内藤新宿 :池波正太郎

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この作品は1969年に発表されたもので、「谷中・首ふり坂」という本に収録されてい
るものの一つである。
内容は、現在の新宿という街の成立ちについて、徳川家康が江戸に居城を移した時代から
現在までの歴史を綴った内容となっており、新宿という街の歴史をあまり知らなかった私
にとっては、なかなか興味深い内容だった。東京で暮らしていた頃に、初めて東京都庁
新宿御苑などを散策したときの驚きを懐かしく思い出した。



・新宿は、江戸郊外の一宿駅であったが、江戸が東京とあらたまり、日本が近代国家とし
 ての歩をすすめはじめてからも、尚、郊外の町にすぎなかった。
・現代の、われわれが見る新宿のすさまじいばかりの変貌とメカニズムを、このとき、だ
 れが予想し得たろう。現代の新宿は東京の副都心になってしまった。
徳川家康が、豊臣秀吉によって関東へ封ぜられたとき、その居城を江戸へ定め、まず、
 いまの新宿一帯の地へ注視の眼を向けたことはおもしろい。
・年少のころから、血みどろの戦闘を繰り返し、苦心の経営を続け、ようやくにわがもの
 にした三河・遠江・駿河など実り豊かな領国を秀吉へわたし、そのかわりにまだ草深か
 った江戸に本拠をかまえて引き移ることを、徳川の家臣たちは、なかなか承服できなか
 った。
・秀吉は、家康のちからをもっとも恐れていた。ゆえに、めぐまれた東海の領国から追い
 のけ、関東という新領国の経営をさせて、家康のちからを殺ぎ、合わせて、京・大阪か
 ら遠ざけようとした、という説は、そのまま信じてよいだろう。
・家康は、なにからなにまで新しくやり直さねばならぬ。だが、家康は、黙々として秀吉
 の命令にしたがった。当時の家康は、まだ五十そこそこの年齢であったし、新天地の開
 発に、むしろ意欲を燃やしたといわれている。
・このときに江戸の発展が約束された。現代の新宿の繁栄もこれにつながることになる。
 当時の歴史が生々しい人間の活力によってうごき、その影響が、まだ現代に尾を引いて
 いるのかと思えば、その残映をのぞむ最後の地点に、私どもは生きていることをあらた
 めて想わざるを得ない。
・小田原落城から間もないことだし、北条家や関東方の残党が江戸周辺に蠢動することを
 考え、徳川家康は、譜代の家臣・内藤清成に、甲府街道すじを、「きびしく、かためよ」
 と、命じた。
・同時に、青山忠成をもって、厚木大山道(青山通り)を警備させたのである。
・遠山景政の城といっても、景政は長らく小田原城へたてこもっていたし、城の外廻りの
 芝土居もくずれかかり、屋根板が腐って雨もりがする始末。重臣の本多正信が、見るに
 見かねて、「せめて玄関まわりのみにても普請をなされては・・・」と言い出すや、家
 康は、「わが住む城をととのえるより先に、することがいくらもある」笑って、とり合
 わなかったという。
・徳川家康は、ことに辺幅をかざらぬ人だったけれども、戦国時代の大名というものは、
 およそ、このように質素な生活をしていたのである。
・家康入国当時の江戸は、現代の品川駅から田町・浜松町・新橋にいたる国電の路線のあ
 たりまで、海であった。 
・江戸湾は、日比谷から江戸城の真下まで入江になって侵入しており、平川にかかる日本
 橋のすぐ近くへ、海がせまっていた。
・城下町というより茅野原の一寒村といってもよいほどで、現在の佃島や石川島も、入り
 海のはるか彼方に浮かんでいたのである。
・家康が内藤氏にあたえた土地は、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷におよぶ広大な
 ものであった。家康の内藤氏へかけていた信頼の厚さが、これをもって見ても知れよう
 というものだ。


・当時、内藤清成は五千石ほどの旗本で、その身分にくらべて、与えられた土地はあまり
 にも広かった。これほどの邸宅地をもらった人は、徳川の家臣で内藤清成ひとりといっ
 てよい。
・清成の拝領したころの新宿は、俗に「関戸」とよばれたさびしい草原にすぎなかったが、
 内藤氏の屋敷が構えられてより、おのずから、その周辺に聚落を為し、甲州街道を往来
 する旅人のための旅舎や茶店がたちならぶようになったのである。
・徳川家康が何故に、新宿の地を当初から重要視していたかというと、もしも敵が江戸へ
 攻め込んで来た場合は、甲州口を退路の一つとして考えていたからである。伊賀の忍び
 たちの組屋敷にまもられた江戸城・半蔵門は、まっすぐに四谷見附へ通じ、そのまま一
 本道となって新宿から甲州街道へむすばれているのだ。
・家康は、慶長八年に「江戸幕府」をひらき、天下の政治をとりおこなうことを声明する
 と共に、五街道を定め、一里ごとに一里塚を築かせた。
・当時、江戸からの第一の宿駅は「新宿」ではなく「高井戸」である。その折、第一の一
 里塚が新宿の追分に築かれた。
・現在の四谷見附に「大木戸」が設けられ、番小屋を置いて旅人の通行を取締まったのは、 
 家康が大阪城に豊臣の残存勢力を討ち亡ぼし、名実ともに、「天下人」となった元和二
 年であったが、そのころは大木戸の西方は、まだ内藤氏の領地になっていて、民家も、
 あまり無かったといわれる。土地の名も、まだ「新宿」と呼ばれていない。俗に「内藤
 宿」と呼ばれていた。
・新宿が甲州街道の宿駅の一つとして繁昌の第一歩をふみ出したのは、元禄十年に内藤氏
 が領地の一分を幕府に返上してからのことなのである。
・そのとき、浅草・阿部川町の名主で高松喜兵衛をはじめ、浅草の有志たちが、いまの新
 宿一、二、三丁目の道すじの両側に家をたてならべ、さまざまの商人が店をひらいた。
 ここに、甲州街道の第一駅としての「内藤新宿」が生まれた。新宿は「新しい宿場」と
 いう意味である。
 

・こうなると「新宿」のにぎわいはたちまちに、東海道の品川、奥州街道の千住、中仙道
 の板橋と共に「江戸四宿」と呼ばれるほどになり、他の三宿同様、旅籠の飯盛女(女中
 であり、私娼でもある)の売春地帯としても有名になってしまった。
・四宿の中では、新開地だけに新宿の飯盛女の客引きが、「目にあまるもの・・・」だと
 評判されたほどである。もっとも、江戸四宿の飯盛女は、私娼ではあるが幕府公認のか
 たちであって、私娼の取締りがきびしいときも、四宿には手入れがおこなわれなかった
 そうな。
・享保三年に、新宿が廃された。新宿が廃されたのは、五代将軍・綱吉の華美で堕落した
 政治が、八代将軍・吉宗の、「初代将軍・家康公の質実剛健の世にもどそう」とした政
 治改革によるものであったろう。
・それが五十年余年後の、いわゆる「賄賂横行」の十代将軍・家治の世となり、財政に苦
 しむ幕府が町人の威勢に圧され、またしても莫大な公認料を受け取って、再開を許した
 ことになる。
・新宿が宿駅として再開されたのは、安永元年の四月であるから、五十四年間も廃駅とな
 っていたのだ。 
・再開後の新宿の飯盛女は、まったく公認の遊女のかたちとなり、新吉原の遊里同様、引
 手茶屋が七十軒も新宿にたちならぶことになった。もはや飯盛女ともいえぬ。宿場女郎
 というべきであろう。こうして「内藤新宿」は、甲州街道の宿駅であると同時に、一種
 の遊廓として発展しつづけて行くのである。 
・宿場の南、内藤家・中屋敷の前には玉川上水がながれ、年ごとにふくらむ江戸市民の飲
 料となり、用水となった。玉川上水には宿場女郎の投身自殺が絶えなかったという。
・明治二年には、なんと「品川県」となり、廃藩置県の後、新宿があった武州・豊島郡は、
 東京府の所管に移された。
・そのころの新宿は、遊女屋二十、遊女三百七十五人、芸者三十人を擁して、依然、東京
 近郊の遊里としてにぎわっていたのである。
・政府は、明治十八年に、日本鉄道の「新宿駅」を設けた。新宿駅は、いちめんの木立と
 田畑のつらなりの中に、ぽつんと設置された。
・そして、明治二十三年から三十六年にかけて、新宿を始発とする中央線(当時は甲武鉄
 道)が開通するにおよび、新宿は俄然、発展の速度を速めることになる。
・内藤家の中屋敷が「新宿御苑」となったのは、明治三十九年五月であった。大正天皇
 崩御されたとき、その大葬は新宿御苑内においておこなわれた。
・それより前の大正十年の大火で、新宿の遊廓は全焼したが、すぐに息を吹き返し、以前
 にまさる五十三軒もの遊女屋が新築した。
関東大震災後の復興も早かったようだ。 
・新宿はその後、昭和の大戦の空襲によって焦土と化したが、復興のときの活気はすさま
 じいばかりの熱気をたたえていた。その熱気は、東京オリンピックを契機とした、東京
 のメカニックな膨張につれて、いよいよ異様な烈しさを呈するにいたるのである。