小川の辺 :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1977年に出版された「闇の穴」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
内容は、脱藩して江戸へ逃亡した義弟を藩主の命令によって討手として斬らなければなら
なくなった藩士の不条理を描いたものである。しかも義弟と共に逃亡した実の妹もろとも
討たなければならなくなるという二重の苦悩を抱えなければならなかったのだ。
この作品は、映画化され2011年に公開されたようだが、残念ながら私はまだ観ていな
い。
私がこの作品を読んで、ふと疑問に思ったのが、田鶴という妹の気性の激しさである。作
品の中では、子供の頃から気性が激しく、それは母親ゆずりということになっているが、
そういう気性は遺伝するものなのだろうかと思った。
調べてみると、性格の50%は遺伝子で決まるという説もあるようだ。作者は教員の経験
があったようだが、教員経験のなかで、そのようなことを知っていたのかもしれないと思
った。



・戌井朔之助は入って行くと、月番家老の助川権之丞は、ちらっと振り向いただけで、あ
 とを閉めてこちらに寄れ、と言った。
・いま藩では、脱藩した佐久間森衛に討手を出している。佐久間は脱藩するとき妻を同行
 した。その佐久間の妻が、朔之助の妹である。
・「じつは中丸徳十郎が帰ってきた。病気で帰ってきたのだ」
・「そこでな、藩ではかわるべき討手をさしむけねばならん。討手は、戌井朔之助に決ま
 った」
・「まことに名誉な申しつけではございますが、そのご命令は受けかねまする」
・「徳十郎のかわりに立ち合って、佐久間に勝てるほどの者は、見まわしたところ、そな
 たのほかにおらんということで一致したのだ」
・「森衛の女房は、そなたと同じ直心流を遣うそうではないか。女房も手向かうだろうか
 ら修羅場になりはせんか」」 
・「あるいは。田鶴は気が強い女子でござりますゆえ」
・「しかしそなたが行けば、森衛の女房も兄には手向うまい。お上は、女房のことは打ち
 捨てておけと申されておる。そなたが行けば、命助かるというものじゃ」
・朔之助は眼を伏せた。田鶴は子供の頃から気性の激しい女だった。今度の佐久間の脱藩
 は、藩主に逆らって謹慎を命じられている間の出来事だったが、田鶴が脱藩をそそのか
 したのではないかと思われる節があった。田鶴は、討手が兄と知って、おとなしく夫を
 討たせるような女ではない。


・「ほかの方にお願いすることは出来なかったのですか」朔之助の言うことを聞き終わる
 と、母の以瀬は顔色を変えて言った。
・「お上の処置をとやこう申してはならん。口を慎め」朔之助の言うことをうなずいてい
 た父の忠左衛門が、ぽつりと叱った。
・「お上は、わが家には咎めは下されなんだ。しかしこのうえご下命を辞退しては、お上
 の寛大さにも限りがあろう、とご家老は申されるわけでござる」
 朔之助が言ったとき、襖が開いて妻の幾久は朔之助のうしろにひっそりと坐った。
・「田鶴が手むかったら、どうしますか。もし斬りかかってきたときは、どうなされます
 か」
 以瀬は執拗に言った。以瀬も気性の激しい女で、戌井家の母娘は、その点で共通してい
 る。田鶴は小さい頃、母親の溺愛をうけて育っている。我儘で、恐いもの知らずの娘の
 まま、佐久間に縁づいた。
・「そのときは斬れ」不意に忠左衛門が言った。きっぱりした声だった。
・「斬りは致しませぬ。私におまかせ下さい」と朔之助は言った。
・「お前さまが朔之助と田鶴にしたことは、間違っておりましたよ。二人や新蔵に剣術を
 仕込んで、それでどうなりましたか。剣術にすぐれていなければ、兄妹の斬り合いなど
 と恐ろしい心配もすることはなかったでしょうに」
・忠左衛門は、この朔之助が木刀を握れるようになると、早速剣術を仕込んだが、やがて
 その稽古に、妹の田鶴、戌井家で先代の時から若党を勤めてきた利兵衛の子の新蔵が加
 わるようになった。新蔵は忠左衛門に命じられたからだが、田鶴は自分から父に願って、
 稽古を受けたのである。
・直心流では他流試合を禁じていた。だが、朔之助は四年前に、海坂城下でもっとも人気
 のある一刀流の浅井道場で試合をしている。その手配をしたのは父の忠左衛門である。
 試合は浅井道場で師範代を勤める戸田弥六郎との間で行なわれ、三本勝負の約束だった
 が、最初の勝負に朔之助が勝つと、戸田は後の勝負を辞退した。
・その朔之助の剣を呪詛するように、以瀬は忠左衛門を詰っていた。白髪が目立つ母が、
 そうして綿々と父を詰っているのを見ながら、朔之助は耐え難いような気持ちになって
 いた。一家に覆いかぶさってきている不幸の異常さが、母の上に現われているようだっ
 た。以瀬は気性の激しい人間だったが、人の前で、夫を詰るようなことはしたことがな
 い筈だった。
・廊下に出ると、そこに人影が蹲っていた。
・「新蔵か。何をしておる」「若旦那さまに、お願いがあって、控えておりました」
・「今度の旅に、私をお連れ頂くわけには行きませんか。ぜひとも、お願いしとうござま
 す」
・「田鶴が心配か、新蔵」と朔之助は言った。新蔵は膝に手を置いたまま、黙って朔之助
 を見た。
・新蔵は戌井家の奉公人だが、戌井家の屋敷の中で生まれ、子供の頃は朔之助たちと兄弟
 同様にして育った。年は田鶴よりひとつ上である。
・「手むかってきても、田鶴を斬ったりはせん。だが心配なら、連れて行ってもいいぞ」
・「ありがとうございます」新蔵は弾んだ声で言った。
・その夜、朔之助は幾久を抱いた。朔之助の愛撫は、いつもより長く荒々しかったが、幾
 久もいままでになかった乱れを見せた。
・田鶴は、かならず手むかってくるだろう。朔之助はそう思った。田鶴は、朔之助の推察
 に間違いなければ、夫に脱藩をすすめたのである。謹慎していた佐久間に、さらに重い
 処分がくだることを、女の直感で見抜いたのかもしれなかった。田鶴は、それほど強く
 夫と結ばれていたとも言える。そうであれば、夫が討たれるのを、手をこまねいてみて
 いる筈はなかった。
 

・朔之助と新蔵は、翌朝早く海坂の城下町を発った。
・「佐久間さまのお咎めは、脱藩しなければならないほどの、重いものでございましたか。
 私はそのようには聞いておりませんでしたが・・・」と後ろから新蔵が話しかけた。そ
 の疑問は、朔之助にもあった。
・佐久間森衛は藩主あてに一通の上書を提出した。佐久間は郡代次席を勤めていた。上書
 はその立場から、一昨年、昨年と二年におよび農政の手直しで、郷民がどのような窮地
 に追い込まれたかを、十八項目にわたって実例を挙げて示し、思いつきの手直しをやめ
 て、抜本的な農政改革に着手すべきこと、それが出来なければ、実施した小刻みな改変
 をすべてご破算にして、旧に戻してもらいたいと述べたものであった。
・上書は、農政の手直しを指示した藩主主殿頭を直接批判した強烈なものだったが、目的
 は藩主の政治顧問ともいうべき立場にいる、侍医鹿沢堯伯を斥けることにあることは明
 らかだった。主殿頭の指示が、堯伯の意見をそのまま採用していることは、藩内では誰
 も知らぬものがいない。
・藩では数年前、二年続きの凶作に見舞われ、その傷手がまだ回復していなかった。凶作
 は、単純に悪天候のためとも言えない農政上の失策、水利の不備、開墾田の地理選定の
 誤りなどを含んでいたため、藩では農村の疲弊回復をはかると同時に、根本的な農政の
 立て直しを迫られていた。
・藩執政たちは、むろんたびたび会議を開いて政策を練ったが、有効な施策を打ち出せな
 いまま苦慮していた。その間に、藩主主殿頭が指示してくる農政上の改革を、次々と無
 気力に受け入れたのち、執政たちの自信のなさを示したものだった。
・そういうときに出された佐久間の上書は、激怒した主殿頭が、佐久間の処分を試問して
 きた執政会議で、逆に一致して支持された。
・執政たちは佐久間の上書に刺戟されて、佐久間の上書をもとにして、早急に農政改革案
 をまとめ上げた。この動きの中で、執政たちが示したまとまりは、かつて例をみなかっ
 たほどのものだった。
・藩主を批判した佐久間を慎み処分にとどめたのも、執政たちの結束が、主殿頭を押さえ
 たといえた。主殿頭は暗君ではない。農政についての指示も、いつまでも足踏みを続け
 る執政たちの腑甲斐なさに苛立って、みずから乗り出したといった気味があった。それ
 だけの見識は持っているから、佐久間の挙げた十八項目の指摘に道理があることは、理
 解出来たのである。主殿頭は鹿沢の出仕を止める処置をとった。
・だが、佐久間に対する怒りは、主殿頭の内部で荒れ狂っていた。上書は、主殿頭の自尊
 心を著しく傷つけるものだった。佐久間に嘲られたと感じた。
・森衛も軽率だ。はじめてそう思った。佐久間は、性格は直情径行といったところがあっ
 た。竹を割ったような気性だったが、それだけに思いつめると押さえがきかず、柔軟さ
 を欠くところがあったかも知れない。妹の田鶴の気性を思い合わせて似た者夫婦だと笑
 ったりしたこともある。
・だが朔之助はじきにその考えを改めた。執政会議に出せば、中味が藩主主殿頭の政策を
 否定したものだけに、そこで潰される懸念があったかもしれない。あるいは腹切らされ
 るのを覚悟のうえで、佐久間は藩公への上書を敢行したのかもしれない。
 

・「田鶴はきかん気の子で、兄のわしにもたびたび手むかってきたが、お前と喧嘩したの
 は見たことがなかったの」 
・ある夏の日、朔之助は新蔵と田鶴を連れて川に行った。新蔵は六つ、田鶴はまだ五つの
 子供だった。二人を川の中州で遊ばせておいて、朔之助は魚とりに夢中になっている間
 に、遠くで大筒を討つような音を聞いた。
・腰を伸ばすと、川上のあたりが、雲に覆われて真暗になっている。大筒のような音は雷
 が鳴っているのだった。 
・新蔵と田鶴は、中州で砂を掘って遊んでいる。田鶴が命令し、一歳上の新蔵が従順に田
 鶴の言うことを聞いている。
・川水が濁ってきたのに気づいたのは、苦心して鮒を一匹捕まえた頃だった。水は濁って
 いるだけでなく、明らかに嵩を増していた。
・「新蔵、田鶴」朔之助は二人に声をかけ、岸に上がれと言った。新蔵は素直に、中州か
 ら浅い流れを漕ぎわたって岸に上がったが、田鶴は知らないふりで、まだ砂をいじって
 いる。 
・「岸へ上がらんか、田鶴」朔之助がそばに行って言うと、田鶴はちらと朔之助の顔をみ
 たが、小憎らしくちいさな尻を向けてそっぽをむいだだけで、立ち上がろうとしなかっ
 た。反抗的な眼だった。
・朔之助は、後ろから襟がみを掴んで、田鶴を立たせると、強引に流れを横切ろうとした。
 田鶴は手足を突っぱって暴れた。
・田鶴は朔之助の腕に爪を立てた。思わず朔之助は手を離し、腹が立つままに、田鶴の頬
 を殴りつけた。すると田鶴は泣きもしないで、眼を光らせて後ずさりした。
・朔之助は田鶴に背を向けて、岸に上がった。岸で見ていると、水嵩はどんどん増えてく
 る。田鶴はさすがに遊ぶのをやめていたが、それでも強情にこちらを向いて立っている。
・そのとき、新蔵が黙って岸から川の中に降りて行った。さっきまでは膝の下までしかな
 かった水が、新蔵の腰のあたりに達した。その水の中で、新蔵は頼りなくよろめきなが
 ら、一歩ずつ中州に近づいて行った。すると、田鶴は不意に泣き声をたてた。泣きなが
 ら、田鶴は新蔵に手をさしのべている。
・新蔵は田鶴をしっかりとつかまえると、かばうように自分は上手に立って、また川の中
 に足を踏み入れた。二人は中州と岸の間を渡りはじめた。水勢に押されて二人は少しず
 つ川下に流され、 何時戸は田鶴が転びそうになって、胸まで水浸しになった。水は田
 鶴の腹まであった。岸まで一間というところで、二人は水の中に立ちすくんでしまった。
・朔之助が岸を降りようとしたとき、新蔵にしがみついていた田鶴が、鋭い声で言った。
 「お兄さまはいや!」
・朔之助は舌打ちした。水に踏み込んで、田鶴を殴りつけたい衝動を、漸く我慢して、朔
 之助は言った。
 「新蔵、もうちょっとだ。がんばってこっちに来い。ゆっくり来い」
 新蔵は蒼ざめていたが、またゆっくりと動きはじめた。田鶴の肩をしっかり抱いていた。
・「お前を連れてきて、よかったかもしれん。あれはひょっとしたら、お前の言うことな
 らきくかもしれんからな」 
・「居所を突きとめたら、田鶴さまが留守になさるときに窺ってはいかがでしょうか。佐
 久間さまと若旦那さまが、斬り合うところを、田鶴さまにはみせたくはありません」
・新蔵がついてきたのは、こういうことだったのか、と思った。田鶴に思いを寄せていた
 のかもしれん。不意に眼がさめたようにそう思った。
・新蔵は二十一で、時どき母の以瀬に縁談をすすめられているのを見ている。だがまだ妻
 帯する意志はないようだった。それは、二年前田鶴が佐久間に嫁に入ったこととかかわ
 りがあるのか。
・田鶴のことは、新蔵にまかせておけばいいかもしれん。昔からそうだったのだ、と朔之
 助は思った。


・村端れを、幅二間ほどの小川が流れている。その家は、柳の木のそばにあった。村か少
 し離れ、小川の北側にあるのは、その家一軒だけだった。
・新蔵は、村の隅にある小さな祠の陰から、その家を眺めていた。
・佐久間夫婦を見つけたのを、新蔵はまだ朔之助に知らせていない。言えば、この畑と小
 川に囲まれた穏やかな土地が、修羅場に一変する。その日が来るのが、新蔵は恐ろしく、
 おぞましい気がする。そのとき取り返しがつかないことが起こるような来もした。
・新蔵の脳裏に、橋を渡ってから後ろを振り向いた田鶴の顔が、残像のように映っている。
 色白の肌と、目尻がやや上がった勝気そうな面影はそのままだったが、田鶴は頬のあた
 りが痩せたように見えた。眼は鋭く人を警戒するいろを含んでいたようだった。
・あのひとも苦労された。そう思ったとき、新蔵の胸の中に、ひとつの記憶がどっと走り
 こんできた。それは新蔵が自分にむかって、思い出すことを堅く禁じている記憶だった。
・田鶴が嫁入る三日前のことだった。新蔵は屋敷の裏にある納屋で、縄を綯っていた。縄
 作りに根を詰めていた。そのために、田鶴が入ってきたのに気づかなかった。気がつく
 と、田鶴が入口の戸を閉めるところだった。
・「戸を閉めてはいけません」新蔵はうろたえていた。新蔵がうろたえたのは、嫁入りを
 控えた娘が、奉公人の男と戸を閉めた部屋に二人だけでいるなどということは、許され
 ることではなかった。
・新蔵は田鶴を押しのけて、戸を開けようとした。その手を掴んで田鶴が言った。
 「もう遅いでしょ、新蔵。二人でここに入ってしまったのだから」
 新蔵はあっと思った。田鶴は頬にいきいきと血をのぼらせ、声を立てないで笑った。眼
 が挑みかかるように光っている。その美しさは、新蔵の声を奪った。
・「もう少し、二人でいましょ。暗くなるまで」田鶴は囁いた。 
 昔、納屋で田鶴と二人で隠れんぼをしたことを思い出していた。鬼がいない二人だけの
 隠れんぼだった。それでも二人はやって来るかもしれない鬼におびえ、古い長持と羽目
 板の間の隙間に、抱き合って長い間蹲っていた。
・「新蔵、下を向かないで私を見て」「私がお嫁に行ったら、淋しくないの?」
・「はい。淋しゅうございます」そう言った時、新蔵は、主従の矩を越えたと思った。目
 の前にいるのは、眼がくらむほど慕わしい一人の女だった。
・「私も嫁に行きたくないの。でも仕方がない。新蔵の嫁にはならないのだもの」 
・「私の身体をみたい?」
・「いえ、そんな恐ろしいことは、やめてください」
・「見て、お別れだから」
・田鶴の顔は、急に青ざめたようだった。きっと口を結んだまま、すばやく帯を解いた。
 納屋の高いところに小窓がひとつあって、そこから日暮れの淡い光がさしこんでいた。
 その光の中に、田鶴の白く豊かな胸があらわれ、ふたつのまるい盛り上がりが浮かんだ。
・外で田鶴を呼ぶ声がした。台所の用を足している、とき婆さんだった。ときの声は納屋
 の前まで来たが、やがて遠ざかって行った。新蔵が深い吐息をついたとき、不意に田鶴
 のてがのびて、新蔵の手を自分の胸に導いた。
・あのひとは、花のようだった。と新蔵は思った。 
・さっき見た、頬のあたりが悴れた田鶴が浮かび、田鶴を襲った運命の過酷さに、新蔵は
 胸が詰まるのを感じた。


・斬り合いは長かったが、朔之助はついに佐久間を倒した。佐久間は討手が朔之助だと知
 ると、黙々と支度を調え、尋常に勝負した。佐久間は不伝流の秘伝とされる小車という
 太刀を使ったが、朔之助はそれを破ったのである。
・二人が、川べりに顔をよけに向けてうつむきにたおれている死骸を抱き起こしたとき、
 新蔵が叫んだ。「若旦那さま」
・朔之助が顔を挙げると、橋の向こうに田鶴が立っているのが見えた。田鶴は訝しそうな
 眼でこちらを眺めていたが、やがて事情を覚ったようだった。狭い橋を飛ぶように走り
 抜けると、二人の脇を擦り抜け、家の中に駆け込んだ。家の中から出てきたとき、田鶴
 は白刃を握っていた。
・「討手は兄上でしたか」「佐久間の妻として、このまま見逃すことはできません。立ち
 合って頂きます」 
・「ばか者。刀をひっこめろ」朔之助は怒鳴った。一番恐れていたことがやってきたよう
 だった。
・朔之助は少しずつ後じさりし、間合をはずすと背を向けた。その背後に風が起こった。
 朔之助は辛うじて身体をかわしたが、左腕を浅く斬られていた。
・「よさぬか、田鶴」しりぞきながら、朔之助は叱咤した。
・だが、田鶴は半ば狂乱しているように見えた。眼を光らせ、気合を発して斬り込んでく
 る。田鶴の打ち込みは鋭く、朔之助は身をかわして逃げながら、逃げそこなって肩先や
 胸をかすられた。
・「おろか者が!」朔之助は唸って、刀を抜いた。その一挙動に、すかさず打ち込んでき
 た田鶴の切先に小指を斬られた。朔之助は反撃に移った。田鶴の打ち込みを、びしびし
 弾ねかえし、道に押し戻した。兄妹相搏つ異様な光景だった。
・「若旦那さま、斬ってはなりませんぞ」新蔵が叫んだのが聞えた。切迫した声だった。
・朔之助のすさまじい気合がひびいた。田鶴の刀は巻き上げられて宙に飛び、次の瞬間田
 鶴は川に落ちていた。 
・「おろかな女だ。水で頭でも冷やせ」朔之助がそう言ったが、振り返って新蔵をみると、
 尖った声を出した。
・「新蔵、それは何の真似だ」新蔵は脇差を抜いていた。朔之助に言われて、刀を鞘に納
 めたが、まだこわばった顔をしている。
・田鶴を斬ったら、俺に斬ってかかるつもりだったのか。と朔之助は思った。
・「田鶴を引き揚げてやれ」朔之助は新蔵に声をかけた。田鶴は腰まで水に漬かったまま、
 岸の草に取りつき、顔を伏せてすすり泣いていた。悲痛な泣き声だった。
・新蔵がその前に膝を折って何か言うと、やがて田鶴が手をのばして、新蔵の手に縋った。
 新蔵の腕が、田鶴の手を引き、胴を巻いて草の上に引き揚げるのを朔之助は見た。引き
 揚げられたとき、田鶴はちらと朔之助をみたが、すぐに顔をそむけて新蔵の身体の陰に
 隠れた。二人の方が本物の兄妹のように見えた。
・二人は、このまま国に帰らない方がいいかもしれんな。ふと、朔之助はそう思った。田
 鶴のことは、やはり新蔵にまかせるしかないのだ、と思った。
・「田鶴のことは、お前にまかせる」朔之助は、懐から財布を抜き出して渡した。
・「俺はひと足先に帰る。お前たちは、ゆっくり後のことを相談しろ。国へ帰るなり、江
 戸にとどまるなり、どちらでもよいぞ」
・橋を渡るとき振り返ると、立ち上がった田鶴が新蔵に肩を抱かれて、隠れ家のほうに歩
 いて行くところだった。