潮田伝五郎置文 藤沢周平

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この作品は1974年に発表された短編の時代小説で、「冤罪」という短編集の中の一つ
だ。
内容は伝五郎という下級武士の物語である。その武士は12歳のときに3、4歳年上の名
門の家柄の娘・七重と出会った。その時の七重の印象が、あまりのも強烈だった。そのと
きから七重は、伝五郎にとって女神的な存在となった。
伝五郎は、偶然、六年ぶりに七重と出会った。そのとき七重は既に嫁ぎ、人妻となってい
た。しかし、七重は以前に比べて、いくらか肉づきが豊かに変わったようだが、笑ったと
き頬に刻まれたえくぼは昔のままだった。
しかし、その人妻の七重が、茶屋で夫以外の男と会っていたのである。しかもその男は、
伝五郎が少年のころから嫌っていた男だった。伝五郎は神を汚辱されたと思った。
伝五郎はその男に果し合いを申し込み、みごと討ち果たし、そして自分も切腹した。
しかし、そのような伝五郎の気持ちとは裏腹に、七重は、伝五郎にはまったく関心を持っ
ていなかった。七重の心にあるのは、一人の男が、いまの自分にとって大切な人間の命を
奪われてしまったということだけであった。

まことに女の心はわからない。多情な女が悪いのか、それとも多情な女に惚れた男がバカ
なのか。七重のような女を「魔性の女」と呼ぶのだろうか。
ところで、七重の多情さは、持って生まれたものなのか、それとも裕福な家庭で育った、
いわゆる「お嬢さま」特有の奔放さなのか。それはわからない。
ただ、この作品では、七重を不倫に走らせたのは、七重の夫の異常な権力への執着にあっ
たというような書き方をしている。そうすると、権力に異常な執着を示す七重の夫が一番
悪かったのか。それとも、やはり伝五郎の女性に対する幼稚さが悪かったのか。
私には、作者の意図するところが、いまひとつ理解できなかった。
ただ、はっきり言えることは、伝五郎が12歳のときに七重と出会うことがなかったら、
妻の希世と幸せな人生を送ったかもしれないということだ。

ところで、この作品に「辛卯の大変」というのが出てくるが、実際にそういうことがあっ
たのかと、ネットで調べてみたが、それらしいものは見当たらなかった。作者の創作のも
ののようだ。ただ、この「辛卯」というのは干支の組み合わせの一つで28番目のものの
ようだ。
この組み合わせは、西暦を60で割って31が余る年で、近年では2011年がそうだっ
たようで、次の「辛卯」の年は2071年となるようだ。
この作品では1831年(天保二年)の辛卯の年に政争が起こったので「辛卯の大変」と
しているようだ。


・霧がある。男がひとり、河原に佇っている。白い霧のために、男は影のように見えた。
 夜は明けていたが、霧のために明るくなるのが遅れていた。
 男が身動きした。橋を渡ってきた者がいる。橋を渡ってきた者は、ゆっくり河原に降り
 てくると、待っていた男との間に五間ほどの距離を置いて立ちどまった。羽織を脱ぐと、
 その下から白い襷が現われた。
・霧の中で、二人の男はほとんど同時に刀を抜いた。しばらく睨み合った後、二人は気合
 いを掛けながら撃ち合った。技倆の差がみえ、闘いはそう長くは続かなかった。一人が
 足を斬られ膝をついたところを、ひとりが肩口から斬り下げた。
・潮田伝五郎は、井沢勝弥の躰を這う痙攣がすべておさまり、勝弥が一塊の骸となって横
 たわっているのを眺めたあと、ゆっくりと襷、鉢巻をはずして捨てた。それから少し湿
 っている粗い砂の上に坐り、着物をくつろげ、袴を押し下げると、ためらいなく小刀を
 腹に突き立てた。
・小刀を突き刺すとき、伝五郎が発した激しい気合いが、一瞬川音を切断したが、川はす
 ぐにざわめきを取り戻した。
・日がのぼり霧がはれたとき、河原に二個の骸が横たわっていた。

・潮田伝五郎が、井沢勝弥に勝負を挑んだのは、道場を出て城下端の野道を歩いている時
 だった。 
・神道無念流を教える塚本才助の道場は、城下町から十丁ばかり南に離れた村落にある。
 才助は変わった人間で、どこからともなく飄然とやってきて、定まった住職もいない荒
 れ寺に棲みついたのである。
・神道無念流の道場という噂を聞いて、市中の野瀬道場で師範代を勤める作間という若侍
 が試合を挑んだが、手一本足一本動かす間もなく打ち据えられた。野瀬道場は、城下で
 ももうひとつの戸川道場と評判を分ける大きな道場である。
 作間はあまりに不思議で、再度立ち合いを所望したが、結果は同じだった。
・塚本道場の名が挙がり、城下から藩の子弟が通うようになった。七年前のことである。
 潮田伝五郎は四年前からそこに通っていた。
・伝五郎が井沢勝弥に真剣勝負を言いかけたのは、道場の帰り道である。理由は、井沢が
 伝五郎の粗末な衣服を嗤ったためである。伝五郎の家は、僅か十七石の軽輩だった。
・井沢は三百石の上士の跡取りである。父の職を継いで物頭にもすすむ家柄の人間だった。
 伝五郎より二つ年上の十四で、躰も大きかった。
・「刀は抜くな。素手でやれ」
 声を掛けたのは広尾という少年だった。
・「俺は真剣でもいいぞ」
 井沢は、伝五郎を睨みつけて言った。底冷たい感じの美貌が蒼ざめている。
・「いや、刀は抜かん方がいい。事が大きくなる」
 広尾は井沢と同じ十四だった。
・井沢と伝五郎は袴の腿立ちを取り、組み合い、殴り合った。
・何をしていますか、多喜蔵」
 不意に鋭い声がした。
・「あ、姉上」
 広尾が言い、頭を掻いた。
・水を掬って顔を洗った。泥と血を洗い落とすと、する傷が痛んできた。
・「これを使って下さい」
 不意に声がした、深く澄んだ声に、伝五郎は思わず顔を挙げた。
・十五、六の見える若い娘が立っていた。娘の後に三十前後のもうひとりの女がいる。
 二人とも武家の女と解る着付けと髪をしている。
・「私は広尾多喜蔵の姉です」
 娘はしっかりした口調で言った。
・娘の顔に、不意に微笑が浮かんだ。黒眸がいたずらっぽく光り、白い歯がちらとみえた。
 娘の頬に刻まれたえくぼを、伝五郎は瞬きもしないで見つけている。
・「仕方がないひとですね」
 娘は畔を降りてきた。裾をつまんでしゃがむと、伝五郎の着物と袴をはたはたと手では
 たいた。埃を落としたのだった。
・「お嬢さま」
 年上の女が咎めるように声をかけたのに、娘は振り向かないで、しゃがんだまま首を傾
 け言った。
 「あの人たちは躰が大きいから、組み打ちをしてもかなう筈がありません。もうやめな
 さい」
・娘と連れの女が立ち去ったあとも、伝五郎はしばらく茫然と畔に立ち続けた。娘の着物
 からにおったいい匂いに、まだ全身を包まれている感じがした。
   
・六年ぶりに七重どのと顔をあわせたのは、盆踊りの夜のことでござった。それがし十八
 で家督と継いだあの年のことでござる。
・踊りが始まった三日目の夜に、伝五郎は見物に出た。希世が一緒だった。希世は伝五郎
 と同じ御旗組に属する加納五郎左衛門の娘である。年内に祝言を挙げることになってい
 た。希世を同道するように勧めたのは、母の沙戸だった。
・長い間重い胃病で倒れていた父の角左衛門が春先に死に、伝五郎が家督を継いていた。
 希世との縁談は、角左衛門の生前から内々で話があったが、死後、話は急にまとまった。
 希世は伝五郎よりひとつ年上だった。おとなしい女である。
・「きれいですこと」
 希世は囁いた。希世は人に知れないようにして、伝五郎の袂先を握っている。白く、ど
 ちらかといえば表情に乏しい希世の顔が、火明りに照らされて少し興奮しているように
 見える。伝五郎は母の沙戸が、希世を連れて行けと言った理由が、初めて解ったような
 気がした。
・希世は無口で、ひっそりとした性格の女である。縁談がまとまった後でさえ、伝五郎と
 顔をあわせても、それらしい親しみを表情に出すということもなかった。無表情に丁寧
 にお辞儀をして通り過ぎるだけである。   
 今夜の希世は、いくらかふだんと違っていた。唄と踊りに押し出されて、伝五郎に寄り
 添ってきている。だが伝五郎には、くすぐったいような感覚があるだけだった。
・縁談が決まったあとも、希世にはことさらな変化がみられなかったが、それは伝五郎の
 方も同様だったと言える。 
 親が選び、親同士が運ぶ縁談を、黙って眺めているだけである。同じ御旗組の長屋うち
 のことだから、希世本人のことも、希世の家のことも、日頃見聞きしていて大体わかっ
 ている。もの珍しいことは何もないという気がする。
・縁組みの話が持ち上がったころ、伝五郎の胸の中に、悲哀と呼んでもいい痛切な思いが
 動いた時期があったが、その一人の女性を想った感情は、恥ずべきもののように、底深
 く隠され、いまは思い出すこともできない。
・母が、希世を気に入っていた。それだけで十分だった。縁組みというものは、このよう
 にして運ばれ、夫となり妻となるのだろうと、伝五郎は思うだけである。
・子供の頃は「志」といったものがあった。絶えず心を焼くものに動かされて、剣を学び、
 漢籍を学んだ。
 だがあるとき、内部で何もものかが折れた。そのことを伝五郎は誰にも言うことができ
 ない。以来押し流され、いま傍らにどこか愚鈍な感じさえする希世がいる。
    
・雑路の中で、不意に声を掛けられた。
 「潮田さまではございませんか」
 希世の手を掴んだまま、伝五郎は茫然と立ち竦んで女の顔をみた。
・女は広尾多喜蔵の姉・七重だった。小女をひとり連れている。七重は六百四十石の上士
 菱川家に嫁いでいる。菱川家の当主多門は、二年前組頭から中老職に進み、藩政を動か
 している実力者だった。
・七重の夫である多門の子息庫之助も、いまはまだ小姓組にいながら、次の藩政を担うも
 のと嘱望されている人物である。七重は聡明で美しい容姿にふさわしい家に嫁入ってい
 た。
・七重はまた頬にえくぼを作った。瞳がからかうようないろを帯びて、伝五郎を見つめて
 いる。
・「私、よく思い出すのですよ。あなたが井沢の勝弥さんと喧嘩したときのこと」
 伝五郎は眼を逸らした。不快な名前を聞いたと思った。不意に惑乱から覚めた気がした。
 井沢のことを言った七重の言い方が、親しげに聞こえたからである。
・春の野道で井沢と格闘してから、伝五郎は四、五回七重の家に招ばれている。多喜蔵に
 招ばれたのである。
 ニつ年上の多喜蔵は、あの喧嘩以来伝五郎が気に入ったようだった。
 広尾の家は三百六十石で、多喜蔵の父郷右衛門は奏者を勤めていた。
 奏者は幕府や京都の御所に、藩の公式の使者として赴くのが役目である。そのため郷右
 衛門は終始家を留守にしていた。 
 広尾の家では、すごろく、歌合わせ、かるた遊ぶなどをやった。七重や、多喜蔵の弟も
 加わり、自由な空気があった。
・伝五郎は遊びにはあまり興味がなかった。むしろ苦痛なほどだった。人並みできるのは
 すごろくぐらいで、ほかはいちいち広尾に教えてもらわないとできなかった。時々しく
 じって、七重に笑われるのは辛かった。
・家柄も育ちも違うことが、身に染みてわかり、身の程知らずなことをしている気がした。
 それでも広尾に誘われると、伝五郎は行かずにはいられなかった。七重のそばにいるだ
 けで、言葉を交わさなくともしあわせだったのである。
・ある日、広尾について行くと先客がいた。井沢勝弥だった。井沢は大人びた風にゆった
 り坐り込んで、七重と話をしていた。
 伝五郎をみると、「おや、狐町か。こういう場所にも出入りするのか」
 と露骨に嫌味を言った。
・井沢の家と広尾家は、遠い姻戚関係にあると聞いていた。伝五郎は怒りを押さえたが、
 井沢の七重に対する自由な物言いが羨ましい気もしたのだった。
・井沢勝弥と顔を合わせてから、伝五郎は広尾多喜蔵の誘いを断った。
 伝五郎は井沢の中に、軽輩の者を卑しむ気持ちがあるのを強く感じ取っていた。井沢は、
 ときに露骨にその感情を眼にみせ、口にする。
・七重の前で蔑まれるのは耐え難いと思った。まして、七重に対するひそかなもの思いを
 覚られたら、恥辱のために腹を切るしかないだろうと思った。その懼れのために、伝五
 郎は広尾の家から遠ざかった。
 だがその時期に伝五郎が、広尾の家から離れたのは賢明だったのである。年が明けた春、
 七重は当時組頭だった菱川家に嫁入った。
・伝五郎は、七重の縁組みを聞いた日、狐町の背後を流れる赤目川の岸に出た。川は勢い
 よく流れていた。 
 一刻ほど、伝五郎は赤目川の岸に蹲って、身動きもしなかった。菱川庫之助に対する嫉
 妬は不思議なほどなかった。庫之助は、伝五郎も日頃尊敬している人間だった。眉目秀
 麗、長身の人だという姿も、噂に聞くだけで見たことはない。
 
・「おきれいな方でしたこと。さっきの方」
 不意に希世の声が、伝五郎のもの思いを断ち切った。
・「友だちの姉だ」
 「どちらさまの奥さまでございますか」
 「菱川中老の家の方だ」
 と言ったが、伝五郎は不意に希世がひどく遠い距離にいる人間のように感じて、思わず
 振り返った。闇は深く、希世の顔は白い面輪がわかるだけで、表情はさだかでなかった。
 
・辛卯の大変があったのは、六年前。天保二年(1831)の暮れのことでござった。
・「ご老人、何ごとが起こったのでござるか」
 伝五郎が言った。
・「くわしくは知らんが、菱川家のお屋敷、ほか二、三のお屋敷で斬り合いがあるらしい」
 「前代未聞のことじゃ。この寒い夜中に」
・菱川家の門は、八文字に開かれている。門を入ったところに、陣笠をかぶった人物が立
 ち、声を張り上げて叫んでいた。
 「双方とも鎮まれ、刀を引け。お城そばで何ということじゃ。お上に相済まんと思わん
 のか。刀を治めろ」
 その声を弾ね返すように、刀を打ち合う音が門まで聞こえてきた。
・隙を見て門の中に飛び込むと、伝五郎は玄関から家の中に走り込んだ。 
 「菱川どのに、ご助勢仕る」
 と伝五郎は言った。
・「何者だ」
 一人の長身の男を囲んで、三人の男が剣先を揃えて対峙している姿が映った。
 長身の男は、白い寝衣のままである。
・七重どのの親戚のものでござる」
 咄嗟に伝五郎は言った。  
・「それは有難い」
 庫之助と思われる長身の男が、やはり落ち着いた声で言った。
・突然一人が反転して伝五郎に斬りかかってきた。伝五郎は抜き合わせた。 
 敵の刀身の唸りを耳のそばで聞きながら、伝五郎は体を沈めて二の太刀を打ち込んだ。
 骨を斬り割った鈍い音がし、敵の体が突き飛ばされたようにのけぞった。
 伝五郎の刀は敵の膝を斬ったようだった。ずるずると壁を背でこすって尻から落ちた敵
 は、そのまま立ち上がれず、呻き声を洩らしながら、必死に刀を構えている。
・「ここはよい、水屋の方を見てくれ。七重が、逃げ遅れたかも知れん」
 座敷に戻った伝五郎に、庫之助が声をかけた。
・伝五郎は茶の間を駆け抜け、玄関から水屋に走り込んだ。
・「誰じゃ」
 弱々しい声が、伝五郎の足音を咎めた。水屋の隅に蹲っている七重の姿を、伝五郎は明
 り取りを透かしてくる淡い人影の中に認めた。七重は小さく蹲ったまま、小刀を構えて
 いる。白い寝巻を着ていた。
・「潮田伝五郎でござる。助勢に参りました」
 ああ、と嘆声を洩らすと、七重は小刀を板の間に落とした。そのまま柔かく体が崩れる。
・「ご安心めされ」
 伝五郎は囁いて七重の体に手を触れた。しなやかな肉の感触が、伝五郎の手にまつわり
 ついてきた。伝五郎は突然体がふるえ出すのを感じた。
・「それがし、かくまって進ぜます」
 寒気に襲われたように、歯を鳴らしながら言うと、伝五郎は七重の体を背負った。七重
 は、ぐったりと伝五郎の背に体の重みを預けたままだった。血が匂うのは、七重がどこ
 かに手傷を負っているのである。だがそこまで心が届かないほど、伝五郎の心は上ずっ
 ている。   
・「うかつな場所には運べぬ」という気がした。七重の様子の異常さも胸を衝いてきた・
 何者が菱川家を襲ったのか、誰が敵かも解らない以上、近くの屋敷に駆け込むというこ
 とも憚られた。
・「長屋へ連れて行くしかない」
 ついに伝五郎はそう判断した。
・「さむい」
 背中の七重が呟いた。不意に襲ってきた七重の体のふるえが、伝五郎を驚かせた。
 橋を渡ったところに地蔵堂があるのを伝五郎は思い出した。
・「どこを怪我された?」
 伝五郎は手早く肌脱ぎになり、肌着を切り裂きながら訊いたが、七重はかすかに呻いた
 だけだった。  
 手探りして、伝五郎は七重の傷を改めた。手傷は左腕の付け根だけのようだった。
・「さむい」
 また七重が呟いた。七重の歯が鳴った。手をあてると、火のように熱い額だった。
 裸の胸のまま、横たわって静かに七重を抱いた。伝五郎の胸の中で、七重の悪寒は少し
 ずつ納まって行くようだった。
  
・七重どのが、茶屋で、密かに男と会っていると聞いたのは、昨夜のことでござる。
 そのように知らせたのは希世でござる。その男が井沢勝弥であると希世が告げたとき、
 それがし即座に果し合いを覚悟致し申した。
 これを男の妬みとはお取りなされまい。七重どのは、それがしにとって神でござった。
 わが神を汚すものは、井沢であれ、他の何びとであれ、わが前に死ぬべきものでござる。
・希世は責めてはなりません。希世は女の性にしたがい、なすべきようにしたまででござ
 る。 
・「男が先に出、しばらくして七重さまが茶屋を出られました」
 「二度や三度ではありませぬ」
 「ご城下では隠れもない噂です。殿方はご存じないようですけれど」
 勝ち誇ったように希世は言った。その口調の確かさが、伝五郎を戦慄させた。井沢勝弥
 によってもたらされた、七重の汚辱は、もはや疑いようがなかった。希世の眼に増悪が
 燃えているのを、伝五郎は懼れるように見た。
・「希世は、地に堕ちた七重どのを土足で踏みにじりたがっている」
 と伝次郎は思った。なぜもっと早くこのことに気づかなかったろうか、とも思った。
 しかし、すぐに無力感が伝次郎をとらえた。希世を娶るはるか前から、伝五郎は七重の
 囚われ人だったのだ。

・辛卯の大変と呼ばれる凄絶な政争があったのは、六年前である。
 事情は後に判明したが、中老の菱川多門、筆頭家老浅沼宮内が手を結んで進める藩政改
 革に、終始反対を唱えていた保守派が、一挙に主流派を抹殺し、藩政を握ろうとしたの
 が真相だった。

・七重を屋敷から救い出してから、伝五郎は七重と会っていなかった。あの夜、地蔵堂の
 闇の中で、ほとんど肌を接するまで寄り添ったことも、事件が通り過ぎてしまえば、一
 ときの甘美の夢のようで、あったことが信じ難かった。
・ただ余韻が残った。遠い鐘がひびくように、あの夜四肢をゆだねた七重の記憶が、伝五
 郎の胸の中に時おり微かに鳴りひびく。その記憶だけで伝五郎は満ち足りていた。
・才幹のある夫がいて、七重はその妻だった。それでよいという気持ちが伝五郎にはある。
 七重が幸福であることを、遠くから眺めているだけでよかった。   
・「七重どのは、するとしあわせではないのか」
 と伝五郎は言った。その疑念が、不意に心に射し込んだのである。七重が多情な女だと
 は思いたくなかった。 
・「よそさまのことは、存じませぬ」
 にべもなく希世は言った。希世は娘の頃にくらべて、幾分痩せた。表情の乏しい顔の中
 で、眼だけが生きて、伝五郎を刺している。この女を、愛したことはなかった。
・「そなたは、七重どのを憎んでいるのだな」
 「はい」
 希世は眼をそらさずに答えた。伝五郎は沈黙した。希世の増悪は正当だと思ったのであ
 る。ただ希世は的を間違えている。増悪の矢は真直ぐ俺に向けられるべきなのだ、と伝
 五郎は思った。
・七重に対する俺の感情を、希世はいつから気づいたのだろうかと思った。
 六年前の雨の夜、七重を家に担ぎ込んだとき、希世は無表情に七重のために床をのべ、
 伝五郎が医者を呼んでくると、手当てする医者を手伝った。
・「だが、あのときではありまい」
 そういう気がした。
・不意に重い衝撃が、伝五郎の内部に動いた。十年も昔の盆踊りのことが、不意に記憶に
 甦ったのである。
 希世は夜の雑沓の中から、不意に話かけてきた美しい女と、やがて夫になるべき男との
 つながりを探っていたのだろか。長く荒廃した妻との日々が見えてきた。
・「もうよい。そのことは誰にも言うな」
 と伝五郎は言い、先に休めと言葉を重ねた。
・伝五郎は井沢勝弥に書き送る果たし状の文句を案じた。  
    
・青岳寺の門を出ると、七重は短い影を踏みながら、ゆっくりと歩いた。
 「奥さま、ちょっと」
 女中のひさが軽く袖を引いたのは、青岳寺の塀が尽きる場所に来たときである。 
 角の青物屋の前で、店に背を向けてこちらを眺めている老女の姿に、七重も気づいてい
 た。老女の視線がきつく、眺めているというよりは注視しているように見えたからであ
 る。
・「あれが、潮田の母親でございますよ」
 とひさは言った。
・青物屋を通り過ぎていたが、七重は思わず振り返った。伝五郎の母・沙戸は、まだこち
 らを見つめている。その眼に増悪のいろを見て、七重は訝しんだが、不意に腹が立った。
 「潮田が果し合いなど申し込まなかったら、勝弥は生きていた」
 と思ったからである。
・夫の立派さに、七重は倦きあきしている。夫の庫之助は、藩政の中枢に坐ることに、異
 常なほどの執着を示してきた男だった。  
 庫之助の異常さは、そのために自分自身に苛酷な試練を加え、それをひとつひとつ着実
 に克服してきた立派さにあった。
 だが、庫之助のこのような努力は、要する権力者の資格にふさわしい自分を作りあげる
 ことに目的があったのである。 
・夫の立派さの異常に気づいたのは、菱川家に嫁いで四、五年経った頃である。
 夫はそのようにしてつくり上げた自分を武器に、一歩一歩権力の座にのぼり、のぼるた
 びに、妻にその座を誇示し、尊敬を強いた。いま庫之助は家老の地位を手に入れること
 に熱中している。これが藩内の尊敬を集めている男の正体だった。
・「勝弥はだらしがない男だったが、正直だった」
 と七重は思う。
・七重は菱川家に嫁ぐ前、一度だけ井沢勝弥に肌を許していた。
 茶屋で忍び会ったとき、勝弥はふざけた口調で、
 「たった一度の過去のために、いまだ嫁をもらう気になれないのだ」
 と言った。
 勝弥は井沢家の跡取りなのに、まだ独り身で女遊びをしたり、悪友と酒を呑みまわった
 りしていた。  
・勝弥がふざけ半分に言った言葉を、七重はことごとく信じたわけではない。だが言った
 ことの中に、何ほどかの真実が含まれていることを覚ったのだった。
・「潮田は、どういうわけで勝弥に果し合いなど申し込んだのだろう」
 七重はいくら考えても解らない。
 潮田伝五郎は、ある時期弟のまわりにいた男たちのなかで、一番目立たない人間だった。
 辛卯の暮れ、屋敷から救い出してくれたのが伝五郎だと知ったときは驚いたが、偶然だ
 ろうと思っていた。 
・果し合いは、伝五郎の方から申し込んだと聞いている。どのような理由からそうなった
 のかを語る者は誰もいない。
 七重の解っているのは、一人の男が、いまの七重にとって大切な人間の命を奪ってしま
 ったことだけである。 
・「あのような眼でみられるいわれはない」
 七重は、憎悪を含んだ眼で自分を見つけてくる潮田の老母に、憤りを感じた。