死者の時   :井上光晴

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井上光晴の作品を読んだのは、この「死者の時」が初めてである。この作品は1960年
に発表されたもので、太平洋戦争中の学徒兵とその関係する家族を描いたものらしいのだ
が、私にとっては、とても難解の小説でしかなかった。
とにかく、場面が戦地と日本の内地、過去の思い出場面と現在とが入り混じり合っていて、
なにがなんだかよくわからないのだ。
戸部宗輔という人物が主人公のようで、この人物が学生時代に読んだ霊媒書を参考にして、
戦地に赴いた良人や恋人の消息を知りたいと願う女性たちに、霊媒を施して希望を叶えて
いるのだが、それは善意ばかりではなく、場合によってはその女性たちをセックスで慰め
るという邪な考えもあったようだ。おそらく、戦時中には、人の弱みに付け込む、こうい
った霊媒師もいたのであろうと想像する。
それはともかく、この筆者の作品は、読んでも感激も感動もなく、私にはまったく合わな
いと思った。
ちなみに、この筆者はあの瀬戸内寂聴と不倫関係あったということは有名だったようであ
る。

・「どうでした」いつもズボンふうに作った新しいモンペをはいている南沢伸子がきいた。
 ええ、死ぬ時のことが」原亜明子はその方にちょっと微笑を返しながらいった。壁際に
 座っている、明子の見知らぬ女が何かぎくっとした眼をして彼女を見、それから黙って
 頭を下げた。「吉田レイ子さんといわれるんよ。初めて、今日私がおつれしてね・・・」
 伸子はその若い女を明子に紹介し、それからつづけて、「戦死された時の様子がわかっ
 たんですか、よかったですね」といった。
・「私はもう十回以上、毎週かかさずに来ているけど、まだ戦死のところはなかなか出て
 きれませんからね。あなたは運がいいんですねぇ」南沢伸子は膿んだような声でいった。
・「吉田さんはね、婚約者の方が出征されて、もう一年も音信不通ですって」伸子が横か
 ら説明し、ニューギニアにいってるんですけど」と吉田レイ子がまた自分の声をおしだ
 した。  
・廊下で足音がして、この家の主人である戸部宗輔が痩せた長身をあらわし、まるで待合
 室をのぞく医者のようなしぐさで「南沢さん、どうぞ」とうながした。
・戸部宗輔はいつも初めての人間にはそうする眩しそうな眼つきで、吉田レイ子の方をみ
 た。「何歳ですか」戸部宗輔は防空被いのついた電灯の下にその写真の顔を確かめるよ
 うにもっていきながらいった。「もし生きていたら、いま二十七歳です。こんどの戦争
 がはじまった翌年すぐに応召したんです」吉田レイ子はいった。
・戸部宗輔吉田レイ子が霊媒部屋の向かいにある書斎に去った。
・「何歳ですか」本箱を背にした戸部宗輔は、吉田レイ子が椅子に腰かけるとすぐにきい
 た。そして吉田レイ子ががさっきも答えたはずだがと、戸惑うように眼をつり上げるの
 にかぶせて「いえ、あなたの年です。おいくつですか」といった。「二十三です」吉田
 レイ子はこたえた。  
・婚約はいつ、応召される前ですか」戸部宗輔はいった。「ええ、応召する前でした。福
 岡で・・・」吉田レイ子がはいった。彼女はその夜のことを考えはじめると、いつも体
 のある部分に何か取り返しのつかぬ傷でも受けたようにふるえるのである。長崎から会
 いにいった彼女を博多駅に出迎えて水谷彰はいきなり「いれたち結婚できるというね」
 とそれまで思いためていたような調子でいったのだ。
・「前からお知り合いだったんですか」戸部宗輔は吉田レイ子のやや前につきでた特徴の
 ある唇のあたりをみていった。少し慌てたように吉田レイ子は視線をもどし「ええ学生
 のとき、うちに下宿していて、それで」と口ごもった。  
・前の言葉とあまり関連のないかけ離れた質問をしながら戸部宗輔は「この女は男を知ら
 ないまま年をとってしまうような顔をしているな」と感じていた。
・吉田レイ子は一年前水谷彰がまた長崎高商の学生の頃、諏訪神社の横から県立女学校の
 方につづく道の途中で、彼が最初にぎこちなく彼女の唇に自分の歯をがちがちこすりつ
 けたのをちらと思い出した。その夜は図書館についていったかえりであった。コーヒー
 をのませる店で「やっぱり駄目かな」と眼をふせた彼と、ぎごちない接吻のあと家に近
 い道下の階段にものもいわず並んで座った時のことが、いま生々しく同時によみがえっ
 てくる。  
・「二人っきりの方がいいから」という言葉が口に出ぬまま、結局ずるずると彼の唐人町
 の下宿に彼女はつれられていった。唐突に彼は彼女お肩を両腕で後ろから抱きしめた。
 彼の唇が彼女からはなれるまで、何か不自然な悲しい思いにひたりながら吉田レイ子は
 じっとしていた。「結婚できるといいがなあ、君のお父さんたちだって、別に反対はさ
 れないだろう」彼女の顔をはなすとすぎ彼はいった。「ええそれは、博多にくることだ
 ってそう薄々感じてるんだから」彼女はこたえた。「そんなら」といってふたたぶ彼が
 いつもと違う異様な力のこもった腕で彼女の上半身を羽交い絞めにした・「だめよ」と
 彼女はいった。「どうして」彼はいった。「だめよ」といいながら彼女は自分の胸の中
 に入っていこうとする彼の腕をとめた。
・「結婚しよう」彼はいった。「結婚はするけど、いまはだめよ」彼女はいい「自然じゃ
 ないから今はだめよ」と自分と全く別のような声でつづけた。「おれは卑怯だね」とい
 って彼は力の抜けた腕で彼女を抱いたまま黙って頭をふせた。「ううん、卑怯なんかじ
 ゃないわ」彼女はいった。「召集がくるもしれんというのにこんなことして卑怯だよ。
 結婚も本当にされるかどうかわからんからね」彼はいった。「ちがうんよ、結婚式あげ
 られるかどうか、どうでもいいんよ」彼女はいった。「うちもよくわからんけど、何か
 そんな感じがするんよ。水谷さんを好きだけど・・・だめといっているんじゃないんよ」
 彼女はいった。
・戸部宗輔は海仁会病院の事務局勤務、四十八歳、塚は昭和十二年に死亡、去年の九月頃
 から毎週土曜の夜と日曜の二回、戦死者霊媒会をやっている。
・「恥じを申し上げますけど・・・」南沢伸子は思い切った眼つきをして顔を上げ、すぐ
 また伏せた。「今年の二月でした。三カ月前になります」南沢伸子は顔を伏せたまま話
 をきりたした。「日宇町に用事があっていったんですが、そのかえり、山道で朝鮮人に
 かこまれていたずらされてしまったんです。災難だと思って今まで誰にもいわずにおり
 ましたが、この頃どうも体の調子がおかしいのに気づきました。妊娠しているんです。
 どうしたらいいかとずいぶん悩みましたが、とにかく一度先生に御相談しようと思って」
 「どうして警察に届けなかったんですか」戸部宗輔はいった。「どうしてって、恥です
 から」と彼女はこたえた。「どうして朝鮮人とわかったのですか」ええ、その日宇の山
 道の近くに朝鮮人の部落があるんです」彼女はこたえた。彼はつづけて「暴行するとい
 うのに、すぐ後で尻が割れるような朝鮮語を使うのはおかしいですね」といおうとした
 が、かろうじて自分を制した。みえすいた偽りの筋書が彼女に対してではなく彼自身の
 内部に、火をふく赤い鉄のような烙印を押しつけたからである。
・それで、どうされようというんですか」戸部宗輔は低い声でいった。「恥ですから、死
 んだ主人に申し訳なくて」彼女はいった。だいたい彼女は日宇の夜道で朝鮮人に暴行さ
 れたという筋書をいま自分があっかり信用していないことを感じているのだろうか。
・恐らく考え思い詰めて彼女は一篇の筋書を作ったのであろう。その筋書がたとえ嘘で塗
 り固められていても普通の話であり、普通の犯人ならば彼はそれを許したのである。し
 かしなぜ朝鮮人が犯人なのか、なぜ朝鮮人部落の近くで集団暴行事件がおき、朝鮮人が
 犯人とならねばならないのか、それが彼には許せなかった。
・「なぜ朝鮮人か」朝鮮人なら暴行されても自分の罪と恥が軽くなるとでも考えたのか。
 朝鮮人の部落の近くを通れば暴行されるのはあたり前で話の筋書は自然だとでも考えた
 のだろうか     
・突然、彼自身思いがけぬように死んだ父のことが思い出され、「友だちがいろいろお前
 のことをいっても気にせずに辛抱しとけ、勉強さえしっかりすれば、いまはいろいろい
 われても、いつかは見返せるぞ、勉強さえすればいくらでも偉くなれる世の中だからな」
 「人はいろいろなことをいうぞ、この部落のことで、どんなことを人からいわれても、
 だまっておけ、いまは苦しくても、勉強さえすれば、内科でも外科でも、どんな医者に
 でもなれるんだからな」   
・妊娠した南沢伸子が最初に霊媒を求めてきた夜、「毎晩毎晩、ほんろにきついんです。
 本当に辛くてもし死んだ主人とあえるならどんなことでも」といった声がきこえてきた。
 「ああいう声を出しながら、南沢伸子は男と関係していたんだな」と考えが戸部宗輔の
 心をまわった。
・戸部宗輔は舌打ちするようにいまきた看護婦の倉内安子のことを考えた。彼女とは去年
 の暮と今年になってからすぐ、二度ほど交渉を持っていたが、彼がその関係をそれきり
 にしようと考えているに反して、倉内安子は機会を見つけてはじっとりと低い姿勢で彼
 に迫ってきた。三十歳という年にしてはひどく子供っぽい表情と声をしているたが、
 「私は戸部さんが最初だから・・・」二人きりになるときまってその言葉を一度は繰り
 返す倉内安子を、それみかけのあばずれに似合わず言葉としてはまちがいなかったとい
 うことと合わせて、彼は何か取り返しのつかぬものを押しつけられたような気持がして
 いたのである。 
・「生を享けて二十三年、考えてみればせまくるしいぬけだすことのできない毎日でした
 が、こんどこどははっきり敵艦にむかって力いっぱい大声をはりあげて突入できます。
 私はそうするつもりです。何だか晴れやかな気持ちです」戸部少尉は父親に向けた手紙
 にしたためた。 
・「隆二さん、私を抱いて」彼女は急に思いつけた声でいった。「おれは・・・」と彼は
 言葉をつまらせ、うつむいたまま泣いている彼女に「いいのか」ときいた。まるで残り
 の時間をそのまま肉体お欲情に変じてしまったような声であった。彼女が肩でうなずき、
 彼はまた「おれのためならいいんだ」といった。「隆二さんなんかのためじゃない」鋭
 く叫ぶような声で彼女はいった。「隆二さんは死なないわ・・・」彼の胸の中で喘ぎな
 がら彼女はじいっと眼をつぶっていた。「お父さんもお母さんも何も・・・」といいか
 けた彼女の唇に彼は押しかぶるようにして吸った。すでに学徒兵として入団する前とそ
 の後、彼女と接吻したことは幾度かあったが、いまはまるで彼の心と肉を合わせて自分
 の内側につつみこむように彼女はそれを受けいれた。熱い焼けつくような鉄の炎が彼を
 おしつつみ、彼はまた低い声で「死ぬかもしれんけどいいな」とくり返した。「隆二さ
 ん」泣きながら彼女は彼の腕の中でのけぞるようにして倒れた。「おれは他の女なんか
 しらん」彼はのぞけった彼女の唇から耳たぶの方に自分の唇をうつしながらぎごちなく
 いった。「隆二さん」彼女は囁くように叫んだ。彼はもう一度、自分とも彼女ともつか
 ぬ曖昧な調子で、しかしその彼女の呻きをのみこむように「いいな、死んでもいいな」
 といった。それからしばらく波と彼らの吐く息だけが入れまじったような時間が流れた。
・戸部高雄はそれまで時々会って一緒にお茶を飲むような彼女との関係を一挙に近づけた
 のだが、最後の瞬間になって、彼自身があっけないと思うほど彼女は彼の手から身をひ
 るがえして去ったのである。ちょうど大東亜戦争緒戦の赫々たる綜合戦果が発表され、
 同時に「ゾルゲを首魁とする」国際諜報団の検挙が報じられた、昭和十七年五月のある
 月曜日の夜であった。彼の下宿を訪ねてきた彼女はしばらく二言三言かわしているうち、
 何をきっかけとしてか、誘惑するような殆ど無抵抗のような姿態を示したが、その時、
 彼は自分が「部落出身」であることを彼女の告げたのである。その後、彼女と彼との関
 係は急速に凍ったものになったが、彼女は最後までその原因で別れるということを認め
 ようとせず、「結局、私たちはこうなる運命でした。最初から私は戸部さんの考え方に
 はついていけなかったのです。あまり高くを望んた私に責任があるかもしれません」な
 どという何のことか分からぬ手紙をかいて送ってきた。
・昭和十八年十二月、学徒兵として入隊する前、彼は獣医として出征している叔父の留守
 宅に寄宿して二松学舎専門学校に通っていたのだが、「中支方面で戦死」という通知を
 受け取ると同時に、崩れるように生活の態度を変えた十五歳も年上のそれまで「おばさ
 ん」といっていた人によって彼は最初に女を知ったのである。「彰さんすまないわね、
 あなたをこんなにしてしまって」と、入隊が決定して郷里の徳島に帰る最後の夜、そう
 いってその人は泣いたが、彼は「あなたが悪いんじゃない」とこたえた。翌朝東京駅で
 「彰さん死なないで」と言われたとき、彼h「死なんよ」とこたえ、「忘れんよ」と前
 の言葉にかぶせるようにつけたした。その後ついに彼はその人と会うことができなかっ
 たのだが・・・」 
・時間が刻々にすさまじい音をたてて逆流するように流れていき、田所少尉はつ数時間前、
 「特攻隊の士官さんというても、なんにもしてやれんけんね」といって彼のいう通りに
 なった松屋の酌婦のことを考えていた。その時その酌婦は「本当にしっかり頑張ってね」
 とまるで運動会にでも送り出すようなもの慣れた口調でいったが、彼は慟哭しながら女
 の胸にすがりついたのである。彼がはじめて女に接したと思い違えたらしく改めて腕に
 力を入れようとする女の体をかかえて、彼は一年前のことを滅んでいくような気持ちで
 思い続けた。「彰さんお父様に何といってお詫びしてよいかわからないけど、辛かった
 のよ、本当にかんにんしてね」といつも泣きながら彼に抱けれた「その人」に彼は今日
 の昼、長い手紙を書いていたが、ついに最後ま本当の気持ちを何一つ明らかにすること
 はできなかったのである。 
・毎晩毎晩、ほんとにきついんです。本当に辛くて、もし死んだ主人とあえるならどんな
 ことでも・・・という南沢伸子のあえぐような声に、きついかきついかという見知らぬ
 男の声が重なった。いつも夜中になると生汁がでて、目を覚ましたらもうそれから寝付
 かれなくてじっと朝方まで起きているんです。それがまだ主人が生きている時は夜中に
 おきましても、ああまだあの人が戦地で頑張っているんだと思うと、体にも支えがつい
 ているような気がしていましたのですが、どんなに頑張ってみてもああもう主人は戻っ
 てこないのだと思うと・・・という彼女の膿んだ声を、そうですね、御主人がおられな
 いと辛いですね、本当に辛いでしょうという男の声がひきとった。ほんとにきつい、き
 ついという彼女の白い肉体に、そうですねそうですねといいながら男の黒い体が迫る。
 毎晩毎晩主人の夢をみるんです。生きていた時とそっくりの顔をしてじいーと私をみる
 んです、という彼女の白い太股に、御主人が死なれたらほんとにきついきついと、いい
 ながら戸部宗輔の見知らぬ男の手がからみついていく。南沢伸子の呻きに淋しいでしょ
 う淋しいでしょうという戸部宗輔の見知らぬ男のの呻きがかぶさる。その男が南沢伸子
 に子供をはらませたのだ。その男は古田レイ子もねらっている。まだ男をしらない古田
 レイ子の体にそいつは自分の足をからませようとしている。古田レイ子の白い体からそ
 の男の手を引き離さねばならない。
・その夜変にだらだらと続いた壮行の宴が終わってから、後始末をする彼女のそばに中か
 がみになった恰好で彼は話しかけ、それから手を拭きかけた彼女をひきずるようにして
 抱いたのである。「明日は六時には起きんといかんというのにどうにもならんなあ、い
 くら抱いても抱ききれんような気がするねえ」顔をおしつけたままじっとしている彼女
 の頚にまきつけた右腕を放し、体では満ち足りているのに、彼女を求める気持ちはかえ
 って深くなっていくといった声で彼はいった。「生きて帰ってきてね。何でもどんなこ
 とをしても待っているから」彼女はとりすがった。「おれは戦死せによ。心配いらん。
 は
 人と墓場で抱き合っている。父、宗輔がそれを手引きするのだ。彼は引き返してあの女
 に会いたくなかった。
・突然、幕のむこうに坐っている女を押し倒したい欲望にとらわれながら、戸部宗輔は
 「ああ」と呻いた。「誰も彼も死んでいった。昼と夜との見境がつかなくなった頃、た
 べるものがなくなって誰も彼も斃れていった。深いジャングルだ。・・・」吉田レイ子
 ははじかれたように顔をあげた。「いつも君のことだけを考えていたよ。いつも君のこ
 と・・・」戸部宗輔はは原明子にいったのと同じことをしぼるようにしてつけ加えた。
・今日か明日、いや昨日だったかもしれない。長男が特攻隊で出撃したんです・・・」戸
 部宗輔の声は顫えた。「そうですか」と吉田レイ子はいった。押し倒すぞ、押し倒すぞ、
 という怒りとも欲情ともつかぬ戸部宗輔の体の中の塊りが、その彼女のツヤのない声に
 あおられるようにみるみるうちにふくれあがった。
・あの時、本当にあの吉田レイ子を押し倒してもよかったのだ。しかし、やはり吉田レイ
 子の婚約者は生かさなかればならなかったのだ。他人の愛する者を死なして、自分の愛
 する者だけを生かすことはできない。だがもう遅い、遅すぎる。高雄は出撃したかもそ
 れないのだ。    
・「下のおばさんが・・・」倉内安子が体をひいた。「いいよ」戸部宗輔はいった。「で
 も・・・」風呂場に面した窓の方を倉内安子はみた「きつい」戸部宗輔は畳に顔をふせ
 た。その頭を妻のような手つきで倉内安子はなでた。「きついんだ」うつぶしたまま戸
 部宗輔は同じことをいった。「ほんとになんといってよいか、わからんから・・・」な
 ぐさめようもないといった声で倉内安子がいい、その腕を体をおこした戸部宗輔がひき
 よせた。「待って」倉内安子はいった。「いいよ」戸部宗輔は迫った。「下のおばさん
 にきこえます」階段の障子の方をみて倉内安子はは戸部宗輔の手をおさえた。「高雄が
 死んだんだ」戸部宗輔は倉内安子の体に手をまわし、譫言のような吐息が彼女の顔にふ
 りかかった。「下をみてきます」低いかすれ声で倉内安子はいい、その息の下をくぐる
 ようにして立ち上がった。 
・もし彼女を抱かなければ高雄は助かるかもしれないという宙に浮いた考えがどこかで走
 った。吉田レイ子を押し倒そうとした欲望が倉内安子を抱こうととしている。その欲望
 を断ち切れば、高雄の運命に奇跡が起こるかもしれないという出口のない光線が。倉内
 安子が焼かんを下げて上がってきて、申し訳のような手つきで机の上におかれた急須に
 湯を注いだ。「お茶なんかいいよ」戸部宗輔ははいった。「焼かんをかえしてきます」
 それだけのお膳立てが必要なのだというふうに倉内安子はいった。「きついんだ、早く」
 戸部宗輔は呻いた。