閉ざされた口 :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1977年に出版された「闇の穴」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
この作品は、偶然に殺人現場を目撃してしまったために、その大きな恐怖心から失声症に
かかってしまった子供と、その子供を抱えて懸命に生きる薄幸な女性を描いている。
殺人現場を目撃した子供は五歳なのだが、五歳の子供だからといってばかにはできない。
どういうことが起きたのかということを、子供なりにしっかり認識しているものなのだと、
この作品を読んで改めて思った。
また、夫婦二人で子育てをしてもなかなかたいへんなのに、ましてや女性がひとりで子供
を育てていくというのは、どの時代においても、並大抵の苦労ではないだろう。この物語
に出てくる“おすま”のような女性に対して、改めてしあわせを願わずにはいられない。
ところで、この作品を紹介するとき、「失語症にかかった子供」と紹介しているケースが
多く見られるが、調べてみると、「失語症」と「失声症」とは異なり、強いストレスなど
精神的な原因で起こる場合は「心因性失声症」と呼ぶようだ。したがって、この作品の子
供の場合も「失語症」ではなく「失声症」というのが正しいのではないかと思った。
心因性失声症の起こる仕組みは、まだはっきりとはわかっていないようだが、精神的なシ
ョックや出来事があった時に突然起こることが多いようだ。つまり、その人の精神的な耐
力の限界を越えてしまったということなのだろう。
なお、心因性失声症は、時間が経つにつれて自然に回復に向かうことが多いようで、この
作品の子供のように、ふとした瞬間に突然声が出ることが多くあるらしい。



・長屋の裏手に、僅かな雑木林が残っている。寺の塀が透けて見える狭い場所だが、子供
 はその空地が気に入っていた。
・家には病気の父親が寝ている。なんの病気なのか、子供にはわからないが、無精ひげの
 のびた 青白い顔を天井に向け、時どき激しい咳をする。
・母親は大概外に出ていて、日中家にいることはめったにない。夕方になると帰ってきて、
 いそがしげに夜食の支度をする。だから子供は、時どきおそろしい咳をする父親と一緒
 にいるしかない。
・外に出てもいいが、川のそばには行くな、と父親の言うことは、いつも決まっている。
・長屋の木戸を出ると、子供は父親に言われたように、表には出ないで、裏手の雑木林に
 行く。表には未知の向こう側に、大川から入りこんでいる掘割がある。堀は、覗き込む
 と魚が泳いでいるのが見えて面白いが、子供はそっちにはいかない。父親の言ったこと
 が頭の中にあるからだが、そればかりではなかった。掘割には、大概町の子供たちが群
 れていて、石蹴りをしたり、竹竿を水に突っ込んだりして遊んでいる。
・そういう町の子供たちに混じって遊びたい気持ちが、子供にはある。だが子供の心には、
 大勢いる子供たちをおそれる気持ちもあった。ひとりひとりの子供たちはおそろしくな
 い。だが、子供たちは、大勢いるとかならず父親の病気のことを言ってはやし立てるの
 である。彼らがなにを言っているのか、五つの子供にはよくわからない。だが彼らが、
 その言葉で仲間から自分を弾き出そうとしている気配は、鋭く胸を刺した。だから、大
 勢の子供たちの声がしている表には、行こうとは思わない。子供はずっと以前から、裏
 の雑木林で一人で遊んでいる。
・雑木林の中には、こんもりと枝葉をひろげた椿の繁みが幾つかある。その繁みのひとつ
 は、入りこむと子供がすっぽり入れる空洞を隠していた。はじめてその空洞をみつけて
 中に潜り込んだとき、子供はすぐにそこを自分の家と決めた。
・落葉を踏む音がしたとき、子供は秘密の家の中が、ほとんど薄暗くなっているのに気づ
 いて、あわてて立ち上がった。葉の間から、人の姿が見えた。落葉を踏み鳴らして、子
 供の家に近づいてきたのは、二人の大人だった。
・男二人は、椿の繁みのすぐ前で立ち止まり、何か話しはじめた。最初は低い声だった。
 だがそのうち一人が大きな声を出し、一人が手をのばしてその口をふさいだ。口をふが
 れた方は、ふさいだ方よりも年を取っていた。年寄りだった。瞬きもせずその様子をみ
 ながら、子供は、おじいさんが可哀そうだ、と思った。
・その次に口をふさいだ方の男は、年寄りの顔を腕で抱え込むようにしながら、懐から光
 るものを持ち出し、年寄りの胸に突き刺した。二度も、三度も突き刺した。そのたびに、
 年寄りの身体は跳ねあがるように暴れた。だが一人の方が手を離すと、年寄りの身体は
 そのままずるずると落葉の上に崩れ落ちた。着物の裂け目から、赤いものが溢れ出して、
 着物を濡らすのが、子供の眼から見える。
・あれは血だと思った。ある夜中、母親の叫びで眼をさますと、父親が布団の上から畳ま
 で赤いものを吐き続けていたのをおぼえている。そのときと同じ色のものが、年寄りの
 胸から腹のところに何本も糸をひいて流れ続けている。
・転がっている年寄りの身体のそばに、もう一人の男がしゃがんだ。そして年寄りの懐に
 手を入れて、なにかを引き出すと、自分の懐にしまった。
・男の顔は白っぽく見えたが、男の眼の凄さは、子供をふるえあがらせた。悪いおそろし
 い者の眼だった。人間の眼とは思えなかった。
・男の眼が、自分が隠れている椿の繁みにとまったとき、子供はおそろしさに叫ぼうとし
 た。だが声は出て来なかった。
・男は立ち上がると、不意に背をむけて歩き出した。落葉を踏む音が、次第に遠ざかるの
 を聞きながら、子供は何度も何度も絶叫した。父親を呼び、母親を呼んだ。だが喉はふ
 さがり、舌は凍りついたままだった。
 

・伊平次は気性がさっぱりしたところがある。暮らし向きが苦しかった若い頃に、頼まれ
 て岡っ引きになったという話だが、いまは女房に小料理屋を開かせて、岡っ引きという
 柄ではなくなった。
・長屋の裏の雑木林で、浅草三間町に住む金貸し島右衛門が殺された事件は、縄張りうち
 で起こったことでずいぶん熱心に探索したようだったが、一年近くたったいまも、犯人
 らしい者はつかまっていない。島右衛門が死体で見つかったとき、おようはそばに立っ
 ていたのだ。
・事件が起こった日、おすまは手伝いに通っている浅草広小路の料理茶屋が、客が混んで
 帰りが遅くなった。家に戻ったときには、足もとがおぼつかないほど薄暗くなっていた
 が、病気で寝ていた亭主の常吉に、おようがまだ外から戻っていないと聞いて、驚いて
 また引き返した。そして薄暗い雑木林の中で死体のそばに、茫然と立っているおようを
 見つけたのである。おようは母親の顔を見ても、泣きも叫びもせず、人形のように白っ
 ぽい顔を、母親に向けただけだった。
・その日以来、おようは一切ものを喋らない子供になってしまった。そして外にも出なく
 なった。以前は、隙があれば外に出たがったのに、いまは部屋の隅で、古びた人形や、
 母親の化粧道具をいじって、黙って遊んでいるだけである。
・無駄だと思いながら、おすまは声をかけてみる。その声に、子供はちらと振り返ったが、
 そのまま手もとの遊びに戻ってしまった。小さな後ろ姿が、なにか見知らぬ力にとらわ
 れて、母親から引きはなされてしまったように遠くに見える。
・小さいなりに円い肩や、お尻の下から出ている小貝のような足指をみているうちに、お
 すまはむしょうにおようが哀れになり、抱き締めて口説を言いたい衝動に駆られた。だ
 がそんなことをしても無駄なことは、解っていた。おようは、そんなふうに何べんかお
 すまが泣く口説いたことがあったのに、貝のように口を閉ざしたままだったのである。
・おすまと言うと、鏡の中には、まだ二十三なのに、眼のあたりに疲れをみせた年増の顔
 があった。
・こんな顔をしちゃ、あのひとに嫌われる。おすまはそう思った。この頃自分に通いつけ
 てきている吉蔵のことが頭を掠めたのである。
・吉蔵は小梅の瓦町で働いている、瓦職人だが、気持ちの優しい男だった。別になんの約
 束もしたわけではないが、吉蔵なら子供がいるのを承知で、いつか自分を女房にしてく
 れるかも知れないと思う時がある。
・おすまが勤めている天城屋という料理茶屋は、広小路から南に入った東仲町の奥まっ
 たところにある。おすまはそこで台所も手伝い、酌取りをし、なり行で客と寝る。だが
 細面のやや眉のあたいりに愁いのある顔をうつむけて行くおすまは、身体を売るような
 女には見えなかった。
 

・吉蔵は二十八だが、まだ世間にすれていないところがあった。
・おすまは吉蔵と寝た夜のことを思い出した。身体を売ったのは、常吉が床について起き
 上がれなくなってからだった。亭主を裏切るという気持ちはなかった。そうしなければ、
 親子三人が食べて行くことができなかったのである。時には朋輩の女中が休んだひまに、
 その馴染み相手を盗むような、悪どい稼ぎまでした。
・吉蔵と知り合ったのは、そんな荒れた稼ぎを続けているころだった。初めて寝た夜から、
 吉蔵の優しさに気づいた。その優しさに目がさめるような気がしたことをおぼえている。
 吉蔵は、娼婦としてではなく、一人の女としておすまを扱っていたが、それが吉蔵の人
 柄から出ていることを、おすまは悟ったのだった。常吉が死ぬと、おすまはやたらに客
 と寝ることをやめた。おようと二人だけの暮らしなら、そんな荒い稼ぎをすることもい
 らなかったのである。ただ、十日に一度ぐらい訪ねてくる吉蔵とだけは寝た。金で買わ
 れているという気がしなかったのである。
・吉蔵はまぶしそうな眼で、おすまを見た。「英助という男に会ったんだ」
・おすまは眼を見張った。そうか、またあの男が現われたのか。
・「この前来たとき、帰りに威されて、金を取られた。あんたの情夫だと言っていたよ」
・英助は、おすまが身体を売ったとき、最初の客だった男である。だが英助は何をしてい
 るのか、正体のわからない男だった。
・はじめのうち逃げていたおすまが、身体を売ると決めたとき、英助は最初の客にとった
 のは、同じ寝るにしても脂ぎった中年男や、皮膚の乾いた年寄りはいやだという気持ち
 があったからである。
・英助は正体の知れないところをのぞけば、顔立ちも悪くない男だった。おすまは、病気
 の亭主を抱えて働き詰めで、ひさしく女の喜びとも縁が切れていたから、ひと頃英助に
 溺れた。心を移したということはない。身体が、ひとりでに溺れたのだが、そのことで
 亭主に済まないと思う気持ちは薄かった。
・やがて英助が情夫きどりで、時どき金を持たずに寝にくるようになった。おすまが拒む
 と、英助は殴りつけた。そのうちもっと悪い噂が聞えてきた。英助が、おすまと寝たほ
 かの男を威して、金を取っているというのだった。天城屋の主人も、店の信用にかかわ
 る話だと、岡っ引きの仁兵衛を呼ぼうとした。そのことを、いち早く聞きつけたらしく、
 英助はぷっつりと姿を消してしまった。
 

・「どうかしたかい、おすまさん」声をかけられて顔をあげると、鳥越の旦那と呼ばれて
 いる清兵衛という男が立っていた。天城屋の馴染客で、四十過ぎの金の使い方がきれい
 な男である。
・なんだったら、わたしが手を貸してもいいよ。金を出してやるし、二度とつきまとうこ
 とはしないと、約束させてもいい」
・「まかせてもらえば、あの男に手を切らせてあげる。そのかわり吉蔵さんのことは諦め
 てもらわないとね。両方いいということはないから仕方ないね」
・「わたしは商人だから、はっきり言いましょう。あんたのような妾が欲しいのですよ。
 女房も子供もいるから、家に連れて行くことはできないが、一軒持たせて、あんたと暮
 らしたいのです」 
・妾か、それも悪くないな、とおすまは思った。いまだって、落ちるところまで落ちたと
 いう気がすることがある。妾になることが、これ以上身を落とすことになるともいえな
 い気もした。第一子供を隣に預けて、夜遅くまで働くこともなくなる。
・清兵衛の指は微妙に動いて、おすまの身体の奥にある、脆く崩れやすいものを擽ってく
 る。おすまはうつむいて、熱い吐息を洩らした。
・おすまは提灯を持ち直し、ゆっくりと歩き出した。ああ言われて、すぐに清兵衛と寝て
 しまったのが、心を責めていた。自分がどうしようもなく堕落した女のように思われて
 くる。
・おすまは、隣りの家の茶の間で寝ているに違いない子供のことを考えた。すると清兵衛
 の手で揉みしだかれた身体のほてりが、少しずつ冷えて行くようだった。
 

・「どうだね。気に入ったかね」清兵衛はにこにこしてそう言った。小ぢんまりしたしも
 た屋だった。
・そこが清兵衛が買い取ったという妾宅だった。清兵衛とつながりができてから、まだ一
 月ほどしか経っていない。その間に、清兵衛は英助を見つけ出して、あっという間にけ
 りをつけ、一方で妾宅を物色していたのだった。
・おすまは、おようの手を引いて、清兵衛のあとから、部屋を見回りながら、なんとなく
 気がすすまないのを感じた。
・どことなく気持ちが弾まないのは、清兵衛という男が、よくわからないせいかも知れな
 かった。吉蔵は、裏も表もない瓦職人だった。英助は、そのつもりでみれば、間違いな
 く悪党だった。だが清兵衛は、そういうふうに、おすまの眼にはっきり見えてこないと
 ころがあった。
・おすまは、床の中で身体を触れ合うときの、清兵衛を考えた。清兵衛は、おすまをおも
 ちゃか何かのように冷酷に扱い、そうすることでいままで知らなかった身体の喜びを引
 き出した。おすまは狂わんばかりになる。だがその後で、恐ろしい疲れと自分がひどく
 堕落したという気持ちに打ちのめされるのだった。狂おしいほどの身体の喜びの中で、
 針に突きさされるように感じる清兵衛の冷酷さが、英助に向けられた顔に出ていた。
・おようは相変わらず胸にしっかりと人形を抱いている。その姉さま人形は、少し髪の毛
 が抜けはじめていた。おようは黙って清兵衛の顔をみているばかりである。
・「おとうちゃんと呼んでもいいのだぜ。ん?」清兵衛はおようの前にしゃがんでそう言
 ったが、おようは後じさりした。
・清兵衛は、少し執拗な感じて言った。「さ、おとうちゃんと言ってみなさい。おじさん
 でもいいよ。おじさんと言ってみな。え?」
・「急にそう言っても駄目ですよ」おすまがそう言ったとき、不意におようが言った。
 「いや」
・おすまは一瞬茫然とした顔になった。それから跪くと、激しい勢いでおようを抱き寄せ
 た。  
・「おじさんて言うのがいや。おとうさんて言うのもいや」おようははっきりとした声で
 言った。 
・「なおったんだわ、この子」おすまはしっかりとおようを抱いた。
・「このおじさん、おじいちゃんを刀で突いて、血を出したからいや」
・「え?」おすまは訝しそうにおようの顔をみ、それから鋭く清兵衛の顔を見た。清兵衛
 はむっつりした顔で、子供をみている。
・「何を言ってるのかね、この子は。何も喋らないと言ったが、ずいぶん喋るじゃないか
 ね。喋り過ぎるほどだ」 
・清兵衛が言った。だが、その顔に浮かんでいる笑いは、みるみる歪んだ。立ち塞がるよ
 うに前に立つ清兵衛を、おすまはおようを抱いたまま、夢中で突きのけて入口に走った。
 後ろから袖を掴まれたが、袖が裂ける音がしただけで擦り抜けた。
・外に走り出すと、おすまは夢中で走った。歩いている人が驚いて見送ったが、眼に入ら
 なかった。首筋を掴まれるような恐怖が、まだおすまをおびやかしている。清兵衛の正
 体が、やったと見えた、と思っていた。
・おようは喋るようになってから、子供たちとも遊ぶ子に変わった。その後姿を見送って、
 おすまは微笑んだ。
・清兵衛は、妻子を置いて逃げ出そうとしているところを、伊平次の手で捕まった。  
・おようが、まともな子供に戻ってくれただけで、しあわせだと思わなくちゃ。おすまは、
 橋の上で、ほかの子供たちと走り廻っているおようを見ながらそう思った。
・「おすまさん」不意に後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、吉蔵が立っていた。
・「何か用なの」おすまは冷たい口をきいた。男ならもうたくさんだという気がしていた。
 男にかかわり合うとろくなことがなかった。おようと二人食べて行くだけなら、べつに
 男と寝ることもないのだ。 
・「用て言われても困るけど、やっぱり、あんたが忘れられなくてね。なんとかして一緒
 になれねえものかと、その相談にきたんだが」
 「厚かましい話だが、俺も今度は決心したんだよ。その、英助という男にも会って話を
 つけようと思ってね。金も、少しばかりだが用意した」
・「いいのよ、その心配ならもういらないの。有難う、吉蔵さん」とおすまは言った。す
 ると不意に眼がしらが熱くなった。一度諦めた、人並みの暮らしが臆病な足どりで戻っ
 てくる気配に、心を刺されたのだった。