鬼 :藤沢周平

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この作品は、いまから43年前の1979年に出版された「神隠し」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
この作品は、醜女で婿のなり手がないというサチという十八の娘が主人公である。ある日、
手負いの侍を出会い、その侍をかくまった。サチは、傷ついて弱っているその侍を庇護し
ているという気持ちがわき、満足だった。そして、かくまっているうちに、その侍から
「めんこい娘だ」と言われ、惑乱のままにその侍に体を許してしまう。そしてサチは、自
分は大人になったんだと、誇らしい気持ちになった。その後は、その侍に抱かれることが、
当然のようになってゆく。
しかし、ある日、サチはその侍に出て行くことを告げられる。サチは侍にいつまでも留ま
るように懇願するが、侍にはまったくその気はなかった。侍にとってサチは”都合のいい
女”にすぎなかった。するとサチは、侍を失うのであればと、侍が隠れていることを城に
告げに行く。
体を許した男を、いつまでもそばに置いておきたいという、せつない純粋な娘の気持ちを
よく表している。娘にとって、一生に一度の命をかけた恋だったのだと思った。



・サチは川べりで洗濯をしている。荒いものがひと区切りつくと、サチは水を掬い上げて、
 汗ばんだ顔を洗った。顔を洗うと、サチは水に顔を映してみた。サチは十八である。若
 い。だが水面に映っている顔は醜かった。
・サキは不器量である。並はずれて不器量だと言ってよい。子供のときから、仲間に鬼っ
 子とはやされて泣いた。 
・父親の紋作も醜男であるが、娘の不器量には手を焼いている。十八の今日になるまで、
 婿のなり手がひとりも現われないからだ。サチとひとつ違いの妹のフミは、去年隣村に
 嫁に行った。フミは幸い母親似で、尋常な顔立ちをしている。
・不意にゴツンという大きな音がして、サチは驚いて腰をのばした。蛇籠に川舟が一艘ひ
 っかかっている。乗っている人は見えない。サチは恐る恐る蛇籠をのぼって、舟の中を
 覗いた。川舟の底に男が一人寝ている。
・舟底に寝ている男は、異様な姿をしている。髪が乱れて顔まで垂れ下がり、髪に隠れて、
 眼は見えない。右手には抜き身の刀を握っている。血は刀にこびりついている。袴をつ
 けた武士だった。 
・死んでいる。サチは後ずさった。体が細かくふるえた。父親に知らせなければならない。
 サチが体の向きを変えたとき、後ろで声がした。振り向くと、半身を起こした武士が、
 舟べりに手をかけて、力なく笑いかけている。
・並んで立つと大きな男である。サチは男の胸までしかない。大きな目鼻、大きな口が男
 らしい立派な武士である。年は三十ぐらいに見えた。
・「人に追われている。お前の家は百姓家か。どこか隠れる場所があるだろう」「心配な
 い。ご城下から逃げてきたが、人殺し、物盗りというわけではない。侍同士の争いだ。
 悪い奴が追いかけてくるのだ」
・サチはうなずいた。二、三日なら、父親にも黙ってかくまってもいいと思った。
・武士はサチの手に縋った。かなり体が弱っているようだった。武士に手を貸し、体をさ
 さえながら、サチはふと、傷ついたおおきくておとなしい動物を庇護しているような気
 がする。
 

・男たちは五日目の夜にやってきた。夜、荒々しく戸を叩く音に紋作が出てみると、四、
 五人の侍が立っていたのである。
・「六日前の夜、御城下から男がひとり逃げ出した。重罪人だ。榎並新三郎という侍だ。
 目立つほど大男だから、見ればひと眼でわかる」「その者を見つけた場合はもちろん、
 どこぞでかくまっている噂を聞いたら、すぐに村役人に届ける、いいな」
・サチはそっと台所に下りた。音がしないように飯櫃をあけ、手早く握り飯をつくった。
 水を詰めて行く竹筒に味噌汁を入れ、竹の皮に漬物を包んで持った。
・サチは稲倉に入った。稲倉の中は闇で、サチは眼が慣れるまで、しばらく戸のそばで立
 ち止まった。  
・サチは蓆に坐った武士の前に、持参した食べ物を置いた。ものも言わずに、武士が握り
 飯を貪り喰っているのを、サチは満足した表情で見まもる。
・二、三日かくまってくれと言った武士が、五日たってまだいるのは、ここへ連れてきた
 日の夜から熱を出して寝込んだためである。調べると背中に一カ所、太腿に一カ所刀傷
 があった。サチは紋作が買い置いた焼酎をくすねてきて傷口を洗い、塗り薬で手当てし
 た。三日目には熱が下がり、顔色もよくなった。
・「一体どげな悪いことしたどれ?」「悪いことはしとらん。川上の方で一揆があったの
 を知っているだろう。氷川郡の五カ村が騒いだ事件だ。あれは、わしがやらせだのだ」
 「百姓の窮状をみながら、藩では何の手も打たん。しかもその上に、氷川郡五カ村の年
 貢はわずか一割引きと決めて、あとは頬かむりだった」
・「捕れば切腹ものだ。へたすると磔かな」
・サチは賛嘆の眼で新三郎をみた。
・「かくまってやんべ。お前さまは百姓の味方だもんなれ。おれ、命に代えてもかくまっ
 てやんべ」 
・「めんこい女子だ」新三郎は手をのばして、サチの体を引き寄せた。食欲が足りて、別
 の欲が頭をもたげたあんばいだった。
・サチは本能的に手を突っ張って抗ったが、新三郎の大きな手が少し力を入れると、小柄
 なサチは、すっぽりと新三郎の胸の中に入ってしまった。
・「やめてけろ。おら、父ちゃんに叱られる」サチは惑乱しながら、切れ切れに囁いた。
・新三郎は無言だったが、手はマメに動いて、早くも瓜のようなサチの乳房を引っぱり出
 している。サチは一層惑乱した。
・「おら、みっともねえ顔ばしてるし」「なに、そんなことはない。ぽちゃぽちゃして、
 かわいい娘だ」 
・新三郎は励ますように言い、乳房を吸った。サチの体を無数の火が走り、その衝撃のた
 めにサチはのけぞった。衝撃の中で、サチは幻のように、男鬼に抱かれた。ももいろの
 肌をした女鬼をみた。
・さっき家を出るときと、おら変わってしまったな。とサチは思った。一カ所痛みを残し
 た体は、まだ微かに戦いている。その痛みが、誇らしい気もする。おら大人になった。
 とサチは思った。


・はっと気がつくと、後ろに母親のおこのが立っていた。「何してんだ、サチ」おこのは
 眼を瞠って言った。サチは半分握りかけた飯を手にしたまま俯いた。
・「なじょするつもりだ、その握り飯」おこのの表情も言葉も険しくなった。
・「サチ、お前まさか、その何とかというお侍を、どっかさ隠しているんでねえべな」
・サチの眼から、涙がこぼれ落ちている。
・「心配ねえべ、母ちゃん。悪い人でねえどれ。おらだち百姓の味方をしたから、追われ
 てんだってよ」 
・サチは紋作に事情を打ち明けた。聞き終わると、紋作はとりあえず物を言わずに娘の頬
 を一発張ったが、さすがに男で、事の重大さをひしと受け止めた顔色になった。
・「とにかく去んでもらえ」
・「あの人が稲倉を出てよ、家の近くで捕ったら、おらだは同罪だべちゃ」「少し様子を
 見るべよ、父ちゃん。そのうちにゃお城の侍たちも帰んべし、それから去んでもらえば
 ええべ」
・そうなれば、あのひとはやはり行ってしまうのだろうか。と思った。すると、胸がしめ
 つけられるように淋しくなった。


・「おい、サチ」橋を渡ったところで、六助に声をかけられた。六助は二十二で、名主の
 長左衛門の雇い人である。
・「おめえ、この頃少し色っぽくなったなっす」六助は、じろじろとサチの体を見廻した。
・「そんなこと、なかっぺ」とサチは答えた。サチの気持ちには余裕がある。この体は、
 ゆうべも新三郎にほめられたのだ。
・「不思議だなれ。確かに色っぽくなったどれ」六助の眼に、不意に好色な光が動いた。
・その夜、飯を喰い終わったあとで、新三郎は当然のようにサチを抱いた。サチも当然の
 ように抱かれた。抱かれながら、サチは体が鳴るような感覚をおぼえている。これまで
 感じたことがない歓びが体を襲ってきていた。サチは声を挙げた。
・「いつまでも、いてけろ」サチは呟いた。激しい波に運ばれたあとの、安息の時間の底
 で、サチは新三郎の裸の胸に寄り添い、眼をつぶっている。
・「おらの家の人になって、働けばええべ」「サチの婿にでもなるか」「だが、わしは百
 姓仕事は嫌いだ」 
・絶望がサチを打ちのめした。もう一度肩に伸びてきた新三郎の手を振り切って、サチは
 立ち上がり身じまいを直した。さっとまで誇らかにさらした裸を包み、帯を締めたとき、
 サチはそこに屈辱を包み込んだような気がした。
・城から急行した探索方の侍十二名が、紋作の家の稲倉に踏み込んだのは、翌日の7ツ時
(午後四時)である。 
・刀を振りかざして稲倉から飛び出してきた榎並新三郎と、追いすがる武士との間で激し
 い斬り合いになった。新三郎の振りおろす豪剣は、容易に相手を寄せつけず、探索方の
 武士は五人まで手傷を負って倒れた。だが長い斬り合いのあとで、新三郎に疲労が訪れ
 た。
・紋作もおこのも隣家に逃げたが、サチは家の軒先から斬り合いの始終を見ていた。新三
 郎が縛られると、サチは放心したように口を開いた。新三郎の運命が、そこで窮まった
 のを見たのである。
・でも、この方がいい。どこかに行かれるよりは、死んでもらった方がいいと、サチはま
 た思った。サチは今朝城まで走ったのである。城の役人には、かくまったとは言ってい
 ない。新三郎がゆうべ来たと告げた。
・「サチ、世話になった」新三郎は微笑した。その微笑は、サチの心を引き裂いた。
・もう助けてやれない。サチの眼から、涙が溢れた。
・淡い光の中を、サチは歩いている。蛇籠のある場所に真直きて、しばらく放心したよう
 にそこに蹲ったあと、サチは立ち上がって、川べりを下手の方に歩いている。
・「おら、やっぱり鬼だど」サチは小さく呟いた。また涙がこぼれた。
・もう少し行くと深い淵がある。水は蒼黒く、そこで渦を巻いている。底を見たものは誰
 もいない。
・持ち続けられないほど、重い悲しみを抱いた人間が、何人かその淵の底に入って行った。
 サチの行く場所はそこしかない。
・力のない夕暮れの光に照らされて歩いて行くサチは、憂いを抱く若い鬼の女房のように、
 可憐にみえる。