鱗雲  :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1976年に発表された短編の時代小説である。
ある小藩の下級武士・小関新三郎が、笠取峠の地蔵堂で、高熱で突っ伏していた娘・雪江
を助け、自宅に連れて帰ってきた所から物語は始まる。雪江は、二年前に病死した妹と似
ていて、母とも心が通った。五年前に父親が病死し、続いて三年後には妹が病死して母子
二人となった小関家にとって、雪江は、まるで家族が増えたようだった。
この小藩では、家老と中老が勢力争いをしていた。新三郎の許婚の利穂は、老中の命令で、
嫌々ながら中老の探索に利用されていた。そして、誰か知らない男の子供を身籠り、自死
してしまう。それにしても、老中の命令とはいえ、自分の娘を自死に追い込んでおいて、
「これで老中も藩も安泰だ」と言う利穂の父の心境とは、どのようなものなのだろうか。
さらに、雪江も、自分の父親の敵討ちのために、隣藩に向け旅立ってしまった。父親を失
い、妹を失い、そして許婚も失い、さらに、峠で拾ってきた雪江までもが去ってしまった。
悪いことは続くものである。再び、小関家の母子は灯が消えたような淋しい毎日に戻った。
しかし、ある日、隣藩に通じている道をこちらに近づいてくる人影があった。人影は早い
足取りで、ほとんど駆けるように近づいてくる。女だった。感動の瞬間である。私は胸が
熱くなった。悪いことは、いつまでもつづくものではない。必ず、いいこともあるのだと
いう希望を持たせてくれる。
私が思うに、雪江の敵討ちの相手は、もうすでに死んでいたのではなかろうか。それを確
認できた雪江は、敵討ちをする必要がなくなったのだろう。そして、自分を家族のように
迎えてくれた小関家に戻る決心をしたのだ。おそらく、雪江は、新三郎の嫁となって、小
関家に福をもたらしてくれるだろうと、私には思えた。
ところで、この作品に出てくる「笠取峠」という名の峠は、国内に四ケ所ほどあるようだ
が、この作品の中に「青沼村」の地名が出ていることから、おそらく長野県にある笠取峠
のことではなかろうかと私は思ったのだが、どうだろうか。



・笠取峠は、男でも登るのに喘ぐ急坂続きの峠である。そのかわり登り切ったところには
 広い台地になっていて、地蔵をまつる堂があり、その脇に夏も涸れることがない清水が
 湧いている。
・峠を登りつめると、小関新三郎は喘ぎながら清水に走った。清水は井戸のように黒い木
 組みを土に埋めてあるが、むろん井戸ではなく、溢れ出る自然の湧き水だった。
 新三郎は走り寄ると、地上に腹這って顔を水に浸した。水は驚くほど冷たかった。
・新三郎は、あたりを見廻した。すると、地蔵堂の端に、白い脚絆と草鞋の足が見えた。
 狭い縁に、誰か休んでいる者がいるようだった。
・新三郎は刀を腰に戻すと、ゆっくり堂に近づいた。正面から横に廻って覗くと、そこに
 一人の女がいた。女は新三郎に見られているのに気づいた様子もなく、身体を折り曲げ
 て、狭い縁の上に突っ伏している。 
・女の身体はぴくりとも動かなかった。女は抱くように杖を一本抱えていて、遠くから旅
 をしてきた者のように見えた。まだ若い女のように見える。
・峠は昔から物盗りの出たところで、近年も、青沼村のやくざ者がここで人を殺して金品
 を取ったことがある。 
・こんなところで、若い女が眠っているとすれば、そうした事情を知らない、遠い土地か
 ら来た人間だと思うしかなかった。
・そう思うと、新三郎は、そのまま女を見過ごして城下に帰る気になれなかった。近づい
 て声をかけた。だが、声をかけられても、女は眼をさます様子がなかった。
・答えがないので、肩の手をかけてゆすった。すると、女が小さく呻いて、僅かに顔を挙
 げた。だが、その顔はすぐに力なく曲げた腕の上に落ちた。青白く血の気を失った顔だ
 った。  
・新三郎は、女の伏せた顔の下に掌をさしこみ、額を探った。額から頬に滑らせた掌に触
 れたのは、火のような熱だった。
・「これはいかん」新三郎は、ひざまずいて女の身体を抱え起こした。力を失った女の上
 体が、ぐらりと腕の中に倒れ込んできた。眼をつぶったまま、女はか細い息をついてい
 る。まだ、十七、八の、男の子のようにりりしい眉をしているが美貌の娘だった。懐か
 ら、懐剣を包んだ袋の房が垂れている。やはり武家の女だった。
・新三郎は娘の背に手をまわし、帯をゆるく結び直すと、少し胸元をくつろげてやった。
 すると娘が眼を開いて、新三郎の手の動きを抗おうとした。充血した眼だった。
・「心配するな。少し帯をゆるめただけだ。これから城下まで連れて行く」新三郎は娘を
 背負って立った。すると、それまで娘が握っていた杖が、音をたてて縁に落ちた。拾い
 上げるとかなりの重さだった。   
・仕込み杖か、と新三郎は思った。意外な気がし、ふとわけのありそうな娘だという気が
 した。
・城下に戻ると、新三郎は娘を母親の理久にまかせ、すぐに城に登った。
・城から帰り、「いかがですか、娘の様子は」と新三郎は理久に聞いた。
 「先生にきて頂いて、さっき薬を飲ませましたが、何しろ高熱だから、今夜ひと晩は額
 を冷やさないといけないとおっしゃって帰りました」
・「済みませぬ。厄介な荷物を背負いこんだようで」「ばかなことを言いなさい。介抱す
 るのがあたり前です。あんな病人を見捨てておかれますか」
・父親の儀太夫が五年前に病死して、新三郎は十九の年に跡目を継いだ。三年後に妹の
 秋尾が病死した。秋尾は家中の縁談がまとまっていて、秋には婚礼という年の五月に死
 んだのである。二つの不幸が、嵐のように小関家を走り抜けたあと、母子二人のひどく
 淋しい家が残された。理久は、まだ四十二だが、少し老けこんだようになっている。
・新三郎は奥座敷に行った。さっきの娘が眠っていた。坐って娘の額の上野手拭いを変え
 ようとして、新三郎はふと眼を細めた。娘が着ている浴衣の柄に見覚えがあった。理久
 が、死んだ秋尾のために、自分で仕立てた浴衣だった。
・一瞬、新三郎は、妹がそこに眠っているような錯覚にとらえられたようだった。新三郎
 は、着替えさせたとき、母もそう思ったのではないかと思った。
 

・「お家に病人がいるそうですね」と利穂が言った。「保坂さまが見かけたそうですわ。
 若い女の人を背負って、町を歩いているあなたを」
・新三郎は口を噤んだ。利穂の口から出た保坂年弥の名は、耳に快いものではない。保坂
 は、中老保坂権之助の倅で、同じ近習組にいる男だが、新三郎とは身分が違う。いずれ
 は組頭になり、やがて中老、家老の地位にすすむことが約束されている。家は千八百石
 の大身で、石高百石の新三郎とは住む世界が違った。
・だが、新三郎のみるところ、保坂年弥は出来の悪いドラ息子に過ぎなかった。この男が
 藩政の中枢に坐って藩を動かして行く日を考えるとぞっとする。
・保坂は屋敷に家中上士の子女を集めて、終始馬鹿げた遊びをやっているという噂だった。
・利穂は、いずれ新三郎の嫁入る約束がありながら、保坂の屋敷に出入りしていた。理恵
 の父の屋代重兵衛は、石高も似たようなものだったが、ここ数年保坂権之助に取り入っ
 て 立身し、いまは三百五十石で物頭を勤めている。屋代は上士の端に連なったのであ
 る。
・「おきれいな方だそうですね」新三郎は黙って利穂の顔を見た。利穂の顔には、少し意
 地の悪い微笑が浮かんでいる。利穂は、家中でも美貌が評判されている。
・「それよりも、そちらの噂の方がひどいのではないか。保坂の屋敷に出入りするのも、
 ほどほどにせんと、家中の評判が悪くなる一方だぞ」「気になりますの?」「無論だ。
 あそこは若い娘が出入りするところではあるまい」
・利穂の顔に、また意地の悪いような微笑が浮かんだ。その笑いをみると、新三郎は利穂
 が少し以前と替わったような気がして、胸が重くなった。
・親同士が取り決めた縁談であったが、新三郎は利穂が嫌いではなかった。小さいときか
 ら気性の明るい娘だったが、年頃になると、ひと皮むいたように美しくなった。同僚の
 噂にのぼるほどの女を妻にする気分は悪いものではない。   
・だが利穂はもう十八だが、婚約の約束ごとが生きているだけで、婚儀をいつにするかと
 いうような話は、なかなかまとまらなかった。
・多分、百石の平侍の家に嫁にやるのが惜しくなったのだろう、と新三郎は屋代重兵衛の
 胸の中はうすうす忖度できる。いつの時代でも縁戚関係は出世のための大きな手がかり
 になる。物頭の地位を手に入れた重兵衛は、娘をもっと家格が上のところに嫁にやるこ
 とが出来ると考え、その縁でもう一段の出世が出来ないものでもないと考え始めたのか
 もしれなかった。 
・利穂との縁談は、亡父が決めたものだった。相手がどう心が変わろうと、新三郎には破
 棄するつもりはなかった。そして新三郎が言い出さない限り、屋代家から、その縁談に
 ついて破約などを言い出すことは出来るはずはなかった。
・利穂は陰のない性格で、これまで新三郎に親しんできている。それが、ここ半年ほどの
 間に、少し以前と変わったそぶりが見えるようになっている。明らかに保坂の屋敷の集
 まりに毒されている感じがした。
・新三郎は、そういう利穂に怒りは感じない。ただ哀れな気がした。止めさせないと、取
 り返しがつかないようなことになりかねないという不吉な気がした。
・新三郎は時おり屋代家を訪れる。別に改まった用事がなくとも、通りがかりに訪ねて茶
 を振舞ってもらったりする。もともと屋代家と新三郎の家は、そういう間柄だったので
 ある。
・だが最近は、新三郎を迎える屋代家の空気そのものが微妙に変わってきている。近頃は
 どことなくよそよそしい態度が目立った。
・家に帰ると、鼻の理久と新三郎が峠で拾ってきた娘が瓜を食べていた。娘の名は雪江と
 いい、江戸から隣藩野沢の城下に行く途中だった。
・新三郎は坐ると、改めて娘をしみじみと眺めた。ほっそりした身体だが、美しい娘だっ
 た。八日も寝て、頬がやややつれているが、それが初々しい色気のようなものを感じさ
 せる。  
・着ている白地の花柄の浴衣は、やはり病死した妹の秋尾のものらしかった。新三郎は、
 そこに妹が坐って、瓜を食べているような錯覚にとらえられた。その感じを、新三郎は
 つとう口にした。「似ていますな、母上。そう思いませんか」「そう。私もそう思って
 いたところですと理久が打てば響くように言った。
・「どなたにですか」雪江が怪訝な顔で訊ねた。「死んだ妹にですよ。二年前に、丁度あ
 んたの年頃に急に病気で死んだのだ」「ま、お気の毒に」
・「ところで、野沢に何用で行かれる?」雪江の顔は不意に曇った。「親戚の家に参りま
 す」「江戸弁のようだが、長く江戸でお暮らしか」「子供のときから江戸で暮らしてお
 りましたが、父母が死にましたので」「父上は野沢の生まれか」「さようでございます。
 でも、親戚の者が今もいるかどうか、野沢に行ってみないとわかりません」 
・「もし親戚の方が見当たらなかったら、またこの家に戻って来なさるといい」不意に理
 久が口をはさんだ。理久の眼に、これまでみたこともない優しい光があるように新三郎
 は思った。 
・「そなた、剣術をやるのか?」不意に新三郎は言った。雪江は、はっとしたように新三
 郎をみたが、静かに首を振った。「いいえ」
・新三郎は、この娘には、少々わからないところがある、と思った。熱にうかされ、汗に
 まみれた着物を着換えさせたあとで、理久は、「あの娘さんには腕に竹刀だこがありま
 すよ」と囁いたのだった。
・そう言えば、仕込み杖も、旅の用心にしては念が入り過ぎている感じだった。新三郎は
 一度そっと引き抜いてみたが、錆ひとつ浮いていない刀身が中に隠されていたのである。
    

・同僚の藤井高之進と連れ立って、朱引橋まで来たとき、新三郎は不意に五、六人の人間
 に囲まれた。ほとんどの顔を知らない連中だったが、一人だけ見覚えのある男がいた。
 保坂年弥だった。
・藤井は新三郎と戸田道場の同門である。免許を取るのは新三郎より一年遅れたが、肝の
 坐った男だった。
・男たちと二人は薄闇の中で睨み合う形となった。横に廻った男が、前触れもなくいきな
 り斬り込んできたのを、新三郎は軽快にかわすと、身体を反転するようにして肩口に峰
 打ちを叩き込んだ。ぐっと呻いて、男が暗い地面に音を立てて転んだ。
・男たちが一斉に抜刀し、藤井も抜いた。「それまでだ」不意に保坂年弥の声がした。男
 たちは一斉に刀を引いた。 
・「近頃ご家老の菅野様と中老は仲が悪くてな。ことごとに意見が合わんらしい」「中老
 は藩の実権を握りたがっている。狙いはご家老の失脚だ」と藤井が言った。「保坂はた
 だのドラ息子じゃない。多分、馬鹿遊びも親爺の息がかかっている筈だ」
・家のそばに来ると、白い顔が薄闇に中に見えて、近づくと雪江だった。「私、明日、野
 沢に立ちます」と雪江は低い声で唐突に言った。
・雪江の顔は胸に触れられるほど近いところにあって、若々しい肌の香が匂った。雪江を
 背負って、笠取峠から走り下りた日のことが思い出された。随分むかしのことのように
 思えたが、それは二十日ほど前のことだった。
・新三郎は、なぜか、去らせ難い親密な感情が胸を締めつけてくるようだった。ひとりの
 女としてよりも、雪江は、二人きりの小関家に突然にふえた家族の一人のようだったの
 である。   
・「母に言ったか」「いいえ、まだ」「落胆するだろうな。母はあんたがひどく気に入っ
 たようだ」不意に雪江が俯いて、掌で顔を覆った。
・「お話したいことがあります」涙をぬぐいながら、雪江が言った。


・屋代家から使いにきた和吉という下僕と一緒に、新三郎は町の中に疾駆した。城を下る
 と和吉が待っていて、利穂が自害したと告げたのである。
・言わないことじゃない。走りながら新三郎はそう思った。こういう日が来る予感があっ
 たような気がした。 
・屋代家の玄関に走り込むと、そこに待っていた利穂の母の松恵が、立ち上がって新三郎
 の手を執った。ほの暗い奥座敷に入ると、線香の匂いが鼻をついた。夜具の上に利穂の
 身体が北枕に横たわっていた。 
・「まだ親戚にも言っていません。突然のことで、どんなふうに話したらいいものかと」
 松恵はうつろな表情で呟いた。
・死人の顔を覆った白布を上げてみた。松恵が化粧をほどこしたらしく、頬は少女のよう
 に紅にいろどられ、きれいな死顔だった。喉を抉ったらしく、首が真白な晒布で包まれ
 ているのが痛々しかった。 
・利穂が、橋の上でわざとのように悲鳴を挙げ、手を伸ばした新三郎の胸に倒れ込んでき
 たことがある。そのときの利穂の小さな喘ぎ、恥ずかしげな含み笑いが、なまなましく
 思い出されて、新三郎は、一瞬胸がふさがるのを感じた。
・「おうかがいしましょう。自害の理由は何でござったか」松恵はゆっくりと顔を挙げた
 が、新三郎から眼をそらしたまま低い声で言った。「利穂は身籠っておりました」
・「ばかな!」新三郎は撃たれたように言った。  
・「愚かなことを」新三郎は呟いた。それはいつの間にか遠く道をへだててしまっていた
 利穂の行為を非難したようでもあり、自害という死にざまを嘆いたようでもあった。
・「あの、今夜はどうぞお通夜を」「出かけて参ります。帰って来ますゆえ、ご懸念なく」
 屋代の家を出ると、新三郎は真直ぐ保坂家に向った。保坂年弥に会う積りだった。利穂
 の相手の男が年弥とは限らない。取巻きの一人かも知れなかった。
・新三郎は保坂家の玄関に立った。「ご中老に申しあげる。小関新三郎、ご子息に物申し
 たいことがあって参上致した」新三郎の声は、ほの暗い屋敷の中にひびき渡ったようだ
 ったが、家の中には人声も聞こえなかった。
・「臆病者!出て来ないなら踏み込むぞ」新三郎が草履を脱ぎかけたとき、人の気配がし
 た。足音もなく玄関に出てきたのは、利穂の父屋代重兵衛だった。
・「踏み込むのはよせ。さ、一緒に帰ろう、新三郎」中老の屋敷を出ると、二人はしばら
 く無言で歩いた。  
・「わしを、中老に取り入って、あげくの果てに娘を殺した愚か者と思うだろうな「利穂
 を死なせたわしを恨んでいるか、新三郎」「もう少し前に配慮すべきでした。そもそも、
 保坂の屋敷に出入りさせたのが、間違いのもとと存じます」
・「言うとおりだの」「だが、利穂を保坂の屋敷に出入りさせたのは、じつはご家老の命
 令だ」「利穂は、わしがそう命じたとき厭がった。探索の役目などやるよりは、貴様の
 嫁になりたかったのだ」「利穂は、結局、承知したが、そのときには貴様の嫁になるの
 を諦めたのだ。不憫な娘だ。だが利穂の自害で、保坂中老はわしに借りが出来たと思っ
 ている。わしに相談せずに何かやる気づかいはないと今日は見た。ご家老はこれで安泰
 だ。藩も安心だ」「このことは、わしと死んだ利穂とご家老のほかは、誰も知らん」
・「探索が露われて斬られる場合の覚悟はしていたが、子を孕むとは思いもしなかった。
 男親の浅はかなところだな」
・利穂が死に、ひと月近くも家族のようにした雪江という娘も去ると、理久は急に寡黙に
 なったようだった。 
・雪江は、野沢城下に父の敵を刺しに行ったのである。雪江が九つのとき、野沢城下から
 きた討手が、父親を打ち果たして行った。藩主に反抗して故郷を捨て、江戸に隠れてい
 た父親は、いずれその日が来ることを覚悟していたらしく、尋常に闘って死んだ。
・そのとき雪江は、七つの時から竹刀を持たされて稽古した意味が解ったように思ったが、
 やがてそれが父親の敵を討つためだったと思うようになった。母親はそういう娘を心配
 して、道場通いをやめさせようとしたが、雪江はきかなかった。今年の春、病弱だった
 母親が死ぬと、微かに幼いときの記憶が残る道をたどって、野沢城下目ざして旅をして
 来たのだった。
・雪江にそのことを打ち明けられたとき、新三郎はとめた。上位討ちは主命であり、討手
 を怨むのは筋違いだと論じたが、雪江の中には石のように凝り塊った一念があるようだ
 った。父親の無残な死にざまが忘れられないと言った。新三郎にそのことを打ち明けた
 翌日、雪江は野沢城下に旅立って行った。
・雪江は死んだかもしれない、と新三郎は思っていた。
・馴れない畑仕事は意外に疲れる。新三郎は腰をのばすと、裏口の木戸を押して外に出た。
 出たところに、真直ぐな道が通っている。北にのびるその道が、隣藩との国境に向う道
 のひとつだった。 
・旅姿の人間が、遠くに小さく動いている。あの日朝早く、この道を遠ざかった雪江の姿
 が思い出された。だが道脇の草は、あれから半月経ったいま、すっかり枯れ色に変り、
  晴れた空の半ばを埋めて鱗雲がひろがっている。空気は冷えびえとした秋だった。
・木戸を入ろうとして、新三郎はもう一度遠い道に眼をやった。心を惹くものが、そこに
 動いているという感じがした。  
・遠ざかる人影とは逆に、こちらに近づいてくる者がいた。人影は早い足どりで、ほとん
 ど駆けるように近づいてくる。女だった。
・雪江だ。感動が新三郎の胸をしめつけた。旅姿の女は雪江に違いなかった。高く手を挙
 げている。 
・「母上」木戸から首を突っ込んで、新三郎は母親を驚かせないように、つとめて平静に
 声をかけた。「あなたの娘が一人、帰ってきたようです」