太陽の季節  :石原慎太郎

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この作品は、今から61年前の1955年に発表されたもので、芥川賞を受賞しているよ
うだ。1956年には映画化されている。
裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、感情を物質化する新世代を描いた作品
と言われているようだが、「感情を物質化する」とはどういうことだろうか。私にはいま
ひとつ理解できない。
この作品が発表されたとき、「健康な無恥と無倫理の季節! 真の戦後派青年像は生れた」
というキャッチコピーが付けられたようであるが、そういうことを賞賛するような世の中
の風潮は、敗戦からきた反動だったのだろうか。
この作品についてある英文学者は「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪く
なるほど克明に描写した作品」と酷評したと言われているようだ。
私は以前、テレビ放送されたこの映画を見たことがあったが、なんだかさっぱりわけのわ
からない映画だなという感想しか持てなかった。今回、原作を読んだら、少しは理解が進
むのかなと思って読んでみたのだが、やはり、なにがなんだかさっぱりわからない、嫌な
気持ちだけが残った作品であった。


・龍哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持ちと同じようなものがあった。
 それには、リングで叩きのめされる瞬間、抵抗される人間だけが感じる、あの一種驚愕
 の入り混じった快感に通じるものが確かにあった。
・拳闘を始めて以来、日を重ねるに従って彼はこのスポーツに熱中した。打ち合う時のあ
 の感動に加えて、試合の時に自分が孤り切りであると言うことが彼の気に入ったのだ。
・番が来てリングに登った龍哉は、その日割に多かった観客の中から容易に先日知り合っ
 たばかりの三人組を見ている。揃って派手な着飾りのように、観客の中でそのブロック
 だけが際立って華やかに見える。おまけに英子は着物と着ていた。
・「拳闘を観に来るのに着物を着てやがる。花見じゃあるまいし」と龍哉は言った。セカ
 ンドの江田が片目をつぶると、「あれだろ」
・審判が選手の名を呼んだ時、三人は揃って又彼の名を呼んだ。今までの試合にこんな経
 験の無かった龍哉は、予期しないものが自分だけの勝負に割り込んで来たような気がし、
 不興気に眉を寄せながら、それでも片掌を挙げて答えたのだ。
・二回目早くもグロッキーとなった相手が、倒れかかって彼に抱きついた時、昨年受けた
 傷の上を相手の頭が烈しくタッチングした。そのまま二人を分けた審判は、彼のTKO
 勝ちを宣したが、彼は相手を睨みつけながら片掌で傷をおさえた。口を開いた傷から血
 が眼の中へ流れ込んでいる。
・応急の手当てをして着替えると、病院へ廻るために江田に送られて皆より一足先にジム
 を出た。出口に英子達が待っている。
・「今日は貴女のお供も出来ませんよ。これから一寸病院へ行くんです」「あれ。それで
 したら私のお車をお使いになって」英子はさっさと彼を助手台に乗せるとギアを入れた。
・五日前の土曜日、東京へ出直した彼のグループが持ち合わせた金を調べると案外少なく、
 五人でとても思いきり遊べないので、今日は一つ女給相手は止めにして、何処は素人の
 お嬢さんとでもと言うことになった。ここらをふらふらしている女の子を目にとまった
 順に誘って見ようと言うことに決まった。
・だがそうは言っても、いざ誰が最初に行って頼むかと言う段になると、妙に尻込みして
 やる者が無かった。そこで千円札を引いて、番号の少ない者から順にその役を勤めるこ
 とに決まり、そのトップを龍哉と西村が引き当てたのだ。
・並木通りの角で三人同じ年頃の、それも揃って派手に着飾った英子達を西村が見つけた。
・二人は駆け出した。追い着いた時の勢いは何処へやら、龍哉の掛け声は小さかった。
 「あの、もしもし、一寸失礼ですが・・・」怪訝そうに振り向く三人の中で、英子が荷
 物を持ち変えながら、ちらっと笑って、「何でしょうかしら」龍哉はそれだけで上がっ
 ていた。
・その夜龍哉は殆んど英子を独占した。十一時近く、彼女達のためにもそろそろ腰を上げ
 ようかと言う佐原の声に、三人は揃って言ったのだ。「なんだかもう帰りたくなくなっ
 ちゃったわ」
・英子を連れてフロアに出た龍哉を、曲の切れ目に一寸と英子は誘って空いていたテーブ
 ルに坐ると、「これお渡ししとくわ。車代よ。皆さんすっからかんじゃないの」と、気
 づかれぬようにハンカチに包んだものを渡した。
・今になって龍哉は、あの晩別れ際に車の窓から英子が、「そのうち試合を拝見に行くわ」
 と叫んだのを思い出す。
・病院に彼を届けると英子達はあっさり帰って行った。
・小さな傷だったが、後々のために綿密な治療で、彼は一時間以上寝かされていた。
・病院の門を出るといきなり後ろからけたたましいクラクションが聞こえた。車の走って
 来る様子も無かったのに、と彼は横へ飛びのきざま振り向いて睨みつけた。止まってい
 た車がゆっくりと動き出し中から英子が手を振った。
・龍哉は助手台に坐った。英子は洋服に着替えていた。彼には英子のこうした変わり身の
 早さが好もしかった。言わばこの待ち伏せは、先程の軽い失望を見事に満たしてくれた
 のだ。
・彼女と一緒にいて感じるのは、英子が恐ろしく顔の広い女だと言うことだ。一寸した遊
 び場で、彼等は必ず一人二人の男や女に挨拶を受ける。彼等の対する英子の返礼は冷淡
 であった。
・龍哉にとって今までの数多い女との交渉のうち、たとえその女達の殆んどが所謂玄人で
 あったにせよ、彼は肉体の歓び以外で酔ったことはなかった。
・彼にとって、この猥雑な都会の中で、恋などと言うものは考えも及ばぬことであった。
 仮に一瞬でもそうした憧れを彼が抱いたにせよ、龍哉の周りを通り過ぎた女達は、玄人
 であれ素人であれ、少年の心のあどけない芽をたちまち無慚に摘み取ってしまうだけで
 はなかったか。
・この年頃の彼等にあっては、人間の持つ総ての感情は物質化してしまうのだ。最も大切
 な恋すらがそうではなかったか。大体彼等のうちで恋などと言う言葉は、常に戯画的な
 意味合いでしか使われたことがない。この言葉は多少くすぐったく、馬鹿馬鹿しい余韻
 しか持ち得なかった。父と子の情愛にしろ、友情にしろ皆同じではなかろうか。
・がただ、彼等は皆母親には甘えっ子であった。彼等は自分一人の母だけではなく、親し
 い友人の母にも甘えることが多かった。かつて母親を離れた彼等の視線が、外側の世界
 でとらえた女達は知らぬ間に彼等をいたく失望させ、再び彼等はおふくろの所へ逃げ帰
 った。がその途中、大抵の者がいわゆる落とし物として女を知って来るのだ。こうした
 ことが彼等の奇態な母親への甘ったれ振りを育てたのだろう。
・他に女をつくって家を空けた父への面当てに、若い愛人をつくった母親の顔を足で蹴と
 ばしたと言われる友人は、驚愕と半ば羨望をもってむかえられ、何とはなしに一番の大
 人扱いを受けていた。がこうした感情の中に、少しも非難の影が見られぬと言うことは
 奇妙なほどである。
・友情と言うことにせよ、彼等の示す友情はいかなる場合にも自分の犠牲を伴うことはな
 かった。その下には必ず、きっちり計算された貸借対照表がある筈だ。何時までたって
 も赤字の欄しか埋まらぬ仲間はやがては捨てられて行く。彼等の言動の裏には必ず、こ
 うした冷徹で何気ない計算があった。彼等は日常、これを大きく狂わす恐れのある大そ
 れた取引はしようとはしなかった。
・女、取引き、喧嘩、恐喝と彼等の悪徳が追求される題材は限りがない。それは決して、
 若気の至りなどと言うものではなかった。恐ろしく綿密に企まれた巧妙極まりない罠が
 あった。人々はこれに、ただ若年と言う曖昧なヴェールをかぶせて見て見ぬふりをする
 のだ。
・もし大人達が、自分等の造った世界を壊されまいと後生大事にするなら、彼等が恐れな
 くてはならぬのは共産党なんぞでは決してないはずだ。が実際はそれを恐れてはならな
 い。彼等はこの乾いた地盤の上に、知らずと自分の手で新しい情操とモラルを生み、そ
 してその新しきもののうち、更に新しい人間が育って行くのではないか。
・人々が彼等を非難する土台となす大人達のモラルこそ、実は彼等が激しく嫌悪し、無意
 識に壊そうとしているものなのだ。彼等は徳と言うものの味気なさと退屈さをいやとい
 うほど知っている。大人達が拡げたと思った世界は、実際は逆に狭められているのだ。
 彼等はもっと開けっ拡げた生々しい世界を要求する。一体、人間の生のままの感情を、
 いちいち物に見立てて測るやり方を誰が最初にやり出したのだ。
・恋などと言うものにしても、彼はすっかり諦めることにしていた。それを考える時龍哉
 は、何故か田舎の森の中を裸で飛び廻る自分とあの女しか想像することができない。そ
 の女をどのようにはっきり形造って良いのかは当の自分にもわからないのだ。もはや、
 年下で、あどけないと言うようなことは問題にならなかった
・それ故、彼が英子に求めたものはそんな大それたものでは決してなかったはずだ。大体
 彼は、かつて交渉した数多い女達に何も求めはしなかった。彼が通って来た世界の女達
 は、所謂玄人も素人も、彼が女に求めるべきと信じた夢を一つ一つ壊しただけであった。
 だから、彼が新しい女を追い廻すのは、女達が新しい流行を追ってやたら身の飾りを取
 り替えるのと変わりはないのだ。果たしてあるデザイナーが言った如く、流行の裏には
 女の自覚なんぞ有り得るものだろうか。その裏にあるのは果てしない欲望だけではない
 のか。女達が美しく身を飾ろうと眼移りさすように、龍哉も新しい女を追っていたのだ。
・確かに、時と場合によっては、女は彼等にとって欠くことの出来ぬ装身具であった。彼
 等は新しいドレスを見せ合う女達のように、互いに新しい女を見せ合った。その場合、
 仲間が誰かがかつて自分の知らぬ間に交渉した女を連れ合わせた者は、時代ずれして短
 い背広を着こんだ男のように惨めであった。
・彼は新しい女を抱く度に退屈を感じる。が退屈と倦怠の底にあるものは貪欲な嗜好に外
 ならぬのだ。事実女に対する龍哉の愛撫は、えげつないほど凄まじいものだった。その
 ような龍哉を夢中にさせたのは、英子の持つ何であっただろうか。
・夏に入り前、葉山にあったサマーハウスの準備にやって来た英子が、ついでに逗子の龍
 哉の家を訪れた時、彼は英子をヨットに誘った。もう東京に帰るのは面倒だから今夜は
 葉山に泊まるというので、彼は英子を自宅に連れ戻すと一緒に夕食を取り風呂をすすめ
 た。
・風呂から出て体一杯に水を浴びながら龍哉は、この時初めて英子に対する心を決めた。
 裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は障子の外から声を掛けた。「英子さん」
・部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起した陰茎を外から障子に突き立てた。障
 子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたの
 だ。本は見事、的に当たって畳に落ちた。その瞬間、龍哉な体中が引き締まるような快
 適を感じた。彼は今、リングで感じるあのギラギラした、抵抗される人間の喜びを味わ
 ったのだ。
・彼はそのまま障子を開けて中に入った。英子は坐ったまま片手をついて彼を見上げてい
 る。口元は笑っていたが、龍哉の行き当たった彼女の瞳は、かつて見たことのないキラ
 キラした輝きを持っている。それは龍哉の内に何かを見極めようとするかのように、物
 問いたげで挑むような熱っぽい輝きがあった。彼はその眼差しに狼狽したがそれを美し
 いと思った。
・彼が手をおろして振り向きざま、英子を彼が抱きしめていた。抱きあげたまま、カーテ
 ンを跳ねのけて運んだベッドの上で英子は声を立てて笑った。「好きだ」と龍哉は初め
 て女に言ったのである。が、やがて彼は英子に敗れたのだ。
・今まで彼がどんな女にも抱いたことのない初めての感動が彼の手を狂わせたのだろうか。 
 或いは、挑んだ龍哉に、応じた英子の激しさとスピードの内に彼は自らのペースを失っ
 たのか。龍哉の求めるものを英子は彼よりも高くかざしながら引き込み、龍哉は彼女の
 手元にとらえて貪欲に踏みにじる前に体をかわされ、自分が彼女の網の内に俘虜となっ
て行った。奪い尽くせずして奪われたまま彼は終わったのである。
・その日から三日続けて二人は逢った。二日目、彼はもう英子との勝負を忘れて翻弄され
 た。が最後の夜、彼女の眼の下に青く黒い隈を見出し、彼は自分の挽回のポイントと思
 った。
・それから一週間経って彼は、ナイトクラブで見知らぬ男と一緒にいる彼女を見つけた。
 英子は彼に向って目で笑い頷くと又男に向って囁いている。龍哉は自分の連れている女
 を忘れ、かっとした。あれは以前、彼を連れた英子が、他所で挨拶する男達に投げた眼
 差しと同じものではなかったか。彼は生まれて初めて女の為に嫉妬したのだ。が自分で
 はそれに気づかなかった。
・あの時、英子にとっての龍哉は、彼女が今まで交渉してきた男達の同じような男の一人
 ではなかっただろうか。英子が身をまかせた男達は、終わってみれば結局、皆同じでし
 かなかった。あの陶酔に包まれた世界では、多少の相違はあれ、彼等はただの男でしか
 なかった。英子には彼等からそれ以上を求めることができない。
・三年ほど前、父も許しかけていた相愛の男に、初めて身をまかせる約束で湯河原のホテ
 ルに行く時、家人には気づかれまいと二人は別々に家を出て宿で落ち逢う約束をした。
 先に着いた英子が待つ間もなく、小田原の病院から電話がかかり、男が途中東海道線の
 踏切事故で死んだことを知らされた。彼が死ぬ前に英子と宿の名を言い残したのだ。車
 を飛ばして向う途中、列車と衝突した現場で、引き裂かれて潰された男の車を見た時、
 彼女は自分が愛する男を亡ぼさなくてはならぬ女だと言う妄執に襲われた。
・ずっと幼い頃、おませであった彼女が、二人の区別なく子供心に恋をした従兄の兄弟は、
 二人とも戦争で殺されていた。自分を与えんと願う男は皆死んで彼女を裏切ったのだ。
 以来、英子は与えずして奪うことのみを決心した。
・結婚したての友人の兄を彼女は初めて誘惑した。恋愛結婚したと言う男の情熱が妬まし
 かったのだ。男は初心な新妻を忘れて、実際はこれまで何ひとつ知らぬ英子に夢中にな
 った。その新妻が彼女の存在に気がついた頃には、英子は男と別れていた。
・そうした男の経歴はやがて、体を抱かずして相手を愛する女の性を英子から奪った。彼
 女は求めるものを、求める術のためにますます見失っていったのだ。
・都会の生む奇妙な時間は、奇遇と言う形でさまざまな男と女を結んでは離して行く。英
 子はその一人として龍哉に行き当たった。ただあの時だけは、彼女が誘われたのだ。彼
 女はその事実を大切に思う。それ故知り合っから二カ月余、英子は自分からどんな誘い
 もかけなかった。それは知らず識らずのうちに、この邂逅に彼女が何かを期待した所為
 ではなかったろうか。
・が、やがて彼から挑まれ抱き敷かれた時に、英子の悲しい習性は、ただ一瞬、己に酔お
 うがために、失われていた女の性を取り戻すことなくまたしても、ひたむきに奪って与
 えようとはしなかったのだ。
・彼は所謂助平な男では決してなかった。結局、龍哉が女を追うのは、女を屠ること自体
 のためなのだ。彼の満足はそこにあった。それ故、バーやキャバレーで、気の合った女
 から逆に口説かれた場合、彼は知らぬふりをして乗らなかった。
・やがて夏がやって来た。東京の遊び人達は何処かの高原へ出かけるか、さもなくば湘南
 の海岸に 彼等の戦場を移すのだ。英子は葉山の別荘にやって来た。元は華族の別荘だ
 った海浜のクラブやホテル、或いはヨットの遠乗りに二人は前よりもますます一生に遊
 んだ。がその一方、龍哉は着実に戦績を収めている。デパートの売り子、雑誌では余り
 お目に掛からぬファッションモデル、美しくはあっても、彼に言わせればてんで頭の悪
 い大部屋の女優、等々。
・八月に入ってのある日、夕凪の来る前に龍哉は英子を誘うと、酒と簡単な夕食をヨット
 に積んで沖へ出た。
・両手で肩につかまりながら、英子をいきなり彼は抱きすくめると唇を捜した。固く抱き
 合ったまま接吻する二人は、足で水をかくのを忘れそのまま沈みかかり、慌てて離れ、
 浮き上がった。二人は声をたてて笑った。
・ヨットに戻るとその周りを二人は泳ぎ廻った。互いに両側から潜って船底で行き交う時、
 眼の前を英子の白い足がひらひらと通り過ぎて行く。
・やがて甲板に這い上がると二人はセールカンヴァスの上に転がり、息を切らせながら唇
 を合わせた。龍哉の濡れた頭から、潮水が額に伝わり頬を伝わって二人の唇に流れ込み、
  二人は潮辛い接吻を何度も繰返した。二人は同時に相手の海水着に掌を掛けた。濡れ
  た水着は肌に絡んで離れにくかった。互いに引き切らんばかりに焦りながらそれでも
  唇は離さなかった。
・ヨットは次第に均衡を持ち直しながら、ゆらゆら揺れている。それは二人にとってかつ
 て知り得なかった、激しい陶酔と歓楽の揺り籠ではなかったろうか。英子も龍哉も、そ
 の時初めて互いの体を通して、捜し求めていたあの郷愁のあてどころを見出したのだ。
・あの夜から英子は変ったのだ。彼女はあの夜初めて孤りきりではなかった。その瞬間、
 龍哉をむさぼりつつ、英子は自らのありたけを与えることが出来た。彼女は思った。
 ”私はやっと愛することが出来たんだわ”と。
・人間にとって愛は、所詮持続して燃焼する感動で有り得ない。それは肉と肉とが結ばれ
 る瞬間に、激しく輝くものではないだろうか。人間は結局、この瞬間に肉体でしか結ば
 れることがないのだ。後はその激しい輝きを網膜の残像に捕らえたと信じ続けるに過ぎ
 ぬのではないか。
・少なくとも英子は、あの夜初めて龍哉と結ばれることが出来た。それによってようやく、
 彼女は自分が女であることに自信を持つことが出来たのだ。以来、彼女は愛撫への渇望
 と感じた。そしてそれが龍哉への愛情となった。 
・が、彼女は余り有頂天になり過ぎはしなかったか。その結果、多くの女がする過ちを英
 子も冒した。彼女は肉体の陶酔以外の時にも彼を手元に捕らえようとしたのだ。それは
 愛について彼女の明らかな誤算であった。賢しき彼女はそれを知りつつも、そうせざる
 を得なかったと言うのなら、彼女は何と性急に傷ましい変り方をしたのだろう。が龍哉
 にはそんな女のいじらしさは理解できない。彼はそこまで変わってはいなかった。そん
 な英子に彼はつけ込んだのだ。
・龍哉にとっても、あの夜の出来事は予測していたこととは言え、異様に生々しい経験で
 はなかったろうか。彼も初めて女を知ったと言えるのではないか。残忍に踏みにじる代
 りに、彼は英子の陶酔を己のそれとして彼女をリードして行った。水に濡れた甲板で抱
 きしめた英子はかつての系列に入る女の一人ではなかった筈だ。
・やがて、英子は龍哉の行く所何処へでも姿を見せるようになった。彼には段々それが煩
 わしくなった。龍哉につきまとう英子は、仕舞に彼のふざけた女出入りにまで嫉妬し出
 したのだ。
・こうして英子に対する残忍な習性が再び龍哉に蘇って来たのだ。英子はそれを以前のよ
 うに跳ね返すことが出来なかった。別荘の英子の部屋で二人が抱き合う時でも、もはや
 彼はあの感動に酔うことなく、根限り英子を踏みにじった。彼女は予期せぬこの龍哉に
 悲鳴を上げることさえあった。
・英子に抵抗するものが無くなった今、彼がなお彼女に執着するのは何故であろう。この
 残忍さはただ英子だけに向けられ、その裏にあるものは当の彼にもわからなかった。あ
 の夜、英子に抱いた感動を彼がこういう形でしか現し得ないとしたら、それは何という
 ことだろうか。自分の悪戯が前と変わって彼女の恐ろしく堪えるのを見ると、彼はます
 ます手の込んだあくどいいじめ方を考え出した。
・彼のやっていることは、勝利の感慨を一層どきつくするための、とどめの一突きのよう
 なものではなかったか。が彼女を切りきざむように、彼は幾度もこれを繰返した。龍哉
 はその度満足して思ったのだ。”やはり、俺もこいつを嫌いじゃないんだ”
・この残忍な方法は、それでも狂気じみた愛の一つであるのだろうか。いや、彼はそこま
 で思ってもいないのだ。ただ、龍哉は、自分の好きな玩具を壊れるまで叩かなければ気
 のすまぬ子供に過ぎないのではなかろうか。
・その夜、隣りの若い外人夫婦も交えた賑やかな晩餐の後、皆は相手を選ぶとカヌーを漕
 いだりモーターボートに乗ってそれぞれ、岩に隔たれ陸伝いには行けぬ砂浜に上陸した。
 龍哉はいち早くサリーを連れ、西村のカップルを残してモーターボートから飛び降りる
 と、「いい加減経ったら来てくれ、置いてけぼり食わせるなよ」
・「私こわいわ」龍哉は女を抱くと花の咲いた野芝の上に運んだ。彼は女が初めてなのを
 知った。サリーは泣いている。「なんだい。今さら泣いたりして」「だって、こんなこ
 とになるなんて思わなかったんですもの。私皆に誘われて来たのよ。あの女達とは違う
 のよ」「違やしねえよ。お前も良いところあるな」英子への面当てにも、女が泣いてい
 るのが心持ち良かった。
・モーターボートに乗りそびれた道久は、思いがけなくその夜、英子を引き当てたのだ。
・翌る日、サリーは人一倍はしゃいでいたが、龍哉と眼が合うと頬を染め、許しを希うよ
 うな目つきに変わった。英子はそれを見逃さなかった。
・その日道久は弟を呼んで言ったのだ。「英子は俺が預かったぜ。奴はもうお前にはホレ
 てないよ」「そんなこと無いさ。一晩兄貴と寝たからって、なに言い訳しなくたって良
 いんだ、今だって俺が誘えば絶対について来るさ」「そうかな。良し、じゃあ賭けよう」
・その晩、龍哉が勝ったのだ。道久は仕様なしにサリーを誘ったが、英子と消えた龍哉に
 怒った彼女は道久を着き飛ばした。翌朝泣きそうな顔で彼女は、孤りバスに乗って帰っ
 てしまった。 
・龍哉は英子を女奴隷のように売り飛ばしたのである。彼は口実を作って船で帰って行っ
 た。岬まで見送りながら、英子はあのヨットの中にサリーと言う娘が隠されているよう
 な気がしてならない。そうでなくても二人はしめし合わせているのではないだろうか。
・龍哉がいなくなってはもうこのお芝居に用はない。彼女は手を返して道久を邪慳に扱い
 出し、やがて言った。「わたしもう帰るわ。つまんないもの。龍ちゃんとこへ行って驚
 かしてやろうかしら」
・道久は二人の間の取引きまで言いかねたが、「行ったってもう無駄だよ。あ奴はもう貴
 女には興味はないだろう。第一奴は約束固い男だよ」「何、その約束って」
・龍哉が帰京の日、彼女は上野まで迎えに行った。「何か変わったことあった。兄貴どう
 「している」「知らないわよ。逢ってないもの。それよりあの約束って一体何なの」
・やがて彼はあの取引きを話したのだ。英子はようやく自分の持ち主の所在を知った。
 「龍ちゃん、それじゃ私売られたの」
・英子の眼に涙を見て龍哉は眼をそらした。「涙は苦手でね」「どうしてそんなに私をい
 じめたいの。本当に、心から私が嫌いになったら貴方はそんなことしないでしょう。貴
 方がその気なら、私は抱いてもらえるまでお金を出すわ。龍ちゃんは未だお金で取り戻
 せる人なのね。でもね、龍ちゃん、貴方は私を売ったつもりでも、結局、私に買われる
 のよ。貴方はそれでも良いの。私は貴方の良いようにするわ」
・十月に入るまで二人の間には音沙汰が無かった。秋の海には、午から変ったゆるい南の
 風が吹いている。落日の大きな帆の影を砂浜にまで延ばしてヨットは進んだ。反転し沖
 へ出るために下手回した時、船が大きく揺れた。英子は急に青ざめ口をおさえた。
・「おい、どうした。気持ちが悪いのか」「良いの、じっとしていて。急に揺れたもんだ
 から」沖へ向いながら不審に顔を覗き込む龍哉に英子は弱々しく笑って言った。「わか
 ったでしょ。赤ちゃんが出来てるのよ。今日もそれを言いに来たの」
・「誰の」彼は残酷な問い方をした。「何を言っているの、貴方の子供よ」「どうかな。
 兄貴のじゃないか」
・「私産んで見たいわ」龍哉の顔を窺うように英子が言った。「じゃあ産むさ。けど困る
 のはお前だぞ。子供が出来たからって急にどうってこたあないからな。子供をダシに使
 うなんか、日頃新しいことを言っているくせに古い手だぜ」
・龍哉に「産め」と言われるとかえって英子の方が不安になった。彼女は四五日して龍哉
 を呼び出すともう一度確かめた。「別に産めとは言わないよ。好きなようにしろよ。子
 供が出来ても悪くないって言っただけだ」
・曖昧な答えに英子がいらいらするのを見て彼は面白がった。元々、子供が欲しいと思う
 彼の心は、通りすがりのウィンドに覗いたネクタイが急に欲しくなる気まぐれのような
 ものなのだ。英子に対する己の気持ちを、赤ん坊に託してどうにかしようと言うほど、
 彼は立派な父親ではなかった。それ故、何時まで経ってもはっきりした態度をとらなぬ
 自分に、彼女がいらいらするのを眺めては、丁度時間潰しに、元々買う気はなくネクタ
 イを長々と選んで見せ、売り子をやきもちさせるのと同じような面白さがあった。彼は
 知らず識らずのうちに、又あの残酷な習性を取り戻したのだ。
・龍哉は英子にはっきりと言い渡した。当然予期していた答えを、気を持たされた挙句、
 今になって聞かされ、英子は寂しそうな顔をして頷いた。
・彼女は入院した。胎児は四カ月を越している。唯の掻爬手術が困難となり、骨格の都合
 で帝王切開が行われた。そして手術後四日、英子は腹膜炎を併発して死んだ。
・友人の幸子から電話でそれを聞かされた時、龍哉は低く笑って言った。「嘘をつけ」
 「本当です。お葬式は明後日だそうです」
・彼は嫌な気がした。かえって、これで一生英子と離れられないような気持ちに襲われた。
・葬式に日、読経の済んだ頃になって彼は英子の家に現われた。受付に名前を言うと構わ
 ずに中に入った。後ろから誰かが中に彼の名を告げている。
・棺の置かれた広間に入ると、華族と居合わせた英子の友人達が振り返って彼を見詰めた。
 咎めるような眼差しであった。龍哉は一人一人を敵意を籠めて見返した。
・花に埋もれて英子の写真が置かれている。写真に向って頭も下げず彼は暫く立っていた。  
 親戚の誰かが、置かれた香の小箱を動かして示した。頷いて香をつまみながら彼は英子
 の写真を見詰めた。笑顔の下、その挑むような眼差しに彼は今初めて知ったのだ。これ
 は英子の彼に対する一番残酷な復讐ではなかったか。彼女は死ぬことによって、龍哉の
 一番好きだった、いくら叩いても壊れぬ玩具を永久に奪ったのだ。つまんだ香を落とす
 と、彼は思わず香炉を握りしめ、いきなり写真に叩きつけた。「馬鹿野郎!」
・額はけたたましい音をたてて滅茶苦茶に壊れた。花籠が将棋倒しに転げ落ちた。動揺す
 る人々に、彼は険しい眼を向けて振り返った。「貴方達には何もわかりゃしないんだ」
 そのまま部屋を出て行く龍哉の眼に、幸子は初めて涙を見た。