プールサイド小景 :庄野潤三

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この作品は、今から65年前の1955年に芥川賞を受賞した作品である。相当古い作品
なのだが、その内容はあまり古さを感じさせない。現代においても通じるような内容であ
る。
あるひとりのサラリーマンが、会社の金を使い込み、会社をクビになる。どうしてその男
は会社の金を使い込むようになったのか。その男は家に帰りたくなかったのだ。そして毎
晩飲み歩いていたのだ。現代においても、「帰宅恐怖症」や「帰宅拒否症」と称されるこ
のようなサラリーマンは、多く存在すると言われている。
サラリーマンが家に帰りたくない理由には、いろいろあるようであるが、この作品に出て
くる男の本当の理由はなんだったのか。バーの美人の女性だったのか、それとも仕事に対
するなんとも言えない不安からだったのか。
突然、夫が会社をクビになってしまった妻のショックは大きかった。まさに「青天の霹靂」
と言えるだろう。明日も今日と同じような、平和な日常が続くだろうと、何の疑いもいだ
くことがなかった妻が、夫が会社をクビになったことによって、それまでの何十年という
生活が、なんだったのだろうと、初めて考え込むことになる。
一見平和そうに見える生活も、ある日突然、破綻することがある。今年なってから、新型
コロナウイルスが突然出現し、感染対策としての外出自粛や営業自粛が続き、多くの人た
ちが職を失っている。昨年暮れまでは、2020年がこんな年になるとは、誰も予想でき
なかったのではないか。まさに「青天の霹靂」である。
この「青天の霹靂」は、我々一般庶民の上にだけに起こるとは限らない。いま、黒川弘務
検事長の問題が、国会やマスコミを賑わせている。安倍政権が、その得意とする「法の解
釈変更」で黒川検事長の定年延長を強行し、さらには後付けで法改正をし、その定年延長
を正当化しとうとしている最中に、当事者の黒川氏が「新型コロナ自粛の最中に賭けマー
ジャン」をしていたことが発覚し、辞職することとなった。安倍政権にとっては、まさに
「青天の霹靂」ではなかったのだろうか。
それにしても、東大法学部卒のエリートコースまっしぐらに歩んできた官僚が、安倍政権
による姑息な手段で定年延長となったばかりに、こんな「賭けマージャン」ごときで辞職
することになるとは、誰もが予想だにしなかったに違いない。。明日もまた、今日と同じ
ように平和な一日が来るものだと、信じて疑わない本人にとっても、ご家族にとっても、
そして我々一般大衆にとっても、まさに「青天の霹靂」だった。人生は、明日に何が起き
るかわからないものだとは、まさにこんなことを言うのだろう。
人生の途中に、どんな落とし穴が待ち受けているのかわからない。どんなに平凡な道だと
思っても、油断してはならないのだ。いままで何事もなく生きてこられたのは、たまたま
幸運だったのだ。この作品を読み終えて、そんな思いにさせられた。

・プールの向こう側を、ゆるやかに旋回して走って来た電車が通過する。吊革につかまっ
 て立っているのは、みな勤めの帰りのサラリーマンたちだ。彼らの眼には、校舎を出外
 て不意にひらけた展望の中に、新しく出来たプールいっぱいに張った水の色と、コンク
 リートの上の女子選手たちの姿態が、とび込む。
・この情景は、暑気とさまざまな優苦とで萎えてしまっている哀れな勤め人たちの心に、
 ほんの一瞬、慰めを投げかけたかもしれない。
・一人に背の高い男が立って、練習を見ている。彼はこの学校の古い先輩であり、また今
 では小学部に在学する二人の男の子の父兄でもある青木弘男氏である。
・青木氏は、ある織物会社の課長代理をしている。青木氏の姿は、この四日ほど前から、
 夕方になるとこのプールに現れた。コーチの先生とは顔見知りであり、邪魔にならない
 ように息子に泳ぎの稽古をさせてもらっているのである。
・やがて、プールに入口の柵のところに、大きな、家のふさふさ垂れた、白い犬を連れた
 青木夫人が現れた。
・柵のところで待っていた夫人は、先生の方にお辞儀をして愛想よく笑い、犬の鎖を上の
 男の子に渡し、夫と並んで校舎の横の道を帰っていく。
・青木氏の家族が木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打
 たれた。(あれが本当の生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで
 一泳ぎして帰ってゆくなんて・・・)  
・彼等を家で待つものは、賑やかな楽しみ多い食卓と、夏の夜の団欒だ。
・だが。そうではない。この夫婦には、別のものが待っている。それは、子供も、近所の
 人たちも誰も知らないものなのだ。  
・青木氏は、一週間前に、会社を辞めさせられたのだ。理由は、彼が使い込んだ金のため
 である。
・夫人は、小柄で、引き締まった身体の持主である。麻で編んだ買物籠を片手に道を歩い
 ている時の彼女を見ると、いかにも快活な奥さんという感じがする。
・だが、今度の出来事には、彼女も少なからぬショックを受けた。「何を、いったい、し
 たというの?」ぼんやりして帰って来た夫からクビになったと聞いた時、彼女は眼をま
 るくしてそう尋ねたのだ。
・毎晩、帰宅が十二時近く、それよりもっと遅くなって車で帰って来ることも度々のこと
 であったが、それにはもう慣れっこになっていて、苦にもしないでいたのだ。得意先の
 接待、というのだが、それが毎晩続くわけもないだろうから、自分勝手に遊んで来て遅
 くなることも多いに決まっている。どこで、何をしているのやら、知れたものではない。
・会社のことは普段からちっとも話さないので、彼女の方から聞きもしないでいたのだが、
 突然クビになったとは、またどうしたことだろう。
・金を遣い込んで(その金額は、夫が会社で貰う俸給の六ヵ月分くらいだった)、それが
 分かってしまった。埋め合わせるつもりでいたのだが、それが出来ないうちに見つかっ
 たというのだ。
・本来ならば家を売ってでもその金を弁償しなければならないところだけれども、それを
 許す代わりに、即日退職ということになった。何ということだろう。十八年も勤めて来
 て、こんなに呆気なくクビになってしまうとは。
・最初の衝撃が通り過ぎたあと、彼女の心に落ち着きが取り戻された。すると、何の不安
 も抱いたことのなかった自分たちの生活が、こんなにも他愛なく崩れてしまったという
 事実に、彼女は驚異に近い気持ちを感じた。それは見事なくらいである。(人間の生活
 って、こんなのなんだわ)起こった事を冷静に見てみれば、これは全く想像を絶したこ
 とではないのだ。夫はもともと勤直な人間ではない。意志強固な人間でもない。遊ぶこ
 とと飲むことなら、万障繰り合わせる男なのだ。どうして間違いを起こさないというこ
 とが保証できるだろうか。
・夫のほうにしてみても、大事に到るとは思ってもみなかったのだろうが、そういう風に
 物事を甘く見るところに、既に破綻が始まっていたのだ。
・結婚してから十五年にもなるのに、そういう危険を夫の身に感じたことがなく、「勤め
 を大事にしてね」と頼んだりしたことは覚えがなかった。そういう風に考えてみると、
 彼女は自分たち夫婦が今日まで過ごしてきた時間というものが、まことに愚かしく、た
 よりないものであったことに改めて気が付くのだ。そうなると、課長代理にまでなって
 いてクビにされた夫が俄かにぼんやりした、知恵のない人間に見えて来る。
・四十にもなって勤め先を放り出された人間は、いったいどうして自家の体裁を整えるこ
 とが出来るのか。いったい、この人生の帳尻をどんなにして合わせるのか。それは、考
 えるより先に、絶望的にならざるを得ない問題だ。
・そこは、美貌で素っ気ない姉と不美人でスローモーションの妹が二人でやっているバア
 だ。その店は、いつ行ってみても、二、三日前に廃業したのではあるまいかと疑わせる
 ような店だった。
・このバアの取柄は、安上がりだということだ。先方がやる気がないのだから、こちらが
 反逆しない限り、安く済むのは当然の結果である。
・青木がそこへ行く回数が多かった理由は、安いということは勿論だが、姉が目当てであ
 った。最初に友人に連れられてこのバアへ行った時、彼は姉の顔をフランス映画の女優
 で、現世的な容貌に彼岸的な空気を濃く漂わせているM・・・に似ていると思った。
・こういう女と人気のない夜の街路を散歩してみたらという漠然たる希望が、その時から
 彼の胸に生じたのであるが、その希望はほどなく達せられた。
・彼女は、自分が幼年時代に父とともにハルビンで過ごしたこと、夏になると太陽島へ連
 れて行ってもらい、土色をして流れるスンガリの岸辺でロシア人の家族たちの間に混じ
 って遊んだことなどを、彼に話した。
・それを話す間、彼女は青木の肩に頬を凭れかけていた。青木は、こういう時にこそ接吻
 をせねばと彼女の思い出話も上の空であったが、もし接吻しようとして相手が怒り出し
 たりしては何もかもぶちこわしになるし、実際に彼女が怒ったとしたらどんなにか怖い
 ことになりそうで、つい手出しができなかった。
・その時以来、二度とそのような機会は到来しなかった。彼女は、その夜以来まるで手が
 かりのない城壁のようになってしまった。その神秘的と思える微笑を見る度に、彼は
 何とかしてわが物にしたいと切に焦れるのだが、いったい何を考えているのか、そのう
 ち誰かと結婚するつもりなのか、しないつもりなのか、好きな男がいるのやらいないも
 のやら、まるで見当がつかなかった。
・悪くすると、青木が来ているのが分かっていても、二階から降りて来もしない日がよく
 あるのだ。ひどい時になると、姉も妹も姿を見せず、梅干婆さんが店の奥から顔を出し
 て、婆さんのお酌でビイルを飲むこともあった。
・この梅干婆さんは、どういうものか青木に対して同情的で、そんな時には三本飲んだビ
 イルを一本分しか勘定につけないという好意を示すのであった。
・婆さんにいろいろと探りを入れてみるが、姉の方にはパトロンとか愛人らしいものはい
 ない様子で、店を出したのはお父さんがお金を出してくれたという姉妹の話は、どうや
 ら本当らしい。   
・この店へ来る客というのは、結局みんな青木と同様、姉の美貌に惹かれて慕い寄って来
 る連中であった。彼ひとりがつれない目に合わされているわけではないが、みなそれぞ
 れ、満たされないままに、何となく未練が絶ち切れず、時々ぶらりとやって来る様子で、
 そんな客とたまたま一緒になると、お互いに相手の態度ですぐそれと分かるのだ。
・彼が妻に向かって話したのは、ほぼこれだけの内容のことを語ったのである。
・彼女は自分がまことに迂闊だったことに気付く。夫が会社の金を遣い込んで、それが分
 かってクビになった。その事実があまりにも大きな衝撃であったために、彼女はすっか
 り心を奪われてしまっていた。 
・<女がいる。夫が大金を遣い込んだのは、女のためだったのだ>この考えが、夫の話を
 聞いている途中、霹靂のように彼女を打った。
・彼女は自分の内部に生じた動揺を隠した。そして、夫が話し終えると、さり気なく、そ
 の種の告白を切り上げさせたのである。 
・夫が話したことは、それはどうでもいいようなことなのだ。それは多分一種の陽動作戦
 のようなものなのだ。彼女は、本能的な敏感さで、それを感じ取ったのである。
・どうでもいいことは、全部さらけ出したかのようにしゃべる。そして、それらの背後に、
 男が針の先もふれないものがあるのだ。
・彼女はそれを覗き見ようとしてはならない。追求してはならない。そっと知らないふり
 をしていなければならないのだ。  
・何ということだろう。彼女は無心に陥穽を設けてしまったのだ。そして今や我とわが身
 その穴の中へ陥れてしまったことに気が付くのだった。
・生活費はあと二週間でなくなってしまう。彼等の預金通帳は、ずいぶん前から空っぽで
 ある。夫婦とも入ったら入っただけ使ってしまう性質なのだ。すると、その後は売り食
 いでつないでいくより外はない。半年くらいは何とかもつだろうか。
・彼女の実家は、戦争前には貿易商をしていて比較的ゆったりした暮らしをしていたが、
 戦後はすっかり逼塞してしまっている。夫の方にしても、兄弟三人いるが、みな似たり
 寄ったりのかぼそい役所や会社勤めの身である。ふだんは何とも思わないでいたが、い
 ざこのような目に陥ってみると、二人ともまるで天涯孤独の身も同然である。どこにも
 身を寄せるところがない。
・子供がいなければ、何とかまだ暮らしを立てる方策があるかもしれない。自分が働きに
 出て、ともかく自分一人の口を糊することは出来ないこともないと思う。それも、身に
 何の技術も持たない彼女には、よほどの覚悟が必要に違いないが。
・そういう風に考えて行くと、夫が新しい働き口を見つけることに成功しない限り、家族
 四人は一緒に暮らすことは出来ないことになる。だが、四十を過ぎた女房持ちの男が、
 会社をクビになって世の中に放り出されたものを、いったいどこに拾って養ってくれる
 ところがあるだろうか。  
・何時、どういうわけで、こういう変化が自分の上に生じたのだろうか。どうして出し抜
 けに、自分たちの生活の運行に狂いが出来てしまって、それでこのようないわれのない
 苦痛と恐怖を味わっているのであろうか。どういう神が、こんな理不尽な変化を許した
 のか。
・朝、何か仕事の都合で、僕が出勤時間より早く社へ出かけることがある。まだ一人も来
 ていない会社の部屋の中を、僕は見まわしてみる。すると、いつもそこに坐っている人
 間がいなくて、その人間を載せている椅子だけがある。
・椅子の背中のもたれるようになった部分、そのひしげ具合に、その男のこの勤め場所で
 の感情が見られる。否応なしに毎日そこへ来て、その椅子に尻を下す人間の心の状態が
 乗りうつのは当然のことではないだろうか。
・僕は、自分が座っている椅子を、そっと眺めやる。何という哀れな椅子だと思って。し
 がない課長代理の哀れな椅子よと・・・。  
・会社へ入って来る時の顔を見てごらん。晴れやかな、充足した顔をして入る人間は、そ
 れは幸福だ。その人間は祝福されていい。だが、大部分の者はそうではない。入口の戸
 を押し開けて室内に足を踏み込む時の、その表情だ。彼等は何を怯えているのだろう。
 特定の人間に対してだろうか。社長とは部長とか課長とか、そういう上位の監督者に対
 して怯えているのか。それも、あるに違いない。だが、それだけではない。それらは、
 一つの要素にしか過ぎないのだ。その証拠に、当の部長や課長にしたところで、入口の
 戸を押し開けて入って来る瞬間、怯えていない者はない。
・彼等を怯えさせるものは、何だろう。それは個々の人間でもなく、また何か具体的な理
 由というものでもない。それは、彼等が家庭に戻って妻子の間に身を置いた休息の時に
 も、なお彼等を縛っているものなのだ。それは、夢の中までも入り込んで来て、眠って
 いる人間を脅かすものなのだ。もしも、夜中に何か恐ろしい夢を見てうなされることが
 あれば、その夢を見させているものが、そいつなのだ。
・「うちにかあちゃんが夕べも泣いておれのことを口説くんだ。どうかお願いだから短気
 を起こさないで、月給は安くて今までのままのぴいぴいでも我慢するから、決して早ま
 ったことしないで、後生大事に勤めてくれよって」そういった男の椅子が、そこに、机
 に押し付けられて、あるんだ。
・夫がそのような気持ちで、会社に行っていたということは、彼女にとって初めて知るこ
 となのだ。とすると、何という、うっかりしたことだろう。いったい自分たち夫婦は、
 十五年も一緒に家に暮らしていて、その間に何を話し合っていたのだろうか?
・夫の帰宅が毎晩決まって夜中であり、朝は慌てて家を飛び出して行くという日が続いて
 来たとしても、自分たちは大事なことは何一つ話し合うことなしにうかうかと過ごして
 来たというのだろうか。  
・彼女は、夫が会社勤めということに対してあのような気持ちを抱いていようとは、つい
 ぞ考えてみたこともなかったのである。ただ遊び好きの人間のように思っていて、それ
 で毎晩夜中になるまで帰って来ないのだと、何でもなく考えていたのだ。
・夫の話を聞いてみると、夫が会社が終わってから用がない時でも真直ぐに帰宅しないの
 は、勤めていることに対して終始苦痛を感じていたからだということが、彼女には分か
 った。家へ帰っても、心の休息を得られなかったのだろうか。
・そうすると、いったい自分は夫に取ってどういう存在なのかしら?彼女の心には、そん
 な疑問がふと生じる。あたしたちは夫婦で、お互いに満足し、信頼し合っているとひと
 りで思い込んでいたのに、自分が夫の心を慰めるという点ではちっとも役に立っていな
 かったとしたら、あたしは何をしていたのだろうか。
・会社勤めの不安や苦痛を一度もあたしに話さなかったということは、外で、あたし以外
 の誰かに、それを終始話していたのではないか。その誰かが、今度の出来事の陰に佇ん
 でいるのではないのか。
・朝、起きて、夫のそのまま家にずっと一日中いるという生活は、最初彼女を当惑させた
 が、一週間もその暮らしを続けると、その方がいいという気がして来るのだった。もし
 も、夫がこうして毎日外へ働きに出て行かないで、家族が生活してゆけるものだったら
 いいのになあ。彼女は、自分たちが太古の時代に生まれていたとしたら、それが普通の
 ことだったのにと思う。 
・男が毎朝背広に着換えて電車に乗って遠い勤め先まで出かけて行き、夜になるとすっか
 り消耗して不機嫌な顔をして戻って来るという生活様式が、そもそも不幸のもとではな
 いだろうか。彼女は、そんなことを考えるようになった。
・青木氏は出勤を始めることにした。十日間の休暇は、終わったのである。子供たちが、
 「いつまでお休みできるの?」と尋ねるようになった時、もう休暇を切り上げるべき時
 期が来ていたのだ。それに近所の人たちの中に、何となく疑わし気な眼で青木氏を見る
 者が出て来たことを見逃してはならない。こういう秘密は、驚くべき速さでひろがって
 しまうものだ。近所に同僚の家は無かったが、どんなところから噂が伝わってきている
 かもしれないのだ。そしてそろそろ新しい勤め口を探しにかからねばならないわけだ。
 そこで、青木氏は朝、いつも会社へ出かけていた時刻に家を出かけることにしたのであ
 る。
・最初に日、夫が出かけて行くと、彼女は何となくぐったりしてしまった。彼女の心には、
 夫が晩夏の日ざしの街を当てもなしに歩いている姿が映る。雑踏の中にまぎれて、知っ
 た人と出会うことを恐れながら、おぼつかない足取りで歩いている夫の悩ましい気持ち
 が、そのまま彼女に伝わって来るのだ。
・そのようなイメージが不意に崩れて、どこか見知らぬアパートの階段をそっと上がって
 行く夫の後姿が現れる。彼女は全身の血が凍りつきそうになる。(危ない!そこへ行っ
 てはいや。いやよ!いやよ・・・)彼女は叫び声を立てる。それでも、夫はゆっくりと
 階段を上って行く。(いけないわ。そこへ行ったら、おしまいよ。おしまいよ)このよ
 うな想像が、家にいる彼女を執拗に襲った。
・(夫は帰って来るだろうか。無事に帰って来てくれさえすればいい。失業者だって何だ
 って構わない。この家から離れないでいてくれたら・・・)
・プールは、ひっそり静まり返っている。コースロープを全部取り外した水面の真中に、
 たった一人、男の頭が浮かんでいる。
・明日からインターハイが始まるまで、今日の練習は二時間ほど早く切り上げられたのだ。
 選手を帰してしまったあとで、コーチの先生は、プールの底に沈んだごみを足の指で挟
 んでは拾い上げているのである。  
・やがて、プールの向こう側の線路に、電車が現れる。勤め帰りの乗客たちの眼には、ひ
 っそりしたプールが映る。いちもの女子選手がいなくて、男の頭が水面に一つ出ている。