証拠人 :藤沢周平

冤罪 (新潮文庫 ふー11-4 新潮文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

隠し剣秋風抄新装版 (文春文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

驟り雨 (新潮文庫 ふー11-11 新潮文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

藤沢周平とっておき十話 [ 藤沢周平 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

天保悪党伝 (新潮文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:572円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

隠し剣孤影抄新装版 (文春文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

雲奔る 小説・雲井龍雄 (中公文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:712円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

藤沢周平「人はどう生きるか」 [ 遠藤崇寿 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

藤沢周平 父の周辺 (文春文庫) [ 遠藤 展子 ]
価格:825円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

闇の傀儡師(上)新装版 (文春文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

闇の傀儡師 下 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

周平独言 (文春文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:836円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

密謀 上 (新潮文庫 ふー11-12 新潮文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:781円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

密謀(下巻)改版 (新潮文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:649円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

藤沢周平 遺された手帳 [ 遠藤 展子 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

闇の歯車 (中公文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:649円(税込、送料無料) (2022/12/25時点)

この作品は1974年に発表された短編の時代小説で、冤罪という短編集の中の一つだ。
内容は、七内という四十歳の浪人のいわゆる再就職の物語である。二十代で失業し浪人の
身となった七内は、それから二十三年もの間、浪々の身が続き、ついに四十歳になってし
まった。
あるとき、再雇用されるかもしれないと思えるところに行き当たったが、雇用の条件とし
て出されたのが、昔の功績を証明する証明書を証拠人から一筆もらうことだった。
だが、その証拠人はすでに他界していた。絶望に陥る七内だが、思いもかけずまったく別
の人生への道が開けてきたのだった。
昔も今も、中高年の再就職というのは、たいへんなことだ。ただ、この物語のように、企
業に再就職することだけが生きる道ではない。まったく別の生き方だってあるのではない
か。そう思わせてもらえる物語だった。

過去の訪れたことのある関連場所:
鶴ヶ岡城跡(鶴岡公園)


・残っているのは佐分利七内と、六十近いと思われる年寄りの二人だけになった。
・昨年秋、羽州十四万石に封じられた酒井宮内大輔が、新規召し抱えの者を募っていると
 いう噂は、かなり遠国まで聞こえていた。今朝、七内がやってきたときも、控え所の中
 に、ざっと四十人ほどの人数がいたのである。諸国から集まってきた浪人者だった。
・七内は老人を見た。老人はつくねんと胡坐をかいている。老人は居眠っているように見
 えた。
・「まず見込みがないな」
 眼の隅でちらりと老人を見てから、七内は思った。小柄ながら骨太な体躯をしているが、
 老人は髪は白く、顔には点々と老いを示すしみが目立っている。それでも楽隠居という
 身分ではなくて、仕官を求めてきているわけだ。そう思うと、七内は居眠っているよう
 な老人に、やや憐れみが動くのを感じた。
・七内は関ケ原の役で西軍に属した主家が潰れ、以来二十数年浪々の身である。主取りし
 て嫁をもらってと思いながら、ついに人並みの家を持つこともなくこれまできた。
庄内藩で人を召し抱えると聞いたのは、上州高崎で川普請の人足をしていた時だった。
 冬ざれた碓氷川の底に鍬を捨てて、そのまま越後路を北上してここまで来たのである。
・「郷士でござるか」
 「いや、以前は最上家に属し、酒田城に勤めており申した。いまは百姓でござる」
 「失礼ながらご姓名は?」
 「布施清右衛門と申す」
・聞いたことがある名だ、と思った。
 「一栗殿謀反の折働かれた布施どのか」
 「さようでござる」
 老人はちらと眼を挙げたが、そう答えただけだった。
・慶長十九年六月、当時最上領であった鶴ヶ岡城下で、突如白昼の戦闘が起こった。
 その日、鶴ヶ岡城新関因幡守は、居城に酒田城の守将・志村九郎兵衛光清、大山城将・
 下治右衛門秀実を招いていた。
 二人が二ノ丸の西南隅にある新関の屋敷前にさしかかったとき、道をはさんで反対側に
 ある添川城主・一栗兵部少輔の屋敷から、甲冑を着た三十名ばかりの兵が飛び出して両
 将に襲いかかった。指揮したのは勿論兵部である。
・急報をうけて新関は城から兵を繰り出し、兵部の一隊と激しい戦いになった。兵部は豪
 勇を知られた人間だったが、布施清右衛門と斬り合い、布施の粘っこい攻撃に手を焼い
 た。 
・獰猛な矢声とともに反撃した兵部の太刀は、布施の胸先を斬ったが、迎え撃った布施の
 刃先が兵部の肩口を切り下げた方が速かった。相撃ちだったが、兵部の方が深傷になっ
 た。   
 よろめいて、兵部は逃れた。自分の屋敷の門までたどりついたとき、後から追い縋った
 志村の家臣・渋谷伝右衛門の刀が背を断ち割った。
・事件は最上家の当主家親と、弟の清水義親の確執から起こった。折柄大坂には戦争の噂
 がしきりで、徳川に深く結びついていた家親と、秀頼に臣従していた義親をめぐって、
 家臣団の暗闇を惹き起こしたものだった。
・兵部の叛乱は、時勢にかかわりあったものであったため、広く流布された。
・十一年前のその時の噂は、当時浪々の身で奥州仙台藩の知人の家で食客になっていた七
 内も耳にしている。
・七内は口を閉じた。憐れまれているのは自分かも知れないと気づいたのである。
   
・鶴ヶ岡城は、建物がない。最上藩時代の鶴ヶ岡城は、晩年の最上義光が隠居所にするつ
 もりだったというが、茅葺きの本丸を囲んで、柴垣もまじった塀があり、二ノ丸に城臣
 の家が僅か七軒古び立っているだけだという有様だった。
・信州松代から入部してきた酒井宮内大輔忠勝は、旧本丸を取り壊し、新たに本丸を建築
 するなどに総力をあげていた。 
・「年は幾つに相なる?」
 「四十歳でござる」
 「少々とうが立ってござるかな」
 「どこの藩に仕えておられた?」
 「されば大谷刑部少輔吉継どのがわが主でござった」
 「関ケ原か」
 「遠いことだな。次にはどこで禄を喰まれた?」
 「以来浪々の身でござる」
 「二十年もか?」
 「ところで、何かお持ちか」
・七内は内懐に手を差し込んで、油紙に包んだ書付けを取り出した。二十年以上も持ち続
 けた高名の覚え書である。したためた時二十二だった。これだけの高名の記録があれば、
 主取りはそう難しくあるまい、とその時は考えたのである。
・「高名の覚えでござる。吟味をお願いしたい」
・「立派な高名でござる。本日出色のご仁とお見受けしました」
 「は」
 七内は胸が鳴る思いである。古びた書付けが、初めて何かを生み出そうとしているのを
 感じた。
・「しかしだ、何せ、二十数年前。その後も武道鍛錬怠りないものとは思うが」
 三人は、またしげしげと七内を眺めた。七内の眼はうろたえて三人の顔の上を走った。
・いま三人の眼が、まともに鑑定する眼となって自分を見つけているのを感じる。放浪に
 近い長い浪人暮らしの中で、体は痩せ、ことに四十歳を過ぎてからは顔にも手足にも皺
 が出てきた。関ヶ原の役で働いた時の面影はない。
・「ここがひっかかった。島田重太夫存じられ候。おたつね成らるべく候、と」
 「なにせ二十三年前、関ヶ原といえばもはや昔話になった。そこで昔のことゆえ解るま
 いと、偽りの高名書きを持参した者がさきにおった」
・「これは思いもかけぬことを言われる」
 「そこでだ、貴公のこの立派な高名ぶりをだ。島田なしがしに確かめ得れば、先ずお召
 し抱えという段取りになった」
 「島田という者は下野守どこのご家中。なにせ遠国じゃ。そこで貴公に今度は願うわけ
 だが、この者から相違ござらんという書付けを一枚もらってきて頂く。そういうわけだ
 が、いかがかな」
・「承知つかまつった」
 「まことに無躾ながら、こちらに奉公するとなると、いかほどの扶持を下されるものか」
 「その心配、ごもっとも。まず高百石ということで落ち着いたな」
・「百石!」
 七内は呻いた。再び眩暈が襲ってきたのに辛うじて耐えた。空き腹にはあまりに強烈な
 刺戟だった。    

・名古屋城の巨大な城壁と門に遮られて、七内からはその天守は見えない。ただ途方もな
 い圧迫感が、胸を押してくるだけである。
 「島田重太夫は、この城にはおりまい・・・」
 そういう気がした。
・一瞬七内は、足もとが際限なく崩れて行く感覚を味わった。目指してきた城が、忽然と
 消え失せた驚きがあった。島田重太夫も、もちろん一緒に消え失せている。
 次に悔恨がきた。長すぎた放浪が悔やまれた。どこかの藩で召し抱えの噂があれば、北
 に走り、南に走った。百姓もし、人足もやり、僅かのつてを頼って食客に住み込み、そ
 の家の走り使いのようなこともした。 
 その間に世間並みの知識がいくつか脱落したのだ。故意にか偶然にか、庄内藩の吟味役
 もそのことに触れていない。
・七内は吟味役にも疑惑を持った。体よく追い払われたかという気もしたのである。
 「百石とは、話がうますぎた!」と思った。
・城門から人が来る。人影が二人なのをみて、七内は粗末な着物の襟をつくろった。胸が
 高く鳴った。番士の後ろからくる丈の高い武士が島田重太夫本人に見えたのである。
・武士はしげしげと七内をみた。改めて見直すという感じだった。それから呟いた。
 「島田重太夫が。古い話だ」
 「死なれたか」
 「いや、生きてはいよう。ただ長年会ってはおらんのでな」
 「すると、いまどこに?」
 「急藩瓦解のおりに国もとに帰った。以来音沙汰を聞いていないのだ」
 「国もとというと、忍でござるな」
 「忍へ参るつもりか」
 「むろん」
 七内は昂然とうなずいた。

・その百姓家は、忍城から南に五十町ほどの場所にある村の端れにあった。
・家の前に立って、七内は眉をひそめた。そこが島田重太夫の家だと、村の者が指したの
 だが、それにしても粗末な家だった。
 浪人暮らしの中で、幾度か百姓仕事を手伝って飢えをしのいだこともあり、百姓の暮ら
 しぶりについては知識がある。
 「水呑み百姓といった格じゃな・・・」
 七内はそう判断した。
・みるからに粗末な家だが、用があるのは家ではなく、この家の主である。一筆書いても
 らえればそれで万事終わりである。 
・「それにしても島田は気の毒な・・・」
 と思った。戦場で言葉をかわした時の、颯爽とした島田重太夫の武者姿が、いまも眼に
 残っている。それはどう考えても、この傾いたような百姓家に似つかわしくない。
・「どなたさん?」
 大柄な女が立っていて言った。背丈は七内ほどは十分ある。だが肥ってはいなくて、伸
 び伸びと均衡のとれた体つきをしている。顔も手も日焼けして黒い。黒いなりに整った
 顔立ちの農婦だった。  
・立っているのは島田重太夫の家内なのだ。
 「これはご内儀。亭主どのはご在宅か」
 「重太夫は死にました」
・すべてが徒労に終わったのを七内は感じた。すべては徒労だったと、この体格のよい、
 顔の黒い農婦が告げている。
・「どうしましたかえ?」
 思わず土の上に膝をついた七内の顔を、女覗き込んだ。女の後ろから、五つぐらいの女
 の子が、首だけ突き出してやはり七内をのぞいている。七内は頬に涙が滴るのを感じた。
・「まあま、そのように」
 女は屈み込んで七内の手を取った。
・「よほど亭主と昵懇の方にみえますなあ。ともかくも、家の中にお入り下さいませ」
 女は七内の涙を誤解したようだった。
 家の中に導くと、部屋お隅にある重太夫の位牌に燈明をあげ、七内を拝ませた。
・七内が炉端に戻ると、女は、
 「ありがとうございました」
 と言って頭を下げた。
・「三年前に死にました」と女は言った。
   
・島田重太夫は慶長十二年、故郷の忍領に帰ってきた。
 島田家の菩提寺の住職は、村の肝煎と相談して、重太夫が糊口をしのぐに足りる程度の
 田畑を、村から分け与えた。
・島田家は、昔このあたりを差配した地侍の家柄で、延徳年間に、成田親恭が忍城を築い
 たとき、成田氏に召し出されている。遠い昔のことながら、重太夫は主筋の裔である。
 村人は一応そういう扱いをしたわけである。
・ともはそのとき重太夫に嫁入りした。ともは村の長百姓の末娘で、十六の時婢として忍
 城に奉公に上った。二年いて、一旦は家に戻ったが、これといった良縁もないために、
 再び城奉公していたのである。重太夫に嫁入りした時二十四になっていた。
 重太夫は四十三で、気が向けば鍬をふるって馬のように働いたが、昔の合戦で受けた腿
 の古傷が痛むと言って、二日も三日もごろごろしていることもあった。しかし二十四と
 いう自分の年を考えると不足は言えなかった。翌年女の子が生まれた。
・「死なれたのは、その古傷のためか」
 「いえ、酒好きで、卒中でした」
・不運な男だ、と思った。元和元年の徳川の大坂城攻めに、七内は加わっていない。だが
 重太夫が、そこで一旗揚げようとした気持ちは、容易に想像できた。
 しかし俺もまた不運だ、と七内は思った。浪々二十三年、最後に日の目を見るかと思っ
 たが、この始末である。
・「お邪魔した」
 七内は腰を上げた。とたんに耐えられないほどの空腹感が戻ってきた。その感じに誘わ
 れたように腹が、けたたましく鳴った。力ない声で七内は言った。
 「失礼仕る」
・「お急ぎですか」
 ともは七内の顔を注意深く見まもる様子で言った。
 「日はもう暮れました」
 「泊まっていらっしゃいませ。何もおもてなしはできませんが、粟粥なら沢山ございま
 すほどに」   
 七内は赤面した。さっきから騒々しく鳴り続けている腹の音を聞かれたと思った。
・辛うじて七内は言った。
 「しかし、初めてお訪ねして、さように厄介になったでは相済まん。やはり遠慮しよう」
・「腹もお好きでございましょう」
 ともは、ただの農婦に返ったように、露骨な言い方をした。
 
・昨夜は、粥を十六杯も喰った、と七内は思った。漬け物がうまかった、とも思う。久し
 ぶりに心おきなく喰った気がした。その後、作ってもらった寝床に、倒れ込むように眠
 った。夢もみずに、朝の目覚めまで快適な眠りだった。
・景色が美しい。景色が美しいのは、昨夜よく喰い、飽くほど眠ったせいだと思った。長
 い間、景色に眼をとめるひまもなく、せわしなく走り続けできたような気もした。
 ふと、島田重太夫が、ここで百姓をやる気になった気持ちを理解したように思った。
・重太夫を、昨夜は不運だと思った。しかし窮屈な侍勤めと、黒い土だけを相手に百姓暮
 らしとどっちが恵まれているかは、ひと口に言えるものではない。
・「これでお暇仕るが、じつはひとつお詫び申さねばならんことがある」
 「昨夜は何となく、それがし重太夫どののごく昵懇の者のように振る舞い、世話になり
 申した。しかし、それがし重太夫どのと名乗り合ったのは、ただ一度、それも戦場で、
 まことに倉卒の間のことでござった」
・ともは眼を瞠った。美しい眼だと七内は思った。食が足りたためだけではない。昨日の
 夕方初めてともを見たときに、七内はそのことに気づいている。大柄なわりに顔が小さ
 く、肌は真黒だが、目鼻立ちは整っていた。中でも黒瞳が大きく澄んでいる。
・七内は、島田重太夫と知り合ったいきさつを詳しく話した。
 ともはうなずいたが、怪訝そうに首をかしげた。
 「それだけの縁で、この家に参られましたか」
・七内はあわてて手を振った。
 「いや、大事な用がござった」
 証拠人の一筆が欲しいために、名古屋に行き、またここまで来たいきさつを話すと、と
 もは何度も合点した。
     
・この家に寝泊まりして、五日が経つ。二日目の朝、発つつもりであったが、ともに引き
 とめられた。どこへ行くあてもないのなら、少しゆっくりして行け、それに重太夫が死
 んだことは気の毒だが、何かいい手だてはないものだろうかと、ともは言ったのである。
・いい手段などというものがある筈はなかった。庄内藩にもどって、証拠人は病死してい
 た、と率直に届け出てみることも考えた。だが、吟味役が信じるかどうかは疑問だった。
 いっそ偽の一札を立てるか、とまた思った。ともに頼んで、ともの父親か島田家の菩提
 寺の住職に重太夫のつもりで一筆書いてもらう。床についてから、その考えが不意に頭
 に浮かび、眼が冴えてしまったのである。
・「・・・・?」七内は振り向いた。
 薄闇の中に、何かが動いた気がしたのである。家の角に、ものが隠れたような感じだっ
 た。足音を忍ばせて軒下に行き、不意に角を曲がったが、何もいなかった。
・「猫か」
 七内は呟いて戻った。早く眠らなければならない。明日はともを手伝って、畑を耕さな
 ければならない。ただ居喰いをしているのも心苦しく、七内は昨日からともの百姓仕事
 を手伝っている。
・背後でまたものが動いた感じがした。すばやく振り向いた眼に、薄闇を横切って、下の
 畑に飛び降りたものの姿が映った。人間だった。
・次の日、畑を耕しているときに七内は言った。
 「昨夜、奇妙なものを見た」
 「人が来て、家を覗いて行った」
 「泥棒のようでもなかったぞ」
・「夜這いの衆でございましょう」
 ともは、事もなげに言った。
 七内は唖然としてともを眺めた。    
 改めてともの体を眺める。豊かな臀だった。頸から肩になだれる線が柔らかくなまめか
 しい。
・「夜這いが、時々参るか」
 腰を伸ばして、ともは七内を見ると微笑して首を振った。眩しげに笑い、ともは再び鍬
 を使いはじめた。 
・重太夫が帰ってきたのが大阪の夏の戦があった年。その翌年にともは嫁に来たというと、
 今年三十一の後家じゃ。それにこの体つきでは、村の若い者が夜討ちを仕かけるのも無
 理はない、と納得した。
・「心配いらぬ。夜這いは、それがし防いで進ぜる」
 ともの笑い声が弾けた。闊達な農婦の笑いだった。
・七内は夕方とんでもないものを見ている。ともと子供が、背戸口で行水を使っている姿
 を、偶然に見てしまった。
 夜食が済んで間もなく、母子の姿は見えなくなった。気になって外に出たとき、子供の
 笑い声がして、覗いたら二が盥の中に裸でいたのである。
・淡い光の中で、一瞬の覗き見であった。あわてて七内は家の中に戻ったが、ともの肌の
 白さが眼に焼きついていた。真黒な顔をしているのに、ともは胸から腹にかけて、豊か
 に白い肌を隠し持っていたのである。
・いつの間にか七内は眠ったらしい。忍びやかな足音が戸口に向かうのに目覚めた。男が
 一人戸口に吸いつくように寄って行くのが見えた。
・「おぬし」
 夜這いかと言おうとした時、男が敏捷に振り向いた。逃げるかと思ったのに、男は七内
 につかみかかってきた。組み止めたが、男の重みで七内はよろめいた。男の両手はがっ
 しりと七内の襟首を掴み、体重をかけて締め上げてくる。 
 思い切って腰を寄せ投げ業を打った。男の体は一回転して地に落ちたが、また無言のま
 ま男は組にきた。厚かましい夜這いである。
 男の腕を取ろうとした時、不意に七内の体は軽々と持ち上げられ、次の瞬間地に投げら
 れた。
・「さあ、参れ」
 七内が手をひろげて言うと、相手はしばらく身構えたが、突然身をひるがえして下の畑
 に飛んだ。そのまま男の姿は仄暗い光の中を一匹の獣が走り去るように遠ざかった。
・七内はがっくりと地面に膝をついた。息が切れ、口は乾いている。
 「衰えた。夜這い退治にこのざまだ・・・」
 と思った。悲哀に似た感情がこみ上げてきた。七内はひどく気落ちしていた。
 「もはや、仕官は無理じゃ・・・」
 そう思ったのは初めてである。長い放浪の間に年を取り、力も衰えたことを認めないわ
 けにはいかなかった。
・どこにも、目指して行く場所はなかった。だが全くないわけでもない、と七内は思い直
 した。温かく、豊饒なものが、あるいは迎え入れてくれるかもしれない。
・よろめいて立ち上がると、七内は着物の埃をはらい、家の中に入った。
 家の中は闇だった。闇の奥に進んだ。
 跪くと、軽い寝息がやんだ。
 「夜這いじゃ」
 七内は囁いた。やさしい含み笑いがし、闇の中から伸びた二本の腕が、七内をすばやく
 抱き取った。