笑われるのはやめて」 
・あれから、あのときのことを何度も考えました。
 何かを言うべきだったのだと思います。
 もちろん、否定することはできたでしょうが、ただ否定するだけでは、トミーに信じて
 もらえたとは思えません。
・わたしは何も言わず、何もしませんでした。
 一つには、ルースがそんな卑劣な手を使ったことに打ちのめされていたからです。
 とてつもない疲労感に襲われました。
 巨大なもつれを目の前にしたときの無力感、疲労困憊した脳が数字の難問を突きつけら
 れたときの無力感でした。
 どこか遠くに答えがあることはわかっているのに、いくら振り絞ろうにも、やってみよ
 うとする気力が湧いてきません。
 わたしの中で何かが白旗をあげていました。
 「もういい」というつぶやきが聞こえました。
 「もういい。考えたい人は考えさせればいい。勝手に最悪を考えるといい。最悪を・・」
・そして、たぶんトミーを見つめ、表情でこう語りかけたでしょう。
 「そう、ルースの言ったとおりよ。ほかにどう思えっていうの?」と。
 いまでも、トミーの顔がまざまざと浮かんできます。
 一瞬にして、怒りが退き、代わりに驚嘆が現れました。
・泣きそうだったわけでも、癇癪玉が破裂しかかったわけでもありません。
 ただ、二人に背を向けて、立ち去ることに決めました。
 それが大きな間違いだったことには、もうその日のうちに気づきましたが、あのときの
 わたしは、トミーがルースに先に行かれ、もう一方と二人だけで取り残されることを何
 よりも恐れました。
 立ち去るのは一人だけ、それ以外の選択肢はありえない。
 なぜかそう思い、だったら、わたしがその一人にならねば、と思いました。
 しばらくは、大勝利を博したときのような昂揚感がありました。
 二人だけで顔を突き合わせて、どうぞお好きなように。
 何があったって知らない。いい気味だわ・・・。

第十七章
・あの教会墓地での小さな出来事がどれほど重要な意味を持っていたか・・・。
 気づいたのははるかのち、わたしがコテージを出てずいぶん経ってからでした。
 あのとき、確かにわたしは激しく動揺しました。
 でも、それは以前にもあったことです。
 しょっちゅうやる喧嘩の一つ・・・そう信じていました。
 あれほどしっかり結び合っていた私たちの人生が、あんな小さなことでばらばらにほど
 け、違う方向に進みはじめるとは、あのとき思ってもみませんでした。
・きっと、強い潮の流れが始まっていたのでしょう。
 それが私たちを押し流そうとしていました。
 つなぎ合っていた手が、あの出来事でついにもぎ離されたのだと思います。
 あのときそれがわかっていたら、と思います。
 わたしたちは手を強くつなぎ直し、少しは流れに抵抗できていたかもしれません。
・ますます多くの生徒が介護人になるために出ていき、わたしたちヘールシャム組の間で
 も、それが自然な流れだという雰囲気が強まっていました。
 まだ論文を書く作業が残っていましたが、訓練入りを希望すれば、とくに書き上げる必
 要がないことはわかっていました。
 論文を未完成のまま放りだすなど、コテージに来た直後にわたしたちには考えられない
 ことでしたが、ヘールシャムがしだいに過去に遠ざかっていくにつれ、論文の重要性も
 薄れていったように思います。
 わたし自身、到着して間もない頃は論文に強くこだわっていました。
 論文はヘールシャムそのもの、その重要性が薄れることはヘールシャムの意義も薄れる
 こと・・・そんな思いがあって、読書に励み、ノートをとりつづけました。
 でも、再び保護官に会える見込みはなく、多くの生徒がすでに将来への一歩を踏み出し
 ているのを見れば、論文など、もはやどうでもよいものに思われてきました。
・ともあれ、教会墓地でのことがあった後、わたしは起こったことを忘れ、平常に戻ろう
 と努めました。 
 トミーとルースには何事もなかったかのように接し、向こうも同様にしていました。
 でも、やはり何かが違っていました。
 わたしと二人の仲が違っただけではなくトミーとルースの仲も以前とは違いました。
・何が起こったかをお話ししましょう。
 わたしとトミーの仲はこじれても、ルースとはさほどでもありませんでした・・・。 
 少なくとも、わたしはそう思っていました。
 ですから、教会墓地でのことを、ルースとは一度話し合っておくべきだろうと考えたの
 です。
・「あのさ、ルース、先日のことだけど、少し話し合って解決しておいた方がよくないか
 しら」
 わたしは穏やかな声で話しかけ、ルースも応えてくれました。
 ばかばかしいことだった、とすぐに言いました。
 三人があんなことで喧嘩するなんて、と。
・ルースは「どうしても話しておきたいの。これ以上黙っていたら、そんな自分が許せな
 くなりそう」
 「わたしとトミーがカップ路を解消する可能性もあるってこと、わかってるよね?べつ
 に悲劇樹ない。お互いにぴったりのときもあったけど、これからもずっとそうかどうか
 は誰にも分らない。で、いまあの噂が左官でしょ?カップルが、その・・・お互いにぴ
 ったりなら、提供を猶予してもらえるって噂。でね、わたしが言いたいのは、こういう
 こと。あなたならとっくに考えてても不思議じゃない。つまり、仮に私とトミーが一緒
 にいることをやめおうってなったとして、そのあとのこと。ううん、すぐ別れるってん
 じゃないから誤解しないで。でも、あなたならもう考えてても全然不思議じゃない。言
 いたいことはね、キャシー、トミーはあなたをそういうふうには見ていないってことな
 の。トミーはあなたが大好きよ。あなたをすばらしい女性だと思ってる。でもね、そう
 いうふうには・・・その、ガールフレンドとしては見てない。それに・・・」
 ルースは言いよどみ、溜息をつきました。
 「しれに、トミーがどんな人か知ってるでしょ?いろいろ気難しいの」
・わたしはルースを見つめました。「どういう意味」
 「言いたいことはわかるでしょ?トミーはね、あの人ともこの人とも・・・その、付き
 合ってたような女性は相手にできないの。これはトミーが持って生まれた性格よね。
 気の毒と思うわよ、キャシー。でも、言わずにおくのはいけないと思った」
・私はじっと考えました。そして、「知っていくに越したことはないわね」と言いました。
 ルースが腕に触れてくるのを感じました。
 「ちゃんと受け止めてもらえると思ってた。でも、わかって。あなたはトミーにとって
 大事な人よ。とっても大事な人」
・わたしが決心したのは、それからほどなくです。
 一度決心したら、もう揺らぐことはありませんでした。
 わたしは、介護人の訓練を始めたい、と伝えました。
・これですべてが動き出し、あとはしばらく待つだけでした。
 わたしはここを出ていく人間となり、突然、すべてを、コテージを、そこで暮らす仲間
 を、新しい目で見ていました。
 もうコテージで二人とまともに話し合うこともありませんでした。
 そして、ある日、気がつくと、わたしは全員にさよならを言っていました。

第三部
第十八章
・介護人という仕事は、幸い私には向いていたようです。
 介護人をすることで、わたしの最小の部分が引き出されたとさえ言えるかもしれません。
 でも、向いていない人には、これはとても辛い仕事でしょう。
 最初は意欲をもって臨んでも、苦痛と不安ばかりを間近に見る生活が始まります。
 そして、遅かれ早かれ、担当している提供者が使命を終える瞬間が来ます。
 ほんの二回目の提供でも、最悪の事態など誰も予想していなくても、起こるときはそれ
 が起こります。
 そんなとき、看護婦からどんな言葉をかけられても、ましてや当局から「最善の努力に
 感謝します。これからも良い仕事とをつづけてください」などと言う通り一遍の手紙を
 もらっても、何の慰めにもなりません。誰でもしばらくは落ち込みます。
 そこから立ち直れるかどうかは人それぞれで、すぐに乗り越える人もいますし、ローラ
 のように、ついにしれができなかった人もいます。
 そして、孤独です。わたしは多くの人に囲まれて育ち、賑やかな環境しか知りませんで
 した。それが看護人になると、突然、すべてが一人になりました。一人で何時間も田舎
 道を走り、センターからセンターへ、病院から病院へ移動します。泊まるのはいつもビ
 ジネスホテルに一泊で、心配事を打ち上げる相手も、一緒に笑い合う相手もいません。
・わたし自身も決して例外ではないのでしょうが、何とかその中で生きていく術を学んで
 きました。 
 周囲には、投げやりになってしまった介護人が数多くいます。
 決められたことを惰性でこなしながら、早く介護人をやめられる日を、提供者になれる
 日を、待っています。
 病院に一歩入ったとたん、萎縮してしまう介護人が多いのも、見ていて気になります。
 医師や看護婦にどう話しかけていいかわからず、提供者の意思を代弁することもうまく
 できません。
 それでは思いが鬱積し、何かあったときに自分を責めたくなるのも当然でしょう。
・たまに、自分の世界に入り込んでいるときに知り合いに出くわしたりすると、むしろシ
 ョックを受けて、対応にまごつくことがあります。
 風の強いあの朝、サービスステーションの駐車場でローラを見かけたときもそうでした。
 駐車してある一台の車の運転席にローラが座り、自動車道の方向をぼんやり見つけてい
 ました。
 車まではまだ少し距離がありましたから、一瞬、このまま気づかないふりをして通り過
 ぎようかとも思いました。
 車の中でうなだれているローラを見たとき、ああ、あの種の、介護人になってしまった、
 と直感しました。
 そんなローラをこれ以上近くで見たくないという思いが働いたのだと思います。
・でも、もちろん、ローラに声をかけに行きました。
 わたしが車の窓を叩いても、ローラは驚きませんでした。
 久しぶりのわたしを認めても、とくに意外そうな様子もなく、まるで誰かを、わたしと
 は言いません。誰か、わたしのような昔からの知り合いを、待っていて様な感じすらし
 ました。 
・に十分ほど話したでしょうか。
 二人とも、極力、昔の話を避けました。
 思い出すのは危険だと感じていたかもしれません。
 でも、最後の最後にルースの名前が出てきました。
 数年前、ある診療所でルースと鉢合わせたそうです。
 わたしがその時のルースのことをいろいろと尋ねると、ローラはとたんに口が重くなり、
 わたしは少しいらいらしてこう言いました。
 「でも、何か話したでしょうに」
・ローラは長い溜息をつき、「あなただってわかるでしょう。二人とも急いでたのよ」と
 言い、こうつづけました。
 「それに、コテージを出るときは、親友として別れたわけじゃあなかったしね」
 「あなたとも気まずくなってたの?知らなかった」
・ローラは肩をすくめました。
 「大したことじゃない。あの頃、ルースがどんなだったか覚えているでしょ?あなたが
 いなくなってから、どっちかって言うと、もっとひどくなった。あれをしろ、これをや
 れって、みんなに命令してね。だから、わたしは避けてただけ。大喧嘩したとか、そん
 なんじゃない。じゃ、あなたはあれ以来会ってないんだ?」
・「噂だと、ルースの最初の提供はひどかったそうよ。ただの噂だけど、でも、一度なら
 ず聞いてる」
 「それはわたしも聞いた」
 「ルースもかわいそうに」
・「ねえ、キャシー」とローラが言いました。
 「あなた、提供者を選べるんだって?」
・わたしはうなずき、「いつもじゃないよ」と答えました。
 「でも、何人かの提供者でよくやってくれたからって、ときどきは選ばせてもらえるよ
 うになった」  
・「選べるんなら、ルースの介護人になってやったらどう?」
 わたしは肩をすくめ、「考えてみたことはあるけど・・・」と言いました。
 「でも、いいことかわからなくて」
 ローラは不思議そうな顔をしました。
 「だって、あなたとルースはすごく親しかったじゃない」
 「まあね。でも、あなたと同じよ、ローラ。最後にはそうでもなかった」
 「もう大昔のことじゃないの。ルースはひどいことになってて、介護人ともうまくいっ
 てないみたい。もう何人も交代してるんだって」
 「意外とは言えないわね」とわたしは言いました。
 「想像してみてよ、ルースの介護人って・・・」
 ローラは笑いました。
・そんなやり取りでようやくヘールシャムの閉鎖に触れたとき、わたしたちは、突然、
 昔の親友同士に戻り、自然に抱き締め合っていました。 
 互いに慰めるように、二人の記憶の中ではヘールシャムがまだ健在であること、それを
 確認するめの動作だったと思います。
・ヘールシャム閉鎖の噂を耳にしたのは、駐車場でローラを見かけるより一年ほど前だっ
 たでしょうか。
 提供者や介護人と話しているとき、何気なく言われました。
 そしてある日、サフォームの診療所から出てきたとき、一年下だったロジャーと出くわ
 しました。
 その時、ロジャーは絶対確かだという口振りで、これから起ころうとしていることを話
 してくれました。
 ヘールシャムは今日明日二も閉鎖され、土地も建物もホテルチェーンに売却される・・
 ・。ロジャーから聞いたとき、わたしの口をついて出た最初の言葉は、「じゃ、生徒た
 ちはどうするの」でした。
 ロジャーは誤解しました。現在ヘールシャムにいて、保護官に頼り切っている生徒たち
 のことだと思ったのでしょう。心配げな表情を浮かべ、たぶん、国中のあちこちの施設
 に移されることになるだろう、と言いました。
 でも、もちろん、私が言ったのは違います。
 わたしは、「わたしたち」のことを言いました。
 わたしと一緒に育ち、いまは全国各地に散らばっている介護人と提供者。いまは別れ別
 れになっていても、ヘールシャムで育ったという共通の一事でむずばれているわたした
 ちのことです。
・ロジャーと会ってからの数カ月間、わたしはヘールシャムの閉鎖と、それが意味するこ
 とを考え続けました。
 そして、徐々にあることに思い至りました。
 それは、時間切れ、ということです。
 やりたいことはいずれできると思ってきましたが、それは間違いで、すぐにでも行動を
 起こさないと、機会は永遠に失われるかもしれない、ということです。
 ロジャーの知らせにパニックを起こしたというのとは違いますが、でも、ヘールシャム
 が閉鎖されると思ったとたん、周囲のすべてが違って見えてきたことは確かです。
 だからこそ、あの日、「ルースの介護人になってやったらどう」というローラお言葉が、
 その場では不定してみたものの、心に大きく響きつづけたのだと思います。
 わたしの心はすでに介護人になることを決めていて、その決心を覆い隠していたベール
 が、ローラの一言で取りされたような気がします。
・ただ、初回の訪問で唯一問題だったのは、コテージでの最後の別れ方に二人とも触れな
 かったことです。 
 最初にそれを片づけておけば、その後の流れは違っていたかもしれません。
 でも、わたしたちはその子所だけを都合よく省略しました。
 そして、しばらく話がはずんでいるうちに、なんとなく、あれは起こらなかったことに
 しようという無意識の合意ができたように思います。
・そして、ある日の午後のことです。わたしは廊下をルースの部屋に向かっていました。
 途中、向かい側のシャワー室で誰かがシャワーを使っている音が聞こえました。
 たぶんルースだと思い、先に部屋に入って待つことにしました。
 窓に向かって立ち、外に広がる屋根また屋根の景色をながめながら、五分ほど待ったで
 しょうか。タオルを一枚巻き付けただけの姿で、ルースが入ってきました。ルースの名
 誉のために申し上げておくと、わたしは予定より一時間ほど早く到着してしまいました
 し、それにシャワー後にタオル一枚だけの姿では、誰でも無防備な感じがするでしょう。
 それは認めたうえで、ルースの顔に浮かんだ強い警戒の表情に、わたしはあっけにとら
 れました。
 多少驚くな、とは予想していました。でも、驚いたあと、いるのがわたしだとわかって
 からも、たっぷり一秒間はその表情が崩れませんでした。
 それは恐怖というと言いすぎかもしれませんが、あからさまな警戒だったことは確かで
 す。まるで私に何かされるものと思い続けていて、そのときがついに来たと覚悟したか
 のようでした。
・次の瞬間、その表情は消え、わたしたちはいつもの二人に戻りました。
 でも、この出来事は、どちらにとっても衝撃だったと思います。
 わたしはルースに信用されていないことに気づきました。
 たぶんルース自身も、わたしを信用していないことに、あのとき、きづいたのではない
 でしょうか。
 ともあれ、その日以後、雰囲気は悪くなる一方でした。
・やがて、ルースへの訪問は苦痛になりました。
 会いに行くたびに、まず何分間か車の中で気を静め、これから始める試練への心構えを
 作らなければならないほどになりました。
 ある訪問では、すべてに検査を無言のまま終え、そのあとも無言のまま座りつづけると
 いうことがあり、わたしは介護失敗の報告書を出して、ルースの介護人をやめる決心を
 しました。 
 でも、わからないものです。あの船のおかげですべてが変わったのですから。
・どうしてこういうことが起こるか、実に不思議です。
 ときには冗談、ときには噂話、それがセンターからセンターに伝わり、ほんの数日で国
 中を駆けめぐって、突然、すべての提供者が口角泡を飛ばしています。
 今回は船でした。わたしが初めてその話を知ったのは北ウェールズでのことです。
・わたしはとにかく話せる材料ができたことにほっとし、話し続けようルースを促しまし
 た。  
 「上の階に男の人がいてね、その人の介護人が実際に見てきたんだって。道からそんな
 に離れてないから、誰でもあまり苦労なくいけるみたい。とにかく、船が一隻、湿地で
 座礁してるんですってよ」
・「見たいんじゃないの?」
 「まあね。どっちかといえば見たい。毎日毎日ここに居つづけ何だもの」
・当然、トミーにも会ってくるべきかしら?トミーのいるセンターって、その漁船の座礁
 場所からほんの少しだから」 
 「で、ほんとにトミーに会いたいの?」
 「うん」ルースの答えには、何のためらいもありませんでした。
 真っ直ぐにわたしを見つめて、「会いたい」と言い、静かな声で「長く会ってないなあ、
 コテージ以来だもの」とつづけました。
・あの秋、わたしにつづいてコテージを出る頃には、二人の気持ちはもう離れていた、と
 ルースは言いました。
 「どのみち、訓練撃受ける場世は別々だったしね。だから、はっきり別れるって形をと
 っても意味がなかったから、コテージを出るまでは一緒にいたんだけど」
・わたしは、ついに仲介者を通じてトミーの介護人と連絡を取りました。
 トミー側から反対の意思表示がなければ、来週これこれの日の午後、わたしたち二人で
 キングスフィールドのセンターを訪れます・・・。

第十九章
・当時、わたしはキングスフィールドにはほとんど行ったことがありませんでした。
 ここは設備のおくれた回復センターです。
 現在のわたしのようにここに特別の思い出が詰まっていれば別ですが、そうでもなけれ
 ば自発的に訪れたい場所ではないでしょう。ルースとキングスフィールドに言った午後
 は、空がどんより曇り、少し肌寒い天気でした。
 広場に車を乗り入れたとき、そこは閑散としていて、娯楽ホールの屋根の下に六、七人
 の影が見えました。
 私がプールの跡の上に車を止めると、その影の集団から一人が離れ、わたしたちの方向
 へ歩いてきました。
 すぐにトミーだとわかりました。
 最後に見たときより、五、六キロほども太っていたようでした。
・ルースがわたしの横で、一瞬、パニックに陥ったように見えました。
 「どうしよう」と言いました。
・トミーが車の近くまで来たとき、その視線がまず向いたのはわたしです。
 最初に抱きしめられたのも、わたしです。
 二人はまだ挨拶の言葉も交わしていませんでしたが、車の中からルースが見つけている
 ことを感じ、体を離しました。
・トミーがわたしの横を通り、車まで行くと、後部ドアを開けて乗り込みました。
 車の中の二人が互いに何かを言い、あいさつのキスを頬に交わすのを、今度はわたしが
 外から見ていました。
・曲がりくねった細い道をしばらく行き、やがて開けた空間に出ると、これといった特徴
 のない田舎の風景が続きます。道路もほとんど空っぽでした。
 船のある場所までのドライブで覚えていることといえば、灰色の雲の合間から、太陽が
 久しぶりに弱々しい顔を覗かせたことくらいです。
・わたしたちは座礁している船をじっとながめました。ペンキがひび割れ、剥げかかって
 います。木製の小さなキャビンも柱が崩れはじめています。もとは青色に塗られていた
 ようですが、いまは頭上の空を映し、ほとんど白く見えました。
・「どこからどうやって来たのかしらね」
 わたしは二人にも届くように大きな声で言いました。
・後ろからトミーの声が聞こえてきました。
 「ヘールシャムも、いまこんなふうなのかな。どう思う?」
 「ヘールシャムのことを思うと、いつもこんな風景が浮かんでくるんだ。理屈じゃなく
 て、これはおれの頭の中の風景に近い。もちろん、船はないんだが・・・。
・「あのな、メグがしばらくおれたちのセンターにいたんだ。けど、どこか北のほうで三
 度目の提供だそうで、出てった。その後の噂をトンと聞かんのだが、君らはどうだ。何
 か知らないか」
・わたしは首を横に振りました。
 ルースからは声がなく、わたしは振り向いて、ルースを見ました。
 最初は、まだ船を見ているのかと思いましたが、どうやら、その視線はさらに遠くに向
 けられていたようです。 
・「聞いたことを話すわね。メグじゃなくて、クリシーのことだけど。二回目の提供で、
 使命を終えたって」
 「それはおれも聞いた。同じ話だったから、きっと確かだろう。ほんの二回目でなんて、
 とても気の毒だ。おれはそうならなくてよかった」
 「そういうことって、公表されていないだけで、きっとよくあるんじゃないかしら。あ
 そこにいるわたしの介護人さんなら、たぶん知ってると思う。話してはくれないだろう
 けど」
・「わたしね、ロドニーに会ったことがあるの」とわたしは言いました。
 「クリシーが使命を終えてから間もなく、元気そうにしてた」
 「でも、クリシーのことで絶対ずたずただったはずよ」とルースが言い、トミーに向か
  って、「ほんとのことなんて、半分も話してくれないんだから」とつづけました。
・「それほど落ち込んでいなかったと思う」とわたしは言いました。
 「もちろん、悲しそうだったけど、でも元気だった。どのみち、二年も会ってなかった
 わけだしね。クリシーもそんなに気に病まなかったろうって言ってた。クリシーのこと
 なら、わたし、ロドニーに従うわ」
・「ロドニーになにがわかるの」とルースが言いました。
 「クリシーが何を思ったか、何をしたかったか、どうしてロドニーにわかるのよ。手術
 台に乗って、必死に生きようとしてたのはロドニーじゃない。なんでロドニーにわかる
 の」昔のルースらしい怒りの爆発でした。
・「無念だったろうな」とトミーが言いました。
 「二回目の提供で使命を終えるなんてな。無念だったろう」
・「ロドニーが平気だったなんて信じられない」とルースが言いました。
 「何分間か立ち話しただけなんでしょう?なんでそう言い切れるのよ」
・「確かにな」とトミーが言いました。
 「けど、キャスが言うとおり、二人はもう切れてたわけだし・・・」
・「そんなの関係ない」ルースがさえぎりました。
 「見方によっちゃ、そっちのほうがいっそう悪いわよ」
・「ロドニーのような立場の人なら、たくさん見てきてるのよ」とわたしは言いました。
 「何とか折り合いをつけるところもね」
・「なんでわかるの」とルースは繰り返しました。
 「なんであなたにわかるの、まだ介護人にあなたに」
・「介護人だから、多くを見るのよ。うんざりするほど多くを」
・「おれのセンターにある男がいてな、そいつは心配性って言おうか、二回目はだめだろ
 うって、いつも言ってた。骨にそれを感じる、ってのが口癖でな。けど大丈夫だった。
 つい最近、三度目を終えたばかりだが、ぴんぴんしてる」
・トミーは額に手をかざしました。
 「おれは会議人としちゃだめだった。運転も覚えられなかったしな。だからだろう、す
 ぐに一回目の通知が来た。そういう基準で動いていないってことは知ってるが、おれの
 場合は、どうも、そうじゃないかと思う。ま、とくに気にしてないよ。これでも提供者
 としちゃなかなか優秀だぜ。介護人は落第だったけどな」
・やがてルースがこう言いました。ずっと穏やかな声になっていました。
 「わたしは介護人としてもまずまずだったと思うわ。でも、五年間やったら、もう十分
 って思った。その点は、あなたと同じね、トミー。いつでも通知が来てって感じだった
 から、来たときは、むしろ落ち着いた。結局、それが使命だものね。でしょ?」
・「キャシー」とルースは言いました。
 「どうやっても許してもらえるとは思わないし、許される理由がないとも思う。でも、
 やはり許してほしい。お願い」
・わたしは面喰らいました。何を言っていいかわからず、ごく当たり前のことを言いま
 した。
 「許すって、何を」
 「何を許す?そう、まず、あなたの性衝動にことでいつも嘘をついていたこと。昔、
 いつも言ってたわね。ときどきすごくしたくなって、そんなときは誰とでもしてしまい
 そうだって」
・トミーがわたしたちの後ろで身じろぎしましたが、ルースはトミーが車にいることなど
 忘れたかのように、真っ直ぐにわたしを見つめました。
 「あなたが悩んでるのはわかってた。言ってあげるべきだったと思う。わたしも同じだ
 って、同じことがわたしにも起こるって、そう話してあげるべきだったと思う。そう、
 いまはもうあなたもわかってる。でも、当時はわかってなかった。だから、話してあげ
 るべきだった。トミーと一緒のわたしでさえ、我慢できずにほかの人と、少なくとも三
 人と、したことがあるって、そう話してあげるべきだったと思う」
・「何度かは、話す寸前まで行ったの。でも話さなかった。当時から、あのときからもう
 わかってた。いずれあなたがいまを振り返って、嘘をつかれたことに気づいて、わたし
 を責めるだろうって、わかってた。それでも言わなかった。だからあなたがわたしを許
 す理由なんてないけど、出も許してほしい。だって・・・」ルースは言いよどみました。
・「だって、最大の罪は、あなたとトミーの仲を裂いたことよ」ルースの声はまた低くな
 り、ほとんどささやき声でした。「わたしがやった最悪のことはそれ」
 「カップルはあなたとトミーのはずだった。昔からわかってたおよ。わからなかったふ
 りをするつもりなんてない。もちろん、わかってた。わかりながら邪魔しつづけた。こ
 れはもう、許してなんて頼めることじゃない。だから、私が頼みたいのはそれじゃない。
 あなたたち二人に取り戻してほしいの。私がだめにしたものを取り戻してほしい」
・「どういう意味だ、ルース。取り戻すって?」トミーの声は穏やかで、子どものような
 好奇心にあふれていました。 
 わたしを泣き出させたのは、トミーはその声だったと思います。
・「キャシー、聞いて。あなたとトミーでやってみて、提供を猶予してもらって。あなた
 たち二人なら、きっとチャンスがあると思う」
 ルースは手を伸ばし、わたしの肩に置きました。
 でも、わたしはその手を乱暴に払いのけ、涙を流しながらルースをにらみつけました。
 「そんなこと遅すぎる。何年も遅すぎるわよ」
 「おそすぎないと思う。キャシー、聞いて。絶対に遅すぎない。確かにトミーはもう二
 回提供してるけど、だからって何。だからだめってことにはならない」
・「もう遅いわよ。そういうことには遅すぎる」わたしはまた泣きはじめました。
・「あなたたち、二人とも聞いて」とルースが言いました。
 「わたしが今日の船見物をねだったのは、いま言ったことを言いたかったからだけど、
 もう一つ理由があるの。これを渡したかった」
 そう言って、アノラックのポケットに手を突っ込み、しわくちゃの紙切れを取り出しま
 した。
 トミー、これはあなたが持ってて。ちゃんと保管するのよ。そしてキャシーがその気に
 なったら、使って」
・トミーは「これは何なんだ。よくわからん」と言いました。
・「それがマダムの住所。いま、あなたたちがわたしに言ってたとおりよ。とにかく、や
 るだけやってみて」
・わたしがトミーの介護人になる、それが、あのときの話の全体を象徴する表現になって
 いました。
 わたしは、かんがえてみる、と答えます。
 いくらわたしだって、そんなに簡単に手配できることじゃないんだから、と。
 ていてい、・そこで話が終わります。
 でも、話は終わっても、ルースの心にいつもわがかまっていることは感じていました。
 だからこそ、ルースの最後に立ち会ったとき、言葉にはならなくても、ルースがわたし
 に言いたかったことがわかるのです。
・二回目の手の提供から三日後でした。ようやく会いことを許されたときは、もう日付が
 変わっていました。
 ルースが部屋に一人きりでした。
 できるだけの手当ては尽くされていたのでしょう。
 医師や看護婦、提供調整官の言動から、今回は乗り切れそうにないとわかっていました。
 病院の暗い照明の下で、ベッドに横たわっているルースを見下ろしたとき、その顔には
 見慣れた表情がありました。
 何人もの提供者に見つづけてきたあの表情です。
・厳密に言えば、ルースにはまだ意識があったはずです。
 でも、金属ベッドのわきに立つ私からは、そのルースに意思を通じさせる手段がありま
 せんでした。 
 わたしはただ椅子を引き寄せ、ルースの手を両手に包んで座りつづけました。
・許されるかぎり、そうやって座りつづけました。三時間か、もっと長かったかもしれま
 せん。そのさんじかんのほとんどを、ルースは遠く自分の体内に閉じ籠っていました。
 でも、一回だけ、体が恐ろしいほど不自然な捻じれ方をし、わたしがもう少しで、看護
 婦を呼んで、鎮痛剤を、と言おうとしたときです。
 ほんの数秒間、わずか数秒間、ルースがわたしをまっすぐに見上げ、わたしを認めまし
 た。最後の戦いを戦っている提供者には、ふっと明晰さの瞬間が訪れることがあります。
 あれもそうした瞬間だったのでしょう。トミーの介護人になる」
 ルースはわたしを見、その一瞬、声は出ませんでしたが、言いたいことがわたしに通じ
 ました。わたしは「大丈夫」と答えました。
 「やってみるから、ルース。できるだけ早く小さな声でそう答えました。
 二人の視線が結び合ったあのとき、あの数秒間、わたしにルースの表情が読めたように、
 ルースもわたしの思いを正確に読み取ってくれたと思います。

第二十章
・船を見に行ってからきっかり一年後、わたしはトミーの介護人になりました。
 トミーは三度目の提供をしたばかりで、順調に回復してはいましたが、まだ十分な休養
 が必要でした。
 でも、結果的には、二人が一緒に新しい段階に進むために悪い時期ではなかったと思い
 ます。
 わたしはすぐにキングスフィールドに慣れ、やがてこの場所が好きにさえなりはじめま
 した。
・キングスフィールドにいる提供者のほとんどは、三度目の提供のあとに個室をもらいま
 す。
 トミーに割り当てられたのは、センターでいちばん大きいシングル部屋の一つでした。 
・あそこで過ごした時間の大半は、とてものんびりしていて、牧歌的とさえ言えるほどで
 した。
 わたしが訪問するのは、たいてい昼食後です。
 部屋に行くと、トミーが狭いベッドに長々と寝ています。
 でも、病人みたいなのは嫌だからと、きちんと身支度をしているのがトミーらしいとこ
 ろです。
 わたしは椅子にすわり、持ってきたペーパーバックを朗読します。
 それか、ただおしゃべりをします。
 昔の思い出話もありましたし、ほかのこともありました。
 午後も後半になると、トミーはウトウトし、わたしはその間に机でレポートの遅れを取
 り戻します。
 コテージ以後二人を隔てていた年月はたちまち溶けて流れ去り、二人はまた昔の二人に
 なりました。
・もちろん、すべてが昔のままではありません。
 たとえば、トミーとのセックスがあります。
 実際にセックスを始める前、トミーがそれをどれだけ望んでいたかはわかりません。
 なんと言ってもまだ回復途中の体でしたし、トミーにとって最優先の欲求ではなかった
 でしょう。
 わたしとしても無理強いするつもりはありませんでしたが、と言って、あまり長く放っ
 ておいたのでは、二人が一緒に暮らすようになったとき、それを自然に関係の一部とす
 ることが難しくなるという心配がありました。
 それに、あの計画のこともあります
 ルースが望んだとおりに計画を進め、提供の猶予を申請するつもりなら、セックスをし
 ていないことが大きなマイナスになりはしないでしょうか。
 もちろん、そんなことを事細かに尋ねられるとは思いませんが、でも、どこか親密さが
 足りないとか、そういう形で現れることがないとは言えないでしょう。
・ですから、ある日の午後、乗るか乗らないかはトミーに任せることにして、とにかく始
 めてみることにしました。 
 いつものように本を朗読しました。
 トミーはベッドに横になり、天井を見つめながら聞いていました。
 読み終わってから、わたしはトミーの寝ているベッドに行き、縁に腰かけました。
 そして、手をトミーのTシャツの下に滑り込ませ、下のほうに持っていきました。
 固くなるまでに少し時間がかかりましたが、トミーが喜んでくれていることはすぐに伝
 わってきました。
 初めてのその日は、まだ傷口の心配もありましたし、これだけの年月知り合いながら一
 度もセックスをしていないという間柄ですから、本格的に始める前に、まず中間の段階
 が必要かと思いました。
 それで、しばらくそこに触れていて、わたしの手で済ませてあげました。
 音さえも立てずに、でも、とても安らいだ表情をしていました。
・ただ、すでにその初回から、わたしはあることを感じていました。
 その初回から、哀しみに染まった何かをトミーに感じたということです。
 いまはこうしているのは裏しい、甲できるのはうれしい、だが、ようやくいまになって
 というのが、おれは悲しい・・・。
・そのあと、普通のセックスをするようになり、それに大きな幸せを感じるようになって
 からも、その思いはいつもそこにありました。
 気になるそれを遠ざけるために、わたしはあらゆることをしました。
 すべての抑制を取り払って、セックスに耽りました。
 トミーが上なら、わたしは両ひざを立て、大きく開いて迎い入れました。
 ほかのどんな体位をとるときでも、もっとよく、もっと情熱的にするために、何でも言
 い、何でもしました。
 でも、気になるその思いが完全に消えることはついにありませんでした。
・キングスフィールドを訪れるようになって最初の数週間、わたしたちはマダムも、あの
 日、車の中でルースと交わした会話にも、ほとんど触れませんでした。
 でも、わたしがトミーの介護人であること自体が、ぐずぐずしていられないことを思い
 出させてくれました。
・確かに、キングフィールドにいるほかの提供者は、猶予のことなど聞いたこともなかっ
 たでしょう。 
 わたしたちには、たぶん、恥ずべき秘密を共有しているような、何となく肩身の狭い思
 いがあったと思います。
 ほかの提供者に計画を知られたら何が起こるか、それを恐れてさえいたかもしれません。
・あのままの日々がずっとつづいていたら、おしゃべりをし、セックスをし、朗読し、絵
 を描く午後がつづいていたら、わたしたちは幸せだったかもしれません。
 でも、夏が終わろうとしていました。
 トミーが健康を取り戻すとともに、四度目の提供の通知が舞い込む可能性も無視できな
 くなりました。
 いつまでも待てない、わたしたたちはそれがわかっていました。
・マダムを見たわよ。昨日、話加計はしなかったけど、とにかく見た」
 トミーはわたしを見て、何も言いませんでした。
 「通りをやってきて、その家に入ってった。ルースは間違ってなかったんだ。所も番地
 も全部正しかった」 
・電話ボックスの横にあるベンチすわって、ひたすら待ったこと・・・。
 前回同様、わたしは通りの向かい側にある家から眼を離さず、じっと待っていました。
・わたしはくたびれていて、ベンチで居眠りしそうになっていました。
 でも、はっと目を上げると、そこに見えました。
 マダムが通りをこちら側へ歩いてくるところでした。
 「なんだか気味が悪いくらい。だってね、昔のまんまだもの。そりゃ、顔が多少老けた
 かなと思うけど、それ以外は全然変わらないの。服装も同じ。あの灰色のスーツをきち
 んと着こなしてた」
・通りを隔ててはいましたが、マダムはわたしの真ん前を、こちらには目もくれず通り過
 ぎていきました。 
 一瞬、あの家さえも通り過ぎそうに見えて、わたしは、ルースの捜し出した所番地が間
 違いだったのかと恐れました。
 でも、マダムは門の前で直角に曲がり、玄関までのスペースをほんの二、三歩で渡り切
 って、家の中に消えていきました。
・トミーは溜息をつき、わたしの肩に深く頭を埋めました。
 見ている人がいたら、トミーは乗り気ではい、と思ったかもしれません。
 でも、わたしにはトミーの思いがわかりました。
 猶予のこと、展示館のこと、それにまつわるもろもろのこと・・・昔からずっと考え続
 けてきたことが、突然、目の前にあるのです。確かに怖いことでした。
・トミーがようやく口を開き、こう言いました。
 「うまくいったとして、仮にマダムが三年くれたとする。二人だけの三年だ。そうした
 らどうする。キャス?言ってること、わかるか。どこへ行くんだ。ここにはいられんだ
 ろ。センターだものな」
・「わたしたちはマダムに会いに行く。マダムが怒たって、何ができるっての。会って話
 したいってだけのわたしたちによ」   

第二十一章
・テイクアウトのサンドイッチを買える店を探しているとき、突然、トミーがわたしの胸
 をぎゅっとつかみました。
 すごい力で下から、痙攣でも起こしたかと思いましたが、耳元でトミーがこうささやき
 ました。
 「いたぞ、キャス。見ろ。美容院の前だ」
・確かに、マダムです。昔と同じ灰色のスーツをスマートに着こなし、向かい側の歩道を
 歩いていました。 
・わたしたちは少し距離を置いて、後を追うことにしました。
 マダムは一度も振り返ることなく、小さな門から庭に入っていきました。
・横にいるトミーが、いまにも何かを叫びそうな気配でした。
 そんなことをしたらぶち壊しです。 
 ですから、とっさに、トミーより先にわたしが声をかけました。
 「すみません」の一言を言っただけです。
 なのに、マダムは物を投げつけられたかのように、くるりと反転しました。
 見つめられた時、わたしは一瞬ぞくっとしました。
 昔、本館の外でマダムを待ち伏せしたときのあの感覚です。
 視線の冷たさは昔のままで、表情全体はわたしの記憶より一層厳しさを増していたよう
 な気がします。
・「マダム」わたしは、門の上に身を乗り出して呼びかけました。
 「驚かせるつもりはありませんでした。ヘールシャムでお見かけしています。わたしは
 キャシー。覚えておいででしょうか。ことらはトミーです。面倒をおかけするつもりは
 ありません」
・マダムはわたしたちに数歩近づき、「ヘールシャム?」と言いました。
 かすかに笑いが浮かんだようでした」
 「それは驚きです。面倒をかけるつもりはない?では、なぜここに?」
・「お話ししたいんです」と、突然、トミーが言いました。
 「持ってきたものがあります。もしかしたら展示館に入れていただけるものです。ぜひ、
 お話させてください」
 「いいでしょう。お入りなさい。何のお話なのか、うかがってみましょう」
・ヘールシャムでは、敵意をもって外部から入り込んできた人のように見えたマダムが、
 面と向かっていると、特別にわたしたちへの好意を感じさせる言動があるわけでもない
 のに、最近数年間会った誰よりも優しく、誰よりも近しい人のように思えたのです。
 だからでしょう。わたしは、突然、頭の中に準備してきたことを捨て、昔、保護官にし
 ていたように、すなおに、正直に話し始めていました。
 噂に聞いた、と言いました。ヘールシャム出身の生徒には、提供が猶予されるチャンス
 があると聞きました。真実かどうかわかりません。頭から信じ込んでいるわけではあり
 ません。それに・・・。
 「それに、もしほんとうだとしても、マダムはもううんざりしておいででしょう。いろ
 んなカップルが来て、愛し合っていると申し立てるわけですから。トミーとわたしにし
 ても、愛し合っている確信がなければ、ここにうかがっていません」
・「確信ですか」長い間黙って聞いていたマダムが、突然、そう口を開き、わたしたちは
 びくっとしました。  
・「確信と言いましたね。愛し合っている確信がある。どうしてそれがわかります。愛は
 そんなに簡単なものですか。二人は愛し合っている。深く愛し合っている。そういうこ
 とですか」
・マダムの声は嫌みにも聞こえました。
 でも、わたしは見てショックを受けました。
 わたしを見、トミーを見るマダムの目に、涙がありましたから。
・「あなたたちは信じている。深く愛し合っていると信じている。だから、わたしのとこ
 ろへ・・・猶予を求めてきた。なぜ、わたしのところへ来たのです」
・マダムの問いかけは、いわば試験問題のようでした。
 マダム侍臣にはもう答えがわかっている・・・そんな問い方でした。
 ですから、わたしは希望を失いませんでした。
 でも、トミーは心配になったようです。突然、こう言いました。
 「展示館のことでうかがいました。マダムの展示館の目的を、たぶん、おれたちは知っ
 ています」
・「私の展示館?わたしのコレクションのことですね。絵画に、詩に、その他、長年にわ
 たって集めたあなた方の作品。わたしには大変な仕事でした。でも、意義のあることと
 信じていました。当時は、みなが・・・。そう、あれが何のためだったか、なぜそうし
 たか、あなたは知っていると言うのですか。では、ぜひうかがいましょう。わたしがい
 つも自分自身に尋ねていることでもありますからね」
・マダムがこう言いました。
 「わたしがあなた方の作品を集めていると思い、それを展示館と呼んだ、そうですね?
 そんな名前で呼ばれているなんて、初めて聞いたときは笑いましたよ。でも、そのうち、
 わたし自身もその名前を使うようになりました。わたしの展示館。では、あなた、説明
 して。なぜわたしの展示館が、本当に愛し合っている二人を見分けるのに役立つのかし
 ら」 
・「作者がどんな人間かを物語るからです」とトミーが言いました。
 「つまり、作品は作者の内容をさらけ出す」とマダムがさえぎりました。
 それですね?作者の魂を見せる」そして、またわたしのほうを向き、「やりすぎでしょ
 うか」と言いました。
・「いいわ、つづけましょう。で、あなた私に話したいことというのは?」
 「困ったことに、当時のおれは問題児でした」
 「作品のことを言っていたのではありませんか?作品は作者の魂をさらけ出す、と?」
 「あの、おれがいおうとしていたのは」とトミーは言いつづけました。
 「あの頃、おれはちょっと問題児で、全然、絵を描かなかったってことなんです。なん
 でも。やっておくべきだったとは、いまになって思いますけど、ばかでした。だから、
 マダムの展示館にはおれの作品が一つもありません。責任はおれ自身にあるし、もうと
 んでもなく遅すぎるかもしれませんけど、ここにいくつか持ってきました」
 「最近のもありますし、ずいぶん昔のもあります。キャスの作品はもうあるはずです。
 たくさん展示館入りしてましたから。だよな、キャス?」
・一瞬、トミーとマダムの視線がわたしに集まりました。
 やがて、聞き取れないほどの小さな声で、マダムがこう言いました。
 「かわいそうな子たち。あんな目論見だの計画だので、結局、わたしたちは何というこ
 とをしたのかしら・・・」
 マダムは絶句し、その目にはまた涙があったような気がします。
・マダムはわたしに向き直り、「どうします。この話をつづけますか」と言いました。
 先ほどの「やりすぎでしょうか」に、こんどの「つづますか」。
 私は気づいて身震いしました。
 これは、わたしでもトミーでもなく、背後の暗闇でじっと聞いている誰かへの問いかけ
 だったのです。   
・女性の声がしました。「そうね、マリ・クロード。つづけましょう」
 わたしは暗闇を見つめつづけました。
 マダムが「ふん」と鼻を鳴らすように声を立て、わたしたちの間を通って、暗闇に入っ
 ていきました。さらに機械的な音がして、車椅子を押すマダムが現れました。
 車椅子には人影があります。車椅子はわたしたちの間を通りましたが、マダムの背中が
 邪魔になって、乗っている人物が見えませんでした。
 やがて、マダムが車椅子の向きを変え、わたしたちの正面で止めました。
 そして、こう言いました。
 「あなたが話してください。結局、あなたに話したくて来たのですから」
 「そうだわね」
 その声を聞いたとき、わたしには誰だかがわかりました。
 「エミリ先生」トミーがそっと言いました。

第二十二章
・「マリー・クロードの言うとおりです」とエミリ先生が言いました。マリー・クロード
 はプロジェクトのためによく働いてくれました。それがあんな終わり方をして、すっか
 り幻滅ぎみなのですよ。わたしもがっかりしましたけど、でも悔いはありません。成し
 遂げたことに十分な価値があると思っていますからね。たとえば、あなた方二人。立派
 に成人しました」
・「マリー・クロードも、どうでもいいふりをしているけれど、本心はそう。ここを探し
 当ててくれたことに感謝しているはずです。
 さて、あなた方の質問にできるだけ答えておきましょう。その噂は、私自身も幾度とな
 く耳にしました。まだヘールシャムがあった頃には、年に二、三組ものカップルが訪ね
 てきたものです。手紙を書いてきた子もいましたし、あれだけ大きな施設でしたから、
 規則違反を覚悟のうえなら、捜し出すのは難しくなかったのでしょう。その噂はあなた
 方の頃よりずっと昔からありました」
・わたしは「エミリ先生」と呼びかけました。
 「わたしたちがいま知りたいのは、その噂がほんとうかどうかです」
・先生はしばらくわたしたちを見つけていて、一つ大きな息を吸いました。
 「ヘールシャムの施設内だけなら、そんなうわさが流れるたびにちゃんと始末で来たの
 ですけれど、出て行った生徒たちが何かを言うのは止めようがありません。結局、こう
 いう噂は、一回流れてそれで終わりというものではないのですよ。何もないところから
 何度でも発生するのです。
・私はトミーを見られませんでした。
 でも、私自身は驚くほど冷静でした。
 先生の言葉はわたしたちを打ちのめしていて当然の内容でしたが、もっと何かがる、ま
 だ何か隠されていると感じさせるものがありました。きっと全貌はまだ明かされていな
 いのです。
・わたしは尋ねました。
「では、提供の猶予などないということでしょうか。できることは何もないと・・・」
・エミリ先生はゆっくりと首を振りました。
 「噂には真実のかけれもありません。残念だけど・・・気の毒だけど」
・突然、トミーが顔をあげ、「でも、以前は?」と尋ねました。
 「ヘールシャムが閉鎖される前はどうだったんです」
・先生は首を振りつづけました。
 「ありません。モーニングデール・スキャンダルの前、ヘールシャムが希望の光であり、
 人道的運営のモデル施設と見られていた頃でさえ、その噂はうわさに過ぎませんでした。
 これは、はっきりさせておいたほうがいいでしょう。実体のないおとぎ話です。ずっと
 そうでした」  
・「噂がでたらめなら、なぜ・・・」とトミーが言いました。
 「なぜ、おれたちの作品を持っていったんです。展示館もなかったってことですか」
・「展示館?そう、あれには多少の根拠がありました。展示館はありましたし、ある意味、
 まだあります。最近の展示館はね、実はここにあるのですよ。この家の中に。全部を置
 いておくだけの部屋がなくて、残念ながらかなりの数を減らしましたけれど、まだあり
 ます。なぜ作品を持っていったのか。それを知りたいのですね」
・「そもそも何のための作品制作だったのですか。なぜ教え、励まし、あれだけのものを
 作らせたのですか。どのみち提供を終えて死ぬだけなら、あの授業はいったいなぜえ?
 読書や討論会はなぜだったのです」
・「そもそも、なぜヘールシャムなのか。それを訊くといいでしょう」とマダムが部屋に
 入ってきて、またわたしたちの横を通り、暗がりに引っ込んでいきました。
・先生がこう言いました。
 「そうですね。そもそも、なぜヘールシャムなのか。マリ・クロードは最近そればかり
 言っています。でも、モーニングデール・スキャンダルはさほど過去のことではありま
 せんよ。あれは以前には、そんなことを思いもしなかったでしょうに。そんな問いその
 ものが湧いてこなかったはずですよ。当時からそんな疑問を持っていたのは一人だけ、
 そう、わたしだけですよ。モーニンフデールのはるか前、創設時からそれを言っていま
 した。だからこそほかの人は、気楽にしていられたのですよ。みな能天気にやることを
 やっていればすみました。あなた方生徒もそう。心配事や悩み事は全部私が引き受けて
 いて、わたしさえしっかりしていれば、あなた方は誰一人、疑いを抱かずにいられまし
 た。でも、いまトミーから質問がありました。一番簡単なものから答えていきましょう。
 それに答えれば、全部の答えになるかもしれません。なぜ作品を持っていったのか。
 あなたはさっき面白いことを言いましたね、トミー。作品は作者を物語る、作者の内部
 をさらけ出す、でしたか?だいたい当たっています。わたしたちが作品を持っていった
 のは、あなた方の魂が、心があることが、そこに見えると思ったからです。 
・「でも、なぜそんな証明が必要なのですか、先生。魂がないとでも、誰か思っていたの
 でしょうか」
 わたしはそう訊ねました。
・先生の顔に微かな笑みが浮かびました。
 「あっけに取られていますね、キャシー。ある意味、感動的ですよ。だって、わたした
 ちがちゃんと仕事をしたことの証明ですからね。あなたの言うとおり、魂があるのかな
 んて疑う方がおかしい。でもね、キャシー、わたしたちがこの運動を始めた当初は、
 けっして自明のことではなかったのですよ。これだけの年月を経て今日でさえ、まだ世
 界の常識とは言えません。あなた方はヘールシャムを出て、こうやって世の中で生活し
 ていますけれど、それでも実態を半分も知りません。全国いたるところで、この瞬間に
 も、実に嘆かわしい環境で育てられている生徒たちがいるのです。ヘールシャムの生徒
 には想像もつかない劣悪な環境です。わたしたちの運動が挫折したいま、これからはも
 っとひどくなっていくでしょう」 
・エミリ先生はまた言葉を切り、目を半ば閉じて、じっとわたしたちを見ていました。
 やがてこうつづけました。
 「わたしたちの保護下にある間は、あなたがたを素晴らしい環境で育てること、何がで
 きなくても、それだけはできたつもりですよ。そして、わたしたちの下を離れてからも、
 最悪のことだけは免れるように配慮してあげること。少なくともその二つだけはしたつ
 もりです。でも、あなた方のその夢、提供を猶予してもらうという夢は、わたしたちの
 力の及ばないことです。運動の影響が最大だったころでさえ無理だったでしょう。
 できれば聞きたくなかったことでしょうね。気の毒に思います。でも、落胆ばかりして
 ほしくありません。わたしたちがしてあげられたことも考えてください。
 そして、当時の臓器提供計画のある方に反省を促しました。でも、最大の功績はほかに
 あると思います。生徒たちを人道的で、文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じ
 ように、感受性豊かで理知的な人間に育ちうること、それを世界に示したことでしょう。
 それ以前のクローン人間は、わたしたちは生徒と呼んでいましたけれど、すべて医学
 のための存在でした。戦後の初歩的段階では、ほとんどの人がそう思っていたはずです。
 試験管の中の得体のしれない存在、それがあなた方、と。
・で、トミー、あなたの質問への答えとしては、だからあなた方の作品を集めたのです。
 できのいい作品を集めて、特別の展示館を開きました。どうぞ、この絵をご覧になって
 ください。どう思われますか。こういう絵を描ける子供たちを、どうして人間以下など
 と言えるでしょう・・・。そう、多くの人が運動に賛同してくれました。順風満帆に見
 えました」
 「でも、モーニングデールの一件があり、ほかにもいろいろと・・・そして、あれよあ
 れよという間に、わたしたちの努力は水泡に帰してしまいました」
・「でも、先生」とわたしは言いました。「そもそも、なぜ生徒たちをひどく扱うのです
 か。そこがわかりません」 
・「あなたがたからすると、しごく当然の疑問でしょうけど、でもね、キャシー、歴史的
 に見えるとどうなります?戦後、50年代初期に次から次へ科学上の大きな発見があり
 ました。あまり速すぎて、その意味するところを考える暇も、当然の疑問を発する余裕
 もなかったのですよ。突然、目の前にさまざまな可能性が出現し、それまで不治とされ
 ていた病に治癒の希望が出てきました。世界中の目がその点だけに集中し、誰も欲しい
 と思ったのですね。でも、そういう治療に使われる臓器はどこから?真空に育ち、無か
 ら生まれる・・・と人々は信じた、というか、まあ、信じたがったわけです。ええ、議
 論はありましたよ。でも、世間があなた方生徒たちのことを気にかけはじめ、どう育て
 られているのか、そもそもこの世に生み出されるべきだったのかどうかを考えるように
 なったときは、もう遅すぎました。
 こういう動きは始めてしまうと、もう止められません。
 癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます?
 不治の病だった時代に戻ってくださいと言えます?
 そう、逆戻りはあり得ないのです。
 あなた方の存在を知って少しは気が咎めても、それより自分の子供が、配偶者が、親が、
 友人が、がんや運動ニューロン病や心臓病で死なないことのほうが大事なのです。
 それで、長い間、あなた方は日陰での生存を余儀なくされました。
 世間は何とかあなた方のことを考えまいとしました。
 どうしても考えざるを得ないときは、自分たちとは違うのだと思い込もうとしました。
 完全な人間ではない、だから問題にしなくていい・・・。わたしたちの小さな運動始ま
 ったときの状況は、そんなふうです。
 ここに世界があって、その世界は生徒の臓器提供を必要としている。
 そうであるかぎり、あなた方を普通の人間と見なそうとすることには抵抗があります。
 わたしたちは長い間それと戦って、待遇の改善という成果をあげました。
 そこへモーニングデール・スキャンダルです。さらに、あといくつか。
 あっという間に世間の空気は変わってしまいました。
 もう、わたしたちの運動を支持し、賛同していることを知られたがる人はいません。
 わたしたちの運動は、息の根を止められました」
・「先生、さっきからおしゃっているモーニングデール・スキャンダルとは何でしょうか」
 とわたしは尋ねました。
・「知る理由があるなせんものね。世間一般にも広く知れ渡っていることではありません
 し。ジェームズ・モーニングデールという科学者がいたんですよ。その道では才能があ
 ったんでしょう。よほど人目につきたくなかったらしくて、スコットランドの奥地に引
 っ込んで研究を続けていました。したかったことは、能力を強化した子供を産むこと、
 望む親にその可能性を提供することでした。特別に頭がいい、特別に運動神経が発達し
 ている。そういう子どもです。もちろん、同じようなことを考えた人は以前にもいまし
 たけれど、このモーニングデールという科学者の研究をずいぶん前進させて、法律の定
 める限界を超えようとしたのです。でも、見つかって、研究は中止され、それで問題は
 終わったようにみえました。ただ、もちろん、終わってはいなかったのです。少なくと
 もわたしたちにとってはね。先ほども言ったとおり、世間的には大問題になったわけで
 はないのに、その後雰囲気が変わりました。一つの恐怖を思い出させる出来事だったの
 ですね。臓器提供用の生徒たち、つまり、あなた方を作り出すことはしかたがない。
 でも、普通の人間より明らかに優れた能力を持つ子供たちが生まれたら、この社会は、
 いずれそういう子どもたちの世代に乗っ取られる。それは困る。それは怖い。ね?世間
 はその可能性の前に尻込みしました」
・「でも、先生」とわたしは言いました。
 「それが私たちとどう関係するのですか。そういうことがあっても、なぜヘールシャム
 が閉鎖に・・・」  
・「そこのところがわたしたちのもよく見えませんでした。少なくとも最初はね。そして、
 見えなかったのはわたしたちの責任です。自分たちのことにかまけず、もっと目を広く
 見開いていたら、と思います。初めてモーニングデールのニュースが流れた段階で手を
 うち、懸命に働きかけていたら、この事態は避けられたかもしれません。
 でも、マリー・クロードは違うと言います。
 何をどうやっても、やはりこういう結末になっただろうと言います。
 そうなのかもしれません。モーニングデールだけではありませんでしたからね。
 ほかにもいろいろありました。
 すべてを突き詰めていってみると、結局はこれ、最大の原因はわたしたちが弱すぎたこ
 と、運動が小さすぎたことです。
 支援者に頼り過ぎて、その気まぐれに左右されたことです。追い風のときはいいですよ。
 あの企業やこの政治家が、わたしたちを支援することにメリットを見出だしている間は、
 楽ではなくてもなんとかやっていけました。
 でも、モーニングデール以後は、風向きが変わったあとは、もうだめ、臓器提供計画が本
 当はどういう仕組みで動いていたかなど、世間は思い出したがりません。
 あなた方生徒のことも、その生徒たちが育った環境のことも考えたがりません。
 つまり、また日陰に戻ってほしかったのですよ。日陰に戻って、ひっそりしていてほしか
 ったのです。
 そして、あれほど熱心にわたしたちを支援してくれていた著名人も、もちろん、たちまち
 いなくなりました。スポンサーも一年ほどのうちに次々に消えました。
 何とか自力で頑張って、グレンモーゲンより二年ほど長く生き延びましたけれど、結局、
 知っての通り閉鎖に追い込まれました。
 いま、わたしたちのやって来た仕事など、ほとんど痕跡も残っていません。
 もう、国中どこを探してもヘールシャムのような場所はありません。
 あるのは、政府が運営する昔ながらの『ホーム』です。
 昔に比べたら多少はましになっているのでしょうけど、でもね、ああ いうところで何が
 行われているのかを見てしまったら、何日も眠れませんよ」
・不意にトミーがこう言いました。
 「じゃ、本当に何もないんだ。猶予も何も・・・」
 「そう、トミー。そういうものはありません。あなたの人生は、決められたとおりに終
 わることになります」 
 「じゃ、先生。おれたちがやってきたことってのは、授業から何から全部、いま先生が
 話してくれたことのためだけにあったんですか。それ以外の理由は何もなかったんです
 か」
・「わかりますよ、トミー。それじゃチェスの駒と同じだと思っているでしょう。確かに、
 そういうふうに見えるかもしれません。でも、考えてみて、あなた方は、駒だとしても
 幸運な駒ですよ。追い風が吹くかに見えた時期もありましたが、それは去りました。
 世の中とは、ときにそうしたものです。受け入れなければね。人の考えや感情はあちら
 に行き、こちらに戻り、変わります。あなた方は、変化する流れの中の今に生まれたと
 いうことです」
・「追い風か、逆風か。先生にはそれだけのことかもしれません」とわたしは言いました。
 「でも、そこに生まれたわたしたちには人生の全部です」
 「それもそのとおり。でも、あなた方は過去の生徒たちよりずっと恵まれていることを
 忘れないで。それに、これからの生徒たちにはどんな人生が待っていることか。誰にも
 わかりません」
・突然、トミーが尋ねました。
 「ルーシー先生がいなくなった理由もそれですか」
・「ルーシー・ウェンライトね。そうでした。ちょっとしたトラブルがありました」
 「そう、意見の違いとでも言いましょうかね。でも、いま話していたこととは関係があ
 りません、少なくとも。あれは、いわば内部の問題でした」
・私は「先生」と呼び止めました。
 「先生、差し支えなければ教えてください。ルーシー先生と何があったのですか」
 「悪い子ではありませんでしたね。ルーシー。でも、しばらくしているうちに、いろい
 ろと言い始めたのですよ。生徒たちの意識をもっと高めるべきだ。何が待ち受けている
 か、自分が何者か、何のための存在か、ちゃんと教えたほうがいい・・・。物事をでき
 るだけ完全な形で教えるべきだと信じていました。それをしないのは、生徒たちをだま
 すことにほかならない、って。わたしたちはルーシーの意見を検討して、誤っていると
 結論しました」
・「なぜです」とトミーが言いました。「なぜ誤っているのです」
 「長年ヘールシャムを運営してきたわたしたちには、経験がありました。ヘールシャム
 以後も踏まえたとき、何が生徒たちのためになるのかがわかってきました。ルーシーは
 理想主義的でした。それ自体悪いことではありませんが、現実を知りませんでした。
 わたしたちは生徒に何かを、誰からも奪い去られることのない何かを、与えようとして、
 それができたと思っています。どうやって?主として保護することです。保護すること
 がヘールシャムの運営理念でした。それは、ときには物事を隠すことを意味しました。
 嘘もつきました。そう、わたしたちはいろいろな面であなた方をだましました。
 だました・・・そういってもいいでしょう。でも、ヘールシャムにいる間、わたしたち
 は生徒を保護しました。だからこそ、あなた方には子ども時代があったのです。
 ルーシーがいくらよかれと思っていても、あれに自由にやらせたら、生徒の幸せなど木
 端微塵です。わたしたちの保護がなかったら、いまのあなた方はありません。
 授業に身を入れることも、図画工作や詩作に没頭することもなかったでしょう。
 それはそうですよ。将来に何が待ち受けているかを知って、どうして一所懸命になれま
 す?無意味だと言いはじめたでしょう。そういわれたら、わたしたちに反論する言葉は
 ありません。ですから、ルーシーには去ってもらいました。
・わたしは声を低くし、エミリ先生にこう言いました。
 「マダムはわたしたちが嫌いです。普通の人が蜘蛛か何かを怖がるみたいに、わたした
 ちを怖がっていました」
・きっと、エミリ先生が怒るだろうと思いました。怒ろうとどうしようと、もうかまわな
 いとも思いました。
 先生は、紙屑でも投げつけられたかのように、わたしの方にきっと振り向きました。
 でも、口から出てきた声は、柔らかく、穏やかでした。
 「マリ・クロードは、あなた方のためにすべてをなげうったのですよ。働いて、働いて、
 働き詰めでした。これだけは間違えないで。あれはあなた方の味方です。これからもず
 っとそうでしょう。あなた方を怖がっていた?それはわたしたち全部ですよ。わたしも
 そう。ヘールシャムにいる頃も、ほとんど毎日、あなた方への恐怖心を抑えるために必
 死でした。自室の窓からあなた方を見下ろしていて、嫌悪感で体中が震えたことだって
 あります・・・」
・先生は黙りましたが、その目でまた何かが光りました。
 「でもね、正しいことをするためには、そういう感情に負けてはなりません。わたしは
 その感情と戦って、勝ちました」
・薄れていく光の中で、マダムがわたしをじっと見ているのがわかりました。
 「キャシー、覚えていますよ。そう、覚えています」
 マダムはそう言い、また黙って、わたしを見つけ続けました。
・「昔、ある日の午後、寮でのことです。ほかには誰もいなくて、わたしはテープをかけ
 ていました。ある音楽のテープです。目を閉じて、音楽に合わせて体を揺すっていると
 ころを、マダムに見られました」
 「あなただとわかったのは、ほんのいまですけど、よく覚えていますよ。いまでも、
 ときどき思い出します」 
・「マダムはあの日・・・普通ではありませんでした。私が気配に気づいて目を開けたと
 き、わたしを見ながら泣いていませんでしたか。いえ、確かに泣いていらっしゃいまし
 た。わたしを見て、泣く。なぜでしょう」 
・マダムは表情を変えず、依然、わたしの顔を見つけていました。ようやく、
 「ええ、泣いていました。音楽が聞こえて、だれかばかな生徒がかけっぱなしにしてい
 るのかと思いましたよ。でも、寮に入っていくと、あなたがいました。小さな女の子が
 一人だけで踊っていました。そう、あなたが言うとおり、目を閉じて、どこか遠くを漂
 うように、何かを願うように、踊っていました。とても共感を誘う踊りでしたよ。それ
 にあの音楽、あの歌・・・。歌詞にも胸に響くものがりました。悲しみ一杯のようで」
・「あの日、あなたが踊っているのを見たとき、わたしには別のものが見えたのですよ。
 新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい、古い病気に新しい治療
 法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女が
 いた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつ
 つある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願
 している。わたしはそれを見たのです。正確には、あなたや、あなたの踊りを見ていた
 わけではないのですが、でも、あなたの姿に胸が張り裂けそうでした。あれから忘れた
 ことがありません。 
・マダムは、わたしたちから一、二歩のところまで近づいてきました。
 「今日のあなたたちの話にも胸を打たれました」
 そう言って、トミーを見、またわたしを見ました。
 「かわいそうな子たち。助けてあげられればと思いますが、あなたたち二人だけでやっ
 ていただくしかありません」
 マダムはわたしの顔を見つめたまま、手を伸べ、わたしの頬に触れました。
 マダムの体に震えが走るのがわかりました。
 でも、手はそのまま私の頬にとどまり、目に涙が沸き上がるのが見えました。
 「かわいそうな子たち」
 マダムはささやくように繰り返し、背を向けて、家に戻っていきました。
・不意にこう言いました。
 「ルーシー先生が正しいと思う。エミリ先生じゃない」

第二十三章
・帰ってから一週間ほどは、特に変わったこともないようにみえました。
 でも、それがいつまでも続くとは到底思えませんでした・
・でも、抵抗を感じる変化もいくつかありました。
 トミーの部屋で一緒に楽しい時間が過ごせなくなったというのではありませんし、とき
 どきはセックスも楽しんでいました。
 でも、トミーの意識がしだいにセンターにいる提供者仲間のほうに向きはじめているこ
 とに否応なく気づかされることがありました。
・たまに、わたしが提供者でないことを理由に、だから君にはわからないと言われること
 があって、そんなときも小さな怒りを感じました。
 でも、それは文字どおりと小さな怒りですんでいました。
 普通は冗談混じりに、ほとんど愛情一杯という口調で言われますし、たまに冗談以上の
 「意味が込められていることがあっても、喧嘩にはなりません。
・ただ、一度だけ、わたしが提供者でないと言われ、心底怒ったことがありました。
 あれは、トミーに四度目の提供の通知が来て一週間ほどあとのことでした。
 来ることは二人とも予期していて、それまでに何度も話し合っていました。
 というより、四度目の提供については、リトルハンプトン以後、徹底的に話し合いを重
 ねてきたと言ってもいいかも知れません。
 四度目への反応は、提供者によって実にさまざまです。
 絶えず話題にしていないと気がすまず、意味もなく、際限もなく語りつづける人、冗談
 としか触れられない人、語ることを拒絶する人・・・。
 加えて、提供者間には、四度目の提供を特別の祝い事と見なす奇妙な習慣もありました。
 「四度目の人」は、それまでどれほど不人気であっても、特別の尊敬で遇されます。
 医者や看護婦までがそれに便乗し盛り上げます。
 わたしとトミーは、そういうことも含め、あらゆることを語り合いました。
 いろいろな人が色々な方法で四度目に立ち向かおうとすることに触れ、どれが理想的か
 を語り合いました。
・あるとき、夕暮の前のひと時を二人でベッドに寝転んでいるとき、トミーがこう言いま
 した。
 「四度目になると、みんな心配するのはなぜか知ってるか、キャス?それはな、四度目
 で本当に使命完了といくかどうか、よくわからなんからだよ。終わることが確実なら、
 もっと楽なんだがな。だが、誰も確かなことは言わない」
・これがいつか持ち出されるだろうとは、しばらく前から思っていました。
 そして、どう対応するかも考えてはいました。
 でも、実際に持ち出される手見ると、言う言葉がなく、ただ、「たわごともいいとこよ、
 トミー。噂、しようもない噂。話し合う価値もないわ」と言うのが精一杯でした。
・私の言葉に何の裏づけもないことはトミーも知っていました。
 医者でさえ明確な答えを持っていないのですから、わたしが知るはずがありません。
 四度目の提供がすめば、技術的にはそれで使命が終わります。
 でも、本当にそうか、とトミーは言っていたのです。
 何らかの形で意識が残るのではないか。
 そして、向こう側でも相変わらず提供が続くのではないか。それも、何度も何度も・・
 ・。向こうには回復センターもなく、介護人もおらず、友だちもいない。
 最終的に誰かがスイッチを切ってくれるまで、続行される提供をただ見ている以外する
 ことがない・・・。
 医師や看護婦や介護人はもちろん、提供者自身も普段はあまり触れたがりません。
 でも、ときどきその話題を持ち出す提供者がいます。
 あの日のトミーもそうでした。
 話し合っておくべきだったと、いまは思います。
 でも、あのときのわたしは「たわごと」と切り捨て、そのあと、二人ともこの問題から
 尻込みしました。
 でも、口には出さなくても、トミーの心にかかっていることはわかっていて、わたしと
 しては、あれだけでも言ってくれてよかったと思っていました。
 そして、全体的な印象としては、四度目の提供にも無地対応できそうだと思っていたの
 です。
 ですから、あの日、原っぱを散歩していてトミーにあれを言われたときは、ショックで
 した。
・キングフィールドには、散歩に適した場所がありません。
 建物の裏側の一番大きな土地を、提供者たちは「原っぱ」と呼んでいました。
 そばにあの大きな道路が通っているのでは、大して心の鎮まる場所にはならないでしょ
 う。それでも、何かの不安を散歩でまぎらせたいとき、提供者は原っぱに来て、イラク
 サやイバラの棘の間を歩き回りました。
・あの朝は、深い霧が出ていました。原っぱを歩けば、びしょ濡れになることはわかって
 いましたが、トミーがどうしても歩きたいと言い張りました。
 トミーは、霧一色の向こう側を見つめながら、こう言ったのです。
 「キャス、誤解しないでくれよ。このところずっと考えてた。キャス、おれは介護人を
 替えようと思う」
・トミーの言葉から数秒後、わたしは自分がまったく驚いていないことに気づきました。
 ある意味、来るものが来たという感じだったでしょうか。
 でも、それと怒りは別物です。
 わたしは怒り、何も言いませんでした。
・「四度目の提供が来るからというだけじゃない。それだけが理由じゃないんだ。ほら、
 先週、腎臓がひどかったろう?これからは、ああいうことが多くなる」
 「だからじゃない。だから介護人なのよ。何のためにわたしがあなたの介護人になって
 いると思ってるの。これから始まることのため。それルースの望んだことよ」
 「ルースが望んだのはあっちのことだ。最後の最後までおれの介護人でいることを望ん
 だかどうかはわからん」  
・「トミー」と、わたしは言いました。
 その時は猛烈な怒りがこみあげていたと思います。
 でも、できるだけ低く静かな声で言いました。
 「そういうことのために、わたしはあなたの介護人になったんじゃない」
 「ルースが望んだのはあっちのことだ」とトミーは繰り返しました。
 「こっちのことは別だ。君の目の前で変なことになりたくない」
・ルースならわかってくれたろう。提供者だったからな。おれと同じことを望んだかどう
 かは別として、わかってくれたはずだ。あいつは最後の最後まで君に介護人をやっても
 らいたいと思ったかもしれん。けど、おれが違うやり方をしたいと言っても、わかって
 くれたと思う。キャス、君にはわからんこともあるんだ。提供者じゃないから・・・」
・聞いたとたん、わたしは背を向けて、立ち去りました。
 介護人を替えたいと言われたときは、半ば準備ができていました。でも、これは・・・。
 トミーはわたしを除け者にしました。
 わたしはトミーと提供者仲間から遠ざけられ、こんどはトミーとルースから遠ざけられ
 ました。わたしは打ちのめされました。
・でも、大喧嘩にはなりませんでした。
 多少よそよそしくも、一応仲直りし、介護人を替える手続きのような実際的な問題まで
 話し合いました。   
 トミーがこう言いました。
 「また喧嘩したいわけじゃない。けど、キャス、これは以前から訊きたいと思ってた。
 なあ、介護人にくたびれないのか?おれたちはとっくに提供者だ。なのに、君はずっと
 介護人のままでいる。いい加減にしてくれって思わないか。さっさと通知を送ってよこ
 せって。え、キャス?」
・私は肩をすくめました。
 「気にしない。それに、いい介護人は重要でしょ?わたしは優秀なのよ」
 「けど、ほんとにそんなに重要なのか?そりゃ、いい看護人がついてくれればありがた
 い。けど、結局のところ、そんなに重要なのか?いくら介護人がよくたって、提供者は
 提供して、いずれは使命を終える」
 「もちろん、重要よ。介護人の善し悪しで、提供者の生活がずいぶん変わるんだから」
 「けど、君は駆け回ってばかりだ。くたびれ切って、いつも独りぼっちで・・・。
 ずっと見てきたおれにはわかる。これじゃ、ぼろぼろになる。君も思うときがあるんじ
 ゃないか、キャス?なぜ、やめていいって言ってこない。連中に言ってやればいいじゃ
 ないか。なんでこんなに長いんだ。文句を言ってやれよ」
・わたしはトミーの肩に頭をのせ、「どのみち、そう遠くないかもね」と言っていました。
 「でも、いまはやるだけ。あなたにお払い箱にされたけど、来てくれっていう提供者だ
 ってまだいるんだから」  
・「おれはな、よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。
 で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必死にしがみついてる
 んだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される。
 おれたちって、それと同じだろ?残念だよ、キャス。だって、おれたちは最初から、
 ずっと昔から、愛し合ってたんだから、けど、最後はな・・・永遠に一緒ってわけには
 いかん」
・最後に、わたしはトミーにこう言いました。
 「さっきは怒ってごめんなさい。話してみるわ。優秀な介護人がつくよう頼みこんであ
 げる」
・最後の日は、さわやかな十二月の午後でした。
 しばらく部屋をうろうろしたのち、ひとつだけトミーに尋ねた。
 「ね、トミー?わたしたちが知ったこと、ルースは知らないまま使命を終えたわけだけ
 ど、あれでよかったのかしら」
・トミーはベッドに寝転がっていました。しばらく天井をにらんでいて、「偶然だな」と
 言いました。「おれもこの前同じことを考えた。ああいうことになると、ルースはおれ
 たちとちょっと違ってたからな。君やおれは知りたがり屋だ。最初から、ほんのがきの
 頃からそうだった。何かを見つけ、知ろうとした。けど、ルースは違うぞ。あいつは信
 じたりが屋だ。知るより、信じることがルーズだ。だから、そうだな、ああいう形で終
 わってよかったんじゃないか」 
 そして、こう付け加えました。
 「それに、エミリ先生のこととか、おれたちはいろいろ知ったわけだが、だからといっ
 て、ルースがしてくれたことが変わるわけじゃない。おれたちに最善を望んでくれたん
 だ。最高の贈り物をくれようとした」
・私の一部は、知り得たすべてをルースと分かち合いたいと望み続けています。
 確かに、知ったらルースはがっかりするかもしれません。
 わたしたちにしたことの償いを望んだのに、それが果たせなかったのを知って、二重に
 後悔するかもしれません。 
 それでも、正直に申し上げると、それでも、わたしの中には、使命を終える前のルース
 にすべてを知らせてやりたかったと思う自分がいます。
 復讐心や意地悪もあるかもしれません。でも、それだけではありません。
 トミーが言ったとおり、ルースは最後には私たちに最善を望んでくれました。
 あの日の車の中で、わたしに許されることはないだろう、とルースは言いました。
 でも、それは間違いでした。
 わたしには、もう、ルースへの怒りはありません。
 知り得たすべてをルースと分かち合いたいと言うとき、それはルースがわたしやトミー
 と違うままで終わったことが悲しいからです。
 一本の線のこちら側にわたしとトミーがいて、あちら側にルースがいます。
 こんなふうに分かれているのは、わたしには悲しいのです。知ればルースもきっと悲し
 いでしょう。
・数日前、提供者の一人と話していて、記憶が褪せて困るという不満を聞かされました。
 大事な大事な記憶なのに、驚くほどや役褪せてしまう…。
 でも、わたしにはわかりません。
 わたしの大切な記憶は、以前と少しも変わらず鮮明です。
 わたしはルースを失い、トミーを失いました。
 でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません。
・一度だけ、自分に甘えを許したことがあります。
 それは、トミーが使命を終えたと聞いてからに二週間後でした。
 用事もないのに、ノーフォークまでドライブをしました。
 とくに何をしたかったというわけではなく、海岸までも行きませんでした。
 何もない平野と大きな灰色の空を見たかっただけかもしれません。
 途中、通ったことのない道路を走っていました。
 三十分ほど自分がどこにいるのかわからず、でも気になりませんでした。
 通り過ぎるのは、何の特徴もない畑また畑です。
 ときどきエンジン音に驚いて畝から鳥の群れが飛び立ちますが、それ以外には変化とい
 うものがありません。
 ようやく、遠くに何本かの木が見えてきました。
 道路からそう離れておらず、わたしは近くまで行って車を止め、外に出ました。
・わたしは少しだけ空想の世界に入り込みました。
 木の枝ではためいているビニールシートと、柵という海岸線に打ち上げられているごみ
 のことを考えました。 
 半ば目を閉じ、この場所こそ、子供のころから失い続けてきたすべてのものの打ち上げ
 られる場所、と想像しました。
 いま、そこに立っています。
 待っていると、やがて地平線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになり
 ました。トミーは手を振り、私に呼びかけました・・・。
 空想はそれ以上進みませんでした。
 わたしが進むことを禁じました。
 顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。
 しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。