首都感染 :高嶋哲夫

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感染対策マニュアル第2版 [ 吉田美智子 ]
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感染列島 映画ノベライズ版 (小学館文庫) [ 涌井学 ]
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人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて [ 加藤 茂孝 ]
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怖くて眠れなくなる感染症 [ 岡田晴恵 ]
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感染遊戯 (光文社文庫) [ 誉田哲也 ]
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時限感染 殺戮のマトリョーシカ [ 岩木一麻 ]
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新感染 ファイナル・エクスプレス (竹書房文庫) [ 藤原友代 ]
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続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える [ 加藤 茂孝 ]
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黒い研究室 (二見文庫) [ 霧村悠康 ]
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首都圏パンデミック (幻冬舎文庫) [ 大原 省吾 ]
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著者は、元々は核融合の研究を行っていた原子力の研究者だったようである。しかし、米
国の大学に留学して1981年に日本に帰国後は、学習塾の経営に転じたようだ。
この作品は今から10年前の2010年に発表されたものなのだが、まさにこの2020
年の新型コロナウイルスによる全世界パンデミックを予言しているともいえる内容となっ
ている。とにかく、この2020年初頭から起きた新型コロナウイルス感染拡大における
世界の状況や日本の状況が驚くほどそっくりなのだ。
ただ違っているのは新型コロナウイルスが弱毒性だという点だけだ。さらに言えば、この
作品では、日本の総理大臣や厚労大臣は、すばらしい決断力を示すのであるが、実際の新
型コロナウイルス感染拡大における日本の総理大臣や厚労大臣は、はたしてすばらしい決
断力を発揮したかと言えば、甚だ疑問符が付く状態であった。それは、この新型コロナウ
イルス・パンデミックにおいて、世界の主要国のリーダーの多くは、すばらしいリーダー
シップを発揮して支持率をアップさせているが、日本の総理大臣は逆に支持率を大きく下
げていることで裏付けられている。

今回の新型コロナウイルス感染症に対して、令和2年1月30日にその対策本部の設置が
閣議決定され、3月26日に設置された。しかし、専門家会議の立ち位置が問題視された。
専門家会議の意見が前面に出過ぎたのではないかというのだ。確かに、首相や厚労大臣に
発言よりも、専門家会議のメンバーの発言のほうが目立った。本来は、首相や厚労大臣の
口から出るべきようなことが、専門家会議のメンバーの方から出ていた。
しかしこれは、政府が自分たちの責任逃れのために、専門家会議を隠れ蓑に使ったとも言
える気がする。首相や厚労大臣は、自分たちの政治判断を曖昧にし、何か批判が出たとき
は、専門家会議にその責任を負わせようとしたともとれるのだ。
この本の中に、「非常時のリーダーシップの欠如、判断の誤りは国民の不幸を倍増し国を
滅ぼす」という一説がある。まさにその危機感を、今回の新型コロナウイルス感染拡大で、
身をもって感じた人も多かったのではなかろうか。

今回の新型コロナウイルスでの世界全体での致死率(:死者数÷感染者数)は約5.7%、
これに対して日本の致死率は約5.3%とそれほど変わらない。ちなみに、米国の致死率
は約5.6%、英国の致死率は約13.8%、フランスの致死率は約15.3%、イタリ
アの致死率は約14.4%、スペインの致死率は11.2%、中国の致死率は約5.5%、
インドの致死率は2.8%、ブラジルの致死率は約5.1%となっている。
ちなみに、1918年から1922年にかけて世界的に大流行したスペイン風邪では、第
1波の致死率は約1.2%、第2波の致死率は約5.3%、第3波の致死率は約1.6%
だったようだ。
ちなみに、この小説での日本の都心封鎖エリア内での致死率は13.8%、世界全体での
致死率は22%だったということになっている。

なお、今回の新型コロナウイルスによるショックでは、日経平均が一時的にではあるが、
2万4千円台から1万6千4百円台へと実に32%も暴落した。しかし、その後、実体経
済は大きく悪化しているにもかかわらず、日経平均だけは、驚くべき回復を見せ、「コロ
ナバブル」とも言えるべき状況を示している。これは、日本銀行が無制限に国債やETF
を爆買いして、市場にお金をばら撒き、行き場のなくなったお金が株式市場に向かったと
も言われている。これは逆に、日銀の取っている政策が、疲弊し得ている実体経済には、
まったく効果がないことを示しているとも言えるのではないか。日本の株式市場の七割は
海外の投資家だと言われている。日銀は、国民の税金を使って、この海外の投資家たちを
護っているというなんとも滑稽な状況とも言える。

この小説のなかで、電気店の店頭から空気清浄機が売れ切れて姿を消したという話が出て
くる。空気清浄機の特殊なフィルターで新型インフルエンザ・ウイルスを完全に除去でき
るというのだ。一見、もっともらしく聞こえる。だが、もちろん、これはまったく科学的
な根拠のない話なのだ。今回の新型コロナウイルスにおいても、似たような話が出回った。
新型コロナウイルスの消毒目的で学校や保育所、公共施設などで「次亜塩素酸水」を噴霧
器で噴霧することが流行した。しかし、その有効性はまだ十分確認されておらず、世界保
健機関(WHO)からは「消毒液の噴霧を推奨しない」という見解も出ており、健康面へ
の影響を配慮して、子供たちがいる空間では使用しないよう通知が出される事態となった。
これも考えてみれば、消毒液は人体にはまったく無害というのはあり得ない。
さらにひどい話が、アメリカのトランプ大統領の発言だ。消毒液がウイルスを死滅される
なら、感染者に消毒液を注射したらどうかと発言したのだ。まさに恐るべき提案であった。

ところで、この本に中に「ギラン・バレー症候群」というあまり聞きなれない言葉出てく
るが、調べてみると、これはインフルエンザやBCGなどの種々のワクチンや種々の感染
症が原因となって起こる疾病のようである。

この小説は、単なる娯楽としての作り話ではないように感じた。恐らく、近い将来、この
小説のような強毒性の新型インフルエンザの出現によって、人類が絶滅の危機に瀕する事
態が、必ず訪れるのではないかと強く感じた。

プロローグ
・中国、北京、北京国家体育場、通称「鳥の巣」を大歓声がつつんだ。
 「なんとかベスト8には残ることができた。しかも優勝候補ドイツを破ってだ。世界は
  我が国の躍進にまさに驚愕している。なんとしても、この大会を成功裏に終わらせる
  のだ」今回のサッカー・ワールドカップ運営委員長は強い意志を込めて言った。
・「しかしことは急を要しております。これ以上の被害が広がると、いずれ公になること
 は必至です」
・「このワールド・カップは成功させなければならない。2008年のオリンピック、
 2010年の上海万博、すべて我が中国共産党の勝利と発展の象徴として、成功させて
 きた。世界に中国の力を知らしめるためだ。ここで、醜態は見せられん」
・「SARSのときは発表が遅れ、世界の非難を浴びました。そういう事態は二度とあっ
 てはなりません」     
・2002年、世界でSARSが広まった。この重症急性呼吸症候群という疾病は中国広
 東省で始まり、世界で8千人以上の感染者を出し、8百人近い死者が出た。肺機能が著
 しく低下し、肺炎を起こして死に至る。実に致死率10パーセントに迫る病だ。中国は
 秘密裏に封じ込めようとしたが失敗した。
・「やはり情報開示は速やかに行うべきです。今回の問題はわが国だけにはとどまりませ
 ん。このまま発表を遅らせれば、世界を未だかつてない危機に追い込むことにもなりか
 ねません」衛生部長の目には薄らと涙さえ浮かんでいる。  
・「状況が違う。あと、わずかだ。それですべてが終わる。それからでも遅くはない」
 「今、わが国には世界の目が向けられ、世界32カ国から40万人のサポーターが来て
 いる。この状況で発表を行なえばどうなる。一瞬にして影響は世界に広まるのだ。我が
 国の威信は地に落ちる。何とかして、封じ込めるのだ。ここでわずかでも醜態をさらす
 ようなことになれば、取り返しがつかない。体制の崩壊にもつながりかねないことだ」
・中国、雲南省。白いナイロン製の防護ガウンにマスク、ゴーグルを着け、長靴を履いた
 百人以上の男たちが動き回っていた。その約半数は、ガウンの下にカーキ色の軍服を着
 ている。 
・目の前には血まみれた死体が横たわっていた。全身が鬱血し、血を吐いて死んでいった
 のだ。腰のまわりを赤く染めている血便、血尿は死後に出たものだ。眼は赤く充血し、
 鼻と耳からも出血が見られる。おそらく身体中の臓器から出血しているのだ。同じよう
 な死体が50体以上、急ごしらえの軍のテントの中に並べられていた。
・H1N1新型インフルエンザは呼吸器疾患であって、このような全身疾患ではない。い
 ったいどういうことだ。かつて世界的な大流行、パンデミックを引き起こした豚に由来
 する新型インフルエンザではない。さらには2010年代に我が国に広まったH7N9
 新型インフルエンザとも違うと単純に言い切るべきなのか。しかし、初期症状は喉の痛
 み、倦怠感、関節痛、そして発熱。まさにインフルエンザの症状だ。
・「発症の報告と同時に、軍の医療部隊を送っていますが、そのときにはすでに手の施し
 ようがないというのが現状です。従来の薬、タミフルもリレンザも、その後の新薬もた
 いして効きません」  
・WHOに意見を聞きたいが、上からの命令で口外することは禁じられている。これでは
 2003年のSARSのときと同じではないか。しかし、いつまで隠しおおせるという
 のだ。ワールド・カップが終わるまでか。それまでにいくつの村が消え去るのか。
・スペイン風邪は1918年から翌年にかけて世界中に流行したインフルエンザだ。感染
 者6億人、死者4千万人から5千万人。一説には1憶人が死亡したとも言われている。
 世界人口が20憶人、飛行機は発明されたところで、何カ月もかけて船で大陸を行き来
 していた時代だ。
・黒木総合病院内科の看護師、仲原由美子は、優司がこの病院に来たときからいる看護師
 で、底抜けに明るい性格は患者に人気があった。よく退院した患者から彼女宛のプレゼ
 ントが届き、お菓子は看護師控え室で重宝されている。 
・瀬戸崎優司35歳は、世界保健機関(WHO)のメディカル・オフィサーを辞めてスイ
 スから日本に帰って半年後、四ツ谷にある黒木総合病院の内科医として勤務している。
 この病院の経営者黒木太郎は、大学時代からの友人黒木慎介の父だ。  
・黒木総合病院を訪れた外来のうち、H1N1新型インフルエンザの感染者は5千9百人、
 そのうち4人の患者が亡くなった。
・豚インフルエンザ。ブラジル発の新型インフルエンザで世界中にパンデミックが起きた
 が、世界は肩透かしを食った。各国の政府とマスコミが大騒ぎしたわりには、被害は少
 なかった。強毒性のH5N1型鳥インフルエンザではなく、弱毒性のH1N1型豚イン
 フルエンザだったためだ。日本では感染者数約1千万人、死者は1万人を超えた。これ
 は一見大きな数字のようだが、通常の季節性インフルエンザとさほど変わらない。本当
 に怖れている新型インフルエンザは、こんなものじゃない。
・H5N1新型インフルエンザでは、全世界で30憶人を超える人が感染するだろうと言
 われている。そして、厚生労働省の報告書では日本で64万人、世界では5千万人が死
 亡するとなっている。  
・「前回の新型インフルエンザは、基本的には普通の季節性インフルエンザとほとんど変
 わりませんでした。弱毒性で感染力もさほど強くはなかった。ただ、ヒトに免疫がなか
 ったので広がっただけです。同時に患者だけでなく、我々医療関係者が慣れていなかっ
 たので戸惑ったのです。しかし、強毒性鳥インフルエンザが広まれば、今まで経験した
 ことのない大混乱が起こることは必至です。そのための態勢は構築しておかなければな
 りません」と優司は言った。 
・黒木慎介は、成績は優司よりも良かった。黒木総合病院の長男で当然のこととして医学
 部に進んだが、本人は、「患者を診るのは嫌いなんだ」と優司に話したことがある。
 結局は大学に残って基礎医学の分野に進み、優司が帰国した年に東都大学医学部准教授
 になっている。免疫関係ではそこそこ世界的な仕事をしており、医学専門誌でよく名前
 を見るようになり、優司も何度か論文を読んだことがある。
・「日本のおかしな医者どもは、薬を使いすぎるんだよ。痛み止めを処方する時は、胃を
 荒らすからって制酸剤だの粘膜修復だのと胃腸薬まで一式込みだ。抗生物質なんて、湯
 水のように使っている。これじゃ、耐性菌が出来ないほうがおかしんだぜ。前回の新型
 インフルエンザにもタミフル、リレンザは胃腸薬の如くだ。すぐに耐性ウイルスが出る
 ぞ。流行もしていないのに予防薬として飲んでいるのは日本だけじゃないの」と黒木慎
 介は言った。 
・前回の豚インフルエンザ・パンデミックは、富める国と富まざる国との差をまざまざと
 見せつける結果となった。先進国といわれる国はこぞって、タミフル、リレンザなどの
 抗インフルエンザ薬を買いまくった。タミフルは1日2回、最低5日間続けて飲む必要
 がある。薬は高騰し、発展途上国にはほとんどいき渡らなかった。中でも日本は、タミ
 フルの8割近くを買い占め、予防薬的に乱用した。
・王光裕は中国からの留学生で、博士課程の28歳の学生だ。すでに中国で医学部を卒業
 して医師の資格を持ち、日本の国家試験も来日の翌年に通っている。IQが152だと
 いう。現在は黒木の右腕となり研究を手伝っている。
・「中国のインターネットがおかしんです」王光裕は黒木に話し始めた。「つながらない
 のか」「サイトの書き込む数がかなり減っています。3割減というところかな。おかし
 な減り方だから、政府が関与しているかも知れません」
・優司はパソコンを睨んでいた。ベトナム48人、タイ39人、インドネシア32人。
 WHOが発表しているH5N1型鳥インフルエンザによる死者だ。全世界ではすでに、
 200人を超える死者が出ている。
・弱毒性とはウイルスが呼吸器と消化器の一部に取り付いて発症する場合で、強毒性とは
 ウイルスが身体中に広がり全身疾患になる場合だ。この違いはウイルス遺伝子のわずか
 なDNA配列の相違に起因している。
・黒死病とはペストのことで、14世紀にヨーロッパで大流行した。感染すると皮膚が黒
 くなることから、そう呼ばれている。全世界で8千5百万人、ヨーロッパでは当時の人
 口の三分の一から三分の二近くの、2千万人から3千万人が死亡したとも言われている。
・治験とは、医薬品などの承認申請をするための臨床試験のことだ。まず動物を対象に試
 験を行い、安全性や有効性を検討する。安全性に問題がなければ、成人のボランティア
 やアルバイトに試験を行なう。次に百人程度の少数の患者を対象に行い、さらに千人規
 模での患者への試験に進む。これらの結果をふまえて、国が承認審査を行なうのだ。
・薬は発売された後も数年かけて万単位のデータを集めて試験しなければならない。一般
 にこうした試験を含め、新薬開発費は数百億円、あるいはそれ以上にのぼり、その開発
 成功率は約六千分の一とされる。
・豚インフルエンザは、十カ月間でほぼ全世界に広がり、いつのまにか話題にも上らなく
 なった。普通の季節性インフルエンザに組み込まれていったのだ。パンデミックが起こ
 ったのは、ヒトに免疫がなかったので当然だ。幸運だったのは、このウイルスが弱毒性
 だったことだ。それでも一年間で世界で5億7千万人が感染し、50万4千人という死
 者を出している。日本では世界でも最高レベルの対応を取ったが、1万人の死者が出た。
 これは季節性インフルエンザの死者数とほぼ同じだ。中国では6万人以上が死亡してい
 る。
・「我々は豚じゃなく、鳥インフルエンザのヒト・ヒト感染を恐れているのだ。その時に
 は、人間は素手でウイルスと戦わなければならなくなる。30年から50年間隔で必ず、
 大量の死者が出るパンデミックは起こっているんだ」と優司は言った。
・WHOの世界インフルエンザ・プログラムによれば、次のパンデミックでは世界で2百
 万人から7百万人の死者が出ると発表している。しかし、実際の死者は5百万人から1
 億5千万人に及ぶという試算もある。この60パーセント以上の致死率を持つウイルス
 が、すでに東南アジアを徘徊しているのだ。
・インフルエンザ・ウイルスは非常に頻繁に変異を続けている。つまり、遺伝子の一部が
 変わるだけでワクチンが効かなくなる。さらに弱毒性のものが強毒性になることもある
 のだ。  
・総理大臣執務室には数人の男が座っていた。「豚インフルエンザに関しては、終息宣言
 を出してもいいかと思います」大島官房長官は言った。世界中が震えあがりパニックに
 陥ったが、発生した問題の大部分は風評被害とも言うべきものだった。世界を一巡した
 ウイルス災害は50万人以上の死者を出して、ほぼ終息した。これは季節性インフルエ
 ンザとほぼ同じ数だ。  
・「日本でのインフルエンザによる死者約1万人。この数字は例年のインフルエンザと新
 型インフルエンザを合わせた数字ですので、被害は驚くほど少なかったと言うべきです。
 あまりに政府とマスコミが騒ぎすぎたため、国民が衛生管理に最大限注意した結果でし
 ょう」   
・「たしかに、手洗い、うがい、マスクの着用、人混みには極力近づかない。日本中が普
 段やらないことを実行しましたから、その結果、消費はかなり落ち込んでいます。町は
 ガラガラという時期が何カ月か続きましたからな。旅行、コンサート、展覧会などの軒
 並みキャンセルが続きました。中止も多い。経済は大打撃を受けました」
・総理の瀬戸崎雄一郎は現在64歳、政治家ではまだ中年の部類に入る。総理就任とほぼ
 同時に世界的に豚インフルエンザが流行したが、なんとか乗り切った。景気後退、内需
 不振、デフレ、雇用悪化、マイナス要素はすべて新型インフルエンザのせいにすること
 が出来た。
・「ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることは
 なかなかむつかしい」という寺田寅彦の言葉を引用して、国民に冷静に対処するよう訴
 えた。幸いパンデミックを起こしたが弱毒性のH1N1型豚インフルエンザで、普通の
 季節性インフルエンザ程度の被害しか出なかった。むしろ、すべてに慎重に事を運び過
 ぎた政府への批判が起こるほどであった。とはいえ、流行初期の数カ月は、機内検疫、
 学校の封鎖、パンデミック・ワクチンの製造などで忙殺される日々だった。
・大騒ぎの割に弱毒性で日本では死者は多くはなかった。先進国中でも、最小レベルの被
 害で乗り切ることができた。しかし、賞賛よりも非難の声の方が多いとは何たることか。
 政府は騒ぎ過ぎた。いたずらに国民の恐怖を煽ったというのだ。野党もこの点をついて
 くるだろう。自分たちなら、もっとうまくやることができた。だが、それは結果論にす
 ぎない。我々は実に良くやったのだ。
・厚生労働大臣の高城明は医学博士の学位を持つ医者だ。新型インフルエンザ・パンデミ
 ックのときに瀬戸崎総理に抜擢されて厚生労働大臣になった。「致死率60パーセント
 以上の強毒性H5N1新型インフルエンザが、世界を狙っているそうです」「今回の新
 型インフルエンザの致死率は0.1パーセントでした。それでも日本だけで1万人を超
 える死者が出ています」
・「ウイルスは日々進化しています。こうして我々が話している 間にも、世界のどこか
 でウイルスは変異しているのです。ブタからヒトに感染するように変異したのと同じよ
 うに、トリからヒトにうつるウイルスはすでに現れています。今度はヒトからヒトへ、
 これは時間の問題なのです。人間の力では止めようがありません」
・「今後、我々はパンデミックを単なる偶然と捉えるのではなく、地震や台風のように必
 ず起こるものとして考えなければなりません」
・「感染は飛沫感染と接触感染です。正確な知識と予防で防ぐことができるものです。ワ
 クチン、抗インフルエンザ薬もあります。あとは、こうした知識をいかに国民に徹底さ
 せるかです」
・あの豚インフルエンザ騒動以来、まさに忍耐と地獄の日々だった。GDPは12パーセ
 ントも下がっている。 
・総理の瀬戸崎と厚労大臣の高城は、東京の私立中高一貫校の同級生だった。大学も同じ
 で、高城は東都大学医学部、瀬戸崎は法学部に進学した。大学卒業後、瀬戸崎は衆議院
 議員の父の秘書として政治の道へ入り、四年後、急死した父の跡を継ぎ、衆議院に初当
 選した。高城は大学に残り、脳外科医として活躍し、スタンフォード大学に留学決まっ
 ていたが、渡米前日の交通事故にあって、右足大腿部切断と脊髄損傷という大けがをし
 た。無免許の若者の無謀運転の車を避けそこねて、電柱に衝突したのだ。
・「防衛省から報告が入っています」「中国、ベトナム国境辺りが騒がしいと。アメリカ
 軍からも同様の報告があります」「中国軍の移動がありました。国境地帯に集結してい
 ます」「国境付近での銃撃も、アメリカの偵察衛星によって判明しています」
・「WHOから国立感染症研究所にウイルス・サンプルが送られてきている。遺伝子解析
 と抗体作りの依頼だ」高城は思い出したように言った。「どうせ、世界中にばらまいて
 いる。無料で解析しろってことだ。WHOの依頼は断れない。しかし、P4以上を使用
 してくれって但し書きがあったそうだ」
・危険なウイルスや細菌を調べたり未知のバイオ実験を行なう実験施設は、ウイルスを外
 部に漏らさないための封じ込め態勢によって、P1からP4までのレベルに分けられて
 いる。P4施設はエボラ、マールブルグ、天然痘など危険レベル4のウイルスを取り扱
 うことができる。世界にいくつかがるが、実質的にはアメリカのCDC(疾病管理予防
 センター)などほんの数カ所に依存している。
  
・優司がWHOにいたころは、年に半分は外国だった。いや、それ以上だ。大半が発展途
 上国だった。それも僻地の村が多く、衛星電話の普及の前は本部と連絡するのも半日が
 かりという所も少なくなかった。どこへ行くにもマスクとゴム手袋、フェイガード、防
 護服の入ったカバンを持っていた。
・優司はしばらく空港内を歩いた。ヨーロッパでは、テロ騒ぎで何度か空港で止められた
 ことがある。出入口には自動小銃を持った二人一組の兵士が立ち、おかしな手荷物や怪
 しい行動を取る客を見張っている。優司たち乗客は、ただ封鎖が解除になるのを待つし
 かなかった。半日、一日の足止めは普通だった。最長一週間ということもあった。この
 ときは、最後の二日はホテルに移してくれた。そういう事態が日本で起こったらどうな
 るだろうか。一週間も乗客は我慢できるか。
・前回の新型インフルエンザ流行時の数カ月は、街はどこも閑散としていた。新型インフ
 ルエンザの影響で、街を歩く人が激減したのだ。歩いている人も大半がマスクをして、
 異様な雰囲気だった。今はマスクをしている人などいない。
・人の気配で振り向くと、王光裕が立っていた。「体調が悪いのか。お化けみたいな顔を
 している」「やはり、国がどうもおかしい」「軍の農村部への移動がみられます」「暴
 動じゃないのか。農村部じゃ、よく起こるってんだろ」「今度のは、どうもそういうの
 じゃないらしいです」「中国とベトナムの国境で銃撃戦が起きたらしいです」「それに、
 保健省が慌ただしい。軍と行動を共にしているらしいです」「国境で民間人が撃たれた
 という情報もあります」「どうも発砲したのは中国側の兵士のようです。撃たれたのも
 中国人。それも数人のレベルじゃない。数十人です」「中国の住民が国境を越えようと
 したのか。それを自国の兵士が」「分かりませんが、それしか考えられません。雲南省
 近辺で致死率の高い疾病が流行しているという噂もあるようです。すでに十近くの村が
 全滅したと」
・翌日、優司はマンションに迎えに来た由美子と一緒に部屋を出た。エレベーターを降り
 て、ホールを歩きだそうとした優司の足が止まった。ちょうどマンションのエントラン
 スから入ってきた男がいた。数メートル後ろには二人の背の高いがっしりした男が立っ
 ていて、辺りをうかがっていた。SP,警察官というやつだ。「父さん」「話がある。
 少し時間をくれないか」「私、先に行っています」由美子は引き止めようとした優司の
 腕をすり抜けるようにして、足早に出口に向かって歩いた。「今週中にも、政府内に新
 型インフルエンザ対策本部を立ち上げる。議長は私だ。副議長は高城だ。お前も参加し
 てくれないか」優司は言葉に詰まった。とっさのことで、瀬戸崎が何を言っているのか
 理解できなかったのだ。   
・「高城はお前のWHO時代の経験を高く買っている。ぜひ、対策本部に来てほしい」
 瀬戸崎は持っていたフェイルを優司に示した。「これは、お前が書いたと聞いている。
 高城が見世てくれた。里美さんが送ってきたそうだ」「やはりお断りします。僕には荷
 が重すぎる」「そうか。残念だが仕方がない。高城には私から言っておこう」
・優司がマンションの外に出るとドアの横に由美子が立っていた。「あの・・・私、帰っ
 てもいいです。食事は次の機会でもかまいません」「間違いでなかったら、今の人総理
 大臣の瀬戸崎雄一郎さんじゃないですか」「そうだ。僕の父親だ」「高城さんって、厚
 生労働大臣の高城明さんですか」「僕の別れた妻の父だ。高城里美が元妻の旧姓だ」 
・前回の豚インフルエンザの時は待合室をつぶして診察室を作り、廊下にまでベッドを並
 べる計画書を作っていた。しかし、その必要はなかった。感染者は多かったが、入院す
 るほどの重症患者は少なかったのだ。だが、必ずそうなる日が来ることを確信している。
・冷蔵庫からビールを取り出したところで、また電話のベルが聞こえた。<優司君か>
 「高城さんですか」<こんな時間で申し訳ない。公に発表は出来ないが、実際に海外発
 生期に入っているとみている。H5N1型鳥インフルエンザだ><瀬戸崎総理から話が
 あったと思うが、対策本部に参加してほしいと頼んだのは私の強い願いでもあるんだ>
 <君は感染症に関しては世界有数のエキスパートだった。それは里美も認めている>
 <総理の話、もう一度考え直してはくれないだろうか><総理がきみの返事を伝えてき
 たが、私の口からもう一度頼みたくてね。しかし、きみの決心は固そうだ。申し訳なか
 った。こんな時間に電話して>
・時計を見て受話器を取った。二度目の呼び出し音が終わる前に受話器が取られ、明瞭な
 英語が帰ってきた。「僕だ。優司だ」<電話があるんじゃないかと思ってた>一瞬の間
 があったが、里美の冷静な声が返ってきた。「今日、親父が来た。昔書いたパンデミッ
 クに関する報告書を持ってね」「政府で、新型インフルエンザ対策本部を立ち上げるそ
 うだ。WHOでは何か特別な情報をつかんだのか」<まだ分からない。でも中国で何か
 おかしなことが起こっている><アメリカのNGOが、中国国境付近である血液サンプ
 ルを手に入れたの。今、世界中の研究機関や研究所でそれを分析している>「そのサン
 プルがH5N1新型インフルエンザ・ウイルスだというのか」<ひょっとして、大規模
 なヒト・ヒト感染が起こっているかもしれない>
・早朝、優司は永田町にある瀬戸崎総理の事務所を訪ねた。「今度は僕が来る番だと思っ
 てね。昨日の話だけど、まだ、僕が入る余地はあるかな」「私が議長だ。どうにでもな
 る」「高城が喜ぶだろう。あの後、断られたと連絡したら、相当がっかりしていた」
・SARSのときは、中国は隠し切れなくなった公表したが、WHOの報告よりも、かな
 り患者数および死者数が少なかった。豚インフルエンザのときも感染者数をごまかして
 報告していた地区もある。
・「智子に連絡してやってくれ。お前のことを一番心配している」智子は優司の姉だ。母
 親が死んでからは、父と弟の世話をしながら地元の後援会の相手もしてきた。優司より
 四歳年上、三十九歳になるはずだ。
・「中国で新しい感染症が発生したらしい。WHOからは、まだ公表はされていない」
 「それは、外務省からの情報ですか」「防衛省だ。中国軍の動きがおかしいのでアメリ
 カ軍と合同で衛星で監視している」「徐々に動きが激しくなっている」「大規模になっ
 ている。雲南省だけでなく、近隣から複数の部隊が投入されている」「特殊防護部隊、
 細菌戦専門の部隊と、放射能や毒ガス汚染専門の部隊も動いている。さらに、保健省が
 同行している可能性が高いそうだ。これはアメリカ国防総省の極秘情報からだ」「すで
 に、数千人の死者が出ているとの報告もあるらしい」
・「2003年のSARSのときは、情報を隠して、世界から大顰蹙を買いました。最初
 発生自体を隠していたうえに、公になってからも中国当局が発表した数字と、WHOの
 数字が大きく食い違ったのです。世界の誰もがWHOの数字を信用しました。その結果、
 正しい数字を発表せざるを得なくなり、中国の信用度は大きく下がりました」と高城は
 言った。「来週にはワールド・カップが終わり、選手や関係者、そして観戦に行ってい
 る膨大な数のサポーターの帰国が始まります」「中国から人が世界中に散っていくとい
 うことだな」
・「プレパンデミック・ワクチンはどうなっている」「製造は進んでいますが、実際に効
 くかどうかは専門家の意見も分かれています」
・プレパンデミック・ワクチンとは、新型インフルエンザが流行する前段階で接種するワ
 クチンだ。新型インフルエンザに変異する可能性が高い過去の鳥インフルエンザ・ウイ
 ルスをもとに製造されるワクチンで、H5N1亜型を使って製造している。
・そもそもワクチンというやつがよく分からない。予防に有効な手段になると言う者から、
 予防にはたいして役に立たず、重症化を防ぐだけと言う専門家もいる。要は、かからな
 いように注意するしかないのだ。 
・「新型インフルエンザのワクチンには二種類があります。一つはそのプレパンデミック・
 ワクチンです。もう一つは実際にパンデミックが起こってから、そのウイルスを利用し
 て作るパンデミック・ワクチンです」
 デミック・ワクチンを四ヵ月から六ヵ月で供給できるとしている。それまでは、なんと
 かして新型インフルエンザにはかかるなということだ。
・スイスは新型インフルエンザが発生すると、プレパンデミック・ワクチンを全国民に接
 種する。さらに、タミフルを全国民分備蓄している。ただし、このプレパンデミック・
 ワクチンでは発病は阻止できない。ただ、重症化を阻止する効果は十分にあると考えて
 いる。重症化を阻止して、タミフルで治療して医療機関の負担を軽減しようというもの
 だ。
・「秋には冬の流行期に備えてワクチン接種が始まると聞いているが、それを早めればい
 いのではないですかな」立花財務大臣が言った。「鳥インフルエンザのワクチンという
 のはまだ出来てきません」優司は居並ぶ閣僚たちのうちで、ワクチンの意味を理解して
 いる者はほとんどいないことに気づいた。「ワクチンというのは弱毒化したウイルスを
 接種することにより、身体にそのウイルスに対して抵抗力を付けるものです。ウイルス
 が違えば、まったく役に立たないと考えてください」
・「豚インフルエンザに対しては、すでにワクチンが完成してほぼ接種が終わりました。
 ですから、次の流行の波が来ても重症になる患者は少なく抑えられます」「ワクチンを
 受けていてもかかるのか」「もちろんです。ワクチンは絶対的なものではありません。
 季節性インフルエンザ・ワクチンでは、65歳未満では70パーセントから90パーセ
 ントのインフルエンザ発症を予防できます。発症を100パーセント防ぐことが出来る
 わけではありません。65歳以上の患者では肺炎による入院を30パーセントから70
 パーセント減らすことができます。さらに、老人施設でのインフルエンザ関連の死亡を
 80パーセント減らすことができます。また、六ヵ月以上の子供には、二回接種後には
 82パーセントのインフルエンザ発症を予防できるという結果が出ています」
・「現在、H5N1亜型鳥インフルエンザのウイルスを使ったプレパンデミック・ワクチ
 ンを作って備蓄しています。このワクチンを早い時期に接種して基礎免疫をつけておけ
 ば、緊急時に一回の追加接種によって、一週間以内にかなり高い免疫が得られる可能性
 があります」 
・「すぐにでも打つべきじゃないのかね」
・「新型インフルエンザが出現してフェーズ4になった段階で、医療従事者を中心に順次
 接種していく予定です。これは厚労省の対策ガイドラインで決められたものです」
・接種順位はすでに発表されている。閣僚も自分たちが高位置にあることは、すでに知っ
 ているはずだ。家族や親族、後援者たちを高位置に上げようと頼んできた者も少なから
 ずいる。
・「副作用のことを考えると、必要最小限に留めた方が賢明だと思われます」「副作用と
 いうのは深刻なのかね」「まれに起こります」ワクチンを接種すると人体はその免疫を
 学習するため、一時的に対外的な免疫力が減退する。接種箇所が赤みを帯びたり、痛ん
 だりするのはそのためだ。また、発熱、頭痛、寒気、身体のだるさなどが起こることも
 ある。アレルギー反応としては、湿疹、じんましん、かゆみなどが数日続く。また、ま
 れに痙攣、運動障害、意識障害などが起こる場合がある。「ギラン・バレー症候群」と
 いわれるものは、運動神経が麻痺し、四肢に力が入らなくなる。さらに重症の場合、中
 枢神経障害性の呼吸不全を引き起こす。
・「今後、実際に流行する新型インフルエンザが亜型でなかったり、ウイルスの抗原性が
 備蓄ワクチンと大きく変わってしまった場合には、効かない可能性があります」
・「ところで、その鳥インフルエンザというのは、普通のインフルエンザとそんなに違う
 のかね」  
・「季節性のインフルエンザでは、ウイルスは喉や鼻といった上気道にとりついてヒトに
 侵入します。それは、季節性インフルエンザ・ウイルスのレセプターがその箇所に多い
 からです。ところが鳥インフルエンザのウイルスの場合、そのレセプターが肺の一番奥
 にある肺胞にあります。そのため、ウイルスは肺の奥にとりついて広がり、重篤な肺炎
 を引き起こすのです」「発症して数日で肺炎を起こします。そして数日で肺が破壊さえ
 て固くなり、呼吸が出来なくなります。さらに今回の場合、ウイルスは全身に回り、肺
 と同時に内蔵の破壊も引き起こすと考えられています」
・「治療方法は?」
・「感染初期に、通常の二倍の量のタミフルと抗生物質を与えます。それに、ステロイド
 ホルモンの投与です。呼吸困難になった場合は人工呼吸器が必要です。タミフルは新型
 インフルエンザ・ウイルスの増殖を抑えます。他の薬は、対症療法で肺の重篤化を防ぎ
 ます」     
・「これだけの治療を行なうには、かなりベッド数が必要です。各都道府県で数百万人規
 模の患者が出た場合、いや、その十分の一でもとても対応し切れません。ある程度の死
 者が出るのは避けることが出来ないでしょう」
・今、世界では、H5N1型鳥インフルエンザが、トリからヒトに感染する事例が350
 件以上報告されている。現在はヒトからヒトへの感染は例外的だと言われている。だが、
 この鳥インフルエンザ・ウイルスが突然変異し、ヒトからヒトへ感染するようになると、
 それが「新型インフルエンザ」となる。
・H5N1新型インフルエンザに感染した場合、38度以上の高熱が出て、喉、呼吸困難、
 全身の臓器の機能不全などの症状が出る。免疫を持っている人がいないため、WHOの
 調査では、H5N1に感染した十代から三十代の患者の死亡率は約70パーセントに上
 る。パンデミックが起これば、最悪の場合、全世界で1憶4千2百万人、日本では2百
 万人以上の死者が出るとの推計もある。
・優司は病院に戻った。夜間の病院はひっそりしている。前回はこの待合室の中央に仕切
 り板を立てて、新型インフルエンザの患者と一般患者を分けて対応したのだ。簡易ベッ
 ドを百近く用意したが、使うことはなかった。しかし、もし今度の新型インフルエンザ
 が強毒性のものであれば、そんなことでは追いつかないだろう。待合室はすべて新型イ
 ンフルエンザ患者の病室にしなければならない。そうなれば一般外来患者はどうなる。
 いくら新型インフルエンザが蔓延しても、他の病気が減るわけではない。
・「先生はどうしてドクターになったんですか。政治家の子供って、たいてい跡を継ぐで
 しょ」と由美子は訊ねた。 
・「高校二年の夏に母親が死んだ。すい臓癌だったんだ。ひと月、入院して逝った。親父
 は一度しか病院に来なかった。危ないと告げられた最後の一週間も顔を出さなかった。
 選挙で飛び回っていたんだ。死が間近に迫っている妻も放って選挙運動だ。それが政治
 家だと思った。僕は病院で母親に付き添っているとき、有権者と笑顔で握手している親
 父をテレビで見て、政治家には絶対にならないと誓ったんだ」
・「五年前の冬だった。僕と妻はWHOの職員として、娘と共にスイスのジュネーブに住
 んでいた。娘は昼間だけ幼稚園に預け、帰りは妻が迎えに行っていた。娘が風邪を引い
 た。娘は五歳だった。熱が出て関節の痛みを訴えたが、その日はベビーシッターに頼ん
 で仕事に出た。病状はそれほど悪くなかった。その頃、アフリカでマラリアが蔓延して
 いた。僕はその対策でアフリカに発たなければならなかった。妻も各国との連絡で本部
 に泊まり込んでいた。娘は側にいてくれと頼んだが、キリンのぬいぐるみをお土産に持
 って帰ると約束して僕はアフリカに出発した」「娘はインフルエンザで死んだ。インフ
 ルエンザ脳症だ。妻は二人目を妊娠中だった。それもあって十分に娘のケアができなか
 った。適切な処置さえしていれば、しっかり見守ってさえいれば死ななくてもすむ病気
 だ。僕は仕事のために娘を殺したんだ」「それで奥さんと別れたの」「妻は流産した。
 六ヵ月の男の子だった。それだけが理由じゃなかったが、引き金になったのは確かだ」
 「それで、WHOを辞めたんですか」なぜ辞めたのか。娘の死がきっかけになったのは
 確かだった。しかし、それだけではない。貧困の中で、あるいは難民キャンプの中で、
 日本ではすでに名前さえ聞かなくなった病に冒されて死んでいく人たちを見るのに疲れ
 たかもしれなかった。   
・「奥さんは?」「僕と別れた後に、同僚と結婚した。すでに子供も生まれたと聞いてい
 る。男の子だ」
  
・「国際空港はすべて閉鎖すべきです」高城に意見を求められた優司は言った。当然、受
 け入れられる提案でないことは承知していた。しかしそうでもなければ、水際対策など
 出来ないというのも本音だった。  
・「バカを言うな。国際的に信用をなくす」外務大臣が声を上げた。 
・「いずれ、世界もそうせざるを得なくなります」「そんなことを言うだけで大騒動が起
 こる。まずマスコミを抑える必要がある」「定期的に政府情報を流せばいいことです。
 正確で、かつ正直なものです。現在の世界がおかれている状況が理解出来れば、国民も
 分かってくれるはずです」  
・「経済損失は計り知れないな」立花財務大臣の言葉に視線が集まった。「世界銀行は次
 の新型インフルエンザの流行で世界のGDの2パーセントが失われると試算している。
 しかし、そんなものではないだろう」
・「海外には現在108万人の日本人が出ている。彼らの帰国はどうなるんだ。さらに、
 日本国内には正規登録で215万人の外国人が住んでいる。その三分の一は中国人だ。
 彼らが帰国を望んだ場合はどうなる。いずれにしても、空港閉鎖は論外だ」財務大臣と
 外務大臣が続けて発言した。
・「空港閉鎖が無理なら、中国発の航空機の受け入れ全面拒否しかありません。ウイルス
 の国内侵入を防ぐ最小限の手段です」優司は断固とした口調で言い切った。
・「空港から一国だけを締め出すなど、国際社会からも総スカンを食うぞ。直ちに同様な
 措置が取られて、日本は世界から孤立する」
・「検疫とは具体的にどうやるんだ」「問診票のチェック、サーモグラフィーでの発熱確
 認などを行ないます。問題のある乗客には医師が診察するケースもあります」
・国内発症者第一号は渡航経験のない大阪の女子大生だった。テニスクラブの練習で感染
 したらしいが、その前の経路がうやむやになってしまった。もっと徹底的に調べるべき
 であったのだ。どこかで海外渡航者に行き着くはずだ。ウイルスが突然湧いて出ること
 などありえない。 
・従来型の判定では、まずインフルエンザの簡易検査が行われる。A型、陰性、B型の判
 定でA型と判定されたら、PCR法と言われるウイルス遺伝子RBA検査をする。この
 検査で香港型がそうでないかが分かる。香港型でなければ新型インフルエンザを疑い、
 さらに詳しい遺伝子配列を調べて、すでに分かっている新型インフルエンザ・ウイルス
 の遺伝子と比較する。
・「問題は機内検疫の時間ではなくてウイルスの潜伏期間です。感染して最高5日間は症
 状は現れません」優司が声を上げた。
・今回疑われている新型インフルエンザでは、インドネシアの患者の場合、発症までに最
 長5日間かかっている。そして発症一日前には、すでにウイルスを排出していた可能性
 がある。症状の出ないまま、ウイルスを出し続ける感染者もいるのだ。
・「最低5日間、隔離して様子を見る必要があります。感染していれば、その間に発病し
 て症状が現れます。感染者の発見と共に、ウイルスの封じ込めにもなります」閣僚の間
 にしらけた空気が漂った。実行するには、かなりの反発を食う方法だ。反発だけでなく、
 補償問題や人権問題にも発展する恐れがある。
・「全員隔離して、潜伏期間の5日間様子を見ます。異常なしと判断したら帰宅を許可し
 ます。そのために飛行機から直接バスに乗せて、隔離の出来る場所に移動します」
・「水際での防御が無駄たってことは、前のパンデミックで分かったんじゃないか」
・「時間を稼ぐことが出来ました。病院の準備、薬の確保、そしてなにより国民の心の準
 備が出来ました」    
・「それにどれほどの意味がある」
・「大きな意味がありました。結果が見えにくかったのは、ウイルスが弱毒性だったから
 です。しかし、今度のウイルスはそうではない。致死率60パーセント以上という情報
 もあります。何とか国内侵入を延ばして、出来る限り準備時間を確保します」
・「現在北京滞在中の日本人は、3万人を超えています。大多数がワールド・カップ観戦
 ということです。その観客がいっせいに帰って来るんです。一人でも新型インフルエン
 ザに感染していれば、機内で必ず他の乗客にも感染します。彼らが機内検疫をすり抜け
 て、街に出ることになれば、パンデミックです。感染者を数時間で機内検疫で見つけよ
 うなんてのは不可能です。だから、全乗客をウイルス潜伏期間の5日間は拘束すべきで
 す」
・「機内検疫が失敗すると、ウイルス感染者が日本中に散っていくということか。一人の
 感染者を見落とせば、一日で数百人、数千人、それ以上広がる」
・「国内線航空機、新幹線、長距離バス、トラックの運行も止めるべきです」
・深夜の待合室に乾いた靴音が不気味に響いていた。機内検疫の強化と言ってもまったく
 意味がない。空港はすぐに大混乱に陥り、検疫は破綻するだろう。この待合室もいずれ
 患者であふれる。
・「日本は先進国だ。医療水準も世界トップレベルだ。また、そのための準備もやってい
 る。前の新型インフルエンザのときも、世界的にも低い致死率だった」
・「今度のはあんなもんじゃない。戦争と同じくらいの悲劇が起こるんだ。いや、死者の
 数からいえば戦争を遥かに超える」
・「結論はもう出た。私の一存で変えるわけにはいかない」
・「人の命なんて葉っぱ一枚より軽いんだ。一本のワクチンや一錠の薬、ちょっとした知
 識で左右される。父さんの決断で、大きな悲劇を多少なりとも軽減出来る」
・「やはりダメだ。総理としての責任がある」
・「総理としての責任って一体、なんだ」
・「国の秩序、治安、経済、すべてを護り、維持していくのが総理の務めだ」
・「国民の命を護るのが総理の最大の使命であるはずだ」
・「総理の立場としては、個人的な感情で国家の重要事項を決定するわけにはいかない。
 空港での検疫のやり方はさきほどの会議で決まったとおりだ」

・病院に入る前、携帯電話の着信音が鳴り始めた。高城からだ。
・<今、総理から電話があった。中国からのすべての航空機を現在いる空港で待機するよ
 う通告を出すことに決定した。ただし、ワールド・カップ関係のチャーター便と日本の
 航空会社の航空機は運行を続ける。さらに中国からの船舶も同じ扱いとする。すでに総
 理は官邸に戻って中国の大使を呼んでいる。外務省、国交省は大慌てだ。これは宣戦布
 告並みの強硬手段だ>
・「日本に到着する乗客は?」<すべての乗客をホテルに5日間拘束する>
・「日本の航空機だけでもかなりの数になります。十分な検疫が出来ない」<便数を半分
 に減らす。各航空会社にも緊急呼び出しをかけている>
・成田の検疫には、優司も立ち会った。客室乗務員たちは心なしか青ざめた表情で優司た
 ちを迎えた。乗客たちも緊張のため静まりかえっている。すでに乗客には機長から新型
 インフルエンザの疑いで、機内検疫が行われることが告げられていた。機内で発熱や発
 汗、関節痛の有無などの質問をして、検疫官がサーモグラフィーを使って発熱があるか
 調べる。異常のある者がいれば直ちに指定病院に送り、他の乗客はバスに振り分けてホ
 テルに直行する手はずだった。 
・「私、ちょっと風邪気味です。でも、インフルエンザなんかじゃありません」二十代前
 半の女の子が、手を上げて言った。「私もちょっと疲れぎみで体調が悪いです」それを
 合図に、5、6人の男女が手を上げた。
・優司は彼らにマスクをさせて先に飛行機から降ろし、隔離して病院に搬送するよう指示
 した。残りの乗客全員にマスクをさせてバスに誘導した。今度は大きな反対もなく、全
 員がバスに乗った。最後に搭乗員たちをバスに乗せて、機内を徹底的に消毒するように
 指示した。
  
・マンションに帰ると、午後10時をすぎていた。携帯電話の電源を入れたとたん鳴り始
 めた。
・<チャーター機の乗客に、A型インフルエンザ患者が発見された。患者は指定病院に、
 残りの乗客全員を特別バスでホテルに輸送して隔離した>
・「全員ただちにRNA検査をやってください。患者の周囲5メートル以内の乗客は特に
 厳重に経過観察をしてください。ウイルスのRNA検査結果はいつ出ますか」
・<朝には判明する。もしN5N1新型インフルエンザだったら?>
・「同じ機の乗客は全員、ホテルから病院に移してください。輸送には感染防止に細心の
 注意を払って。ホテルの部屋と航空機、バスは消毒してください」
・<中には政治的に動いている者もいてね。国会議員が便宜を図るようにと。厚労省に直
 接電話してくる>   
・そういう場合は議員も頼んだ本人も、名前を公表すべきです。自分の行為の重大性が分
 かっていない」
・「中国は何と言ってきている」
・「今回の日本の政府の措置に対して遺憾の意を表明する。定例会見での報道官の言葉で
 す。それ以外の生命はまだありません。北京の日本大使館も対応を用意はしているんで
  すが。それがかえって不気味です」
・「すぐに通関、領土問題、レアアース。すべてを使って反撃してくるでしょう。世界に
 対して大恥をかかされているんですから」
・日本国内の方が厳しいです。ただちに、今回の措置は停止すべきだ。とくに拘束は人権
 侵害だと」   
・「昨日発見された発熱者は、ただの風邪と体調不良だった。問題は病院に隔離されてい
 る一人だが、いたって元気だと聞いている。次の国会での野党の質問が恐ろしいよ」
・「それで済めばいいじゃないですか。まだ、日本には上陸していない。このまま静かに
 通り過ぎていってくれれば有り難いんですがね」
・「東日本大震災の時と同じだ。あの時も前の震災の経験がまったく生かされなかった。
 やはり拘束している乗客はすぐにでも全員、帰宅させるべきです」
・「潜伏期間が過ぎるまではいてもうらうべきだ。そう望んでいる国民も多いはずだ」
・「これで何ともなければ国を訴えると騒いでいる者もいる。休業補償を求めている自営
 業者もいる」
・「チャーター機のA型インフルエンザ患者はRNA検査の結果、H1N1型豚インフル
 エンザでした。他の風邪の症状が見られた者も季節性インフルエンザでした。H5N1
 型の新型インフルエンザの感染者はいませんでした」
・「幸運でした。このまま空港での検疫を続けてください」瀬戸崎の困惑した顔をよそに、
 優司は一礼して部屋を出た。
・マンションに帰り、優司は里美に電話をした。
・<世界中が呆れている。日本政府は中国に宣戦布告したってね。中国からの反発はすご
 いでしょ>
・「報道官の声明に止まっている。政府内部でも驚いている。というより不気味がってい
 る。
・<中国南西部に新型インフルエンザが発生していることは間違いない。豚ではなく鳥。
 弱毒性ではなく強毒性。感染力もかなり強い。でも、これはあくまで個人的見解>
・<中国雲南省の村で、新型インフルエンザが発生した。すでに感染によって複数の村が
 全滅している。軍と保健省がその処理に派遣され、死体を埋め、村を封鎖している。で
 も軍の移動によって、さらに広域へ感染している可能性がある。我々はすでに2,3千
 人の死者が出ていると推測している。感染者はその数十倍>
・<都市部での発生については、今のところつかんではいない。でも時間の問題ね。我々
 の推測では適切な治療のない場合、致死率は百パーセント近い>
・自然界では、鳥は鳥インフルエンザ・ウイルスとは共存している。しかし、たまに遺伝
 た鳥と、その群れのすべての鳥を確実に殺すが、その致死率の高さによって他の群れに
 感染が拡がることなくインフルエンザは終息する。つまり、自然界では毒性が強すぎる
 ウイルスは広がる前に宿主が死亡し、ウイルスも死に絶えるのだ。
・しかし、人間社会では違ってくる。ウイルスに感染して発症までに広範囲にわたり多く
 の人に接する。そのたびにウイルスをまき散らし感染者を広げていく。発症してからも
 抗インフルエンザ薬で延命し、その間にも多くの人に接して感染は広がっていくのだ。
・「中国政府から今日の夕方までに重要発表があると伝えてきました」外務大臣が言った。
 「いよいよ新型インフルエンザ発生の発表か。北京まで感染が広がる様相を見せている。
 中国政府も隠し切れなくなったんだ」
・「すでに雲南省全域に広がっているようです。感染者数11万9千人。死者2万人以上。
 ただし、これはインターネットの情報で非公式なものです」
・優司は絶望的な気分になった。63万人という数字が優司の脳裏に浮かんだ。厚生労働
 省が予測した。日本国内のH5N1新型インフルエンザによる死者の数だ。

・中国保健省が、テレビで中国南西部に謎の感染症が発生していると発表した。
 <雲南省を中心に原因不明の感染症が広まっております。現在保健省と軍が協力して、
 懸命に封じ込めを行なっております。また、昨日、北京でも複数の患者が発見されまし
 た。状況の速やかな発表とともに、今後もこの謎の感染症の封じ込めに全力を尽くして
 いくつもりです。それに伴い、サッカー・ワールドカップ、決勝戦中国対ブラジル戦は
 中止いたします>
・中国の発表を受けて、政府は新型インフルエンザ警戒レベルを引き上げた。ついに海外
 発生期に入ったのだ。 
・この時点ではウイルスの国内侵入を出来るだけ阻止し、国内発生に備えて態勢の整備を
 行なう。具体的には情報収集の強化、空港、港の検疫強化、発生国に滞在する日本人へ
 の帰国支援、発生国からの入国制限、プレパンデミック・ワクチン接種の検討、パンデ
 ミック・ワクチンの開発開始などだ。
・中国保健省の発表を受けて、WHO事務局長により原因不明の感染が世界的な流行を起
 こす懸念が発表された。そしてすでに世界各地でその兆候が出始めていることが述べら
 れた。<致死率は未確認ながら、60パーセントを超える危惧がなされています。中国
 からの帰国者に感染が広まっています。今後、感染者、死者は我々が考えている以上に
 増える恐れがあります> 
・WHOの報告書では、全世界の感染者がすでに30万人を超え、非常な勢いで広がって
 いる。死者は推定5万人と書かれている。
・「すでに、各国の空港には人が押し寄せていると聞いています。自国に帰る者と、自国
 を脱出する者たちです。日本も同様です」
・優司は黒木綜合病院の委員長室を訪れた。「直ちに準備に入るべきです」「しかし、人
 口呼吸器50台というのは、うちのクラスでは手に余る」「出来るだけ多くということ
 です。人工呼吸器と抗インフルエンザ薬については最終的にはトリアージが必要になり
 ますから、使用を調整することになります」
・「トリアージ」とは症度判定のことで、怪我や症状の程度を判断し、治療の優先順位を
 つけることだ。多数の死傷者が出る鉄道事故や地震を含めた大災害のときに必要となる。
・「新型インフルエンザ以外の外来は、十分の一に減ると思います。場合によってはゼロ
 に近くなります。現在、重篤な疾患を持っている患者が感染すればまず助かりません。
 高齢者、幼児についても同じです。90パーセント以上の病院機能を新型インフルエン
 ザに向けるべきです」

感染
・中国でワールドカップの中止と謎の感染症発生が発表されてから、北京にいる外国人た
 ちの帰国ラッシュが始まった。
・帰国の航空チケットの取れない者は、北京を避けて近辺の天津や上海の国際空港に回っ
 ているとの報告があった。さらに、鉄道や車で中国を脱出しようとする者も現れ、国境
 地帯では国境を越えようとする民衆に向かって軍が発砲する騒ぎも頻発していた。しか
 し、中国は依然、謎の感染症という言葉を使い、新型インフルエンザとは認めていない。
・中国政府により感染症発生が告げられた12時間後に、WHOは正式に中国で新型イン
 フルエンザが発生したことを伝えた。この発表で、H5N1強毒性新型インフルエンザ
 という言葉が初めて使われた。
・日本ではそれを受けて直ちに閣議が開かれ、「新型インフルエンザ対策本部」の設置が
 決定された。本部長は内閣総理大臣、副本部長は内閣官房長官、および厚生労働大臣、
 本部員は全閣僚である。さらに、各省庁にも新型インフルエンザ対策室が置かれ、政府
 の指示に従って各省の対策を打ち立てて対応していく。
・厚生労働省には、<新型インフルエンザ対策センター>が新たに設置された。これは政
 府と厚労省に直接方針を提言し、具体的な行動を行なう部署である。優司はそのセンタ
 ー長に任命された。
・WHO発表の最新被害報告では、世界の感染者約2百万人、死者54万人となっている。
 その数は発表ごとに爆発的に増え、この数字はすでに過去のものとなっているだろう。
・「前回の新型インフルエンザから、我々は多くの教訓を得たはずだ」「機内検疫をやっ
 たが、結局ウイルスは入ってきた。たしかに大流行は引き起こしたが、通常の季節性イ
 ンフルエンザ程度の死者しか出ていない。政府はもっと冷静に臨機応変な行動を取れな
 かったのか、というのが大半の見方だ。同じ間違いを起こすと政治問題にもなりかねん」
 と立花財務大臣は口を開いた。
・「ヒトにまだ免疫がなかったために、世界で数億人が感染しました。弱毒性といっても
 医療機関が十分でない国では、致死率0.1パーセント以上の死者が出ています」
・「たかが風邪に騒ぎ過ぎた。観光客は減り、イベントは中止になった。経済は大損失を
 受けた」     
・「こうして対策本部を作るのは、新たな強毒性インフルエンザに備えてではないのです
 か。WHOでも致死率60パーセントを超えると発表しています」「おそらく、今回の
 新型インフルエンザは比較的若い人にも多数の犠牲者が出ると推測されます。「サイト
 カイン・ストーム」という症状で二次的に多臓器不全が起こり、内臓が侵されて死にい
 たります。これは、ウイルス感染によって身体の防御反応が異常に強くなり、自分自身
 の臓器を傷つけてしまうことです」
・「国としてもっとも有効な対策は何だね」
・「感染経路を断つことです。感染経路としては、飛沫感染と接触感染、空気感染などが
 あります。今回の感染は主に前の二つです」 
・「まず、不特定多数の人が集まる所には行かない。それには、不要不急の外出を避ける
 ことがいちばんです。やむをえず人に会うときには、対人距離をしっかり保つことです。
 飛沫は1メートルから2メートル以内に飛び散ります。それに、手洗い、うがいを徹底
 する。マスクは自分のためでもありますが、他人のためでもあるのです」
・「フランスとドイツでは公共施設内ではマスクをすることが義務付けられました。違反
 すると50ユーロの罰金です」
・「金持ちが孤島のリゾート地に殺到しているそうだ。一般人でさえハワイ、グアムなど
 に逃げ出して、ホテルはどこも満杯らしい」
・「人の移動があるところ、必ずウイルスが付いて回ることを知らない人たちです。いず
 れ感染者が出ます。島は地理的に閉鎖されているだけに、一人患者が出ると感染は瞬時
 です」 
・「じゃあ、地上上で安全なところなんてあるのか」
・「その気になれば、どこだって安全です。要は、家にじっと閉じこもっていればいい。
 しかしそれが一般には出来ないことです。腹が減った、人に会いたい、仕事がある、ち
 ょっとくらい外出してもいいだろう。自ら感染を求めているようなものです」高城が淡
 々として口調で言った。
・このパンデミックの源はサッカー観戦だ。地球の一地点から、いっせいに世界各地に広
 がっていった。飛行時間が感染に要する時間となり、飛行距離が感染拡大の範囲になっ
 たのだ。スペイン風邪の時代には考えられなかったことだ。スペイン風邪は、ヨーロッ
 パから日本に到達するまでに六ヵ月かかっている。
・二回目のWHO事務局長の発表に世界は驚愕した。世界の感染者が2千5百万人、死者
 5百万人と発表したのだ。
・優司は焦った。何としても空港閉鎖を急がなければならない。
・「すでに世界的パンデミックが起こっています。しかし幸い日本では、まだ一人の感染
 者も出ていません。これは空港の検疫強化によるものです。今後も、ウイルスの国内侵
 入を断固阻止しなけばなりません」
・「きみはウイルスの進入は阻止出来ないと言ったのではなかったかね」
・「その通りです。しかし、最大の努力はすべきです」
・「すでに中国からの乗客の5日間の拘束をやっている」
・「すべての国際空港の閉鎖です」
・「各国が懸命に自国民の安全な帰国を促しているときだ。そんな手段を取れば、日本は
 国際的な非難を受ける」
・「外務省としては、そのような措置はとうてい容認出来ませんな。国外の日本人保護と
 いう観点からも問題ですし、日本国内にいる外国人にとっても迷惑な話でしょう。この
 パンデミックが沈静化したあとで、必ず国際問題になります」
・「国土交通省としても反対です。日本のみがそのような手段を講ずると、以後の国際物
 流においても排除されかねません」    
・「そんな悠長なことを言っている場合ですか。致死率60パーセント以上。このような
 ウイルスの侵入を防ぐためには、徹底的な手段を取らなければ無意味なのです」
・「少なくとも、中国からの便はすべて羽田に一本化してください。検疫を羽田に絞り込
 む。そのほうが効果的に処理出来ます」
・「きみは、まだそんなことを言っているのか。初期のトラブルを忘れたわけじゃあるま
 い。あれだけ大騒ぎして、結局新型インフルエンザの患者は一人も出ていない」
・「幸運だっただけです。いずれ感染者が出ることは明らかです」
・瀬戸崎はしばらく無言で考え込んでいたが、おもむろに口を開いた。「空港の即時閉鎖
 は私も反対です。出来るだけすくやかに、帰国を望む外国人の出国を促し、国外に滞在
 する邦人の帰国を急がせてください」
・そしてと言って、瀬戸崎は語気を強めた。「中国発で日本に入ってくる航空機は、すべ
 て羽田に着陸するように指示を出してください。5日間の拘束は続けます。それに伴い
 自衛隊の収容可能な施設をすべて利用出来るように手配してください」
・中国発のすべての着陸便は羽田に集約された。その分、羽田発の航空機は他空港に回さ
 れることになった。日本在住の外国人が帰国のため、各地の国際空港に押し寄せた。そ
 れに伴い、数日内に空港が全面的に閉鎖されるとの噂が流れた。

・「国内第一号が出た」高城が優司の耳もとで囁いた。
・日本は「第二段階」に入った。今後は国内での感染拡大を出来る限り抑える方策がとら
 れる。患者は感染症指定医療機関に隔離され治療が行われる。同時に地域住民全員への
 抗インフルエンザ・ウイルス薬の予防投与、発生地区の人の移動制限、学校の臨時休校、
 集会、外出の自粛要請等が実施される。
・「ホテルで拘束中の女性が新型インフルエンザに感染していることが判明した。彼女は
 ワールドカップツアー客の一人です」
・「現在、同じホテルで拘束中の者で、14人が発熱しています。RNA検査に送ってい
 ます。三時間後には結果が分かります」
・「覚悟はしていたが。それで、次に具体的にどうすべきなんだね」
・「まず、その女性患者と発熱者をホテルから陰圧施設のある病院に搬送してください。
 完全に隔離できる設備のある病院です」
・「今後のことだが、夜が明け次第、国民に向かって呼びかけようと思う。いよいよ我が
 国も未曽有のパンデミックに突入する」瀬戸崎総理は言った。      
・「そんな大げさのことをやると、国民に不安を与えるだけではないでしょうか」財務大
 臣が言った。
・「私はもっと大げさにしたいんだがね。もし、WHOの発表が間違っていなければ、世
 界では億単位の死者が出る。厚労省によると我が国では国民の半数約6千万人が感染し、
 63万人の死者が出る大惨事だ。戦後、一度に十万人を超す死者が出る事件が起こった
 かね」
・「国民にはどう話すつもりですか」高城が瀬戸崎に聞いた。
・「事実を話す。直ちに国内線航空機、新幹線、長距離バス、トラックの運行を停止しま
 す。地下鉄、JRの在来線、市内バス、タクシーなどの利用の注意、集会など人の集ま
 るイベントの自粛を呼びかけます。またスーパー、コンビニについては十分な商品の供
 給と共に、買い占め防止をはかるように通達を出します」
・「私が聞きたいのは、家族や友人がホテルや自衛隊施設、病院に押し寄せた場合だ。致
 死率60パーセント以上の感染症だ。患者は、もしもという確率の方が高い。会わせな
 いわけにはいかないだろう」 
・「そうなると感染はどこで広がるか分かりません。面会は全面的に禁止してください」
・「遺体はどうなるのかね」法務大臣が聞いた。
・「すぐに火葬してください。斎場に運ぶ場合も、専用の車を用意して感染には最大の注
 意を払ってください。そのすべてを政府の管理下で行なう必要があります。
・問題は遺族だ。遺体を引き取りに来るだろうが、渡すことは出来ない。遺体にはまだ膨
 大な数のウイルスが巣食っている。
・<ウイルスは人を区別するわけじゃない。等しく平等だ。隙をみせた者が捕まる>

・「今後、政府がやるべきことは?」国交大臣が聞いた。
・「空港の完全閉鎖です。早急に世界の空港に通告してください。それに港湾も同様です。
 日本に向かっている日本の船舶以外は、引き返すか最寄りの港に入ること」
・「そんな簡単な問題ではないんだ。きみは日本の国際便がどのくらいあるか知っている
 のかね。さらに、すでに外国を離陸している航空機に対してはどうすればいい。十時間
 以上もかけて日本に向かっているものもある」
・「ホテルも自衛隊の宿舎も満杯状態です。これ以上の拘束は無理です。直ちに出発空港
 に引き返してもらうことです。ただし、燃料の関係で引き返せない飛行機は受け入れざ
 るを得ません」
・「冗談でしょう。空港閉鎖ということは、日本国民の帰国も外国人の出国も出来ないと
 いうことですよ」外務大臣が驚きを含む口調で言った。「せめて、何処かに出入国ルー
 トを作ってください」
・「ウイルスも一緒に入ってくる可能性が高い。やはり完全閉鎖すべきです」
・「外務省の仕事の重要な部分に、海外邦人の保護があります。現時点で海外にいる邦人
 は百八万人です。さらに現在はワールドカップ関係で中国に多数の日本人がいます。彼
 らを日本に戻すことが非常に重要な仕事になります」
・瀬戸崎は全閣僚たちに向けて強い口調で言った。「海外の百八万人のために、日本にい
 る一億三千万人を危険にさらすことは出来ません。これが、我々政府の仕事です」

・その日の夕刻、瀬戸崎総理から全国民に向けて呼び掛けがあった。「我が国は、本日の
 最終便をもって、すべての国際線を当分の間停止いたします。さらに港湾についても同
 じ扱いとします。さらに、今回の新型インフルエンザの蔓延を防ぐために、全国の公立、
 私立を問わず小、中、高校を閉鎖します。また、学校閉鎖中の学生は原則外出禁止とし
 ます。さらにデパート、スーパー、映画館などの人の集まる所への外出は感染予防を心
 がけてください。一人の身勝手な行動により、多くの人々の危機を招くのです。日本国
 民の一人としての自覚を強く求めるものです」
・「新型インフルエンザのパンデミック・ワクチンはまだ出来ないのか」
・「現在、各国で製造準備を始めていますが、あと数ヵ月はかかります。ただしワクチン
 が出来ても、すぐに国民全員に接種することはムリです。急いで数ヵ月、通常では半年
 以上かかります。そして接種は、優先順位に従うことになります」
・「新型インフルエンザ・ワクチン接種の進め方について」のマニュアルではカテゴリーT
 からVまでに分けられ、感染リスクの高い者が優先される。発生と同時に第一線で対応
 する病院、保健所、検疫所、救急隊などに属する意思、職員などがカテゴリーTに属す
 る。カテゴリーUは国民の生命、健康、安全安心に関する職種の者。カテゴリーVは国
 民の最低限の生活維持に関わる電気、水道、ガスなどのインフラを管理する者たちであ
 る。一般の国民はその後だ。
・「閣僚は当然、カテゴリーTですな。出来れば家族も、準ずる者として同等に扱ってい
 ただけるとありがたいですな」農林水産大臣がとぼけた声を出した。
・「カテゴリーUです。ですから、数ヵ月後ということになります」
・「それは絶対におかしい。国民を護るための指示を出す政府中枢にいる者への接種がカ
 テゴリーUというのでは、お話にならんじゃないか。なんとかすべきだ」
・「たしかにその通りです。まずは閣僚を含めた政府内部の人間と、その家族を優先すべ
 きです。我々が心置きなく職務に励む環境作りこそ、重要だと信じています」
・「待ってください。それはかなり昔の第一次案で、今では大幅に変わっています。現在
 は、医療従事者、妊婦、持病のある人、一歳から就学前の小児、一歳未満の乳児の両親。
 前回の新型インフルエンザでは、この順番でワクチン接種がおこなわれました」
・判明した新型インフルエンザの患者は、ホテルから隔離施設のある病院に運ばれて治療
 が施されていた。しかし一度発症した患者は、急速に重篤化していった。特に二十歳前
 後の若者が全身疾患によって次々と死んでいった。
・抗インフルエンザ薬を与え、消炎剤や人工呼吸器など最高レベルの医療で治療された場
 合の致死率は、50パーセント前後だ。わずかながら世界平均を下回っていたが、さほ
 ど大きな地位甲斐はなかった。
・「新型インフルエンザに対抗する最も有効な手段はワクチンです。しかし、そのワクチ
 ンはまだ出来ていません」「その場合は封じ込めしかありません」「前のような中途半
 端なやり方ではなく、徹底的な封じ込めです」
・「まず、患者が出た地域全体の公共交通を全面的にストップさせます。さらに幹線道路
 はもちろん、すべての道路を封鎖します。人の出入りを完全に禁止するのです。それで
 他の地域に感染者が出なければ、封じ込めは成功です」
・「学校と名の付くところは、すべて休校とします。ひと月、ふた月学校に行かなくても、
 将来にそれほど影響はないでしょう。まず生き残ることが大事です」
・「やはり、ちょっとやりすぎじゃないのかね」
・「ちょっとどころじゃない。かなり、やりすぎだ。大都市の封鎖など夢物語だ」
・「約二ヵ月間の大都市圏封鎖。すべての公共交通、学校、商店、劇場などを封鎖すると
 いうことは、どういうことか分かっているのかね」マスコミから猛反発を食らうぞ」
・「だいたい、どうやって生活していくんだ。人が生きていくということは、食って、寝
 て、排泄するんだ。食うために食材、水、燃料がいる。ゴミも出すし、生活必需品もい
 る。電気やガス、水道がなくて生きていけるのか」
・「封鎖といっても、もちろん地域生活は営みます。生活インフラを維持する人たちには
 仕事を続けてもらいます。エリア内外の人の移動をなくすだけです。エリア内では制限
 はつきますが普通の生活が営めます。公共施設の維持には、あらかじめ必要最小限の人
 員を確保しておきます。感染者が出た場合の予備人員も含めてです。最小限の人員で、
 機能維持のみに重点をおきます。企業も同様です。必要最小限の人員で、最小の移動で
 ことを済ませるということです」 
・「もし、その封鎖都市が東京だったら」
・「同様な措置が取られます」
・「それでは国の経済が成り立ちません。いや、政治が止まる。首都の封鎖など出来るは
 ずがない。都民の誰一人として賛成しない」
・「私は、国民が賛成するかしないなど聞いていない。きみらの意見を聞きたい」思いも
 よらぬ瀬戸崎の強い言葉だった。
・「やはり、賛成しかねます」「国の経済を考えてです。東京がひと月間、封鎖され機能
 停止になると、日本経済はたちまちガタガタになります」
・「まずは、命あってのことだ。封鎖しなかった場合、今度の新型インフルエンザにより
 日本国内で2千7百万人の命が失われる。70パーセントの国民が感染して、30パー
 セントの致死率の場合だ。これは、日本人口の約2割に当たる」瀬戸崎総理は閣僚たち
 を見回した。「封鎖が完璧に行われると、死者は約3百万人、約十分の一で感染は終息
 していく。どっちを取るべきかね」   
・「たとえば東京を封鎖して、都民はどうして生活していくんですか」
・「首都圏には直下型地震に備えて、食糧、水、日用品などの備蓄品があります。それを
 すべて放出して当座をまかないます。その後は国が支えます。他の道府県の協力を得な
 がら。そのための政府です」
・「感染者は?何百万人もの病人が出るとある。日本中の病院を総動員しても収容しきれ
 ない」  
・「学校はすべて休校とします。その学校を隔離病棟とします」
 
・<どんな魔法を使ったの。あなたとあなたの国は>
・「基本に従っただけ。徹底的な封じ込め。疑わしい者を隔離して、接触を避け、消毒を
 徹底させる」
・<それがどうして、他では出来ないのかしら>
・「人間のやることだからさ。情に流され、怠慢に満ちている。だがどんなに注意しても、
 どこかでミスは起こる。針先ほどのミスも数秒後には鉛筆になり、バットになり、人が
 通れるくらいの穴になる。最初のミスを責めたり詰るのではなく、ミスを共有し、検討
 してよりミスのない方向に導く。謙虚になれということさ。新型インフルエンザの場合、
 感染は飛沫感染と接触感染だ。この二つを徹底的に注意すればいい」
・<ミスを認めて謙虚になれ。でも、どうして自分自身にそれが出来なかったのかしら>
・「人間だからさ。エゴと傲慢と小心のかたまりだ」
・今、世界では71億人の人間を狙って、その何億倍、何兆倍というウイルスがうごめい
 ている。おそらく、何千万人か、何億人か、またそれ以上の人間が命を失うことになる
 だろう。 
・生命が地球に生まれて、気の遠くなるような長い時間をかけて進化してきた。そして現
 在に至るまでに、何度となく繰り返されてきた生き残りの一過程なのだろう。
 
・優司は久し振りに黒木総合病院に行った。病院の中は一変していた。待合室の椅子はす
 べて取り払われ、簡易ベッドが並べられている。廊下にも簡易ベッドが数十床用意され、
 いつでも緊急の病室として使えるようになっていた。各病室のドアの前には消毒液を染
 み込ませたマット敷いてあった。すべて、優司がレポートとしてまとめた通りだ。
・「一般入院患者は上の階に移動させた。一般入院患者の階に入るときには、新しいガウ
 ン、マスクを着けて、手の消毒を義務づけてね。感染患者が来院した時点で、見舞客も
 禁止」と由美子は言った。
  
・<都内で新型インフルエンザ患者が出ました。患者は三十代の女性。彼女は中国に行っ
 たことはないそうです>
・「直ちに感染ルートを解明する作業チームを立ち上げてください。患者が接触した可能
 性のある人たちの割り出しです。まず職場、友人、親戚などです。少なくとも二十四
 時間以内にルートを解明しないと、手が付けられなくなります」
・優司はどうすべきか分からなかった。なぜ、都内に感染者が拡がり始めたのだ。誰かが
 中国からウイルスを持ち込んだのは間違いないのだ。
・「ホテルや自衛隊施設からではないとすれば、飛行機から検疫を素通りした者はいませ
 んか。機長、副機長、その他の乗務員で検疫を受けずに外部に出た者は?」
・「「飛行機が混み合って、検疫官が遅れたときがありました。ファーストクラスのお客
 様が何名か特別に検疫を受けたあと、迎えの車で空港から出て行きました」
・「入国手続きもしないでですか」
・「外交特権です。私たちにはどうすることも出来ませんでした」
・「外交官ですか」
・「中国大使館の高官とその家族です」
・「彼らがなぜ日本の航空機を使うんだ。自国の航空機があるだろう」
・「日本機以外は受け入れてない時期です。中国政府内で北京が危ないって情報が流れて、
 慌てて家族連れで戻ってきたんじゃないですか」
・「至急、詳しいことを調べてください」
・「中国大使館の一等書記官と妻と子供二人が空港から直接、迎えの車で自宅に戻ってい
 ます。その後は、平常通りの生活を送っていたそうです」
・「大使館の者数人が風邪だそうです」
・「空港閉鎖の前日、中国大使館から棺がひとつ本国に送られています。心臓病による死
 亡となっています」 
・「これは大都市に中に感染者を置いた場合のシミュレーションです。このように感染は
 日本全国でほぼ同時に起こり、拡大していきます。感染者が新幹線、飛行機、車に乗り、
 各地に散らばっていくからです。ただ現在のように長距離輸送が止められ、移動が自粛
 されている場合は、その感染速度はきわめて遅くなります。しかしそれも時間の問題で
 東京から徐々に広がり、その拡散速度は増していきます。シミュレーションでは一週間
 で都内全域に広がり、十日で大阪、名古屋、福岡など全国の主要都市、二週間後には日
 本全土に広がるという結果がでています」
・「東京封鎖しか手はありません」「東京の交通をすべて止めて、現在都心にいる人たち
 を外に出さないし、外からも入ってこられないようにします」
・「首都機能を止めるということか」
・「違います。封鎖区域を決めて、そのラインからの出入りを一切禁止します。内外をつ
 なぐJR、私鉄、バス、道路のすべてを封鎖します。封鎖区域内では、自由な行動を許
 します。封鎖地区外の住民で、帰宅できなくなった人、さらにその逆の人のためには宿
 泊場所を提供します。当然、電気、ガス、水道、ごみ処理など、生活インフラは維持し
 ます。ただ、封鎖区域外との硫通は限られた場所でしか行いません」
・「東京を封鎖して、新型インフルエンザを封じ込めることが出来るとはとても思えない。
 まず、そんなことは不可能だ。すべての電車、地下鉄を止めても、道路はどうなる。幹
 線道路の封鎖は出来ても、抜け道は無数にある。それらすべてを封鎖することは不可能
 だ。都心の封鎖などとは、気軽に口にしないほうがいい。国民が知ればパニックになる。
 都内を出ようとするものと、入ってくるものが殺到する」
・「東京以外の地域が感染をまぬがれれば、その地域が東京を支えることが出来ます。し
 かし、感染が全国に広がればどこも助けてはくれない。日本中が共倒れになります」
・WHOの事務局長から今回の新型インフルエンザに関して公式発表がなされた。
 <現時点での世界の感染者数は把握しているだけで4億人。ほぼ70パーセントの患者
 が重症です。すでに死亡者は2億人以上と考えられます。致死率は50パーセントを超
 えているという報告がありまs>
 <世界各国で数億人単位の感染者が報告されるなかで、日本での感染者は9百人弱に留
 まっています。死者の数も2百人程度と報告されています。また、感染者の拡大も東京
 でほぼ抑えられています。これは、徹底した拡大防止、封じ込めが成功しているからだ
 と考えられます。拡大防止は、主要交通の停止、学校閉鎖、集会の禁止など人の集まり
 を抑え、人の移動を制限したことによって成功していると思われます>
・前の政権での東日本大震災、そしてそれに続く原発事故はすべてが後手に回った。政府
 の対応のまずさが被害を拡大し、復旧、復興を妨げ遅らせた。特に原発事故では総理の
 資質さえ問われる事態になった。 
・非常時のリーダーシップの欠如、判断の誤りは国民の不幸を倍増し国を滅ぼす。二度と
 同じ過ちを繰り返してはならない。   
    
・<東京都の患者数を見たわ。そのままいけば三日で全国に広がる。その後は数日で世界
 と同じレベルになる>と里美は言った。
 <まず、北京でウイルスに感染した人たちが一斉に全世界に散っていった。まさに、ジ
 ェット機に乗ってね。さらに世界中の金持ち連中が、非感染地帯に逃げ出しているのよ。
 自家用ジェットでウイルスを連れてね。だから、パンデミックの速度がジェット機なみ
 に速い>

・警察庁長官、警視総監、消防庁長官、国家公安委員長、そして自衛隊総合幕僚長。その
 他に、厚労大臣、防衛大臣、法務大臣がいた。瀬戸崎総理は都心封鎖を決めたのだ、と
 優司は確信した。
・「君たちの意見を聞かせてほしい。東京都から埼玉、神奈川、千葉、山梨にかけて出入
 りを完全に封鎖したい。そういうことが可能かどうか」
・「この線から内側を封鎖区域とする。可能か」
・「やってやれないことはないでしょうが・・・」
・「一人二人は見落とす可能性があるが残り99パーセントは封じ込める、というのでは
 意味がありません。その一人、二人が感染者であれば、封鎖外で一気に広がります」
・「都内からの脱出が始まらないうちに封鎖すべきです。騒ぎは計り知れないが、いずれ
 分かってもらえると信じます」 
・「直ちに機動隊と自衛隊を封鎖のために移動させます。移動が終わり次第、封鎖に入り
 ます。封鎖開始と同時に、国民に向けて東京を新型インフルエンザ封じ込めのために封
 鎖したことを発表します」
・「この計画を実行するにあたり、皆さんにお願いがあります。この措置は全都民に多く
 の犠牲を強いることになります。よって、皆さんも同様の犠牲を払っていただきたい。
 そうでなければ、都民の納得は得られません」瀬戸崎総理は語気を強めて言った。「現
 在、都心に住んでいる家族を封鎖地区外に避難させることはしないでほしい。一つはウ
 イルス感染者であれば他地域で広がるおそれがあるということ。もう一つは、我々も一
 体となってウイルス封じ込めに立ち向かう姿勢を示すためです」「例外はいっさい認め
 られません。我々の強い覚悟があって、はじめて都民に認められる、いや認めさせる決
 断なのです」
・都知事は瀬戸崎より二十近くも年上だ。国会議員も務めたことがあり、瀬戸崎の先輩に
 当たる。 
・「東京を封鎖するですと。私は許さない」都知事は瀬戸崎の話を聞くと語気を強めた。
・「これは都民、いやすべての日本人を護るためです」 
・「都心封鎖が、なぜ都民を護ることになる。ウイルス漬けにして、都民全員を殺してし
 まうと言っているようなものだ。どうしても必要なら自衛隊を使って勝手に封鎖すれば
 いい。私が身体を張って阻止してやる」
・衆議院本会議場は議員たちで埋まっていた。議会史上初の異例の集まりが開かれようと
 していた。東京の残っていた衆参両議院議員、合わせて四百名余りが瀬戸崎総理の呼び
 かけで集まったのだ。     
・「現在、わが国を含め、世界は稀に見る危機的状況に陥っています。今日は皆さんに異
 例の提案をお示しします。それに先立ち、今日の審議については議場を一歩出れば他言
 無用にお願いしたい」
・「我が国は民主主義国家だ。そんなバカなお願いをする総理がどこにいる」
・「政府は国の存亡に関する有事に際しては、国会の審議を経ずして行動を優先する場合
 もあります。しかし私は、そのようなことは可能な限り避けたいと思っています」
・「私は断固反対するぞ。総理はもっと理知的な常識を持った人かと思っていた」与党議
 員からも激しい口調の言葉が飛んだ。
・「これはある種の戦争だと理解してください。これは、人類対ウイルスの戦争なのです。
 この戦いに勝者はありません。人類が生き残るにしても多大な犠牲を払うでしょう。し
 かし、なんとしても生き残ること。それを目指すだけです」
・「WHOも都市全域の囲い込み封鎖などという、馬鹿げたことは推奨していないぞ」
・「218人です。現在の我が国の死者です。この数日間でこれだけの数の患者が死んで
 いきました。この数字が大きいか小さいか・・・」「アメリカでは、すでに1千万人以
 上の人が亡くなっています。EUでも2千万人弱の死者が出ています。日本の死者の数
 は奇跡的に少ないのです」
・「我々は多くの幸運にも恵まれましたが、いちばんの力は皆さんの決断力です。中国か
 らの乗客全員5日間ホテルに拘束する。空港閉鎖、国内長距離輸送の停止、世界で日本
 のみが取った措置です。簡単なようで出来ないことなのです。せっかくの奇跡を出来る
 限り維持したいのです。そのためには東京の封鎖しかありません」
・「騙されるな。機動隊と自衛隊を使って東京を封鎖するなど、前代未聞の民主主義を否
 定する行為だ。戒厳令と同じじゃないか。戦前に逆戻りだ。我が党は徹底的に反対する
 ぞ」     
・「こんな重要なことは、もっと議論する必要がある。こんないいかげんな説明会じゃな
 くて、正式な国会審議として議論したい」
・「これ以上議論を続けても意味がないですな。大体、このような話を根回しもなく国会
 で話すこと自体、馬鹿げている。ついに瀬戸崎総理もぼけてきましたかな」優司の背後
 から閣僚の声が聞こえてくる。

・中国からの帰国者の5日間の拘束以来、政府関係者の機関に対し、最高責任者や家族を
 殺してやるとか、感染させるとかいうメールが多数送られてきた。最高責任者というと、
 総理に違いない。
・「どうなっているんだパンデミック・ワクチンは」
・「遺伝子解析はすでに出来ている。しかし、これだけ世界中に広がると製造に支障が出
 ることは明らかだ。地球に全人口、70億人。その三分の一が接種するとしても24憶
 人分だ。現状を考えると、71億人全員が受けようと押し寄せる。いや、すでに世界の
 人口はここ数日で69億人に減少しているか。だが今から製造と接種の世界的体制を考
 えておいたほうがいいぞ」 
・確かにその通りだ。ワクチン製造には、膨大な時間と手間がかかる。通常の季節性イン
 フルエンザの場合、国立感染症研究所が選定したウイルス株でワクチンを作る。しかし
 新型インフルエンザの場合はWHOに世界中から検体が集められ、新型インフルエンザ・
 ウイルスの同定が行なわれる。そのウイルスを標準ウイルスと混ぜて危険性を低減させ、
 混合ウイルスを形成させるのだ。
・この混合ウイルスの安全性と実証性、安定性を検証して、有効であればワクチン株とし
 て世界のワクチン製造メーカーに配布される。ウイルス培養には日本ではニワトリの有
 精卵が使用され、一個で一人分のワクチンを作ることが出来る。こうした工程だけで数
 ヵ月かかるのだ。また新規のワクチンの場合、安全性も重要になる。
・1976年アメリカ、ニュージャージー州では国が豚インフルエンザの流行を予測して、
 陸軍の兵士にワクチン接種を行った。これのワクチンには副作用があり、「ギラン・バ
 レー症候群」という神経障害が増加した。おまけにこの年にはインフルエンザは流行し
 なかった。    
・「日本国民全員のワクチン製造には半年はかかる。しかも有精卵が手に入ればの話だ。
 世界全体となると見当がつかない」
・プレパンデミック・ワクチンが予想していたほど効かなければ、かなりの数の医療従事
 者、ライフライン維持者に感染者が出るだろう。さらに恐ろしいのは、人々に与える心
 理的影響だ。素手で致死率60パーセントにも及ぶウイルスと闘わなければならない。
 患者に直接触れ、感染の可能性が高い医療従事者にとっては、かなりショックなことだ。
 ただでさえ人手不足のときに致命的なことになる。
  
・<今日の午後十時をもって都心封鎖を開始する>
・「封鎖は明日の午前五時じゃないんですか」
・<総理がそう決断した。これはまだ極秘事項だ。直ちに官邸に来てほしい>
・突然、時間を変えることなど出来っこない。瀬戸崎総理は初めからそのつもりだったの
 だ。

封鎖
・その日の夜、瀬地崎総理の重大発表が伝えられた。
・「現在、日本を含め世界は、いまだかつて経験したことのない未曽有の危機に直面して
 います。世界に広まっているH5N1新型インフルエンザは、過去の世界を巻き込んだ
 どの戦争よりも、また過去に起こったどの自然災害、これまでのどのウイルスや細菌に
 よるパンデミックよりも深刻なものとなっています。現時点においても、WHOの最新
 発表によると世界の感染者数は予想を上回る8億人におよんでいます。すでにその半数
 を超える約4憶3千万人の方々が亡くなりました。感染者も重体の方多く、死者はます
 ます増える見込みです。この数はすでに1918年に世界に吹き荒れたスペイン風邪の
 犠牲者を遥かに上回っています。しかも今後この数倍の犠牲者を出すとも言われていま
 す」
・「しかし幸いというか、我が日本においては奇跡的に感染者数が抑えられ、感染地域も
 きわめて狭い範囲に限定されています。だが残念なことに、徐々に感染が拡がりつつあ
 ります。このままの状態が続けば、いずれ国中に広がることは避けられません。政府で
 は慎重な討議の結果、東京都心を当分の間、封鎖せざるを得ないとの結論に達しました」
・都心封鎖。言い換えれば東京を犠牲にして、地方を救うということだ。地方としても、
 何としても成功してもらいたいのだ。
・「都内の感染症患者の入院施設はすでに満杯状態です」
・「学校の講堂、体育館、足りなければ教室を隔離施設として使う」「ベッドと医療器具。
 患者が重篤になれば必ず呼吸困難に陥る。人工呼吸器を出来るだけ多く確保してくれ」
・「こんなことなら、何でもっと早く報せないんだよ」
・「だったらお前はどうした?」
・「東京なんてとっくに逃げ出して、田舎に帰っているよ」
・「だから政府は封鎖してから報せたんだ。事前に知ってりゃ、田舎のある者は東京を逃
 げ出して故郷に帰ってるだろ。新型インフルエンザのウイルスを土産に持って。それで
 田舎にも新型インフルエンザが広がり、日本中に蔓延していくんだ」
・「WHOの最新の発表によると世界の感染者は予想を上回り10億人を超えています。
 わずか数日でこの状態です。世界の大部分の企業、特に工場は休業中なんです。旅行社
 やホテル、旅館も閉じています。フル稼働しても追いつかないのは、マスク、ゴム手袋、
 消毒剤なんかの医療用品を作っているところだけです。どんどんアルバイトを雇い入れ
 てます」    
・「ウイルスの封じ込めは単純だ。基本的にはウイルス保菌者を把握して隔離すればいい。
 もっとも注意することは、自分を含めて周りのものが感染しないこと。これが一番難し
 いんだが」 
・「各区の保健所に封鎖エリア内のホームレスを集めるように指示を出しました。一人で
 も感染していればウイルスをまき散らすことになりますからね」
・「公園と学校にテント村を作って収容します。東京都には首都圏直下型地震に備えて、
 避難所を作る用意があります。それを利用します」
・「食糧はどうする。NPOやボランティア団体に炊き出しなんて期待できないぞ」
・「地震用の備蓄食糧と水があります。都民に配ることになっていますが、まだ余裕があ
 るはずです」  
・「会社の維持管理に必要最小限の人員を封鎖地区外から入れることは出来ないかという
 問い合わせが多数あります。突然の都心封鎖で必要な人員が都心で確保できないとのこ
 とです」
・封鎖地区では、すぐに銀行の維持管理どころではなくなる。町には人がいなくなり、病
 院は患者で溢れる。町中の店がシャッターを閉じて、人々は家にこもり、祈りながらこ
 の疫病が通りすぎるのを待つだけである。
・「病院にタミフルとリレンザを求めて患者が殺到しています」
・「海外でも同様な騒ぎが起こっています。騒ぎを起こしている者の半分以上が非感染者
 だと言われています。今のうちに抗インフルエンザ薬を確保しておこうということです。
 この時期に病院内に入ること自体、感染リスクが高いってことを伝えてください」
・「家にいて、家で出来ることをしているのがベストってことを各家庭に浸透させること
 です。日本人ってのは、ゆっくりじっと待つことが出来ない人種なんですかね」
   
・久しぶりに訪れる黒木総合病院だったが、雰囲気はまったく変わっていた。病院全体が
 ピリピリした緊迫感が支配し、殺気だっている。入院患者は満員の状態だった。
・黒木総合病院では、パンデミックが起こった場合の病院の対応をまとめた冊子を作って
 いた。まず症状によって、患者をレベル1からレベル3までに分ける。
 レベル1:発症期にある患者である。タミフルかリレンザを与えて、自宅療養か一人住
      まいの場合は病院に一階に収容する。
 レベル2:症状がかなり進み自宅では看切れない患者で、二階と三階に収容する。
 レベル3:症状がされに進み回復見込みが低い患者で、四階に収容する。
 五階は一般患者病棟である。
・「会いたかったです」由美子が優司を見つめて、小さな声で言った。優司は突然の言葉
 と、由美子の真剣な表情に戸惑った。
・「多くの者が恐れ、逃げ出す機会をうかがっている。しかし、義務感や責任感で何とか
 踏み止まっている」「スタッフが感染したり逃げ出したりして、半数になったところも
 ある。大部分の病院で医療品が足らない。明らかに準備不足だ」「しかし、人には限界
 がある。みんな疲れている。休むようにも言ってほしい」
  
・「日本経済はガタガタです」財務大臣が言った。
・「世界はもっとガタガタになっています。アメリカでは、ニューヨーク、ロサンゼルス、
 シカゴなどの証券、金融取引部門はすべて閉鎖しています。株式と為替相場は全世界で
 取引中止です。工場、商店の大部分は閉じられ、大都市からは多くの住人が逃げ出して
 います。残っているのは、中、下層階級の逃げ出すところのない者ばかりということで
 す」
・「これでは、ペストが流行った中世ヨーロッパと同じだ」
・このペストの大流行で世界人口の三割が死亡したと伝えられている。
・「アメリカでは金持ちたちはまず大都市から地方都市に逃れたのですが、それが感染を
 広める原因になったようです。南部や中部の地方都市まで、患者が溢れているという状
 態です。アメリカの田舎には、こういう感染症に知識がない住人が多いうえに、隔離施
 設も十分にはありません。医療施設も何十マイルも離れた町まで行かなければなりませ
 ん。ちょっとした風邪だと思っていたら、突然高熱が出て動けなくなる。今回の新型イ
 ンフルエンザの特徴です。数日、連絡が取れないので家に行って見ると、家族全員が血
 まみれで死んでいたということもあったそうです」
・「ニューヨークの下町は、路地にまで死体が転がっているそうだ。それをネズミが食い
 荒らして、さらに感染を広げている。市の清掃係はとっくに逃げ出しているということ
 だ」
・WHOは、日々被害状況の予測を上方修正している有様だ。現在のところ、最終的には
 世界人口71憶人の80パーセントが感染して、その50パーセントが死亡するとして
 いる。それが事実ならば、約57憶人が感染して、28億人あまりが死亡することにな
 る。これはとんでもない数字だ。世界人口は一気に減少するのだ。
・「東京はやはり日本経済の中心です。その場所が完全に機能停止になるということは、
 企業のみならず日本自体が沈没するということです」
・「とはいえ、世界全体の機能が麻痺しつつあります。大都市から人が逃げ出し、空港や
 港が閉鎖されているのです。こんな中で企業活動が出来ますか」
・「世界の企業が麻痺するからこそ、どこか一カ所でも機能を生かしておかなければなら
 ないでしょう」   
・こんな事態の時にも企業の存続を考える日本人に驚きを覚えた。
・政府の方針が徹底したせいか、町を歩く人はほとんどいない。通りの両側に並ぶすべて
 の店のシャッターは閉まっている。開いているのはコンビニやスーパーといった、政府
 の指示で開店を義務付けられている店だけだった。その店もレジ係だけという風に最小
 限の店員だけでやっている。
・テレビでは住民が暴徒となって店を襲っている海外の映像が多数流れている。日本でも
 すでに略奪は何件か起きているが政府は公にはしていない。もっとも恐れているのは暴
 動だ。 
・一部の自衛隊員に銃を持つ許可が出た。脱出を阻止しようとした隊員がナイフで刺され
 て死亡したのだ。今回は大きな反対の声も上がらなかった。総理の訴えが効いたという
 よりも、集会など人が集まる催しが自粛され、また人混みに出ることをみんなが恐れた
 からだ。マスコミも疑問を投げかけながらも際立った反対はしなかった。この殺人ウイ
 ルスに対応する手段としては、他に適切な方法を提示できなかったのだ。
・東京以外で発行される全国紙も、地方紙に踊る見出しも、地方から放送されるテレビや
 ラジオも、連日増え続ける死者の数に圧倒され、政府批判どころではなかった。マスコ
 ミの大部分が機能を停止していた。
・封鎖から一週間で感染患者は20万人以上に増えた。死者は5万人を上回っている。し
 かも、その数は指数関数的に増えているのだ。
・封鎖が長引くにつれて、様々なデマが飛び交い始めた。ゴミ収集の作業員が多数感染し
 たというのもあった。ゴミの収集が一時止まった。作業員の半数が休んだのだ。作業員
 は医療用のゴム手袋の上に作業用のゴム手袋をして、フェスガードをつけて作業するこ
 とになった。  
・電気店の店頭から空気清浄機が姿を消した。売れ切れたのだ。特殊なフィルターで新型
 インフルエンザ・ウイルスを完全に除去でき、この空気清浄機を置いておけば空気中の
 ウイルスが除去されるという。しかし、そもそもインフルエンザ・ウイルスは空気中に
 はそれほど多くはない。空気感染はしないのだ。感染者が咳やくしゃみをした場合は塊
 となって飛び出すが、空気中を長く浮遊することはない。
・ウイルス殺菌マスクも現れた。マスクに染み込ませた消毒液がウイルスを殺すというの
 だ。  
・さらに加湿器が爆発的に売れ始め、すぎに売れきれになった。テレビで連日顔を見るウ
 イルス学者が、インフルエンザ・ウイルスは湿気に弱く、うちには各部屋に一台、合計
 五台の加湿器があると言ったのだ。確かにウイルスは湿度の高いところでは長くは生き
 られない。しかし、数日後、そのウイルス学者も感染し隔離された。愛人との直接接触
 で感染したという噂が流れた。
・「これから我々のやることは?」財務大臣が優司に向かって聞いた。
・「出来る限り正確に現状をマスコミに伝えてください。感染者の数、死亡者の数、不足
 している医薬品。WHOから得られる世界の状況。そして、これから政府がとる政策。
 すべてです。情報の公開と正しい説明、それが封鎖の成功につながります」
・東日本大震災時の原子力事故では初期対応がでたらめだった。そのため、国民が以後の
 政府の言葉を信じなくなったのだ。
・「東京の状況を全国に流しましょう。医療施設もすべて包み隠さず報せるべきです。我
 々の窮状も全国民が平等に分け合ってこそ支え合う精神が生まれ、新しい道が開けると
 いうことです」「遺体安置所も含めてですか」「すべてです」
・「現実を知ることで、自分たちの置かれている状況も正しく理解できるということか」
・翌朝は厚労省と各区の保健所の指導のもとに、テレビ局は都心の状況を詳細に伝え始め
 た。医療施設の様子や、現場で働く医師や看護師の生の声も伝えられた。
・放送と同時に、封鎖ラインの各地点に設けられた物資の集積地点に届けられる全国から
 の救援物資の量は数倍になった。それらの荷物は、自衛隊の手で封鎖エリア内の各区の
 配給所に集められた。そこで仕分けされ、各家庭に配達された。
・音を消したテレビでは南米で発生した暴動のニュースを流していた。貧しい身なりの人
 たちに、盾を持った警官たちが警棒で殴りかかっている。抗インフルエンザ薬を求めて、
 病院に入れない患者やその家族たちが病院や薬局を襲って略奪を始めたのだ。
・「よけい感染を広げ、治療のチャンスをなくすだけだ」

・都心の入院施設のある病院は、すべてが収容人数を大幅に超えていた。通常ベッド数の
 数倍の患者が入院しているところもある。当然、医師も看護師も不足していた。
・国の方針に従っているとこうなった」中年の医師は顔を歪めるようにして言った。
・国の方針とは、診療拒否をしてはならないということだ。診察して症状を判断すれば、
 入院となる患者が大半だった。2,3時間の待ち時間の間に急激に悪化する患者も多く
 いた。特に、子供と老人が多かった。さらに、自分で車を運転してきた患者が診察を終
 えるころには、もう自力では立ち上がれなくなっているケースも少なくない。
・「かといって、病院でさほど有効な治療が出来るわけじゃない。せいぜい、抗インフル
 エンザ薬を飲ませて点滴をするくらいだ。あとは人工呼吸器が待っている。それも決定
 的に足りない。そうなると数日の延命は出来るが、回復などとてもムリだ。こうした悪
 循環が病院を満杯にして、ウイルスを増殖させているんじゃないかと思うことさえある」
・たしかに助かる見込みのない患者を延命させることにより、膨大なウイルスを増殖させ、
 排出し、他に感染させる危険を高めている。医師にとっては虚しい行為に違いない。
・「現在の斎場以外に遺体の火葬施設が必要だ。フルタイムで稼働しているがとても追い
 つかない。冷凍庫に保管するにしても限界がある」
・「医薬品が足らない。あの病院の消毒液はほとんど入っていなかった。ストックが少な
 くなっているからだ。おそらくマスクも手袋も不足している。感染はそういうところか
 ら始まる」
・「歴史の繰り返しかも知れないな。こうして、繁栄を誇った生物種が淘汰されながら歴
 史は作られていく」     
・この封鎖は日本の国民が生き残るためのものだ。この狭い島国に感染が広がればどうな
 る。一気に感染爆発が起こり、日本は感染者の死体で溢れ、死の国になってしまう。医
 師も看護師もいなくなる。何とかして食い止めなきゃならないんだ」
   
・今まで季節性インフルエンザ・ワクチンは、限られた施設でしか製造されてこなかった。
 一般の製薬会社は利益の少ないワクチン製造を敬遠してきたのだ。
・「研究所、大学、企業に専門家を派遣して生産施設を増やしてはいるが、急な増産など
 出来ない」  
・「鶏卵の準備はどのくらいできている。日本の場合、鶏卵がなければいざ生産というと
 きにどうにもならないだろう」
・「幸い日本は現在のところ、地方でのお感染は空港だけだ。今、全力を上げて全国で有
 精卵を確保している」
・「東京の人口千三百万人のうち、封鎖エリアに閉じ込められているのは七百二十万人っ
 てところだ。致死率がWHOの発表では以前60パーセントだ。ということは、全員が
 感染するとすれば、死者は百四十四万人になる。膨大な数だ。ここ数ヵ月の間にそれだ
 けの死体が都心に溢れる。東日本大震災の時には二万人近くが亡くなった。その七十二
 倍の人が死ぬんだ。病院はもとより、斎場の数だってとても足りない。町中に溢れる死
 体の山。おまけに、これから本格的な夏場に向かう。どんなことになるか想像すると吐
 きそうになるね」
・「里美がWHOが中国で手に入れた血液サンプルをすでに世界の研究機関や大学に送っ
 たと言っていた」 
・「パンデミック前にWHOが全世界のP4実験室のある大学や国立研究所に正体不明の
 血液サンプルを送ってDNA解析を依頼してきた。
 どうやらそれが、中国で初期にH5N1新型インフルエンザ・ウイルスに感染した者の
 血液だったようだ」
・「だったら、すでにワクチン株が出来ていてもおかしくなないだろう」
・そこが今回のウイルスの怖いところだ。すでに遺伝子のかなりの部位で変異が起こって
 いる。つまりそのウイルスは過去のものと言うわけだ」
・「現在の死者数は?」
・今日の段階で、10万2千5百人と報告を受けています。急激に増え始めています」
・「この数字はやはり国民に発表すべきかね」
・「発表すべきです。自分たちの置かれている現実を直視すべきです」
・「公表はもっと慎重に考えた方がいい。肉親が閉じ込められている者もいるんだ。おま
 けに封鎖地域内でパニックが起こり、東京から逃げ出そうとする住民と、機動隊、自衛
 隊との衝突でも起こったら取り返しがつかない」
・「モスクワではすでに民間人と軍との衝突が起こり、数百人の死者が出ているようです。
 ロサンゼルス、ニューヨークには非常事態宣言が出され、銃を持った州兵が市内をパト
 ロールしています」  
・「アメリカやEUまでもが生活インフラに混乱が出はじめているようです。電気、ガス、
 水道に携わる職員が感染して、完全な人手不足に陥っています」
・「日本は医療関係者と生活インフラを支えている者には、すでにプレパンデミック・ワ
 クチンが接種されている。このワクチンの効果には、かなり疑問が持たれているようだ
 がね」
・アメリカやEUの都会では、大部分は家庭で家中の窓を閉めて閉じこもっている状態で
 す。電気が止まればエアコンも止まります。これから本格的な夏が始まります。そうな
 れば、何が起こるか分かりません。さらに政府の閣僚や官僚にまで感染者が出て、政府
 機能までが危ぶまれている状況です。いずれ、日本もそうなる可能性があります」
・「都内での小売りに関する経済活動はスーパーやコンビニをのぞいて完全にストップし
 ていますが、その他の企業については開店休業の状態です。本来、この状況で経済が動
 くというのは無理な話です」   
・「企業に対してはあとで補償が必要になるかもしれませんが、現在のところは全面的に
 協力してくれています」
・「封鎖期間の食糧、生活必需品のついてはすべて政府が支給する。感染者は直ちに隔離
 して、家族も外出を禁止してください。住民は外出を最小限にして家にうることを徹底
 してください」
・「まるで戒厳令だな」
「そうです。戒厳令です。ただし政府ではなく、住民を護るためのね」
・CNNで伝えられる世界の大都市は、そのほとんどが死の街に変わっている。通りを歩
 く人はほとんどなく、地下街や地下鉄の通路、ホームの片隅、公園の植え込みの中、路
 地裏にはホームレスの死体が転がっている。新型インフルエンザはまず大都市で爆発的
 に広がり、その歳を飲み尽くしながら同時に地方都市へと広がっていった。
・2008年に世界同時不況というのがあった。アメリカの投資会社の破綻から始まった
 不況は一瞬のうちに海を越え、世界中で企業の倒産と解雇の嵐が吹き荒れた。しかし今
 回のパンデミックは、そんな次元のものではなかった。
・「遺体はどこに?」
・優司たちはプレハブの建物に案内された。優司は一歩踏み込んで、思わず足がすくんだ。
 全身が硬直したようで動かない。身体中の血がすっと引いていった。頭の中が白く染ま
 っている。全身に冷気が走ったのは建物が冷却されているせいばかりではない。体育館
 とはまた違った臭気が立ち込めていた。それは明確な死の臭いだ。目の前にあるのは遺
 体袋の山だった。  
・「火葬の順番を待っています。しかし、ここもそろそろ限界に近い。いずれ決断を下さ
 なければならないでしょう」
・「埋めるのですか」
・「一時的になるとは思いますが。現在は建物の冷却に加えて、死体袋もドライアイスで
 満たすようにはしています。だが腐敗を完全に防ぐことはできません」
・「これだけの遺体が一度の出たことはありません。東日本大震災のときですら最初は一
 万に足りませんでした。それに三月、東北はまだ雪が降っていました。さらに移動が自
 由にでき、他県に運び火葬できました」
・「豚インフルエンザ前に政府が策定したパンデミック・マニュアルでは、公園などの公
 共の土地に穴を掘って臨時に埋めておくことになっています。これには学校の校庭も含
 まれます」  
・「至急、都内にある冷凍施設と冷凍船を調べてくれ」
・「本気ですか?遺体安置所ですよ」
・「ほかにいい方法があるか。氷やドライアイスだけでは遺体の腐敗を防ぐことはできな
 いんだ。火葬できる数は限られている。おまけに、今後ますます増え続ける。埋葬する
 と、いずれまた掘り出さなければならない。そんな危険を冒すより凍らせるのがいちば
 んだ」
・「業者は絶対にいい顔はしないだろうな。なんせ、マグロや肉の代わりに遺体を凍らせ
 るんだ。おまけにウイルスもだ」
・遺体の搬送はその日から始まった。都心全域から冷凍庫付きの車で運ばれてきた遺体が、
 港に並ぶ複数の巨大な冷凍庫と東京湾に集められた冷凍船に運び込まれた。その数はゆ
 うに十万を超えている。そして今後も続く作業だ。

・「日本国民のみなさん。私がここでみなさんに話すのはすでに三度目です。一度目は、
 空港閉鎖の決断を発表しました。そして二度目は、都心封鎖を告げました。それには、
 多くの犠牲が伴うことを説明しました。同時に、みなさんの協力と忍耐が必要なことを
 お願いしました。その犠牲はいまも続いています。そのおかげで、日本では新型インフ
 ルエンザは封鎖地区内で抑えられています。世界の状況から考えると、これはまさに奇
 跡なのです。この悲劇は世界中で起こっています。その規模はまさに想像を超えたもの
 です。みなさんもテレビニュースやインターネットで、すでに承知していると思います。
 最近のインターネットに、大挙して都心を出ようという書き込みがありました。それは
 みなさん自身のみならず、日本中の我々を支え見守っている全国民にとっても大きな脅
 威を与えるものです。この見えざるウイルスは、どこに潜んでいるかわかりません。み
 なさんはさんざん見てきたはずです。数時間前まで楽しく会話していた家族、友人が突
 然発熱し、血を吐き、呼吸困難におちいり倒れていったのを。みんなじぶんだけは感染
 していない、家族だけは大丈夫だ、と信じていたに違いありません。それは間違いです。
 ウイルスはどこかに潜み、新たな感染者を狙っているのです。それから逃れるためには、
 ただじっとしているしかないのです。どうか、軽率な行動によって、このウイルスを封
 鎖地区外に出すことのないよう自制をお願いしたい」瀬戸崎総理はテレビカメラを見つ
 けて話した。  
・中国、韓国、台湾、そしてベトナム、タイなど東南アジアの国々から、多数の難民船が
 日本を目指して航行していることが確認された。すべて新型インフルエンザから逃れて、
 日本を目指しているのだ。
・「巡視船は直ちにその難民船の海域に向かい、そのまま国に帰るように告げてください。
 どんなことがあっても日本近海に近づけないように。場合によっては武器使用を許可し
 てください」「同時に日本の全沿岸の警戒を強化してください。一人でも感染者が上陸
 すれば、今までの努力がすべて水の泡になります」瀬戸崎は断固とした口調で言った。
・何かが違っている。優司は自分のまわりで繰り広げられている会話に驚愕に近いものを
 感じていた。もっと他のやり方があるのではないか。このままではパンデミックが終息
 した後、世界が崩れ去ってしまう。
・都内の感染者数はすでに3百万人を超し、死者が35万人を超えていた。

・<ワクチン株が出来たわ。今、製造方法をまとめているところ。あと数時間で世界中に
 配信できる>久し振りに里美の明るい声が聞こえてきた。やっと世界が切望していたも
 のが手に入ったのだ。製造方法が届きしだいワクチン株をつくり、ワクチン製造ライン
 が動き出す。
・しかし最初のの新型インフルエンザ・ワクチンが出来るのはまだ先であり、その数も限
 られているのだ。早急にその接種方法も考えなければならなかった。
・優司は、東都大学のウイルス研究所を訪れいた。今朝突然、黒木に呼ばれたのだ。
・「新しいパンデミック・ワクチンだ。今までの倍以上の効率で抗体を作る」「このワク
 チンは細胞培養で作った。だから早く出来た」
・「まだ完成したわけじゃない。これから厚労省に申請して認可を待たなきゃならん。治
 験のデータを取るのに時間がかかる」つまり認可が下りるまでには、まだ数年かかると
 いうことだ。 
・「副作用については?」
・研究室全員に接種したが、副作用のあった者はゼロだ。俺のワクチンでおかしくなった
 やつはまだいない」 
・普通、薬の認可には数年かかる。新薬が開発されると、病院に依頼して時間をかけて安
 全性と効き目を調べていくのだ。認可はその結果を見てからだ。
・「今度の事件で世界が変わりますよ。ある研究機関によると世界人口の四割が死亡する
 という結果も出ています。その半分でも、おそらく価値観が変わりますよ。人間同士で
 争っている場合じゃないってこともその一つです」
・「副作用は大丈夫だ。接種者には十分な抗体ができている。現在、厚労省では、WHO
 から届いた製造方法でワクチン株をつくりパンデミック・ワクチンの製造をやっている。
 それをうちで開発したパンデミック・ワクチンに切り替えてほしい」黒木の顔は真剣だ
 った。 
・「まだ開発段階なんだろ。治験もすんでない。被験者は何人だ」
・「お前を入れて215人だ」
・しかし、まだ海のものとも山のものとも分からない薬だ」
・「この非常時だ。どこにどうやって許可を取れと言うんだ。多少の副作用が出ても、生
 存確率の高い方を選択するのが利口ッてもんだ」
・優司はもう一度、治験データを見た。たしかに、注目に値するデータだ。このワクチン
 に切り替えると現在のパンデミック・ワクチンの製造を続けた場合に比べ、うまくいけ
 ば十倍以上の人に接種を受けさせることができる。
・「安全性というのは直後の副作用が出ないということに加えて、後遺症が出ないという
 ことも含めてだ。時間をかけた検証が必要なんだ」と高城は言った。
・「その時間がない場合は?」
・「許可出来ないということだ」高城はきっぱりと言い切った。
・「人の命がかかっている問題です。それも一人、二人じゃない。あなたの判断で何億と
 いう人が救われるのです」
・「今の状況では、日本で作れるかどうかさえも分かっていないんだ」
・「世界に提案すればいい。旧型ワクチンと黒木の新型ワクチン、世界はどちらを選択す
 るか、決めさせればいい」   
・<我が国では黒木君のワクチンを製造することに決定した。五人の専門家と製薬会社の
 ワクチン製造責任者二人の討議の結果だ。4対3の決定と聞いている>優司に瀬戸崎総
 理から直接電話があった。

・「このウイルスの変異の早さは、人工的に作られたウイルスである証拠だって言う人も
 います。つまりどこかの国のウイルス兵器用に作られたものが、誤って外部に漏れ出た
 んだと」
・<東京は、世界の主要都市とは感染者、死者共に二桁から三桁違う。おそらく歴史に残
 る事実となる。スペイン風邪のときのフィラデルフィアとセントルイスのようにね>
 と里美は言った。
・「このパンデミックが収まっても、東京は数ヵ月、いや数年間は機能停止だ。死体と失
 業者と倒産企業であふれている。その復興までの間は地方に養ってもらうことになる」
 と優司は言った。
・<世界はもっと深刻よ。この夏の農業収穫物は四分の一以下に減少している。小麦、ト
 ウモロコシ、大豆、食糧の値段は急騰確実。どこの国も輸出はしないでしょうね。中東
 やロシアもかなりの打撃を受けているから、石油も上がる。工業生産も三分の一以下に
 落ちる。株価なんて値の付けようがない>
・<経済から貧困が生まれ、健康が蝕まれる。世界には飢餓が蔓延する。今年の冬は餓死
 者と凍死者がかなり出る。まず子供、老人、女が死んでいく>

・都心封鎖からひと月がすぎた。都内の交通はほとんど車に限られていたが、最近になっ
 て自転車が見られるようになった。たまにタクシーが通るが、たいてい客は乗っていな
 い。大部分の人が自宅でひっそりと暮らしているのだ。
・テレビ、新聞、ラジオ等のメディアは東京にあったキー局の機能を大阪と名古屋に移し、
 東京と世界の状況を発信していた。
・全世界ではすでに感染者は40憶人を超え、死者9憶人を突破していた。まさに歴史上
 最悪のパンデミックだった。  
・発展途上国では火葬や埋葬が間に合わなくて、ブルドーザーで掘られた巨大な穴に遺体
 を並べて石灰をまいて土をかぶせていく映像が何度も流されていた。また、広場に積ま
 れた何十もの遺体にガソリンがかけられて焼却されていく映像もあった。世界が人の死
 に慣れ、遺体が”もの”のように扱われていくのだ。
・日本の様子が海外に紹介されていた。ほとんど人影の見られない新宿、丸の内、渋谷、
 銀座などが映し出されている。さらに、数百、数千の遺体が並べられた冷凍庫と冷凍船。
 しかし封鎖ラインを一歩出ると、様相は一変した。封鎖地区外では日常生活が平然と営
 まれている。それは日本の奇跡として放送された。
・アメリカに映像には高校の体育館に整然と並んだ数百のベッドと、完全防護の姿でその
 間を歩いて診療する医師と看護師の姿があった。
・今まで様々なウイルスが発見され、抗インフルエンザ薬ができ、ワクチンも製造され
 て使われるようになった。しかしスペイン風邪の大流行以来、これほど科学が進歩した
 今でも、遥かに多くの人が感染して死んでいくのだ。人はウイルスの前には、まったく
 無力なのか。
・黒木総合病院の前田医師から電話が入った。<仲原さんが感染しました。先生には言わ
 ないでほしいと頼まれたのですが、黙っていられなくて。昨日、急に発熱しました。彼
 女は患者との接触がいちばん濃厚な立場なので。彼女はいつも患者に親身になりすぎて>
・由美子はナースセンターの横に置かれたベッドに寝ていた。頬がこけ、目が落ち窪んで、
 別人のようにやつれていた。優司が呼びかけても、荒い息を吐くだけで反応はない。
・「人工呼吸器を用意しておいてくれ」
・仲原さんが、自分には人工呼吸器は使わないでくれと、まだ意識があるときに言ってい
 ました。他には患者が山ほどいるし、外すとき私たちが辛いからと言って」
・「彼女は看護師であって医師ではない。私はまだここの内科医だ。医療に関する判断は
 私がする」優司は怒鳴りつけるように言った。周りの医師と看護師が驚いた顔で見てい
 る。その夜、優司は由美子に付き添ってすごした。
・由美子を見つけていると、遠い昔に引き戻されるような気分になった。はじけるような
 笑顔を向けてくる由美子が、優司の脳裏に蘇った。医師になりたての頃持っていた何か
 を、彼女は持っている。  
・「僕はもう、最愛の者を亡くしている。これ以上、辛い目に遭わせないでくれよ」涙が
 流れ出した。優司はマスクを取り、そっと由美子の唇に自分の唇を合わせた。

・「黒木先輩から言われてきました」と優司に男は言った。「僕は抗インフルエンザ薬の
 研究チームにいます。そこのリーダーです。新しい抗インフルエンザ薬が出来ています」
 「まだ、公に認められたものではありません。でも、都心の状態を黙って見ていられな
 くて」   
・「注射で直接体内に入れます。ペラミビルや点滴薬のラピアクタと同じです。ですから、
 今回の新型インフルエンザ・ウイルスのように全身で増えているウイルスの増殖を劇的
 に抑えます。まだはっきりと確かめていませんが、ウイルスを減少させる働きもあるよ
 うです。一回の投与で、かなり重症化した患者にも劇的効果が見られます」
・「サルに対する実験が終わったばかりです。人に対する安全性は確かめていません」
・「何もしなければ死んでいく患者ばかりだ。多少の副作用があっても、症状が改善すれ
 ば誰も文句は言わんよ」高城は言った。「重症の患者に限り、投与してみてくれ。重症
 というのは助かる見込みがないという意味だ」
・優司は、近くの高校の体育館を利用した臨時医療施設に行った。施設管理者の医師の許
 可はすぐに出た。どうせ手の施しようのない患者だという意識が強いのだ。百人の患者
 に新薬を注射した。 
・32名の患者に症状の改善が見られるとの連絡が入った。うち、15人は体温と呼吸に
 劇的改善。とくに症状が悪化した患者は見られずということだった。
・深夜に優司に電話が入った。<あの新薬は、どんでもないものです。百人中、21名は
 劇的に効いています。本来ならば百パーセント亡くなっていてもおかしくない患者ばか
 りでしたが、現在のところ15名が死亡しただけです。奇跡的な延命率です。もっと薬
 を回してもらえませんか>
・「実はこれ、新薬の試作第一号なんです。記念に取っておこうと思ったんですが」とポ
 ケットから出した手を優司の前に広げた。小瓶が一個乗っている。優司は頭を下げて受
 け取った。
・由美子の意識は相変わらずなかった。高熱で時折り全身が痙攣した。明らかに悪くなっ
 ている。「それ、何ですか」優司は前田医師の問いに答えず、由美子の腕に新薬を打っ
 た。透明な液体は、すっかり細くなった静脈に押し込まれていく。「希望だよ。わずか
 な希望だ」優司は思い出したように前田に告げて部屋を出た。

・「瀬戸崎先生、具合は悪くないんですか」突然の声に振り向くと、若い看護師が優司を
 見つけている。 
・「私、見たんですよ。先生が先輩にキスしているところ」 「潜伏期間が5日でしょ。
 もうそろそろ、ウイルス反応が出てもおかしくはないんじゃないですか」
・「検査キットはあるか」
・看護師はポケットからキットを取り出した。検査結果が15分ほどで出る新しい新型イ
 ンフルエンザ検査キットだ。
・看護師が首を傾げながら戻ってきた。「「やはり陽性です。先生も感染しています。当
 然です。先生と由美子先輩、あんなに濃厚接触したんですよ」看護師は一歩下がって、
 怪訝そうに優司を見つめている。  
・「身体がだるかったり熱っぽくないですか。なんともなさそうだけど」
・「黒木にワクチンを打ってもらった。あのワクチンで抗体が出来ている可能性がある」
・黒木のワクチンは現在世界中の製薬会社が総力を挙げて作っている。あとしばらくすれ
 ば、多くの国で接種が始まると聞いている。しかし、全世界に行き渡るまでにはまだ何
 ヵ月もかかる。
・「最近のウイルスの遺伝子の分析では、強毒性の原因となっている遺伝子配列が変わっ
 てきている可能性があるんだ」黒木は少し首を傾けながら言った。
・「最近、死亡率が下がってきている気がします」という言葉が優司の頭に浮かんだ。た
 しかのその可能性はある。ウイルスは自分では生きていけない。他の生物の細胞に入り
 込み、そこから増殖することが存在目的なのだ。宿主を殺してしまっては、ウイルスは
 生存できない。宿主との共存が存在のための必須条件なのだ。ウイルスは進化し、共存
 できる状態に自分自身を変えているかもしれない。
・由美子の意識はまだ戻っていない。新薬は人によって効き方が違っている。劇的に効く
 者もいれば、徐々に効いていく者、まったく効かない患者もいる。由美子の場合、熱は
 前より下がり呼吸も楽にはなったが、意識のない状態が続いている。
・そのとき、優司のポケットで携帯電話が鳴り始めた。<仲原君がいま・・・>前田医師
 の声が聞こえた。
・優司の手から携帯電話が離れ、コンクリートの上で乾いた音を立てた。気が付いたとき
 には店を飛び出していた。必死に病院に向かって走った。由美子が死んだ。自分は何の
 ために医者になった。愛する者を護るためではなかったのか。
・自転車に乗って走る由美子の姿、眉根をよせ真剣な表情で注射器を持っている姿、後輩
 の看護師を叱っている姿、様々な由美子の姿が脳裏に浮かんでは消えていった。
・もっと理解してやるべきだった。もっと優しく接するべきだったのだ。いたわる言葉一
 つかけたこともなかった。自分は、深く関わることを怖れていたのだ。
・由紀子のベッドの周りに看護師たちが集まっている。看護師の一人が気づいて呼びかけ
 た。看護師たちが一斉に振り向いて優司を見た。思わず足がもつれ、よろめいて膝をつ
 いた。
・由紀子のベッドが見えた。優司はベッドの横に両膝をついた。「なんで、もう少し頑張
 れなかった」そう言ってから、全身の力が抜けていった。横たわったままの由紀子が優
 司の方を見ている。・横に立っている前田医師を見上げた。 
・「いま、目を覚ましたと言ったんですが、携帯が急に通じなくなってしまいました」前
 田医師が言い訳のように言った。
・「死んだんじゃなかったのか」
・「簡単に殺しちゃ可哀想ですよ。熱も下がっています。呼吸もごらんのとおりです。あ
 の新薬すごいですよ」
・由美子が優司に向かってわずかにほほ笑んだ。優司は由美子を見つめたまま、ベッドの
 横に座り込んだ。   
  
エピローグ
・封鎖ラインが三ヵ月と十九日ぶりに撤去された。黒木の新型インフルエンザ・ワクチン
 接種が予定より早めに始まったのだ。
・最初は医療従事者たちに接種された。誰も異議は唱えなかった。今回のパンデミックを
 体験して、世界中の人たちが医師と看護婦、さらにレントゲン技師、臨床検査技師、そ
 してすべての病院スタッフなど医療従事者の献身的行動に敬意を払ったのだ。
・次に、電気、ガス、水道などのライフラインを維持する人たちに接種された。これにつ
 いても異を唱える者はなかった。社会を支える陰の人々の努力で、この都心封鎖を乗り
 越えることができたのだ。
・その後は基礎疾患を抱える者、妊婦、老人、年少者へとワクチン接種が行われる。
・WHO事務局長の最終日の記者会見が行われた。
 <有史以来、世界は不幸にして、多くの国を巻き込む複数の戦争を経験しました。いず
 れも多くの犠牲者を出しましたが、特に二十世紀の戦争では世界を滅ぼす可能性のある
 爆弾が使用され、膨大な数の戦死者を出してきました。しかし、この数ヵ月間において
 人類は、その最大の戦争をも遥かに上まわる不幸な出来事を経験しました。人類の敵は
 人類ではなく、肉眼では見ることのできない、意思も持たずただひたすら自己の増殖を
 続けるウイルスでした。この敵は強力で、したたかで、無慈悲で、ただひたすら私たち
 の家族や隣人や友人や同胞を殺し続けました。しかし、最初60パーセントを超えてい
 た致死率は、新薬が世界中で生産され、広く行き渡り、パンデミック・ワクチンが接種
 され始めてからは、10パーセント台まで下がりました。この世界を震撼させたパンデ
 ミックはおおむね終息しました。今回のパンデミックで人類は、大きな悲しみを共有し
 ました。しかし、世界中の英知の結集と結束、広い慈愛の精神により、乗り越えること
 ができました。ただ、この地球上のどこかでは、まだ見えざる敵が私たち人類を滅ぼそ
 うと狙っているのです。このパンデミックは、私たちは私たち同士による愚かな争いに
 力を使い、心を悩まされるのではなく、心を一つにしてさらに強力な敵に向かう準備を
 すべきだという教訓を残してくれました。今後も人類はどのような試練が立ちふさがろ
 うと、克服できると信じます。私たちは希望という言葉を人類共通の武器として指針で
 いくことでしょう。>
・都心封鎖で封鎖エリアの住人720万人のうち、感染者420万人、死者58万人。
・アメリカ:3憶2千万人のうち、感染者2憶1千5百万人、死者3千6百50万人。
・中国:14憶人のうち、感染者8憶4千万人、死者3憶3千6百万人。
・世界人口71億人のうち、80パーセントの56憶8千万人が感染して、その22パー
 セントにあたる12億5千万人が死亡した。