桜島 :梅崎春生

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この小説は、終戦2年後の1947年に発表されたもので、作者の処女作のようである。
内容は、作者自身が、終戦間近に徴兵され、桜島にあった日本海軍の基地の通信所で暗号
兵として過ごしたときの体験をもとに書かれたもののようである。
その基地には海軍の水上特別攻撃隊もあり、そこに所属する特攻隊員たちの、荒んだ心の
有様や、軍隊内での理不尽な「しごき」の様子が描かれている。作者が「住む世界が違っ
ている」と表現しているように、同じ兵士でも、志願兵と、嫌々ながら徴兵された兵士と
では、当然ではあるが、心の中はまったく異なっていたようだ。
作者は、通信所に届く電文から、広島の原子爆弾投下やソ連参戦などの情報もいち早く知
ることができたようである。しかし、玉音放送は、ラジオを聴いても、雑音がひどくて、
何を言っているのかほとんどの人は判らなかったようだ。後に届いた通信電文によって、
はじめて敗戦を知ったようである。敗戦を知った時は、ただただ無性に涙が流れて止まら
なかったようだ。無理やり徴兵された一兵士の心の中が、どういうものだったのか、少し
わかったような気がした。

・坊津にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下ろす
 峠で、基地隊の基地通信に当たっていた。私は、暗号員であった。電報は少なかった。
 日に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、峠の上を翔った。ふり仰ぐと、
 初夏の光を吸った翼の色が、ナイフのように不気味に光った。
・枕崎から汽車に乗って、或る小さな町についた。街の中央にある旅館に入った。そこで
 飯を食べた。縁側に立って、夕方の空の色を眺めていると、通りかかった若い海軍士官
 が私に声をかけて来た。やはり坊津の、山の上にある挺身監視隊長、谷中尉と言った。
 先日、博多が空襲にあった際、博多武官府にいたと言う。博多は、私の古里であり、博
 多にいる私の知己や友人のことを思い、心が痛んだ。
・「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」谷中尉は、じろりと私の顔を
 眺め、そう言った。 
・妓が一人しか居なかった。そして、酒はなかった。谷中尉の発議で、私がくじをつくっ
 た。このような場所で女と寝るのも侘しく、私は短いくじを引きたいと願った。しかし、
 私が長いくじにあたった。谷中尉は、お茶を一杯飲んだだけで、では、と笑いながら立
 ち上がった。  
・妓には、右の耳が無かった。女と遊ぶ、このことが生涯の最後のことであることが、私
 にははっきり判っていた。桜島に行けば、もはや外出は許されぬ。暇さえあれば眠らね
 ばならぬような勤務が、私を待っているのだ。
・生涯、女の暖かい愛情も知らず、青春を荒廃させ尽したまま、異土に死んで行かねばな
 らぬ自身に対し、このような侮辱がもっともふさわしいはなむけではないのか。私は窓
 に腰をかけたまま、じっと女の端麗な横顔に見入っていた。 
・私は窓の下を通る貨物列車の音をわびしく聞きながら、妓と会話をかわしていた。「桜
 島?」妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。「貴方は、そこで死ぬのね」「死ぬさ、そ
 れでいいじゃないか」「いつ、上陸して来るのかしら」「近いうちだろう。もうすぐだ
 よ」「あなたは戦うのね。戦って死ぬのね」
・「お互いに、不幸な話は止そう」「私は不幸よ、不幸だわ」妓の眼に、涙があふれて来
 たようであった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと私の胸にあふれた。歯を食
 いしばるような気持ちで、私は女の頬に手をふれていた。
・波止場で船を待っているうちに、雲が千切れながら、青い空を見せ始めた。切符売場の
 女の子達は、ふかし馬鈴薯を食べていた。それが変に私の食欲をそそった。私はそれか
 ら目をそらし、衣嚢に腰掛け、無表情な群衆を眺めていた。昨夜の女のことを考えてい
 たのだ。昨夜の情緒が、妙に執拗に私の身体に尾を引いているように思われた。何か甘
 いその感じが、逆に作用して、波止場にいる無感動な人々の表情に対する嫌悪をそそっ
 た。 
・「飛行機です」男は私から双眼鏡を受け取ると、南の空に目を向けた。空には雲がなか
 った。太陽はぎらぎら輝きながら、虚しい速度で回転していた。その大空の何処かを、
 鋭く風を切って、飛行機が近づいて来る気配があった。男は、双眼鏡を眼から話すと、
 栗の木の電話に飛びついた。呼鈴を鳴らした。このような山の中で聞く呼鈴の音は、妙
 に非現実的に響いた。「グラマン一機、鹿屋上空」その時、突然のように、冴えた金属
 性の響きが、微かながら私の耳朶をとらえた。私が空を振り仰ごうとしたとき、男の手
 が私の肱をとらえた。「待避、待避しなくてはいけません」栗の木から5メートル位離
 れたところに一寸した窪地があって、私達は少しあわててそこに走り込んだ。二人並ん
 であおむけに寝た。
・二人では狭すぎる。何か答えようとして、私が男の方に身体を動かしかけたとたん、空
 気を断ち切るような金属音が急に破裂するように増大し、轟音たる音の流れとなって私
 達の頭上をおおった。私の視野を、金色に輝きながら、グラマンが大きく現われ、そし
 て瞬時にして消えた。思わず身体を起こしかけたとたん、引裂くような機銃の音が連続
 しておこり、そして止んだ。飛行機の爆音が見る見るうちに小さくなり、海のむこうに
 消えて行ったらしかった。飛行機の通り過ぎる間、忘れてしまっていた蝉の声が、この
 時になってよみがえって来た。男は身を起こして、電話機についた。「鹿児島方面に退
 去」  
・「志願兵。志願兵上がりの下士官や兵曹長。こいつらがてんで同情がないから」男はう
 なずいた。「私は海軍に入って初めて、情緒というものを持たない人間を見つけて、ほ
 んとに驚きましたよ。情緒、というものを持たない。彼等は、自分では人間だと思って
 いる。人間ではないですね。何か、人間が内部に持っていなくてはならないもの、それ
 が海軍生活をしているうち、すっかり退化してしまって、蟻かなにか、そんな意志もな
 い情緒もない動物みたいになっているのですよ」「志願兵でやって来る。油粕をしめ上
 げるようにしぼり上げられて、大事なものをなくしてしまう。下士官になる。その傾向
 に、ますます磨きをかける。そして善行章を三本も四本もつけて、やっと兵曹長です。
 やっとこれで生活ができる。女房をもらう。あとは特務少尉、中尉、と役が上がって行
 くのを楽しみに、恩給の計算をしたり、退役後は佐世保の山の手に小さな家を建てて暮
 らそうなどと空想して見たり、人間の、一番大切なものを失うことによって、そんな生
 活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈な人生ってありますか。人間を失って、
 生活を得る。そうまでしなくては、生きて行けないのですか」
・電信兵の半ばは、予科練の兵隊である。練習機不足のため、通信兵に回された連中なの
 だ。 
・静かな鹿児島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風に逆らっているせいか、双
 翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速度で、丁度空を這っているように見えた。
 特攻隊にこの練習機を私用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じた
 いような気持で居ながら目を外せなかったのだ。その機に搭乗している若い飛行士のこ
 とを想像していた。 
・坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の
 校舎を借りて、彼等は生活していた。国民学校の前に茶店風の家があって、その前に縁
 台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒を飲んでいた。二十歳前後の若者である。白
 い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表
 情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何
 か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
・欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われていることではない
 ことは想像出来たが、しかし眼のありに見たこの風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちて
 いた。基地隊の方に向かって、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は
 悔いない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。  
・居住壕前の海を見下ろす斜面に、兵達は皆両手を土に着け、「前へ支え」の姿勢をして
 いた。吉良兵曹長は、三尺程の棒を片手に下げ、腰を下げて地につけたりしようとする
 のを、大声出して怒鳴りつけていた。その姿勢を余程長く兵達が続けているということ
 は、その姿勢のくずれ方や、手を楽なように置き換えようとする絶望的な努力の様子で、
 はっきり判った。彼等はそろって頭を垂れていた。黄昏の薄い光の中で、私は私の足許
 の兵隊の額から、脂汗がしたたり落ちるのをはっきりと見た。私は息が苦しくなった。
 新兵の時、私も何度もこれをやらされた。常人より筋力の弱い私は、常に人一倍の苦痛
 を忍ばねばならなかった。その記憶が眼の前の光景につながり、呼吸がつまるような気
 がした。 
・他の下士官がそうであるように、自分たちが兵隊であった折にやられたから、今兵隊に
 同じようなことをやる、と言ったような単純なものではないであろう。痼疾のように、
 吉良兵曹長の心に巣くう何かが、彼をかり立てているようであった。私の理解を絶した。
 おそらくは彼自身も理解出来ない鬼のようなものが、彼の胸を荒れ狂っているようであ
 った。(あの眼が、それだ)新兵教育を受けた時、私の班長がやはり、性格の上では違っ
 ていたけれども、その類いの眼を持った下士であった。平常は温和な、そして発作的に
 残忍なふるまいをする。あとで何か事件を起こして軍法会議に回ったことを聞いた。私
 はこの男のことをふと思い出した。所詮、彼等は私と全く異なった世界に住む男達であ
 った。 
・暗号室や居住区での雑談で、米軍が何処に上陸するかということが、時々話題にのぼっ
 た。海軍は吹上浜に上陸を予想し、陸軍は宮崎海岸の防備に主力を尽くしているという
 噂がまことしやかに語られた。沖縄は既に玉砕したし、大和の出撃も失敗に終わった。
 日々に訳す暗号電報から味方の惨敗は明らかであった。
・俄かに電報量が多くなった。作戦特別緊急電報ばかりである。報告や通報や、各部隊に
 対する命令電報が、日本中に錯綜しているらしかった。船団は明らかに東京方面を目指
 していた。千葉海岸あたりに殺到し、一挙に東京を攻略するのではないか、それはあり
 得ないことではなかった。(東京都民は、今頃何も知らずに眠っていることだろう)応
 召すまで私が住んでいた本郷や、また友達のことが、突然のようにはっきり頭に浮かん
 で来た。それは戦争とは関係のない静かな街であり、平和な人々の姿であった。
・耳たぶがないばかりに、あの田舎町の妓は、どのような暗い厭な思いを味わって来たこ
 とだろう。あの夜、あの妓は、私の胸に顔を埋めたまま、ときれとぎれ身の上話を語っ
 た。耳なしと言われた小学校のときのこと。身売りの時でも、耳ぶたがないばかりに、
 あのような田舎町の貧しい料亭に来なければならなかったこと。そのような不当な目に
 あいつづけて、あの妓はどのようなものを気持ちの支えにして生きて来たのだろう。妓
 の淋しげな横顔が、急に私の眼底によみがえって来た。侘しい感慨を伴って、妓の貧し
 い肉体の記憶がそれに続いた。
・「大きなビルディングが、すっかり跡かたも無いそうだ」「全然、ですか」「手荒くい
 かれたらしいな」「どこですか」「広島」ぼんやり聞いていた。
・「ソ連軍が国境を越えました」私の言葉が、吉良兵曹長に少なからぬ衝動を与えたらし
 かった。しかし、表情は変わらなかった。黙ってコップをぐっとほした。長い指で、い
 らただしげに卓の上を意味なく二三度たたいた。「参戦かね」「それはどうか判りませ
 ん。電報では、交戦中と言うだけです」
・ふと、聞き耳を立てた。降るような蝉の鳴声にまじって、微かに爆音に似た音が耳朶を
 打った。林のわきに走り出て、空を仰いだ。しんしんと深碧の光をたたえた大空の一角
 から、空気を切る、金属性の鋭い音が落ちて来る。黒い点が見えた。見る見る中に大き
 くなり、飛行機の形となり、まっしぐらにここの方向に翔けって来るらしかった。危険
 の予感が、私の心をかすめた。此処を、ねらって来るのではないか。林の中に走り入り、
 息をはずませながら、なお走った。恐怖をそそるようないやな爆音が加速度的に近づき、
 私の耳朶の中でふくれ上る。汗を流しながら、なお林の奥に駆け入ろうとした時、もは
 や爆音のし烈さで真上まで来ていたらしい。飛行機から、突然足もすくむような激烈な
 音を立てて、機銃が打ち出された。思わずそこに内たおれ、手足を地面に伏せたとたん、
 飛行機の黒い大きい影が旋風のように地面をかすめ去った。
・見張台に登りつめた。見渡しても、例の見張の男は見えないようであった。ふと栗の木
 のかげに、白いものが見えた。(まだ、待避しているのか?)訝しく思いながら近づい
 て行った。伏せた姿勢のまま、見張の男は、栗の木の陰に、私の足音も聞こえないらし
 く、じっと動かなかった。地面に伸ばした両手が、何か不自然に曲げられていた。土埃
 にまみれた半顔が、変に蒼白かった。
・大きな呼吸をしながら、私は電話機の方に歩いた。受話器を取った。声が、いきなる耳
 の中に飛び込んで来た。「グラマンはどうした。もう行ったのか」「見張りの兵は、死
 にました」「え?グラマンだ。何故早く通報しないか」「見張は、死にました」わたし
 はそのまま受話器をかけた。        
・玉音の放送があるから、非番直は全部聞くようにという令は、その日の朝に出ていた。
 この部隊に関係ある電報は一通り目を通していたから、その方面の事態には通じていた
 とは言え、桜島に来て以来、新聞も読まずラジオも聞かないから、私は浮世の感覚から
 遠くはなれていた。玉音の放送ということがどういう意味を持つか、はっきり判らなか
 った。が、今までにないという意味から、重大なことらしいという事が創造出来た。不
 安が、私をいらだたせた。
・午前中の当直であったから、私は聞きにいけない。当直が終わり、すぐ居住区に戻って
 来た。放送は、山の下の広場であった。そこで皆が集まって聞いている筈であった。居
 住区で飯を食べ終わっても、放送を聞きに行った兵隊たちは帰って来なかった。「ずい
 ぶん長い放送だな」
・兵たちが居住区に戻って来る。放送が終わったらしかった。「何の放送だった」若い兵
 隊をつかまえて、私は聞いた。「ラジオが悪くて、聞こえませんでした」「雑音が入っ
 て、全然聞き取れないんです」「放送のあとで、隊長の話があたんです」「どういう話
 なんだ」「皆、あまり働かないで、怠けたり、ずる寝をしたがる傾きがあるが、戦争に
 勝てば、いくらでも休めるじゃないか。奉公するのも、今をのぞいて何時奉公するんだ、
 と隊長が言われました」  
・私は電信の下士官に話しかけた。「今日の放送は、何だったのかな」「さあ本土決戦の
 詔勅だろうと言うのだがね」「誰が言ったんだね」「電信長もそう言ったし、吉良兵曹
 長もそんなことを言った」 
・死ぬ瞬間、人間は自分の一生のことを全部憶い出すとか、肉体は死んでも脳髄は数秒間
 生きていて激烈な苦痛を味わっているとか、死んだこともない人間によって作られた伝
 説は、果たして本当であろうか。見張の男の死貌はまことにおだやかであったけれども、
 人間のあらゆる秘密を解き得て死んで行った者の貌ではなかった。平凡な、もはや兵隊
 でない市井人の死貌であった。
・「暗号室に行ってな、今日の御放送の電報が来ていないか聞いて来い」吉良兵曹長は例
 の眼で私を見返して、しゃがれ声で言った。「いよいよ上陸して来るぞ。村上兵曹」
 「今日の放送が、それですか」「それは、判らん。このに三日、敵情の動きがない。大
 規模な作戦を企んでいる証拠だ。覚悟はできているだろうな」「もし、上陸して来れば、
 この部隊はどうなりますか「勿論、大挙出動する」「いや、特攻隊は別にして、残った
 設営の兵や通信科は」俄かに不機嫌な表情になって、私の顔を見て、湯呑みをぐっと飲
 みほした。「戦うよ」「武器はどうするんです。しかも、補充兵や国民兵の四十以上の
 者が多いのに」「補充兵も、戦う!」「竹槍がある」「訓練はしてあるのですか」私を
 見る吉良兵曹長の眼に、突然凶暴な光が充ちあふれた。「訓練はいらん。体当たりで行
 くんだ。水上特攻基地に身を置きながら、その精神が判らんのか」「何時出来るか判ら
 ない穴を掘らせる代わりに訓練をしたらどうかと、私は思います」吉良兵曹長は、すく
 っと立ち上がった。私にのしかかるようにして言った。「俺の方針に、絶対に口を出さ
 せぬ。村上。余計なことをしゃべるな!」
・言い知れぬ程深い悲しみが、俄かに私を襲った。心の中に何かがくずれ落ちて行くのを
 感じながら、私は身体を反らせ、じっと吉良兵曹長お眼を見入った。「「よし!」立ち
 断きるように吉良兵曹長はさけんだ。獣のさけぶような声であった。「おれはな、敵が
 上陸して来たら、この軍刀で・・・」片手で烈しく柄頭をたたいた。「卑怯未練な奴を
 ひとりひとり切って回る。村上。片っ端からそんな奴をたたっ切ってやるぞ。判ったか」
・思わず、私も立ち上がろうとしたとたん、壕の入口から先刻の兵が影のように入って来
 た。両足をそろえると、首を反らしてきちんと敬礼した。はっきりとした口調で言った。
 「昼のラジオは、終戦の御詔勅であります」「なに!」「戦争が、終わったという御詔
 勅であります」  
・異常な戦慄が、頭の上から手足の先まで奔った。私は卓を支える右手が、ぶるぶるとふ
 るえ出すのを感じた。私は振り返って、吉良兵曹長を見た。表情を失った彼の顔で、唇
 が何か言おうとして少しふるえたのを私は見た。何も言わなかった。そのままくずれる
 ように腰をおろした。やせた頬のあたりに、私は、明らかに涙の玉が流れ落ちるのをは
 っきり見た。   
・壕を出ると、夕焼けが明かるく海に映っていた。道は色褪せかけた黄昏を貫いていた。
 赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。突然瞼を焼くような熱い
 涙が、私の眼から流れ出た。拭いても拭いても、それはとめどなくしたたり落ちた。私
 は歯を食いしばり、こみあげて来る嗚咽を抑えながら歩いた。頭の中に色んなものが入
 り乱れて、何が何だかはっきり判らなかった。悲しいのか、それも判らなかった。ただ
 涙だけが、次から次へ、瞼にあふれた。