二階 :松本清張

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事情があって別れたかつての恋人と偶然にも再会したらどうなるだろうか。しかも、こち
らは病いで回復の見込みがないという状況において。そしてその彼女も、不幸な人生の中
を歩んできたとしたら。
そんな男女がとった行動は、それもありかな、と思える。が、しかし、それは残された者
にとっては、耐え難い裏切りでもある。それまで一生懸命支えてきた者に対しては、あま
りにも身勝手な行動である。手を取り合って一緒に死んだ男女にとっては、満たされて死
んでいけるのかもしれないが、残された者にとっては、苦しみの始まりである。自分の昔
の果たせなかった恋を成就することも大切だが、それまでの人生において、互いに支え合
い、苦楽ともにしてきた人の気持ちを裏切らないことも大切である。そんな思いにさせら
れた小説であった。

・英二は二年近く療養所にいたが、病状は一向に快くならなかった。恢復の希望が薄れて
 くると療養生活には倦怠と絶望を感じるばかりである。療養所は、海近くの松林の中に
 あったが、東京からは二時間を要する。妻の幸子は、月二回ここを訪れた。   
・英二は印刷屋を経営して十年になる。英二は妻に療養所を出て東京の自宅に帰ることを
 懇願した。昔から言い出したらきかぬ人だった十五年間、一緒にいて幸子はこの英二の
 性質知っている。しかし、子供がなかった。それが彼女の意識のどこかに、結婚して間
 もない錯覚をいつまでも揺曳させていた。それは美点でもあり、落度かもしれなかった。
 二カ月の後、幸子が英二の主張をを諾いて退院させたのは、その落度のほうといえそう
 である。   
・わが家の二階に寝ると、英二は眼を細めて喜んだ。手を拍たんばかりにであった。        
・幸子は夫の言い分、というよりも、その心情に負けたのだ。療養所の医者は不機嫌だっ
 た。幸子の申し出を無謀だといった。それなら、どれ位、療養所に置いたら治癒するの
 かと幸子は尋ねた。その答えに医者がある期間の数字をいってくれたら、彼女も無理に
 夫のいう通りにはならなかったかもしれない。医者は返辞に曖昧だった。沈黙に等しい
 その返答が幸子に夫を連れて帰らせる決心を固めさせたのだ。同じなら、夫の喜ぶよう
 にさせてやりたかった。実際夫の言う通り、絶望感を抱いて療養所に寝ているよりも、
 家に帰って元気づけば、案外、恢復のきっかけとなるかもしれないのだ。幸子はその淡
 い希望にとり縋っていた。     
・幸子は、電話帳を繰って、派出看護婦紹介所を探した。あんまり遠くない所に、電話番
 号を二つ持っている会があった。電話を二つもひいている所に信頼感が湧いた。いかに
 も優秀な看護婦を置いて流行っていそうな会に思われた。
・二階に上がると、夫は眼を塞いでいた。窪んだ眼窩に疲労が沈んでいた。二時間も車に
 乗せた結果が覿面に出た思いで、幸子はぎくっとなった。やっぱり無理をして連れて帰
 るのではなかった。またしても後悔にすくんだ。
・幸子は蒲団の下に手を入れて、夫の温い手首を撫でた。夫は、唇をある形にした。それ
 は二年ぶりであった。幸子は顔の上に伏せた。かすかな口臭が彼女の唇を開けて熱く流
 れ込んだ。夫は咽喉を動かして妻を吸った。夫の熱っぽい手が、幸子の身体を蒲団の中
 に匿おうとした。彼女は身を退らせた。「いけません」幸子はたしなめた。幸子が睨む
 と、夫は再び彼女の頭に腕を撒き、耳のそばで低い声であることを質問した。幸子は頬
 を赤らめさせた。
・頼んだ派出看護婦というのは一時間後に来た。幸子とあまり違わず、三十五六歳くらい
 に見えた。背が少し低く、まるい眼に愛嬌があった。色が白く、若い時はかなりきれい
 だったと思われるが、眼の下にはたるんだ皺があり、髪が少なくて、やはり年齢だけの
 顔であった。この年齢になるまで派出看護婦で働かなければならないとは、どんな境遇
 のひとであろうかと幸子はひそかに思った。世馴れたところはあったが、下品でないと
 ころに、幸子は好感をもった。紹介状によると裕子という名だった。尋ねると、十八の
 ときに看護婦の免許を取り、途中結婚して六年くらい休みはあったが病院勤務をしてい
 た、ということであった。ご主人は四年前になくなり、子供は田舎の実家にあずけてい
 るとのことであった
・裕子にはそんな暗い様子はなかった。何よりも経験が長いことが安心であった。若い人
 と異なって、家庭の体験があれば病人の世話も行き届くに違いないと思われた。裕子は
 持ってきたトランクから白衣を取り出すと、手早く着替えた。きびきびした動作であっ
 た。
・二階に上がり襖を開けて、入ると幸子は夫に看護婦を紹介した。夫は首をもたげて看護
 婦を眺めた。裕子も英二を見た。幸子の気がつかないことが、二人の遭遇した視線に起
 こった。   
・裕子は、世話の行き届いた看護婦であった。することに誠意が籠っていた。それは一つ
 一つ処理する動作を見ていると分かるのだ。動作には職業的な美しさがあった。熟練の
 手捌きが律動的である。が、それだけではない。職業的というのはどこか冷たさがある
 ものだ。それは傍観していても嗅ぎとれる。裕子にはそれがなかった。親身になって世
 話する、という真心が充ちていた。くりくりした眼を動かして、病人の注意に油断がな
 かった。 
・裕子は控え目だった。初めて会ったときとは少々印象が違う。もっと、はきはきと振る
 舞う人かと思ったら、幸子に対しては言葉も少なく、眼を伏せて丁寧にものをいった。
・幸子は、遠慮深い女だと思い、もう少し明るさがあってもいいのではないかと感じた。
 それとも、派出看護婦は、病人の家を回っているのだから自然とそうなるのであろうか
 と思ったりした。しかし、病人の世話をよく看てくれれば、それでいうことはないのだ。
 その点では裕子は立派であった。幸子が、いつ二階に上げって行っても、彼女は患者の
 枕元に坐り、病人の様子をみまもっていた。退屈であろうと幸子は雑誌を置いているの
 だが。それを読んだ形跡もなく、机の上にきちんと載っているだけだった。   
・裕子が来てから、もう四五日経っていた。その四五日以来、夫は何となく神経質になっ
 ていた。幸子を見る表情が、苛々したようで、笑いが無かった。よく世話してくれるよ
 うでも、やはり他人を置いたので、夫の神経を尖らせているのかと思った。
・幸子は、あまり二階に上げっていく暇がなかった。それは恃みに出来る付添看護婦をつ
 けた安心もあるからだと信じていた。それでも、むつかしい見積もりや、面倒な問題に
 当面すると、夫のところに行く用事になった。しかし、階段に足をかけるたびに、幸子
 は心の中に素直に急いで上がれない躊躇が起きた。理由のないことである。が、看護婦
 というよりも、ひとりの女が二階で夫とひっそりと対い合っている意識が突然に起こっ
 てくるのは、どういう訳であろう。なぜ、女に意識がかかるのか、幸子は、階段をわざ
 と足音をたてて、ゆっくりと上がった。襖を開けると、たいてい夫と裕子とは、入って
 きた幸子に、揃って眼を向けていた。幸子のほうが何となくたじろいで、頬が熱くなっ
 た。瞬間、自分が他人のような錯覚を起こした。
・夜は、病間との境の襖を開け放して、ひとつの部屋に幸子と裕子が寝た。交替で夜通し
 起きている程の病状でもないので、敷居際に裕子が横たわり、次に幸子が寝た。裕子の
 ほうが、英二に近かった。それは、看護婦だから仕方がない。妻の位置よりも、看護婦
 のほうが病人本位では大切であった。夜中に、うつでも起きる態勢が必要だった。実際、
 裕子は、忠実に任務を実行していた。英二が低い声で一言いうと、がばとはね起きて用
 事をした。蒲団の裾のほうに器物をさし入れ、じっと待っていることもあれば、背中を
 撫でていることもあり、薬を飲ませていることもあった。
・そのことは看護婦の勤務なのだ。が、妻の任務とも言えた。ここでは看護婦が妻のする
 ことの半分を奪っていた。あるいはそれ以上かもしれない。幸子は、気づいていても起
 き上がることが出来なかった。夫の看護婦との、その時の会話は極めて短く、事務的で、
 そして低かった。一方は病人の命令であり、一方はその受け応えであった。が、幸子の
 醒めている耳には、ひどく秘密めいて響いてならなかった。夫婦の間に、あることが行
 われる前後の低声を容易に連想できそうだった。
・そういえば、夫は近ごろ、幸子に少しも唇を求めない。それは、もっとあってもいいの
 だ。幸子が夫の前に居る時は、裕子は必ずといってもいいほど、何かしら用事をこしら
 えて座を外しているのだから、夫は何でも出来るはずであった。夫は、近ごろ、幸子だ
 けと居ても、さっぱりとした顔をしていた。幸子が衝動的に夫の頭を抱え、唇を押しつ
 けても、落下してくるものを仕方なく受け止めるというほどの熱意しかなかった。幸子
 が頬を赤らめさせるような質問もしなかった。
・夫は、幸子と二人っきりでいると、何かおどおどしていた。それが妙な苛立ちとまじっ
 た。夫は何を憚っているのか。そうだ、それは憚っているという形容が当たりそうだっ
 た。それなら対象は看護婦しかない。勿論、彼女は他人には違いないが、夫は不当に意
 識し過ぎているようだった。 
・裕子は、相変わらず愛嬌のあるまるい眼をして幸子に行儀によい言葉を使った。敬語は
 いつまでも崩れなかった。いかにも自分は派出看護婦であり、雇主に対する関係を心得
 たような態度であった。が、幸子は看護婦が傍から離れ、うつむき加減で二階に上って
 行くと、再び妙に落ちつきを喪うのだった。そのような不安は与える何物も裕子はその
 容貌にも、身体にも、年齢にももっていそうにはなかった。いや、どのように分析して
 も、それはない。だのに、幸子に動揺が起こるのは何故だろうか。それは、幸子が裕子
 に看護婦よりも女を感じからにほかならなかった。
・昼間、幸子の前に置かれている夫と裕子とは、依然として自宅療養患者と付添看護婦で
 あった。言葉が短くやはり事務的だった。二人は視線も合さなかった。だが、不思議だ
 った。裕子は、さして美人でもなく、若くもなく、そしてこの家に来て、たった十数日
 ではないか。考えられないことだった。そんな短時日男女の悪事は結ばれるものだろう
 か。しかし、幸子の前に居る二人は、あまりに何喰わぬ顔であり過ぎた。感情がなかっ
 た。
・幸子は、手探りようがなかった。勝手に猜疑とひとり相撲をとっているような気がした。
 これは恥ずべきことかもしれない。しかし、たしかに、この意識は外れた矢ではなさそ
 うだった。どこかに手応えを感じた。どこかに、それは依然として形のないものであっ
 た。  
・夫の場所に行くことが、幸子は次第にこわくなった。当然に夫に相談しなければならな
 いことでも、二階に上がることを躊躇った。何か威圧のようなものを二階から感じるの
 だ。異常な、ただならぬ雰囲気が熱風のように階段から噴き下りてくる。彼女は夫への
 用事をほとんど圧殺した。訳の分からぬ我慢だった。
・ある日、医者からたった一度だけ「ご主人は、だんだん元気になられますね。いや、病
 気の方は大して変かはありませんがね。気持ちがひどく元気そうですよ。」という言葉
 をきいた。幸子は知らないことを聞いたと思った。幸子が知っている夫は、いつも詰ま
 らなそうな顔をして枕に頭をのせているのだ。不機嫌で、笑ったことがない。何をいっ
 ても生返事だった。快活なところは少しもなかった。
・幸子は、尖っている神経が堪らなかった。これから早く脱れねば参りそうだった。二階
 の圧迫から解放されたかった。それを言い出す機会は、思ったより早くきた。ある日、
 どうしても夫に相談しなければならない仕事の用事が出来た。客が来て、待っているの
 だ。猶予は出来なかった。幸子は二階に足を踏み鳴らして上がった。抵抗するものを押
 し返すような気持ちだった。階段を上がり切ると、裕子があわてて襖をあけて出て来た。
 手には何も持っていない。幸子に、ちょっと会釈するように頭を下げて、階段を下へ脱
 れて行った。幸子は、うつむいた裕子の顔に泪が流れているのを見逃さなかった。    
・裕子の頬に光っていた泪が、今までの得体の知れなかった茫然とした渇を、急速に凝固
 させた。幸子の眼の前の容の無かったものが、はっきりと形になって出た。抽象が、一
 筋の泪を見たことで現実に具象化された。
・幸子は、夫の傍に坐って、「裕子さんは帰って頂きますわ。代わりの方を呼びましょう
 ね」と言った。夫はわずかに唇の端を痙攣させたようだった。幸子は裕子を呼び止め、
 「都合で、今日から帰って頂くことになりました」と言った。幸子は、いいながら、自
 分の頬がひき吊るのを覚えた。裕子の肩が少戦慄えたように思えたが、よく分からなか
 った。
・裕子は両手を畳の上に揃えて、頭を下げた。それは承諾の表示だった。「不束で、お世
 話が行き届きませんでした」彼女は丁寧に挨拶した。が、それで終わったのではなかっ
 た。「済みませんが、明日の昼まで、置かせてください。」と屹とした言い方であった。
 さしうつむいているので、よく見えないが、唇を噛んでいるに違いなかった。
・翌日の昼過ぎになっても、裕子は二階から降りてこなかった。階下で仕事に追われてい
 た幸子は、心が騒ぎながらも、二階覗くひまがなかった。いや、正確には畏怖が彼女の
 足をすくませたのだ。二階からは、こそとも物音がしなかった。
・ある予感が、遂に幸子を駆り立てた。彼女は蒼い顔をして、階段を二階に走り上った。
 締った襖の前で、幸子は息を呑み、聞き耳を立てた。膝が慄えた。しかし、この壁は突
 破せねばならなかった。襖をがらりと開けた。男と女が蒲団をかぶって寝ていた。行儀
 のいい格好ではない。かけた蒲団は乱れていた。それは、そのまま少しも動かなかった。
 思った通りが、正直に現実になっていた。正直すぎた。幸子は、あたりが一時に夜中に
 なったかと思った。 
・幸子は、蒲団の端をめくり、夫と裕子とが顔をよせて、息を引いていることを確かめた。
 夫は落ち窪んだ眼窩に瞼を閉じ、裕子は、くりくりした眼を塞いでいた。眼のふちの皺
 は、もとの通りであった。二人の口からは泡があふれて、敷布の上にこぼれていた。夫
 は伸びた髪を乱し、裕子は、少ない髪をほんの二三筋、頬によじれされているだけであ
 った。  
・幸子は、蒲団の端を戻し、しばらくそこに坐った。下から機械の音がしていた。こんな
 場合、仕事の手順がいろいろと浮かぶのは奇妙であった。枕元には睡眠剤の大瓶が空に
 なって二本ころがっていた。
・夫は幸子から突然遁れた。連れ去ったのは裕子であった。この背の低い、三十五歳の派
 出看護婦が、この家に来て一カ月も経たぬうちに、夫を掠奪したのだ。途中の計算が全
 く示されなかった。結果が、一足飛びだった。
・幸子は蒲団の下に、白い封筒の端がはみ出しているのを見た。幸子は、手を伸ばした。
 これは計算書だった。遺書も二通、夫の分と裕子の分とがぴたりと重なっていた。幸子
 は夫の遺書の封を破った。落ちついた字ではなかった。「裕子は、僕が君を知る前の恋
 人だった。事情があって結婚できなかった。その経緯の説明は省く。とにかく彼女と別
 れて僕は君と結婚し、彼女は別の男と結婚した。以来、十六七年、互いに消息がなかっ
 た。裕子が、突然、付添看護婦としてこの部屋に現れたとき、僕は仰天した。彼女も息
 が詰まるくらい愕いたという。幸か、不幸か、それは君に悟らずに済んだ。それが僕た
 ちがこうなる運命の緒だった。裕子は不幸な人生を歩いた。僕の身体がとうから恢復の
 見込みのないことも分かっている。同情がそこから合い寄ったというのは、月並みのよ
 うだが、以前に結婚できなかった愛情が再び燃え出したのだ。だが、これは現実には遂
 げられることではない。君の存在、環境、そのほかの煩わしい事情が妨げている。幸い、
 僕も裕子も、生きるより死ぬ条件の方がぴったりはまっている。」幸子はここまで読む
 と、投げ出した。裕子の遺書は読む必要もない。
・幸子は取り残された。妻は完全に置き去られて、夫はひそあかなる掠奪者に連行された。
 いいようのない孤独感が幸子にわいた。身体が宙に浮きそうだった。長いこと手を突い
 て幸子は座りつづけていた。      
・取り残された者がここに居る。世間の嘲りと憐憫と漠然とした非難とが彼女に集まるだ
 ろう。無論、いわれないことだった。しかし、不当にも世間は残された人間への無慈悲
 にそれを加えるものだ。幸子は、自分の身体がずり下がるのを覚えた。この世から最も
 軽蔑と憐れみを受ける存在になりつつあった。死んだ者が負けというのは、この場合、
 嘘だ。疵を負ったのは生きて遺った者だった。不合理だが、実際は、そうなのだ。世間
 は敗北者に仮借がない。
・幸子は、静かに遺書を破り、火鉢の中で火をつけた。それから彼女は、蒲団の下から裕
 子の身体を取り出し、抱えようとしたが重かったので、ひきずるようにして夫から遥か
 遠い場所に移して寝かせた。衣類に皺を正し、胸に手を組んでやった。夫の横が空いた。
 その場所こそ幸子のものだった。そこに幸子が横たわったとき、彼女は初めて掠奪者か
 ら夫を取り戻すのであった。裕子は、ただの随伴者に変わり、幸子が勝利を得るのであ
 った。
・幸子は、便箋に新しく手紙を書き始めた。「夫の病気は全治の見込みがありません、夫
 は絶望し生きる気力をを喪っています。私は、夫と一緒にどこまでも参ります。夫から
 離れて、私という人間はないのです。勝手な行動をお許しください。看護婦の裕子さん
 が一緒に死んでくれるそうです。私は懸命にとめたのですが、どうしてもきいてくれま
 せん。彼女にも、そうしなければならぬ切羽詰った事情があるのでしょう。」
・幸子は、箪笥を開け、夫の不眠のために用意してある睡眠錠剤の大きな瓶を取り出した。
 夫が彼女の場所を横に空けて待っている。裕子は幸子お夫の英二を掠奪した。幸子は、
 今それを奪いかえした。しかし、実際の掠奪者は幸子かもしれないのだ。