椿山課長の七日間 :浅田次郎 |
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この作品は、2001年7月から2002年4月にかけて朝日新聞に連載小説として連載 された後に、2002年9月に本として刊行されたものだ。 この作品は2006年に映画化されており、友人がそのDVDを観て、とても良かったと いう話を聞いて、原作を読んでみたくなった。 内容は、死亡したのに現世に強い未練があり、願い出て3日間だけを現世に戻ってきた三 人の物語だ。 一人目は、過労死したデパートの婦人服課長の椿山和昭という人物だ。 椿山は、あの世で”邪淫の罪”があるとの判定を受けたのだが、どうして自分に”邪淫の罪” があるのか、まったく心当たりがなかった。どうしてもその理由を知りたくて現世に戻っ た。そして、まったく恋愛対象と考えもしなかった同期入社の女性から、自分が愛されて いたことを知のである。 また自分の妻が、結婚する前から自分の部下と恋愛関係にあり、それが結婚したあとも続 いていたことを知るのである。 そしてまた、そういう事実を知った老いた父が、そのことに心を痛めていたことも知るの であった。 二人目は、人違いで殺されたヤクザ組長の武田勇という人物。 武田は、残された自分の子分たちの行く末がとても心配だった。組長の自分が殺されるこ とによって、自分の子分が敵討ちをするのを、なんとしても食い止めたくて現世に戻った のである。 三人目は、車にひかれて死んだ七歳の根岸雄太という少年。 雄太は、生まれてすぐに施設に預けらえて、自分の本当の父や母を知らなかった。 でも、本当の父や母に探し出しで、自分を生んでくれてありがとうと、どうしても言いた くて現世に戻ったのである。 ほんとうの男女の愛とはどういうものか。ほんとうの親の子に対する愛とはどういうもの か。そしてほんとうの子の親に対する愛とはどういうものか。そのことをこの作品は教え てくれているような気がした。読んでいくと幾度となく目頭が熱くなる。いい作品だった。 |
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沙羅の咲く道 ・思い出せない。 どうしても思い出せない。 純白の花を咲かせる沙羅の並木道を歩きながら、椿山和昭は懸命に考えた。 ・幸福な朝だった。ちょうど一回り年下の妻は、郊外の一戸建てに引っ越してからいっそ う若やいだ。 転校するのがいやだと言って泣いた息子も、マンション住まいの頃よりずっとのびのび している。 ・今朝に限って、息子はなぜ岐かれ道にじっと佇んで父を見送っていたのだろう。 ・おそまきながら46歳にして、本店の婦人服課長になった。デパートマンの花形だ。 高卒の同期性がみな配送や検品や庶務に埋もれてしまった中で、椿山の「出世」は異例 だった。 それおしおに、中古の一戸建ても買った。 将来の高望みはしないが、ここで潰されてはならない。 ささやかな幸福を壊すわけにはいかない。 ・入社年次からすれば部長は後輩で、かつては値札の付け方から台車の操り方まで椿山が 教えた。 並ぶ間もなく追い抜かれたのは能力のせいではなく、彼が慶應の経済卒という、百貨店 業界の幹部候補生だったからなのだ。 そうした理不尽に屈してはならない。 ・七人の女子店員と三十人の派遣店員のひとりひとりに、この売り出しの重要性を説いて 回りたい気分だったが、細かな指示は係長の嶋田に任せた。 若くて背も高く、日本人離れしたマスクの持ち主である嶋田は、正面大階段の踊り場に 大正時代から立ちつくしているローマ彫刻に似ている。 売る場の女性兵士たちを動かすのは、椿山課長の仏頂面ではなく、島田の微笑である。 ・人々は豊かな沙羅の木陰を見えつ隠れつしながら、計ったように適当な感覚を置いて、 これもまたゆっくりと歩いている。 ふと、奇妙なことに気づいた。すれ違う人がいない。車道の対向車線にも、車がいない。 ・椿山は行き過ぎる初老の男を呼び止めた。 「あの、つかぬことをおうかがいしますが」 デパートマンの習いで、他人に対する物言いは馬鹿のつくほど丁寧である。 もちろん微笑も忘れてはいない。 「みなさん、いったいどちらに向かってらっしゃるのでしょうか。何だか同じ場所を目 指しているように見えるのですが」 ・男は立ち止まると、不安げに視線を泳がせ答えた。 「俺も誰かにそのことを訊こうと思っていたんだ」 意想外の回答である。 ・「は?・・・ということじゃ、そとらもここがどこで、ご自分が何をしてらっしゃるか お分かりになっていらっしゃらない、と」 「そう、全然わからん。ただ、皆さんと一緒に歩かねばならんという気はする。ともか くわけがわからんのだが、妙に気分がいいね」 ・答えを得ることができなかったが、椿山の気分は少し和らいだ。 「ともかくわけがわからんのだが、妙に気分がいい」という男の回答にはまさに同感で ある。 歩かねばならないという気もする。椿山は人々の後を追った。 ・デパートからほど近い料理屋の個室には、大手メーカーの担当者三人、すでに半ばでき 上って待っていた。 好景気の時代には、先に始めるどころか膝も崩さずに待っていたものだ。 この数年間の間に、デパートマンはすっかり権威を失墜してしまった。 ・三上部長はついていると、しみじみ思う。 売り上げが落ち始めても、彼の時代にはメーカーの責任を問うことができた。 売れないのはデパートのせいじゃない、君らの商品が悪いのだ、と。 だから三上はメーカーに対して、常に尊大だった。 ・酌をしながら、まったく突然吐き気がきた。 「ちょっと、失礼」 椿山は座敷を転げ出た。 駆けつけのビールが妙に回った。 だとしても、いきなり吐き気を催すのはおかしい。 靴も履かずに洗面所に駆け込むなり、椿山は毒のような汚物を吐いた。 腰がくだけてしまった ・汗が急激に冷えて行く。 声も出せずに、扉の隙間から手を振って人を呼んだ。 仲居の悲鳴が聞こえた。 足音が乱れて、人々が駆けつけてきた。 「どうした、椿山さん」 「動かしちゃだめですよ。とりあえず救急車」 「おおい、課長。気をしっかり持てよ」 ・体がどこも動かない。 三人の男と仲居の顔が、蛍光灯を遮っている。 「脳溢血かな」 「心臓かもしれませんよ。顔色が真っ青だ」 ・疲れているだけさ。 そうに決まっている。 もう少しこうしていればじきによくなる。 ・息を抜くと、ほんの一瞬女房と子供の顔が瞼をよぎった。そして急激に闇がきた。 右手の前方に白いビルが見える。 四階建ての清潔な感じのする、役所か学校のようだ。 人も車も、その建物の門に吸い込まれてゆく。 それにしても、なんというさわやかな気分だろう。 料理屋で倒れた後、なぜここにいるのかはともかくとして、まるで少年に戻ったような 軽やかさだ ・屋上のスピーカーから、店内放送のように清らかな声が流れてくる。 「それぞれ私語は謹んで、係員の指示に従ってください。皆様の事前知識は何の役にも 立ちません。指定された順路に沿って、整斉とお進みください」 ・あのう、と心細げな声を出して、身なりの良い老婦人が椿山の背広の袖を引いた。 「はい、なにか」 「あの、私、千駄木の日本医大から来たんですけど、いったいどうなってるんでしょう。 なんだかわけがわからなくって」 「日本医大と申しますと、病院からこちらへいらっしゃたのですか」 「ええ、そうなの。重病なんですよ、これでも。肝臓がんですね、腹水もパンパンに溜 まっちゃって・・・あらいやだ、スッキリしたもんだわ」 「実は私も、妙に気分がいいんです。ここの所体調が悪かったんですけど、疲れもすっ かり取れてしまって」 ・老女は椿山の手を引いて、係員に近寄って行った。 一見して警察官だが、表情は僧侶のようにのどかである・ 「ご心配なく。このまま順路に沿ってお進みください」 「他人の人はどうか知りませんけどね。私は何かの間違いじゃないかと思うんです。心 配ないって言われても、ついさっきまで日本医大の、それも集中治療室でチューブに繋 がれて寝てたんですからね。そのあたりをちゃんと説明していただかないと」 ・「まあったく、わけがわからねえのはてめえのほうだ」 法被を着た老職人が通りすがりに勢いよくてはなをかんだ。 「やい、クソババア。往生際が悪いんだよ。四の五の言わずにとっとと前へ進みやがれ」 往生際、という言葉が椿山の胸にずしりとのしかかった。 ・「わかりましたね、おばあちゃん」 係員は花の下から、やさしく老女の背を押した。 ・「いかがでしたか」 老女は泣きながら笑っている。 「・・・私、死んじゃったんだって」 あやうく踏み堪えて、満開の花を見上げた。 ・ビルの中はおびただしい数の老人たちで溢れかえっていた。 「道理で年寄りばっかりだわ。あなた、お気の毒ね。おいくつ?」 「四十六です」 「まあ、お若いのにねえ。よっぽどご無理なすったんでしょう」 ・「あの、つかぬことをお訊ねしますが」 背広のポケットから手帳を取り出し、戒名をメモしながら椿山は訊ねた。 たぶんここでは、百貨店のフロアでトイレのありかを訊くくらいオーソドックスな質問 に違いない。 「はい、何なりと」 女子係員の表情は相変わらず誠実この上ない。 「戒名のラックによって、この先の扱われ方が違うのでしょうか」 ・「いいえ」と、係員は笑顔をいっそうほころばせて、椿山の不安を解きほぐした。 「そのようなことはけっしてございません。みなさまの今後を左右するのは、あくまで 現世での行ないだけです。戒名のお値段というのは、ご遺族の方々がみなさまの死をそ れぞれどのように納得なさるか、ということだけのことですから。つまり、あちらの話 です」 ・このまま往生するわけにはいかないと椿山は思った。 「私は、やり残したことが多すぎるんです。仕事も、家族の行く末も・・・」 ようやく冷静におのれの立場を考えた。 可愛い息子はまだ小学生である。 歳の離れた女房のことも十分愛している。 老人病院に入っている父親の面倒は誰が見る。 宿願を果たして買ったばかりの家のローンはどうなる。 その家の書斎のひきだしには、エロ本と裏ビデオの秘かなコレクションだって隠してあ るのだ。 へそくりはないが、その代わり女房には内緒の消費者金融からの借金もある。 ・「ちょっと待ってください。私はこのまま成仏するわけにはいかないんです。やり残し たことが多すぎて・・・」 「いいえ」と女子係員は抗議をおしつぶす感じていった。 「これはあなたが決めたことではありません。寿命なのです。あなたの人生は四十六歳 と、生まれたときから決まっていたのですから仕方ありません」 「そ、そんな・・・」 ・「まったく、往生際の悪い人ね。ともかく講習をお受けなさい。その後でどうしても納 得できないとか、このまま往生するわけにはいかないという正当な主張があるなら、個 別に伺います」 ・しめた、と椿山は思った。 どう考えでも自分の場合は、「このまま死んではならない事情」に満たされている。 長いサラリーマン生活の習いで、正当な主張をかみつぶして不当な状況に流されてはな らない。ここが正念場だ。 ・「講習室はそれぞれ、五戒によって分けられています」 「五戒すなわち仏教でいうところの五つのいましめですね。まず、殺生をするな」 「次に、盗みをするな」 「邪淫に溺れるな」 「さらに、嘘をつくな。酒を飲むな」 ・「あなたの26番教室は、邪淫に溺れた方の講習です」 ゲッ、と椿山は思わず喉を鳴らした。 とっさに思い当たるふしがない。 ・「それは何かの間違いですよ。邪淫に溺れたって、そんな・・・あのね、私は自慢じゃ ないけど、全然モテなかったんです。この顔とこの体つきで見たってわかるでしょう。 それに、ソープランドとかフーゾクとは、ああいうのは大嫌いなんです。バカな金の使 い方だと思うし、病気なんかも怖いし・・・それとも何ですか、マスターベーションが 邪淫だとでも言うわけですか」 「ともかく講習をお受けください。希望者にはその後、再審査があります」 ・邪淫とは心外だ。 確かに肉体の快楽に溺れたことがないわけではないが、すべて正常な性行為だったとい う自信はある。 それですら、たちまちひとりひとりの名前と顔を思い出せるほどの数だ。 はっきり言って、四十六歳の健康な男にとっては「貧しい体験」である。 ・講習室には緩い階段状の勾配に長椅子と長机が並んでいた。 男女はほぼ同じ数だが、やはりほとんどは老人である。 世の中は案外公平なのだなと思えばなおさら、四十六歳で死んでしまった不満はつのっ た。 ・小さな男の子が教室の階段を駆けのぼってきた。 息子と同じ年頃だろうか。 人なつこい笑顔を、向けて少年は微笑んだ。 「ぼく、何年生だい」 「二年です」 ・「どうして・・・」 訊ねたわけではない。 この年齢でここにこなければならなくなった理不尽が、思わず声になってしまった。 ・「ぼくはちゃんと横断歩道を渡っていたんだけど、車が止まってくれなかったんです」 「ここがどういうところか、わかっているのかい」 「ぼく、死んじゃったんです」 ・思いついで椿山は立ち上がり、ドアの脇に立つ係員を呼んだ。 「どういうことなんだ。この子は」 「寿命です」 「そうじゃない。こんな子供が邪淫に溺れたはずはないだろう。いいかげんな仕事はす るなよ」 ・女性係員は少年の講習票を確認した。 「いえ、まちがいじゃないんです。もちろんこの子に邪淫の罪はありませんけれど、現 在の立場をはっきり確認していただくために、この教室で講習の前半だけを受講してい ただくんです」 ・やがて青いブレザーを着た教官が壇上に立った。 「公平な審査の結果、みなさんは現世に置いて五戒のうちのひとつ、すなわち邪淫に溺 れたという判定を下されました。その昔は、五戒のうちひとつでも破れば有無を言わさ ずたちまち地獄行きだったのですが、近ごろではメイドのシステムもずいぶん甘くなり まして、まずは講習、最後に皆さんの机の上に設置してある『反省ボタン』を押すだけ で、たいていの罪は免除されます」 ・「しかし、いいですかみなさん。たいていの場合は許されますけれど、中には例外もあ ります。例えばそうですね。横浜市鶴見区からいらした・・・さん、いらっしゃいます か」 教室の端で恰幅のよい老人が不安げに手を挙げた。 ・「いくら何でも、奥方のほかにお手かけが四人、お子さんがつごう八人、まあそれくら いは甲斐性があるということにしても、七十九年の人生であなたのせいで首をくくった 女性が二人。泣いた女が星の数となると・・・」 「やっぱり、だめですか」 老人は赤ら顔を俯けて肩を落とした。 ・次の瞬間、椿山は焼の中で瞠目した。 「さて、今日ご紹介するケースは、この講習をお受けになっているひとりの男性です。 享年四十六。東京都内の有名デパートに長らくお勤めになっていらした、一見して品行 方正な人物ですが、ご本人もそうと気づかぬうちに悪質な邪淫の罪を犯しました。被害 者は同じデパートにお勤めの、佐伯智子さん。加害者と同期入社をした女性です」 ・映し出された佐伯知子の写真は、長いこと差し替えられない写真賞に貼られているもの にちがいない。少なくとも十年ぐらい前の知子の顔だった。 ・「当事者のほかに、ふたりの関係を知る者はいません。周囲はこの二人を、しごくフレ ンドりぃな同期生と認識していたようです。しかしその実態は親友の垣根を越えたセッ クス・フレンド。淫らな肉体関係は男性が結婚するまで、十八年も続いていました」 ・佐伯知子のことなど、すっかり忘れていた。 ということは、この際椿山にとってどうでもいい人物にはちがいないのである。 ・「入社から二年後、知子さんは失恋の痛手を侵入の椿山さんに慰められます。この時点 ではお友達。しかしよくあることですな。こういうシーンをきっかけに、二人が交際を 始めるという・・・」 ・たしかによくあることかもしれない。 だが椿山に悪意はなかった。 たがいに憎からず思っていたからこそ、知子は恋愛の経緯を椿山だけに打ち明け、椿山 も男の立場からアドバイスを与えた。 ・新入社員のことから妙に相性が良かった。 同じ年の高校新卒ということもあるのだろうが、上司のうわさ話も、映画や食事の趣味 も、不思議なくらいに一致していた。 ウマが合いすぎて異性としての意識はなかった。 ・「まあ、なりゆきと言ってしまえばそれまでですけれど、二人はその夜のうちに親友の 垣根を乗り越え、男と女になった。当時、職場恋愛は結婚を前提とするほかはタブーと いう意識がありましたので、この関係は極秘裏に続きます。とりわけ社員の多くが女性 である百貨店では、こういうことにかなり神経質だったようですな」 ・ちがう、と椿山は思った。 関係が続いたのは事実だが、べっとりとした恋愛感情はなかった。 ほんの月に一度、思い出したように抱き合う、親密な友人である。 ・はっきり言って、「フリーセックス」を謳歌した世代である。 ルールなしモラルなし、全員総当たりリーグ戦の様相を呈する大都会の青春にあって、 二人の関係が邪であったとはどうしても思えない。 ・椿山がおそまきながら結婚をしたときも、知子は心から祝福してくれた。 結婚の意志を知子に告げたのは、やはりベッドの中だった。 「あっそう。知ってるわよ。背が高くてきれいな人。絵に描いたような案内嬢よね。が んばれ、椿山。ここは勝負どころだよ」 ・「わかったわ。ときどき経過報告はしてよね。そっかあ、椿山くんもついに結婚という ことはですね。私も真剣に考えなきゃならないわ」 三十八歳の知子は、二十歳の知子よりずっと美しかった。 別れのくちづけをかわした一瞬、それまで思いもしなかった未練が胸をかすめた。 ・椿山は恋愛の経過報告をしなかった。 知子からの連絡も途絶えた。 三十八歳という歳になって、それまで長いこと恃みにしてきた砦は、その役目を果たし 終えたのだろう。 椿山も知子も、人生の区切りをつけなければならない年齢になっていた。 ・智子の勤務する時計宝飾課とはフロアがちがうから、店内で顔を合わせることもなかっ た。 一度だけ、指輪を注文するために七回の売場を訪ねた。 心苦しくはあったが、せめて知子の販売実績につながればと思った。 ・(これ、レジは通さないから。業者に直接届けさせるわ。半額になるわよ) 売場係長の職権としては十分に可能である。 選んだ商品は返品伝票を添えで業者に戻す。 係長の無理を聞いて、業者はデパートを介さずに椿山に売る、というわけだ。 ・(それじゃ佐伯さんの実績にならないじゃないか) (実績?私だって近いうちにお嫁に行って、こことはおさらばするわよ。ノルマなんで くそくらえだわ。浮いた予算はハネムーンに使いなさいな。じゃあ、お幸せね) ・お嫁に行く予定が本当にあったのかなかったのか、佐伯知子はその後も時計宝飾課の辣 腕係長として働き続けていた。 ・「残念なことに、椿山さんは思慮の浅い人物でありました。おそらく彼は、なぜこれが 邪淫の罪かと首をかしげていらしゃることでしょう。まことに鈍感な人ですな」 ・「十八年間ずっと、プロポーズを待っていたのに、恋愛などはみな、彼の気を引くため の作り話だったのに。彼は邪淫の果てに、知子さんを捨てた」 「お気の毒に・・・」 「ひどい男ねえ」 「まさに邪淫ですなあ」 前の席の老人たちの囁き合う声が、椿山の胸をえぐった。 ・せめて弁解をさせてほしい。 佐伯知子がひそかに自分を恋い慕っていたなどとは、どうしても信じられない。 そりゃあ、つかず離れず十八年も付き合った男が結婚すれば、ショックにちがいなかろ う。 立場が逆なら、俺だってヤケ酒をくらうぐらいはした。 何が邪淫だ。腐れ縁の清算じゃない。 ・「椿山さんは御不満を感じれらっしゃるでしょうが、判定は公明正大です。彼は十八年 の長きにわたって、清らかな女心を踏みにじり、愛なき邪淫を繰り返しました。 さて、みなさん、ご自分がなぜこの講習を受けているか、いったい人生のどの部分を咎 められているのか、よぉくお考えになってください。邪淫の罪を適用される関係とは、 べつだん不倫とか異常な性行為とか金銭による肉体の売買とか、そういうものではない のです。邪淫の結果、どのくらい相手を傷つけたか。おのれの欲望を満たす目的で、相 手の真心を利用した罪、これが邪淫の定義なのです」 ・それからの長い退屈な説教を、椿山は全く他人事のように聞き流した。 いずれにしろ、このまま往生するわけにはいかないのだから、不服の申し立てをする肚 は決まっている。 申し立て理由の項目がひとつ増えただけだ。 ・「では、机の上に据え付けられた赤いボタンにご注目ください。この教室には、ただい ま百名の受講者がいます。生前犯された邪淫の罪について、ああ悪いことをした、申し わけなかったと反省する方は、そのボタンを押すだけで罪を免れます」 ・お役所仕事の極致だと椿山は思った。 男女のごたごたや酒癖の悪さやたかだかの嘘などは、宗教的な建前であるから罪ではあ っても実質的には罰則はない、と言っているようなものだった。 ・椿山はボタンに伸ばしかけた指をすくめた。 この性格でずいぶん損をしてきたと思う。 しかしどう考えても、佐伯知子との関係を邪淫であったと認めることはできなかった。 ・死者たちは生前と列をなして教官から講習修了のハンコをもらうと、階段教室から出て いった。 椿山を除く全員が納得したはずはあるまい。 人々はそれぞれの思うところにかかわらず、ボタンを押したにちがいなかった。 ・教室の隅にぽつんと取り残されたまま椿山は考えた。 親譲りのこの頑固な気性で、ずいぶん損をしてきた。 目先の平穏のために、黒いものを白いということができない。 上司の意思にへつらうこともできない。 それだけでもサラリーマンとしての資質には欠けていた。 ・「さて、どうなさいますか」 「再審をお願いします」 教官はうんざりと椿山を見上げた。 「邪淫ではない、というわけですな」 ・「私は、どうしてもこのまま死ぬわけにはいかないんです。思い残すことが多すぎて」 教官はあからさまに顔をしかめた。 相応の事情 ・死者たちのほとんどが老人であるとはいえ、人間はかくもすんなりと死を許容するもの なのだろうか。 ・ごたいそうな箇条書きを並べた看板があり、少年が汗を拭いながらぽつねんと見上げて いた。 「よう、蓮ちゃん、こんなところで何をしているんだ」 「あ、さっきのおじさん・・・これ、ふりがながないから読めないんだけど」 「だめじゃないか、こんなところで道草を食ってちゃ。おまえは早くエスカレーターに 乗って・・・」 ・説教をしかけて椿山は息をつめた。 少年の片方の手には、「再審査」の赤いスタンプを捺した書類が握られていた。 「どうして?」 「死にたくないんです」 ・蓮は人間としての当然の主張を、きっぱりと口にした。 返す言葉を探しあぐねて、椿山は白い制服の胸の高さに屈み込んだ。 「あのな、蓮ちゃん。その気持ちはわかるけど、死んじゃった人間が生き返ることはで きないんだ」 「じゃあ、おじさんは何をしにきたの」 「俺は・・・急にぽっくり死んじゃったから、仕事のこととか、家の片づけとか、ロー ンとか、ともかくこのままほっぽらかしにできないことがたくさんあるのさ。納得でき ないこともあるしな。もういっぺんあっちに行ってだね、いろいろと始末をつけなけり ゃならない。そりゃおじさんだって死にたくはないけれど、生き返ろうにももうお葬式 は終わっちゃって、お骨になっちゃってるんだから仕方ないさ」 ・少年の唇が歪み、瞼には見る間に涙が溢れた。 「でも、ぼくは死にたくないんだ」 ・「再審査室」と書かれたドアの前に、でっぷりと肥えた強面がぼんやりと立っていた。 「あんたのガキ?」 「いや、ほんの行きずりだよ」 「そうかい、そりゃよかった」 「何がよかったんだね」 「いやな、さっき後ろの窓越しにずっと見てたんだが、てっきり交通事故で一緒にお陀 仏になった親子かと思って、だとしたら気の毒だなあと」 「この子は横断歩道で車にはねられたらしい。わたしはたぶん脳溢血かクモ膜下出血で」 「ところで、あなたは?」 「俺かい、俺ァ・・・」 「実はな、俺ァ殺されたんだ」 「見ず知らずの鉄砲玉に人違いで殺されたんだ。その野郎、パンパンパンとハジいた後 で、ヒャーと悲鳴を上げやがった。『ヒャー、あかん、人違いや。まちがっていてもう た!』・・・わかるか。遠ざかる意識の中で、その声を聞いた時の俺の無念が」 ・男の再審査はものの五分であっけなく終わった。 申し出は当然却下されたのだろうと思いきや、廊下に出たとたんおとこはにっかりと天 衣無縫の笑顔を見せて、二人にVサインを送った。 ・「お次の方、椿山さん」 「当審査会はあなたのご事情を相応と認めました」 「ただし、この現世特別逆相措置につきましては、守っていただかねばならぬ事項がい くつかあります。のちほど『RMR』できちんとプリントをしたものをお渡しいたしま すが、この場でざっと説明しておきましょう。まず第一に、制限時間は厳守してくださ い」 「制限時間、ですか」 「そう。現世への逆送期間は死後七日間に限られます。いわゆる初七日まで」 「あなたに与えられた制限時間は丸三日間。よろしいですね」 よろしいですね、と言われてもすべてが茫洋と雲をつかむような話で、何を質問したら いいのかもわからない。とりあえず思いつくままに椿山は訊ねた。 ・「あの、もし万が一その決まりとやらを破ると、どうなるんでしょう」 答える代わりに、女子審査官が暗い顔色のまま片手の親指を床に向けた。 「え?何ですか、それ」 「こわいことになります」 とうていその先を問いただす気になれないほどの低くおどろおどろしい声で、女子審査 官は答えた。 ・「あと、もうひとつ。RMRではあなたに逆送用の仮の肉体をご用意しますから、現世 でご家族やお知り合いと会っても何の問題は起こりません。借りの肉体は生前のあなた とは似ても似つきませんからね。しかし、どんなことがあっても、貴方の正体を彼らに 察知されてはなりません。もし誰かに知られて騒ぎになったら・・・」 「こわいことになるんですね」 「そういうことです」 ・デパートマンらしくていねいなお辞儀をして、椿山は審査室を出た。 長椅子の上で退屈そうに体を揺すっている蓮にVサインを送る。 「おじさんはオーケーだったけど、お前はあまり無理を言うなよ」 「いいかい。おとうさんやおかあさんや、友達に会ったところで、お前にはもう何もで きないんだ。たぶん審査官の人たちも同じことを言う。それよりも、やさしいおじいち ゃんやおばあちゃんのまっているところへ早く行きなさい」 「いやだ」 「ぼくがもういちどあっちに帰りたいのは、パパやママに会いたいからじゃないよ。何 も知らないくせに、いいかげんなことは言わないで」 ・ううむ、と歩きながら椿山は唸った。 どうも自分は「このまま死ぬわけにはいかない」という漠然たる理由だけで、事態を安 直に考えているようだ。 生きることも死ぬ事も難しいのだから、いったん死んだ人間が生き返ることの簡単なは ずはあるまい。 その無理を押し通すに足る「相応の事情」など、実は誰にもないのではなかろうか。 ・椿山はふと佐伯知子のことを考えた。 そう、「ふと」考えたのだ。 彼女に対する椿山の感情はいつもその程度だった。 入社以来の気のおけぬ親友であると同時に、無聊を慰め合うセックス・フレンド。 こうした居心地のいい関係というのは、べつだん珍しくはあるまい。 ・女性と男性が対等に社会参加している今日、そういうかたちはむしろ自然であろうと思 う。 しかもふたりの間にはゆるがせぬ黙約があった。 一方が他者との恋愛を宣言したとたんから、たがいの体には指一本触れぬ親友関係に戻 る。そして失恋宣言とともに肉体関係を回復する。 したっがって椿山の結婚によって、長く続いたこの都合のいい関係は清算された。 永遠の親友に戻ってから八年経つ。 ・知子が他の男性との恋に落ちている間にも、椿山は嫉妬を感じたことがなかった。 嫉妬がないということはすなわち、恋愛感情がなかったのである。 その点は知子も同じだったと思う。 ・知子が密かに椿山を慕っていたなどと、いいかげんなでっちあげである。冤罪である 古い道徳に縛られた老人たちならばいざ知らず、高度成長期にフリーセックスの青春を 過ごし、長じては男女雇用機会均等法の社会に生きた同輩たちは、ことごとく邪淫の罪 を犯していることになる。 ・低く澄んだ女の声がする。 「お待たせいたしました。こちらはSAC中陰役所のリライフ・サービス・センターで す。ただいまよりあなたを現世に逆送いたします。逆送期間中のご質問等は、携帯電話 機を通じて二十四時間受け付けておりますので、どうぞお気軽にご利用ください」 「よろしくおねがいします」 ・「あなたがすんなりと行くはずだったあの世には、未来も過去もありません。というこ とはすなわち、苦悩は何一つありません。幸福な瞬間だけが永遠に続くのです。しかし ながら、あなたは過去に強い思いを残しており、実現しなかった未来を無念に思ってい らっしゃいます。そのうえ、『邪淫の罪』についても異議を申し立てられました。そこ で、あの世における魂の平安のために、ご自身の目で現世を確認していただき、死の現 実と罪の実態をはっきりと納得していただくというのが、この逆送措置の主眼なのです。 どうかこの目的を見失われる三点の厳守事項を常に心に留めて、慎重に行動なさってく ださい。なお、現世におけるあなたの行動を円滑にするために、当サービス・センター は似ても似つかぬ仮の肉体をご用意いたします。現在に到着後、一瞬戸惑われるとは思 いますが、格別の不都合はありませんのでご安心ください。では、行ってらっしゃい」 ・睡魔が椿山を抱きしめた。 このまま眠ってしまっていいのだろうか。 深い眠りから目覚めたとき、自分はどこにいるのだろう。 ・父の夢を見た。 ある日の記憶がそのまま夢になった。 「逆転ホームランだな」 「おとうさんはてっきり、知子さんが改まって挨拶にくるもんだとばかり思っていた。 早くしろとおまえをせかせたのは、そういう意味だったんだけどな」 「それが逆転ホームランかよ」 「ああ、万一にも考えていなかった」 「佐伯さんはただの同僚だって、何べん言ったらわかるの」 「ただの同僚がしょっちゅう家にきて、掃除や洗濯までしてくれるもんか」 ・叱っているのか呆れているのかわからないが、父が落胆していることは確かだった。 「気に入らなかったかな」 「いや、おとうさんが勘違いしていただけだ。ともかくウジのわきそうな男所帯とも、 やっとおさらばだな。よかった、よかった」 ・父はつよい男だと、椿山は今さらのように考えた。 抗わず諍わず、いつも運命を甘受して生きてきた。 役所を定年になった後でも、シルバーボランティアを指導する仕事を嘱託されて、マッ チ箱のような官舎に住み続けた。 ・椿山がようやく買った中古住宅の頭金は父の貯金だった。 それでも同居はしないと言い張る父を、担ぎこむようにして新居に連れてきた。 引っ越しの荷物をあらかた運び出してからも、父は官舎の朽ちた縁側に座りこんでいた。 ・「はいはい、おとうさん。往生際が悪いわよ」 妻の明るい冗談にも、父は腰を上げようとはしなかった。 「おまえらも無理な買い物などせずに社宅にすんでりゃいいんだ。官舎も社宅も働く者 の特権だってことがわからんのかね」 「でも、ここは壊すんだからしょうがないでしょ」 「それは仕方ないが、だからと言っておまえらが無理な買い物をする理由にはなるまい」 「駄々をこねないで、さ、行きましょ」 ・ふたりのやり取りを聞きながら、椿山は父の真意を探り当てた。 息子と嫁の世話にはなりたくないというだけのことだった。 その遺子だけで活力を保ってきたかのように、父は同居したとたん急激に老いてしまっ た。 ・すっかり呆けてしまった父を老人病院へと送り出す朝、椿山は生まれて初めて肉親のた めに泣いた。 息子は学校へ行き、妻はベランダで洗濯物を干しており、たまたま二人きりで朝食のテ ーブルについたのがいけなかった。 母が亡くなった後、一日も欠かさずに朝食をあつらえてくれた父との、二人きりの長い 暮らしを思い出したのだった。 現世到着 ・ベッドから転げ落ちて、窓辺に這い酔った。すでに日は暮れている。 冥土にも一日というものはあるのだろうか。 いや、ちがう。重い体をズルズルと窓枠まで引き上げ、椿山が見たものは夜空を押し上 げる高層ビルの群れと彩かなネオンサインだった。 現世に戻ったのだ。 ・「キャーッ!」 間近に女の悲鳴が聞こえて、椿山は振り返った。室内の闇に目を凝らす。 落ちつけ。落ちつけ。自分の身にいま何が起こっているのかを冷静に考えろ。 「誰か、いるの?」 不安げな女の声がした。 自分言おうとしたことを、闇の中の女が言った。 そうじゃない。これは自分の声だ。 ・キャー、と再び金切り声を上げ、椿山は長い髪を両手でつかみながらバスルームに駆け 込んだ。 鏡の中に佇んでいるのは、自分とは似ても似つかぬ妙齢の美女だった。 もはや驚くでもなく怯えるでもなく、思いもよらぬ仮の肉体を前にして、椿山はただ呆 れた。 ・「よみがえりキット」の黒い鞄の中で、携帯電話が鳴っている。 「おめでとうございます。あなたは無事、現世に到着しました」 「仮の肉体の諸元についてお知らせしておきます。これからはその人物になりきってく ださい。まず氏名は和山椿。年齢は三十九歳。職業はフリーのスタイリスト。もちろん 独身」 ・ドアチェーンをかけ、ロックを確認し、誰もいるはずのない室内を振り返る。 ストレッチパンツのサイドファスナーに指をかえると、心臓が破裂しそうに高鳴った。 仮の肉体とはいえ、完全なる生命が宿っているらしい。 ・自然としどけない内股のしぐさになってファスナーをおろし、Tシャツを脱ぐ。 着やせするたちなのか、下着姿の体は思いがけずたくましい。 肌は白く、まことにきめ細かい。 ・一糸まとわぬおのれの裸身を、椿はあかず眺めた。 何とも奇妙な感覚である。 おそるおそる体のあちこちに触れたみた。 しかし手は美女のものであるから、感覚がメンタリティを満足させはしない。 あくまで自分の手が自分の体を弄んでいるにすぎなかった。 鏡に向かって様々なポーズをとり、不思議な視覚と感触を楽しむ。 好奇心とナルシシズムと変身願望がからみ合う、悦楽の極致という気がする。 いけない、いけない、と洩らす言葉に帰って欲情してまたしばらく体を弄んでから、 ようやく下着をつけた。 ・カーテンを開けて、のしかかる大都会の夜景を見つめた。 ワープしたこの場所は、新宿新都心界隈のホテルの一室であるらしい。 さて、これからどうする。 ・落ち着け、と椿は自身を励ました。 やらねばならぬ仕事がたくさんあるときは、いっぺんにあれもこれもやろうとせず、 ひとつひとつ正確に片付ける。 長いデパートマン家業の知恵である。 ・椿はこの三日間でやりとげねばならぬ仕事について、冷静に考えた。 何よりもまず、妻と子の様子が気になる。 幸いこの姿ならば、近くから見届けられるし、腐心すれば正体を明かさずに慰めたり力 づけたりすることもできるだろう。 もちろん、ひそかにわからを告げることも。 ・父に会いたい。多忙にかまけて、入院先には一月も行っていなかった。 呆けてしまった父に今さら自分ができることは何もないが、せめて先立つ不孝を詫び、 感謝の心を伝えたい。 考えてみれば四十六のこの歳まで、父に「ありがとう」と「ごめんなさい」を、一度も 言っていないような気がする。 ・職場はどうなっている。 自分がいなくなったことをこれ幸いに、メーカーは品揃えの手抜きをしてやしないか。 ・そして「邪淫の罪」の嫌疑をかけられた佐伯知子のこと。 こればかりは本人に会って、ことの真偽を確かめたい。 いや、いわれなき罪を雪がねば。 親分の災難 ・武田勇。享年四十五。存命中の職業は有限会社武田興業代表取締役。とはいえその実体 は、「四代目共進会会長」である。 ・上部団体は関東一円に縄張りを持つ広域指定暴力団だが、彼自身は自分が暴力団員だと いう自覚はてんでない。 ・まじめなヤクザである。 滅びゆく伝統文化の数少ない後継者である。 非行青少年の更生活動を、実を以て実践している。 かつての逮捕歴はすべて道交法違反で、それも自らが車の運転をした結果ではなく、不 法な路上出店による逮捕であった。ちなみに、運転免許証はゴールドカードである。 ・彼の率いる「四代目共進会」は、名前だけはたいそうだがすこぶる貧乏であった。 昔ながらの稼業をまっとうにしようとすれば、それはほとんどボランティア活動と同じ になる。 ましてや彼は、少ない売上金の中から毎月の銀行積立をし、子分ひとりひとりの名義で ひそかに財形貯蓄もしている。 ・共進会は末端の下部組織とはいえ、終戦直後の闇市から四代続く名門である。 だから本来、武田は誰からも一目置かれる立場なのだが、葬式のたんびに香典が三万円 では、やはりコケにされた。 ・四代目共進会こと有限会社武田興業には、四人の「正社員」と二人の「アルバイト」が いる。 正社員とは杯事のすんだ子分であり、アルバイトはまだ修業中のため武田が盃をおろし ていない部屋住みである。 この二人は組織事務所近くの武田のマンションに、ちゃんと住みこんでいる。 ・武田は、いずれ足を洗ってカタギの事業を起こしたとき、失敗しないだけの人材教育を 図っているのである。 しかし先代が考え出し、武田が完成させたこの社員教育は、仲間うちからは、ヤクザに あるまじき形としてコケにされているのであった。 ・子分たちに序列はあるが、跡目は決めていない。 武田は内心、共進会は自分一代をかぎりに解散しようと考えていたからだ。 だからこの先は若い衆を増やさず、六人をひとりずつ卒業させたら自分も足を洗おうと 思っていた。 ・「なぜだ・・・」 ベッドの上で頭を抱えたまま、武田は呻くように呟いた。 運命に「なぜ」はないかもしれない。 だが無意味な「なぜ」でも口にし続けねばならないほど、武田はおのれの運命を納得し ていなかった。 いくらなんでも、人違いはあるまい。 ・(ヒャー、あかん、人違いや。まちがっていてもうた!) ヒットマンの叫び声が耳に蘇る。 武田が在世の最後に聞いた声である。 人違いで殺された。 いくらヤクザだって、こんな理不尽があってたまるか。 ・都心の寺で義理事があった。 叔父分にあたる人の一周忌法事である。 武田をかわいがってくれたその親分は、ちょうど一年前に抗争の犠牲になった。 ・抗争は犠牲者のつり合いが取れたところで手打ちとなったから、武田が襲われたことと の因果関係はあるまい。 ・法要の帰り、兄弟分たちに誘われて飲みに行った。 「なろほど、そういうことか」 武田は思いついて顔を起こした。 死という厳然たる事実にうちのめされて、事件の顛末を顧みていなかった。 つまり人違いということは、その時同席していた兄弟分の誰かと間違われたのである。 ・武田は「よみがえりキット」の黒い鞄を抱えて立ち上がった。 この際まず手始めにやらねばならぬことは、事実の確認であろう。 いったいどういういきさつで自分が殺される羽目になったのか、それを正しく知らなけ れば、可愛い子分たちを説得することはできない。 そのためにはとりあえず殺害現場に行って、正確な記憶を呼び覚ますことだ。 ・窓の外を行き過ぎる街の明かりを見つめながら、武田は考えた。 鉄兄ィ、抗争で死んだ叔父分の跡目である。 部屋住みのガキの時分から、この兄ィにはずいぶん良くしてもらった。 カタギの家族関係で言えば従兄にあたる鉄兄ィを、武田は仲間うちの誰よりも尊敬して いた。 たぶん武田の不慮の死を最も悲しんでいるのはこの兄ィだろう。 ・繁田の兄弟、一門の中で血統が遠いのだが、若いころから妙にウマが合う親友である。 互いの人となりは実の兄弟以上に知り尽くしている。 テキやの本業から遠ざかってしまったのは事業手腕に優れているからで、見てくれも決 してヤクザとは思えない 生き方が違うせいで、むしろ年齢とともに絆は強くなった。 ・市川、同じ釜の飯を食った弟分である。 先代の部屋住みから叩き上げて、とうとう足を洗わずに一家を構えたのは、武田と市川 の二人きりだった。 だから市川は、血を分けた弟のような親しみがある。 ・命日となった晩、一緒にいたのはこの三人であることは確かだった。 ・あの夜の記憶が甦ったわけではなかった。 ひとけの絶えた街路樹の根方に、花束が手向けられていたのだった。 こんな銀座のまん中で車にはねられて死ぬ人間はいないだろうから、花束は誰かが武田 の霊に捧げたとしか思えなかった。 ・そうだ。みんなはエレベーターで降りたのに、自分ひとりだけ階段を下ってきた。 兄弟分たちと見送りのホステスたちがエレベーターに乗り、自分が最後に乗ろうとした ら、重量オーバーのブザーが鳴った。 降りようとするホステスを押し戻して武田は言った。 (俺ァ、なんぜ八十五キロだからよォ。おまえが降り立って同じだ) で、階段を下って行った。 エレベーターは途中の階に止まったのか、先に一階についたのは武田だった。 ヒットマンは路地に身を潜ませていたのだろうか、それとも車の中にいたのだろうか。 ともかく階段を降りてきた男を的と勘違いして、背後から忍び寄ったのだ。 父の秘密 ・椿は行き過ぎる沿線の風景をぼんやり眺めていた。 三十年近くの間、朝に晩に見慣れた風景が通り過ぎていく。 新婚生活を送った社宅も、昨年ようやく手に入れた中古住宅も同じ沿線だった。 ・こと住宅事情に関して言うなら、自分は幸運だったと思う。 同世代のほとんどは好景気の時代に取り返しのつかない高い買い物をしてしまったが、 晩婚だったために災厄を免れた。 土地価格の暴落により、十年前に家を買った友人よりも購入したとたんから残債が少な いという、超数学的恩恵にあずかったのである。 ・あの時代には誰ひとりとして予測していなかった結果なのだから、まことにラッキーと いうほかはない。 手に入れた家の元の所有者の話によると、彼が購入した頃には倍以上の値がついていた そうで、家が売れてもなお、おびただしい借金が残るという。 まさに人生の明暗を感じたものだ。 しかし、いかな幸運であれ購入のあるく年にぽっくり死んでしまったのでは身も蓋もな い。 ・電車はためらうほどにゆっくりと、雨の小駅に滑りこんだ。 ホームに佇むいくつかの人影が窓を過ぎていく。 あ、と小さく叫んで、椿はシートから腰を浮かせた。 (おとうさん・・・) まぼろしかもしれない。 長身の背を丸めて、たしかに父によく似た老人の姿が窓をよぎった。 ・退屈なあくびでもするようにドアが開き、老人はひとつ後ろの車両に乗り込んだ。 首を伸ばして覗き見たとたん、目が合ってしまった。 椿は思わず顔をそむけた。 父に間違いなかった。 こんな朝早くから、病院を抜け出して徘徊しているのだろうか。 ・引き戸を開けて後ろの車両に映る。 父の姿が近づくほどに思いが乱れ、椿は斜め向かいの座席に着くと顔を被った。 気持ちを静めなければ、父の声をかけることも正視することすらもできなかった。 ・俯いたまま自分を励ました。 それにしても女というのは便利なものだ。 感極まればこんなふうにたちまち涙をこぼすことができる。 黒い鞄を探るとハンカチが入っていた。 必要なものはとっさに出てくる便利な鞄である。 ・「どうかなさいましたかね」 懐かしい声が耳に届いた。 古ぼけた形のひしゃげた父の革靴が、椿のサンダルのつま先に向き合っていた。 「いえ、べつに、大丈夫ですから・・・」 顔を上げることができなかった。 ・「大丈夫と言ったてねえ」 思いかげず正気の声で、父は語りかけてきた。 「若い娘さんが始発電車で泣いているっていうのは、誰が見たって尋常じゃない」 よいこらせ、父は椿のかたわらに腰を下ろした。 ・「若くなんかありません。もう三十九です」 「ほう、三十九。私ァまた、二十歳そこそこの娘さんかと思った」 「三十九にしたって、私の倅よりずっと若い。それにべっぴんさんだ」 ・椿は勇気を奮って顔を上げた。 目の前の父は表情までも正気だった。 「あのねえ、あなた。どんなことがあったにせよ、人前で泣くのはよろしくないよ。 女の弱みにつけこむろくでないもおるだろうし、ろくでなしではないにしろ、私のよう なお節介の年寄りは放っておきことができない」 ・「あの、以前お会したことがあるんですけど」 言葉を選び抜いて、椿は言った。 一瞬、父の顔色が翳った。 「仙川の、愛寿病院で・・・」 「あなた、看護婦さんかね」 「いえ、そうじゃありません。知り合いのお見舞いに行ったとき、お見かけしたような。 ご退院なさったんですか」 ・「いや」と、父は痩せた顎を振った。 「退院はしていない。まいったな、妙な人に声をかけちまった」 ・「あの、おじいちゃんは随分シャントなさっていますよね。たしか病院でお見かけした ときは、車いすに乗ってらして、ボーッとしてたみたいな。いったいどういうことなん でしょうか」 ・「あなた、ほんとに看護婦さんじゃあるまいね」 「ちがいます。知り合いもとっくに退院しましたから、あの病院とは縁もゆかりもあり ません」 「あの、たいへん僭越ですけど、もしおじいちゃんに何か秘密があるのなら、聞かせて ください」 ・「なんだか強引な人だね。そんなことを聞き出しても仕様があるまい」 「ときどきこうして、朝早くに非常階段から脱走するんだ。実のところ、まだ足は達者 からね。仙川の駅まで歩いて、一駅か二駅ばかり電車に乗って、起床前に知らん顔で病 院に戻る」 「ええっ、それって、どういうこと!」 「ヒミツ、ヒミツ。本当にボケたくないからさ」 「ということは、ボケたふりをしているんですか。まあ、何て器用な人」 「どうしてそんなバカなことをなさるんです」 「他人のあなたが四の五の文句をつけることじゃあるまい。あのね、他人のあなたにだ から言えるんだけど、理由は二つある」 ・「まずひとつ。私はね、それこそ謹厳居士を絵に描いたような小役人でしてね。自分で 言うのもなんだけど、この歳になるまで嘘をついたことがない」 「こういう性格は損だね。世の中、嘘つきのお調子者なかりが出世する。そこで私はあ る日、ふと考えたのだ。一生にいっぺん、乾坤一擲の大嘘をついてやろう、とね」 「つまり、ボケたふりをしてみんなを欺すという大嘘をついたのね」 「そう・家族も、知り合いも、医者も、看護婦も、本物のボケ老人たちも、みんな欺し た」 ・「二つ恵の理由。実のところ、つらくて仕様がなかったんだ。家族の世話になりたくな かったんだよ」 「どうして、ですか」 「このところ、体もめっきり衰えた。いっそう頑固になったし、偏屈になった。つまら ぬことに短気を起こして、嫁に当たったりもするようになった。そんな老醜を晒すよう では、孫の教育上にも好ましくはない。できれば家を出て、見知らぬ土地か深い山の中 で、消えてなくなりたかったのだがね。昔の姥捨て山のようなところがあれば、どんな にいいかと思いつめた」 ・けっして愚痴を言わぬ人であることは知っていた。 だから口にせぬ不満や苦悩は、できるかぎり斟酌するよう心を配ってきたつもりだった。 自分も妻も、父をないがしろにした覚えはない。 新居に越してから多少は体の衰えを見せ始めてはいたが、とりわけ頑固になったとも、 偏屈になったとも思えなかった。 短気を起こして妻に当たったのなら、亭主の耳に入らぬはずはなかった。 ・父は考え過ぎたのだと思う。 家族に迷惑を賭けたのではなく、いずれ迷惑をかける自分を怖れたのだ。 ・「それで、ボケたふりを・・・・」 「自分の作った福祉の仕事に甘える方が、いくらかマシだと思った結果ですよ」 ・「倅は、デパートに勤めておりましてね」 「本当は大気苦に行って、私のような小役人ではない立派な役人になってほしかったの だが、母親を早くに亡くしてましてね。それでたぶん、父親に世話を賭けてはならぬと 思ったのでしょうな。学校の成績は良かったのに、もったいないことをしました」 ・「そういう息子さんだから、おじいちゃんも世話になりたくなかったのかしら」 「女にはわからん」 「はあ・・・そう言われても・・・たぶんわかると思いますけど」 「女は男に甘えてもいいが、男が男に甘えるというのは、決してあっちゃいけないこと だよ。倅は私に甘えなかった。人生を棒に振った。だから私は倅に甘えるわけにはいか ない」 ・「しかし」 父は過ぎ行く風景をまっすぐに見つめて、乾いた唇をふるわせた。 「倅は、つい先日死にました。孝行息子だったが、とんだ親不孝をしおって・・・」 「さすがに今度ばかりは後悔した。知らされてはいないのだから、葬いに行くこともで きない。嫁や孫を励ましてやることもできない。何の力にもなれない。いかに身から出 た錆とはいえ、人前で嘆くことすらも、私には許されんのですよ」 ・どうしても訊ねたいことがあった。 父はいったい誰の口から、倅の死を聞いてしまったのだろう。 「ああ、それはですね」 「孫が報告に来てくれたのです。また小学校二年なのに、よくもひとりでこられたもの だと妙な感心をしましたがね。何とか知らせねばならぬと、葬いの仕度のどさくさに脱 け出してきてんですよ」 ・「お孫さんが、どうして」 「ああ、それはですね。孫は私の共犯者なのです」 「つまり、倅も嫁も、医者も看護婦も欺しましたがね、たったひとりの孫を欺くわけに はいかなかった。奴とは、男と男の約束をかわしたんです」 「私は私が周囲を欺く理由を、きちんと孫に説明しましたし、孫もよく理解してくれま した。私の口から言うのもなんだが、あの子はそんじょそこらの子供とはデキがちまい ます」 ・省みて、なんと愚かしい人生だったのだろう。 身を粉にして働くことだけが正義だと信じていた。 そして文字通り体が粉になってしまってから、ようやく知ったのだった。 しごとにかまけて、かけがえのない家族をなおざりにしてきた。 血を享けた父のやさしさを知らず、血を分けた息子の試練にも気づかなかった。 つまるとこり、自分は一家の稼ぎ手以外の何者でもなかったのだろう。 ・こんな朝っぱらから家を訪ねて、線香を上げさせてくれというのは、どう考えても不審 である。 だからと言ってまさか正体がバレるわけはないだろうが、少なくとも妻子を戸惑わせぬ だけの完全な理由を考えねばなるまい。 ・考えに考えた末、名案が浮かんだ。 朝早く線香をあげさせてくれとやってくる女は、沿線の一駅先に住んでいるのである。 売店設営の残業で、タクシーの相乗り帰宅をしたことがあるから、自宅の場所も知って いる。 そして今日は、仕事の行きがけに不調法とは知りつつ椿山家を訪ねた。これでいい。 ・向かいの繁みの中で吠え声がしたと思うと、綱を引きずったまま柴犬が駆け寄ってきた。 ヤバい。実にヤバい。まごうことなきわが家の愛犬である。 小さいくせに気性が荒く、新聞配達に噛みついて怪我をさせたことがある。 後を追って走り出してきたのは・・・息子だ。 「すみませぇん!噛みつきますから、気をつけてください」 息子は走りながら叫んだ。 ・「こら・・・ルイ・・・私よ、私」 いい聞かせるまでもなかった。ルイは尻尾を振っている。 だがしかし、噛みつかれるのもヤバいが、なつかれるのはもっとヤバい。 なにしろこの躾の悪い犬は、家族以外のすべての人間を敵とみなしているのだ。 ・ルイは吠えるのをやめ、鼻を鳴らしながら椿の足にまとわりついた。 主人を抱きしめるように伸びあがり、体じゅうで歓喜を表現する。 人の目をくらますことはできても、動物はだませないのだろうか。 差し出した手を、ルイは愛おしげに舐め回した。 ・「あれ・・・どうしちゃんたんだろう」 ロープを掴んだなり、息子は不思議そうに椿を見つけた。 ・「すみません。うんちを取ろうとしたら、逃げちゃんて」 陽介はシャベルとビニール袋を持ったまま、ていねいに頭を下げた。 この礼儀正しさは、祖父の教育のたまものだった。 今どき珍しく塾にも習いごとにも通っていないが、学校の成績はずば抜けており、性格 にも非の打ちどころがなかった。 ・「おばさん、ご近所ですか」 「いえ・・・実はあなたのおとうさんをよく知っているの。仕事の都合でお通夜にもお 葬式にも行けなかったから、お線香をあげさせていただこうと思って」 「そうですか。わざわざありがとうございます」 たぶん母の口ぶりを真似て、陽介はもういちど頭を下げた。 ・「おとうさん、あなたのことをいつも自慢してらしたわ。学級委員で、成績も一番で、 パソコンも俺よりずっとうまいんだって」 「それ、親バカです」 やっぱりこの子は天才だと思う。 誰に似たかはともかく、アインシュタインかエジソン級の天才なのだ。 弔問客 ・「実は完成に出張しておりまして、ご不幸を存じ上げなかったんです。昨日の晩に耳に いたしまして、出勤前にお邪魔した次第なのですが」 「どうぞお上がりください。皆さんにお気遣いいただいて、主人もきっと喜んでおりま す」 ・椿は大変なミステイクに気づいた。 Tシャツにストレッチパンツという気軽な服装は、まあ通勤途中なのだから仕方ないと しても、香典の用意を忘れた。供物もない。 うっかりしていたというより、自分で自分に香典を供えるという「当時の非常識」に考 えが及ばなかったのだった。 この不作法ばかりは申し開きのしようがない。 待てよと、椿は玄関先で「よみがえりキット」の口を開いた。 おお、なんとすばらしいこと。必要なものは何でも出てくる不思議な鞄。 ・「お茶をお淹れしますので、どうぞお線香を」 立ち上がろうとする妻の手を、椿は思わず握り止めた。 由紀、と危うく口に出かかる妻の名を、奥歯で噛み潰す。 ・「ごめんなさい」と、椿はようやく言った。 途端に妻の顔から持ち前の微笑が消えた。 「あの、それってどういう意味ですの」 「いえ、あの・・・ともかく、ごめんなさい」 ・妻の表情には次第に黒々とした猜疑があらわになった。 「一体何をおっしゃっているのか、ぜんぜんわかりませんけど、もしやあなた、何かう ちの主人と特別な関係でも」 妻は切れた。 ・けがわらしいもののように、妻は椿の手を振り払った。 「お茶を淹れてまいります」 妻は憮然として今から出ていった。 ・「おばさん・・・」 振り返ると陽介が立っていた。 「もしかして、おばさんはお父さんの愛人ですか」 「あらあら、どうして陽ちゃんまでそんなふうに考えるのかしら」 「だって、さっき公園のベンチで、ものすごくへこんでたでしょう。ぼくやおかあさん の顔をジロジロ睨むし。おとうさんの写真を見ながらシクシク泣くし。どう考えたって 普通の関係じゃないと思うんだけど」 ・「ちょっと待って、陽ちゃん」 「仮にあなたの言うとおりだとしてもよ。どうして陽ちゃんはそんなに楽しそうなのか しら」 「おとうさんがそういう人だったってことが、何となく嬉しいんです」 「ぼくのおとうさんはとてもいいおとうさんだったけど、つまらない人だなって思って いたから」 ・「つ、つ、つまらない!」 「はい、仕事ばっかりで、ちっとも余裕がないんです。働きづめで死んじゃったなんて、 かわいそうすぎます」 「どう考えても、ぼくのおとうさんは、楽しいことなんてひとつもなかったんだよ」 ・階段が軋み、野卑な男のあくびが聞こえたのはそのときだった。 ぎょっと顔を上げて、椿は妻を問い質した。 「誰ですか、こんな朝早く、どなたか泊ってらしたんですか」 「他人の家のことはお気遣いなく」 妻は冷ややかにいった。 ・不穏な足音がる廊下を近づいてくる。洗面所で水を使う音。 椿はとっさに、親類の誰かしらが泊まる可能性について考えた。 妻の父か弟か、あるいは地方の親類か。 ・しかし、襖をあけて突き出された顔をひと目見たなり、椿は気を失うほど仰天した。 「おはようございまあす。あ、お客さんですか。これは失礼」 なぜ島田がいる。 しかも死んだ俺のパジャマを着て、おはようございますとは何ごとだ。 ・うち続く最悪の事態に椿は混乱した。 妻は嶋田係長に、椿の首を検分させるつもりなのだ。 「おばさん、悪いけど何だかものすごくヤバい雰囲気だから、ごめんね」 留める間もなく陽介は居間から逃げ去った。 すれちがいざまに嶋田は陽介の頭を親しげに撫でた。 ・「あのね、嶋田さん。主人とお付き合いのあったスタイリストの方なんですけど、ご存 じかしら」 「スタイリストなんて、売り場には必要ないからね。由紀ちゃんは知らないの?」 ・由紀ちゃん。上司の女房を掴まえてそれはなかろう。 しかし怒りがこみ上げるより先に、恐ろしい現実がのしかかってきた。 「つまり、そういうことだったのね」 「許せないわ。いけしゃあしゃあと、お線香をあげさせてくれなんて!」 「こっちこそ許せないわよ。あなたたち、いつの間にそんなことになってたの!」 ・まったく思いがけぬことだが、思いたるフシがないわけではなかった。 部下の嶋田係長と妻の由紀は同期入社である。 二人を並べてみればけっして「身所と野獣」ではなく「節句のお雛様」もしくは「シー ザーとクレオパトラであった。 ・いつであったか妻がまだ案内嬢だったころ、ブライダル・フェアの広告のモデルに、 二人が起用されたことがあった。 とうてい自前のファッションモデルとは思えぬ新郎新婦の美しさに、店員たちは皆溜息 をついたものだ。 ・あの二人は実は恋人同士なのだという噂も耳にした。 女性が大半を占める職場では、そういう根も葉もないうわさが女性週刊誌の見出しのよ うにまかり通る。 ・「失礼させていただきます」 「まだお話はすんでいませんけど」 「いいじゃないか、由紀ちゃん。今さら聞きたくもないことは聞かなくたって」 ・襖を乱暴に開けて、椿は背を向けたまま言った。 どれほど心に嵐があっても、夫の務めとしてこれだけは確かめておかねばならない。 「つかぬことをお伺いしますけど、奥様」 「何よ」 「このおうちのローンにご心配は?」 「その点でしたらご心配なく。ローン契約のときに保険ぐらい入っていますから」 ・ああ、そうだった、と椿は胸をなでおろした。 家のことはすべて妻まかせだったが、たしかそんな話を聞いた記憶がある。 築十年の古家だけれども、この家が好きだった。 できうるならこの家で老い、この家で死にたかった。 ・「おばさん、ありがとう」 花の精のような澄んだ声で、陽介が椿を呼び止めた。 この子は母の秘密をすべて知っているに違いない。 しかし子供の口から事実を聞き出すわけにはいかなかった。 「おとうさんはきっと喜んでいます。勇気を出してきてくれて、ほんとにありがとう」 ・小さな家と小さな子供。四十六年間の人生で自分が残した二つのもの。 (いったいどうなっちゃてるのよ。何から何まで、まるっきり私の知らなかったことだ らけじゃないの) 父も息子も妻も、そして最も頼みとしていた部下までもが、自分に対して大きな秘密を 隠し持っていた。 ・嘘は誰にとっても辛い。秘密は苦痛である。 ならばなぜ、彼らはみな秘密を持ったのだろう。それぞれの嘘が秘密に結びついている としたら・・・。 ・かつて店内で噂になったとおり、妻の由紀と部下の嶋田は恋愛関係にあった。 しかし恋愛が結婚という形に成就するとはかぎらない。 ましてや職場内での秘かな交際は不自由である。 そういう関係が長く続けば、結婚の決断はむしろ遠のくものだ。 ・そもそも結婚というものは、恋愛の熱量とはさほど関係がなく、恋愛の時期とはかえっ て反比例する。 ダラダラと続いた長い恋愛を清算したとたん、よく知らぬ相手と電撃的にゴールインし てしまうという例は多い。 ・他人事のように言うが、自分がその好例である。 長い付き合いの佐伯知子と結婚する意思はなく、そろそろ潮時と思っていたところに由 紀が現れた。 もしそのころ、由紀も嶋田との関係を悩んでいたとしたら、思いもかけぬプロポーズを むしろ受け入れやすかったのではあるまいか。 ・自分と佐伯知子は歳の分だけ大人だった。 しかし一回りも年下の由紀と嶋田は、たがいに未練があった。 そして何かの拍子に、倫ならぬ関係として復活した。 ・売り場の課長と係長が同時に休みを取ることはありえない。 このところの不況で規定の全館休日もなくなってしまっているから、二人はローテーシ ョンを組んで休みを取っている。 ということは原則として週に二日、由紀と嶋田は誰はばかることなく逢瀬を重ねること ができるのだ。 ・もし由紀の不倫に気づく者がいたとしたら、一日のほとんどを共に暮らしている父であ ろう。 父は人一倍正義感が強い。倫理のかたまりである。 しかし同時に、息子夫婦の厄介者であることを強く意識している。 嫁を許すことができなくても、家庭に波風を立てなくないと考えるはずだ。 ・懊悩の末、父は之しかないという方法を選んだ。 ボケたふり、である。 ものすごい離れ業ではあるけれども、潔癖と怯懦とが同義に完結するという発想は、い かにも小役人の叡智という気がする。 ・これですべての説明はついてしまう。 見知らぬ弔問客に対する、妻の強迫的とも思える誤解も。 父の不倫を快事として喜んだ、陽介の誤解も。 ・もしかしたら、陽介の父親は嶋田ではないか。 「うそ」 怖ろしい仮説を思いついたとたん、椿は声に出して否定した。 しかし人情ということのほかに、否定するべき明確な根拠はない。 その代わり仮説にはいくつかの理由があった。 ・陽介は母親によく似た顔をしている。 島田に似ているとは思えないが、自分にどこも似ていないことも確かだった。 祖父の面ざしとも、共通点は見出せない。 ・それはまあいい。 問題はあの、とうてい七歳の少年とは思えぬ頭の良さである。 その点を言うなら妻は凡庸で、自分は学校の成績こそ悪くはなかったが努力をするタイ プだったと思う。 突然変異というよりは、他者の遺伝子を享けていると考えるほうが、遺伝子学的には説 得力がある。 ・いよいよすべての説明がついてしまう。 仮説が真実であったとすると、登場人物はひとりひとりが大変な苦悩と業を抱えている ことになるのだが、自分ひとりが死んでしまえば人々は本来あるべき姿に帰着し、業か ら完全に救済されることになりはしないか。 すなわち、もし神が存在するのならば、自分は死を賜わったのである。 ・由紀を愛している。 どのような不実があろうと、その気持ちに変わりはない。 陽介を愛している。不義の子であろうと、血を分けた子どもと同様に愛している。 たとえば生前、すべてが審らかにされたとしたら、自分は二人の平安のために死んだか もしれない。 自分の死によって彼らが正常な愛のかたちを獲得できるのなら、たぶんそうしただろう。 甦った聖者 ・武田は住み慣れたマンションを見渡した。 初七日を過ぎれば、二人の少年はここを引き払ってどこへ行くのだろう。 子分たちの身の振り方を決めてやれなかったのは、何にもまして心残りだった。 ・「君たち、お金はあるのかね」 それがよー、自分、泣いちまったんですけど」 「親分はね、自分らひとりひとりの名義で、財形貯蓄とかいうの、しっかり積んでいて くれたんス」 ・武田は胸を撫で下ろした。 苦労して積み立てた金は子分たちの手に渡ったのだ。 「無駄遣いをしてはいかんよ。金をなくすのは簡単だが、貯めるのは難しい」 ・「それなら大丈夫ッス。銀座のおじきがね、預かってくれていますから」 銀行員のような兄弟分の顔が瞼に浮かんだ。 銭金のことなら事業化の繁田に任せておけば安心である。 ・「銀座のおじきはね、親分のかわりに財形の続きを積んでくれるって言うんです」 持つべきものは兄弟分である。 手広く金融業を営む繁田は、性格のセコさで仲間うちからは嫌われているけれども、 セコい分だけ頼りがいのある男だった。 ・鉄兄ィが戒名をつけて葬式も取り仕切り、繁田の兄弟が金を預かり、新宿の市川が二人 の部屋住みを引き取ってくれる。 仲の良かった三人の兄弟分たちが、自分の死後の始末を分担してくれている。 ・「先生。ところでよー先生は親分を殺したやつの目星はついてんの?」 「思い当たるフシはないんだがね。何かの間違いじゃないかと、ぼくは思うんだ」 「やっぱりな」 「もしかしたら、人違いじゃねえかと思ってたんです。うちの親分は、誰かと間違われ たんじゃねえかって」 「誰かって、誰と」 「ここだけの話だけど、ほかの三人の親分衆は、命を狙われても不思議じゃね〜んだ」 「ほう。三人の親分衆は、何かトラブルを抱えていたのかね」 ・「まず、港家の鉄親分だけど、鉄親分はバリバリの武闘派で、一年前の抗争の主役だぜ。 ヒットマンだって、みんな港家の若い衆なんだ」 「あの件ならとっくに手打ちは済んでいる」 「だからよー。自分、こうなって初めて分かったんス。上のほうで勝手に手打ちをされ てもよ、親を殺された子分は納得できねーもん。破門絶縁も覚悟で体張るぜ」 ・「次に、銀座の繁田親分なんだけど、繁田のいじきは不動産とか金融とか、かなり派手 に商売をしているわけよ。しかもこのところ不景気で、トラブルだらけ」 「不動産の抵当権なんて、よその金貸しとぶつかるんだ。会社が一軒つぶれりゃ、債権 回収で金貸し同士が揉めるわけだろ。なんせ銀座の繁田商事と言いや、泣く子も黙る暴 力金融だもんね。命なんていくつあっても足らねえグレーさ」 ・「市川のおじさんはもっとヤバいよ。歌舞伎町は無法地帯だからな。仁義もねえ。シマ ワリもねえ。お早い者勝ち。強い者勝ちのサバイバル・ゾーンなんだぜ。関西だって大 勢やってきてるし」 ・「だからよー。うちの親分は誰の恨みを買うはずはねーんだけど、あの晩一緒にいた三 人の親分はそれぞれに命を狙われるだけの理由があったってことさ。そのうちの誰だか はわからねーけど」 ・繁田社長の朝は早い。 日本国中ほとんどの社長が手詰まりで、朝早くから出社する理由も気力もない今日この ごろ、彼だけは愛車メルセデスを駆って午前八時には家を出る。 そして銀座六丁目のビルのスリーフロアを占有する事務所に着くやいなや、スポンサー となっているFM番組を聞く。 ・ラジオでCMを開始したとたん、マスコミすなわち正義であると勘違いしている大勢の 人々から電話が殺到した。 ・ボロい。これはボロい。 その客たちの多くは、銀行から突然見放された世間知らずの経営者である。 銀行にとっては危険な客でも、切った張ったの町金融から見れば余力十分の健全な取引 先と言えた。 そういう社長さんが、「ラジオで宣伝をしているのだから、しっかりした金融会社にち がいない」と独善的かつ希望的に判断して、融資を申し込んでくる。 ・好景気のころにさんざんいい思をした経営者は甘い。 業績の悪化はすべて景気のせいで、社長の自己責任はこれっぽっちもないと思っている。 ・こういう客を生かさず殺さず、いわゆる半殺しの状態で何年か押さえておけば、あげく の果ての不渡りなど痛くも痒くもなかった。 ・株式会社繁田商事の社員六十人のうち、約二十名はれっきとした子分である。 ヤクザではあるけれども専門知識は十分に身につけており、主として不良債権の回収に あたっている。 ・窓口で接客する女子社員と事務職が約二十名。 彼女らは全員が大学卒で、きわめて優秀である。 どのくらい優秀かというと、朝日新聞の入社試験を落ちたその足で銀座のこの会社に入 ったというのが何人かいる。 残りの二十人名は金融のエキスパートである。 年齢四十歳以上六十歳未満、財務経験者に限る。 ・これらのカタギの社員たちは入社早々に会社の実体には気づくはずであるが、誰も辞め ようとはしない。 女子社員もリストラ組も、ここを辞めれば後がないことは十分に承知しているからであ る。 ・腕っぷしにはてんで自信がない。 ために若い時分には、仲間うちからさんざコケにされた。 しかし、時代は変わったのである。 誰がどう見たって人畜無害の、知的で文化的な顔をしている。 ごくアトランダムに、たとえば銀座四丁目の通行人繁田の顔写真を見せ、職業を当てさ せたとしたら、八割り方は「銀行の支店長」と答えるに違いない。 しかしその正体は、某指定広域組織の大幹部、繁田組組長である。 ・「早朝からお客様がお見えです」 「先日お亡くなりになった武田社長のことを訊ねたいと」 ・やがて専務に先導され、若い衆に左右を固められて社長室に入ってきたのは、いかにも 正義の味方といったふうな、長身の男だった。 ・背広の胸のバッチを確かめてから、繁田は満面の笑顔で男に席を勧めた。 差し出された名刺には「弁護士 竹之内勇一」とあった。 ・「で、どのようなご用件でしょう」 「はい。私、実は先日ご不幸に見舞われた武田勇君と昵懇にしていた者なのですが、個 人的に彼の死についてお訊ねしたいと思いまして」 「私にわかることでしたらお答えしますよ」 ・目つきで十分に威嚇したつもりだったが、竹之内は怯まなかった。 視線を決してそらそうとしない・ まるで同業者のような身構えである。 ・「どうも武田君は、人違いで殺されたらしんです。お心当たりはないでしょうか」 繁田はひやりとした。 こいつはただものではない。 そんなことをなぜ知っているのだ。 ・「人違い?・・・いやはや物騒な話ですな」 そらとぼけて、繁田は眉をひそめた。 ・武田組長の不慮の死は、兄弟分の繁田にとって悔やんでも悔やみきれぬ痛恨事だった。 同じ代紋を背負っているとはいえ、組織上の血脈は遠い。 普通そういう関係の男同士が兄弟分の盃をかわすのには、何らかの政治的な背景がある ものだ。 しかし武田と繁田の盃には何の欲得もなかった。 若い時分から妙にウマが合い、たがいを心から信頼していたのだった。 猜疑心がことのほか強く、誰も信用しないかわりに誰からも信用されていない繁田にと って、この世で唯一信じられる男は武田勇だけだった。 ・「ねえ、社長。あなたは商売がら、いろいろとはたから恨みを買うこともあると思うの ですが、もしや武田さんは、あなたに間違えられて殺されたのではないですかね」 「ずいぶん立ち入ったことをおっしゃいますねえ、先生。そういうのを下衆のかんぐり とか言うんじゃないですか」 ・「武田君は人を憎む人間ではない。ましてまちがって殺されたのであれば、犯人を憎み はしません。しかし、誰に間違わられたのかは知りたい。いや、友人として知っておき たいのです」 「知ったところでどうなるものでもないでしょう。無意味な詮索だと思いますがね」 ・「わかりました。お答えしましょう」 「全く思い当たるフシはありません。先生を死んだ武田の兄弟だと思って、はっきり言 います。僕はあいつだけには、嘘はつけなかった」 ・繁田はメガネをはずし、細い指先で顔を被った。 たしかに嘘ではあるまい。 武田は自分の身代わりとなって殺されたのではない。 「しかしよォ、そのほうがよっぽど気が楽ってもんだぜ。武田の兄弟が俺の身代わりに なってくれたんなら、あいつの仇は俺がとる。それで悔いは残るめえ」 「まったくです・・・ああ、やだやだ。いってえどういうわけでこんなまちがいが起き ちまったんだろう」 「あのヒットマン、大坂戦争の生き残りとか何とかで、腕は確かなはずなんだが」 「だが、あろうことかそのヒットマンが、的をとりちがえやがった。港家の鉄兄ィと武 田の兄弟の、いってえどこが似ているってんだ」 ・繁田はクリスタルの灰皿を壁に向かって投げつけた。 港家の鉄蔵を消すために、高い金を払って殺し屋を雇った。 義理事の帰りに銀座に誘い出し、客が引ける午前零時の雑炉で仕留める手はずだった。 鉄蔵さえいなければ、次期総長の座は繁田に約束されたようなものだった。 ・「武田の兄弟に、何と詫びていいかわからねえな」 白皙の顔を俯けて、繁田は唸るように呟いた。 ステンドグラスの家 ・「気分はどう?蓮ちゃん」 「体が重たいです。とても不自由な感じ」 「それは仕方ないわ。ちょっとお顔がかわっちゃってるけど、心配しないでね」 あれれ、どこか変だと思ったら、チェックのスカートなんかはいている。 フリルのついたブラウスも。 ・生きているときは、根岸雄太という名前だった。 でも死んだとたんに、めんどうくさい名前に変わってしまった。 「雄ちゃん」が「蓮ちゃん」に変わっただけでもピンとこないのに、「蓮子ちゃん」だ って。 ・桜並木に看板が出ているのは、ママ行きつけのブティック。 ドキドキするけど、ショウウィンドウに体をうつしてみよう。 ひぇぇっ、かわいい。アイドルだよ、これって。 フリルのついた半袖のブラウスにチェックのスカート。まっかなスニーカー。 帽子には花飾りがいっぱい。 三つあみの髪のさきっぽにリボンなんて結んじゃって、まるで絵本のさしえみたい。 ・ハツコさんはしかられたと思う。 あの日だけ、ハツコさんはおむかえにきてくれなかった。 校庭でしばらく待っていたけど、友だちがみんな帰っちゃったから、ぼくもひとりで家 に帰ることにした。 それで、車に引かれちゃった。 ・ハツコさんのせいじゃない。 おむかえのいない友だちも大勢いるし、バスや電車で遠い家から通ってくる子もいるん だから。 ・信号無視をした運転手さんも悪いけど、ぼくも不注意だった。 成城の町には交通事故なんてあるわけはないって、勝手に思いこんでいた。 先生のご注意は、世田谷通りとか環状八号線とか、成城の町の外で起きることをおっし ゃっているんだなと思っていた。 ・こういうのを「おぼっちゃま」っていうんだな。 家がお金持ちだという意味じゃなくて、世間知らずってこと。 けっきょく、その「おぼっちゃま」が命とりになったってわけ。 ・ドキドキ。おうちが見えてた。何だかなつかしいな。 垣根のすきまからのぞいてみよう。 あ、ママだ。ローズガーデンでバラのお世話をしている。 あんまりかなしそうにはみえないけど、そうじゃないな。 ガーデニングでかなしみをまぎらわしているんだ。 ・門のところまでハツコさんが出てきた。 ハツコさん、やつれたみたい。 やっぱりパパやママにしかられたんだな。 ・いけない。ハツコさんに気づかれちゃった。 じっとこっちを見ている。 逃げ出したらよけい変だ。どうしよう。 ・「あなた、どなた?もしかしたら、ぼっちゃんのお友だちかしら」 「はい、雄ちゃんの友だちです。病気をしていて、みんなといっしょにお葬式にこれな かったの」 「あら、まあ。お名前は」 「根本蓮子でぇす」 ・「奥様ァ、ぼっちゃんのお友達がいらっしゃいました」 あ、ママがきた。ニコニコ笑って、やっぱりそんなに悲しそうじゃないな。 「あーら、お久しぶり、よくきてくださったわねぇ」 ぼくのママはお調子者です。会ったことなんてあるはずないのに、「お久しぶり」だっ て。 ・ママは回り階段から二階を見上げて、パパを呼ぶ。 はぁい、とねぼけた声で答えて、パパが降りてきた。 ぼくのパパは小説家です。 毎日しめきりに追われて、ずっと家にいるのにあんまり会うことがない。 ・ぼくはふと気がついた。 ママが書斎に向かってパパを呼ぶなんて、ありっこない。 パパがお仕事しているときは、家の中を走っても、大きな声を出してもいけないんだ。 ・ということは、パパはお仕事をしているわけじゃないんだ。 原稿を書くどころじゃなくって、書斎にジッとこもってご本でも読んでいるんだろう。 ・うすうす気づいてはいたんだけど、ぼくのおうちはやっぱり変だ。 大きいからじゃない。 パパとママはべつべつに暮らしている。 これでぼくがいなくなっちゃたら、いったいどうなるんだろう。 ・「雄ちゃんは、どんな赤ちゃんだったんですか」 「とても手のかからない子だったわ」 うそ、ママはうそをついている。 ・「どこの病院で生まれたんですか」 「あなた、どうしてそんなことを訊くの。おかしな子ね」 「いえ、もしかしたら私と同じ病院かなと思ったの。ごめんなさい、おばさん」 ・ママに聞きたいことがあったんだ。 でも、やっぱりうまく言えない。 どうしよう。そのために無理を言って生き返ってきたのに。 審査官のおじさんたちも、「無理のない事情だねえ」って言ってくれたんだ。 ・「それじゃ、これで失礼します」 いたたまれなくなって、ぼくはおいとまのあいさつをした。早足で玄関にもどる。 ママはさっきの質問がこたえたみたいだ。笑顔が消えて、落ち込んじゃった。 ・ハツコさんが車寄せを掃いていた。 グッド・アイデア。ママに聞けなかったことは、ハツコさんにたずねればいい。 ぼくはハツコさんの手を引いて、小道を走った。 ・「ねえ、教えてほしいことがあるの。雄ちゃんの本当のパパとママは、だれ?」 ヒエッ、とハツコさんはのけぞるようにおどろいて、玄関を振り返った。 ママはにっくり笑いながら手を振っている。 ・「ちょっと、お嬢ちゃん。こっちにおいでなさい」 ハツコさんはぼくを引きずるようにして門の外に出た。 桜の木のかげにしゃがみこむ。 「なにをおっしゃるんですか、いきなり」 ものすごくあわてている。ハツコさんは知っているんだ。 ・「あのね、雄ちゃんが言ってたの。ぼくはもらいっ子なんだよって」 「知ってたら教えてほしいと思って」 「あなたには関係ないでしょうに。そんなこと、よそさんでおっしゃちゃいやですよ」 ・「知らないの?雄ちゃんのほんとうのパパとママ」 「存じませんよ。さ、おうちにお帰りなさい。車に気をつけてね」 作戦はしっぱい。 でも、ぼくの記憶にまちがいはなかったということだけはわかった。 ・どうしても、もう一度この世にもどってきたかった理由。 それは、ほんとうのパパとママに会いたかったから。 生んでくれてありがとうって言いたかった。 もうこれで会えないけど、ごめんねって言いたかったんだ。 ・うっすらと、あの日のことをおぼえていた。 桜の花が散る施設に、パパとママがお迎えに来てくれた。 たぶん三歳ぐらいのときだったと思う。 よかったわね、雄ちゃん。新しいパパとママよって、先生が言ってた。 まっしろなベンツの窓から、先生とお友だちにさよならをした。 ・パパとママはぼくを幸せにしてくれたんだから、知らないふりをしていなくちゃいけな い。それはぼくが一生まもりつづけなければならないマナーだった。 それでもぼくには、胸に誓っていることがあった。 ・ぼくはお金持ちのおうちにもらわれた。 ほんとうのパパとママがぼくを手放したのは、貧乏だったからだと思う。 だったら大きくなってお金持ちになったら、ほんとうのパパとママをさがしてお金をあ げようと思った。 ・ぼくの不注意で車にひかれちゃったから、それができなくなった。 だから、ごめんねを言わなくちゃならない。 それと、七年間はとても楽しかったから、生んでくれてありがとうです。 ・簡単に考え過ぎていた。 七歳の子供にできることなんて、たかが知れているんだ。 招待をバラしちゃいけないんだし、女の子になっちゃってるんだし、これじゃほんとう のパパとママに会うことなんて、できっこない。 ・涙がでてきちゃった。だって、どうしていいかわからないんだもん。 「キミ、どうしたの?なんで泣いているの」 だあれ、この男の子。ぼくの顔をのぞき込んでる。 ・「おじいちゃん!」 男の子が手を振ると、並木道の先から背の高い、やさしそうなおじいちゃんが歩いてき た。 「おやおや、どうしたんだね」 「この子、まいごだってさ。ビクビクしてて、交番にも行きたくないって。 ・おじいちゃんはぼくの目の高さにかがみこんだ。 「だいじょぶだよ、お嬢ちゃん。怖がることは何もない。私は少々ボケてしまって、こ の近くの病院に入院してるんだ。この子は孫。キミのみかただよ」 「ぼくは椿山陽介」 「私は、根本蓮子」 ・「あの、おじいちゃん。私、実はまいごじゃないんです」 「ほんとうのパパとママを、探しているんです。私、三歳ぐらいのとき施設から引き取 られたんだけど、急にほんとうのパパとママに会いたくなって、家出しちゃたの。これ 以上詳しいことは聞かないでください。とにかく、あと三日間のうちに、パパとママに 会いたい」 ・「わかったよ、蓮ちゃん。何も訊ねるのはよそう。施設、とか言ったね。おじいちゃん はずっとそういう関係のお仕事をしていたから、きっとキミのパパとママを探すことが できる。力になろう」 ・「おじいちゃんのおうちはご近所ですか?」 「いや、家は遠いんだ。今は成城の丘の下の、調布市の老人病院にいるんだがね」 「ぜんぜんボケているふうには見えないんだけど」 「嘘をついているんだよ」 「それって、どういうことですか?」 「嘘も方便という言葉を、蓮やんは知っているかな」 「目的を達成する手段としてはだね、嘘をつくことも必要なんだ」 「正しい目的を達成するためなら、ウソをついてもいいんですね」 「そうだよ。自分のためにではなく、他人のためになることならば、仏様は嘘を許して くれる」 ・「さて、それでは本題に入ろうか。おじいちゃんはね、何とか蓮ちゃんのお悩みごとを 解決してさし上げたい。本当のおとうさんとおかあさんに会いたくなって家出をしたと いうご事情はよくわかった。ふつうの大人なら、君の事情など斟酌もせずに交番に行く か、おうちに連れ戻すだろうけど、おじいちゃんはこの通り浮世ばなれした年よりなの でね。そういう不粋なまねはせんよ」 ・こういう考え方をする大人の人はめずらしいな。 ぼくは思わず、「どうして?」ときいた。 「それはだね。蓮ちゃん。君をひとりの人間として尊重するからなのだよ。誰よりも長 く福祉の仕事にたずさわってきたおじいちゃんの結論です。体の不自由な人も、お年寄 りも、子供も、社会的な弱者ではあるけれどもけっして人間的に劣っている人ではない んだ。人間に強弱はあっても優劣はない。だから大切なのは、お世話をする人の意志で はなく、ご本人の意思なんだよ」 ・「ところで、三歳ぐらいの記憶というと、相当おぼろげだろうけど、覚えている限りを 教えてくれるかな」 「はい、ほんとうのパパとママは知りません。おぼえているのは、あずけられていた施 設のことだけ」 「どんなところだったのかな。ここから遠いかね」 「そんなに遠くないと思います。おしっこをがまんできたから」 「施設の名前を覚えているかな」 「わかりません。忘れちゃった」 忘れちゃんたというより、忘れようとしたんだ。忘れることが、新しいパパやママに対 するマナーだと思ったから。 ・「それじゃあ、何かしら施設の風景を思い出してくれないかね」 「門のところに大きな桜の木がありました。先生やお友だちとお別れするとき、桜の花 が雪みたいに散っていて、とても悲しかった」 「ほかには?」 「その桜の木の下に、マリア様の白い像がありました。赤ちゃんのキリストさまを抱い ているの。キリストさまにはママがいるのに、どうして私にはいないんだろうって、い つも思ってた」 ・コーヒーカップを持ったまま、おじいちゃんの手の動きが止まった。 「その施設の前に川が流れてはいなかったかね」 どうだったかな。そうだ、たしか川べりだった。水鳥がたくさん遊んでいる川が、施設 のすぐ前を流れていた。 ぼくはだまってうなずいた。忘れていたことを少しずつ思い出すのは、何だかこわい。 ・「施設の屋根は赤い色で、壁は真っ白だね」 うなずくたびに、涙が出た。ウンもハイも言えない。だって、ぼくは忘れちゃってたん だもの。赤ちゃんのときから育てられておうちのことを、忘れちゃってたんだよ。 おむつをかえてくださった先生のことも、遊んで切れたおにいさんやおねえさんのこと も、すっかり忘れていた。そして、ぼくひとりだけが幸せになった。 ・「玄関に、大きな古時計があったろう」 あったよ、おじいちゃん。その時計にも、ぼくはちゃんとさよならをした。 忘れちゃうけどごめんねって言ったんだ。 ・「私ね、バチが当たったの」 くわしいことは言えない。でも、バチが当たって車にひかれたんだと思う。 ひとりだけ幸せになったんだから。 貧乏なパパやママのことも忘れて先生やお友だちも忘れて、ひとりだけ大金持ちのパパ やママにもらわれたんだ。 ・ぼくは自分が捨て子だったって知ってた。親のいない子だって知ってたんだ。 ただ、そうした不幸を忘れようとした。いやのことは何もかも忘れて、ひとりだけ幸せ な子どもになろうとした。 ・大きくなったら、本当のパパやママにも、施設の先生がたやみなさんにも、ご恩返しを しようと思っていた。 でも、それはぼくのつごうだよね。忘れることは罪です。 ぼくは不幸といっしょにこの世に生まれ、この世で育てられたすべてのご恩を、忘れよ うとした。 ・「よしよし。蓮ちゃんのパパとママの居場所はわかるよ。これできっとわかる」 邪淫の罪 ・通用口の並びにあるコーヒーショップは、店員たちの朝の溜まり場である。 長い一日をデパートという箱の中で過ごさねばならぬ売り子たちは、申し合わせたよう にここでモーニングコーヒーを飲み、出勤時間ギリギリに社員通用口をくぐる。 ・マスターは昔ながらの木綿のフィルターで、頑固な味のドリップコーヒーを淹れている。 ずいぶん年老いたが、ポットの湯を落とす真剣なまなざしは変わらない。 「マスター・・・」 思わず語りかけてしまった。 「婦人服課の椿山課長のこと、ご存じですよね」 「ええ、毎朝その席でね、コーヒーを一杯。タバコを一服。まったく人間の命なんて、 わからないものですね」 ・「朝の八時に店を開けましたらね、今まで病院の救急センターに詰めてらしたっていう 店員さんが、立ち寄って教えてくださったんですよ。椿山課長が昨日倒れて、亡くなら れたって。僕はもう、てっきり悪い冗談としか思えなくてねえ。だって前の日の朝も、 いつもと同じようにその席でコーヒーを飲んでらしたんですから」 ・訃報をもたらした店員とは、嶋田だろうか。それとも三上部長だろうか。 「どながが?」 「ええと、ご存じないと思いますけど、時計宝飾課の佐伯係長さん。あの人は椿山さん とは同期でしてね。仲が良かったんですよ。お若い時分なんか、僕はてっきり恋人同士 だとばかり思いこんでましたから」 ・佐伯知子は朝まで自分の亡骸に付き添っていてくれた。 いや、もしかしたら死を看取ったのかもしれない。 妻と知子が末期の床に並んで立つ姿を想像して、椿は暗い気分になった。 ・「椿山さんが倒れたことは保安課に連絡が入って、佐伯さんは残業をおえて退店すると きに通用口で耳にしたらしいです。それで、驚いて病院に駆けつけたんだけど、もう意 識がなくて、そのまま・・・」 時計宝飾課が遅い時間まで残業することはあるまい。 自分の死亡時刻は夜の十一時過ぎだったらしいから、知子は死に目に遭ったということ になる。 ・おはようございます、と背中で歯切れのいい声がして、隣の席に女が座った。佐伯知子 だ。 「いま、椿山さんの話になりましてね…」 多くを語らずにマスターはコーヒーカップを差し出した。 知子は椿に目を向けた。 軽い会釈だけを返して、椿は俯いたまま呟いた。 「お世話になったスタイリストなんです、私」 そう、とだけ答えて、知子はそっけなく視線を外してしまった。 ・こうして女の目から見ると、知子はなかなか魅力的だ。 二十歳の彼女よりも三十歳の彼女よりも、四十六歳の佐伯知子は磨き上げられた美貌を 備えている。 ・「あの、もしや時計宝飾課の佐伯係長さん?」 いきなり名を呼ばれて、知子は訝し気に椿を見つめた。 「そうですけど、何か」 「私、椿山課長には生前いろいろとお世話になっていたものです。少しお時間をいただ けませんでしょうか」 知子は一瞬、あからさまに疑い深い目をした。「いろいろと言世話になった」という言 い方がいけなかったらしい。 ・「業者さんですか?」 「いえ、フリーのスタイルストなんです。商品のディスプレイとか、広告掲載品のセッ トアップとか承っていました」 「時間がないんですけど」 「でしたら閉店後でけっこうです。お食事でもご一緒できたら」 「お願いします。どうしてもお伺いしたいことがあるんです。このままですと、たぶん 椿山課長は成仏できません。お願いしますよ、佐伯さん。この通り」 「でもねえ・・・あんまり思い出したくないことだから」 「ご無理は承知の上です。でも、ほかの人じゃだめなんです。あなたじゃないと」 「なんだかよくわからないけど、お断りしたらいやな気分だわ。それじゃあ、閉店後に ここで待っていてください」 ・椿は少し考えた。 現世に舞い戻ってきたおかげで、見たくない者を見てしまった。 このさき邪淫の罪を晴らし、死者の名誉を回復することに何の意味があるのだろう。 ・考えてみれば、現世を思い残す自分のほうが愚かなのかもしれない。 死は現世の終末ではあるけれども、同時に来世への出発点でもあるのだから、それさえ わかっていれば、振り返る必要は何もないはずだった。 ・働くことを至上の正義と信じた自分は、人間にとって最も身近な、最も配慮すべきこと を無視し続けていた。 父の生活を余生であると決めつけ、妻も子も自分の付属物であると定義していた。 ・「お待たせ」 コーヒーショップのドアから顔だけを突き出して、佐伯知子が呼んだ。 「うちに来てくださらないかしら。そのほうがゆっくり話せるでしょう」 「かまいませんけど、おじゃまじゃないですか」 「気にしなくていいわ。独り暮らしだから」 一日中立ち通しのデパート店員は、閉店後に寄り道をしない。 とにもかくにも靴を脱ぎたい一心で、まっすぐに帰宅する者が多かった。 ・椿は目をつむった。 結婚するまで足繁く通ったマンションに、知子は今も住んでいる。 泊まった翌朝は一緒に歩いて出勤したこともあった。 ・「もうお長いんですか?」 「長いも何も、かれこれ四半世紀は住んでるわね。マンションの値段もずいぶん下がっ たし、そろそろ買い時かなって思ってた矢先に、椿山君があんなことになって」 謎めいた言葉を呟きながら、知子は微笑んだ。 意味がわからない。マンションを購入することと自分の死に、何の関係があるというの だろう。 ・知子はシートから身を起こして、椿の顔色を窺った。 「で、他人だったのかしら」人ではない。正しくは同一人物である。 ・「答えなさいよ」 この手の質問はタチが悪い。無回答の場合は回答とみなされる。 「た、他人です」 「あなた、嘘がヘタね。あなたと椿山君は長く親密な関係だったと、そういう解釈でい いかしら」 ・「いいです。もう、どうでもいいです」 「あのバカ」と、知子は呪わしい声で独りごちた。 ・「ところで佐伯さん。マンションを買うことと、椿山課長のご不幸との間に、何の関係 があるんでしょうか」 「大ありよ。ま、もうじきわかるわ」 タクシーはやがて、住宅地の狭い路地を迷うように走り、懐かしいマンションの前で止 まった。 ・「築二十五年の賃貸マンション。でも大家さんがいい人で、お家賃はそれほど上がって はいないの」 ・「あなたと椿山君はどうか知らないけど、私とあの人は他人じゃなかったの」 はい、と椿は素直に答えた。 ・「このマンションはね、若いころ、椿山君と二人で探したのよ。私は、スイートルーム のつもりだったんだけど」 知子が口にした「スイートルーム」の意味を、椿は考えねばならなかった。 少なくとも自分には、そんな意識はなかったと思う。 ・「でも、申しわけないけどあなたの立場とはちがうわ。同じ傷を負った女とは思わない でね」 「どういう意味ですか?」 「私は椿山君と不倫をした覚えはないもの。結婚の宣言をされた晩に、きっぱりと別れ たわ」 「潔いですね」 「男にしてみれば都合のいい女よ。なにしろ別れの言葉も必要なかったんだから。私た ちの最後のラブコール、教えてあげましょうか」 知子は吐き棄てるように言った。 「あめでとう。ありがとう。そんな別れの言葉って、あるかしら」 ・灯りをつけた玄関で椿が初めて見たものは、赤と青の番のスリッパだった。 「男がいるわけじゃないのよ。椿山君が使ってたものは、何も捨ててないの。このスリ ッパも、八年間ずっとこうして置きっぱなし。はいていいわよ」 ・知子が自分の帰りを待っていたなどとは思いたくなかった。 残して行ったものもあえて捨てるまでもないくらいの、淡白な関係だったはずだ。 ・リビングの灯りをともしたとたん、椿は立ちすくんだ。 八年前と何ひとつ変わらない室内の壁に、大きく引き伸ばされた二人の写真が何枚も飾 られていた。 「これが、さっきの質問の答えよ。もうここに帰ってくることもないだろうと思ったか ら、いいかげんこういう暮らしはやめて、新しいマンションを買おうとしていた矢先だ ったの」 言いながら空気のしぼむように、知子は買い物袋を投げ出して膝をついた。 ・「誤解しないでね。私、待っていたわけじゃないわ。あの人の幸福を、心から願ってい たの。あの人がどんなにひどい目に遭っても、幸福を取り戻してあげるつもりだった」 ・邪淫の罪、立ちすくむ椿の肩に、濡れた皮衣のようにその言葉がのしかかった。 自己弁護をしなければならなかった。椿山和昭としてではなく、和山椿として。 「あの、佐伯さん、私、椿山課長とはそういう関係じゃありません」 「べつにいいのよ、いまさら」 「ほんとうです。フレンドリーなお付き合いだったんです。私の悩みを聞いてくれて、 私もいろいろなことを聞いて、でも、それだけの関係だったんです。信じてください」 「だとすると、いかにもあの人らしいわ」 これで知子は、いくらかでも救われただろうかと椿は思った。 「すごくいいやつなのよ。恋人と友達の境目がわからなくなるくらいの。あなたたち の関係も、きっとそういうものだったのね。ごはん食べようか。おなかすいたでしょう」 知子は気を取り直してように微笑んで、キッチンに立った。 ・「いいやつ」という知子の評価は、涙が出るほど嬉しかった。 その言葉はそっくりそのまま、知子に返してやりたいと思った。 ・「愛してらしたんですか」 思い切って訊ねた。 すぐに、あっけらかんとした答えがキッチンから返ってきた。 「わからない。仲が良すぎたから」 「嫉妬が愛情のバロメーターになると思うんですけど」 「嫉妬ねえ・・・嫉妬。まあ、なかったといったら嘘になるかもね」 「佐伯さんの胸の中を、ぜんぶ知りたいんです」 「いいわよ。私もそのつもりであなたを家まで呼んだの。洗いざらいお話しするわ」 献杯 ・私の胸の中をぜんぶ知りたい、か。 変な人ね、あなた。死んだ人間の過去をあばいて、いったい何の得があるっていうの。 ましてやあなたとあの人はアカの他人だったって、いよいよ妙だわ。 ・いやじゃないわよ、べつに。それどころか、ありがたいくらいのもんだわ。 あなたを家に呼んだのも、愚痴を言いたかったから。 今まで誰にも言うことのできなかった私の胸のうちをね。あなたに聞いてほしかったの。 ・本当は、相手があなたじゃ何の意味もない。 面と向かってあの人に言わなきゃならないことだった。 いつか言ってやろうと思いながら、とうとうタイミングを掴みそこねちゃた。 あと十四年。そう、二人して仲よく定年になったらね、花束を抱いてデパート送り出さ れたその晩に、あらいざらいぶちまけてやろうと思ってたのよ。 ずいぶん遠大な計画だけど、私の残された告白のタイミングは、もうそれしかないと思 ってた。 ・そのときまでに、私が死んじゃうケースは想定していたんだけどね。 だったらさぞかし無念だろうなあ、って。 でも、あの人がこんなことになっちゃうなんて、夢にも思わなかった。 ・毎朝、目を覚ますたびに夢だと思う。 今朝だってそう思った。 そう思い続けながらお化粧をして、そう思い続けながら出勤する。 でも、コーヒーショップにあの人の姿はない。 従業員の通用口を入って、タイムカードを押すときも、婦人服第一課のあの人の名前を 探す。 それでようやく、夢じゃないんだって思うの。 ・私とあの人とは、同期入社のころからとても相性が良かった。 似た者同士なのよね。 同い歳で、生まれ育った環境も似たようなもの。 あの人は母親に早く死なれたけど、私は両親が離婚して母に育てられた。 いい大学にも行けたのに、親の苦労を考えて就職した。 つまり、価値観も世界観もぴったり同じだったっていうわけ。 ・私たちは高度成長期の申し子。 平均でいうのなら、おそらく歴史的にも世界的にも、一番幸福な人類じゃないかしら。 上の世代のように貧しくはなかったし、下の世代ほど競争をしなくてよかったから。 ただし、それは「平均でいうなら」って但し書きがついての話よ。 家庭の事情で進学せずに就職した私たちは、少なくとも世代の平均とは言えなかった。 ・私にとって、就職先のデパートは結婚までの腰かけじゃなかったわ。 母は体が弱かったし、弟を大学に行かせたいと思っていたから。 ・私たち以外の高卒の同級生は、みんなだらしなかった。 どの程度の連中か、入社してすぐにわかったもの。 ・デパートはコネの世界だからね。 口こそ出さないけど縁故採用者が大勢いる。 たいていは株主の子供か、外商の顧客の紹介ね。 どうせコネや金を使うなら大学に行けばいいのに、それすらできないっていうんだから 程度は知れてるわ。 ・もうひとつ、デパートは学歴の世界だからね。 大卒と拘束は役人でいうキャリアとノンキャリアぐらいのちがいがあるの。 重要店舗での高卒はどう頑張っても課長職まで、あとは地方店に出るか子会社に出向す るって決まっていた。 ・そういう運命は入社したとたんにわかるから、同期の高卒は全員はなっからやる気がな い。女子はみんな、大卒の店員や出入業者の中から玉の輿を探し始めるってわけ。 ・ウンザリだったわ。話をする気にもなれなかった。 でも、あの人だけはそうじゃなかったのよ。 ・取り立てて能力があるわけじゃない。 性格も、みてくれも、凡庸を絵に描いたような男よ。 でも、不思議なくらいまっすぐな人だった。 ちょっと要領は悪いんだけど、やることにはまちがいがなかった。 ・何もデパートに限ったことじゃないと思うけど、「働き者」が必ずしも出世をするわけ じゃないわよね。 まず学歴という出自があって、上司の引き立てがあって、数字にはっきりと現れる実績 を上げなければ評価はされない。 その点あの人はお気の毒だったわ。要領の悪い働き者なんだから。 ・私ね、そういう椿山君が好きだったの。 はっきり言って、あの人はバカよ。 よっぽどのバカじゃなけりゃ、あんな死に方はしないわ。 そう思えば、何だか知れきった往生をとげたみたいな気もする。 ・愛していたかって? 今さら見栄を張ってもしようがないから、本当のところを言います。 すごく愛していた。すっごく。新入社員のころから、ずっと。ずうっと。 どうしたの?気分でも悪い?顔色が真っ青よ。 ・愛していたのは嘘じゃないわ。 もっとも、そんな嘘をつく理由もあるわけないか。 私、彼にはたくさん嘘をついた。 どうしてかって・・・どうしてかな。 自分でもよくわからない。 ともかく、好きだなんておくびにも出さなかった。 ・はじめて男と女の関係になったのはね。 たしかになりゆきだったわ。 高校時代からずっと付き合っていた男に振られて、いじけてたのよ。 そしたらあの人、ものすごく親身になって慰めてくれたの。 ・そもそものスタートがいけなかったんだわ。 恋人に振られた腹いせに、好きでもない男と寝た女。 そういう女の弱みにつけこんで、甘い汁を吸った男。 私と椿山君の間には、はなっからそんな暗黙の定義があった。 ・私ね、ほんとはあの人と、恋人であるより親友でありたかったの。 あいつ、すごくいいやつだったから。 あの人もたぶん、同じことを考えていたと思う。 だからこそ私たちの間に、愛の言葉はタブーだった。 ・セックス・フレンドって、いやな言葉よね。 でもセックスは人間にとって、食べることや寝ることと同じ本能なんだから、そういう 関係も決して不自然なものじゃないと思うわ。 ・愛情表現ができずに、私たちは既成事実を積み上げていった。 そうこうしているうちに、私は「セックス・フレンド」という言葉を、私たちの建て前 にするほかなくなっちゃったの。 ・男に振られた後の恋愛ってね、妙に構えるものよ。 惨めな思いは二度としたくないから。 二と度傷つきたくないから。 ・私のほうから愛の言葉を口にするのは怖かった。 なんだかその瞬間に、恋の奴隷になっちゃうみたいな気がして。 それともうひとつ、きっかけが私の失恋だったからね、慰めてくれた椿山君に恋をする というのは、いかにもはすっぱな女みたいでしょう。 ・だから、どうしてもあの人の口からアイラブユーを言ってほしかったのよ。 椿山君はわたしのことを愛していなかったんだ。 セックスもできる親友だとしか考えていなかったのよ。 そんなことは百も承知だったんだけどね。 でも、自分のスタンスを変えることはできなかった。 何も恋愛に限ったことじゃなくて、男におもねって生きたくはなかったの。 ・バカね、私。あの人もバカだけど、私はそれに輪をかけたバカだと思うわ。 何度も嘘をついた。 好きな人ができたって。あの人に愛情があるのなら、私を抱き止めてくれると思ったか ら。 ぜーんぶ、嘘。あの人のほかには、男なんてひとりもいやしなかった。 ・私が嘘の告白をするとね、あの人ったらあわてるかと思いきや、「あっ、そう。がんば れよ、佐伯」って、それっきりここにもこなくなっちゃうのよ。 で、しばらくたってから、嘘の失恋を慰めてもらうわけ。 ・そんなことを何度もくり返して、私はあるとき頭にきて訊ねた。 「ちょっと椿山君。あなた、私がほかの男に抱かれても、何とも思わないの」って。 あの人、何て答えたと思う?たったひとこと、「べつに」だってさ。 うんざりするくらい鈍感な男だった。 ・あっちから同じ告白をされたこともあったわ。 そのときはものすごくあせった。 でも、そこですがりつくわけにはいかないから、私も言ってやったの。 「あっ、そう。がんばれよ、椿山」ってね。 ・私たちの間には愛の言葉はなかった。 恋人同士のようなデートもしたことはなかったわ。 旅行に出たことも、プレゼントの交換もね。 腕を組んで歩いたことも、手をつないだ記憶すらないの。 ・それでも私は、心からあの人を愛していた。 少なくとも二十歳から四十六歳までの二十六年間、ずうっとね。 ・初めの五年くらいは、ゼロからやり直す方法を考えていたわ。 でも、かけちがえたボタンを正しい形に戻すのは難しかった。 とまどっているうちに、年月がどんどんボタンをかけ続けていって、そのうち不格好だ けど何となく着心地のいい形になっちゃったってわけ。 ・それにしてもあの人、女にはからっきし不器用だった。 好きな人ができて私から去って行っても、せいぜい半年も待っていればちゃんと帰って きてくれたもの。 ・見ばえがしない。話がつまらない。お金にセコい。ま、半年がせいぜいだわね。 そのくせ若いころからスケベだったからね。 あんがい押しは強いの。 とりあえず分不相応の女を手に入れることはできる。 ・普通の女は惚れないわよ、あの人には。 ただし根がいいやつだから、「ま、いっか」っていう気にはさせる。 彼はそういう女性を恋人だと勝手に決めつけるわけね。 それで半年もたたぬうちにたちまちボロが出て、サヨナラ。 ・自己採点が甘いんだわ。 仕事での自信を、そのまんま恋愛にシフトさせてるっていう甘さね。 職場での信頼度が、イコール男性的魅力だっていうの、それってひどい誤解よねえ。 一般的には逆だわよ、どう考えたって。 ・私ね、遅かれ早かれ、あの人と結婚することになるだろうって高をくくってた。 年貢のおさめどきっていうのも、自然でいいじゃない。 ・準備はできていたのよ。 おとうさんも私を気に入ってくれてたみたいだし、仕事を辞めてお舅さんつきの専業主 婦も悪くないなって。 私のほうは弟が先に結婚して、母親と同居してたしね。問題は何もなかった。 ・椿山君のおとうさん、すごくいい人なの。 やさしくって、まじめで、他人の幸福だけを祈っているような人。 この人が男手ひとつで、私の大好きな椿山君を育て上げたんだって思うと、ありがたく て涙が出た。 一生かけて、この人の苦労を私が取り返してあげようって思っていた。 ・私、バカな女だよ。 デパートの箱の中で、十八のときから走り回って、ありがとうございました、またお越 しくださいませって、それだけが人生だった。 自分の幸福を掴み取ることもできなかった。 ・いいことなんてひとっつもなかったからね、神様は私に、一番ふさわしい幸せをきっと 用意してくれてるって思いこんでいたの。 ・あの梨畑に囲まれたちっちゃな家で、あの人とおとうさんと、三人で暮らす。 それだけはまちがいのない未来だって信じていた。 ・だから、八年前にあの人が最後の恋をしたとき、私はホッとしたの。 これで半年後には、めでたしめでたしだな、って。 ・由紀さんは、見知らぬお客様からしょっちゅうラブレターを渡されるくらいの美人。 昔風に言うならお店の看板娘よ。 どんなふうに口説いたかは知らないけど、半年どころか三月もてば上等だと思った。 ・年貢のおさめどきよ。椿山君。私と結婚しよう・・・そんなプロポーズの言葉も、準備 していたの。 ・同期の女子社員はみんないなくなっていた。 転職するか、結婚して辞めるか、ともかくデパガていうのは消耗品なの。 ・ちっともあせってなかったわ。 言いよってくる男の人もいないわけじゃなかったけど、心を動かされたことはなかっ た。 椿山君と結婚するのが、私の運命だって信じていたから。 ・普段とどこも変わらない日だった。 ガラスケースを挟んで接客をしていると、椿山君と由紀さんが寄り添ってエスカレータ ーを上ってきた。 二人ともカジュアルな服装でね、いかにも一緒に休みを取ってデートをしているって感 じだった。 私、たぶん真っ青になったと思う。 悪い予感は確信に近かったから。 ・七階のフロアに降り立って、あの人は私に微笑みかけた。 由紀さんも笑いながら、軽く頭を下げたわ。 一瞬、目をつむって祈った。 (こっちの来ないで。そのまま八階に行って。あなたたち、個の売場に用事なんかない はずよ。八階のレストランに、食事に行くんでしょ) ・もう接客どころじゃなかったわ。まるで身を隠すように、ガラスケースの下に屈みこん じゃった。 目の高さに、ダイヤモンドの婚約指輪が並んでいた。 その光の絨毯、の上を、二人が歩み寄ってきた。 (来ないで。こっちに来ないで) ・たとえ心の底から愛している人がエンゲージリングを買いに来ても、「いらっしゃいま せ」ってニッコリ笑わなけりゃいけない。 しゃがみこんだまま、いちど目をきつくつむって、奥歯を噛みしめた。 そして、すばらしい笑顔を作った。 「いらっしゃいませ」 私は立ち上がった。膝は震えていたけど、最高の笑顔だったと思う。 ・「やあ、ちょっと照れくさいんだが、売り上げに協力しにきたよ」 そりゃないよ、椿山君。売場の予算達成に協力してもらえるのはありがたいけど、無神 経すぎるよ。 ・「おめでとう。とっておきのダイヤがあるわ」 私の見立てに間違いはなかった。 ガラスケースの隅にそっと並べて置いたダイヤモンドは、私たちのための「お取り置き」 だったのに。 ・「うわ、ちょっと予算オーバーだな」 「大丈夫よ、椿山君。私に任せておいて。これ、レジは通さないから。業者に直接届け させるわ。半値になるわよ」 私はこっそり囁いた。 ・「そりゃあありがたいけど・・・それじゃ佐伯さんの実績にならないじゃないか」 「実績?・・・私だって近いうちにお嫁に行って、こことはおさらばするわよ。ノルマ なんてくそくらえだわ。浮いた予算は、ハネムーンに使いなさいな」 ・情けなかったけど、くやしくはなかった。 あの人のこと、大好きだったから。 大好きなあの人に、私がしてあげられることがなかったの。 とっさにそのとき考えて、もうこれしかないって思った。 ・この世に百の恋愛があるとする。 でも、そのうち九十九は偽物よ。 なぜかって、自分のための恋愛だから。 私は、百のうちにひとつしかない本物の恋をしていた。 それは、すべてを愛する人に捧げつくせる恋愛です。 あの人のためなら命もいらない。お金も、誇りも、私自身の恋する心すらもいらない。 ・椿山君のおとうさんが、ひょっこり売場にやってらしたのは、その何日か後のことだっ たと思う。 ・あのころは、まだおとうさんもしっかりしてらしたわ。 由紀さんはしらせてないんですって。今度のこと。 老人病院に入院したままで、お葬式にも姿を見せなかった。 それでいいと思うわ。こんな不幸を理解できるかどうかはともかく、教える必要はない と思う。 ・そのおとうさんがね、婚約指輪を見立てた何日か後に、ひょっこり売る場に現れたのよ。 エスカレーターを降りたとたん、たまたま正面の売場にいた私を見つけてね、気をつけ をして、深々と頭を下げた。まわりの人が怪しむほど、ずっとそうしてらしたの。 ・私、ビックリしちゃって、すぐ駆け寄ってね、お得意様をご案内するふりをして、その まま昇りのエスカレーターに乗った。 ・「すまない、佐伯さん。この通り」 一緒にエスカレーターに乗ってからも、おとうさんはそう言って頭を下げ続けたの。 「いいんです。ご縁がなかったんだから」 そんな言い方しかできなかった。 屋上のベンチでしばらく話したんだけど、私はずっと同じセリフを繰り返していたと思 う。それ以上のことを一言でも口にしたら、涙が出ちゃいそうだった。 ・嬉しかった。 この人は私の気持ちを分かっていてくれたんだって思ったら、胸のつかえがすっと下り たわ。 ・ありがたいね、親って。 おとうさんはまじめ一方な人で、女心なんてわかるはずないのに、私の心の中だけは読 み切ってらしたの。 ときどき家におじゃまして、お洗濯やお掃除はしてたけど、ゆっくり話したこともなか った。 それなのに私の心を理解してくださってたのよ。 ・なぜだかわかる? それはね、おとうさんが椿山君のことを、とても愛していたから。 知らん顔をしていても、おとうさんは椿山君のことから何だって知っていた。 彼自身が気づかないことまで、ぜんぶ知ってらしたの。 ・私、いよいよ何も言えなくなったわ。 私が椿山君を愛している以上に、おとうさんは彼のことを愛しているんだって、はっき りわかったから。 ・こういう結果になったのは、私にだって責任があるからね。 うまく自己表現ができずに、二人の大切な時間を空費してしまった。 由紀さんに負けたとは思わなかったけど、私が椿山君を自分のものにできなかったのは 確かだし。 仕事の忙しさにかまけて、惰性で生きていたと思った。 ・おとうさんの誠実さがつらくて、私は嘘をついたの。 「実は私も好きな人がいるんです。近々結婚する予定なので、もうこの話はなかったこ とにしてください」 ギョっとして私を見つめるおとうさんの瞳が、眩しくてならなかった。 でも、泣いたら嘘はおしまい。 精いっぱいのつくり笑顔を、おとうさんは怪しまなかった。 ・あのね、椿山君が結婚したころ、休憩室でこんな話を聞いちゃったのよ。 もちろん聞きたくもない悪い噂話なんだけど、背中から聞こえちゃったんだから仕方な いわ。 「ねえねえ、知ってる?椿山さんのこと」 「結婚したんでしょう。案内係の美女と。古い古い」 「そうじゃなくって、その結婚のいきさつよ」 「あの子ったらねえ、嶋田さんと付き合ってたらしいのよ」 「ええっ、ウッソー、信じられない、それって、椿山さんは知ってるの?」 「知ってるわけないじゃないの。上司が部下のお下がりをいただくなんて、いくら椿山 さんだって男のプライドってものがあるでしょうに」 「驚くのはまだ早いわ。怖いのよォ、この続き」 「嶋田さんとあの子、まだ続いてるらしいの。円山町のホテル街で見かけた人がいるん だから、まちがいないわ。それも平日の真昼間よ。つまり椿山さんと嶋田さんはローテ ンションを組んでいて休みを取るから、デートに不自由はないってわけ」 「ちょっと、あなた。この話、ヤバすぎない?めったに話しちゃだめよ」 ・嶋田君と由紀さんはずっと恋仲だった。 デパートではオフィスラブが厳禁だから店員同士のロマンスは婚約発表でみんなをアッ 言わせるのが普通なのよね。 その例に洩れず、二人の恋愛は誰も知らなかったわけ。 ・嶋田君で、デパートでは将来を約束されたキャリア組よね。 三上部長という大物の引きもあるし、大きなミスを犯さずに行けば、末は店長や役員の 順番が回ってくる。 ・べつに案内嬢と結婚することがマイナスにはならないけど、エリートは慎重なのよ。 何だってデパートはコネクション万能の世界ですからねえ。 ・そんなわけで、この二人の恋愛には愛情の深さとは関係なく、最初から価値観のちがい があったの。ま、デパートにはよくある話なんだけどね。 で、男の煮え切らぬ態度に我慢ならなくなった女が、別の男と電撃的にゴールインする。 これもよくある話 ・椿山君って、とてもいい人よ。 近ごろのはやり言葉でいうなら「癒し系」の男ね。 そばにいてくれるだけで、何となく心が和むのよ。 男としてはともかく、人間的には誰からも愛されるわ。 憎からず思っているうちに、「この人は私を幸せにしてくれるかも」って、由紀さんは 考えたにちがいない。 もちろん、それは正解です。 はっきり言って、由紀さんは男を見る目があったわ。 ・嶋田君と由紀さんがきっぱり切れていなかったのか、それとも何かの拍子に焼けポック イに火がついたか、ともかく結婚してからも二人の関係は続いていた。 ・でも、よく考えてごらんなさい。 結婚してからも恋人を忘れられないっていうの、いじらしいじゃない。 それはそれで、すてきじゃない。 ボタンをかけちがえたのは、私と椿山君も、あの人たちも同じ。 男と女なんて、すんなり予定通りにおさまるほうが珍しいのよ。 ・しばらくして由紀さんは出産した。 それをしおに、デパートの怪談は誰も口にしなくなったわ。 怪談にもタブーはあるのよ。そこから先は怖すぎる。 最後の任侠 ・七代目港家一家組長蜂須賀鉄蔵の朝は遅い。 低血圧のうえに低血糖、さらに低人格に悩む鉄蔵は、毎日正午にならなければ寝床から 這い出ることはなかった。 しかし世間はそんな鉄蔵を評してこう言う。 最後の任侠。神農道の鑑。大器量。清貧の人。 これほど名実を異にする人物は、世に二人とはおるまい。 ・たとえば、芝大門商店街近くの築五十年の借家に住んでいる、というのはマッカな嘘で、 実は芝白金台上バブル流れの超高級マンションが彼の住まいであった。 件の借家にはほとんど年齢不詳の老母が、忘れられたように独り住まいをしている。 ・鉄蔵は自己演出の天才であった。 しかるに、さきの評判をことごとく裏返せば、彼の正体となる。 この事実を知っているのは、わずか三人の子飼いだけであった。 むろん本家筋も、兄弟分もその他の子分たちも知らない。 誰もが、港家の鉄蔵親分は芝大門の借家で老母の看病をしつつ、洗うがごとき清貧に甘 んじている、と信じている。 ・鉄蔵にとっては真夜中に等しい午前八時、ベッドの枕元の電話が鳴った。 「おはようございます。繁田です」 「バカヤロー!何時だとおもってやがるっ」 「へい、朝の八時で、すみなせん。ちょいと急ぎでお耳にいれてぇことがあって、朝っ ぱらからお電話したんですけどね」 「荒事ならごめんだぜ。関西との手打ちはとっくにすんでらぁ」 「実は、武田の兄弟の件を調べている弁護士が、そっちに行ってませんでしょうか」 「来てねえ。何だそりゃ」 「へい、よく知りませんけど、武田とは旧知の間柄だそうで。昨日朝っぱらからうちの 事務所に来やして、あれこれ聞いてかえりやした。多分兄貴のところに回るんだろうと 思いやしてね。一応ご連絡をと。そんじゃ、用件だけで失礼いたしやす」 ・落ち着け。慌てることはないのだ。 俺の家は芝大門の借家ということになっているから、その妙な弁護士がここに現れるわ けはない。 それにしても、なんというドジな殺し屋だろう。 万が一にも間違いはないと大見得を切っていたのに、あろうことか新宿の市川と武田を 取り違えて殺した。妃で得話もあったもんだ。 ・それにしても、武田の件を訊ね回っている弁護士とは、いったい何者だろう。 とりあえずおふくろに電話をして、見知らぬ男が訪ねてきたら死んだふりをしろと伝え ておこう。 ・電話機に手を伸ばしたとき、ドアの外で若い衆が声をかけた。 「親分、お客人ですが」 ええっと叫んで鉄蔵は受話器を取り落した。 「何とかいう弁護士が、武田のおじきの件で」 鉄蔵は一瞬気を失ったが、失神している場合じゃねえと思い直し、じきに黒目を甦らせ た。 ・件の弁護士は、四十畳大のリビングルームで、行儀よく親分を待っていた。 ハテ、どこかで会ったことがある、と鉄蔵は思った。 職業がら「どこかで会ったことのある弁護士」はイヤだ。 ・「お待たせしました。蜂須賀です」 「以前どこかでお会いしやしたかい」 「いや、お噂はかねがね」 「どうしてここがわかったのですかねえ」 「世の中のことなら何でもわかるという、ある所に問い合わせました」 「ある所、とは」 「立場上、申し上げられません」 「ところで兄貴・・・いや、失礼しました。蜂須賀さん」 「実は、亡くなった武田君と私は、兄弟同然の仲でしてね。彼があなたのことをいつも 『兄貴』と呼んで話題にしていたものですから、つい口が滑ってしまいました」 「イサの野郎は、いつも俺のことを・・・」 「はい。鉄蔵親分のような男になりたいというのが、彼の口癖でした」 「ううっ・・・イサの夜郎が・・・俺のことを」 ・俺はおめえのような男になりたかったと、鉄蔵は武田のおもかげに向かって手を合わせ た。 こいつが何の用事で来たのか知らねえが、兄弟同然の仲ならば武田の魂が一緒かもわか らねえ。 ・「許してくれ、イサ、俺が悪かった」 鉄蔵はソファからすべり落ちて手をついた。 ・「何ですって!」 弁護士は立ち上がった。 ・ヤバい。つい興奮して、妙なことを言ってしまった。 「いや、誤解なすっちゃいけませんぜ、先生。別に私がイサの夜郎をどうこうしたって わけじゃありやせん。ただ兄貴分として、あいつをみすみす殺させちまったと」 ・メイドが紅茶を運んできた。 ここまでみられちまったからには、敷居をまたいで帰すわけにはいかねえ。 ・「で、ご用件は?」 「武田君の人なりは、親友の私が誰よりも知ってたはずです。彼は恨みを買うような人 間ではありません。誰かに間違われたのではと思うのです。そこで、大変失礼なことを お訊ねしますが、蜂須賀さんはたしか関西圏の組織と揉め事がおありでしたね」 ・単刀直入とはこのことであろう。 鉄蔵は一瞬気を失い、子分の咳払いでたちまち蘇生した。 「目を閉じて考え込んだが、手打ちのすんだ今さら、俺の命を狙おうなんて野郎はいる はずはねえ」 ・「先生。イサのことをいつまでも気にかけてくださるのはありがたいが、すんじまった ことをいつまでもくよくよなさるのは、いいことじゃありませんぜ」 「わかっています。今さらつまらぬ詮索だということは」 「だったらなぜ、体を張ってこんなことをしてなさる」 「私にできることは、もうほかには何もないんです」 ・律儀な男だ、と鉄蔵は思った。 武田の親友だと言っていたが、欲得を感じさせぬところはたしかに似ている。 義理に生きることがどれほど損か、こいつはちっとも知らないのだろう。 ・「お騒がせしました。おいとまさせていただきます、兄貴、じゃなかった、蜂須賀さん」 ソファに腰を下ろしたままの鉄蔵に正対すると、弁護士は指をきちんと伸ばして、深々 と頭を下げた。 妙な野郎だ。長い懲役に出るヤクザ者だって、今どきこんな律儀な挨拶はしやしねえ。 まるで今生の別れのような言いぐさだ。 ・「それから、余計なことのようですけど、あなたのプライバシーのことについては決し て口外しませんので、ご安心ください」 ・おっと、気に障ることを言いやがる。 いよいよ生きて帰すわけにァいかねえ、と鉄蔵は思った。 ・弁護士がリビングを出ていくと、鉄蔵は控えていた子分を手招いた。 「おい、ヤス、あの野郎を始末しちめえ」 ・「へい、かしこまりやした」 ヤスは内ポケットから小型の拳銃を取り出すと、安全装置をはずした。 「すまねえな、ヤス。今度もまた、一週間ばかりシャバで」 「お気遣いなく。このごろじゃあ、どっちが外でどっちが中か、てめえでもわからなく なってますから」 「そうかい、そりゃあ便利なこった」 「なら親分、行ってきやす」 ・しかしその五分後、真っ青な顔でリビングに駆け戻ってきた。 「お、親分、てえへんだっ」 「どうしたヤス。返り討ちに遭ったか」 「あの野郎、エレベーターの中でフッと消えちまたんで。まるで幽霊みてえに」 「ヤス。おめえには苦労させすぎちまったようだな。そうかい、おめえともあろう者が 的を見失ったか」 「いや、そうじゃねえって。エレベーターの中で背中にハジキをつきつけたとたん、煙 みていに消えちまったんです」 ・鉄蔵は子分の青ざめた極道ヅラを睨みつけた。 もうちょっとマシな言い訳を考えてほしいが、こいつの失敗を責めてはならなあと鉄蔵 は思った。 馬だって連闘は辛い。この歳になって出所後、中一週間の仕事は、やはり無理だった。 ・「まあいいや、あの弁護士にどんな噂を立てられたって、俺の評判は鉄板だ。たとえ耳 にしたところで、次期総長の陰口を叩くやつはいないよ」 「ところでヤス、おめえの懲役仲間だとかいう、関西のヒットマンのことだが」 「その件でしたらご心配なく。あいつの手にかかったら、新宿の市川なんてひとたまり もありません」 ・「あの野郎に大金を支払ってから、けっこう日がたつよな」 「へい、たしかに」 「その間に、市川が死なずに武田が死んだ。おかしいたァ思わねえか」 夏の星座 ・人が死ぬと、たましいは光よりもずっと速いスピードで「めいど」に行くんだ。 そして、新しいくらしがはじまる。 だから死ぬ事は、ほんとはちっともこわいことじゃない。 ほんのちょっとの痛みと苦しみ、愛する人たちと少しの間お別れするかなしみ。 おひっこしと同じだね。 ・三さいのとき、パパとママがおむかえにきて施設をはなれた。 おせわになった先生がたや、やさしくして下さったおにいさんやおねえさんとさよなら した。あのときとまったく同じ。 ・おそいな、陽ちゃん。まっくらな公園でブランコにのっていたら、けいさつに連れて行 かれちゃいかもしれない。 暗くなったら迎えにくるって、陽ちゃんは言ってた。 だからおうちの近くのこの公園で、ちょっと待っててって。 今夜は陽ちゃんのお部屋に泊めてもらうんだけど、おかあさんに事情を説明するわけに もいかないしね。 ・おうちにもらわれてきたころ、大好きだったおばあちゃんがお庭で教えてくれました。 悲しいときは星を見なさいって。自分がどんなにちっぽけで、つまらないことに悩んで いるかがわかるから。 ・あっ、陽ちゃんがきた。 「こめんね。ごはん食べてたら、おそくなっちゃった。おなかすいたろう、蓮ちゃん」 「おかしとカップラーメンぐらいならあるから。さ、行こう」 ・帰りの電車の中で悲しいことを言った。 おとうさんが死んじゃったんだって。 悲しすぎて、ぼくはうなずくだけだった。 むりに笑いながらそんなことを言う陽ちゃんが、かわいそうでならなかった。 ・ぼくと陽ちゃんは手をつないで、長い坂道を歩いた。 街灯がつらなる坂道のてっぺんに、おとぎ話のようにかわいらしい家があった。 「リビングから玄関が見えちゃんだ。お庭でちょっと待ってて」 陽ちゃんは玄関から家に入り、ぼくは足音を忍ばせてお庭に回った。 ・二階の窓があいて、陽ちゃんがバルコニーから顔をのぞかせた。 非常用の縄ばしごが、スルスルとおりてくる。 「オーケー、のぼっておいで」と陽ちゃんがささやく。 ・「もう少しだよ、がんばって」 陽ちゃんの手がフェンスからのびてきた。 ぼくをひきずり上げるよ、すばやく縄ばしごをたたむ。 とつぜんリビングの窓があいて、下からおかあさんの声がした。 「なにゴソゴソやってるの、陽ちゃん」 「ううん、何でもないよ。ルイがキュンキュン鳴くから、ちょっとのぞいてみただけ」 ・「陽ちゃん、はじめてじゃないでしょう」 「え、何が・・・」 「まさか。はじめてにきまってるじゃん」 う、そ。目がおよんでる。ただのがり勉と思ったら、あんがいやるな、こいつ」 ・「読書家なにね」 「うん、テレビとかゲームとかはあまり好きじゃないんだ」 「パソコンもできる?」 「あまり好きじゃないんだけどね。おじいちゃんとの通信用さ。ちょっと事情があって、 おたがい電話が使えないんだ」 「事情って?」 「おじいちゃんはボケたふりをしているんだよ」 ・「キミのおとうさんとおかあさんのことがわかったら、連絡がくるからね」 「わかるかなあ・・・すごくむずかしいことみたいな気がするんだけど」 「だいじょうぶ。ぼくのおじいちゃんは、役所でずっと福祉関係のお仕事をしていたん だ。いわば専門家さ」 ・「ヤバッ、おかあさんがきた。早くかくれて」 階段を昇ってくる足音。ぼくはあわててベッドの下にもぐりこんだ。 ・「陽ちゃあん、嶋田さんがケーキを買ってきてくださったわ」 「いらない」 「どうして?まだおなかがいっぱいなの?」 「ぼく、嶋田さんのこと好きじゃないんだ」 「そんなこと言うもんじゃないわ。よくしていただいているんだから」 「だったら夜は帰ってもらってよ。よそのおじさんが毎晩ぼくの家に泊ってるなんて、 へんだよ」 「それはねえ、陽ちゃん。女子供の家じゃ何かと物騒だから、おかあさんがお願いして いるのよ」 「うそだ」 と陽ちゃんは言った。 ・「あのね、おかあさん」 と、陽ちゃんは背筋を伸ばした。 いかにも正しいことを言って聞かせるというふうに。 美人だけどちょっとアナログな感じのするおかあさんは、明らかにビビっている。 ・「外国人に自分の国を守ってもらうっていうのはおかしいよ。たとえどんな理由があっ ても、どんな歴史があっても。外国の軍隊の基地がぼくらの国の中にあるなんて、とて もはずかしいことなんだよ。みんながそれでいいって言ったって、ぼくはいやだ」 「・・・ったく、もう。おじいちゃんたら、ロクなことを教えなかったのね」 「おじいちゃんのせいにしないで」」 ・「あのね、おかあさん。どう考えても、おとうさんが死んだ後で嶋田さんに面倒をかけ るっていうのは、ぼくらの甘えだと思う。それに、ぼくらの生活が心配だから毎晩泊ま りに来るっていう嶋田さんも、常識に欠けていると思う。これって、日米関係そのもの だよ。日本とアメリカは世界中の笑いものだけど、おかあさんと嶋田さんはご近所の笑 いものです」 ・おかあさんはコケシになっちゃった。唇をすぼめて、目は点。 「ごめんなさいね。お勉強のじゃましちゃって。一段落したら下りてらっしゃい」 ・「あんまりおかあさんを困らせてはダメよ。アナログな大人にディベートをしかけるな んて、弱い者いじめと同じじゃないの。陽ちゃんらしくないよ」 「そうだね。弱い者いじめだとは思わないけど、ちょっと大人げなかったかな」 ・それよりもさっきからぼくのおなかを鳴らしているのは、階段の青い煙がたちのぼって くる。 「おとうさんにお線香あげてるのね」 「うん。嶋田さんはうちにくると、しばらくお骨の前でジッとしてるんだ。お線香をい っぱいあげながらね。悪い人じゃないのはわかるんだけど」 ・耳をすませると、陽ちゃんのおかあさんと嶋田さんの声が聞こえてきた。 (ともかく今日は帰ってよ。陽介のいうことはもっともだと思うわ) (でもねえ、由紀ちゃん。はっきりさせておくのは早いほうがいいんじゃないか) (いくら何だって早すぎるわ。話は陽介の気持ちが少し落ち着いてからにしてよ) (それもそうだけど・・・俺。こんなふうに宙ぶらりんの関係を続けるのが、かえって 課長に申すわけないような気がしてさ) (だったら今までのことのほうが、ずっと申しわけないわよ。あの人、何も知らなかっ たんだから) ・「あのね、蓮ちゃん」 ふと陽ちゃんは、何かを言いかけて唇をかんだ。 「ぼくの家のヒミツを、きいてくれる?」 「あのね、ぼくはおとうさんの子じゃないんだ。たぶん。おかあさんと嶋田さんはずっ と不倫をしていた」 「子供って、知らん顔をしててもわかってるんだよ。キミだって、おとうさんやおかあ さんにそういう顔をしたことがるだろう」 「それって、マナーよ」 「うん。そうだよね。だからぼくも知らん顔をしていたんだ」 「おとうさんに言いつけなかったの?」 「おとうさんを悲しませたくなかったんだ」 ・「あるとき鏡を見ていて気がついたんだよ。ぼくの顔は、おとうさんにもおじいちゃん にも似てない。嶋田さんに似ていた」 「気のせいよ」 「そうじゃないよ。ぼくのほんとうのおとうさんは、あいつなんだ」 「血液型は?」 「たぶん、あいつとおとうさんが同じなんだと思う。だからバレなかった。でも、おじ いちゃんは気がついていたな」 ・「わかったわ。それでボケたふり」 「ずるいよな、おじいちゃん。まるで病気だとかいって罪をまぬがれるみたいだ」 「どうしようもなかったのよ、きっと」 ・ぼくには何となく、おじいちゃんの気持ちがわかった。 戦場に取り残された陽ちゃんは気の毒だけれど、おじいちゃんは耐えられなかったのだ と思う。 ・「泣かないで、陽ちゃん。私まで悲しくなっちゃう。そうだ、メールをチェックしてみ ようよ」 「うん、そうしよう」 「おじいちゃんは毎晩この時間になるとメールをくれるんだよ。看護婦さんの巡回がお わってから」 ・<こんばんは、陽ちゃん。ガールフレンドは無事に到着したかな。さて、蓮子ちゃんの 言っていた施設は、成城の町からそれほど遠くない南多摩愛育園というところです。 おじいちゃんが役所勤めをしていたころ、その区域の担当をしていたので、蓮子ちゃん 記憶だけですぐにピンときました。それほど昔の話ではないので、園長さんも先生がた も、おじいちゃんの知り合いばかりでした> ・「よかったね、蓮ちゃん」 陽ちゃんはよろこんでくれたけど、ぼくは笑えなかった。 たいへんなミステイク。 どうしてこんなかんたんなミスに、今まで気づかなかったのだろう。 ぼくの本名は根岸雄太。 でもおじいちゃんに教えた名前は根本蓮子。 これじゃわかりっこない。 ・<しかし、話がちょっと妙なのです。この施設に蓮子ちゃんなる子供がいたという記録 がない。事情をありのままに説明しても、先生がたは首をかしげるばかりでした> ・「どうなってんだよ、蓮ちゃん。何か記憶ちがいをしているんじゃないか」 ぼくは答えることができなかった。とんだミステイクです。 でも、本当の名前は言えっこない。 根岸雄太はトラックにひかれて死んじゃったんだから。 ・おじいちゃんのメールはつづく。 <蓮子ちゃんの記憶がたしかだとすれば、ほかに思い当たる施設はありません。 子供がそんな悪い冗談を言って大人をからかうはずもないし、おじいちゃんと先生が たはしばらくの間、この謎について考えました。 すると、ひとりの先生があることを思い出したのです。四年前の春に、成城のお金持 ちの家に養子に行った子供がいた。ただしその子供は男の子で、名前もちがいます。 そのことについては園長先生やほかの先生がたの頭にはあったようで、いっそう深ま る謎について考え込んでしまいました。 とりあえずその男の子、根岸雄太君の資料のコピーはいただいてきましたけど> <ねえ、蓮子ちゃん 君は何か嘘をついていませんか。君の記憶と根岸雄太君の存在は、余りにも符合しす ぎるのです。 園長先生に悲しいことをうかがいました。根岸雄太君は、交通事故で亡くなられたそ うですね。 もしかして君は、その雄太君の友達ではないですか。 生前彼が気にかけていたことを彼に代わってしようとしているのではないですか。 彼の代わりに、ほんとうのおとうさんとおかあさんに会って、ごめんなさいありがと うを、言おうとしているのではないですか。ちがいますか? どうかおじいちゃんと陽介にだけは、本当のことを教えてください。 おじいちゃんは長い間ずっと弱い人の味方でした。八十年も生きて、おじいちゃんの したことといえば、それだけす。 これが最後のおつとめだと思って、必ず君の力になりますから。 どうかどうか、おじいちゃんを信じてください。> ・ぼくは陽ちゃんの胸にすがって泣いた。 本当のパパやママに捨てられたことは悲しくない。 死んじゃったことだって、それほど悲しくはない。 でも、ウソをついてみんな困らせていることが、かなしくてならなかった。 ・それからぼくは、大好きな陽ちゃんにすべてをうちあけた。 本当の中江は根岸雄太で、四日前に車にひかれて死んだこと。 めいどの再審査を受けて、蓮子という女の子の姿でこの世に戻ってきたこと。 正体を明かせば「こわいこと」になるのだけれど、陽ちゃんやおじいちゃんに、これ以 上ウソをつくことはできないと。 ・陽ちゃんは僕の話を信じてくれた。 聞きながら真っ青になったのは、こわくなったからじゃない。 陽ちゃんが怒ったのだ。 ・「ばかっ!」 陽ちゃんはいきなり、ぼくのほっぺたを平手でたたいた。 「なんでしゃべっちゃんたんだ。もうあきらめて、あっちに帰ればよかったのに」 「できないよ、そんなこと・・・」 「ばかっ、ばかっ、おまえ、こわいことって何だかわかってるのか。きっと地獄に落ち るんだぞ。血の海に沈められて、針の山を裸で登らなきゃならないんだぞ」 ・じごく。それはわかっている。 でも、地獄に落ちたって、もうウソをつくのはいやだ。 パパとママに、ごめんねとありがとうを言わずに極楽に行くのは、地獄に落ちるよりつ らい。善意に背いて極楽に行くくらいなら、ぼくは進んで地獄に似落ちる。 胸の炎 ・真夜中の青山通りを、椿はあてどもなく歩いた。 夜が明ければ、残された時間は二日間。 それは持てあますほど長いようにも思えるし、また何ひとつできないほど短い時間にも 思えた。 やらねばならないことはたくさんある。でも、できることは何もない。 ・冥土の審判は正しかった。教官の声が甦る。 (邪淫の罪が適用される関係とは、べつだん不倫とか異常な性行為とか金銭による肉体 の売買とか、そういうものではないのです。邪淫の結果、どのくらい相手を傷つけたか。 おのれの欲望を満たす目的で、相手の真心を利用した罪、これが邪淫の定義なのです) ・もはや唱えるべき異議は何もなかった。 自分は佐伯知子を傷つけた。 真心を踏みにじった。 気づいていなかったわけではないと思う。 内心は知子の願いを百も承知で、そのおおらかな胸に甘えていた。 そんなはずはないのだとおのれに言いきかせながら、知子の幸せを奪いつくした。 これが罪でなかったのなら、世の中に悪人などひとりもいないだろう。 ・椿は自分が為すべきことについて考えた。 たった二日間でなしとげられるたしかなこと。 ポタンを押して罪を免れることではなく、たとえわずかでも罪をすすぎたかった。 ・しかしどう思いめぐらせても、知子に対して自分が為し得ることはなかった。 つまりそれくらい、佐伯知子は完全に生きていたのだった。 あの人にはかなわない、と椿は思った。 謎と真実 ・夫の唸り声に、静子はベッドから跳ね起きた。 「あんた、しっかりして、目を覚まして」 青々と背を被う彫り物にも、びっしりと玉の汗が浮いている。 夫がうなされるのは毎夜のことだった。 ・ワアッと叫び声をあげて夫は身を起こした。 「大丈夫よ。お水を持ってくるから、起きててね」 裸のまま静子は台所に立った。 いつも同じことを考える。 この人はなぜヤクザになんかなったんだろう。 年上の自分がついていながら、どうしてヤクザにしてしまったのだろう。 足を洗うチャンスは何度もあった。 人の良さが災いして、何となく逃げ遅れる感じでこの世界にどっぷりと浸かってしまっ た。 ・濡れた肩を抱きよせて、静子は夫の頭を撫でた。 どうしてこの人は、自分の器に会わない人生を歩むはめになってしまったのだろう。 夜ごと夢にうなさて、骨が鳴るほど身をふるわせねばならない日々を、送らねばならな いのだろう。 ・「やっぱり、イサ兄ィは俺が殺しちまったんだな。だから毎晩、化けて出るんだ」 「ちがうよ、あんた」 何を言っても慰めにはなるまい。 手違いだの間違いだのと言っても、ヒットマンを雇ったのは夫なのだ。 「銀座の繁田はひどいやつだよ。兄弟分のあんたにまで小売りの金を貸し込んで、かん じがらめにするなんて」 ・この人は押し出されてしまったのだ。 有能な兄弟分たちがみな足を洗い、あるいは暴対法の嵐の中で懲役に行き、ほとんど消 去法で歌舞伎町の縄張りを仕切ることになった。 ・別段これと言ったとりえもないかわりに、なすべき仕事はソツなくやる。 サラリーマン社会と同様、この手の男は自然に出世する。 ただ、サラリーマンではなくヤクザだったということが、夫の悲劇なのだった。 ・繁田の甘言に乗って、何軒かの風俗店を開いたのがいけなかった。 過当競争の上にそもそも経営者としての才覚がないから、借金はたちまち焦げた。 繁田は夫の器を見越してうえで、嵌めたのだった。 夫が繁田を消そうとしたのは、仕方がないどころか当然の決断だったと思う。 しかしこともあろうに、ヒットマンが的を間違えたのだ。 ・夫はあれからの二十年を悔いているに違いない。 何も思い出してほしくはなかった。 「やっちゃならねえことも、やっちまったな」 「やめて」 静子は夫の悔悟を阻んだ。 どんなに人生を悔いても、それだけは口にしてほしくなかった。 「こまんな、静子」 ・二人の間に子どもさえいれば、きっとどこかで稼業を見切りをつけていただろう。 ともに四十を過ぎて、このさき子を授かる望みは持てなかった。 「やめて。あんたらしくないよ」 禁忌を口にした夫は、声を殺して泣いた。 静子は夫の肩を抱きしめて背筋を伸ばした。 この人と一緒に嘆いてはならない。 たとえその悔悟が、私への溢れる愛であったとしても。 「後悔しちゃだめ。きっと幸せになっているわ」 夫は静子の腕を掴んで、絞るように言った。 「俺ァ、ガキを捨てちまった。おめえの腹を傷めたガキを、捨てちまったんだ」 ・やがて夫は、静子の腕の中で安らかな寝息をたて始めた。 こうして身も心も委ねる場所があるだけ、この人のほうが幸せだと静子は思う。 ・闇の中で目を閉じると、たちまち眠気が襲ってきた。 七年前の夏の日から、静子は夢を失った。 あの日を境に、見る夢はいまわしい記憶の再現になってしまった。 眠りに落ちればまるでビデオテープを再生するほど正確に、あの夏の日の記憶が甦った。 ・蝉の声がうっとうしかった。 施設の応接室に入ってからもなお、保護司は静子の翻意を促していた。 腕の中にはまだ乳離れにせぬ赤ん坊が眠っていた。 (あのね、子育てなんて何とかなるものよ。私なんて、畑仕事をしながら四人も育てた んだから) ・無責任な言い方だと静子は思った。 家があり、親がおり、亭主が監獄に入っていないのならば、私にだって子育てはできる。 {どうしてご主人のお友達を頼らないの。皆さん義理人情には厚いはずなのに) ・執行猶予中に起こした事件だから、懲役は免れなかった。 たぶん三年か四年。その間に少しでも仲間うちの援助を享けたら、夫は一生ヤクザから 足を洗えなくなる。 そんな理由が、正義の塊のような保護司にわかるはずはなかった。 だから静子は、実を切るような嘘をついた。 (私、子供って好きじゃないんです。欲しくてできた子じゃないし) 保護司の蔑みに満ちた溜息を聞きながら、あれほど待ち望んでいた子供を、いちどだけ でも夫の腕に抱かせてやりたかったと静子は思った。 ・(こめんなさい、あんた。赤ちゃん、捨てました) 東京拘置所の接見室でそう告げたとき、プラスチックのパネルの向こうの夫の顔が、 みるみる青ざめるのが分かった。 (ばかやろう、かってなまねしやがって) 怒鳴り声はたちまち空気の抜けるように、情けない尻つぼみになった。 ・何故だと訊かれても、静子は答えることができなかった。 ただ、言うにつくせぬ胸のうちを、夫にだけはわかってほしいと念じた。 あなたの人生と、あなたの子供の人生を、私は秤にのせたの。 妻と母とを秤にかけたの。 ヤクザのお金であの子を育てるわけにはいかない。 もう一度あなたとやり直したいから。 ・「姐さん、お客人ですけど」 「あいよ、今行く。どちらさん?」 「武田の親分のお知り合いです」 今日の当番は死んだ武田勇の子分だった。純一という若者である。 ・「あんた、面識のある人かい」 「はい、親分とは仲の良かった弁護士です」 ・「主人はまだ休んでおりますので、近くの喫茶店にでも」 玄関に出てそういうと、身なりの良い来訪者は人なつこい笑顔を向けて答えた。 「いえ、お手間は取らせませんから。ほんの五分、この玄関先でけっこうです」 ・「純ちゃん、親分のところへ行ってな。寝室には鍵をかけて」 「起こしますか」 「いえ、寝かしといてやって」 武田の身内だった少年は、躾こそきちんとしているが警戒心がなかった。 いざというときには親分のタマヨケになれと言ったつもりなのだが。 ・「私が代わりに承ります」 男はちらりと寝室のドアに目を向けてから、いきなり妙なことを訊ねた。 「武田君はどうも人違いで殺されたらしいのですが、お心当たりはありませんか」 「はあ?」と、静子はそらとぼけた。 女も四十を過ぎると、この「はあ?」がうまくなる。 「うちの主人は、たしかに武田さんよりは危ない橋を渡っちゃおりましたがね。 命を狙われるほどのヘマは売っちゃおりません。あしからず」 「市川さんの奥さんには、お礼を言わなければなりません」 「お礼、ですか。はて何でしょう」 「うちの、いや武田君の若い衆を引き取っていただいて」 ・静子は心を開いた。 若い時分から何やかやと面倒を見てくれた武田の恩は忘れたわけではない。 ・「ここだけの話ですが」と、静子は声をひそめた。 「享一と卓人は、折を見て手足を洗わせます。主人が何といっても、私がそうさせます。 必ず、カタギにしますから」 見つめる男の瞳が潤んだ。 ・「ありがとう。武田に代わって、お礼を言います。ほんとに、ありがとう。それから、 どんなことがあっても、市川に添いどけてください。あいつはしいちゃんがいなけりゃ 一日も生きていけないんです。あいつはしいちゃんだけが頼りなんだから」 自分たち夫婦のことを、そんなふうに理解してくれている人がいるとは思わなかった。 静子は胸がいっぱいになった。 ・「市川を、頼みます。僕はあいつに、何ひとつしてやれなかった」 男はそう言い残すと、目頭を押さえて出ていってしまった。 ぼんやりと玄関に佇んで、静子はふと死んだ武田のことを思い出した。 ・影山五郎。本名不詳。年齢治不詳。出身地はその言葉遣いからすると広島らしいが、 広島県民が聞けばかなりいいかげんで、実は「仁義なき戦い」のセリフを丸覚えしたら しい。 ちなみに、消費者金融から借金するために常に携行している彼の国民健康保険によると、 その現住所は「埼玉県さいたま市」となっている。 ・「人違いやて。あほらし・・・」 広島弁を大阪弁に改めて、五郎は独りごちた。 ・それにしても、人の噂というのは怖ろしいものである。 刑務所の与太話は刑期を終えるごとに真実味を増し、閉塞された環境と閉暇のうちに、 五郎は与太でもホラでもない「伝説のヒットマン」に祀り上げられたのだった。 ・出所後、呑気な年金暮らしのシルバー・フリーターをしていたところ、どこでどう調べ たものか知らない相手から不在着信があった。 もしやワンギリと怖れつつ、たいそうヒマだったのでかけ直したところ、去る広域指定 団体の傘下で現役バリバリの組長を名乗る男が出た。 ・依頼人の名は繁田といった。 ギャランティーは一千万。的は兄貴分にあたる「港家の鉄」こと蜂須賀鉄蔵。 ・ひとごろしなんて実はしたことのない五郎は焦ったが、たまたま血糖値が上げっており、 まずいものを食って長生きするか、うまいものを食って早死にするかという人生の選択 に迫られていた折でもあったので、何だかよくわからんけれどとりあえず依頼を受けた のであった。 ・ところが面妖なことその数日後、かつて刑務所で知り合った男から電話が入った。 どこかで聞いたことがあると考えこんでいた「港家の鉄」は、ヤスというその知り合い の親分にあたる人物であった。 一瞬、殺しの請け負いがバレたのかと冷や汗をかいたが、そうではなかった。 ヤスは全く別の依頼事を持ち込んできたのである。 ・ギャランティーは一千万。的は弟分にあたる、市川という新宿のボス。 五郎は再び焦ったが、考えてみれば人殺しのダブル・ブッキングはさほど不都合ではな い。 ・ところがまたしても翌日、今度は差出人不明のEメールが届いた。 ほとんど霊感で、このクライアントは市川という親分であろうと思った。 ギャランティーは一千万。すでに年金受け取り用の口座に振り込んだという。 そして的は新宿で金融業を営む、繁田という男。 窮極のトリプル・ブッキングであった。 ・むろん五郎は焦りに焦ったのであるが、近ごろでは老人医療費もバカにならず、まして や将来の介護福祉も期待できそうにないので、目の前が真っ暗になっていた矢先であっ た。 その苦悩を思えば、一人やるも二人やるも三人やるも大した違いはないような気がした。 ・こうして五郎は熟慮の末、というよりはほとんど思考停止の状態で、次々と舞い込む殺 人依頼をすべて引き受けてしまったのであった。 ・三人のクライアントがすなわちターゲットであるというこの奇怪きわまる連環は、ゴル ゴ13だって頭を抱え込む。 しかし考える暇もなく、つごう三千万円のギャランティーは年金受け取り用口座に続々 と振り込まれてきた。 ・とりあえず金を持って南米にでもズラかろうと思い、現金をすべてシティバンクの口座 に移動させたのだが、さすがに良心が咎めた。 ・さいたま市の借家の床下に隠してあったトルコは、幻想を現実とするために、いつだっ たか暴走族のあんちゃんから買ったものだった。 手入れはおさおさ怠りなく、それを眺めていると顔つきまで伝説のヒットマンに変わっ た。 ・南米にズラかるにしても、三つ仕事のうち一つぐらいは片付けておこうと思った。 すでに代金支払い済みのクライアント兼ターゲットたちは、毎夜のようにやいやいのと 実行をせかせた。 ・繁田は蜂須賀をおびき出すと言い、蜂須賀は市川を連れ出すと言い、市川は繁田を誘い 出すから、酔っ払ってクラブから出たところを狙えというのである。 それぞれがご丁寧に送りつけてきた顔写真は、デジカメの性能が悪いのが五郎のプリン ターが旧式なのか、ほとんど見分けのつかないくらい似た顔であった。 ヤクザの親分というのは全員顔がでかく、色は黒く、髪は短く、写真を撮られるときは 力いっぱい気合いを入れるから、だいたい同じような風貌になるのであった。 ・しかし、五郎にとってそれはどうでもいいことだった。 この際、誰を殺しても間違いはない。 確実な仕事をひとつだけ成し終えて、南米に飛ぶ。 かくて積年の幻想は現実となり、人生の平安を得た五郎は南米のどこかのプール付き豪 邸で、悠々自適の余生を送る予定であった。 ・誰か知らないけど、真っ先に出てくるやつはついてねえなあ、と思いつつ、とりあえず 階段から降りてきた男を撃った。パンという銃声が、ロン、と聞こえた。 だがしかし、街頭の光の中に倒れた男の顔は、ピンボケの課を写真のどれとも、明らか に違っていた。痛恨の役満チョンボであった。 (ヒョー、あかん、人違いや。まちがいっていてもうた!) 適切な関西弁を残して、五郎は凶行現場から走り去った。 ・それでもともかく人を殺したことで、五郎は幻想を現実としたのであった。 しかし、思いもよらぬ陥穽に彼は気づいていなかった。 そもそもパスポートというものを持っていなかったのである。 かくして、五郎のうえにはすこぶる不穏な時間が過ぎていった。 ・「観音さん、五郎でござんす。あっしの親不孝を、どうか許したっておくんなさい」 親不孝も何も、その両親の顔を五郎は知らなかった。 そういう悲しいセリフを九日する胸のうちを、幼なじみの観音様だけはわかってくれて いると五郎は思う。 ・戦から帰らぬ父を待ちわびながら、母は若いまま死んだという。 天涯孤独の身の上ではあるけれども、自分の人生は親不孝にちがいないと五郎は思った。 もしあの世で父母に会えたなら、恨みつらみよりも、「ごめんなさい」と「ありがとう」 を言いたかった。 その二つの言葉を口にする相手を探しあぐねて、悪い人生を送ってしまった。 ・人気のない境内の石畳の上に、見知らぬ若者が立っていた。 「影山五郎さん、ですね」 若者は闇の中でも炯々と輝く瞳を、きっかりと五郎に据えた。 「親の恨みを子が晴らすのは、渡世の道理でござんす」 ・動揺しながらも、五郎はつい答えた。 「渡世の道理に逆らいはいたしやせん。どちらの若い衆さんかは存じませんが、どうぞ ご存分に」 言ったとたん、なぜか胸のつかえがおりた。 その言葉が嘘でもセリフでもなく、初めて心の底から出たものであることを、五郎は知 った。 やっと氏の場所が見つかったのだ。 ・若者が引き金を引くのをためらった一瞬、闇の中から黒い影が走り出た。 「やめろ、タク!」 けっしてヤクザには見えぬ背の高い男が、若者を羽交い絞めに抱き止めた。 「はなせっ、はなしてくれ」 拳銃が雨空を撃った。 「ばかやろうが、なんてことをするんだ」 謎の男は拳銃を奪い取ると、若者をあざやかに投げ飛ばした。 ・「いけない。許さんぞ、タク」 もう一度名を呼ばれて、若者ははっと男を見上げた。 「親分、じゃねえよな」 若者に向けられた男の瞳は、実の父親のようにやさしげだった。 唇を噛みしめて少しためらい、男はにっこりわらいかけるのだ。 「そうだよ、タク。間に合ってよかった。おまえに、人殺しをさせずにすんだ。よかっ たな、タク」 「親分、なの。ほんとに、親分ですか」 男は頷いた。 若者は男の腰にかじりついて泣き出した。 ・「なあ、卓人。俺は、おまえに何ひとつ教えてやれなかった。親らしいことは何もでき ずに死んでしまった。だが、ひとつだけ教えておく」 「人殺しをするな。嘘をついてもいい。裏切りも仕方がない。だが、人殺しだけはする な。他人を殺さねばならないのなら、自分が死ね。不憫なおまえに俺が言ってやれるの は、それだけだ」 男はそう言うと、若者の頭を腹に抱き寄せて、拳銃を五郎に向けた。 五郎は目を閉じて弾丸を待った。 この世のなごりに見知らぬ父の教えを聞くことができた。 ・「もう一度訊くが、君は根岸雄太くんだね」 とまどいながら、それでもおじいちゃんはぼくを信じてくれた。 「では、これから君の願いだけは叶えてさし上げよう」 「いいかね、蓮ちゃん、いや、根岸雄太くん。おじいちゃんは今朝方、君のおかあさん に電話して、新宿のホテルで待ち合わせる約束をした。むろん君を連れて行くつもりは なかった。根岸雄太君はすでに交通事故で亡くなっており、ほんとうのおとうさんやお かあさんはそのことを知らない。お知らせするつもりはないよ。いったん諦めたお子さ んの消息をお伝えするのは、いらぬ節介だし、世の中のルールにはずれる。ただおじい ちゃんは、君のご両親がどんな人で、子どもをあきらめた後どんなお気持ちで人生を送 ってらっしゃるのか、知りたかったんだ」 ・ちがうな、とぼくは思った。 たぶんおじいちゃんは、科学では正面できないぼくの正体を、うすうすかんづいていた。 病院の面会室でぼくがすべてをうちあけても、おじいちゃんはそれほどおどろかなかっ た。 ・ぼくのこと、わかってくれたんだね。 育ててくれたパパやママも、ほんとうのパパもママもわかってくれないぼくの気持ちを、 他人のおじいちゃんがわかってくれた。 ・おじいちゃんは兵隊さんだったんだね。 戦争に負けて、捕虜になって、シベリアの寒い森の中で長いこと働かされていたんだ。 日本に帰ってきたとき、おじいちゃんは考えた。 お金はいらない。ぜいてくもしちゃいけない。 かわそうな人に、自分の力をぜんぶあげよう、って。 ・コーヒーハウスの大窓を流れ落ちる雨が、静子の視界を歪ませる。 席に着いてから、夫とは一言も言葉を交わしていなかった。 不審な電話がかかってきたのは、武田の友人を名乗る弁護士が帰って間もなくだった。 長いこと福祉関係の仕事に携わってきたという老人が、早急に会いたいという。 かつて老人が務めていた役所のありかを聞いたとたん、静子は鳥肌立った。 たぶん保護観察中の若者の暮らしぶりでも聞きたいのだろう、と夫には嘘をついた。 だが、夫はわかっている。 口にこそ出さないが、夫も静子も、手放した子供のことを考えぬ日はなかった。 ・「なあ、静子・・・」 「取り戻すことは、できねえかな」 静子はため息で答えた。 いつであったかふとその話が出て、矢も楯もたまらず施設に連絡をした。 しかし手放した子供は、とうに里子に出されていた。 それ以来、夫婦の間でその話題は禁忌になった。 だから今朝の電話に、夫婦は一縷の望みを托して、指定されたホテルのコーヒーショッ プにやってきたのだった。 ・もちろん罠であった場合に備えて、隣りのボックスには拳銃を懐に呑んだ子分が二人、 離れた席にも、入り口のドアの外にも、ボディーガードが配されている。 ・子分の携帯電話が鳴った。 「どうやら心配ないようです。ヨレヨレのじいさんがガキを二人連れて、ロビーからこ っちに向かってます」 「二人、だと?」 夫は眉をひそめ、静子をちらりと見た。 ・静子と夫は椅子から立ち上がった。 「ちがうわ、雄太じゃないわよ」 静子は力なく顎を振った。 成長したわが子の顔などわかるはずはないのに、静子ははっきりとその少年が雄太では ないと思った。 むしろ女の子のほうにこころが動いた。 なぜかはわからない。 夫の目も明らかに少女を捉えていた。 ・「市川さん、でらっしゃいますね」 「どういったご用件でしょう」 訊ねる夫の声はうろたえていた。 ・「市川さん。奥さん。詳しいご説明はできません。どうか何もおっしゃらずに、この老 いぼれの今生の願いをお聞き届けください」 静子はわけもなく心を打たれた。 老人は戦場から戻った兵士のように背筋を伸ばし、流れる涙を拭こうともせずに夫を見 つめているのだった。 ・「これから、この女の子の言うことを、黙って聞いてやってください」 「黙って聞くだけで?」 「はい、それでいいのです。それだけでいいのです。どうか何もお訊ねにならず、黙っ て聞いてやって・・・」 そこまで言うと老人は嗚咽とともに声をとざし、少女の背を押した。 ・美しく、清らかな少女であった。 雨に濡れてほつれたおさげ髪の、その一筋までもが愛おしく思えるほどの、可憐な少女 であった。 テーブルをめぐって夫の前に立ち、少女は輝く瞳をもたげた。 それから、きっぱりと言った。 「おとうさん。ご恩返しが何もできずに、ごめんね。ぼくは、とても幸せでした。ほん とに、ほんとにごめんなさい」 少女は静子に向き合うと、何かを言いかけて唇をかみしめ、いきなり胸の中に転げ込ん だ。 「ありがとう、おかあさん。ぼくを生んでくれて、ありがとう。ありがとうございまし た」 号泣する少女の顔をかき抱きながら、静子は雨音を聞いていた。 ・この子がいったい誰で、何を伝えようとしているのか、そんなことはどうでもよかった。 夫も自分も、この少女の言葉に救われた。 ・突然テーブルを揺るがして、老人が昏倒した。 「あっ、おじいちゃん!」 男の子が叫び声を上げた。 いったいどうしたことだろう。 老人は少女と夫婦の対面を見届けたかのように、その場に崩れ落ちたのだった。 ・「おまえら、何ボサッとしてやがる。救急車を呼べ、医者だ!」 夫はうろたえる子分たちを叱り飛ばしながら、老人の顔を抱いた。 「あんた、いてえ何だってんだよ。わけが分からねえじゃねえか。何で命がけて、こん なことをするんだ」 夫が人前で取り乱すのを、静子は初めて見た。 ・「わからなくていいんです。どうか詮索しないでください。ありがとう、市川さん、私 の無理を、こんな年寄りのわがままを聞いてくださって」 「何が無理なもんか。わがままを聞いたわけじゃねえ。ありがとうはこっちのセリフだ。 なあ静子、そうだろ」 思うことが言葉にならず、静子は泣きながら頷いた。 わかっていることはただひとつ、この得体の知れぬ老人が命がけで、自分たちを救わ れざる苦悩から救ってくれたということだけだった。 ・「陽介、陽介」 老人は少年の手を引き寄せた。 「おまえに言っておくことがある。たとえどんなあやまちがあろうと、血を享けた親を 憎んではいけない。約束しろ。陽介」 「やだ、おとうさんがかわいそうだ。かわいそうすぎる」 「おじいちゃんが、なぜおまえをここにつれてきたか、わからんのか」 「おじいちゃんはな、蓮ちゃんの言葉を、おまえに聞かせてやりたかったんだ。おとう さんはちっともかわいそうじゃない。かわいそうなのは、おかあさんと、嶋田のおじさ んだ。子供に憎まれる親はかわいそうだ。いいな、陽介。男と男の約束をしろ。けっし て、おかあさんと嶋田のおじさんを憎むな」 ・少年は決意を示すように大きく肯いた。 「よし、それでいい・・・」 老人は差し伸べられた少女の手を握ると、まるで幕がおりるほど安らかに、土色の瞼を とじた。 |