深夜の宴会 :椎名麟三

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この小説は、筆者の処女作となっているようで、終戦2年後の1947年に発表されたも
ののようである。
筆者は戦前に、いわゆる「特高」に検挙されたことがあるらしく、そのためか小説の中に
は「共産主義」という言葉がときどき出てくる。筆者は、自分が共産主義者と見られるこ
とを、とても怖れていたようだ。
それはともかくとして、この小説によって筆者はいったい何を主張したかったのか、瀕死
の栄養失調の少年と売春婦の救いようのない生態が描かれていて、終戦後の暗い世相はよ
くわかったが、とにかく暗い内容だった。

・この建物は両国の運河沿いに焼け残ったただ一つの倉庫なのだ。このあたり一面の焼け
 跡は、バラックがあちらこちらに建っているのだが、その手軽な建物とは対照的に、こ
 の建物は現実のように重く無政府主義の旗のように黒く感じられるのである。
・全く部屋にいると、井戸の底にいるようなのである。僕の部屋は四畳なのだが、押入も
 戸棚もない。そして天井が思い切り高いのだ。 
・僕の右隣の部屋には那珂という荷扱夫の一家が住んでいる。その妻は四十五六の身なり
 の構わない女だが、十年も喘息をわずらっていて、最近余り堪え難いので医者にみても
 らったら、胃も悪く心臓も悪く肺も悪いということだった。しかし彼女は寝ても居られ
 ず一日中ごそごそ立働いているのだ。彼女のいつもははだけている胸は鎖骨が飛び出し
 ていて、肋骨の数えられる青黄色い薄い胸板には、しなびた袋がぶら下がっているので
 ある。
・僕の左隣りにいる人々も僕にはやはり重い。書くのも大儀なくらいだ。戸田という夫婦
 が住んでいるのだ。その妻のおぎんは僕の伯父の仙三を助けて、管理人と女中の役目を
 果たしているのだ。彼女は三十を半ば過ぎていたが、左の眼のあたりが何か腫れている
 感じで、そのためふと顔が歪んて見えるのである。彼女は勝気で働き者だ。廊下を掃い
 たり、アパートの配給から菜園の手入れまで引き受けながら、そのうえ夫の面倒まで引
 構えているのだ。
・だがこのように忙しいおぎんでありながら、隣組の配給やアパートの用事で部屋々々を
 訪れるたびに、大抵一部屋で十分も二十分も話し込んでいるのだ。それはそれ相当の利
 益があるのだ。つまりいろんな話を聞き込んで闇取引きをする機会があるのだ。いろん
 な品物を手に入れて売り捌いたりする機会があるのだ。だからこそアパートでは彼女が
 一番裕福であるかも知れない。
・おぎんはアパートの人々の人に知られたくない秘密にも通じていて、人々の弱点に少し
 の容赦もないのだが、おぎんの一番我慢のならないのは、男の生活的な無能力だった。
 それでいながら、戸田に対する態度はそれと矛盾して、かえって戸田の責任のない非実
 際的な性格を愛しているようであった。
・僕の部屋と向き合っている部屋にいる深尾加代という若い女だけは全く堪え難いのだ。
 どんな不幸でさえも彼女に印をつけることは不可能であろう。僕はその女の鼻にかかる
 甘えるようなそれでいてどこか遠い声を聞いていると、いつも重苦しい嘔吐のような気
 分を感ずるのである。
・おぎんは加代に愛想を尽かしていた。女学校を出ているのに配給の当番のときは必ずと
 言っていいぐらいに計算を間違えておぎんや皆に迷惑をかけるのだった。そして若い男
 がいつも入りびたっていてあたり構わない笑声が聞こえていたし、配給物を受け取る金
 さえないときが多いのに、いつも牛肉を煮る匂いをさせているのだった。加代がこのア
 パートに来たのは仙三の関係からだった。加代の母は仙三の妾をしていたことがあるの
 である。
・加代はまだ二十なのだが、彼女は十八で最初の男を知ったのだ。それは戦時中、女学校
 の挺身隊で城東の皮革工場に行っているとき、そこの工員と出来合ったのだ。間もなく
 その関係を先生に知られて軍需省へ勤務を変更させられ、敗戦までそこにいた。空襲の
 ために仙三が焼け出されたので、彼女の母は石川へ疎開することになった。そのとき加
 代辞職を申し出たが、課長は自分の家から通うがいいと言って辞職を許さなかったのだ。
 課長は家族を疎開させて、かなり大きな家にただひとり住んでいた。
・加代は敗戦後もその課長の家にいた。だがある日課長は、家族が疎開先から帰って来る
 からと言って、僅かの手切れ金で石川の母のところへ行けというのだ。田舎へ疎開した
 母は親戚の強制的な勧めと生活難から中農の隠居へ再婚して居り、その婚家へ行くこと
 は、彼そして女に想いも及ばなかった。彼女は汽車の切符を買いに行くと言って家を出
 た。そして何の当てもなく新宿や銀座をさまよった日が暮れてから、彼女は母の旦那で
 あった仙三を思い出したのだ。仙三は折よく元の住所にバラックを建てて住んでいた。
 仙三は加代を見ると眉をしかめたが、それでも彼女を自分のアパートに入れてやったの
 である。
・彼女の一重瞼は何かひどく思い感じだった。そしてその瞳には動物的な暗さが沁みつい
 ていた。だが、頬から口元にかけては幼女のようにあどけないのである。この顔全体は、
 不思議に人々を追憶的な気分のさそうのだった。彼女の客が、ほとんど二十前後の青年
 であることを見ても、その顔が誘惑的なのだということが判るのである。
・加代の最初の客はこうだった。ある夕暮、彼女は両国の駅にぼんやり立っていた。彼女
 は何かを待っていた。しかし何を待っているのか自分でも判らなかったのである。いろ
 んな男たちが彼女を振り返った。ことに学生服を着て真新しい赤革の手提鞄をもった青
 年が、長い間彼女を見入っていた。そして彼女がその青年に気付くと、青年はふいに顔
 を赤らめながら、まるでひきつけられるように加代へ近付くと、「あの、みつ豆でも食
 べませんか?」となつかしそうに言うのだった。それは九州から上京して来た医学生だ
 った。今でも彼は自分ひとりで時には友だちを連れて加代のところへ来るようである。
・これらの人々は僕に深い絶望を与えるのである。僕の心のなかにある或る憧憬を救いよ
 うのない絶望に陥れるのだ。だがそれが却って今の僕には快い。僕は自分の絶望を愛し
 はじめているのである。 
・僕には思い出もない。輝かしい希望もない。ただ現在が堪え難いだけである。現在が堪
 え難いからと言って、希望のない者には改善など思いがけもないことだ。一体何をどう
 改善するのか。欲望という奴は常に現実の後から来る癖に、影だけは僕たちの前に落ち
 ているので、その影にだまされて死ぬまで走りつづけるような大儀なことはしたくない
 だけなのである。
・炊事場は帯を締める暇も、髪を結う暇もない女たちで混み合っていた。そこに思いがけ
 なく仙三が杖をつきながら、フロックコートを着て立っていた。その彼の胸には勲八等
 の勲章が下がっているのだった。そして顔をしかめながら立っている彼は、この場所で
 は何か醜悪だった。だが彼はふいに一人の主婦へ押し付けた威厳のある声で言い出した
 のだった。「あんたはその大根の葉っぱを捨てるのかね?大根の葉っぱにはビタミンが
 根より多く含んでいるのだ。それを捨てるのはまったく命を捨てるようなものだ。わし
 はそれ先刻も言うように単なる経済から言うのじゃない。食生活の合理化のために言う
 のだ。全く大根の葉っぱは枯れたものさえ干葉と言ってな。漬物にしてもうまいもんだ。
 それにわしは仲仕をしていたとき足を挫いたことがあったが、その干葉を入れた湯を立
 てて立派に直したことがありましたよ」そしてまた仙三は、フライパンの取扱方を若い
 主婦に教えた。
・だがやっと仙三が跛をひきながら炊事場から去ると、主婦たちは忌々しそうに愚痴をこ
 ぼし合うのだった。「本当に嫌ねえ。栗原さんに炊事場へ入って来られるとぞっとする
 わ」「あの人はまるでここの殿様みたいなのね。何をしても文句を言うのよ」僕はその
 女たちの間へすべり込んだ。そして、昨日の残飯をフライパンで焼飯にしたのだ。僕は
 それを出来るだけ不器用にやった。すると女たちは奇妙に静かになって、一人二人と炊
 事場を出て行ったのだ。そして遂に炊事場にいるのが僕ひとりになると、思わず僕は深
 い溜息を洩らしたのだった。自分自身が重かった。そして人間が重かった。
・ふと気が付くと、傍に加代が座っているのだ。僕はその彼女が何か気になる謎のような
 微笑をうかべながら、じっと前を眺めているのを知った。僕のひとり言が聞こえたかも
 知れなかった。僕は彼女の肉体をじかに感じた。白い皮膚がはち切れそうに太っていて、
 足の指先まで輝かしいほど丸みを帯びているのである。彼女の身体には、皮膚のゆるん
 でいるところは一箇所もないであろう。やがてふいに僕はまるで桜の満開を見ていると
 きのうような鬱陶しい嫌な気分になった。すると彼女の部屋から絶えず洩れている肉を
 煮る匂いが思い出され、それが僕の胸に立ち込めて来た。僕は忽ち気分が悪くなりはき
 たくなって、そっと立ち上がった。そのとき彼女はの膝のあたりが眼についた。その膝
 は窮屈そうに折り曲げられて、大きな太腿が太ったふくらはぎの上に丸太を積み重ねた
 ように載っていた。そのため彼女は中腰になっているような感じで、彼女の上半身は他
 の人々より遥かに高く浮き上がっているのだった。僕は息苦しい狭い部屋から廊下に出
 て太い吐息を吐いた。あの肉体には人間の夢があふれていると僕は考えた。そして彼女
 の顔の追憶的な気分がその肉体の夢へ投げかけられて、彼女は青年に対して一層誘惑的
 となっているのだった。
・戸田は僕の顔色をうかがうようにして、ふいに尋ねるのだった。「共産主義になれば、
 怠け者は重い懲役にやられるのでしょうねぇ?」「いや、僕は共産主義なんか忘れてし
 まいましたよ。ええもうすっかり。思想と名の付くものは、すべて愚かにもつかぬもの
 ですからね」「でも共産主義の世の中にならないとは限りません。そのとき怠け者は・
 ・・」「ただ死ぬだけでしょう」
・「須巻さんは共産主義から何に転向されたんですか?デモクラシイへですか?僕はデモ
 クラシイが大好きなのですが」「あなたはデモクラシイに反対なので?」「反対?僕は
 いつ反対しました?あなたは先刻、デモクラシイが好きだと言ったけれど、あなたがデ
 モクラシイを好きなのは、共産主義的に好きなのか、自由主義的にに好きなのか、それ
 とも社会主義的に好きなのですか?・・・僕もデモクラシイは好きですよ。だが僕がデ
 モクラシイを好きなのは、デモクラシイには定義がないということなのです。またデモ
 クラシイにはそれによって縛られる歴史がない。つまり歴史的必然という奴がない。だ
 から好きなのです。またデモクラシイではいつも個人の選択の機会が与えられている。
 そしてやはりデモクラシイはあらゆる定義を持つことを許されているということが好き
 なんです。デモクラシイは辞書にはどうであろうと、それは自由ということなんだ。自
 由に定義や思想を与えることの出来る学者が世界にいたら、お目にあっかりたいと思い
 ますよ」「しかし自由とはどういうことなんでしょうね?」
・僕の前の部屋にいる加代は、この二三日病気で寝ている。ただ風邪をひいただけなのだ。
 そして彼女が病気になったと聞いて、仙三は急に彼女へ深い関心を示し始めているので
 ある。「思えはどう思うかね?加代の咳はたしかに肺炎のそれと思うんだが。全く加代
 のようなだらしない女は、一見丈夫そうに見えても、病気に対する抵抗力というものは
 殆どないものだ」「全く加代とお前が夫婦になればいい夫婦になるだろう!」
・「わしは加代にこのアパートから出て貰おうと考えている。全く加代はわしを気違いに
 してしまうよ。あいつは言わば社会の毒虫だ。若い青年を病気と堕落につき落とす毒虫
 だ。うむ、あの女を殺したらどれほど世の中を益するかも知れん」そう言いながら、仙
 三は眉をしかめたままじっとあらぬ方へ眼を向けていが、そのまま僕にさよならも言わ
 ないで帰っていったのだった。   
・そのときふとすき焼きの匂いが僕の部屋に流れ込んで来たのだった。飢えて弱っている
 僕の胃は、忽ち反作用を起こして嘔吐を催して北野だった。僕はそれに出来るだけ堪え
 た。しかし遂に堪えることが出来ないで、僕は急いて便所に走って行ったのだった。だ
 が僕が嘔吐の苦しさに涙を拭きながら、酔ったようによろよろと帰って来ると、ふと加
 代が自分の部屋から出て来たのだった。一層強いすき焼きの匂いが僕に襲いかかり、僕
 は再び便所へ駆け込んだ。何も出ないのを無理にはくと、もう便所から一寸も動くこと
 が出来そうにもなかった。脚全体がしびれたようになって、その脚の皮膚まで蒼白にひ
 きしまっているのがはっきり感じられた。だが僕はいつまでも便所にいるわけには行か
 なかった。僕はまるで重病人のように壁をつたわりながら、やっと便所を出たのだった。
・「どうなさいましたの?」とふいに加代の声がした。しかし僕の視力はかすんでしまっ
 て、加代の首に巻いてある白い繃帯がぼんやり見えるだけだった。僕は加代へやっと言
 った。「僕の胃がすっかり駄目になってしまったんです。つまり胃が・・・」と言いか
 けて、僕は何を言おうとしているのか自分でも判らなくなって言った。「ねえ、判るで
 しょう?胃が駄目になったということが」「つまり胃が、・・・何も食べないで、それ
 で駄目になったのですよ!」「胃潰瘍ですの?」
・僕はすっかり腹を立ててしまった。その勢で僕は自分の部屋へ突き進んで行った。だが
 入口をあけて草履を脱ごうとすると、足の自由がきかないのか、草履が足のうらにくっ
 ついてしまったようだ。それを無理に脱ごうとあせっているうちに、入口お敷居に足を
 とられたようになって、勢よく部屋の中へ投げ出されていた。それなり僕はもう何も判
 らなくなってしまっていたのだった。 
・自分の部屋の入口で気を失ってから、僕は度々加代から粥を恵まれているのだった。そ
 れ以来加代は、ときどき僕の部屋へ来て坐っていることがあった。    
・「あなたはほんとにたまらない方ね!」と加代はまた謎のような微笑をうかべながら、
 あの重い一重瞼の眼で僕を見つけたのだった。それからふいに立ち上がりながら僕に言
 うのだった。「お別れにお酒を飲みません?」「それもいいですねえ」と僕は大儀な気
 持ちで立ち上がった。僕は加代の後ろについて行きながら、心に幾度も繰り返していた。
 痩せ犬のようにか!全く何という女なんだろう。だが僕は間もなく加代の部屋で酔いつ
 ぶれてしまったのだった。飢えのために身体が弱っているからだ。だが酔いつぶれなが
 ら、僕はただ一つのことをぼんやり覚えていた。それは加代が酔いつぶれている僕の頭
 を子供のように撫でながら、脱げて来る髪を指に巻いては畳の上へ落としていたことだ
 った。