尊徳雲がくれ :池波正太郎

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この作品は1960年に発表された短編小説で、「谷中・首ふり坂」という本に収録され
ているものの一つである。内容は、二宮金次郎(二宮尊徳)の青年時代の実話をもとにし
て、多少ユーモラスをまじえて小説化したもののようだ。
二宮金次郎(二宮尊徳)と言えば、以前はたいていの小学校の校庭に銅像があったといわ
れ、多くの人にその名前が知られていた人物であるが、しかし、実際にどういう人だった
かいうと、いままで二宮金次郎に関する本などにはまったく触れたこともなく、小さい頃
から大変な努力をして多くの業績を残した人だという程度のことしか、私は知らなかった。
この作品を読んで、初めて「こういう人だったんだ」とその一端に触れたような気がする。
この作品では、反対派の妨害を受けて事業が上手く進まず、自暴自棄になって女の色に狂
うというようにユーモラスに人間味ある金次郎を描いているが、これも、この著者の、
「人は良いこともするが悪いこともする」「完璧な人間なんていないのだ」という思想が
現れているような気がして、私のような凡人にとっては、なんだかホッとさせられる作品
だった。


炬燵の中のこと
・二宮金次郎が、野州(栃木県)桜町の陣屋を出奔して、江戸に向かったのは、文政十二
 年正月のことであった。
・金次郎は、江戸から真っ直ぐに川崎大師へ向かい、日頃信仰する弘法大師本尊の前にぬ
 かずいてみたが、しかし、絶望と激怒に狂い出しそうな彼の心身は、容易に静まっては
 くれなかった。
・彼女が現われたのは、このときだ。茶店の前までやって来た女は、チラリと、白くつり
 上がった眼で金次郎を見て、すたすたと通用門傍の木立へ入って行った。
・金次郎は狼狽して腰を浮かせた。女の手に剃刀が握られていたのに気づいたからである。
 木立の中で、剃刀を喉に当てようとする女と揉み合い、やっと、なだめすかして連れ出
 すと、小路にある料理旅籠「八百伝」へ、金次郎は女を誘った。
・もともと他人の身上話を聞くのが大好きな金次郎だ。暖かい飯を食べさせ、得意の訓話
 で死を思い止まらせた上、いくらかの金を与えてやるつもり以外の何ものもなかったと
 いってよい。
・女おろくが語るところによると、飲む打つ買うと遺憾なく揃った亭主が、賭博の借金の
 抵当に、わが子を売り飛ばしてしまったという。おろくは、舌ったずな甘ったるい口調
 で、語って泣き、泣いては語る。そのうちに、おろくは何時の間にか炬燵の向う側から、
 じりじりと金次郎の側へ近寄ってきていた。
・我にもなく金次郎が嘆息を洩らしたときには、もうぐったりと、おろくの小肥りの体が
 金次郎の胸元へ吸着して、おろくが肩を震わせて泣くたびに、しめっぽい彼女の手が、
 チラチラと金次郎の骨太い指にさわるのである。
・おろくは、二十四、五になるだろうか。眼が大きいのはいいとしても、低い鼻も上向き
 だし、丸井顔に、眉も唇も思い切った均衡の破れ方でおさまっている。しかし、ひっつ
 めた髪の下からのぞいている襟足には、たっぷりと脂肪がのっていて、寒ざむしい着物
 の下に息づいているものを、わかるものには想像させてくれる。
・おろくが、ついに、奥の手を出して泣き伏したとき、金次郎は、まさにはち切れんばか
 りの欲求に耐えかねた。 
・四十を越えたばかりの肉体に充満するエネルギーのすべてを、知らず知らず仕事へ転用
 してきた金次郎だ。それがこのところ、悲しい無聊をかこちながら、半ば自棄気味に徒
 食しているのだから、女体への欲求が昂進するのも無理はなかった。
・股下から這いのぼる炬燵の温気と、甘酸っぱい女の体臭とで、金次郎の官能は大いに掻
 き立てられた。 
・金次郎は喉をつまらせ、うわごとのように女の耳朶へ囁いたが。怒張し切った全身の血
 管が命ずるままに、彼はいきなり、おろくを押し倒した。
・「あらまあ・・・そんな、いや。いや・・・」などと抵抗を匂わせつつ、おろくの両腕
 は、するすると逞しい金次郎の首へ巻きついてしまう。
・炬燵の上の置膳で徳利が転倒し、灯を入れに来た女中が、あわてて引き返して行ったの
 に気づいたのは、おろくのみである。
・いい加減に翻弄してやるつもりだったおろくなのだが、終いには、岩のような金次郎の
 毛深い躰でもみくちゃにされてしまった。
・こっちの肉も骨も粉々になってしまうような、男の生一本な迫力に圧倒され、おろくは
 我にもなく無我夢中になっていた。
 
金次郎仕法のこと
・大切な仕事を放り捨てて、二宮金次郎が桜町から失踪したのは、おろくと出合う半月ほ
 ど前のことである。
・金次郎が、小田原藩主の大久保忠真から、桜町三カ村の疲弊荒廃を復興せよと命を受け
 たのは、八年前の文政四年、彼が三十五の春であった。
・野州桜町は、大久保家の分家の宇津家の領地だ。表向きは四千石だが、当時は、その四
 分の一も実収は上がらず、田畑は荒れ果て、宇津家の負債もまた山のごとしである。う
 っかりすれば「監督不行届き」とあって幕府からも睨まれかねない。だから何度も役人
 を派遣したり金を注ぎ込んだりして桜町を復興させようと計ったが、焼石に水であった。
・桜町の村々には博徒や商売女が入り込み、村民の生活が荒れ放題になっている。出張し
 てきた小田原藩の役人などは、狡猾な土地のものが誘う酒の香、女の香に縛られて骨抜
 きになり、公用金を目的もなく消費してしまうのが関の山だ。
・大久保侯が、小田原領内栢山に住む金次郎に桜町建直しを委任したのも、金次郎の仕法
 家としての手腕を試してみようと思いたったからである。
・金次郎は条件を三つ出した。まず四千石の領地を一応二千石に復活させること。以後十
 年は自分に村の一切を任せること。領主宇津家は年千俵の収入で我慢をして貰うことの
 三カ条だ。これは許された。
・「あの村々には金をかけては元通りになりませぬ。金を出せばそれに寄りかかり、無為
 徒食をむさぼりたい気分が高まるばかりでござりまする。私めは、先ず、その気風を一
 掃することから始めようと考えおりまする」こんなことを言う金次郎を見て、殿様は、
 とても無理だと思った。いっそ中止をと思ったが、そうなれば金次郎を抜擢した自分の
 見識が家来の物笑いになること必定だ。何だか頼りなくなってきたが、とにかくやらせ
 てみることにした。
・わが独裁の下に人々を心服させ、練りに練った計画を一歩一歩と実現し、穴だらけ埃だ
 らけの木や家や、人を建直し復旧させる興味こそは何ものにも替えられぬものがある。
 むろん金ずくでやれるものではない。
・一家の仕法から一村の復興へ、村から国へと・・・金次郎の夢は果てしなくひろがる。
・天災や飢饉に苦しむ農民から、やたらに貢祖を取り上げるだけの大名や武家が支配して
 いる当時の日本だ。 
・少年の頃から貧農の一人として、こうした苦悩を厭というほどなめてきた金次郎だけに、
 武家や大名を自分の指導に従わせ、しかも同胞たる農民を救い上げようというのだから
 堪えられない。実に愉快な仕事だと金次郎は思っている。
・小田原藩千二百石どりの服部十郎兵衛の家計の復旧をしてやったとき、大身の武士で
 ある十郎兵衛が百姓上がりの自分に低頭して礼をのべたときのことは忘れようとしても
 忘れられない。
・両親を失った十六歳のときから一粒の米もなしの躰一つで弟達を抱え、以後は独立独歩
 で、二十一歳の頃には作徳十三俵、貸付米七俵を手中に掴んだ金次郎である。
・この仕法が成功すれば、彼は小田原の金次郎から天下の仕法家としての金次郎になる。
 封建制度の腐敗は、どこの大名の領地にも武家の家にも充満している。百姓一揆や打壊
 しは近年増大するばかりだ。仕事に困ることはない。
・金次郎の夢は、仕法家としての手腕を天下にとどろかせることになる。
・桜町領内を調査し、村人とも下死ぬうち、彼は、この萎びた土地の息を吹き返させるこ
 とに、またもたまらぬ興味を感じはじめた。
・金次郎の細君お波は、もと服部家の下女をしていた女だ。服部家仕法の五カ年間、金次
 郎は他人の家の切盛りに夢中になって、栢山村の先妻と子供のところへはたまにしか帰
 れなかった。帰るときは肉体の欲求を細君に鎮めてもらうときに限る。
・「うちのひとは、私を商売女と間違えていなさる」先妻のキノは憤然として離別を申し
 出た。止めても聞かない。ついに子供を残して出て行ってしまった。
・金次郎が、当時十六歳のお波に手をつけたのは間もなくのことだ。
・お波は服部家の下女として、大いに金次郎を助けて働いてくれたし、経済仕法家という
 彼の仕事にも並々ならぬ興味を示している。
・すでにこのとき、金次郎は栢山随一の大地主となっていたが、彼は、その所有する田畑
 のほとんどを七十余両で売り払い、一家をあげて、勇躍、野州桜町へ出発したのであっ
 た。
 
曲鞠おろく及び桜町仕法のこと
・川崎宿南外れの、水除土手の下にある「玉屋」という小さな旅籠へ、金次郎は、もう十
 日ほども滞在して、おろくと爛れきっている。
・我ながらじゃじゃけた奴だと思うのだが、失意落胆の中年男にとって、女のやわらかい
 肌身ほど頼りになるものはない。
・おろくは、五年前まで曲鞠芸人菊川助六の女弟子で、小六と名乗り両国に出ていた。 
 あまり器用でない曲鞠の芸に見極めをつけたおろくは、俗に「信心深い男ほど、奥底は
 ・・・」何とかだと言われることから思いつき、新商売に鞍替えをした。江戸周辺の神
 社仏閣を廻り歩き、信心深そうな中年男を引っかけて集めたお金は、男にもてなかった
 ウップンをはらすため、若い男を金ずくで誘って湯治場などへしけ込む遊びに使い果た
 していたのだが、この頃では、やって行先にも提燈を向ける気になり、いずれはどこか
 の茶店の権利でも買い取って、女ひとり、のうのうと暮らすための軍資金にしているお
 ろくなのだ。
・この商売を始めたとき顔に自信のない彼女はビクビクものだったが、やってみると以外
 に儲かる。実は、彼女の泥臭い顔つきや、出来立ての串団子のシコシコと暖かい歯ざわ
 りを感じさせる肉体を、中年男はかえって好む。また美人でないところが男にとっては
 手を出しやすいのである。
・今度はどの手で泣き落としてやろうかと、指を噛み噛み考えながら、おろくは四里半の
 道を川崎宿へ引き返して来た。灰色に暮れかかる曇り空を窓から眺めていた金次郎は、
 飛びつくようにおろくを迎えた。小田原領内では、すでに二宮先生と呼ばれている彼も、
 おろくの手管には、すっかり丸め込まれてしまったらしい。
・おろくのような女には疎いが、農事全般には卓抜した見識を持つ金次郎だ。若い頃から
 他家の飯を食べ、一字も駄目だった論語や大学に齧りつき、とうとう自己流に読みこな
 してしまったほどの苦労もしている。
・女に甘えて語る金次郎半生記に、おろくも肚の中では(うまい嘘をつきやがる)と思っ
 たが、眼を見張り唇をすぼめては、大げさに金次郎を鑽仰して止まらない。金次郎、良
 い気持ちである。
・おろくが、金次郎の首筋に唇を当て、舌でなぶってやると、金次郎の息づかいは、たち
 まちに荒くなる。
・現在の金次郎は、金融業者としても小粒ながら着実に歩みを進めてきている。大儲けを
 狙うのではなく、何処までも困っている者を助けるというたてまえだから、利益は少な
 いが投機に誤りがない。
・桜町仕法にしても、廃地を復旧させるまでの年月と辛抱を村民に強いるためには裏づけ
 がなくてはならない。怠け者の腰が、いくらかでも鋤鍬を動かすようになれば、その保
 障を与えてやらねばならない。痩せた人間が肥るのには今日明日というわけにはいかな
 いのである。
・金次郎は、小田原藩から貰う年俸も全部、桜町仕法へ注ぎ込んできたのだ。馬鹿馬鹿し
 いと他人はいうだろうが、自分の金を注ぎ込んでやるとこりに値打ちがあるのだ。
・保身に汲々たる小田原藩の重役や藩士のうちには、彼等には出来得ない金次郎の働きを、
 近頃では、殿様がベタほめになってきているので、大いに金次郎を妬み、隙あらば赤恥
 をかかせ、金次郎を葬ってしまおうと画策する輩が、かなりいるのだ。
・むろん金次郎派の連中もいる。だから小田原でも江戸屋敷でも、金次郎について二派に 
 分かれ、これが藩政にまでも微妙に影響してくるといった状態なのである。
・江戸家老の吉野図書は、反金次郎派の首魁であった。吉野家老の密命を受けた藩士の豊
 田正作も、出世欲が並外れて強いくせに、出来ることといったら、国許の郡奉行の下で
 村々の監督をやっていた頃に培われた弱いものいじめと収賄位なもので、まことに陰険
 極まりない奴だ。
・吉野家老は巧みに工作し、豊田正作を組頭格の名目で、桜町陣屋の主席として派遣した。
 豊田正作は、名目上、金次郎の上役として桜町に着任した。
・豊田と結びついた無頼漢どもにより再び激化した暴力や博打の横行に、せっかく金次郎
 が栢山村その他から招んで入百姓にした者達も、堪えかねて逃げ出す始末だ。
・豊田は、貢祖の取り立てや、それを逃れんとする村民からの賄賂の中を泳ぎ廻ってきた
 したたか者だ。中々尻尾を掴ませないし、下手をすれば逆ねじを喰わされ、今までの苦
 心も水の泡となるばかりか、吉野一派の奸策によって公吏侮辱罪のごときものを押しつ
 けられかねない
・陣屋に詰めている藩士達も豊田正作の睨みに恐れ、または百姓上がりの金次郎に従うこ
 とはないという下らぬ見得から、いっせいに金次郎の施策に難色を見せはじめた。
・今までは、金次郎に仕法を頼む人は、金次郎の指導に背いたことはない。いや背くもの
 な金次郎一流の親切な説得指導によって、必ず勤労精神の復活を与えることが出来たも
 のだ。それだけに、豊田の喉笛に噛みついてやりたいほどの憤怒を、卒倒する思いに
 こらえつつ、金次郎は、ついに決意した。思い余った挙句にである。即ち酒花の饗応に
 よって、豊田を懐柔せんというわけだ。
・金次郎は陣屋の一室に酒肴をととのえ、女をはべらせ、屈辱を内臓した強張った愛想笑
 いを浮かべ、懸命に豊田をもてなしたのである。
・ニコリともせず、たらふく飲み食い、白粉やけのした女を抱いて・・・後は知らん顔を
 して、依然、覆面の煽動と脅迫をつづけ、村民の勤労意欲を抹殺しようと暗躍する豊田
  正作なのだ。
・饗応の代わりに豊田の弱点を押さえるなどという狡さは、まだこのときの金次郎にはな
 かった。後に残されたのは、依然に倍加した怒りと、豊田の嘲笑に竦む劣等感と、後悔
 の悩乱があるばかりであった。
・(何といっても今のおれには、この女がただ一人の味方なのだものなあ)金次郎は、お
 ろくの暖かい乳房の谷間に顔を埋め、甘ったれては、わが苦渋の哀しみを、めんめんと
 のべたのである。
・(存外ウブだよ、このおじさんは・・・)と密かに嘲笑しながらも、おろくは満更では
 なかった。分別盛りの大男に頼られているということは、おろくのような女にも格別な
 味がする。
・(おれが行方不明になったら、殿様も家中の人びともきっと驚くに違いない。少し困ら
 せてやれ)拗ねた感情と、吉野家家老一派への面当が一緒になり、半ば自暴自棄で、金
 次郎は桜町を出奔してしまったのだ。
・(だがなあ、女房や子供は、今頃、何をしているだろう。どんなにおれのことを心配し
 ていることか。いかん!おれも、こんなところで女狂いをしていては・・・)深沈たる
 冬の夜の闇の中で、金次郎は眠れなくなってきた。
・「でもねえ、旦那さん。この六年の間、旦那が面倒を見ておやりなすったお百姓さん達
 は、今頃、旦那のことを何と思っているんでしょうか。いい気味だと思っているのか、
 心配しながらも、悪人どもに押さえつけられ、旦那を捜しに行くことも出来ず、困って
 いるのか・・・」とおろくが云った。
・さっと、金次郎の脳裡をよぎっていくものがあった。「少なく見積もって三分の一は、
 まだ私の味方だと思うよ」「だったら旦那。その人達が、何かと騒ぎ出したらよかりそ
 うなものじゃありません?」
・三分の一の村民が味方なら、まだ打つ手もないわけではないではないか・・・。(おれ
 は、この六年間に自分で蒔いた種のことを、怒りに任せてすっかり忘れていたわい!)
・金次郎は、何だか急に元気一杯になってきたようだ。声にも威厳のようなものが感じら
 れるし、おろくは今までの金次郎とは別人のような圧迫感をおぼえて、首をすくめた。
・翌朝、金次郎が眼ざめたとき、おろくはすでに消えていた。金次郎の蒲団の下の胴巻き
 から、ごっそり中身を抜いて消えたのである。それでも胴巻きの底には、五両ほど、お
 ろくの志が残されてあった。
 
金次郎出現のこと
・夜更けに、桜町領内の物井村に住む岸右衛門宅の戸を、そっと叩くものがあった。独り
 ものの岸右衛門が戸を開けると、意外、そこには金次郎が立っているではないか。
・悠然と湯を飲み、端座している金次郎を、おろくが見たら何と言うだろう。かつては桜
 町領内きっての無法者といわれた岸右衛門がかしこまっているその前に坐っている金次
 郎には、長者の風格、気品さえも漂っているのだ。
・この岸右衛門という男は、金次郎の最も手こずった村民の一人である、豊田正作から両
 刀を引いて癇癪を加えたような乱暴者で、これを感化するのに、金次郎は五年もかかっ
 た。金次郎が、黙々と自ら鍬をとり、岸右衛門の瀕死に直面した痩地を耕すこと一年余。
 ようやく岸右衛門は、金次郎の前に詫びた。
・良民達が、豊田一派の監視の眼を逃れつつ協議すること数回。東沼村の七郎次と藤蔵が
 代表して、ひそかに江戸に向かい、小田原藩邸へ訴え出たというのだ。二人は口を揃え
 て、二宮先生なくしては村々が立ち行かない。このままでは、六年もの先生と共に苦し
 み働いてきた良民達の努力は水疱に帰してしまう。どうか、先生を探し出して頂きたい、
 と訴えた。しかし、これが運悪く居合わせた家老の吉野図書の耳に、いち早く入ってし
 まった。「村民の口さしはさむところではない。早々に立ち去れ!」と呆気なく追い返
 されてしまった。青くなって桜町へ帰って来ると、村役人一同と共に陣屋へ呼びつけら
 れ、豊田正作から大眼玉を喰った。
・百姓達は青くなった。金次郎の細君お波も、子供を抱え陣屋の片隅でちぢこまって、こ
 っそり暮らしているばかりである。 
・金次郎は、静かに言った。「私はな、死ぬつもりだよ。この村々に、私は精魂打ち込ん
 できた。名残りはつきない。だから一目、村の姿を見てと思い、こうして忍んで来たの
 だが、お前の家の前を通りかかって、つい、お前の顔が見たくなってなあ」
・岸右衛門は号泣した。このとき、金次郎は、さっと立ち上げり土間へ降りた。「もう会
 うこともあるまいよ」金次郎の姿が闇に呑まれた。すぐに躍り出だ岸右衛門が、狼狽し
 てあたりを探し廻ったが、ついに見つけることは出来ない。そして、金次郎の去った後
 には、村のために使ってくれと、金二十両の包みが残されていたのである。
・翌日、岸右衛門宅で、秘密緊急会議が開かれた。聞けば、金次郎は細君子供にも会って
 はいないという。となると、どうも二宮先生は只ならぬ決心をされているに相違ない。
 今更ながら一同は殺気立ち、色めき立ってきた。
 
藩邸騒擾のこと
・再び、岸右衛門や横田村の忠左衛門を先頭に同勢十五名が、小田原藩江戸屋敷へ押しか
 けた。旅費には金次郎が置き残した二十両を充て、一同の意気は天をつくものがある。
 皆、必死だ。
・これを追って、豊田正作の命を受けた無頼漢、鬼神の清七が率いる八名が桜町を発し、
 江戸への道中筋で、請願隊の一行に追いつくと、威したりすかしたりして連れ戻そうと
 かかった。
・岸右衛門が腰にぶち込んだ長脇差を引き抜いて振り回した。昔とって杵柄で、こうなる
 と岸右衛門の面目、まさに溌剌たるものがある。結局、無頼漢どもは岸右衛門に説得さ
 れてしまい、共に江戸へ向かうということになった。
・小田原藩邸は、芝の北新網町にあって、増上寺の表参道に沿った一角になる。同勢は二
 十四名。今度は首を斬られても動かぬと坐り込んだ。
・今度は藩邸でも大騒ぎになった。金次郎派と反金次郎派が、騒然と争いはじめる。殿様
 の耳へも入らざるを得ない。しかも、殿様の大久保侯は、現在、幕府老中の席に連なっ
 ているのだ。迂闊に追い返して、今度は町奉行所へでも訴え出られたら大事になる。殿
 様の面目は丸つぶれとなるわけだ。殿様に叱りつけられ、吉野家老は這々の態で引き下
 がった。
・かくして重役協議の結果、とりあえず岸右衛門他二名を代表として藩邸にとどめ、小田
 原へも急使が飛ぶ。金次郎の故郷、栢山村一帯へも捜索の手を伸ばしたが、行方は全く
 知れない。
・金次郎は、藩邸付近の盛り場や、茶店飯屋などから、こうした情報を集めていた。同時
 にまた、金次郎は桜町までの道を十日の間に二往復して、桜町領内の情報を集めること
 にもした。その間に縫って彼はまた、これからの働きのために資金調達に、小田原、箱
 根と、ひそかに駆け廻っているのだ。その辺の宿屋、商店などに金次郎は大分投資して
 ある。
・金を持ち逃げしたおろくのことについては、もう考える暇もない。金次郎の五体には生
 気と闘志が湯気をたてている。
・帰村した代表を迎え、全村民も、ようやく団結して、二宮先生一本槍で行こうという気
 配が濃厚になってきた。今や何時でも、桜町に帰ってよいのだ。形勢の見通しは明るい。
・四千石の領地ともなると、農民だけが相手ではない。武家階級の、しかも封建制度の腐
 臭ふんぷんたる政治の網の目が、ひしひしと彼の仕事を取り巻いている。状況が好転し
 そうだからといって、何もせかせかと嬉しそうな顔を見せるには及ぶまい。
 
断食参籠のこと
・金次郎は、下総国、成田山新勝寺の門前の旅籠、小川屋の門前に立った。「心願あって
 断食祈誓のため、当山へまいったものだが、泊めて頂きたい」
・ぬーっと土間へ入って来た金次郎を見て、亭主の豊蔵は、いささか異様の感を抱いた。
 垢くさいツギハギだらけの着物に破れ笠をかぶった巨漢なのである。
・金次郎の風格に気押されながら、亭主は、しきりに彼方の番頭へ目配せをする。番頭は
 首を振る。女中頭は手を振って眉をしかめる。
・金次郎はニヤリと胴巻きの中から、切餅二つ五十両を出し、ポンと置いた。これがまた、
 主人の不安を増大させることおびただしいものがあった。 
・今や行方不明の彼を探し出すために、藩庁も血眼になっている。噂も江戸市中にひろま
 りつつあるし、公儀の耳に入ったら御家の一大事である。金次郎は着々と勝利の頂点に
 さしかかっているのだ。
・今や、おろくの乳首をなめてよろこんでいた金次郎とはわけが違う。闘志は自信を生み、
 自信は余裕を生む。余裕は人間に威容を与える。
・出した五十両には見向きもせず草鞋を脱ぎにかかり、金次郎は悠然と言った。「私はな、
 大久保侯家来、二宮金次郎と申す。よろしいかな」
・その翌朝、亭主豊蔵みずから、あたふたと江戸へ向かったらしいことを知り、金次郎は、
 ほくそ笑んだ。小田原藩の家来が本当ならともかく、もしや大盗賊の首領なんどではあ
 るまいか、そうならば旅亭の主人として大変な手落ちになる。そうかと言って、むやみ
 にお上に届け出て、もしも小田原藩士が本当だとなれば、これまた容易ならぬ責任を引
 きかぶらねばならない。
・その日の夕刻に、金次郎は山門を潜り、ときの成田山第八世の貫首、照胤上人に面会し
 て事情をつぶさに語った上、翌日から参籠堂に入り、二十一日の断食を開始した。
・江戸藩邸では、引っくり返るような騒ぎになった。「二宮は当家の重臣である。丁重に
 取り扱ってくれ」と亭主を帰す一方、またもや殿様中心に重役会議だ。その結果として、
 藩士氷山千馬他二名が、急遽、成田へ飛ぶ。
・氷山千馬は成田に着くと、直ちに金次郎へ面会を求めたが、金次郎は断然これを承知し
 ない。何度頼んでも駄目だ。千馬は照胤上人に低頭して泣きついた。
・上人は、参籠堂へ出かけ、やがて戻ってくると紙に書いたものを千馬に渡した。読んで
 みると、桜町帰任の条件として「今後は一切、藩庁からは自分の仕事に口さしはさませ
 ぬこと」「陣屋へ出張の役人は、自分の選択に任せること」、この二つを殿様の名をも
 って書類にして持ってこいというのである。もしも駄目なら自分は幕府奉行所へ一切の
 の事情を訴え出た後、自決する決心だとある。千馬は青くなった。氷山千馬は、あたふ
 たと江戸へ引き返す。
・今度は桜町から岸右衛門以下五名が成田へ来て、帰任を嘆願する。これも追い返した。
 これからは一切、金次郎の指揮に従うという村民一同の連署をとってこいというのだ。
・岸右衛門達が引き返して行くと、入れ違いにまたもや氷山千馬である。殿様自筆の誓約
 書を持って来たのだ。  
・しかし、金次郎は更なる条件を出した。陣屋において金次郎を助けて働く役人は、かね
 て金次郎と仲のよい温良誠実な横山周平以下、足軽仲間に至るまで人選され、すぐさま
 豊田一派を一掃し、この人びとを桜町へ派遣せよ、とある。
・汗みずくの千馬は、またも江戸へ駆け戻る。
・数日すると、村民代表の連署をたずさえて、岸右衛門が成田へ到着した。 
・「金次郎殿は、満願の日に、ただちに帰るそうじゃよ」という照胤上人の言葉を聞き、
 岸右衛門は泣き伏した。
・二日後に氷山千馬が報告に馳せつけて来た。言いつけ通り選抜した人員は、間違いなく
 桜町へ出発し、豊田正作以下は小田原へ左遷されたというのである。
・その一歩一歩は、徹底的な実践主義をもって疲弊する町村を救うこと六百余件。偉大な
 る二宮尊徳へ、彼が成長する途に通じていた。
・金次郎が成田を去って四日目の夕暮れときに、まだ三十にはならぬ小柄な女が、門前町
 の旅宿を金次郎の名を告げて尋ね歩き、そのうちに町でも評判の金次郎の噂を耳にする
 と、聞くもなく、しょんぼりと夕闇の中に姿を消したという。