透明な檻 :赤川次郎

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ずっと以前から知らない間に本棚にこの本があった。自分で買った記憶はない。きっと家
族の誰かが買って読んだ後に、本棚の中に入れておいたものだろう。
サスペンス小説をあまり読まない私は、この著者の本は今まで一冊も読んだことがなかっ
た。この本が初めてである。しばらくぶりに本棚の整理を、と連れ合いに妻に言われて、
処分するまえにちょっと読んでみるかと読み始めたら、けっこう面白くて止らなくなくな
った。文章がとてもシンプルな表現で読みやすい。それにストーリーの展開のテンポが軽
やかだ。
この小説は、都内の女子校を中心に展開される内容だが、女教師とその生徒の父親の不倫、
女子高生の暴行事件、教師同士の恋愛、主婦の火遊びなど、現実にも起こりそうな内容で
構成されている。その時代の社会情勢をうまく取り込んでいて、読者の関心を引き付ける
ように書かれている。辛い内容の事件も、あまり湿っぽくなく、全体的にさわやかな表現
となっている。最後はハッピーエンドで終わり、気軽に楽しめる娯楽小説だ。

秋空の下で
・他にも、何人か、同じように奥さんに言われて渋々出場する亭主たちが、ノソノソと歩
 いている。中には大張り切りで、元気よく集合場所へと駆けていく父親もいた。しかし、
 佐田は無理しないことにしている。特に、一年ほど前、ぎっくり腰をやってから、無理
 な運動は禁物なのである。
・祐子の隣に座っているのは、かなえと同じクラスの子の母親である。辻沢京子といって、
 夫は、建築会社の社長。もう六十を過ぎているので、こんな時には出て来ない。祐子は、
 あまり太らないたちのなので、今日もスラックス姿。辻沢京子は、黒っぽいワンピース
 で、およそ運動会に来る、という服装ではなかった。おそらく、辻沢京子にとっては、
 学校のどんな行事であろうと、「社長夫人」であることが方が、優先するのだろう。場
 違いに派手なネックレスなどをしている。
・正直なところ、祐子は、この辻沢京子のことがあまり好きでない。辻沢京子の娘、美樹
 も、いかにもわがまま社長の娘、という印象で、かなえも深く付き合わないようにして
 いた。それでも、辻沢京子が誘って来れば、こうして一緒に来ないわけにはいかない。
 祐子と辻沢京子は、クラスの役員を務めているのである。それに、辻沢京子は、この学
 園の幹部とも親しいらしい。少なくとも、喧嘩はできないのである。
・湯川貴子は可愛い。美少女と呼ぶ方が当たっているかもしれない。目鼻たちがくっきり
 と鮮明で、眉の形なんて嘘みたいのきれいである。成績はそんなにできる方じゃないが、
 やはり先生たちも、貴子には少し甘い。どうしても、先生の「ひいき」はつきものだが、
 貴子の場合には、みんな仕方ないと諦めているところがあった。この学園は女子校なの
 で、女の先生も多いのだが、貴子は、やはり受けが良かった。おとなしいし、器用でも
 あるのだ。
・かなえは、貴子と、中学校からの親友同士。しかし、自分でも、いささか地味で、パッ
 としない存在であることはよくわかっている。手先も器用ではないし、勉強も大してで
 きるわけじゃない。不公平だ、と、貴子を見る度に思うのも、当然のことだったろう。
・可愛いし、祖父が有名企業の会長という、恵まれた貴子だが、唯一、欠けているものが
 ある。父親だ。一人っ子の貴子は、幼稚園のころ、父を事故で亡くしてしまった。母の
 貞子は、それから二年ほどして自分でアクセサリーの店をだし、ずっと独りで通してい
 る。かなえは、貴子がいつも「父親」を求めているのに気付いていた。かなえの父にも、
 時として甘えるような言い方をしたりする。
・美術の教師、柳本靖代。一年の時、かなえの担任だった。まだ二十八歳で、独身の、可
 愛い感じの先生である。実際、柳本靖代は、小柄で、二十歳そこそこといっても通りそ
 うな、あどけなさを残した顔立ちをしている。生徒たちにも、人気のある先生の一人な
 のだ。  
・高校二年生。青春の、一番盛りともいうべき年代である。

危い日
・靖代は言った。「私、あれが初めてだったんですもの。あなたみたいなやさしい人で良
 かったと思っています。別に焦っていたわけじゃないけど、お酒に酔った勢いなんかで、
 よく知りもしない人とホテルに・・・なんてこと、いやですものね」
・佐田はため息をついた。靖代の心を疑うつもりはない。しかし、純粋であればあるだけ、
 一途になり、夢中になる危険性は大きい。
・柳本靖代と、そうなったのは、彼女の絵の個展が、ちょうど佐田の会社の近くで開かれ
 ていて、仕事のついでに立ち寄った時のことだ。靖代がちょうど来ていて、二人は絵の
 話でしばし時間を過ごした。そのまま閉館時間となって、小さなギャラリーを出た二人
 は、食事をし、酒を少し飲んで、まるで予め決めていったかのように、近くのホテルへ
 と入ったのだった。たった一度だけで、それから二人きりで話すのも、これが初めてだ
 った。靖代が、佐田の腕をつかんで、身を寄せて来る。佐田は、小柄な、抱きしめたら
 こわれそうな靖代の身体を組み敷いた時のことを思い出して、胸がときめいた。
・柳本靖代は、リレーの様子を見ながら、つい目が「父母席」へと向くのを、どうするこ
 ともできなかった。佐田が、ビデオカメラで熱心にとっている。どう見たところで、
 「良き父親」の姿である。どうして、あんなことになったんだろう?今でも、靖代には
 よくわからない。特別、佐田に好感を持っていたわけでもないのに。確かに、人当りの
 いい、気持ちのいい男性ではあったが、およそ「恋」とか、そんな感情には無縁のはず
 だった。それなのに・・・。何でもなかったら、却って、ごく自然な勢いで、ああなっ
 てしまったのかもしれない。今思い出しても、どっちがどっちを誘ったのか、よくわか
 らない。気が付いたら、ベッドに入っていた、という感じなのである。初めての体験と
 いう緊張感も、ほとんどなかった。切なさが、佐田への熱い想いが、こみ上げて来たの
 は、別れて、一人住まいのアパートへ戻ってからのことだった。 
・今はもう・・・。もう、絶対に離れたくなかった。しかし、佐田の前では、そんなこと
 は言えない。佐田が警戒し始めたら、おしまいだということを、本能的に、靖代は知っ
 ていた。気楽な付き合い。そう思わせておくことだ。あくまでも。でも、いつまで、そ
 う思わせておけるだろうか? 

旧友
・見たところ、柳本靖代と宇田川恭子はとても友だち同士に見えないだろう。小柄で、総
 てにわたって地味な靖代とは逆に、長身の恭子は、少しどぎついくらいの化粧に、髪も
 茶色に染めている。二人は大学時代の友だちだが、確かにその頃から対照的な性格では
 あった。
・十五分ほど、あれこれおしゃべりしていて、宇田川恭子はハッとした。しゃべっている
 のは、ほとんど自分の方だということに気付いたのである。妙なものだ。靖代に比べれ
 ば、自分はずっと変化に富んだ、面白い仕事をしているはずなのに、こんなにも必死に
 しゃべらないと、「負けてしまいそう」になる。いや、もっとはっきり言えば、恭子は、
 靖代が自分のことを羨ましがってくれないのが、面白くないのだった。
・女学校の美術の教師、そんな仕事のどこが面白いの?そりゃ、生徒の中にピカソだのダ
 リだのが大勢いたら面白いかもしれないが、大部分は、いや、まず一人残らず、「お絵
 かき」の域を大して出ていない子ばかりだろう。そんな連中に絵を教えて、一体何が面
 白いのかしら?靖代はうんざりし、退屈して、恭子の刺激に富んだ世界を、羨望の目で
 見るべきなのだ。それなのに・・・。焦って、まくし立てているのは恭子の方で、靖代
 はおっとりと耳を傾けているだけだ。こんなの、間違っているわ、と恭子は思った。こ
 んなはずじゃなかったのに。
・フリーライター。自ら憧れた世界に飛び込んで、実際にやっていることといえば、何だ
 ろう。有名人にインタビューすれば幻滅し、必死で書いたコラムは勝手に削られる。取
 材に駆け回って、挙句に没になる企画は山ほどある。いや、ものにならない企画の方が、
 はるかに多いのだ。疲労と失望。疲労と失望。そのくり返しの毎日。ライターの志など、
 どこかへ跡形もなく消えてしまって、今、恭子はただ「駆け回って」いるだけ・・・。
 忙しそうに言ったのは、多分見栄というやつで、実際にはこおところ、レギュラーの仕
 事は一つも持っていない。
・靖代が、少し頬を赤らめて、目を伏せるのを、恭子は見た。直感的に、恭子は気付いた。
 靖代は、これから男と会うのだ。一瞬、言葉が出なかった。靖代に男ができた?それも、
 普通にお見合いして付き合っているとか、同じ職場で知り合っているのなら、靖代はそ
 う言うだろう。恭子に隠す必要はないのだから。しかし、靖代は隠している。恭子に知
 られたくないのだ。昔から、恭子は派手に遊んでいたし、靖代は至って慎重だった。少
 なくとも大学を出るまで、靖代は男を知らなかった。たぶん、見合か何かで結婚しても、
 靖代は初夜までキス一つしないんじゃないか、と、恭子は思っていた。それが・・・。
・コーヒー代を、靖代は伝票の上にのせて、立ち上がった。その内、か・・・。ただの決
 まり文句だ。会うことなんかないのだ。学生時代の「永遠の友情」なんて、亭主や子供
 の風邪一つで吹っ飛んでしまう。靖代が店を出て行く。恭子はそれを見送っていたが、
 靖代は振り返ろうともしなかった。もう、靖代の心はここにないのだ。恭子は、指に挟
 んだタバコから足り上がる青白い煙を見ていたが、やがてそれをギュッと灰皿に押しつ
 ぶすと、急いで立ち上がった。 
・宇田川恭子は、自分がいやになるくらい、馬鹿げたことをしていた。何だっていうの?
 まるで、自分の亭主の浮気の現場を押さえようとやっきになっている、ヒステリックな
 妻の役柄。こんな風に、夜中まで、じっとホテルの表で待っているなんて・・・。確か
 に、柳本靖代はこのホテルに入っていった。それだけだって、信じられないような出来
 事である。学生時代の靖代だったら、こんな場所を利用するなんて、考えつきもしなか
 ったに違いない。それが今は、弾むような足取りで、いそいそと入っていくのだ。今、
 靖代は男に抱かれている。そして私は、同じよりかかるにしても、こっちは電柱により
 かかって待っている。
・約束を延期して、先方は気を悪くしたようだが、恭子はやめられなかったのだ。何とし
 ても、靖代の相手を、見たかったのである。どうせ、時代遅れの背広を着た。くすんだ
 男だろう。それを確かめてやりたかった。もう何本目かのタバコを点けて、足下に落と
 している。夜を明かすつもりだろうか?いくら何でも一晩中、ここに立ってはいられな
 い。すると、靖代が出てきた。男と並んで。暗がりになって、顔はよく見えないが、靖
 代には違いない。
・二人は、通りへ出てくる前に足を止めると、抱き合って唇を重ねている。見ていて、恭
 子はドキドキした。まるで、初めて大人のキスを見た女学生みたいだ。二人が腕を組ん
 で、明かりの下へ出てくる。靖代が、男の腕にしっかりすがりついている感じである。
 四十代の半ば、もっと若いだろうか?教師ではあるまい。ビジネスマンという印象。恭
 子はハッとした。あの男を知っている、と思った。確かに、いつか仕事で会ったことが
 ある。マンションへ帰って、名刺を捜せば、きっとわかる。二人がタクシーの拾える広
 い通りへと歩いていくのを恭子は見送った。あの二人の関係、絶対に洗い出してやるわ。
 恭子は、面白くなっていた。他人の秘密を知ることは、何より刺激的だ。
  
手紙
・「あれ?」トイレに行って戻ってきた湯川貴子は、机の上に封筒が置いてあるのを見て、
 思わず言った。裏返して置いてあった封筒をひっくり返してみると、「柳本靖代様」と、
 ワープロで打った文字が貼り付けてある。どうして柳本先生宛の手紙が、私の机に置い
 てあるの?
・あなた、どうして嘘をついたの。あの夜、どこにいたの。誰といたの。祐子は両手で顔
 を覆った。冷たいようだが、今は妹の不幸、先行のことを心配してはいられなかった。
 自分の生活、自分の人生そのものの基盤が、崩れようとしているのだ。考えたくはない。
 しかし、夫が嘘をついてまで、一体どこに出かけるだろう?女。女しかいない。夫婦の
 敏感さで、祐子は気付いていた。全く考えもしなかった時にはともかく、そう疑い出す
 と、夫の態度、一つ一つが、その疑いを立証するかのように見てくる。 
・しかし、やかり怖かったのだ。少し冷静になってみると、祐子には、この生活を断ち切
 ってでも、真実を知ろうと言う覚悟がないのだった。むしろ、真実を知らないままにし
 ておいて、やがて忘れるに任せようか。それとも、何も言わなければ、夫は、その女と
 の関係を続けて行くだろうか。どっちともわからなかった。祐子は、こんなに大きな決
 断を下したことがなかったのだ。
・かなえ。そう。かなえがどう思うか。父親に女がいる、と知ったら、どんなに傷つくか。
 黙っていよう。もし、これきり、夫が女と会う様子がなかったら、何も言わずにおこう。
 ほんの、一度きりの気の迷いだったかもしれないのだ。両親が争うのを見ることほど、
 子供にとって侘しいものはないはずだから。
・受付へ出て行った佐田は、そこに柳本靖代の姿を見て、立ちすくんだ。もちろん、彼女
 が会社へやってきたことにもショックを受けたが、その変わりようにも驚いたのである。
 靖代は、青ざめ、ひどく落ち着かなかった。
・佐田は、恐れていた事態になりつつあるのかもしれない、と思って、ゾッとした。遊び
 慣れた女ではない。純情で、心から佐田を想っている。しかし、それが却って佐田にと
 って、困ることなのである。金でかたをつける、というわけにもいかない。逃げようと
 すれば、ますます追ってくるだろう。今さら、手遅れかもしれないが、よく話をして、
 分かれるしかあるまい。 
・「やはり、我々の間のことは、これっきりにしましょう。これ以上、何もなければ、そ
 の誰かも手を出せない」コーヒーが来て、佐田はブラックのまま、半分ほど飲んだ。靖
 代も、ジュースをストローで一気に飲んでしまうと、息をついて、「どうして分かった
 んでしょ」と、言った。「私、できませんわ」「あなたと会うことをやめるなんてこと、
 いやです」「分かっていますわ。あなたを困らせない、とお約束しました。でも、自分
 の意志ではどうしようもないんです。この気持ちは、とても自分で押さえるなんて、で
 きません」「あなたも、捨てて。ご家族を」靖代の目は燃えていた。もはや、どんな水
 でも消せない火で。靖代は立ち上がると、「私は諦めません」と、震え声で言った。佐
 田は、店を出て行く柳本靖代を半ば呆然として、半ば恐怖に凍りつきながら、見送って
 いた。

見ていた娘
・金持ちの娘、なんて、面白くも何ともないもんだ。辻沢美樹は、土曜日の午後、原宿の、
 若い子たちでごった返している通りを、歩いていた。美樹はいつも一人ぼっちだった。
 小さいころからである。美樹は、いつもパパと行っているホテルの中なら、「辻社長の
 お嬢様」として大切にされ、特別扱いしてもらっているが、こうして一人で出歩いてい
 ると「ただの女の子」に過ぎない。美樹には、それが不満だった。もちろん理屈に合わ
 ない不満だってことは、よくわかっているのだが、それでも不満には違いない。
・あれ?美樹は足を止めた。中学生ぐらいの、少女雑誌のグラビアをそのままコピーした
 ような格好で固まって歩いている女の子たち。それを苦労して追い越してやってくる、
 少々場違いなサラリーマン。あの人、かなえのパパだ。間違いない。佐田弘史のことは、
 何度も見て知っている。特に、体育祭の日には・・・。向こうも足を止めた。美樹を見
 ている。誰だったかな?ちょっと考えている様子である。学校帰りで、制服姿なので気
 が付いたのだろう。そうでなければ、この大勢の女の子たちの中で、見分けられるわけ
 がない。 
・佐田は美樹を促して歩きだした。もちろん美樹には、遠慮するつもりなど、まるでなか
 った。混雑した通りから、細いわき道へ入って、少し曲がりくねった道を辿ると、小さ
 なギャラリーがあった。
・佐田は、背広の内ポケットからタバコを出して、一本くわえた。そう、あの時も、煙草
 吸ってたんですよね、と美樹は思った。体育祭の日、美樹の覗き見た「面白いもの」。
・美樹の心に、ふといたずらしてやろうかという思いが顔を出した。レジで払っている佐
 田の後ろに立っていた美樹は、小さなカゴの中に入れてある、イヤリングを手に取った。
 ここで作って、売っているらしい。千五百円と書いてあった。
・もちろん、佐田としては、そんなものまで美樹に買ってやる必要なないわけである。
 「私、黙っているんだけどな」と、美樹は言った。「これ、買ってくれたら」「体育祭
 の日に、おじさんが校舎の裏でタバコを吸っていたこと」佐田の顔から、笑みが消えた。
 美樹は、カゴから一組、イヤリングを手に取って、「じゃ、これ」と言った。
・佐田は、美樹の制服姿がたちまち同じような年代の女の子たちの波の中へ、呑み込まれ
 ていくのを、じっと見送った。心が凍りつくような思いだった。あの子に見られたとは!
 佐田も、あの子と、その母親のことはよく知っている。辻沢京子は、佐田の妻、祐子と
 一緒に役員をやっているのだ。祐子はあまり辻沢京子を好いていないし、あの美樹とい
 う子の評判も、良くないようだ。そういう点、かなえははっきりものを言う。よりによ
 って、その辻沢美樹に見られていたとは!
・佐田は今になって苦い悔恨の思いをかみしめた。そもそも、柳本靖代と関係を持ってし
 まったのが間違いである。しかし、済んでしまったことは、今さら取り返しがつかない。
 柳本靖代の方が、もう引き返せないくらい、佐田にのめり込んでいること。そして、辻
 沢美樹が、二人の秘密を知ってしまったこと・・・。何もかも、最悪の状態になってし
 まった。どうしたらいいだろう?   
・佐田にはもう一つ、「家そのもの」の心配があった。祐子の様子が、どうもおかしいの
 である。表面上は、いつもと変わりなく振る舞っているが、時折、佐田からぐっと目を
 そらしたり、話しかけようとすると、席を立ってしまったりする。
・電話が鳴って、佐田は、顔をしかめた。「私・・・奥様と、ちょっとしたことでお知り
 合いになった者なんですけど」「あの・・奥様には、付き合っている男の人がいらっし
 ゃるんです」佐田は呆気にとられて、しばらく言葉が出なかった。「男の方と、その・・
 よく言う、不倫の関係といいますか・・・そういうことになって、悩んでいる、と、お
 っしゃんるんです」佐田はポカンとして、「まさか」と、言った。
 
忍び寄る影
・その男は、自分の目を疑った。マンションから、足どりも軽く出て来たのは、間違いな
 く、湯川貴子だったのだ。まさか、と思った。そんなにうまいことがあるものか。しか
 し、本当だった。現実に、今、貴子は彼の目の前、十五、六メートルの所を歩いて行く。
 彼は、貴子の歩調に合わせて歩くのに少々努力を必要とした。あの若さ、あの勢いはど
 うだ。
・彼は、実のところ、マンションの前で三十分近くも迷っていたのである。どうしたもの
 かと。もちろん、都合よく、貴子が出て来てくれるなんてことがあるわけはないが・・。
 そして今、本当に彼女は目の前を歩いている。胸が震えた。どうやって言葉をかけよう
 か?言葉をかけること自体は何でもない。しかし、恐ろしいのは、貴子の反応だった。
 何と言うだろう?どうするだろう?不安と期待が、入り乱れた。
・靖代は右手で佐田の腕をしっかりとつかんだ。「私を抱いて、必ず、時間を決めて会っ
 てちょうだい」「話し合いね。でも、喫茶店はいや、ホテルでよ」佐田は、負けた、と
 思った。ホテルに入って、何もなしで出て来られるだろうか?佐田にも自信はなかった。
・貴子が、背後の気配に気付いたのは、暗い道のちょうど真中辺りまで来た時だった。古
 い屋敷の前だった。今は空き家で、荒れるに任せてある。近所からも、早く取り壊すか、
 建て直すかしてくれという声が出ているらしいが、どうやら相続をめぐって、争いにな
 っているらしく、何年も放ったらかしになっている。   
・貴子は振り向いた。男がいた。男としか分からない男。暗くて、その男は、ただ黒い影
 だった。貴子は動けなかった。何か布で口をふさがれ、強く抱きしめられた。もがいた。
 しかし、とても男の力にはかなわない。その屋敷の壊れた門の方へ、引きずるように連
 れて行かれる。そして、塀のかげに、二人はもつれ合うように倒れ込んだ。やめて!、
 やめて!貴子は叫んだ。いや、声にはなっていなかった。ただ、頭の中だけで、叫んで
 いたのだ。男の重みで、呼吸も苦しかった。口の中へ、布を押し込まれ、吐き気がした。
 膝の間に、男の足が割り込んできて、荒々しく、男の手が貴子のセーターをたくし上げ
 た。まさか、まさか、こんなことが・・・。私がどうして、こんな目に?夢だ。これは
 夢なんだわ。悪夢は、痛みと、苦しみを伴っていた。貴子は、これが夢でないことを、
 間もなく知ることになる。
・ゆっくりと、靖代は息を吐き出した。ベッドの中で、佐田は眠っていた。靖代は、空し
 かった。勝ったという気持ちにはなれなかった。勝った?一体誰に?佐田は、別に、妻
 と別れると言ってくれたわけではない。愛しているから、抱いたのではない。オモチャ
 を与えるように、靖代を抱いたのである。それは、自分が佐田にとっては、何でもない
 と気付かされることだった。「何でもない女」を、佐田は依然と同じように抱いたのだ。
 靖代は、ベッドの柔らかい枕の中へ顔を埋めて泣いた。佐田は、起き上がって、「眠っ
 ちまったか」たった今、自分が妻の名前を呼んだことには、気付いていないようだ。し
 かし、靖代の心に、その名は、短剣のように突き刺さって、血をふいていたのだった。
 
衝撃
・かなえは、たぶん今までの十七年間で初めてのショックを受けていたのだった。ゆうべ、
 二時近くのことだ。乾燥した夜だった。喉が乾いて、かなえは目を覚ましたのだ。めっ
 たにないことである。一時半を回っていただろうか。起きて、何か飲むのも面倒で、し
 ばらくベッドで右を向いたり左を向いたりしていたが、やがて思い切って起き出した。
 階段を下りて行って、居間の明かりがついていることに気付いたかなえは、足を止めた。
 父の声がしたが、低くて、何を言っているのか分からなかった。ただ、かなえは何とな
 く出て行くのがはばかられて、階段を下りたところで、足を止めていた。父と母が何を
 話しているのか、分かってから出て行きたかった。すると、母の声が聞こえた。いや、
 声といっても、それは押し殺されているような、「すすり泣き」の声だったのだ。かな
 えはドキッとし、混乱した。母が泣いているところなど、ほとんど見たことがない。一
 体何があったのか。思わず、足を進めようとしてかなえはまたギクリとした、あの母の
 声は、泣いているのではなくて、もしかしたら、父に抱かれているのかもしれない、と
 思い、そう思った自分に当惑し、恥ずかしくなったのである。しかし、そうではなかっ
 た。母は、本当に泣いていたのだ。かなえは、自分の鼓動を両親に聞かれそうな気がし
 て、じりじりと、後ずさった。そして、階段をそっと上がって、自分のベッドに潜り込
 んだ。頭から毛布をかぶった。 
・その後、父と母が何時まで起きていたのは、かなえは知らない。二人の話がどうなった
 のか。母は結局、父を許したのか。「浮気か・・・」と、かなえは呟くと、ジュースを
 飲み干した。少なくとも、今日起きてみると、父と母は特別に「冷戦状態」にあったわ
 けでもなかった。そんな目で見ているせいか、いくらかよそよそしい風にも見えたが、
 気のせいかもしれない。
・靖代は言った。「私、付き合っている人がいるの」「でも、結局、向こうはただの遊び
 のつもりだったの」「私もどうかしてたわ」「教え子の父親なの。もし、世間に知れた
 ら、辞めることになる」「私・・・その人と・・・初めてだったの」靖代の目から、涙
 がこぼれて、子供のような頬を伝い落ちた。思いがけず、恭子の胸が痛んだ。大学一年
 のころ、靖代はまだ本当に子供みたいで、恭子は何かとかまってやりたくなったもので
 ある。そのころには、恭子は靖代が妹みたいに思えて、保護者を自認していたくらいだ。
 もちろん、今思えば遠い昔。靖代も変わり、恭子はもっと変わったが、靖代の涙に、ふ
 と、かつての友情の日々がよみがえって来たのは確かだった。
・恭子は言った。「中途半端に同情したり、未練を残しているようじゃ、途中で腰砕け。
 とことん、そいつに仕返ししてやるのなら、それなりのやり方があるでしょ」「私と佐
 田とのことが公に知れたら、私、仕事を失うわ。それはいやなの。それなら、これきり
 我慢していた方がいい」恭子がタバコに火をつけながら、言った。「その男の家庭がめ
 ちゃめちゃになればいいでしょ」

情報
・問題は、靖代である。ゆうべホテルで別れる時には、いやに冷淡な感じで、「もうお会
 いしない方がいいですね」と、言っていた。分かってくれたのなら、佐田もホッとする
 ところだ、しかし、その時の靖代の様子には、どこか佐田を不安にさせるものがあった。
 諦めよりは、思い詰めているような切迫した表情が、見られたのである。だが、何とい
 っても大人同士だ。靖代も少し冷静になって考えれば、このまま別れるのが一番いいこ
 とだと気付いてくれるだろう。佐田は、妻の祐子が、女のいることに気付いていると分
 かって、それを認めた。しかし、正直に、すべてを白状したわけではない。浮気に相手
 は同じ会社の若いOLで、もう会社を辞めて行った、と説明したのである。佐田は、娘
 の学校の女教師と、そういう仲になった、とは言えなかったのだった。祐子も、その点
 は佐田の話を信じたようだ。これで靖代さえ黙っていてくれたら、ことは平穏無事にお
 さまるのだが。
・貞子は、一睡もしていないのだろう。目が落ちくぼんて、くまができていた。「運が悪
 かったことに、あんまり遅いので心配になって、私が歩いて行くと、自転車で巡回して
 いたお巡りさんが、ちょうど貴子を見つけて、騒ぎになったところだったの。もし、私
 が見つけていたら、隠し通すこともできたのだけど」貞子の気持ちもわかる。もちろん、
 本当ならちゃんと警察に届け出て、犯人を探してもらうべきだ。しかし、当然、学校へ
 も連絡が行き、貴子が暴行を受けたことが、噂になて広まることは避けられない。母と
 しては、できることなら、娘がこれ以上傷つくのを、避けたいのだろう。でも、それに
 はもう手遅れだ。

進展
・靖代は驚いた。デートに誘われたのである。断ろうと思った。断るべきだ。私は、私は、
 つまらない男に、遊ばれた女なのだ。こんな風に自分を誘ってくれる人がいただろうか?
 ごく当たり前の、この年代の女性なら、誰でも経験している「デート」というものを、
 靖代は知らなかったのだ。それは、靖代自身が逃げていたせいもあった。しかし、今は
 逃げることなんかない。靖代は、恋の「天国」も「地獄」も、見てしまったのだから。
・かなえは、貴子が自分の父に漠然と憧れの気持ちを抱いているのを知っている。もちろ
 んそれは生々しい恋とかいうのじゃないから、考えても苦痛にはならないだろう。ただ、
 かなえは知っている。父が、浮気をして、母を裏切っていたことを。貴子がそれを知っ
 たら、きっとがっかりするだろうな、とかなえは思った。もちろん今はもう、今はお父
 さんも、そんなことしてない。人間って、「あやまち」を犯すものだってことは、かな
 えも知っている。絶対に父を許せない、ということはなかった。ただ、母を泣かせたこ
 と、結果として母を苦しめたことを、決して忘れないだろうと思っていた。
・「あらあら、もう行かなきゃ」宇田川恭子が時計に目をやって、パッと起き上がった。
 佐田は、ベッドの中から、あわてて服を着ている宇田川恭子を眺めていた。恭子は笑っ
 て、「シャワーを浴びる時間がないわ、あなたも帰った方がいいんでしょ」恭子は、バ
 ッグから名刺を出して、ベッドに投げた。バタン、とドアが閉まる。佐田は、自分が、
 また浮気したのだということに、やっと気付いた。冗談でなしに、食事をして、飲んで
 いる内に、あの女のペースに巻き込まれてしまって、気が付いたらベッドの中、という
 感じだった。情事そのものも、あわただしくて、スポーツみたいだったせいか、終わっ
 てしまうと、何も憶えていないというあり様だ。もちろん、祐子が知ったら嘆くだろう
 が、少なくとも佐田の中では、あまり後ろめたさはなかった。勝手な言い分と言われそ
 うだが。それとも、一度通った道は、もう二度目からは苦にならないのだろうか。深刻
 に考えるのはよそう。この女とも、もうこれで終わりにすればいいのだ。二度と会わな
 いことにすれば。しかし、佐田は、恭子の名刺を捨てはしなかった。服を着て、手帳を
 取り出すと、その中に、恭子の名刺を挟み込んでおいたのである。
 
行きずり
・帰るか。他にしようがないし。トン、と肩を叩かれて、振り向いた。「これ、落とした
 よ」若い男が立っていた。若い、といっても、たぶん二十四、五か。学生って感じじゃ
 なかった。いい男だった。やさしそうな笑顔。美樹の好みだ。服装とかも。ちゃんとし
 ているし。ふと目を上げると、今まで一緒にいた女の子たちが、窓際のテーブルだった
 ので、こっちを見下ろしている。美樹が男に声をかけられている、というので、乗り出
 すようにして見ているのだ。そうね。悪くないじゃないの。
・靖代は、黙っていたのだ。長倉のことを。いや、長倉とのこと、といったところで、二
 人の間に特別何かあった、というわけではない。 ただ食事をしたり、ドライブしたり、
 というだけのことで。デートとも呼べないようなことでしかなかった。しかし、靖代は、
 そのおかげで傷が癒され、心が和んでいるの感じていた。長倉は、しつこく靖代に私生
 活を色々訊いたりしなかったし、あくまで靖の気持ちを尊重してくれていた。今の靖代
 は、乾いた土が水を吸い込むように、長倉の心づかいを、吸い込んでいたのである。
    
日曜日の出来事
・佐田の身辺は、一段落していた。柳本靖代からは何の連絡もなく、正直、佐田はホッと
 している。あの宇田川恭子というやたら忙しい女性とは、何度かベッドを共にしたが、
 このところ会っていない。それに、彼女は靖代と違って、遊びと割り切れる女性らしい
 し、佐田もさほど気にしてはいなかった。祐子との間は、やや冷えた状態のまま、安定
 している。かなえは何か気付いているだろうか?時として、父親を見る目に、一種皮肉
 を感じて、佐田はドキッとすることもあったが、それも思い過ぎなのかもしれない。
・貴子を襲った犯人は、一向に見つかる様子がなかった。貴子の事件の後にも、あの辻沢
 美樹が不良グループにお金を巻き上げられ、危うく乱暴されかけた事件があり、学校で
 は、わざわざ臨時の父母総会を開いて、子供たちがその手の場所へ出入りしないよう、
 念を押すことになった。正直、あの美樹という娘には、佐田はあまり同情したいとは思
 わなかった。結局は無事だったし、金をたられたといっても、それはよくある話だ。そ
 れに佐田は、あの美樹が、佐田と柳本靖代のことで、「ゆすり」まがいのことをしたの
 を、忘れてはいない。あの娘には、いい薬になったかもしれない、と佐田は思っていた。
・貴子の声が震えた。「あったことはあったことなんですもの・・・。今さら、なかった
 ような顔はできません。私を見て。今まで通りに、ちゃんと見てください」涙声になっ
 ていた。佐田は、胸を締め付けられる思いだった。この子は、何と残酷な目に遭い、そ
 して、それをけなげに乗り越えようとしていることだろう!靖代もまた、年齢的には大
 人でも、男を知らず、恋に関しては少女そのものだった。俺は、この娘に暴行した奴と、
 どう違っていたのか。貴子が、歩み寄ってくると、佐田の胸に顔を埋め、しっかりと抱
 きついた。戸惑いながら、佐田は貴子の好きなようにさせておいた。静かに泣いている
 かのようで、胸の辺りが冷たく感じられた。 
     
誘われて
・虚しかった。こんな気持ちになるとは。予想さえしていないことだった。充たされるこ
 とが、こんな虚しいものだとか。理屈に合わないことのようだが、これが現実なのだ。
 長い間、夢見てきた。あの少女を自分の下に組み敷き、思いのままにする瞬間を。まだ
 誰の手も触れたことのない少女の肌を、この手で愛撫する、その感触を。それは積もっ
 たばかりの新雪に、初めての足跡を印す時のように、新鮮で、誇らしく、すばらしいも
 のになるはずだった。しかし、今はどうだ。あの前と、少しも変わらない苛立ちに悩ま
 されている。まるであんな少女など、いなかったように。
・そうなのだ。湯川貴子は、俺のものになった瞬間、「過去からも」消えてしまった。そ
 してもう、何に価値もない、「その他」の大勢の一人に、なってしまった。もちろん、
 貴子は今も美しいが、その美しさは、もはや俺の心を少しも動かしはしない。誰かが必
 要だ。誰か、俺の渇きをいやしてくれる娘が。彼の前には写真があった。何十枚という
 写真。望遠レンズで捉えられた少女たちは、みんな、写されていることに気付かず、飛
 びはね、大笑いし、駆け回っている。どの少女にも、青春という限られた時間の中にだ
 け見られる輝きが、不思議なオーラのように宿っている。いや、少なくとも彼の目には、
 そう見えるのである。
・彼の目が、一枚の写真に止まった。そうか。この娘でもいい。美少女ではないが、はつ
 らつとした若さを、これほど体中で現わしている娘は少ないだろう。あの若い、しなや
 かな体をこの手で・・・。彼は、少しためらってから、その一枚を、別にしておいた。
 佐田かなえの写真を。
・靖代は、長倉がどういうつもりでデートに誘って来るのか、少し不安になっていた。も
 う何度も出歩いて、長倉は靖代にキス一つ、したことがない。腕を組んで歩くぐらいの
 ことはあるが、それ以上は決してしないのである。佐田との恋、あれが「恋」だったの
 かどうか、を、経験している靖代には、長倉の「おとなしさ」は信じられないくらいだ
 った。長倉は、「大人同士」の付き合いを、求めているだろうか?
・その「可愛い」柳本靖代が、どんなにか激しく佐田を求めて来たか。靖代が結婚する。 
 それは嫉妬だった。あの小さなん、かぼそい体を、他の男が抱くのだと思うと、思いが
 けない苛立ちが、佐田の中からふき上げて来たのである。


・かなえは、角を曲がったところで、ちょっと足を止めた。赤いスポーツカーが停まって
 いて、そのそばで鞄をさげたまま、三人の女の子が集まっている。同じ学校の子。一人
 は、辻沢美樹だったのだ。声をかけられるのもいやだったが、引き返すわけにもいかず、
 少し足を早めて、通り過ぎようとした。しかし、美樹が、かなえのこと見逃すわけがな
 い。「ねえ、もう帰るの?」「ねえ、かなえ、知ってる?」「あんなのお母さん、年中
 うちのママと出歩いてんのよ」かなえは、何とも言えなかった。母がこのところ、遅く
 帰ることが多いのには気づいていた。「お父さんよりはましか。あんたも大変ね」「私、
 見たことあるのよ」「あんたのお父さんが、柳本先生と抱き合っているところをね」
 かなえの顔から血の気がひいた。父の浮気の相手が、まさか自分の知っている人だとは
 思わなかったのである。「もっと凄いことがあるのよ!」車も動き出していた。美樹が、
 窓から顔を出して、大声で言った。「貴子を強姦したの、あんたのお父さんなのよ!」
 かなえは足をを止めた。あまりにひどい言葉だった。
 
追い詰められる
・靖代は、戸惑ってた。暮れの街は、どことなくせわしく、それでいて、人が溢れて、華
 やかだった。どこへ行くんだろう?靖代は、冷たい風も、気にならなかった。今、長倉
 と腕を組んで歩いているのは、楽しかった。しかしこの道は・・・。佐田と入ったホテ
 ル街へと続く道なのである。長倉は、それと知っていて、歩いているのだろうか。もし、
 そうなら、どうしたらいいだろうか。もちろん、長倉が佐田と自分とのことを知ってい
 るわけはない。
・靖代は、言わなくてはならない、と思った。隠しておいてはいけない。「私、ああいう
 所へ入ったこと、あるんです」と、靖代は目を伏せて、言った。「妻子ある人としばら
 くお付き合いしていたんです。でも、もうはっきりと別かれたんですけど」目を上げる
 のが怖かった。失望した、哀しげな目が、自分を待っているではないかと思ったのだ。 
 「今、何でもないなら、僕はきにしません」靖代は嬉しかった。このまま、ホテルに行
 って、抱かれてもいい、と思った。しかし明日はいつも通り、学校がある。暗い道だっ
 た。靖代は抱き寄せられ、キスされた。心がときめいた。自然で、あくまで当たり前の
 ようなキスだった。
・タクシーに乗って、佐田祐子は行先を告げるのに、何度も言い直さなくてはならなかっ
 た。言葉が出て来ないのだ。身体が震えて、止まらなかった。酔ってさえいなければ、
 あんなことにならなかった。あんなことには・・・。辻川京子の誘いで、内輪の忘年会、
 ということだったので、祐子は行ってみた。以前なら、そんな場には出るのもいやだっ
 たろう。しかし、このところ、祐子は出歩くのが快感になっていた。外には、こんなに
 刺激的な世界がある!辻沢京子に対しては、いくらかの抵抗もあったが、それでも祐子
 の外出の足を止めることはなかった。しかし、大方は、観劇と美術展とか、祐子にして
 も若い頃はよく出かけたようなもので、今夜のようにアルコールの出るパーティは少な
 かった。もともと強くもないのに、ウイスキーなど飲んで、気分が悪くなり、そばにつ
 いていてくれたのは、京たちがマーティ用に呼んだ、若い男性たちの一人だった。職業
 的なホストというわけではない。アルバイトの大学生らしい男の子がほとんどで、結構
 器用に中年の奥さんたちの相手をして、踊ったり、おしゃべりしたり、カラオケでデュ
 エットしたり、うまく楽しませていた。「タクシーを拾ってあげますよ」と、一緒につ
 いて来たのは、気分が悪くなった時に、心配してくれた青年だった。祐子派、しっかり
 と手を握られ、カッと顔が熱くなって、何もわからなくなった。気が付いた時、どこか
 のホテルのベッドに、一人取り残されている自分を見い出したのだった。男の方は姿を
 消していて、祐子のバックの財布には、帰りのタクシー代、ぎりぎりしか残っていなか
 った。夢中でシャワーを浴び、体をタオルでこすって、逃げるようにホテルを出てきた
 のだ。祐子は、涙が溢れ出るのを、止めようともしなかった。何か感じていられること
 が、まだ救いだったのである。タクシーは、夜の道を、いつまでも走り続けて、家はひ
 どく遠く感じられた。
 
空白
・かなえは飛び立つように、学校を出て、バス停の方へと急いだ。学校の周囲は、薄暗く、
 家はあるのだが、道から奥へ引っ込んでいる。腕時計に目をやりながら、かなえは足を
 早めた。それを見守る影が、静かにかなえの後ろから、歩き始めた。バスは二十五分も
 来ない。かなえは、たぶん歩こうとするだろう。その男は、それを当てにしていたのだ。
 かなえがバスの時刻表を見て、少しためらってから歩き出した。男は息をついた。呼吸
 は、すでに荒くなっていた。
 
悪夢の終わり 
・かなえは思い出した。貴子があんなひどい目に遭ったのは、バスに乗ることをやめて、
 つい面倒だから、と歩こうとしたからだ、ということを。もちろんここは学校の近くだ
 し、大丈夫だとは思うが。電話ボックスがあった。かなえは、もう一度家に電話を入れ
 ることにした。
・そうだ。二十分やそこら、待っていても、どうってことない。それに、歩いてかかる時
 間と、バスで行く時間の差を考えたら、結局は十分と違わないはずだ。電車一本遅れる
 くらいである。人間って不思議なものだ。少しずつでも目的地に近づいていると思うと、
 安心できるのだろう。結果として、待っている方が早くても、だ。「急がば回れ、だ」
 と、電話ボックスを出て、かなえは呟いた。
・男にとっては計算違いだった。まさか、かなえが気を変えるとは思わなかったのだ。し
 かも、バス停へ向かって、ということは、自分の方へ戻ってくる。男はあわてた。姿を
 隠すにしても・・・。選びようがなかった。目の前の家の玄関先へと駆け込んで、傍の
 茂みの中にかがみ込んだ。この家の誰かが気付かなければいいが。かなえが、元気よく
 目の前を通り過ぎて行く。バスを待つつもりなのだ。ともかく、見られずにすんだ。男
 はホッとして息をついた。汗が背中を伝い落ちる。この家の人間にも気づかれずにすん
 だようだ。しかし、今日はやめた方がいい。
・しかし、男の中の苛立ちは、煮えたぎるようで、とても抑え切れるものではなかった。
 危ない、と思うだけ、切迫した欲望が燃え上がるのだ。あの少女は、今日俺のものにな
 るのだ。そう決まっているのだ!男は自分の中の、別の力、別の意志に突き動かされる
 ように、歩き出した。かなえが、七、八メートル先を歩いて行く。たぶん自分の足音が、
 耳に入っているだろう。今にも振り向くかもしれない。バス停まで戻ったら、もう機会
 はない。その前に・・・その手前で、けりをつけてしまうしかない。しかし、顔を見ら
 れることになる。どうする? 迷っていた。決心がつかないまま、かなえとの距離は数
 メートルに縮まっていた。かなえは振り向いた。そしてホッとしたように微笑んで、言
 った。「何だ、長倉先生」
・長倉の手が、かなえの腕をいきなりぐっとつかんだ。長倉はかすれた声で言った。「湯
 川をやったのは、俺だ」次の瞬間、口を長倉の手でふさがれて、かなえは一気に道端の
 茂みへ向かって押しまくられていた。鞄が落ち、足がもつれて、茂みの奥へ倒れ込む。
 かなえは必死で押し戻そうとしたが、体重をかけてのしかかって来る長倉を、押しのけ
 ることができなかった。    
・長倉がかなえの上にまたがった。かなえは体をよじって逃れようとする。手の甲でかな
 えは顔をぶたれた。頭がしびれるような痛み。しかし、誰かが通りがかってくれたら。
 「助けて!」かなえは大声を上げた。「誰か来て!」長倉はあわてたようだ。たぶん、
 一度叩いてやれば、ショックで黙ると思ったのだろう。「人殺し!助けて!」かなえは
 叫び続けた。長倉は、怒鳴った。かなえは、両足の間に長倉の片膝が割り込んでくるの
 を知って、ゾッとした。
・長倉が、両手でかなえのブラウスを引き裂いた。長倉はかなえの口をふさぐべきだった
 のだ。かなえは、胸をまさぐる長倉の、汗でじっとりと濡れた手を、直接肌に感じて、
 身震いした。こんな奴にやられてたまるか!かなえは、長倉の顔に爪を立てた。思いき
 りかしむしってやった。長倉はひるんで、両手を上げて防ごうとする。かなえは力一杯、
 長倉の体を突き飛ばした。長倉が意外に簡単にひっくり返った。かなえは自由になった
 のだ。
・「助けて!」大声で叫びながら、通りに飛び出し、駆けて行く。バス停に、男の人が二
 人、新聞を見ながら立っていた。「助けて!」かなえは駆けて行った。二人の男は、目
 を丸くして、ブラウスを引き裂かれ、靴の脱げてしまった少女が欠けてくるのを見てい
 た。「襲われたんです!警察を!」長倉が、ふらつきながら、道に出てくると、バス停
 の方にやってきた。「かなえは怯えたように身を縮めた。「大丈夫だよ」体のがっしり
 したその男が、かなえを自分の後ろに隠して、「おい!何だ、貴様は!」長倉は、すぐ
 近くまで来て、やっと男たちに気づいた様子だった。「何かあったんですか」と、長倉
 はポカンとして、言った。「その子は教え子なんですよ、私の・・・」服が乱れ、顔に
 は引っかき傷がある。  
・「しかし、教師がねえ。どうなっとるんですかな、世の中は。ま、警官でも妙なのはお
 りますがね」中年の刑事は頭をかいて言った。
・佐田は、柳本靖代が、青ざめた顔で入ってくるのを、目に止めた。靖代も、すぎに気づ
 いて、ハッと足を止めたが、やがてゆっくりと近づいて来た。靖代の目から涙が溢れた。
 「申し訳ありませんでした。何もかも・・・」祐子は立ち上がると、「先生。そんなこ
 と、いいんです。主人も悪かったんです。先生、お若いいんですから、やり直せますわ、
 これから。」祐子の言葉に靖代は顔を上げ、手の甲で涙を拭った。「みんな、すぐに忘
 れます。頑張ってください、先生」佐田は、祐子の言葉に胸を打たれていた。

水には水を
・祐子は、ウトウトしていた。電話が鳴りだした。起き出して、電話に出るのに、少し努
 力を要した。「はい、佐田でございます」「奥さんですね」と、若い男らしい声。「い
 つかパーティでご一緒した者です」「忘れてないでしょ?帰りにタクシーで送って」
 「もしお暇でしたら、出て来られないかと思いましたね」人の財布からお金を抜いて行
 ったくせに。「結構ですね。じゃ、この前のホテル、憶えていますか」実際は憶えちゃ
 いないのである。「あそこで・・・一時間後に」「いいわ、飲み物でもとって、待って
 て」
・電話を切って、祐子は笑ってしまった。中年女は俺の魅力に参るんだ。そう言いたげな
 口調だった。「そう馬鹿でもないのよ、女は」また電話して来るとうるさい。祐子は仲
 のいい奥さんに電話した。「ね、デパートに行くんだけど、一緒にどう?」「あら、珍
 しいわね」「若い男がデートに誘って来てね。うるさくて仕方ないの」「まあ!」二人
 は大笑いした。祐子は支度して、家を出た。夜のおかずも、デパートで買って来ましょ。
 あの男は、ホテル代と飲物代、パーにするわけだ。  
・「私も、二、三時間は大丈夫なの。お詫びに、ホテルへ、どう?」「私がもつわ。これ
 きれで、お会計ってことかな」もう、散々こりているはずなのに、今、佐田の中に、恭
 子の誘いに動かされるところが、全くないとは言えなかった。しかし、やっと戻した生
 活が・・・祐子と、かなえとの生活が、佐田を「はみ出させない」のだ。それは自分を
 閉じ込める、目に見えない「檻」かもしれなかったが、全く何物にも縛られていない人
 間が幸福かどうか。それは別の問題なのだ。恭子は、池の方へ向いて、流れ落ちる水を
 見上げて立っていた。佐田は足を早めると、後ろからドンと恭子にぶつかった。前のめ
 りになった恭子は、こらえ切れずに、池の中へ突っ込んだ。派手な水しぶきが上がる。