パニック :開高健

知的な痴的な教養講座 (集英社文庫) [ 開高健 ]
価格:594円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

開高健の文学論 (中公文庫) [ 開高健 ]
価格:921円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

小説家のメニュー改版 (中公文庫) [ 開高健 ]
価格:649円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

破れた繭 耳の物語1 [ 開高 健 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

開口閉口改版 (新潮文庫) [ 開高健 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

最後の晩餐 (光文社文庫) [ 開高健 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

夜と陽炎 耳の物語2 (岩波文庫) [ 開高 健 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

青い月曜日 (集英社文庫(日本)) [ 開高 健 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

風に訊け(ザ・ラスト) (集英社文庫) [ 開高健 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

裸の王様/流亡記改版 (角川文庫) [ 開高健 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫) [ 開高健 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

珠玉 (文春文庫) [ 開高 健 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

輝ける闇改版 (新潮文庫) [ 開高健 ]
価格:649円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

ベトナム戦記 (朝日文庫) [ 開高健 ]
価格:682円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

開高健ベスト・エッセイ (ちくま文庫) [ 開高 健 ]
価格:1045円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

人とこの世界 (ちくま文庫) [ 開高健 ]
価格:968円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

パニック/裸の王様改版 (新潮文庫) [ 開高健 ]
価格:605円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

夏の闇改版 (新潮文庫) [ 開高健 ]
価格:605円(税込、送料無料) (2020/9/17時点)

コロナパニック最前線 不動産大暴落がはじまった [ 榊 淳司 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

コロナ黙示録 [ 海堂 尊 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

流言のメディア史 (岩波新書) [ 佐藤 卓己 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

感染列島 映画ノベライズ版〔小学館文庫〕 [ 涌井 学 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

陰謀論の正体! (幻冬舎新書) [ 田中聡 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

ゼロの激震 (宝島社文庫 このミス大賞) [ 安生正 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

北朝鮮の漂着船 海からやってくる新たな脅威 [ 荒木 和博 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

新型肺炎発世界大不況 [ 浅井隆(経済ジャーナリスト) ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

感染症パニック (講談社+α新書) [ 中原 英臣 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

パニック経済 経済政策の詭弁を見破る [ 逢沢 明 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2020/9/18時点)

この作品は1957年に発表されたものである。この作品は、ネズミの異常発生による騒
動の物語なのだが、実際、1949年から1960年頃にかけて、現在の宇和島地域にお
いて同じような騒動が起こったことがあるらしい。おそらくこの作品は、この宇和島で起
こったネズミ異常発生騒動をヒントにしたのではないかと私は想像している。
もっとも、この作品は、表向きはネズミ騒動を題材にしているが、本当の狙いは組織の中
の人間の浅ましさや愚かさを皮肉っているようだ。人間が集団の中ではどんな振舞をする
のか、人間が追い込まれたとき、どんな狂気に走るのかを、ネズミを通じて、まざまざと
見せつけられたような気がする。
またこの作品では、ネズミの異常発生騒動から、さらには伝染病に対する恐怖心からくる
心理的なパニックへと発展していく。この伝染病に対する恐怖心からくる心理的パニック
は、現在の新型コロナ渦にも通じるところがあるような気がした。
なお、このネズミの異常発生によるパニックを描いた作品は、他にも「滅びの笛」(西村
寿行著:1976年)がある。

・飼育室にはさまざまな小動物の発散する強い匂いがただよっていた。「餌不足でね、連
 中飢えているんでサ」俊介と課長のさきに立った飼育係が説明した。彼は手にネズミの
 入った金網の籠をさげていたので、けものたちは彼が箱の前を通ると金網の内側をお忙
 しく走りまわった。
・「よくなれてるんだね」課長はキツネが猫のように媚びたしぐさで首を金網にすりつけ
 るのを見て、ものめずらしげに呟いた。
・イタチの箱の前まで来て俊介は立ち止まった。彼は課長に説明した。「こいつは、まだ
 山から来たばかりで、慣れてないんですよ」彼は飼育係の男に籠のネズミ五匹とも全部
 箱の中に入れるように言いつけた。そして窓のブラインドを降ろして電燈を消すように
 と指示した。 
・「奴は気むずかし屋で、お膳立てがうるさいんでサ」飼育係は課長に説明しながら、ネ
 ズミを一匹ずつ籠からつまみだして砂の上においた。ネズミは小きざみにふるえつつ小
 さな顔をおしつけて砂の匂いをかいだ。早くも恐怖を察したのか、彼らはよちよちと箱
 の隅に行くと、五匹ともかたまって動こうとしなかった。
・飼育係が窓の蔽いをおろして電燈を消すと、部屋の中は真っ暗になった。ふいに夜の野
 の気配が室内にみなぎり、あちらこちらでけもののさわぐ物音が聞こえた。
・電燈を消して三分と経たないうちに、突然身近の暗がりを小さな足音が走った。それは
 非常な速度で砂を蹴って駆け、ほとんど体重というものを感じさせなかった。それに続
 いてするどい悲鳴と牙音が起こったが、騒ぎは瞬く間に終わってしまった。
・ネズミの悲鳴がやんだところですかさず電燈のスイッチを入れたので、いままさに餌を
 くわえてとぼうとしていたイタチの全身がそのまま明るみにさらけ出された。つぎの瞬
 間、砂の上を黄色い炎がかすめた。音もなくイタチの姿は巣箱に消えた。
・ネズミは四匹しか残っていなかったが、いずれも白い歯を見せ、足をちぢめてころがっ
 ていた。    
・課長は俊介に向って、机の引き出しから厚い書類綴りを出し、軽く投げてよこした。
 「君の企画書だ。ずっと前に局長室から戻ったんだが、そのままになっていたので返す
 よ」「前の課長も君の企画を会議に出すことは出したらしいがね。山持ちの県会議員に
 一蹴されたらしいよ。これは局長も文句を言えやしない。長いものには巻かれろってこ
 ったネ」
・「君、日報は局長室まで行くんだよ。いくらササ原を焼けと言ったって、現実になにも
 起こってなかったら、焼こうにも焼きようがないじゃないか。局長だって納得しないの
 が当たり前だよ」「おっしゃる通りですが、起こってからでは遅すぎるんじゃないかと
 も思ったものですから」
・課長は決めつけるように言った。「当てずっぽで役所仕事ができると思うかね。前例も
 ないのに、君の突飛な空想だけで山は焼けないよ。」
・俊介はその言葉で、いままで自分がどういうふうに見られてきたか、あらためて知った
 ような気がした。彼は発明狂や易者と同じ種類の人間と考えられていたのだ。
・「局長はね、こう言うんだ。ネズミは毎年春になるとわくものなんだ。それで、一度イ
 タチを山に放してみたらどうだろうかということなんだ」と課長は言った。
・こんなところで争ってもはじまらない。いまはもうすべてが手遅れの段階に来ているの
 だ。見方を変えると、なにに手を出しても出し過ぎるということのない情勢である。た
 とえ一匹のイタチでもないよりはましだ。俊介は方向を変えて課長の話を歓迎すること
 にした。「あれはネズミとみれば片っ端から殺してしまいますからね。食う食わんは二
 の次として、とにかく見つけ次第に殺してしまうんです。小さな島ならイタチを放すだ
 けで完全にネズミを退治できます」 
・「あさっての月曜、対策会議を開こう。春になったら、すぐにイタチを買い集めるんだ。
 新聞社と放送局に電話だ。僚友会にもね」「どうするんです?」「禁猟の指令を流すの
 さ。イタチだけじゃない。ヘビでもモズでもとにかくネズミをとる動物は全部禁猟とい
 うことにして、密猟した奴は厳重処分、それで万事解決だよ、君」そう言って立ち上が
 りながら課長は軽く俊介の肩をたたいた。すっかり得意になっているらしかった。俊介
 はばかばかしさのあまり手の書類を思わずたたきつけたくなるような衝動を感じた。
・俊介ははっきりと腐敗の進行を感ずる。県庁新築にまつわる収賄事件が起こったのは三
 カ月ほど前のことである。課長が資材課の椅子を追われて山林課に移ってきたのもその
 事件のためだが、べつに馘首もされず左遷だけで済んだのは事件の規模が大きすぎたた
 めだった。その人事異動は対外的な見せかけにすぎない。知事は事件の中心近くにいた
 彼を処分して事件が公表されることを恐れたのだ。その事件の複雑さには検察庁も新聞
 も音を上げてしまい、結果的に見ると要領の悪い四、五人の平課員が摘発されるだけで
 終わってしまったのだが、大きな犯罪の常として、おそらくそれは氷山の一角にすぎな
 いのだろう。    
・去年の秋のことである。この地方ではササがいっせいに花がひらいて身をむすんだ。
 1836年(天保七年)以来、きっちり120年ぶりに起こった現象である。どれほど
 焼いても刈っても根絶することのできないこのガンのようにしぶとい植物も法則には呆
 れるほど従順だった。 
・精密な植物図鑑を繰ればわかることだが、ササは救荒植物の一つということになってい
 る。根や葉は食用にならないが、120年ぶりに実ったその実には小麦と同じほどの栄
 養価がある。事実、前の周期年の天保七年は破滅的な凶作だったので、農民たちがササ
 の実で辛うじて飢えを凌いだという記録が残されているぐらいだ。この記憶はその後短
 絡されて、ササのみのる年は不作年というように誤り伝えられた。
・そのため、去年俊介が訪れたとき、農民の中でも幾人かの老人たちはその年が凶作では
 あるまいかと心配していたが、事実は近年まれなほどの豊作であった。たわわに実った
 ササの実は誰一人収穫する者もないまま秋の野を厚く蔽った。これが恐怖の種子をばら
 まいたのである。 
・この地方の野外に住む、あらゆる種類の野ネズミがササの実をめざして集まって来たの
 だ。扉を全開された食料庫に侵入したのである。夜にならないと行動を開始しない、そ
 の灰色の軍隊は、ハタネズミ、アカネズミ、ヒメネズミなど、平常から野外に住む種族
 のほかに、普段人家や溝にしかいないドブネズミまでを含んでいた。
・彼らは魚網より密なササの根をかきわけて四通八達の坑道を掘りめぐらし、地底に王国
 を築いた。産室では牝がひっきりなしに陣痛の悲鳴をあげ、食料室にはゆたかな穀物が
 はちきれんばかりに蓄えられた。
・食欲さえ満たされるとほとんど年中といってよいほど間断なく子を生むことのできる彼
 らは瞬く間におびただしい数に繁殖したのである。彼らは冬ごもりのさなかに雪の下で
 も交接して繁殖するからである。 
・一匹一匹のネズミはたわいないものである。その行動半径はせいぜい10メートルから
 15メートルくらいで、30メートルも離せば、もう巣穴を見失ってしまうほど無能力
 な生物なのだ。また、彼らには広場恐怖症ともいうべき衝動がある。たとえ彼らは部屋
 を横切るとき、決して対角線や垂線をコースとして選ぼうとしない。遠道になっても必
 ず壁にそって走るのだ。
・ところが、これほど臆病で神経質なネズミでも、いったん集団に編入されたとなると、
 性質はまったく変わってしまうのである。集団のエネルギーは暗く巨大で、狂的でもあ
 れば発作的でもある。オーストラリアの異常発生の記録では野ネズミの大群が10キロ
 の平原を一直線に移動して、途中の植物を根こそぎ平らげ、そのまま海につき進んでお
 ぼれ死んだという事実が報告されている。
・彼らは迂回することを忘れ、発生地から正確に一直線を延長した海岸まで来て自滅した
 のだ。はじめから海岸をめざした行動ではない。海はたまたま行く手にあっただけのこ
 となのだ。集団の衝動におし流されて彼らは正常な味覚や嗅覚を失い、遥かかなたから
 でも海の匂いを死の 予感として判断できなかったのである。しかも行動の途中、死に
 向かっているとも知らず、牝ネズミたちはせっせと子を生みつつ集団について走ってい
 た。
・この狂気は説明できない。ネズミは臆病で神経質なうえ、手におえないほど多産で、感
 覚もまたかなり高度に発達した、利口な動物である。そんな敏感さや神経のゆきとどき
 が、ただ飢えから逃れるために集団化したというだけでどうして失われてしまうのか。
 集団のどんな生理が固体の内容を変えてしまうのか。また集団は一匹一匹のネズミの集
 まりではなく、食料不足のためにたまたま発生した動物図鑑にかつて掲載されたことの
 ない多頭多足の一匹の巨獣として理解すべきなのか。
・晩秋の雑木林を俊介は忘れることができない。彼がその落葉林で見たものは秋の青空を
 漉す枯枝のこまかいレース模様ではなかった。忘れっぽいモズがあちらこちらの枝につ
 き刺した子ネズミの死骸に彼は眼を奪われたのだった。 
・研究課の学者や技術官たちはすでに去年の春、ササの開花にさきだって一年後の恐慌を
 予想していた。なにしろ120年ぶりの出来事なので、被害の規模がどれくらいのもの
 になるか、こまかいことは専門家にもわからなかったが、とにかく例年の域をはるかに
 こえたものになるだろうというので俊介の勤める山林課に警告が発せられることは発せ
 られたのである。被害の予想と対策の腹案が持ち込まれたが、平安になれた山林課では
 事態が見通せず、予算の不足を口実にうやむやにこれを葬ってしまった。
・課長会議でも根本的な問題は何一つ討議されず、もし予想どおりに恐慌が発生したら、
 いままでのどれよりお効果のある毒薬をばらまいておさえてしまおうではないかという
 ことで、それに関する衛生法の制限緩和策が検討されたにすぎなかった。
・俊介は課長会議の結果を聞くと、研究課の資料や技官たちからの助言を借りて綿密な対
 策書を書き上げそれを上申書という形式で直接局長宛に提出した。ササが実るのを防が
 ない限り鼡害はさけられないという考えで、彼は三県にまたがる広大なササ原を山火事
 ならぬようブロックごとに仕切った、詳しい地図まで添えて提出したのである。研究課
 の学者や技官たちは、表面は悲観的でも内心ひそかにこの書類の効果を期待していた。
 これに反し、作成者の俊介自身は毎夜おそくまで仕事に没頭しながらまったく成果を信
 じていなかった。
・果して、書類を作るには三週間ちかくもかかったが、ボイコットされるのには三分とか
 からなかった。局長は自分で目を通す前に課長を呼んだのである。課長は俊介がそんな
 書類を直接局長宛に出していることをまったく知らされていなかった。  
・俊介は役所仕事の性質や命令の垂直体系ということを計算に入れなかったわけではない
 が、企画の結論が火急を要しているためと研究課長の強い要求があったため、わざと課
 長や部長を無視したのだった。正しい手続きをふめば企画が局長室までたどりつくのに
 何日かかるかわからないし、途中のどこでとまってしまうかもしれない。そのうえ課長
 会議で自説を蹴られた研究課長は彼をだしにして我意を通そうとあせっていたのである。
・課長はにがりきった表情で俊介を呼びつけ、危うく局長室で恥をかきそうになった不満
 をぶちまけた。そして書類をそのまま机の引き出しに放り込んで鍵をかけてしまった。
 俊介は自分がピラミッドの底辺に立っていることをそのとき改めて知らされた。
・研究課長は彼に事の始末を聞かされると歯がみして口惜しがった。その素朴さに俊介は
 ふと悪意に近い感情を抱いた。「けれど、こうなることははじめからわかっていたと思
 うんですが?ぼくだって部下に出し抜かれるのはいやですよ」
・相手は思いがけぬ反撃に出会ってたじろいだ。俊介は眼の奥で焦点をむすんだような、
 いかにも学者めいて澄んだ研究課長の眼を狼狽の表情がかすめるのを見た。この男は純
 真だ。自分の手の内を見すかされたと思って恥ずかしがっている、と俊介は思った。
・結局、この企画は水に流されてしまい、俊介は課長から反感を、同僚からは軽蔑を買う
 こととなった。仲間はササとネズミの関係をおぼろげに知ってはいたものの、誰も積極
 的に発言しなかった。彼らはその日その日の与えられた仕事をなんとかごまかすことだ
 けで精いっぱいなのだ。来る日も来る日も、一日はろくにわかりもしない伝票に判こを
 押すことだけで過ぎてしまう。そんな生活を酒場で”ポンポコ人生、クソ人生”などと自
 嘲の唄で紛らわしているばかりなのである。はじめ彼らは俊介がべつに命令されたわけ
 でもない仕事に熱を入れるのを酔狂だといって相手にしようとしなかったが、そのうち
 彼がほんとうに企画書を書き上げて局長宛に提出するのを見ると、にわかに出し抜かれ
 はしないかという不安と嫉妬を感じた。俊介は急に課内でけむたがられ、疎んじられた。
 その疎外は、しかし、永つづきしなかった。みごとに彼が失敗したからである。安心し
 た仲間はふたたび友情と、あるやましさのまじった同情を抱いて彼に近づいて来た。
・秋になってから県庁が新築され、大規模な不正が発覚した。そのため人事異動が起こっ
 て俊介の課でも課長が交替した。新任の課長は不正の火元と言われる資材課から移って
 来たのだが、山林課の内容についてはまったくの素人だった。 
・俊介は新任の課長に機会があるたびにそれとなく来春の恐慌のことを話してみたが、
 頭から相手にされなかった。
・俊介が突飛なお先走りの空想家と思われたのは役所の中だけでなかった。彼が山を歩き
 回って警告を発すると、私有林の持ち主たちのなかには不動産の誇りを傷つけられて本
 気で怒る者が出て来たし、老練なはずの山番や炭焼人たちですらネズミの活動を無視し
 た。 
・俊介は課長から呼ばれた。イタチを実験してからかれこれ二カ月ほど経っていた。
 「実はね、ネズミが出たんだよ」「その風呂敷は、昨日、派出所から送ってきたんだが、
 木こりの弁当包みなんだ。うっかり地面において仕事をしている間にやられたんだそう
 だ。ネズミにかじられたんだよ。中身の竹の皮やニギリ飯なんか、跡形もなかったそう
 だ」「風呂敷をかじったのは一匹ですか?」「見当がつかないらしい。とにかくたいへ
 んな数だそうだ」
・「君、派出所から来る日報は読んでるね?」「私のところへ来た分は全部読んでいるつ
 もりです」「どうしてそれほどネズミがいるのにいままでわからなかったかということ
 だ。ついこないだまで、日報はどれもこれも特記事項ナシばっかりで、なにもネズミの
 ことなんかふれていなかったじゃないか」俊介はばからしさのあまり、あいた口がふさ
 がらないような気がした。
・俊介はその思惑がすぐにのみ込めた。この男は早くも責任回避の逃げ道を発見したのだ。
 予防策をなにひとつ講じなかったくせに、いまとなって事の原因がまるで派出員の怠慢
 だけにかかっているかのようなものの言い方をする。
・確かに彼の予想は的中したのである。予言はみごとに立証された。その小事件から日が
 経つにつれて恐慌の気配は濃くなり、この地方の山林がかつてない危機にさらされてい
 ることが誰の眼にもありありとわかって来た。俊介は自分に地位が急速に人々の心の中
 で回復されるのを薄笑いを浮かべながら眺めているだけでよかった。
・最初の徴候があってから十日も経たないうちに山林課は灰色の洪水に首までつかってに
 っちもさっちもならなくなった。山番、炭焼人、百姓、地主、林業組合、木材商、あり
 とあらゆる人間の訪問と電話と陳情書が押し寄せて、応接に暇がなかった。
・早くから雪のとけた麓の耕作地や田畑では、まいた麦がまったく発芽しないので百姓た
 ちはうろたえた。百姓たちは中心部だけが緑色になった奇妙な畑と、溝や畦のおびただ
 しいネズミの穴を発見していっせいにさわぎだした。また、どの村でも、倉庫や製粉所
 や穀物倉にはネズミの先発隊がぞくぞく侵入し、夜の間に畑から村や町へ入ろうとして
 街道でトラックにつぶされるネズミの数も日ごとに殖える一方だった。
・山林課では殺到する苦情を処理しきれなくなって、ついに専任の鼡害対策委員会を設け
 ることとなり、俊介は日頃の職務を解かれてネズミと全面的に取り組むことを命じられ
 た。さっそく彼は特別予算を計上して近県のあらゆる動物業者からイタチやヘビを買い、
 マークをつけて野山に放した。
・彼はまったく手際よく、そして精力的に運んだので昨春以来彼を非常識な空想家として
 しか見ていなかった同僚たちは完全に圧倒されてしまったのである。彼にしてみればそ
 れは、昨年上申書が却下されてから一年ちかい月日の間、研究に研究をかさねた棋譜を
 公開しただけのことにすぎなかった。冬の間も彼は人目を避けて研究課から資料や文献
 を借り出してネズミの習性や毒薬を検討し、地図を眺めて暮らしていたのである。
・ネズミは地下水のように次から次と林、畑、川原、湖岸、草むらのあらゆる隙から地表
 へ流れ出して来てとどまるところを知らなかった。地下の王国には飢えのために狂気が
 発生しかかっているらしく、ネズミの性質は一変した。彼らは夜となく昼となく林や畑
 に姿を現わし、人間の足音がしても逃げようとしなかった。
・飢えに迫られた彼らは白昼農家の萱屋根にかけのぼったり、穀倉で人間の足にとびかか
 ったり、また昼寝している赤ん坊の頬を狙ったりなど、あちらことらで異常な情景を展
 開しはじめた。  
・ネズミの横行するのは山や畑だけではなく、町までが恐慌にまきこまれてしまった。そ
 の原因はネズミだ。彼らが群れをなして町に侵入するところを誰も見たわけではなかっ
 た。しかし、おそらく夜の間にぞくぞくと溝や下水管や壁穴から町へ入ったのであろう。
 町の塵芥捨場や路地の奥やゴミ箱、市場の裏通りなど、いたるところに彼らは姿を現し
 て不穏な形勢を示した。 
・毒薬もイタチもワナもまるで効果がなかった。日ごとに高まる恐慌に事実とあらゆる努
 力の無効を知ってからというものは俊介に対して不信と軽蔑を表明するばかりであった。
 同僚の中には、なぜこんなことになる前に去年の上申書却下のときもっと抵抗しなかっ
 たのかというような非難をあからさまに持ち出す者まで出て来た。
・ある日の夕方、俊介は役所からの帰り道で小さな異常を発見した。町の真ん中を流れる
 川にかかっている橋の上を歩いていて、何気なく下を覗き込んだ彼は思わず足を止めて
 しまった。川岸の泥の上におびただしい数のネズミが集まっていたのである。そこには
 川岸の食堂や料亭の捨てる残飯がうず高く積みかさなり、ネズミがまっ黒になってたか
 っていた。彼らは大小さまざまで、いずれも我勝ちにおしあいへしあい餌をあさってい
 た。猫のようなネズミ、それは料飲街の壁裏に住む特有の種族だ。
・ネズミを捕えた者には一匹10円の賞金を交付する旨の広告を出してから、一週間にな
 る。彼はその攻撃命令を新聞、ラジオを通じて流し、ポスターやチラシにもして三つの
 県のあらゆる町と村に伝えたのだった。また、激害地区では小学生や中学生を総動員し
 た。子供たちは毒ダンゴを入れたバケツを持ち、一列横隊になって畑を横ぎり、林をか
 こみ、丘にのぼった。ネズミの穴を見つけ次第にダンゴを投げ込むのである。街道に止
 めたトラックの上から子供の列がのろのろと野原を進んでゆく光景を見ると、まるでナ
 ポレオン時代の戦場を思わせられた。
・町では賞金目当てに狩猟がおこなわれた。ひとびとは争ってパチンコ・ワナや”千匹捕
 り”を買い、壁穴や溝口や倉庫などに仕掛けた。捕らえられたネズミは交番や区役所に
 届けられ、日に何回となく集配に来る県庁のトラックに積まれて俊介の課に送りつけら
 れた。彼らは大学や病院や衛生試験所に送られて試行錯誤、遺伝学、血清反応などの実
 験材料となった。しかし、こんなゆとりのある状態は四日ほどで終わったしまった。は
 じめは拝むようにしてもらいに来ていた引取手も、たちまち収容能力が切れて音をあげ
 たのである。
・そこで仕方なく俊介は庁舎の裏にある塵芥置場のコンクリート槽を利用することにした。
 彼は送られてくる捕虜を片っぱしからそのコンクリート槽に投げ込み、床もみえないく
 らいにたまったところへ、ガソリンを注ぎ、火をつけた。遠くから見ていると、コンク
 リート槽からは火の柱がたち、すさまじい喧騒がその内部で起こった。ときどき必死の
 力で槽の外へ飛び出してくるネズミもあったが、火だるまになって1メートルと走らず
 に倒れてしまった。
・こうして、人間は毎日イタチや猫やタカにまじって攻撃を繰り返したが、町でも野でも
 ネズミの勢力はいっこうに衰える気配を見せなかった。農家の納屋に寝かせてあった赤
 ん坊のノドから血まみれになってとびだした三匹のネズミ、そんなニュースがひきもき
 らず電話線を流れて来て、俊介には彼らがいよいよ死力をふるいだしたらしいことが手
 にとるようにわかった。町に侵入した彼らは舗道の下にある四通発達の下水管を占領し
 た。毒薬やパチンコ・ワナもはじめのうちは有効だったが、二度、三度とかさなると彼
 は鋭敏な味覚や嗅覚が人間の細工を見抜いてしまい、捕虜や死体の数はだんだん減る一
 方だった。
・ひとびとは怪しげな噂をささやきかわした。伝染病の噂である。これは俊介がひそかに
 恐れていたことだった。ことに一夜で丸裸にされた農家とネズミに食い殺された幼児の
 記事が新聞に出ると、不安なひとびとのこころはこれらと発疹チフスが発生し、急速に
 ひろまっていった。新聞や放送を通じていくら事実無根を証明し、デマに対する警告を
 発しても無駄だった。この内的なパニックを抑えるため、県の衛生課はしぶしぶ腰をあ
 げてD・D・Tを戸別訪問して撒布したり、予防注射をおこなったりしたが、それはす
 でに病気の存在を公認するようなもので、まったく逆効果だった。
・医師たちは誇大妄想におちいった風邪ひきや頭痛持ちや神経痛患者などの応対に音をあ
 げ、衛生課の無能を恨めしげに呪うのだった。患者たちは正しい病状を告げられても満
 足せず、コレラやチフスなどを言葉のはしに匂わされるとやっと安心した表情になった。
 老練な開業医はたちまち熱病患者の大群をつくりだしてアスピリンの滞荷を一掃した。
・ひとびとのこころのなかにあるパニックの密度は中世の暗黒都市の住人が抱いたのと同
 じものだった。役所、銀行、学校、会社、商店、駅、市場通り、いたるところでひとび
 とは不安な視線を交わし合い、互いに眼や言葉の裏を探り合った。こうして心理現象に
 変わった自然現象は、ついに政治現象へと発展したのである。
・まず叫び出したのは落選した進歩政党の県会議員候補者である。彼らは伝染病の噂が発
 生すると待っていましたとばかりに立ち上がり、ひとびとのこころの傾斜をいよいよ急
 なものにしようと必死の努力をそそいだ。彼らはひとびとの失政を説き、うやむやに葬
 られた過去の不正事件の数々をあばきたて、官僚の腐敗をののしり、新しい県庁舎を指
 さして鼻持ちならぬまやかしの近代主義だと決めつけたのである。
・町角や小学校で開かれる弾劾演説会は日を追って激しくなり数を増した。そしてどの会
 場も伝染病の心理的パニックにおそわれた聴衆で党派を問わず満員であった。演説者も
 その盛況ぶりに勇気を得たのか、はじめのうちはただ県政の腐敗追及だけにとどめてい
 た主張をたちまち知事のリコール運動に切り替えたのである。   
・雪解け以来、すでに何回となく俊介は野山にイタチを放った。もともと彼らはネズミと
 見ればたちどころに殺してしまう衝動を持っているのだから、回を重ねるにつれて嫌悪
 されたり抵抗素を増やされたりする毒薬よりはずっと有効といえるのだが、被害地区だ
 けで一万町歩、発生地なら五万町歩もあろうかという今度の恐慌の広大さを考えて見れ
 ば、俊介としては課長が意気込むほどの希望を持てないのである。しかし、いかに実際
 の指導権を彼が握っていても、鼡害対策委員長は山林課長なのだし、はじめにイタチの
 早業を紹介して動かしがたいイメージを植えつけたのは彼なのだから、いやとは言えな
 かった。
・飼育室に運び込まれるイタチの箱を何げなく見物していた彼はふと一匹の耳を見て、危
 うく声をたてるところだった。彼は人夫に箱をおろさせ、そのイタチをしげしげと観察
 した。イタチの耳にはまぎれもなくマークが付いていた。いそいでほかの箱を調べると
 同じようなマークのついたイタチは何匹もいた。彼は箱を投げ出すと資材課の部屋へ走
 り、購入伝票を検査した。日付を調べて彼はすっかり事情がのみ込めた。イタチの伝票
 はことごとく彼の出張中に発行され、山林課長の承認を得ているのだった。どの伝票に
 も彼の判はなかった。 
・彼は山林課の部屋へ行った。運よく廊下の途中で便所から出て来た課長に出会ったので、
 彼はさりげなく一緒に肩を並べて歩きながら世間話の間へ探針を入れてみた。「こない
 だイタチの野田動物とお飲みになったでしょう?」「うん、ちょっと個人的な付き合い
 でね」「あの男の出入りはさしとめてください。そうでないと告訴しなければなりませ
 ん。あいつはわれわれの話したイタチを密猟して、おまけにそれをもう一度売り込みに
 来ているんです」課長の眼をはっきりと狼狽の表情がかすめた。「私が出張中だったの
 がまずかったのです。課長は去年山林課においでになったばかりなので、ナメられたん
 ですよ。今資材課で伝票を見ましたが、市価の三倍で買わされていらっしゃいますね」
・「今夜、君の体をちょっと借りたいんだがね、川端町の「つた家」に六時頃に来てくれ
 ないか」と課長が言って来た。追及が少し露骨過ぎたかと、いくらか計算しなおすよう
 な気持ちになっていた俊介はその言葉で自分の快感を一挙に是認してしまった。
・その夜、俊介は悪名高い料亭で意外な人物に出会った。彼は課長と、お互いの刃をかく
 した世間話をさかなに酒を飲んでいたいが、そこへ局長が中居に案内されて何の予告も
 なく入って来たのである。
・局長は座につくとすぐ快活な口調で来意を告げ、上申書却下の不明を率直にわびた。
 「今度の事件は完全に私のミスでしたよ」俊介は局長に一種の清潔さを感じた。   
・「ねえ、君。どうなんだろう。ネズミの勢力はいまが最高潮だといえないかね」「そう
 ですね。こないだ小学生を総動員しましたね。あのときは相当やっつけたことを新聞に
 も写真入りで発表しましたから、こちらもボンヤリしているんじゃないってことはみん
 な承知してくれたと思うんですが」
・「もう一度あれをやるべきじゃないですか」「一回でいい、もう一回でいい」局長は俊
 介の方に向きなおった。「もう一回でいいから、小学生を動員してください。そして、
 その結果を放送するんです。それが終わったら、対策委員会も解散ということになる」
・にわかに実務家の口調になってテキパキ喋りだした局長を俊介はあっけにとられて眺め
 た。「どうして委員会を解散するんです?」「ネズミが全滅するからだよ」
・俊介は感嘆して局長の顔に見とれた。からくりはわかっている。この男は追いつめられ
 たのだ。野党の非難を浴び、パニックに怯えて、ついに灰色の大群を幻影に仕立てるこ
 とを思いついたのだ。  
・「これは緊急措置というやつだ」局長はするどい眼で俊介の顔を見つめた。(やはり復
 仇されたな)彼は黙っている課長にしたたかな策略を感じさせられた。弱点をつかんだ
 と思ったのは完全に誤算だった。彼はまんまとおびき寄せられ身動きならぬ共犯者に仕
 立てられようとしているのだ。終戦宣言という悪質な茶番を思いついたのは局長かもし
 れないし、知事かもしれない。しかしそれを彼に押し付けるよう進言し、画策したのは
 この課長だ。
・窓のすぎ下を川が流れていた。彼はその向こうの夜の底にひしめくけものたちの歯ぎし
 りをひしひしと体に感じた。
・使い古された手だ。これは局長の独創でもなんでもない。使い古された手だ。いままで
 に指導者たちは過度のエネルギーを発生するたびに何度もこの手を使い、自分に肉迫す
 る力をすべて幻影に仕立てて大衆の関心をそらしたのだ。そしてそのあとできまってど
 こかで爆発が起こったのだ。 
・逃げる手は一つしかないと彼は考えた。明日の会議で責任を課長に転じてしまうのだ。
 口実は二つある。一つは鼡害対策委員長が課長であること。これを主張するとは身分上
 まったく正しい。もう一つは彼が野党の攻撃武器に利用されている事実を指摘すること。
 もし終戦宣言のからくりが発見され、そのメッセージの読み手が余人ならぬ俊介自身で
 あることがわかれば弾劾者の血は憤怒の酸液でわきかえり、県庁側は弁明のしようがな
 くなるだろう。その不利をさとらせるのだ。
・「君、うまいことやったな」課長は部屋に戻って来るやいなや彼の肩をたたいて横に坐
 り込んだ。「知事がね、いってるそうだよ」「君は東京の本庁へ栄転だってさ。一週間
 の特休もつくそうだし、たいした出世じゃないか」
・(けむたがられたな・・・)俊介はしらじらしさのあまり点をつける気にもなれなかっ
 た。はげしくわびしい屈折を感じて彼は腐った肉体に頭を下げた。「負けましたよ課長。
 みごとに一本とられました・・・」
・恥しらずに泥酔して帰った俊介を待っていたのは農学者だった。「どうしたんです?」
 舌打ちしたり、ののしったりしている相手の取乱しように俊介はあっけにとられた。
 農学者はタクシーの後部席に酔い倒れた俊介のだらしない恰好を見て吐き捨てるような
 口調で説明した。「移動だよ、ネズミが移動をはじめたんだ。早く行かなきゃ間に合わ
 ない。俺は生まれてはじめて見るんだ」
・どの林にいた一匹が最初に衝動を感じて走り出したのかわからないが、ネズミの軍団の
 一部がその夜移動したのである。一人の木こりがそれを目撃した。村からの帰り道にそ
 の木こりはおびただしい数のネズミが雑木林や草むらからあふれて路上を横ぎるところ
 を発見したのだ。彼はそのまま村の駐在所にかけこんだ。若い巡査は説明しようのない
 異常をそのまま電話で県庁に報告するよりほかに方法を知らなかった。
・その間にも村人たちは懐中電燈や提灯で道を照らし、総出でネズミをたたき殺し、踏み
 つぶしたが、勝負はつかなかった。殺された数とは比較にはならないほどのネズミの大
 群が道を横ぎって夜の高原に消えていった。
・俊介を待つ間にニュースを分析した農学者はその夜のネズミのゆく手に湖がひろがって
 いることを地図で発見した。市から10キロメートルほど離れた、いつもはモーター・
 ボート・レースなどの行われる観光地である。   
・町を出ると農学者は自動車に全速力を命じた。むだなことはわかっていても、農学者は
 途中で山番の小屋や炭焼人の家を見つけると必ず車を止めて、ネズミの噂を確かめた。
 どこでも満足な答えは得られなかった。ネズミはどこからともなく現れてどこへともな
 く消え、音信を断ったのだ。  
・しかし、夜明け近くになってやっと湖についたとき、彼らは過去一年四カ月にわたって
 追いつ追われつしていたエネルギーの 行方をついに発見することができた。
・湖を一周しかけた彼らはたちまち薄明のなかにひろがる狂気を見出して車をとめた。農
 学者はユーレカの声をあげて自動車からとびおり、水ぎわへかけだして行った。そのあ
 とから湖岸の砂地に降りた俊介は自分が異様な生命現象に直面していることを知った。
・無数のネズミが先を争って水に飛び込んでいた。いたるところからネズミが地下水がわ
 くように走り出して次から次へと水に飛び込んでいった。ネズミはぬれた砂地を走って
 くるとそのまま水に入り、頭をあげ、ヒゲをたて、鳴かわしながら必死になって沖に泳
 いでいった。 
・奇怪な規律である。ただの一匹も集団からはずれた行動をとるものがないのだ。飢えの
 狂気の衝動のために彼らは土と水の感触が判別できなくなったのだろうか。彼らの肺や
 足は陸棲動物のそれである。泳いだところでぜいぜい時間にして10分か30分、距離
 にして80メートルから250メートルくらいしかもたないのだ。しかも彼らは迂回す
 ることを知らず、一直線に泳ぐ。対岸をめざしているのではない。新しい土地を求めて
 いるのではない。ただ発作的に走っているだけだ。
・朝もやにとざされた薄明の沖からはつぎつぎと消えてゆく小動物の悲鳴が聞こえてきた。
 その声から彼の受けたものは巨大で新鮮な無力感だった。一万町歩の植栽林を全滅させ、
 六億円にのぼる被害を残し、子供を食い殺し、屋根を剥いだ力、ひとびとに中世の恐怖
 をよみがえらせ、貧困で腐敗した政治への不満をめざめさせ、指導者には偽善にみちた
 必死のトリックを考えさせた。その力がここではまったく不可解に濫費されているのだ。
・いずれネズミの死体は岸へ打ち上げられて山積みになるのだ。局長は、地下組織壊滅の
 知らせを聞くだろう。ひとびとは細菌と革命を忘れ、地主たちは植栽補助金争奪戦に乗
 り出し、課長は新しい汚職を考え、そして田舎町はふたたび円周をめぐるような平安な
 生活に戻るのだ。    
・このパニックの原動力が水中に消えるとともに政治と心理のパニックもまたひとびとの
 意識の底深くもぐってしまうのではなかろうか。
・なにげなく窓の外を眺めた俊介は、街道を一匹の猫が歩いているのを発見した。やせて、
 よごれた野良猫である。車の音がしてもおどろかず、ちらりと振り返っただけで、その
 まま道のはしを町の方向へむかってゆっくりと歩き続けた。皮肉な終末だと俊介は思っ
 た。あるわびしさのまじった満足感のなかで彼は猫にむかってつぶやいた。「やっぱり
 人間の群れに戻るよりしかたがないじゃないか」